夜。陽が沈んだばかりの、浅い夜。漆黒に歩み寄る濃紺色の空には蒼と赤の双子月。
ニトロは独り、無人タクシーに乗っていた。
ここは
シートの下からはアスファルトを噛むタイヤの動きが無作法に伝わってくる。速度は法定速度を遵守し、追い越し車線を避けている。また一台、右手を走り抜けていく。
突然、前方に車道の外から現れた影の塊があった。
何だと驚き見れば、強化プラスチックの壁の向こうに併設されている自転車用道路の、その他道との合流地点からロードレーサーの集団が入ってきている。
どこかのサークルらしき男女達の表情はいずれも心地良く、回転する健脚に生み出される速度はたいしたものであったが、やがてのんびりと背後へ消えていった。
ハラキリの韋駄天に乗っていた時は、ティディアに追われ、化け物に追われ、体験したことのないスピードの中にいた。それに比べれば今は安全そのもので、三半規管が破壊されそうな圧力も、血液が固化しそうな寒気もない。
だが、韋駄天の乗り心地は良かった。シート越しに伝わる振動などなかった。すれ違う車が起こす風の音に肌が泡立つこともなかった。安全そのものなのに、その振動に安心が揺り崩されてたまらない。
ニトロは唇を引き結び、眼下に煌めく夜景を強張る瞳に映していた。
双子月の月光は混ざり合い紫を帯びて闇を飲み、あの女の髪の色と変じた蠱惑の光が地を染めている。その中で、無数の光が生きている。
とても温かで無機質な生活灯、三原色の明滅を繰り返す無数の信号灯、その道筋を埋めうごめくカーライト、そして原色の気を狂わせたようなネオン。夜の
むやみに、不安をはやしたててくる彩りだった。
つけてもらったラジオはニュースチャンネルに合わせられている。語られるニュースソースは、芸能プロダクションが起こした組織的な売春事件。今日一日中、どの局の報道番組もこの話題で持ちきりだった。そしてどの局も、高速道路での『大事故』を報せることはなかった。
大方、放送局に圧力がかけられたか、真実を隠蔽されてしまったのだろうが……。
座席についているコンピューターでインターネットを覗いてみれば、ほんのわずかに話題にはなってはいたようだが不可思議なことに火はついていない。犠牲者が出たという記述も見当たらない。あれだけの大惨事で死者が出なかったとは信じられなかったが、せめてこれは真実と願いたい。
「……はぁ」
無人タクシーに乗ってから、何十度目かのため息をつく。
暗きを向こうにした窓には、自分のものではない顔が映っていた。
彼は今、戦闘服を脱ぎ、カジュアルな服に身を包んでいる。左腕には『報道』の腕章。左胸にはＪＢＣＳ（ジスカルラ放送局）の身分証があった。そこに印刷された写真は、今の顔だ。
「はぁ……」
フロントガラスの向こうに巨大なタワービルが見えていた。シェルリントン・タワーという。３００階建ての１００階までがショッピングセンター、そこから上は様々な会社やイベントホールがひしめき合っている。その経済的な比重は大きいが、むしろ娯楽性により重きを置いた構成に、人々はそのタワービルを『繁栄』の象徴とし、また『虚構』の象徴とも
そして今夜、２５０階にあるガシイ・イントリアル社のイベントホールで、王家の定例会見が行われる。
「はぁ〜あ」
ニトロはコンピューターの電源を落とし、シートに腰を沈めた。そして、不安と後悔と共に、ハラキリの提案を思い出していた。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
車体に受けた傷を直す自己修復機能の活動音までが、カリカリと精神の防壁に爪を立てて不安を掻き立ててくるようだった。
「そんな無茶な！」
「無理だ！ 無理に決まってる！」
ハラキリは後頭部で手を組み、ニトロの戦々恐々に淡々と応えた。
「
「お前、他人事だと思って……」
「他人事ではありません。依頼を受けた時点で、拙者はニトロ君と一蓮托生。君のリスクは、拙者のリスクです」
「うう」
「お互いの利益になることです。
それに、これは君がアデムメデスに留まれる唯一の道でしょう」
「だからって……いくらなんでも、ティディアに攻撃を仕掛けるなんて」
「違います」
手の組を解き、ハラキリはハンドルをなでた。
「言い方が悪かったようですね。ティディア姫に、攻勢を仕掛けるんです」
「同じことじゃないか」
「違いますよ。君は、力での攻撃を考えているでしょう？」
「ああ」
「違います。マスメディアを利用するんです」
少しハラキリの話に現実味を覚えて、ニトロは身を乗り出した。
「……どうやって？」
「今日、シェルリントン・タワーで王家の定例会見があります。王家の、と言っても結局はティディア姫のパフォーマンスの場ですが」
「定例会見……やるかな。こんな状況で」
「あちらは仕事に穴を開ける気はさらさらないようですよ。一応確認してみましたが、お
そう言って何か思い出したらしく、悪戯っぽく言ってきた。
「高速では『予定』より時間食ったらしく、後の仕事を一つキャンセルしてましたよ。ちょっと仕返しできましたね」
ニトロは口の端が片方、勝手に引き上がるのを自覚した。
「まるで片手間の遊びだな」
「ですから、定例会見はあります。そこで本題なのですが、その場で、上映会と、君の一世一代の演説を行って欲しいんです」
ハラキリの案にニトロはつばを飲み込んだ。
「上映会に、演説だって？」
「韋駄天。さっきの映像をフロントに」
「了解」
フロントガラスがモニターとなり、映像が流れた。それは、高速道路でのニトロとティディアのやり取りを録画したものだった。
「いつの間に……」
「まぁ、映像の証拠能力は低いですが、ここまで鮮明で、映像にあるお姫さんの
でもそれが目的です。問題になりさえすれば君は助かる。いえ、ティディアが君を殺せなくなると言った方が正しいかな。だからこそ君の演説が必要なんです」
「…………」
「定例会見は生放送されるでしょう？ 多くのマスメディアが集まり、その全てを編集無しで放送してくれるんです。例え途中で放送が切られても、君の存在は世間に知られる。証人もできる。ごまかそうとしても容易ではありませんし、それは邪魔します。そうなること以上に、君にとって好都合なことはない」
「なぜ」
「なぜならティディア姫は『遊ぶこと』を前提に全ての計画を立ててきているからです。君が表に出ればもう『遊ぶ』ことはできなくなる。そうなればあちらの手を幾つも潰せるし、社会や法という武器も手に入る。『遊び』の中にいるうちは後手を踏むばかりですが、外に出れば対等です。いえ、有利になります。
ニトロ君。訴えるんです。ティディアに殺されてしまう。助けてくれと。
訴えることが出来た時点で、『
ハラキリの言葉は説得力に満ちていた。ニトロは、この案は確かにうまくいくかもしれないと思った。だが、
「俺はどうなる？ 王女に対するスパイ行為、税金の……着服」
「それは君の罪じゃない」
「え？」
「スパイ行為はあっちの勝手な言い分です。勝手に喋ってきたことを聞くのは窃盗でもスパイ行為でもないでしょう？」
言われてみればその通りだった。ニトロはその点、ティディアの言うなりに従っていたことに気づいて、何とも言えぬ表情をした。
そんな簡単なことに気づけなかった恥ずかしさと、ティディアの口車に乗ってしまっていた悔しさと、完全にティディアのペースに巻き込まれていた事実を知った愕然と、様々なものが混ざっていた。
「税金の着服に関しては、君には罪は及びません。ここの法律じゃ、罪は遺産に含まれませんから。御両親には、不名誉なことになりますが……けどそれは、責任です」
「…………」
「こればかりはどうにもなりません」
「…………上手く、いくかな」
フロントガラスには、笑うティディアの顔が映っている。
妖しく美しい、王女の笑顔。あの夜も、こんな顔をしていた。
「今まではあちらのペースでした。今度はこっちに合わせてもらいましょうよ」
決定的なハラキリの促しだった。ニトロの腹は決まった。
「……どうやって、会場に潜り込むんだ？」
決意に輝く目を向けられて、ハラキリは微笑んだ。
「それに関してはお任せを、お客様。必ずやご満足頂けるサービスが用意されていますので」
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その後、ハラキリの案内で訪れた
手元には小型のハンディカメラがある。報道関係者としてのカモフラージュのためでもあるが、実はこれは、切り札の映像を上映するプロジェクターだ。これも、メイクをしている間にハラキリが持ってきた。その上、このカメラをしまうケースには、万が一のためのアイテムが幾つも仕込まれている。
まったく、彼は同じ年の同じ学校に通う人間とはとても思えないと、改めて思う。
「……」
しかし今、ボディガードたるハラキリは、隣にはいなかった。
ハラキリは、「ばらまいてきます」と、同様の特殊メイクで作った『ニトロの仮面』を被せた五体の
そして十分
「誘導より、逃走路よりも、ハラキリがいてくれた方がいいな……」
不安が口から漏れる。
なんだかんだ、いい加減なようでいてハラキリが頼りになることは、今朝の追跡劇で身を持って知った。
そして、彼が側を去った一時間前に、さらに痛切に。
誘導、逃走路の確保。それらが重要なことは分かる。だが、
「目的地ニ到着致シマシタ。御利用、アリガトウゴザイマシタ」
独りこの巨大なビルに乗り込むためには、独り恐怖との戦いをも制さねばならない。
ニトロはカメラとケースを手にタクシーを降り、背をそらせてシェルリントン・タワーを見上げた。巨大な建造物がこちらに覆い被さってくるかのように思えて心を
ニトロは、勇気を振り絞るために言った。
「一世一代……腹をくくるしかないぞ。ニトロ・ポルカト」