もしかすると、これはティディア姫のいたずらかもしれない。ほら、俗に言う『ドッキリ』かも。
……というニトロの淡い期待は、その炎に焼き尽くされていた。
「あー、コリャダメダ」
ホテル・ベラドンナから放り出された後。
なんとか根性入れて立ち直ったニトロは、帰宅する途中で火災現場に出くわし、その足を止めて野次馬と一緒にそれを見物していた。
「全焼だね、完全に」
周囲は、大火の唸りが巻き起こす風の唸りに支配されていた。轟々と、轟々と。そこに混ざろうとするのは、消防用ロボット達と、上空を飛ぶ
悟りの境地と言うのだろうか、この心境は。携帯電話から鳴り響く『御自宅エマージェンシーコール』も軽やかな美声のようだ。
ニトロは自分の言葉に、隣で白い目を向けている初老の男性に訊ねた。少し離れた家に住む男性だった。ニトロは見覚えがあったが、男性は彼を覚えていないようだった。
「爆発? これの原因」
「……ああ、さっきな」
「やっぱりねぇ」
満足気にうなずく少年の態度に、男性は軽蔑の眼差しを向けた。彼は、近頃の若い者はと、注意の一つでもしてやろうかと口を開いた。だが、言葉を発する前に少年の『気配』に感づいて、ぎょっとした。少年は、絶望に冒された目をしている。明らかに関わり合いにならない方がいい目だ。
「本気なんだなあ」
男性がそっと去っていくことは気にもとめず、ニトロは真っ赤に燃える自宅を見つめ続けた。完全に諦めがついた。そして、
「よぉく目が醒めたよ」
あり得ない希望に望みをかけることは、死を意味するということに。
ニトロは踵を返した。即座にスタートを切って、邪魔な野次馬をかき分けかき分け全速力でこの場から逃げ出す。
早くこの場を離れねばならない。まだこの辺りに、我家を火に包んだ『追っ手』がいるかもしれない!
「ド畜生!」
思い切り、毒づく。
「国家権力相手にどう逃げろってんだ!」
野次馬の群れから脱し、住み慣れた住宅街を駆け抜けながらニトロは体中の細胞を総動員して考えた。
これからの敵として考えられるもの。
@警察A軍隊B何か特殊な部隊C殺し屋D……
どれにも勝てねぇ。
「……助っ人が必要だ」
ニトロは即座に結論に達した。
だが……しかし、あのバカ姫に狙われているような者を、好き好んで助けてくれる愚か者がいるだろうか。
「…………いや」
心当たりがニトロにはあった。奇跡的に、そういう奴が、いた。
「おおっしゃ!」
是非もなく、彼は決心した。
人は古きより多くを学ぶ。古きを顧みない者は、つまり学ぶことができない者なのだ。
そう、私のように。
<前教育大臣アレポス「辞任会見」より>
木を隠すなら森の中。それは古人の素晴らしい知恵だと、ニトロはジスカルラ一の繁華街の喫茶店にいた。
夜も深まってきたが喫茶店の窓の外には人波が絶え間なく、店内にも夜遊びをする学生から疲れた顔のサラリーマンまで、人間観察をしているだけでも一夜の暇を潰せるだけの面容が並んでいる。胸中には追っ手が来るかもしれないという恐怖があるが、自分より後に店の扉を開けて入ってくるものは未だなく、今この中にあってそれはいくらかごまかせている。
ニトロはウェイトレスが運んできた紅茶を飲みながら、ポケットから携帯電話を取り出した。スライド型の、ホンを耳につけるとマイクが口に向くいわゆる電話型のものだ。埋め込み型や、腕時計をはじめネックレスやピアスなどの装身具タイプものが主流の中で、彼は電話然とした形のものが一番「電話している」感があるからと好んだ。その入力端子に、テーブルに内蔵されているコンピューターのケーブルを引き出し接続する。
貸し出しのイヤホンを付け、テーブルの表面に現れたタッチパネル式のキーボードを叩く。音声入力の方が楽なのだが、声に出すにははばかられる会話をするため、手入力を選んだ。
「こちらは、A.I.緊急避難センターです。あなた様の遺伝子情報を除く
イヤホンから聞こえるしっとりとした女性の声は、人工音声と分かっていながらも気を落ち着かせてくれる。彼は携帯電話に記録している個人情報のロックを外して保険番号を、次にメルトンの基礎情報のロックを外して送信した。
「確認されました。接続致します」
「イヤー、ビックリシタゼ」
聞きなれた声、その第一声にニトロは苦笑した。キーを叩いて言葉を送る。
〔無事なようだな〕
「無事無事。先ニ犯行予告アッタカラ」
ニトロは飲みかけていた紅茶を吹き出した。
〔犯行予告!?〕
驚くばかりの問い返しに、メルトンはからかうような調子で答えてきた。
「愛シノ姫様カラナ」
〔……なんで?〕
「伝言ツイデダロ?」
〔伝言?〕
目を瞬くニトロ。あの女、一体何を考えているのか。
「一日グライハ、準備期間ッテコトデ見逃ストサ」
「見逃すってわりには、派手なことしてくれてんな……」
つぶやく。
家を焼かれた怒りは、どういうわけかニトロには無かった。あるのは、恐ろしいことだが慣れにも似た呆れの心。それはただ、理不尽に命がデンジャーな現状以上に怒れることがないというだけなのかもしれないが……。
ニトロは自嘲気味に鼻を鳴らすと、指を鳴らしてウェイターを呼んだ。
「このウルトラ元気ジュースとかいうの一つ!」
「イエッサー!」
踵を合わせて敬礼するウェイターにチップを投げる。ニトロがこの店を選んだ理由は、店員全員が武装しているというセキュリティーが売りだからだった。
〔で、調べて欲しいことがあるんだ〕
「仕方ネェナァ」
〔(怒)……ハラキリ・ジジの住所を、学校の名簿から検索してくれ〕
「8地区モルブリッド街ウエストサイド4−9−46」
(8地区モルブリッド……ここから近いな)
脳裏の地図にここから目的地までの最短のルートを書き込む。幸いにも
「携帯ニ書キ込モウカ?」
しかし、他からそう問われると人は『念のため』という言葉に心引かれる。
〔あ〜、うん。よろしく〕
「オッケー」
携帯電話のディスプレイに、メルトンが送ってきた情報が表示される。それをただ眺めながらニトロが気も無く紅茶をすすっていると、メルトンが言った。
「コノ男ニ助ッ人頼ムノカ? 同ジ学生ダロ? 役ニ立ツワケネージャン」
〔いいんだよ。こちとら蟻の力だって借りたいくらいなんだから〕
「フゥン。コイツモ気ノ毒ニナ」
〔気の毒?〕
顔をしかめる。
〔何が?〕
「ソウダロ? ソノ野郎ハ、コノ件ニ全ク関係ナイノニ、オ前ハ巻キ込ムンダロ?」
鋭い、研ぎ澄まされた刃のような言葉であった。自分のことに手一杯で、周りのことに考えが届いていなかったことに気づかされ、ニトロは唇を噛んだ。
…………苦い。
そもそも、ニトロはハラキリ・ジジという学友と親しいわけではない。クラスも違う。3000人超の高校で、同じ建物で、同じ時間に
さらに本音を言えば、彼が役に立つとまで期待はしていない。ただ自ら危険を呼びこもうとしている人物だ、何かしら役に立つ情報やツテを持っているかもしれない。それくらいの気持ちだった。それくらいの気持ちで、学友をこんな非常識なことに引きこもうとしている自分は、なんと浅ましいのだろう。
「姫様ハ、コノコト知ッテル奴、全員消ス気ダゼ」
なんと愚かなことを、しようとしていたのだろう。
いくら学校のホームページのBBSで彼が『殺し屋に狙われる、危ない宗教団体の勧誘に困っている等々の厄介事解決を請け負いますので、そんな時には是非ご一報を』って言ってたからって……言って……そう、言ってた。そう言っていた。
〔万事O.K。問題ない〕
「ウワ、最低ナ奴」
〔何を言う。本人やる気あるんだから、これは正当な依頼になるんだ〕
「論法ソフトニ引ッ掛カッテル」
〔本人やる気あるんだから、依頼して悪いことあるかっ〕
多少胸腺をひきつらせながら訂正して、ニトロはふと気づいた。
〔バカ姫、このこと知ってる奴全員消すって言ってた?〕
「オウ」
心臓を撫でるような寒気がニトロを襲った。
〔逃げろメルトン。どこでもいいから逃げろ!〕
「ナンデ?」
〔何でってお前まで消すつもりだぞ! あの女!〕
両親亡き今、ニトロに身寄りはない。もう両祖父母は他界している。遠縁の親戚はいるが、会ったことはない。それでも彼が寂しさに……この星のどこよりも孤独を感じさせると言われる
「小憎らしいけどな、お前にまで死なれんのは嫌なんだよ!」
ニトロはキーを叩きながら、我知らず叫んでいた。その声の大きさに驚いた店中の人間が彼に注目するが、彼にとって、それらは取るに足らない。それよりもメルトンが気にかかる。
「だから、逃げろ」
「アア、ソレコソ、ノープロブレムッスヨ。ハハハハ」
「は?」
「俺ネ、明日カラ王城ノ
「はぁ?」
自分が育てたA.I.の言うことが理解できずにいると、メルトンはものすごく馬鹿にした声で言ってきた。
「ワッカンネェカナ〜。俺ハ明日カラ姫様ノ下デ働クノサ」
「 」
息が止まった。
。
。
。
。
。
我に返った肺が空気を大きく吸い込んだ。
「なにぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
彼は、喉の血管をブチ切りながら絶叫した。
「どぉいうことだっ! メルトォォォホホォン!!」
唾ならぬ血を口から飛ばしながら、キーを人知を超えた速度で叩きまくるニトロの姿に、店内は一度ザワッと沸いた後、沈黙した。
「モウ一度言オウカ?」
「言うなやっ! てめぇ! 裏切ったのくぁ!?」
鬼神のごとき形相で叫びわめきつ、しかしキーボードを基本通りのブラインドタッチで叩くニトロは滑稽であった。だが笑えない。彼の近くにいた客は次々と席を移っている。
「裏切ッタトハ心外ナ。自由契約ノ権利ヲ行使シタマデサ」
「そもそも契約関係じゃねぇだろ!」
「ジャア乗リ馬ヲ変エタ」
「ぬああああ!!」
叫んで地団太踏んで頭抱えて、そしてキーを叩く。
「てめぇにゃ人の道ってもんがねぇのか!」
「A.I.ダシ」
「こぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
「マァ、サ。感謝ハシテルンダ。俺ハ、ニトロニ育テテモラッタカラナ」
「嘘ぶっこくな」
「本当サ。ダカラセメテモノ礼ニ、今日ハマダオ前ノA.I.デイルンジャネェノサ。
ジャアナ。生キ残レルトハ思エネェケド、国家権力相手ニセイゼイ頑張レ? 縁ガアッタラマタ会オウゼェ〜」
プッツンと、鳴るはずのない小気味いい音がして、インターネットの接続が強制的に断たれた。
「……」
一日に二度も押しかけ訪問してきたあまりと言えばあんまりなことに、頭がおかしくなりそうだった。いや、もうおかしくなっているのかもしれない。心、胸、脳髄から足の先まであらゆるところから湧き出してきたマグマにも勝る激情が、肩を揺らし、喉を震えさせた。
「…………フ、フフフフふ」
テーブルの上の両手を強く握り、ニトロは、うつむいた顔に暗黒を生んだ。周囲の者はその中に、爛々と光る鬼の目玉を見た。
「俺を売るとはやってくれんじゃねぇか、あの糞A.I.」
ゆらりと立ち上がって、ニトロは固めた拳をキーボードに叩き付けた。
「……消す」
そして、決心する。
「こーなったら何がなんでも逃げのびてメルトンだけでも
凄絶な顔で宣言する。
「絶対だ! それはもう絶対だ! あは……アハハハハハハヒャヒャ!」
ダンダコとテーブルを叩いて狂ったように哄笑するニトロの後ろ頭で、また周囲でシャコッと小気味いい音が鳴った。
「……」
笑い声を上げることを辞め、ニトロは代わりに両手を挙げた。
「ゆっくりこちらへ振り向くんだ」
背後からの命令に応えて、ニトロはゆっくりと振り返った。するとそこに、やはり真っ黒い銃口をこちらに向けているウェイターがいた。無表情で、迷彩柄の制服に包まれた体を微動だにせず。
「…………」
気がつけば、自分の周りにはウェイター以外の誰もいず、客達は皆して遠巻きに獲物を見つめていた。よだれが落ちる、目が血走る、舌なめずりする。銃を、構えて。
「変わったサービスだ」
鼻歌混じりに客達に銃を配っているウェイトレスを眼で追って、言ったニトロにウェイターは鉄面皮を崩してくれなかった。
「悪かったよ。ちょっと気が滅入って我を失っただけさ」
ウェイターは何も言わない。
「いいですか〜? まず安全装置を外します。私と同じ手順で行ってくださいね〜」
代わりといってはなんだが、銃を配り終えたウェイトレスがやたら可愛らしい声で物騒なことを言ってくれる。実際、客達は撃ってくるだろう。大量の鉛玉は自分の体重を増量させることになる。一つ一つ全てを体から取り出さねばならない医者は、最悪検死官はいい迷惑だろう。
ニトロは嘆息した。この状況と、何の反応もしてくれないウェイターに対して。こんな状況でもなぜか平然としていられる自分に対して。
今夜、どうやら自分は平常の感覚というものを失ってしまったらしい。
「とりあえず」
もう一度嘆息して、彼はウェイターに訪ねた。
「ウルトラ元気ジュース。まだ?」
この店のお勧めはウルトラ元気ジュース。卒倒するほどに元気をくれるわ。
<るんるん出版「ジスカルラ/喫茶いろいろ」より>
ウルトラ元気ジュースは、効いた。
効きすぎた。
「ッキョーーー!」
奇声と鼻血を吹き出して、ニトロは卒倒した。
だから元気な人は絶対に飲んじゃダメだぞ? 飲んだら……うふふ♥
<るんるん出版「ジスカルラ/喫茶いろいろ」より>
8地区モルブリッド街ウエストサイドと言えば、少々名の知れた高級住宅街だった。碁盤目状に造られていることで景観は整然として美しい。俳優や著名人なども物件所有者に名を連ねている上、一つ一つテーマに沿って趣向を凝らされた邸宅が並んでいる様は、まるで美術館の広大な野外展示場も思わせる。時に、観光の目的にもなった。
ニトロがそこに着いたのは、夜の10時を回った頃だった。
正直、喫茶店で気絶していた時間は手痛いミスだった。あれであの場では命救われたが、同時に命の猶予を縮めてしまった。時間は限られているのだ。与えられた時間は、1日。たった24時間なのだから。
「よし、起きてる」
4−9−46番地に建つ家の二階には灯が煌々と輝いていた。家人が寝ていても叩き起こす気であったが、その手間が省けたことは大変喜ばしい。
彼はいそいそとインターホンの前に立ち、
「……?」
しばし待ってもA.I.が反応してこないことに首を傾げた。
「あ、これか?」
その拍子に、インターホンにボタンが付いていることに気づいた。押してみる。
「自爆スイッチガ入リマシタ」
「何ぃ!?」
「嘘デス」
「何ぃっ!?」
二度目の声には怒りを込めて。ニトロはモニターに現れた、カラフルな前開きのワンピースを太い帯で締めた、見慣れない民族衣装をまとったA.I.キャラクターを睨みつけた。しかし、それは素っ気無い顔でおじぎを返してきた。
「オイデヤスゥ」
「変わった挨拶だね」
「主人ノ趣味デス」
「さっきのも?」
「ハイィ」
「…………」
ニトロはここに来たことに一抹の不安を覚えながらも、訊いた。
「ハラキリ君はいる?」
「少々オ待チ下サイ」
数秒置いて、モニターに少年の顔が映し出された。と、少年は驚きの表情を浮かべた。
「夜更けに誰が来たかと思えば、ニトロ・ポルカロ君じゃないですか」
「ポルカト」
「おや、失敬」
ポルカロというファミリーネームが多いため、よくやられる間違いだ。慣れた間合いで正したニトロは、ふとした感動を覚えてモニターのハラキリ・ジジに言った。
「俺のことよく知ってたね」
「そりゃあ、君は有名人ですから」
「有名人?」
意外な答えに、ニトロは目を丸くした。
「有名ですよ? 君は。『ニトロ・ザ・ツッコミ』って」
「ブーッ!」
ニトロは吹き出した。
「なにそれ? 一体いつからそんな名が?」
「入学式から」
「あ」
『ニトロ・ザ・ツッコミ』の起源に心当たった。ニトロはモニターから目を逸らし、うめいた。
「あれは見事でした。『それでは短いながら』と言った校長に、『長ぇわ!』と躊躇いなく怒鳴り返す。その間といい迫力といい……」
そーいえばそんなことがあった。
とはいえ、それは仕方が無いことと言えよう。そう、運命に等しい。だいたい二時間に及ぶ挨拶が『短い』など物理的に間違っている。実に一日の12分の1だ。しかもその挨拶が新入生に向けたものであればまだしも、内容は何の気まぐれか貴賓として出席していた王女への世辞だった。退屈極まりないプログラムだった入学式で、その上他人のご機嫌取りにつき合わされるのは堪らない。ニトロの怒声に湧き起こった会場全体からの拍手喝采が、それを支持賛同しているではないか。思えばあの時爆笑していたティディアに、今は命を狙われているというのは何とも皮肉な因果だ。
もちろんその後、王女の前で恥をかかされたと校長先生には目をつけられたけれども。
「ん〜あ〜、そんなこともあったかなー」
「ははは。まぁ、モニター越しに話すのも何ですし、お入り下さい」
ハラキリがそう言うとモニターが消え、両開きの門扉が静かに開いていった。