昼下がりの住宅街を、一人の少年が蛇腹模様にタイルが並べられた自走歩道に乗って進んでいた。自走歩道は歩くよりは早い速度で少年を運ぶ。年中温暖な気候の中でも最も穏やかな三月の風が、ナチュラルカットの黒髪をそよがせている。
彼は手の中の生徒手帳を見つめていた。その表紙はディスプレイになっていて、少し茶色がかった黒瞳に、表示された数字やコメントが映りこんでいる。それは学校でもらったばかりの通知表だった。彼は退屈な帰り道の暇つぶしに見返していた。
各授業の成績欄から、担任のコメント欄に目を動かして――
「ニトロ・ポルカト君は『ツッコミ力』を伸ばしましょう。って、なんのこっちゃい」
つぶやき、苦笑いを浮かべる。コメントには生徒の長所を褒める一言を必ず入れるようになっている。何十人といる担当クラスの生徒個々人を必ず褒めねばならない先生も大変なのだろうが、これには少々無理がないだろうか。
「『ツッコミ力』って、言われてもな……」
ニトロはディスプレイの電源を切ると制服の内ポケットに入れ、彼を運び続ける自走歩道からアスファルトの歩道へと飛び降りた。とっとっと、体に残っていた勢いを何歩かで消し、住宅街の片隅、ちょうど開発が終った頃に建てられた家に向かっていく。
「オカエリ、ニトロ」
その家の門扉に差し掛かった時、インターホンから中性的な声がかかった。
「ただいま、メルトン」
ニトロが返事をすると、合金製の門扉がスライドし、彼を中に招き入れた。
彼が中に入ると門扉は閉まり、変わって玄関の扉が開く。
「成績ハドウダッタ?」
玄関の前に埋め込まれている洗浄機で靴底を洗い、家の中に入ったニトロに『メルトン』が訊ねてくる。
「成績? どうってことないさ」
「コレデ中学カラ12連続オール3カ」
「……」
「図星ミタイダナ。記録更新オメデトヨ」
「あ、てめ、なんだその言い草!」
中学から12連続オール3というのは、彼の特筆すべき特徴かもしれない。
「ったく、毎度思うけど、なんでお前はそう生意気に育ったかな」
「アラ、私ヲコンナニシタ人ガ何ヲ言ッテルノ?」
「…………」
ニトロは背負っていたスクールバッグを下しながら、無言で二階へと上がっていった。そして、そのバッグを、
「どこでそんな言葉覚えやがったっ」
自分の部屋に入るなり、一点に向かって投げつける。モノトーンの色調の簡素な部屋を切り裂くように、黄のラインが入った黒のバッグは、狙い違わず机の上の筐体に向かっていった。
すると筐体の直前に保護ネットが現れた。苦もなくバッグを受け止める。
「エエトネェ、KHKテレビデヤッテタ『桃色団地のいけないセミナー』」
「そんな所からいらないデータを蓄えるなよ」
ネットが投げ返してきたバッグを受け止めながら、脱力したニトロはその場にへたりこんだ。バッグを投げ捨て、嘆息しながら眉間の皺を人差し指で叩く。
「ゲンキ出セヨ」
天井に埋め込まれたスピーカーがやる気の無い声で震えた。
「うるっさいわ! で!? メールとか来てないのか!?」
ニトロの叫びにメルトンはどこ吹く風で、さらりと答えた。
「三通」
「読んで」
「一通目。
……春休みだよ。みんな集まれ! ここはHなことし放題の」
「あー、迷惑メールはいい。その発信者、これから拒否な」
「二通目。
……相続税の振り込み確認致しました。ジスカルラ第9区役所・納税課」
「……了解。で?」
「三通目。
……明後日PM5:00、ホテル・ベラドンナ
あなたの愛するティディアより」
「 は?」
一瞬、メルトンが読み上げた文章を理解できず、いや理解したくなく、ニトロはクエスチョンな声を上げた。
「何ガ、は? ダヨ」
「いや……三通目、もう一回頼むよ」
「ヘイヘイ。
……明後日、ホテル・ベラドンナ
あなたの愛するティディアより」
「――――」
ドッと、ニトロの汗腺全てから、汗という涙が流れた。さながら命に関わりそうな勢いである。しかし彼は、体の異常を気にすることはなかった。干からびそうな身体よりも、メルトンの読み上げた差し出し人の名の方が、はるかに重大な問題である。
体内の細胞全てが叫んでいた。
ティディア!
その名は、この
「ん〜〜〜〜?」
ニトロはあぐらをかき、腕を組み、顔面の色が真紫色になるまで考え倒した。
それからしばらくして、彼は清々しい顔で手を打った。
「そうか。いたずらだ」
「チナミニ、発信ドメイン、
「―――――――」
PQK(ろいやる―たぐ)……王家の荷にかけられる札に表記する番号、カードの絵札に使われている番号、王家専用ドメイン。
「…………ガフッ」
ニトロは、吐血した。
ニトロ・ポルカトは、まっこと平凡な少年であった。
ニトロとは一般的に多く耳にする名前で、外見にこれといった特徴はない。通う高校は王立の中堅校。明瞭な将来設計もない。どこにでもいる、物語で言うその他大勢のような者だ。本人も、そう思っていた。
だが、どうやら最近、その人生が凡ではなくなってきた。
二ヶ月前に両親が交通事故で他界し、一ヶ月前に車に撥ねられ(幸い無傷)、半月前には痴漢に間違えられて豚箱で一夜を明かし、一昨昨日ときたら通りかかった店のショーウィンドウが突然砕け散って軽症を負って、一昨日は傷を完治させようと病院に行ったらどうしてか保険番号が確認できないとかで一日待たされた。しかも傷を塞ぐ
「……俺、もしかして祟られてるのか?」
祟られているとかそんなことはどうでも良いとして、このお話は、この瞬間に始まりを迎えたのだった。