モカブレンド

 飴色に変色した紅褐色の木肌が美しかった。ドアの前に立つたびに、小さな店内が覗き窓の向こうに見えるのが好きだった。それは窓の青銅製のフレームを額にした、いつも違った風景を見せる楽しい絵画のようだった。その下には営業中の札の代わりに掛けられた、小さな長方形のネームプレートがある。黒ずんだ鉄製のそれには、色褪せた赤いさくらんぼが二つだけ描かれている。それが、この店の名前だった。
 ドアを押し開けると、すぐに芳ばしい香りが全身を包み込んだ。温もりが漂う中にまだ肌寒い空気が入り込み、木漏れ日の明るさの店内にあった眼のいくつかが、静かに閉じていくドアの隙間から差し込む陽光を白くねるスプリングセーターに引きつけられた。それもドアが閉じるのにあわせて戻っていき、新しい客を受け入れた店内は元のように落ち着いていった。
 店に入ってきたのは女性だった。やや小ぶりなスポーツバッグを左肩に提げている。フレンチ・タートルネックからのぞく首から顎にかけた輪郭ははっきりとして、薄く桜色のルージュが引かれた唇は彼女の品の良さを感じさせた。深いチャコールグレイのストレートパンツが彼女の密やかに誇る脚線を優美に縁取り、その脚は無駄な力を使うことなく規則正しい足音を刻んでいる。髪は黒く、襟元までの長さで毛先は柔らかく流れ、良く言えば知性的、悪く言えば冷たい印象の顔立ちを和らげていた。スレンダーな体つきであるが、凛とした姿には弱さや儚さよりもしなやかな強さがあった。
 印象に残る女性だった。彼女の名は敷島有愛ありあといった。オペラ好きの両親がその楽曲から付けた名も耳に残る。店主はまっすぐ客のないカウンター席に向かってくる彼女に笑顔を向けた。
「やあ、あっちゃん。いらっしゃい」
 口髭を形良く広げる店主の笑い顔が、彼女は好きだった。カウンターの中を照らす薄橙色の明かりに染まるYシャツと紺色のエプロンが、台所に立つ父にも思えて微笑ましくなる。
「こんにちは、おじさん」
 有愛はカウンター席の左端に座り、肩に掛けていたバッグを足下の荷棚に置いた。
「久しぶりだね」
「ごめんね。ちょっと最近、忙しかったんだ」
「そう、大変だったんだね」
 店主はそれだけ言って頷くと、それ以上は何も訊いてこなかった。愚痴を聞いて欲しければ、言えば店主は黙って聞いてくれる。客がおのずから言わなければ、何も詮索しないのが彼の流儀だった。
 有愛が一息ついた頃合を見計らって店主が注文を訊いた。彼女は笑って「有愛ブレンド」と注文した。
 ここは、馴染みの客が希望すれば、その好みのブレンドを作ってくれる。有愛ブレンドは、有愛が好きなエチオピア産のモカをベースに、豆の配合を変えては何度も試飲を繰り返し、彼女の理想の香りと味の調和を実現させたものだ。
 豆の種類だけではなく煎り方にまで我儘を言っても聞いてくれるのに、料金は通常のオリジナルブレンドとさほど変わらない。別の馴染みの客がそれで儲けになるのかと聞いていたことがあるが、店主は「コーヒーは飲む人が楽しむものだから」とだけ答えた。その言葉は彼のコーヒーへの愛着そのものだったが、その後に「でも、煙草を吸う人にはちょっとだけ我慢してもらっちゃっているけどね」と言ってはにかんだ顔に、有愛は彼の愛情の深さを感じたものだった。
 それは店にも染み出していて、客を心からもてなしてくれる。ここは店としての立地が悪く、開店時間も13時から19時までと短く、メニューもコーヒーの他にサンドイッチとデザートが数品と少ないが、茶室にも似たこの心地よさに熱心なファンが多い。有愛も他ならず、その一人だった。
 有愛のブレンドのための豆を取りに店の奥に行く店主の背を見送ってから、彼女はふと店を見回した。
 大きな窓際に並べられた二人掛けのテーブルが三つと、そことカウンターの間にある四人掛けのテーブルが二つ。テーブルの間には衝立の代わりに観葉植物の鉢が置かれている。二人掛けのテーブルに初老の男が新聞を広げ、四人掛けのテーブルに一組の男女が言葉を交わしていた。
 今日の選曲はジャズらしい。流麗なリズムが流れていた。新聞がめくられる音、恋人たちの囁きが旋律の中に溶け込んで、それすらもセッションの一部になっているように感じられた。
 店主が戻ってきたことに気づいて、有愛は目をカウンターの向こうに目を戻した。
「今日はどっちで飲む?」
 白い陶器に入れた一人前のコーヒー豆をコーヒーミルの脇に置き、その準備をしながら店主は訊いた。「サイフォンがいい? ネルがいい?」
 有愛は右を一瞥した。カウンター席と調理場を分ける小さな段の上に、サイフォンが三つ並んでいる。今はインテリアとして店を飾っているが、望めばこれでコーヒーを淹れてくれる。バーナーの火に撫でられるフラスコからあっという間に湯がロートへと湧き上がっていく様といい、ロートの中で店主の手でコーヒーの粉が軽やかに攪拌される姿、そして黒褐色となった湯が手品のようにフラスコに戻る光景といい、コーヒーが抽出されるまでの演出においてこれに勝るものはないと有愛は思う。
 しかし、店主がネルドリップで丁寧に淹れてくれる絶品も恋しかった。味もサイフォンとネルでは趣が違う。サイフォンにはサイフォンの、ネルにはネルの味わいがある。店主はどちらでも最高のものを出してくれるから、どちらを選ぶかは気分次第だ。一体、今の気分はどちらだろうか。
 店主は有愛が決めかねているのを察した。迷う時間も、彼が客に対して大切にしているものだ。彼は先に、準備を進めた。
 コーヒーミルが豆を挽く音が、有愛の耳をくすぐった。店主が持つ器に、中粗に挽かれた粉が流れ落ちていく。鮮やかな香りが膨れ上がった。焙煎された豆の挽きたての芳香が足先まで吹き抜け、彼女は、染みついた疲れが緩んでいくのを感じていた。
 豆を挽き終わったところで目を向けてきた店主に、彼女は答えた。
「ネルで」
 店主は微笑んで一礼した。その後ろで、クッキングヒーターの上に置かれたヤカンの細い口から白い湯気が薄く昇っていた。有愛が入ってきた時に、あらかじめ加熱していたのだ。それからしばらくして湯が沸きだし、蒸気の息が空中に弾けはじめた。
 湯の温度が上がりすぎないよう頃合を見計らって、店主はヒーターを切った。それまでに彼はネルドリップの用意を済ませていた。その手際の良さは、まるで演劇を見ているような楽しさがあった。
 店主は湯をコーヒーサーバーに注ぐと、それをそのままにして、茶漉しのような道具を手にした。
 それは茶漉しの網の部分がネル布製の漉し袋になっていた。このネル布を使って淹れるのが、コーヒーの味を最も引き出すと言われるネルドリップだ。彼はミルクコーヒー色のネルにも湯をかけて温め、真っ白な布巾で余分な水分を吸い取った。
 サーバーを温めていた湯が捨てられ、ネルに粉が入れられた。
 有愛はじっと、ネルを揺すって粉を平らにする店主の手元を見つめていた。
 粉に少しの湯が注がれ、熱い水気が粉を伝い染み渡っていく。絶妙な水加減で、ネルの下からコーヒーはまだ落ちない。湯は全体に行き渡ると粉を蒸らしていき、粉はまるで大きく息を吸い込んでいるかのように膨らんでいった。
 二十秒ほどを置いて蒸らしが終わる。そこに細口のヤカンから、静かにゆっくりと、ドーム状に膨らんだ粉に湯が注がれた。たちまちネルの底に濃い褐色の涙が染み出して、それはたおやかな流れとなってサーバーにこぼれ落ちた。細口から流れる湯はネルの外縁より一回り小さな円を描きながら、穏やかに穏やかに全ての旨味を引き出していく。手馴れた様子の中にある心を込めた丁寧さそのものが、粉に注がれているようでもあった。
 粉が吸い込んだ空気を一気に吐き出しているかのように泡立つ湯面の高さは、常に整えられていた。湯が注がれる先にはコーヒーブラウンの木目細かな泡が立つ。それは粉の焦茶色の中に麗しく、美味への期待をいっそう高めてくれる。やがて一杯分のコーヒーが作られたところで、まだ内に湯を残したネルは惜しげもなくサーバーの上から外された。
 前にコーヒーの美味しい淹れ方を教わった時、粉に注いだ湯の全てを落とさないのは豆のアクまで落とさないためだと聞いた。何度か教わった通りに挑戦したが、いまだに彼のように美味しく淹れることはできないでいる。豆の違いかと思って分けてもらったものを使っても、何度も観察して彼の真似をしても、どうもうまくいかない。そのせいもあって、彼女にとっては、彼のコーヒーを淹れる姿そのものが一つの芸術だった。
「桜もそろそろだね」
 有愛の顔には、コーヒーが創り上げられる様子を堪能した満足感があった。
 用意されたカップは、白地に藍色の模様が綺麗な砥部とべ焼のものだった。サーバーから素朴なカップにコーヒーが注がれていき、そこから弾ける匂いに舌の上で味蕾みらいが震えた。
「おじさんは、お花見に行く?」
「うん。妻がそういうの好きだから」
 店主が手を伸ばし、有愛の前にコーヒーを差し出した。机に受け皿が当たる音と、受け皿とカップが擦れる音が調和した。黒味を帯びた黄褐色のカウンターの木目に白磁器が映え、美しく澄んだ黒色が艶やかな波紋を刻んだ。
「近くの公園にいい木があるから、そこでお弁当でも食べようかって話しているよ」
「いいね、そういうの」
 有愛はカップを手に取った。微笑んだ唇を肉厚の縁に寄せコーヒーを静かに口に含むと、モカ特有の鮮烈な香りが、舌を駆け抜け鼻腔を巡り肺にまで吹き抜けていった。強く、野趣溢れながら高潔なそれは官能すらくすぐる。心にまで届く。
 ジムで汗を流した体が水を欲するように、これは心が欲しがる飲み物だ。肺から戻ってきた息に残る香りが口の奥で転がるのが、この上なく心地よかった。
「ああ……。美味しい」
 有愛のため息が、道具を片付ける店主の背にかかった。彼女は、本当に美味しそうに飲んでくれるから、彼も嬉しかった。
 モカの豆に封じ込められていた薫風は、潔く吹き抜けた跡に穏やかな甘さと爽やかな酸味をもたらしてくれる。有愛は口と鼻の奥で膨らむ香味に、心の中で折り重なりどうしようもなく凝り固まっていた疲れがとろけて流れ出していくのを感じていた。
 特に最近の忙しさは、有愛に心休まる時を与えてくれなかった。仕事は楽しいが、それでもストレスや疲れといったものは溜まっていく。肉体的なものは運動と休養で解消できたが、精神的なものはそう簡単にはとれることはない。それが、体中の皮膚がさわついて疲れが一気に流れ出していくようだった。
 淡い脱力感が、肩を抱いている。有愛はカップを置き頬杖をついた。
 曲が一つ余韻を引いて終わっていった。すると聞き覚えのあるメロディーが次に流れ出した。有愛は頬杖をついたまま、店の隅に鎮座している年代物のスピーカーに目を寄せた。それは彼女の好きな曲だった。
「Love Me Or Leave Me」
 口の中でつぶやく。
 大学生の時、ジャズが好きな友達が、父親から譲り受けたレコードをよく聴かせてくれた。その中に、ニーナ・シモンがいた。友達はジャズについて熱弁こそしなかったものの、針にかける音楽は当然ほとんどジャズで、正直興味が無かった自分にはただのBGMにすぎなかったが、何度も聴いているうちにその魅力が耳を離さなくなった。そのきっかけが、ニーナ・シモンが歌うこの曲だった。ピアノの軽やかなメロディに乗せて、母の強さのような力を感じさせる美しくしゃがれた声が心を鷲掴みにした。
 友達は大学を卒業すると同時に、アルト・サックスを片手に日本を発った。もう三年前になる。友達は今も様々な国を巡っては、バーやクラブで飛び入りの演奏を続けている。クリスマスに届いたエアメールには、アイルランドのパブで楽しくギネスを飲んでいると書いてあった。
 ふいに有愛とスピーカーの間を影が通った。少し物思いに引き込まれていた意識が、はっとなる。彼女の目を横切ったのは、窓際にいた初老の男だった。彼は彼女が顔を上げたのに、会釈をしてきた。彼もこの店の常連だ。言葉を交わしたことは無いが、顔はお互い見知っている。有愛も会釈を返すと、彼は口元の皺を濃くした。
 店主がドア脇のレジに行く。初老の男は会計を済ませると、一言二言店主と言葉を交わしていた。
「次は勝つよ」
 人の言葉に意識が向くと、不思議に今まで気に留めなかったテーブルの会話が耳に入ってきた。「手ごたえは感じてるんだ。判定も1ポイント差だったし、俺、強くなってるから」
 ちらりと目をやると、恋人に笑顔を向ける青年の右目尻の上に大きな絆創膏が貼ってあった。話の内容からすると、ボクシングか何かをやっているのだろう。目を輝かせる彼の笑顔と、女性が浮かべる少し困ったような心配顔のコントラストが印象的だった。
 有愛はカップを口に運んだ。焙煎で生まれた香ばしい苦味を、さっきより強く感じた。
 だがそれはすぐに、少し躊躇うように、風味の底に去っていった。口の中は温かい豆のコクで潤っていた。
「あ、そうだ」
 レジから戻ってきた店主は初老の男の席から食器を下げ、それを洗い場に持っていく時、ふと何かを思い出したように有愛に言った。
「あっちゃん、前にグレープフルーツのタルトが好きだって言っていたよね」
「うん」
「試しに作ってみたら美味しくできてね。来月からメニューに入れるから、よかったら食べてみてね」
 グレープフルーツの甘酸っぱさが舌の記憶をついて、期待が溢れ出してくる。
「楽しみにしてる。絶対食べに来るよ」
 店主の作るスウィーツはこの店の隠れた名物だった。旬の果物をその時期だけ使うものは特に評判が良く、有愛も楽しみにしている。自分の好物を出してくれるとなれば、その期待は増すばかりだった。
 そういえばとカウンターの上に掛けられているボードを見ると、お勧めのデザートには苺の字が躍っていた。頼めばよかったと思いもするが、まあいい。今日は、コーヒーを飲みに来たのだ。
 時間の流れが緩慢な午後だった。ぬくぬくとして気分が良かった。
 スピーカーが奏でる音はどれも心地よく、テーブルからは次に行く映画を何にするかと討論が聞こえてきて微笑ましい。洗い物を終えた店主が何やら思案顔で店の奥に消えたかと思うと、いくつかの皿にコーヒー豆を乗せて戻り、それを挽き始めた。
 何もかもが穏やかに感じられる。いつも急いて煽りたててくる時間が、今は全身を撫でて労わってくれるようだった。
 気がつけばカップの底に浅く残ったコーヒーはもう冷めていた。だがそれでもモカの甘酸を纏う香気は高く、最後まで有愛を楽しませてくれた。
 カップの縁についた口紅を、小さなさくらんぼが印刷されたナプキンで拭き取り、それを丁寧に畳んでカップの脇に置く。ふと、窓から差し込む日が翳った。雲が日を覆い隠したのだろう、皆が一斉に窓に目を向けたのが妙におかしかった。
 有愛は立ち上がって、足元からスポーツバッグを引き上げた。その様子を見てカウンターから出てきた店主と並ぶようにレジに向かう。
「ご馳走様でした」
 古ぼけたレジに金額を打ち込む店主は嬉しそうだった。
「ありがとうございます。はい、お釣り。確かめてね」
 有愛は釣りとレシートを一瞥して、財布にしまった。それを肩に掛けたバッグの中に押し込むと、陰になっていた日がまた明るくなった。
「それじゃあ、おじさん。またね」
 微笑んで頭を下げる店主に笑顔を残し、有愛はドアを引き開けた。光が少し眩しく感じられて目が細くなる。空を見上げると、太陽の横に東へ吹く風に乗る白雲があった。店主の礼が背中にかかり、ドアが閉まる音が聞こえた。外では時間がいつものように流れていた。別世界から戻ってきたようなくすぐったい感覚が気持ちよかった。
 一度深呼吸をすると、雲を運ぶ風が地面を撫でた。その風に乗るように歩き出した有愛の足取りは、とてもとても軽やかだった。

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