女神の騎士

 瑞々しき霊気を湛える森林に、その王国はあるという。戦乱渦巻く時の中で、豊穣の千年を数える魔法の国。大国や魔物の侵略も敵わず、そこに住む者たちは健やかなる時を謳歌している。
 伝説があった。
 その王国の深遠、霊気の森の何処かに息づく女神。竜と人との間に生まれた心優しく美しい女神は、老いることなき少女の姿。六日の時は夢幻の中で、一日一夜に歌いて生きる。森を生んだ霊樹のうろ虚で、王国に絶えることのない幸いと加護をもたらしている。
 まことしやかに囁かれていた。
 だが、誰もその姿を見たものはいない。ただ流れるは、人の口を伝う想像の膨らみ。
 誰かが囁いた。
 女神の心臓はいかなる病も治す不死の霊薬。その血肉は魔なる物共に神に等しき力を与える。
 誰かが伝えた。
 そのために、女神の傍らには屈強なる守護騎士が常にあると。

◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 森林の中に隠すように作られた訓練場の隅で、二人はうなだれていた。力の入らない体を壁にもたれて休ませ、尽き果てた気力をようやっと回復させた一人が口を開いた。
「今日は俺の勝ちだな」
 汗と泥にまみれた顔を無理に笑わせるセザに、ミルドも鼻で笑って返すことがやっとだった。
「言っていろよ」
「……あぁ、疲れた。今日も、絞られたなぁ」
「これも、女神を守る騎士になるためだ。耐えてみせるさ」
 ミルドは拳を握った。
「そして、明日にも教官をぶちのめして、お前より先にこの過程を抜け出してやる」
「お前こそ、言っていろよ」
 セザは苦笑いを浮かべて、息をついた。
「そんなに、ミルドは女神の騎士になりたいか?」
「当たり前さ。この国を守る女神様を護衛するんだ。これ以上の栄誉がどこにある。俺は、ガキの頃から女神の騎士に憧れていたんだ」
 疲れも忘れ、瞳を輝かせて語るミルドが、セザは少し羨ましかった。
「セザは、なりたくないのか?」
「いや、そんなことはないさ」
 ただ、と、セザは目を落とした。
「何だ? もし少しでも迷いがあるなら、とっとと逃げ出せよ? 中途半端な気持ちで騎士の座を争う奴は、俺は許せねぇ」
「迷ってはいない。お前みたいに、純粋な気持ちで騎士になろうとしている奴がどれだけいるかと思ったんだ」
「そうだな。中にはただ家名の誉れと求める馬鹿もいやがるからな」
 ミルドは苦々しそうだった。二十人の騎士候補者の中で平民出は三人。ミルドとセザは、共に自身の手でその座を掴んだその中の一人だったが、候補者のほとんどは貴族の息子ばかりだった。厳しい選抜にかけられた以上、彼らは確かに腕が立ち優秀ではあったが、心構えから剣に隙が見える者もあった。女神の騎士の役目の重責から、出自の保証ある者でなければならないことは理解できるが、それでも釈然としないのがミルドの正直なところだった。
「だが、お前も俺と同じだろう?」
 唐突に、ミルドがセザに詰め寄るように言った。そういえば初めて会った時も、彼はこんな無邪気な顔で話しかけてきたものだった。
「俺は、女神の騎士の座を争うのは、お前だけだと思っている」
 セザはミルドの言葉に驚き戸惑っていたが、ミルドの目は真剣だった。訓練の時、どんな苦痛にも立ち向かっていく時の純粋な目で、セザを見つめていた。
「出会った時から感じていたんだ。お前は他の連中とどこか違う。最後まで残るのは、俺とお前だけだ」
「……そうなるといいな。俺も、お前となら、騎士を争いたい」
 セザは笑った。臆面も無く、真っ直ぐな目を向けるミルドが右手を差し出した。セザは照れたような顔で、ゆっくりとその手を握った。目を合わせ、手に力を込め、固く固く結ぶ。
「約束だ」
「ああ。約束しよう」

 森の底。闇ほどに深い森の奥底で、密生する大木がいっせいに途切れている場所があった。まるで木々はそれ以上進むことを畏れているかのようで、途切れが生む輪郭は大きな円を描いていた。
 その中心には、何よりも巨大な樹があった。
 大地は大樹に向かうにつれ徐々に盛り上がり、やがて張り出した大きな根と変わる。その幹は、幹というよりも塔のようだった。齢はゆうに三千年以上あるだろう。そのわりに枝葉まではそう高くなく、ちょうど森の木々の樹冠を越えた辺りから、百年を生きた木ほどに太い枝々が広場に蓋をするように伸びている。
 見上げれば、それはまるで森の底に落ちてきた空のようだと思えた。何千にも重なる影を貫いてきた小さな木漏れ日が、まるで夜空に輝く幾億の星々のように煌めいていた。
 静かな湿り気に混じる苔と腐葉土の匂いは、心がこの空間に溶け合うように誘う。
 樹皮を覆う厚い苔は、堆積する悠久の時の抜け殻だろうか。ところどころにあるヒカリシダが蒼い光を放ち、蒼い光は濃い緑と混ざり空間を神秘的に染め上げ、照らし出される濃厚な空気の揺らめきが魂までを魅惑する。
 セザは、目を開いた。
 心地よい記憶の邂逅は、随分と懐かしい光景を見せていた。ずっとそれを見続けてもいたかったが、結界の中に入ってきた気配を無視するわけにはいかなかった。
「やあ、ミルド」
 ややあって、セザは少し前で佇んでいる来訪者に声をかけた。
「久しぶりだ」
 ミルドは無精髭を蓄えた口許に、屈託のない笑顔を浮かべた。

「何だって?」
 ミルドの言葉に耳を疑い、セザは聞き返した。驚愕を隠すことはできなかった。まさか、彼が騎士選抜を辞退するなど、信じられるはずもなかった。
「夢だったんだろう? そんな簡単に諦めるのか?」
 この国に住む少年は、誰もが女神の騎士に憧れる。お伽話の中の勇敢な英雄に、誰もがなりたいと思い描く。だが、本当に女神と、その騎士が存在することを知る者は僅かだ。ミルドも、セザも、この選抜に選ばれて初めてそれを知った。
 だからこそ、誇り高い女神の騎士になることに夢中になっていた。だからこそ、櫛の歯が欠けるように仲間が脱落していく過酷な訓練も、耐え抜いてきた。
 初めは二十人だった候補者も、今は四人。特にミルドの志は微塵もかげることなく、セザも、彼が騎士になるものだと思い始めていた。
 その矢先のことだった。彼が、辞退を申し出たのは。
「簡単に諦めたわけじゃない」
 ミルドは、今にも殴りかかってきそうなセザに言った。
「ただ、女神の騎士になること以上に、大事なことができたんだ」
「……休暇中に、何かあったのか?」
 つい先日まで与えられていた、初めての休暇。思い当たることは、それしかなかった。
 睨みつけてくるセザに対し、ミルドは落ち着いた瞳で彼を見返した。時を置き、気色ばんだ彼が落ち着くのを見計らって、言った。
「守りたい人ができたんだ」

 暗く、仄かに明るい中で、佇む彼の姿は奇妙なことに浮かび上がって見えた。
 鍛えこまれた肉体に、鋼の鎧と鎖帷子。腰に一本の剣を帯び、手には肉厚の盾を携えている。だが何よりも目を引くのは、笑顔の裏、双眸に漲る鬼気であった。まるで一人で師団を相手にしようかという気迫が、周囲を恐れで震わせていた。
 セザは大きな木の根に座ったまま、彼に座れと促した。
「ここまで、疲れただろう」
 セザは傍らに置いていた筒を手に取った。
「酒か?」
 促されるままに、ミルドはセザの前に腰を下ろした。
「いや、ジュースさ」
「なんだ。相変わらず、下戸げこなのか」
「まぁ、いいじゃないか」
 セザが差し出した杯を受け取り、ミルドは筒から流れ出る黄色い果汁を見つめた。
 ミルドの顔にはかげ翳りがあった。生気がないわけではないが、無精髭に覆われた頬はこけ、穏やかだが幽鬼にも似た凶相が滲んでいる。
 彼は筒を受け取り、返しにセザの杯を満たした。そして二人は目を合わせ、杯を掲げた。

 掲げられた王の剣が、ひざまずくセザの肩に触れる。それは、新たな騎士の誕生の瞬間だった。城の一室でしめやかに、秘密裏に行われた受勲式。参列する者も少ない神聖な儀は、しかし百人の英雄を讃えるかの祝福に満ちていた。
 立ち上がったセザは、友の姿を探した。新しい女神の騎士を皆に紹介し、その名誉を朗々と語る王の言葉を聞きながらも、彼の目と心はただ一人も求めてさまよった。
 女のために、女神の騎士を蹴った愚か者と言う者もある。だがセザにとっては、ミルドは今でも最も尊敬すべき相手であった。心根を言えば、王や諸侯の祝福はさしていらなかった。長く城の中に身を置くうちに、彼らに嫌気もさしていた。しかし、ようやっとなった女神の騎士、その結実は自分のためにも心から喜びで彩りたい。だからセザは懇願し、彼を招くことに許しを得た。
 ミルドは、自分から最も離れたところにいた。彼は、セザが本当に欲しかった笑顔を浮かべていた。
 彼の首には、刺青いれずみが見える。それは本来、功績ある騎士に施される守りの護符であったが、彼のものは違った。もし女神の真実を他人に語ろうとすれば、その刺青にかけられた呪いが即座に命を絶つ、戒めであった。
 騎士の選抜から脱落する時、候補者は二つの選択を迫られる。女神の騎士に関する記憶を消すか、他言せぬ誓いを呪いとして受けるか。大抵の者は記憶を消す。だが、ミルドは呪いを選んだ。セザを忘れないため、そのためだけに命を賭す選択をしてくれた。
 セザはミルドに笑顔を返した。
 彼は妻と共に、幸せに暮らしている。もはや自分には得られない生活を、彼はしっかりと守っている。
 ミルドの口がおめでとうと動いた。
 セザは、誇らしく胸を張った。

 何を語るにも時は足りなかった。時が足りなければ何を語るのも難しく、沈黙だけが続いていた。だが、沈黙すらここでは騒々しく感じられる。この上に声を発することは、神前の禁忌にも思えた。
「十五年ぶりか」
「だいたい……そんなところかな」
「その間、お前は独りで、ずっとここにいたのか?」
 セザの背後には、巨樹がそびえている。
 神秘なる樹だ。この森の中心にあり、この大森林を生んだと謳われる霊樹。張り巡らされた根は、その一つが大樹のごときものもある。張り出し重なる様は、岩山のようだ。無限の生命力が、見る者を圧倒していた。己の小ささを、まざまざと見せつける。まさに神の樹だ。
 女神の騎士の肩を透かし、根元の奥に目を凝らすと洞窟のようなうろがあることがわかる。苔に覆われたさらに奥には、扉のようなものも見えた。
 ミルドの目がそこに奪われていることを、セザは咎めなかった。
「ああ。ずっとここにいた」
「そうか。気がおかしくなりそうだな」
「正直、始めはおかしくなるかと思ったよ。だが慣れれば、友達もたくさんできる」
 人間じゃないけどな、と、セザは笑った。昔に比べ、精悍さを増した猛者の顔。だが、昔からある優しい双眸は、そのままだった。
 再び二人は沈黙した。セザは穏やかにいる。ミルドは、何かを声にしようとしては躊躇い続けていた。だがそれは、言葉を紡ぐよりも強く、セザに友の思いを伝えていた。
 ミルドの手が僅かに剣へと動いた時、突然、セザが立ち上がった。
 不意をつかれたミルドは、つかを力強く握り締めた。目を見張り、油断なく、即座に動けるように腰を浮かせる。緊迫と敵意が、硬直した頬の奥で絡み合っていた。
 それを傍目はためにしても、セザは穏やかだった。無造作に座っていた根の下から盾を拾い上げると、少し離れたところに歩を進める。そして彼は、ミルドを見つめた。
 その眼差しから、ミルドは目をそむけなかった。真っ向から受け止め、真一文字に口を結んでいた。
 森林の奥底で鎮まっていた空気が、硬く冷たくなっていく。呼吸すら難しく、息苦しさが体を絞るようだった。
 剣を抜き放ちながら、ミルドは立ち上がった。鞘と刀身が擦れる音と共に、鈍い光が空に放たれた。呼応して剣を抜くセザに向かい、対峙する。
 剣を携え、目を合わせたまま、二人は無言だった。何も言う必要はない。言わずとも、互いの胸の内は分かっている。だが、互いに数歩の距離は、遥かに遠く感じられた。
 セザが、ミルドが、剣を胸の前に掲げた。決闘の前の敬意。刃の向こうにいる相手を見据え、深く呼吸する。
 二人は、構えた。

 城からの使いが朗報を持ってきた時、セザはそれを自分のことのように喜んだ。
 友が子を授かった。元気な女の子だという。
 幸せな家族を思えば、歓喜を抑えることなどできようもない。セザの喜びようは、女神に千年来の幸福と言わしめたほどだった。
 騎士の笑顔に女神の心にも幸福が満ち、その喜びは王国に祝福をもたらした。森や土には命が溢れ、花々がいっせいに咲き誇り、鳥や獣は歌い踊った。畑にたかる病害虫は何処かに去り、人心の隙につけこもうと影に潜む魔は消し去られた。誰もが自然と胸に溢れる不思議な温かさに笑顔を浮かべ、町のところどころは宴に賑わった。そしてその年は、これまでにない豊穣の秋だった。
 それが幸いして、セザの元にミルドから手紙が届いた。普段ならば公には存在しない女神の騎士である彼に、城を守る騎士とはいえ一介の民が連絡を取ることは許されないことだった。だが、いつにない女神の祝福のお陰でミルドの願いが聞き届けられ、後にも先にもその一通だけ、女神の騎士への労いとしてふみを送ることが許されたのだった。
 それは本当に嬉しかった。暮らしぶりをつづる文字は踊り、そこには日に日に成長していく娘のことばかりが書かれていたが、むしろそれは友の満面の笑顔を容易に思い起こさせてくれた。えくぼの浮かぶ可愛い笑顔、妻に似ていて綺麗になる、ついつい甘やかしそうになる。親として夫として彼が歩いている人生が、少し羨ましくも思えた。
 女神が六日間の眠りにつく間の孤独に心を脅かされた時、女神の血肉に引き寄せられた魑魅魍魎との戦いに疲れた時、それは常にセザの支えだった。何度も読み返しているうち、手紙は手垢で汚れ折り目も切れそうになっていた。

 気が張り詰めていた。
 精霊や妖精たちが謳い踊る聖域が、無尽の殺気に切り伏せられていた。いまや、霊樹の前に祝福はない。長久を生きてきた生命たちが、気枯けがれていく。彼らの足元の地は殺され、死に凍えている。
 目に見えるもの、目に映らぬもの。その全てに意識を張り巡らせ、その全てを意思の下に統率する。
 体躯にさほど差はない。だが間合いは、剣の長さでミルドが上か。踏みしめる足場は、セザに優位がある。切磋琢磨した懐かしい、あの日々は互角だった。天才と言われたミルド、最強と呼ばれたセザ。ミルドの膝が僅かに沈み、盾を持つセザの左腕が小さく震える。
 触れ合わなかった幾年月も、剣は共にあった。最後の試合は、どちらの勝利だったか。それからどれほどの強さを重ね、ここに刃を構えているのか。打ち込みはどれほどに重い。体捌たいさばきはどれほどに速い。
 どんな変化も見逃せば、それは命を奪い去るだろう。
 皮膚が張り裂けそうだ。
 セザは剣を正眼に構え、ミルドは袈裟に構えている。ミルドは微かに微かににじり寄り、セザは呼吸をも細めて不動。視線が交わることはない。互いに敵の微動を逃さず捉え、必殺の剣戟けんげきを放つ隙を伺っていた。
 森が騒いでいた。不吉に怯え、さんざめいていた。
 セザには、巨竜と相対するかの重圧があった。死相すら滲むミルドの双眸が、死神の誘いを思わせる。
 距離を詰めているのは、ミルドだった。
 刹那、凄まじい突進と共にミルドの剣が振り下ろされた。セザの反応は一瞬遅れた。彼はそれを盾に受けることしかできなかった。
 激しい衝撃と共に、ミルドの全体重が片腕に圧し掛かってくる。堪えきれずセザが後退したところに、ミルドの追撃が迫った。だが、セザの切り返しは速かった。即座に体勢を立て直し、胴を貫かんとする切っ先を弾き飛ばした。
 甲高い鋼の悲鳴が、緋色の光を撒き散らして周囲を照らし上げた。

 助からない。
 医者の見立ては、それだけだった。
 魔に魅入られた死病。その一日前までは友達と町で元気に遊びまわっていたのに、たった一晩の闇が、娘の瞳から溢れ輝いていた生命力を奪い去っていた。日に日に痩せ細っていく娘を救う手段はないと、医者はミルドと妻に頭を振った。
 しかし、ありとあらゆる手段をとった。
 騎士の職を辞し、あらゆる可能性を求め走り回った。昔のツテを頼り、私財を投げ打ち、秘薬といわれる全てを試した。報せを聞いたセザの助けで、最高の魔法医にも掛かった。だが、どれも娘の命を救い上げることはできなかった。
 もって三ヶ月。
 それが、魔法医が施した延命術の限界だった。
 ミルドと妻には、娘の短い人生を看取ることしか残されなかった。
 症状を抑える薬が切れるたびに、娘の喉からかすれた呼吸音が鳴り出した。壊れた笛のような気味悪い音は、娘を苦しめるだけではなく双眸から血の混じる涙を搾り出した。薬が効くまでの無限とも思える時は、娘のうめき声をたどる死神がひたりひたりと近づいてきていることを感じさせた。初めは発疹として胸に現れた青黒い点が白布に滲むインクのように全身を染めていく光景に、死の気配をまざまざと見せつけられた。
 骨と皮だけになった姿、病魔が産む音、苦悶に、いつしか妻の顔からは表情が失われていった。それを気取られないよう娘に必死に笑ってみせる妻の姿が辛かった。死を恐れる娘の言葉を聞くたび、心臓に灼熱の針が打ち込まれ続けた。妻と怒鳴りあうことも、慰めあうことも、やがてできなくなった。疲労と憔悴だけの毎日が日常となり、仲むつまじい夫婦から言葉すらも奪い去られた。
 神を、呪った。娘に振り向くことのない全ての福音を恨んだ。
 娘を苦しめるだけ苦しめ、そのまま死ねというのか。娘が語る夢は何一つ叶える機会さえ与えられないのか。そんなことは認められない。これから先に溢れる幸せも知らぬまま娘を死なせるわけにはいかない。それではあまりに、ひどすぎる。
 あらゆる手段が敵わずともなお奈落に沈む希望は自己の存在を叫び、その予感は棘となって心に突き刺さっていた。それは、ただの未練なのかもしれない。だがミルドはその棘にすがった。その予感が娘を救うと疑いもせず、休むことを許されない苦悩の中で棘の正体を探し、考え疲れて倒れこまねば眠ることができない日々を送り続けていた。
 いつものように浅い眠りから目覚めた朝、顔を洗ったミルドは鏡台の前で首周りの刺青いれずみに気づいた。随分と長い間、意識を向けることがなかった。そういえば髭を剃ったのはいつだったろうか、生気がなくなりこけた頬にも無精髭が伸びている。何の気なしに刺青いれずみを指でなぞると、セザのことが久しぶりに思い出された。
 彼には、本当に世話になっている。感謝のしようもない。彼が手配してくれた魔法医の薬がなければ、娘は死の時まで長く苦しみ、もうこの世にはいなかっただろう。女神を魔から守る大任の中にありながら、常に気をかけ大事となれば尽力を惜しまないでくれる彼に、感謝の言葉も見つからなかった。
 だからこそ、娘の命を救うためにはどんなことでもしようと思う。それはセザに恩を返すことにもなる。
 そう、どんなことでも。ただ思ったその言葉が、ふいにミルドの脳裏に爪を立てた。小さく口にしたそれは耳に入ると頭の中でこだまをはじめ、彼の心に刺さり続けていた棘を揺り落とした。友への思いを追って、幼少の心を躍らせたお伽話が記憶を貫いていった。
 一気に無数の思考が感情と混ざり合い、眩暈めまいのような頭痛が目の奥でたぎった。瞼を強く強く閉じ身を絞り上げるような深呼吸でそれを振り払うと、開かれた眼が見たのは鏡の中の剣気を帯びた己の瞳だった。
 ミルドはその伝説を思い出した。今の今まで、おそらくは禁忌のヴェールが覆い隠していた希望に思い至った。迷いもない、それは既に朽ち果てている。
 ミルドはその日のうちに役に立たなかった秘薬を金に換え、再び剣と防具を揃えた。
 家を出る時、娘は父が傍を離れることに怯えていた。妻は、娘の傍らに一人残されることに怯えていた。森林のどこかにあるという伝説の薬草を探し出して必ず帰ると告げると、ようやっと微笑んでくれた二人の笑顔を胸に、彼は森の奥へと姿を消した。

 ミルドの剣の重さは、力がこもり体重がかけられている次元を超え、魂までもが押し込められているようだった。その叫びは聞く者の意識を千切ちぎる。どんな悪霊をもひれ伏す殺意が、猛攻の外にも斬りつけている。
 セザは、激しさを増していく攻防、その流れに飲み込まれることも逆らうこともなく、ただ戦意を、全てを貫く矛のように研ぎ澄ませていた。その叫びは聞く者の意識をひるませる。どんな祈りをも切り伏せる鋭さが、大気すらも引き裂いている。
 だがミルドの魂もセザの意志も、盾を、鎧を貫くことはできない。振るわれ続ける剣は、拮抗していた。

 先刻だった。それは、ただの定例の報せとして届けられた。友の近況を伝えるよう、セザの頼み。城からの使いは、ミルドが森に消えたことを、報告の最後に付け加えた。
 自分が鍛錬に明け暮れた頃を思い起こさせる若い使いの騎士は、ミルドが妻に告げた言葉をそのまま伝えた。そして彼女は焦燥の中、余命いくばくもない娘と共に最後の希望を待っていると。
 セザは、使いが届けたものは、報せだけではないことを感じていた。
 しかし、事を荒立てる気はなかった。例え亡国の危機であろうとも、ことさらに騒ぎ立てる気は既になかった。
 それがどんなに重いことなのか、城の連中には思うことすらできまい。それがどんなに苦しいことなのかも、城の連中には、解りはしない。呪いに縛られた者の悲しみを、思いはかることもせず安寧を貪るだけの彼らに。
 セザはいつもの様に了解して使いを帰すと、友を迎える準備をしに重い足でうろに戻った。
 ……ミルドの娘の病が治らぬと知った時、この時を予感していた。
 不老不死の薬と言われる、女神の心臓。真偽すら定かでないただの伝説にすぎないが、希望としては十分すぎる。ミルドが家族を、娘をどれほど愛しているのか知っている。だから彼がその禁忌に望むことを、そうならなければいいと思いながら、確信していた。
 それを罪や過ち、それとも愚かという言葉で切り捨てることは、自分にはできない。
 だが、だからとて女神を殺させるわけにはいかなかった。
 国の民のため、それ以上に、あの優しく哀れな女神のために。

 剣風だけで、喉が切られそうだった。盾で受ける度、腕が痺れ肩が痛む。渾身の一撃が、盾を削り刃を潰していく。
 およそ防御というものはかなぐり捨てられていた。盾を構えていても、心身はその前にある。一寸たりとて退くことはない。剣を振るう形相は鬼と化し、斬撃を皮膚で受けてなお死の間合いに身を置き続ける。
 限りなく薄い氷が、生と死を隔てていた。

 女神の騎士へ、定例の連絡があることは知っていた。女神の居場所を知らない以上、彼への使いを追うこと以外に手はなかった。危険はあったが、自分にとっては未熟な、その騎士を尾行することはさほど苦ではなかった。
 だが、そんなことよりも。
 使いが城に帰り、遠く遠く離れていくまでを待つ間、心臓は早鐘を鳴らし続けていた。
 この先に待つ、女神の騎士セザ。史上最強と謳われる戦士。
 彼への手紙を王に献上した時、王は彼が女神の騎士となってからというもの、これまでにないほど女神の力が国を豊かに包んでいると語ったことが思い出された。王や宰相はしきりに不思議がっていたが、ミルドには何の疑問もなかった。あいつは特別優しいやつだから、女神も、嬉しいのだろうと。
 セザは……女神の心臓を狙うことを許してくれるだろう。だが、それを得ることまでは許すまい。必ず、戦いになる。きっと、殺さねばならない。
 それだけが、この胸に躊躇いとして残っている。
 覚悟の時が、すぐそこまで迫っていた。

 幾多の剣戟は、さらに速く、さらに激しさを増していった。
 鋼がぶつかり合う度に鈍く強烈な衝撃が骨を痺れさせる。大気を焼く剣筋を追って焦げた臭いが流れる。
 吐き出る息は無尽の執念を包み込み、体は内に溶岩が渦巻いているかのように熱く、絶叫する心臓に押し出されるように汗が噴き出していく。
 生まれては消え、消えては弾ける激音の波が、剣に影を纏わりつかせていた。

 五年前、女神の力に請うて見たミルドの娘の笑顔が頭から離れなかった。戒められた時の中で、他愛もない話に笑う女神の笑顔と重なり揺れ続けていた。
 葛藤は、割り切るには深すぎた。
 双肩の中で、数え切れない命が渦巻いている。この王国の民の行く末を守る剣、女神の騎士。その重さが渦巻く中で、それよりも大きな二つの潮流が耳の後ろでけたたましい音を立てている。思考はその中で立ち竦み、目は重なり揺れる笑顔に震えることしかできない。
 一月ひとつき前、女神に今一度請うて見たミルドの娘の病状は、想像を遥かに超えていた。思わず女神に助けられないかと問うと、女神は険しい顔で、ごめんなさいとつぶやいた。王国に力を食われ続け、遠見の魔法が精一杯の女神に何もできるはずがない。それは解っていた。それを口にすれば女神を悲しませることにしかならないとも知っていた。それでもセザは、救いを求めずにはいられなかった。
 無力感が使命を蝕んだ。いや、違う。使命そのものへの憎悪が、無力感を募らせた。
 女神の騎士の本当の姿は、ただ女神を捕らえ続けるための監視者だ。女神ではなく、女神の力を王国への加護に変える呪いを守るための存在。親友の娘を助けることもできない、ただ城に棲まう者たちの堕落した安寧のためのなまくらの剣だ。
 無力な己が恨めしかった。あるいは女神にかけられた呪いを破ることができれば、女神を解放して娘を救うことができるのかもしれないのに、その術もこの身には無かった。
 葛藤が叫ぶ。
 ミルドの娘は助けたい。助けたい!
 だがあの優しく哀れな女神を、ここで殺させるわけにはいかない。自由も幸せも知らぬまま、死なせるわけにはいかない。
 取るべきは命、捨て去るのは命。その選択はこの心には重すぎる。
 だが、セザは理解していた。解っている。剣しか振るえぬこの身の先に、選択肢など初めから無い。
 ならば運命に問うと、全ての感情をねじ伏せる。
 戦い、決着をつけよう。命残れば、女神が生きる。命落とせば、ミルドの望みが叶う。
 それしかできない。それしかないのだ。

 ありとあらゆる急所にめがけ、炎熱の殺意が振るわれていく。鋼の激突に幾つもの火花が散り、かすめた刃が髪を落としていく。
 頭を狙えば胴、腕を狙えば足。切りつけ、切り返す。剣を弾かれれば、盾を前に体ごと押し返す。攻防は途切れない。もはや転げ落ちる車輪のように、止まることはない。
 猛者の呼吸は咆哮となり、死神を呼ぶ魔笛となる。
 少しずつ、セザの傷が増えていく。
 少しずつ、ミルドの傷が深くなっていく。
 だが、片手で振るう剣は命までには届かない。それだけ両者の力は拮抗していた。そしていつしか、二人は盾を投げ捨てていた。

 再会は、躊躇いを殺意に変えた。
 再会は、葛藤を覚悟に変えた。
 目が合った時、二人は、不思議と笑顔を浮かべていた。

 咆哮が激突し、弾け散った。刃はこぼれ、剣が軋んだ。呼吸は荒げ、汗は蒸発し、命が削れていく。
 時は、ひどく緩慢だった。何もかもが、緩やかに動いていた。白刃の軌跡が見える。弾け飛ぶ火の粉の形が見える。
 血肉なき剣の先にまで己が満ちていた。
 精神は透き通る水のように覚醒していた。
 ミルドがどう斬りつけてくるのか、セザがどうさばくのか、未来の形すら把握できる。
 白く静寂で、果てしなく、無限に続く世界が広がっていた。もはや、目の前の一人しか見えない。剣がぶつかり合う音も聞こえない。温度も、大気の感触すらもない。
 そして、彼は、理解した。
 この戦いは、勝利で終わる。
 それは天啓だったのか、それとも閃きだったのか、解らない。だが、振り下ろされてくる剣が、彼には止まって見えた。無数に入る刃毀はこぼれの奥、見えるはずのない鋼の亀裂がはっきりと分かった。
 体が意思を超えて動いた。
 無音の中、叫びが聞こえた。
 斬り上げられた光が、彼の首を狙う刃に触れた。

 鳴り響いたその美しい音は、とても長く感じられた。
 斬られた剣はうつろに鳴りながら宙を舞い、苔に覆われた地面を削り霊樹の根に衝突して止まった。
 ミルドには、何が起こったのか判らなかった。悪夢から目覚めた先に、まだ悪夢が続いているかのようだった。さしたる衝撃もなく、振り下ろした剣の半ばから先が失われていた。未来を切り開くための力が、目の前から忽然と姿を消していた。
 茫然と剣を見つめていた彼は、やがて事態を理解した。だがそれでも戦いを止めようとはせず、折れた剣でなお斬りかかろうと構えた。その執念を、セザは抑えた声でき止めた。
「死で何を得られる」
 切っ先は、ミルドの喉へ向けられていた。すでに間合いは詰められ、避ける隙はない。このまま少しでも動けば、躊躇なく命が絶たれるであろう。
 しかし、それでもミルドは
「せめて、傍にいてやれ」
 声は、すり潰されていた。セザは目を血走らせて、ミルドを睨みつけていた。
 女神の騎士への怨念が、そこにあった。複雑に絡み合う感情が眼の中でもつれ、殺意だけが形相に遺されていた。
 やがて、溢れ出した絶望が、次第に全てを虚無の底に飲み込んでいった。
 深い沈黙の後、彼は、息をついた。意志を失った手から、剣がこぼれる。鋼の塊は一度地に突き立つと、力を無くして音もなく倒れた。

 それは、麗らかな日だった。青空を真っ白な雲がゆったりと泳ぎ、柔らかい太陽の光が芽吹き始めた葉を輝かせていた。庭に作った花壇一杯にプリムラが咲き誇り、美しい白と薄紫の花が風にそよいでいた。これまでの病苦が嘘のように、最期の時は穏やかで、温かかった。
 妻の悲鳴が心を切り裂く。
 ミルドは、笑顔を浮かべる娘の顔を撫でた。
 そして

 セザは泣いていた。とめどなく泣き叫んでいた。
 慟哭は騎士の涙を涸らしてもまだ、彼を責め続けた。
 女神にはどうすることもできなかった。神と崇められていようとも、その嘆きを止めることも、癒すことも。
 女神は、優しい騎士を抱き締め、共に泣くことしかできなかった。

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 戦乱渦巻く時の中で、豊穣の千年を数える魔法の国。瑞々しき霊気を湛える森林に、その王国はあった。
 ある時、森が泣いたという。女神の悲しみは王国を守る慈悲を奪い、不吉に人々は怯えたという。
 霊気の森の深遠、何処かに息づく女神。竜と人との間に生まれた心優しく美しい女神は、老いることなき少女の姿。六日の時は夢幻の中で、一日一夜に歌いて生きる。森を生んだ霊樹の虚で、王国に絶えることのない幸いと加護をもたらし続けた。
 しかし、いまや彼の国を見る者はない。ただ流れるのは、人の口を伝う想像の膨らみ。
 まことしやかに囁かれていた。
 いつしか傲慢となった王国の民は、女神の怒りを招いて滅びを迎えた。
 誰かが囁いた。
 王国は女神の力で姿を隠し、今も繁栄を続けている。
 誰かが伝えた。
 女神の傍らには、屈強なる守護騎士が今もある。

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