目玉焼き

 一郎は忙しない朝が好きだった。毎日のように繰り返される、時間に追い詰められ怒涛のように過ぎるこの一時は、どんなにしても飽きることはない。常に心には緊張があり、常に周りには微笑ましい光景が溢れている。
 鍋に沸く湯に出汁が染み出している。換気扇はコンロが焚く火の残り香を晩秋の空に流し、テレビにはいつもと同じ顔ぶれが日々変わるニュースを読み上げている。
「もーっ、寝癖が直らない!」
 洗面所から聞こえてくるドライヤーの音は、いつにも増してがらついていた。寝坊した上にひどく跳ねた髪の乱れに悪戦苦闘する優香子ゆかこを逆なでしているかのような音だ。あれではまともに温風も出ていないのではないだろうか。もう悪くなっているのだから買い換えようという兄の言葉に、まだ使えると頑として耳を貸さなかった彼女は後悔していることだろう。
「兄さん、つかさの髪やってあげて!」
 切羽詰った声に、くすくすと笑い声が上がった。味噌汁の味を確かめていた一郎がそちらに振り返ると、テーブルで食事を待つ妹が丸い笑顔をこちらに向けていた。
「もうしてあるもんね」
 おかしそうに小声で言う司は無邪気そのものだった。肩に流れた三つ編みが揺らされて、園児服の白く大きな襟の上で、穂をまとめるゴムの小さな蝶の飾りが踊っている。
 その飾りは亡くなった祖母の着物を優香子用に一郎が仕立て直す際、箪笥たんすを整理していたところ出てきた余り布から作った小物の一つだった。それはただ小物作りの練習のために作ったものだったが、慕っていた祖母がよく着ていた柄の生地だったことから司にせがまれて、半ばお守りのように髪留めのゴムに縫い付けてある。
「おねえちゃんももっと余裕を持てばいいのにね」
 大人の口調を真似するような言い方で、得意気に言う。冷蔵庫に味噌をしまいながら、一郎はそうだなと司に笑い返したが、それとは裏腹に一郎の手元は忙しく、頭は朝食を作り上げる段取りの組み立て直しで一杯だった。
 司には作務衣さむえ姿でいつものように食事を作る兄の姿が余裕に溢れて見えるようだが、それは違う。普段は優香子に任せている登園の準備で、食事の用意が圧されてしまった。このままでは司はともかく、優香子は朝食を抜いて学校に行かねばならなくなってしまう。
 時計を見ると、長針は驚くほど進んでいた。先ほどは十分に差し掛かるところだったのに、もう底に近づいている。
 遅れを取り戻すために、一郎は献立を変更することにした。ジャガイモを具にするつもりだった味噌汁には豆腐を入れることにして、それを手の上で賽の目に切りながら、焼く時間がなくなった塩鮭の代わりに何を作るかを考える。
「司、シャツ持ってきてー」
「はーい」
 司は椅子から飛び降りると、リビングの隅の室内物干しにかけてあるシャツのうち、きれいにアイロン掛けされているものを選んで洗面所に持っていく。
 優香子は制服を着始めたようだ。まだドライヤーの音はしているが、それは断続的なものになり、そろそろ髪を整え終わってリビングにやってくるだろう。時間は差し迫っている。リビングに戻った司が口ずさむ童謡が、刻々と進行していくテレビのニュース番組が、とにかく心を煽り立てる。
 いっそ何も作らず海苔と漬物で茶を濁すという手もあるが、それでは育ち盛りの妹達の腹を満たすにも、栄養としても足りない。スーパーのタイムサービスを過ぎて残っていた見切り品の塩鮭を手に入れられたことに満足して、他におかずになるものを買ってこなかったのが悔やまれた。
 考えた末に一郎が選んだのは、昨日と同じ一品だった。
 冷蔵庫から卵とハムを取り出すと、味噌汁の鍋を脇に置き、調理器具を入れてある開き戸からフライパンを二つ取り出す。
 その一つは小さくフッ素コートを施されたものであったが、もう片方は大振りで昔ながらの黒い鉄製のものだった。もう何十年と使われてきたもので、もしかしたら、今の持ち主の一郎よりも齢を重ねているかもしれない。円形にくぼんだ鉄の表面には油が馴染み、鏡面にも似た光沢がある。
「今日も目玉焼き?」
 司の声は嬉しそうだったが、一郎には面目なかった。彼はフライパンにサラダ油をひきながら、好物への期待に頬が緩んでいる妹に訪ねた。「ハムは何枚がいい?」
 司はVサインをたどたどしく作りながら二枚と言った。今の会話を聞いたらしく、洗面所から優香子が「わたしも」と告げてきた。
 先に温まった小さなフライパンにハムを二枚乗せると、油の爆ぜる中にハムの焼かれる匂いが混じった。すぐにそこに別の器に割った卵をそっと流し込む。シュウという小気味のいい音をたてて薄黄に透き通っていた白身が熱を受けて固まり、艶がかったフッ素コートの黒に鮮やかな白が輝いた。
 そこに湯が加えられる。もうもうと白い湯気の下で、油と水が熱に煽られて暴れた。すぐさまそれに蓋がされ、火は弱火に落とされる。
 一郎は鉄製のフライパンにもハムを敷き、卵を流しいれた。それとは混じらないようにもう一つ卵を落とし、それに胡椒を振ると先よりも少なく湯を加えて同様に蓋で閉じた。そして火はとろ火にし、蒸し焼きにしていく。
 司は固焼きの目玉焼きに醤油をかける。優香子は半熟にソースをかけ、とろけ出す黄身をソースと共に白身にまぶして食べるのが好きだった。同じ半熟の目玉焼きでも一郎は胡椒を効かせたそれを白米の上に乗せ、黄身を潰したところに醤油をかけてかっ込んで食べるのがいい。
 慌しい足音を連れて、優香子がリビングに入ってきた。濃灰のスカートのホックを止める妹の髪はいつものストレートに流したミディアムヘアではなく、外に跳ねるように流れていた。寝癖を直すのに限界があったのだろう。結局ごまかしに走るしかなかった顔は不機嫌で、襟元のタイを締める手も乱暴だった。
「あー。おねえちゃん、かわいー」
 だがそれも、彼女を一目見た司の一言で和らいだ。機嫌を直した優香子は紅色のタイの結びを綺麗にまとめ、戸棚から茶碗を取り出した。
「もうよそっていい?」
 と一郎に訊いて、その顎に眼をやって眉根を険しくする。
「兄さん、無精髭ちゃんと剃りなよ。女将さんに怒られるよ」
「大丈夫だよ。今日は店じゃなくて、高下たかしたのところにミーティングに行くから」
 コンロの火を止めた兄の言に、妹は口を尖らせた。
「それでも。兄さん、髭、似合わないんだから」
 炊飯器の蓋が開かれると、炊き立てのご飯が甘い湯気を立ち昇らせた。朝の光にキラキラと輝く白米をしゃもじでかき混ぜ、優香子はまず大きな青い茶碗に飯をよそった。それをコンロの脇に置くと、その上に一郎が半熟に焼き上げた目玉焼きを乗せた。
「それにさ、帰りにお店に寄るかもしれないでしょ?」
「まぁ、そうだな」
「だったら、いつでも油断しちゃダメ。身だしなみは常にきっちり。いい?」
 最近の優香子の叱り方は、祖母によく似てきた。そう思いながら一郎は適当に返事をして、ハムつきの優香子の半熟目玉焼きと司の固焼き目玉焼きを皿に移していたが、それが癇に障ったらしくまた叱られた。
「兄さん、分かった? ちゃんと剃ってから出かけてよ」
「出かけてよ」
 司が優香子に続けて言った。言って、それが面白かったのかケラケラと笑う。
 その様子に姉は少し困ったように複雑な表情を浮かべたが、すぐに気を取り直して兄に挑みかかる目つきを向けた。こればかりは譲れないと語る頑固な目だ。そこには年頃の娘が持つ身なりへのこだわりよりも、家族を良い方へ向けようとする意志があった。
 一郎はため息をついた。
「分かったよ」
「うん」
 優香子は満足げに微笑むと、ウサギの絵が描かれた茶碗を手に取った。
 兄と姉が息のあった動きで食事をテーブルに並べていく。その傍らで、何もなかったテーブルに料理が並んでいく様子を司はとても楽しそうに眺めていた。だが、ふと時計を見て三十分を過ぎていることに気づくと、テレビのリモコンを小さな手で抱えて、チャンネルを変える。芸能界の世態を流していたブラウン管に、明朗な調子で動くキャラクターが映った。
 司はすっかりテレビに目をとられていたが、優香子に呼ばれると慌ててテーブルに向き直った。
 三人の前にごはんと味噌汁と、目玉焼き。優香子にはソースが、一郎と司には醤油が用意されている。中心に置かれた胡瓜の浅漬けが瑞々しく、卵の黄身と彩りも鮮やかに、温かい食卓の匂いが忘れていた空腹を思い出させる。
「それじゃあ」
 急須を持ってきた優香子が最後に座るのを待って、家族はそろって手を合わせた。
「いただきます」

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