灰色の空

 天は低く、空は灰色。
 切り立つ崖と広大な海に挟み込まれた僕の町は、いつも重苦しい空気に満ちていた。
 それはきっと、欠けた櫛の歯のように乱立する煙突が吐く灰燼かいじんのせいじゃない。弧を描いて町を囲む巨大な崖の岩壁が、僕たちから逃げ場を奪っているからでもない。切れ間もない灰色の天幕が、朝を追いかけて崖を昇る太陽すらかすませてしまうからでもない。ましてや、どこまでも広がる鉛色の海が、僕たちの心を包み込んでしまうからでもないだろう。
 誰も判らない、この息苦しさの理由。だから、余計に重々しく感じて、誰もが口を閉じている。
 ……それとも、誰もが息苦しさの理由に気づいているのに、それを誰も口にできないからこそ苦しいのかもしれない。例え、口にしたって、誰も解決することができやしないのだから。
 この町は、昔は工業都市として栄えていたらしいけど、今ではその面影を残すただの張りぼてだ。無意味に仰々しい工場や、大きさだけがとりえの集合住宅、計画性の無い開発で入り組んだ地理。
 この町は、昔は良かったと、その残骸にすがって動いている。崖の中から掘り出される石炭を食べ、未来を恐れるように、昔、誰もが褒め称えた自分達を取り戻そうとやっきになっている。
 変わらなくてはと、大人たちは言う。けれど、僕たちに見えるのは、やり方を変えたと思うだけで、結局は変わることのできない可哀そうな大人たち。
 それなのに、変わった気になった大人は言うのだ。目の前にある原因に気づかぬ振りをして、景気が悪いとただ愚痴をこぼす。まるで自分たちに全く責任がないような顔をして、周囲に卑屈な目を向けている。
 僕たちの吸う空気は、よどんでいる。
 大人たちの誇りは、この町から脱出した人々。鉛色の海を渡った、勇気ある成功者たち。この町で頑張る人々は、誰にも誇られることなく、だんだん、だんだん、錆びついていく。
 僕たちには合言葉がある。言葉にはならない合言葉。
『僕たちも、このままこの町で埋もれていくんだろうか』
 言ってしまったら、本当にそうなってしまいそうだから。誰も、口にすることは無いけれど。

 今日も空は灰色だ。一年中、風すらも濁っているこの町。
 両親は言う。昔、誰かが言った通りに。
『勉強さえしておけば、生きていける』
 でも、僕たちは知っている。勉強していたって、この町から抜け出さない生き方は、死んでいるも同然なのだ。
 でも、崖は高すぎて越えることができない、あの鉛色の海を進んでいく勇気も無い僕たちは、行き詰まった想いを抱えて、毎日、教師と黒板を見つめている。
 僕は、カラクリ仕掛けの時計台に昇ることが、とても好きだった。
 息苦しい町の中で、最も高い塔の上。過去に隆盛し、今は人が去り行く地区の中心で静かに姿を誇る、過ぎ去った時代の王者の頂。ここにだけは、町には無い澄んだ風が吹いていたから。
 コツコツと、足元から伝わってくる時計の音に、この町でも時だけは歪むことなく進んでいることが感じられたから。

 僕は、今日も塔の天辺で寝転んで、灰色の空を眺めていた。
 風が吹いている。灰色の雲が、ゆったりと太陽を隠していく。耳元では、静かな歯車の音が囁きかけていた。
 昨日、兄が帰ってきた。
 兄は、この町から海を渡り、僕たちの知らない世界に飛び出していった勇気ある一人だ。兄はいつも、他人とは違っていた。物怖じしない性格、明るくて、頭も良く、すぐに新しいことを覚えては僕に教えてくれた。
 僕はそんな兄が好きだった。
 僕は兄の影についていけば良かった。正しい道は兄が示してくれた。ちょっと悪いことも教えてくれた。兄の言う通りにしていれば、僕はクラスのヒーローになれた。
 でも、3年前、兄はこの町から抜け出してしまった。両親と喧嘩した次の日、僕に一言だけ残して。
 その言葉は今でも覚えている。忘れられるはずも無かった。
『頑張れよ』
 何を頑張ればいいのか、兄は言わなかった。僕は、何をすればいいのかも解らないのに、兄は言ってくれなかった。だから、その言葉は今も僕の心を縛り、苦しめている。
 兄が去ってから、兄の言葉に苦しんでいた僕は、気づいた。僕の中にある、兄に対する知らなかった感情。兄を妬む心。兄を羨む心。兄を疎む心。兄を嫌う心。そして、僕は願っていることを知った。僕たちを見限って世界に旅立った兄が、泣きながら帰ってくることを。それを見て嘲りたい心を。
 そして、兄は帰ってきた。でも兄は、泣いてなんていなかった。よりたくましく、より眩しくなって、僕の前に帰ってきた。
 僕は兄とは違うということが、また僕を強く叩いた。

「やっぱりここだ」
 懐かしい声がして、僕はまどろみの中から引き起こされた。
 僕は、目を一・二度まばたいた後、体を起こし、後ろに目を向けた。
「兄さん」
 階段への扉を閉め、兄が近寄ってくる。
 僕は目を兄から、鉛色の海に向けた。背中に、明るい兄の声がかかってくる。僕は言葉だけを返した。
「よくここだってわかったね」
「お前のことだからな」
 兄が僕のことを何でも知っていると言うようなその言葉は、癇に障った。
「3年間、僕のことを知らないじゃないか」
 僕は、意地悪な言葉を兄に返した。
 隣に座った兄の横顔には、意に反して微笑があった。
「ここはお前の、『秘密基地』じゃないか」
 そう、ここは、僕の秘密基地だった。ここに昇るための、階段の扉の鍵が隠してある場所を見つけたのは、僕だった。ここは唯一、僕から兄に教えた僕の自慢だった。
「よく、覚えていたね」
「忘れないさ」
 僕は唇を結んだ。憎らしさと、面映おもはゆさが頬をくすぐった。
 昨日、兄が帰ってきたとき、僕は苦しかった。兄がいない間、僕は兄を嫌い続けていた。それこそ敵のように憎んでいた。それで僕は、兄が残した言葉から僕を守ってこられた。
 でも、昨日、家の扉を開けて目の前に現れた兄の姿に、僕は喜びを感じてしまった。
 それが、とても悔しかった。
「なんで探していたの?」
「話したかったんだ」
 僕は驚いた。
 兄は、一人で何でもできる人だ。誰に頼ることもない。僕の憧れ。僕から話をしたがっても、兄が僕と話をしたいと言ってくることは無かった。
「そう、でも」
 僕は胸に芽生えた優越感を、もう少し味わっていたかった。
「僕、もう降りるんだ。学校の宿題があるから」
 海の色は、橙色に染まり始めていた。鮮やかとは言えないけれど、星を見せてくれない空が唯一、夕方だけは美しい姿を見せてくれる。この時計塔の上からは、この夕日を誰よりも独り占めできるのだ。
「そうか」
 残念そうな兄の声は、罪悪感よりも、心地良さを僕に与えた。
「兄さんはどうする?」
「もう少し、ここにいるよ」
 兄の横顔は、記憶の中に比べて、痩せている。
 痩せているけど、力強い。
「この町の宝石を、見てから帰る」
「……」
 この町の宝石。僕が、昔ここを兄に自慢したときに言った言葉。
「そう。あまり遅くならないでね。母さんが、心配する」
「ああ」
 僕は兄を残して、時計塔を降りていった。地上へ向かって渦を巻く階段。そのすぐ横では、無数の歯車が音を立てて回っている。だけど、なぜか今日は、軋みの音だけが嫌に耳に響いた。

 夕食の席には、久しく見ない光景があった。いつも険しい母の顔は、喜びにほころんでいる。いつもは一人寂しく晩酌している父も、兄と酒を交わし、嬉しそうだ。
 ここには、いつも僕が言われる言葉がなかった。
『どうするの? これから』
 僕は半年後、高等教育過程を卒業し、専門教育過程に移る。いや……それとも、専門教育課程を受けずに、就職をするか。
 でも僕は、まだこの町に自分の未来を見つけられなくて、進路を定めることができないでいる。鬱屈した町の隅で、酸素を求めて朽ちる炭のように、くすぶっている。
 そんな僕に、母は苛立ち、父は失望している。
 だから、世界を回り帰ってきた兄は、両親をひたすらに喜ばせていた。兄の話は、両親の目を輝かせる。兄の成長した姿は、両親を安堵させる。
 分かってはいるのだ。僕では、両親の希望を満たすことなんてできないということを。
 僕はいつもより早めに食事を終えた。
「ごちそうさま」
「もう、部屋に戻るのか?」
 兄が聞いてくる。僕は頷いた。
「宿題しなきゃ」
 僕はもうこの場に一秒だっていたくなかった。3年間もいなかった兄の方が、両親に愛されている。その事実が見せる光景は、痛い。僕が両親に認められていないことを鮮烈に彫り出して、僕の咽喉を鈍く締めつけた。
 僕は食器を片付けて、部屋に戻った。
 扉を閉める時、久しく聞いたことのない父の笑い声が、僕の背中を叩いた。

 朝、僕は兄と顔を合わせないように、早くから学校に来ていた。家にはもう、まだ帰ってきて二日しか経たないというのに、兄の気配が色濃く満ちていた。結局僕には、逃げることしかできないから、僕は兄の影のない学校に逃げ場を求めた。
 だけど、それは間違いだった。
 はじめは、近所に住んでいる級友が僕に声をかけてきた。彼は、いの一番に兄のことを聞いてきた。
『お前の兄さん、世界から帰ってきたんだろ?』
 彼の声が鼓膜の中でこだましている。
『どうだったって? やっぱり世界はこことは違うんだろ? いいよなぁ。俺も行ってみたいよ』
 兄が経験したことを聞きたがる彼に、僕は「聞いてないんだ」と一言言って、それで話を打ち切った。
 けど、彼だけではなかった。兄の話を聞きたがるのは。
 世界に出た兄が帰ってきた噂を聞きつけた友人たちは、こぞって僕に話を聞きに来た。みんなして、同じ目をして。キラキラと輝いた、羨望の眼差し。自分にはできないことをする者の物語を聞き、自分もその感動をあやかりたいという期待。僕は兄に対する話題の中で縮こまり、ただただその会話から逃げ回った。はぐらかし、曖昧に答え、深く切り込んでこようとする問いから逃げ回った。
 放課後、図書室に駆け込んで、僕はようやっと安息を得ていた。
 図書室の一番奥の机で、そよ風に揺れるカーテンを透けるクリーム色の光を背に浴びて、ただ何をすることもなく歴史の参考書を開いていた。
 過去の出来事を羅列した活字が、ただ並んでいる。
 年号の間の空白に、何が起こっていたかを知ることもない。いずれは僕も、この空白の中に消えていくのだろう。
 校庭から運動部の活発声が聞こえる。遠くの音楽室から吹奏楽の音が流れてくる。その隙間で図書室の静寂がたゆたっている。
「大変だったね」
 静けさに潜められた声が僕を撫でた。向かい側の椅子を引く手に、僕は顔を上げた。
「みんな、お兄さんの話を聞きたいんだね」
 椅子に座る彼女は、苦笑いを交えていた。
「そうだね。みんな、兄さんの話ばかりだ」
「私のクラスも、お兄さんの噂ばかりだった。海の向こう側に行った時も、そうだったけど」
「兄さんは有名だったから」
「そうね。有名だわ」
 彼女は耳にかかる髪を整えた。優秀な姉と差をつけたくて、伸ばしているという髪……。
 彼女は、僕のただ一人の味方だった。僕と同じで、とても優秀な姉妹きょうだいをもった人。彼女も常に姉と比べられ、その痛みに身を折っていた。
 僕たちは、悩みを分かち合ってきた。この町で輝く姉の影で、この町を離れて輝く兄の影で、暗く渦を巻く憎しみを抱き合っていた。お互いに、同じ痛みを持っているから。同じ苦しみを感じているから。そんな存在と融け合えば、僕たちは僕たちを慰められた。
 彼女が笑って言ったことがある。『私たち、傷の舐めあいばかりだね』
 でもそれは、心地よいものだった。その時だけは安息だった。
 ここに逃げ込んだのも、ここに来れば彼女と会えるからだった。彼女に優しく、帰ってきた兄――僕の苦悩を聞いて欲しかったから。
「お兄さんと、話、した?」
「あまり、してない。話したいこともないし。兄さんは……話したいことが一杯あるんだろうけど」
「世界の話?」
「多分。でも、そんな話聞かされたって、嬉しくないよ」
「そうだね。そんな話聞いたって、私たちには関係ないよね」
「なのに兄さんは話そうとするんだ。昨日なんて、時計台にまで追いかけてきたよ。こっちの気持ちも知らないで」
「考えもしないのよ。私たちみたいに、出来の悪い妹弟の思いなんて」
 彼女の姉は、彼女に関わらない。ただ彼女には失望の眼を向け、冷酷に彼女を突き放す。例え彼女が泣いて助けを請うても、彼女の姉は手を差し伸べない。
 すでに、それはあった。姉の重圧に耐えかねた妹の慟哭を、姉は喜劇のように笑い飛ばしたのだ。
 その日のことは覚えている。彼女は時計台の上で、頬を打たれ切れた唇を噛み締めて、涙を堪えていた。
 錆びた鉄の味のするキスの後、彼女はむせび泣いた。
『姉を憎みたい』
 本当は、本当はずっと、彼女は姉に憧れていた。子どもの頃から、颯爽と灰色の空の下を歩く姉のようになりたいと、懸命に姉を真似してきた。だけどそれが実を結ぶことはなく、彼女は次第に冷たくなっていく姉の視線に、心を切り裂かれてきた。
 ……僕は、
 兄に愛されている。
 だけど、彼女の痛みは僕の心をも苛んだ。憧れの人から突き放される痛みを、僕も知っていた。あの日、兄が僕を捨てて海を渡った時。僕は兄に裏切られたのだから。
「お兄さん、いつまでいるの?」
「判らない。それも聞いてない。また世界に行くのかもしれないし、ずっとここにいるのかもしれない」
「そう。大変だね。……また、行ってくれたらいいのにね」
「……そうだね」
「でも、それまで逃げ続けるのも、大変だよね」
 不意に、その言葉は僕の心に鋭い痛みを走らせた。その痛みを追う様に、驚愕が僕の思考に染み出してきた。
 僕の耳は彼女の言葉を慰めと聞いたのに、心は兄を疎む弟を責めるいやらしい皮肉と聞いていた。それは、彼女がけして言うはずがないことなのに、なぜか心はそう感じた。理由は解らない。けれどこの心は、彼女に酷い言葉を投げつけられたと、身勝手な嫌悪を溢れさせようとしていた。
 僕は不可解に押されて彼女を見た。彼女は僕を優しく見つめていた。同情が、逃げ込めばいつも僕を慰めてくれるものがそこにあった。間違いなく、僕を責めるものなど一つとしてなかった。
 だけど、僕は目を伏せた。
 素直に彼女の優しさに寄りかかることができなかった。心が、全力で拒絶を訴えていた。何げなく、悪意のない一言。それはただの慰めの言葉だというのに、僕は急に強い悪寒に襲われていた。
「どうしたの?」
 僕の様子に、彼女は怪訝な声をかけてきた。僕は彼女になんでもないと答えて、話題を変えた。それは急なことだったけど、彼女は僕が兄の話をしたくないことに気を遣ってくれた。
 そして僕たちは夕暮れまで、ただ気を紛らわせるための会話を続けた。でも、何を話したのか、僕はあまり覚えていない。あの悪寒がずっとついてきて、上の空だった。上の空だったけど、それだけは隠し通して、僕は彼女と校門で別れた。

 彼女と別れた後も、悪寒は僕の背中にし掛かっていた。だらしなく誰かが僕の首に腕を絡ませているような気持ち悪さが、胸の中に沈殿していた。
 僕は悪寒に向かおうとする意識を、何かに移そうと空を見上げた。
 いつもより黒みがかった空は、今にも落ちてきそうに感じられた。今日はいつにも増して、先人たちが僕たちに遺してくれた汚い空気が、風のない天でこもっている。鈍重な雲が、不気味な瘤を幾つも空に産み出していた。
「……晴れのち曇り。そうだ、にわか雨を降らせよう。雷を鳴らすも、雹を降らすも僕の心次第」
 もしそうだったらと、ふと思う。
 この空が、僕の心のままに動いたら?
「なんて、気持ちがいいだろうな」
 あるわけがないことを考えるのは、虚しいことだ。
 空を見上げる。灰色の空は僕を嘲笑するように、ぐるぐると回って歪んでいた。
 ポツリと、僕の頬に水が落ちてきた。手で拭うと、手の平には塵の混じった汚水があった。
 ……雨だ。
 今日は雨が降るなんて言っていなかったのに。
 天気予報は当てにならない。傘も持っていない今日、これからずぶ濡れになることを考えると、腹の中で苛立ちが積もった。
 でも、と、僕はすぐに考え直した。空が僕の心に反応して、雨を降らせたのだ。この、汚い雨を。
 僕は、少し嬉しくなった。突然の雨に文句を垂れる男性が、僕の横を走り抜けていく。雨はまたたく間に勢いを増し、制服に染み込んでいった。
 周りを見渡せば、誰もが雨を嫌っている。ある人は雨宿りし、ある人は傘を持っていた友人と共に歩き、ある人は鞄を傘にして走っている。僕だけが、雨の中を一人傘も差さずに歩いていた。僕を変な目で見る人もいるが、今はそれが心地よかった。僕はみんなとは違う。そんな誇らしさが僕の胸を占め、悪寒を忘れさせてくれた。
 僕は家までゆっくり歩いて帰った。家に帰った僕はシャワーを浴びて体を温め、そしてすぐにベッドに潜り込んだ。
 兄は僕を見ていた。けれど、雨に濡れた僕を呼び止めることはできなかった。昨日に続いて、僕は兄を残念がらせた。
 それは悪寒に襲われた僕の心を、少しだけ温めてくれた。
 でも。
 悪寒はすぐに舞い戻ってきた。温かいベッド、まどろみの中で安息を得ようとしていた時、強さを増して襲い掛かってきた。それは恐怖にも思えた。僕の心は理由も知らない極寒に震え、僕の目は抑えることのできない涙をこぼした。
 なぜか解らなかった。心は完全に僕から去り、勝手に動いていた。なぜか解らなかった。まるで僕自身が、僕を責め苛んでいるようだった。窓の外で激しさを増す雨音が、僕を責め立てる声にも思えた。僕は怯えた、怯えて叫びだしそうだった。だけど喉は震えず、苦悶を吐き出すことを許してくれない。僕はただ耐え、この嵐が過ぎ去るのをひたすら祈ることしかできなかった。
 僕は、自分に対してさえも、無力だった。

 雨がやんでいることに気がついて、僕は浅い眠りから覚めた。
 ……いつの間にか、眠っていた。涙はもう無く、乾いた涙の跡を擦る。
 窓からは、薄い光が注がれていた。月の光だ。窓を開けて天を見れば、そこには朧月がある。遠い昔では、輪郭も鮮やかに、黄金に輝く満月も見ることができたというけど、もはやそれは叶わない。
 僕を襲った悪寒は、消えていた。
 だけど胸の中には気持ちの悪いおりが残っていた。でもこれは、あの悪寒がもたらしたものじゃない。兄が去った日からあったものが、また大きく成長して存在感を増していた。
 吐き気がする。
 僕の気持ちが詰まった部屋の、この家の空気に、吐き気がした。
 僕は家を出た。遠くを見ると歓楽街の原色の光がもやに反射して、町を極彩色の欲望で包み込んでいるようだった。
 僕はそこから離れるように、時計台に向かった。
 そこに救いがあるわけじゃない。だけど、どこに当てがあるわけでもない、だけど家にいては心が腐りそうだ。だから、僕は時計台に向かった。
 僕の拠り所を、せめてそこに求めたかったから。
 時計台に忍び込んで、階段を上がっていく。
 屋上の扉を開けると、目の前には朧月の光に揺れる海が広がった。
 雨で冷えた町に吹き込む海からの風が、涙を流し疲れた目に染みた。
 僕は壁際の柵へと歩き、手すりを掴んで下を覗き込んだ。
 時計台にぶつかり、駆け上がってきた海風が髪を躍らせる。真下にあるのは深い闇。開発から見捨てられたこの地区に光は乏しく、港に向かうにつれ増える明かりの群が、闇をなおさらに際立たせている。
 明るい場所から離れて、人の賑わいの影でひっそりと立ち続けている、この町で最も大きく最も振り向かれない存在。
 この時計台は、まるで無の中から生え出しているようだ。頭を垂れてじっと眺めていると、本当にそう見えてくる。この下には底が無く、時計台は深い闇の中から急に現れて、支えのないまま際限なく階を重ねて今も伸び続けていると。
 時計台は、もはや朽ちていくだけの土地の真ん中で、ただ時を刻んでいる。
 カチカチと耳に届く、秒針の音。コツコツと足の底に伝わる、歯車の音。この時計を生活に役立てる者はもういない。無為とも思える、この塔の役割。
 時計台は、闇の底から伸び続けているように見えた。絶え間ない時間の心音に、僕の心臓が重なって動く。目は真下の暗がりにひきつけられ、体はその中に引きずり込まれそうだった。
 ふいに胸が高鳴り、僕は恐怖を感じて我に返った。柵を握る手は僕を支えている。だけど、体は今にも外へと放り出されそうなほどかしいでいた。
 気がつかぬ間に、僕は意識と共に体まで、暗く見えない地へ引きずられていた。恐怖を感じなければ、僕は死にすら気づかずにいたかもしれない。
 僕は体を柵の中に戻し、早鐘を打つ心臓に手を当てた。無機質な時計の音に対し、熱く脈動する血潮。死を拒み、恐怖を僕に与えた。
 ……命は、意識とは乖離した場所にあるのだろうか。
 僕は、あのまま吸い込まれていけば良かったのではないのだろうか。
 闇に誘われる感覚は、とても心地よいものだった。僕の何も拒まず、意識が溶けて流れ落ちていくような快感があった。そのまま落ちてしまえば、僕はそれこそ死の苦痛を超えて深い眠りにつけたのかもしれない。
 楽なことだ。それは、兄への想いも思い通りにならない自分の心も全て消し去れる。この先に、どんな苦を与えられることもない。
 だけど、僕の命はそれを拒んだ。
 それとも僕を離れた心が、勝手に生を望んだのだろうか。もしそうならば、僕の心は別の僕となって体まで奪い去ろうとしているのかもしれない。
「……それも、いいかもしれないな」
 僕は口に出して言った。そうすれば、それが呪文となって現実に成るかもしれないと思ったから。
 ……そんなことは、ないのに。
 しばらくしても、僕には何の変化もない。
 雨が降ったためか、いつもより空気は澄んでいる。海風はさらさらと脇を抜け、海の煌めきと町の光が瞳を騒がせている。
 そういえば、こんな夜だった。彼女が僕を抱きしめてくれたのは。
 『せめてあなたの支えになりたい』と、彼女は言ってくれた。何を成せるとも思えないから、せめて同じ痛みを抱える僕の支えで在りたいと。
 僕はそれが嬉しかった。彼女に抱かれる時は、とても安堵に包まれていた。それが逃避の他にはならないとしても、後ろめたいことなんて一つも無かった。
 そう。僕は、彼女と、眩しい兄姉の亡霊から逃げ続けることを、誤りとも罪だとも感じていなかった。それは、誰からも責められることではないと思っていた。
 だけど今日、兄から逃げ続けることを『大変だ』と彼女に同情された時、僕はあの悪寒に襲われた。体と心が別の言葉を聞いたあの感覚は、繰り返されてきたその同情が初めて与えた違和感だった。それは、誰からも責められることではないことを、他ならぬ僕自身が責めていたようにも思い返される。
 いいや、実際に責めていたのだろう。
 僕を支えた同情への違和感。意思を持たず流れた涙。自分に対して感じた無力。闇の中に引きずられ死に落ちようとしていた僕を、激しい鼓動で引き戻した命。
 僕を離れた心は、僕の体を奪い去ろうとはしていない。だけど何か大事なものを抱えて去り、そして僕を責めている。
 でも何故なのだろう。これまで、兄を責めることで安心を得ていた僕自身が、何故ここにきて僕を責め始めたのだろうか。
 確かなことは、兄の帰宅、それから僕のバランスが崩れた。
 何年もいなかったのに、それなのに現れただけで僕の心をかき乱す。
 僕の中で最も大きな存在を持つ兄が、本当に憎い。僕を見捨てて去った兄を憎むことは楽だった。それなのに、兄が帰ってきた時、僕の中に一番に沸き起こってきたものは喜びだった。
 それは悔しかった。
 それが許せなかった。
 僕が苦しんでいる時、しるべを示す明かりを失い暗い感情の中に逃げ込むしかなかった僕を置いて、最も助けを求めたかった憧れは輝きを増していた。独り先に進むことで、僕の中でより大きく熱く、輝きを増していたのだ。
 だけど、だから認めたくなかった。
 『頑張れ』の一言だけを無責任に残して、新しい世界に自分だけ旅立った兄が、僕の中でより大きな憧れになることが。そんな憧れが、僕の苦しみも知らずにいることを。
 それを認めたくなかったからこそ、僕は兄から逃げ続けて目を逸らした。僕も、兄を憎む僕を必死で守った。そうしなければ、兄を憎んでいなければ、僕は、僕を庇えなかったのだから。
「……ああ、そうか」
 僕は、兄が大好きだ。大好きでならない。
 本当は、色んな話を聞きたかった。兄がいない間、この町に起こったことを話したかった。世界に何があったのか、話して欲しかった。
 だけど、兄を憎んでいないと守れないちっぽけな自尊心が、それを許さなかった。
 そんな自尊心を、僕はどこかで嫌悪していたのかもしれない。だから、兄を想う僕の心は、同情の中に逃げようとする僕を責めたのだ。他の誰でもない、心分け合う彼女の言葉を借りて、僕に反乱したのだ。
 港に背を向け、切り立つ崖を見つめる。崖は圧倒的な存在感で、僕を見据えていた。
 目に見える世界は果てしなく広がっているのに、その裏にある世界は僕を押し潰そうと収束してきているような、切迫した開放感が、胸を詰まらせた。
 もう、同情の中にも安息はないだろう。どこにでも逃げられそうなのに、どこにも逃げる場所はなくなってしまった。
 僕に残されたのは、兄に向かう道だけ。それを理解した僕には、ため息しかなかった。

 それからいくばくもなく、兄が時計台に上がってきた。声をかけられて振り向いた僕に、兄は無頓着な笑顔を向けていた。
「こんな時間に、危ないぞ」
「……大丈夫だよ」
 兄はそうかと頷いて、僕の隣に並んだ。
 僕に残された道は、兄に向かう道しかない。それが苦しみから逃れるための糸となるのか、さらなる地獄へと導く船になるのかは解らないけど、それしかないことは触れられるほどに感じている。
 だけど、だからといってそこに向かえるほど、僕の意志は強くできていない。
 すぐに兄の傍から離れたい衝動に駆られ、僕の足は階段に向かおうとした。その時、
「そんなに嫌わないでくれよ」
 苦笑いした兄。その寂しげな顔が胸を刺して、僕の足は留まった。昨日までは優越感と共に去れたのに、忌まわしい気づきが、僕の足を氷のように固めてこの場に打ちつけた。
「嫌ってなんかいないよ……」
 取り繕う言葉を吐いて、僕は海を見つめた。波に揺らめく月の写し身を見つめて、兄の視線を避けた。
 兄は、態度と言葉の矛盾を追求してこなかった。その代わりに、僕に告げた。
「明日の朝、家を出るよ」
「……母さんと父さんには?」
「もう少し居ろとさ」
「それでも?」
「ああ。仕事もあるからな」
「仕事?」
 僕は、兄が仕事をして生活をしているという想像が欠けていた。親の庇護を離れ海を渡った兄がそうしなければ生きていけないことは当然なのに、僕の中では兄と仕事が結びついていなかった。
「酒を造っている」
 僕は、驚いた。兄はどこか未来を歩いているようで、僕はそれに憧れていた。その兄が、昔から続く仕事をしているというのは、予想もできないことだった。
「ちょっと、想像できなかったかな」
 思わずこぼした本音に、兄が笑う気配が感じられた。
「そうか?」
「うん」
「……そうだな。昔の俺なら、酒造りは、やらなかったかな」
「まるで昔の自分が間違っていたみたいな言い方だね」
 僕は言いながら、口の中に苦味を感じていた。
 兄は苦笑していた。どうしても、棘のある言い方しかできない。卑屈な自尊心を手放すことができず、それでも兄の下から去れず、僕はなおさら情けなかった。だけど、
「間違っていたというよりは、勘違い……そうだな、勘違いしていた」
 その言葉に、沈み込もうとする僕の心は弾き飛ばされた。
 言葉の意味を理解できなくて、僕は兄の声を頭の中で何度も繰り返した。それでも僕には解らなかった。優秀で、誰からも一目置かれて、輝かしい将来を誰にも予感させていた兄が、自分のことを卑下している。僕は兄の横顔を見た。兄は昔と変わらない、僕にとって絶対の光を放っていた。
 僕は沈黙するしかなかった。そして、次の兄の言葉は、さらに僕を混乱させた。
「帰ってきたのは、お前に謝りたかったからなんだ」
 僕は、何も言えなかった。いや、もう何も考えることができなかった。
 兄は、僕に何を謝ろうというのか。
 僕を置いて海を渡ったことか、それとも何か他のことだろうか。だがそれを兄が悔いているとは思えない。見当がつかなくて、僕は兄の視線を避けるように海だけを見つめた。
 そんな僕を察したのだろうか。兄は、言った。
「この町を出るとき、お前に無責任な言葉を託したからな」
「何か……言ったっけ?」
「頑張れと」
 兄が告げたその言葉は、僕を苦しめた言葉に他ならなかった。呪縛し、僕に兄への憎しみをき続ける言葉だった。
 兄はそれを『無責任な言葉』と言う。そしてそれを、僕に『託した』と。
「俺は逃げ出したのに、お前には逃げるなと強制した。ずっと、後悔していたんだ」
 僕の混乱は極地に達していた。
 兄は逃げた?
 勇気と共に海を渡り、僕たちを羨望と嫉妬の海に投げ込んだ兄が、逃げ出した?
「よく、解らない」そう言うのが、精一杯だった。
「……お前にとって、俺はどんな兄貴だった?」
 僕は少しの逡巡の後、思い切って言った。
「僕にとって……兄さんは憧れだったよ」
 僕は兄を見た。自分の答えに、兄がどんな顔をするか見ていたかった。
 兄は意外にもはにかんで、僕を見た。
「お前がそう思っていてくれていたのは、感じていた。それは、嬉しかった。俺もお前の憧れでいたかった。だが……それが、怖くなった」
「え?」
「このままだと、俺もいずれこの町で埋もれていってしまう。その時、お前の目が失望に変わることが怖くて仕方がなかったんだ」
 僕の心は、驚きだけに彩られていた。兄が、いつも自身に溢れていた兄が、僕に弱音を見せている。それが過去の弱音だとしても、僕にとっては何よりも衝撃だった。
「兄さんが、この町で埋もれるなんて……そんなこと」
「例えどんなにいい成績を収めても、例えどれほど優秀だとおだてられても、この町から抜け出せているわけじゃない」
 兄の眼は、冷ややかに感じられるほど静かだった。その奥に計り知れない意思を湛えているようで、深く静かだった。
「俺も、父さんや母さんの期待通りに、新しい時代を開拓する人間になれると思っていた。この町で埋もれることなく、惨めな姿を晒すこともないと思っていた。……お前も、そう思っていたんだろう?」
 僕は頷いた。
「だがある時、俺は突然気づいたんだ。俺には、それはできないと」
「なんで? 兄さんなら」
「この町が決めた基準の中でいい気になって、そこに満足してしまえば。後に残るのは過去の輝きに頼って生きる未来だけだ」
「……」
 それは、まるでこの町の姿そのものだった。
「俺がなろうとしていた姿は、この町が輝いていた頃の光を掲げるだけのスケープゴートだ。俺がなろうとしていた理想の先には、衰えていく町と心中する夢しかなかった」
「…………」
「それまで自分がしてきたことが、全て無駄になったようだった。いつの間にか自分自身が、最も逃れたい未来への入口になっていたんだから。だから、俺は逃げ出したんだ。この町にいれば、この町が望む衰退を担ぐ人間になっていく。それが嫌で、そうなってお前に軽蔑されるのが怖くて、絶対にそうならないでいられる町の外に逃げ出したんだ」
 兄が、そんなことを思っていたなんて、僕は微塵も考えられなかった。僕にとっての絶対者が、僕にとっても最大の忌避者になろうとしているなんて、思えるわけがなかった。
 それどころか、兄の告白を聞く今でも、兄の言うことが正しいのか疑っている自分がいる。兄の言葉は気の迷いで、兄はあのままこの町にいても輝き続けていたと思う自分がいる。
「3年前、お前に頑張れと言ったのは、お前がこの町でくすんでいかないでほしかったからだ。それは俺がこの町でできなかったことなのに。自分にできないことだと放り出したものをお前に勝手に託して、無責任に逃げ出したくせに。……ひどい兄貴だろ? すまなかった」
 兄の静かな眼は、僕に赦しを求めていた。
 それは、3年間苦しんできた僕がずっと求めていたものに思えた。同時に、今さら僕をずっと苦しめてきた言葉の清算をしようとする兄がとても身勝手に思えて、せり上がる怒りを感じた。
 それなのに僕は、求めた兄が赦しを請う姿より、それに罵声を浴びせようとする怒りより、兄の奥にあるものに心引かれていた。僕の目には、まだ兄は輝いて見える。兄の弱さを知ったというのに、どうしてかその輝きは薄れもしない。以前とは違う兄の瞳に感じる深みが何よりも心を騒がせて、僕を引きつけてならなかった。
 だから僕は、赦しでも、怒りでもなく、兄に問いかけを返した。
「……それを言いに、帰ってきたの?」
「ああ」
「本当にそれだけを?」
 兄は少し大きく息を吸った。それは、どこか勇気を得ようとする仕草にも見えた。
「逃げ出して知ったことを、お前に話しておきたかったんだ。もしかしたら、いつかお前のためになるかもしれないと、そう思って」
 兄の眼は、僕に聞くかどうかを促していた。僕が頷くと、兄は切り出した。
「俺は逃げた時、逃げ出せば、楽になれると思っていた。この町を出た時は、自分の前にはもう何の邪魔もなく、輝く未来が拓かれているように感じたよ。だが、すぐに苦しくなった。気づいたんだ。振り切りたい相手がついてきていて、追われていることに。それからは、忘れようとしても、振り切ろうとしても、俺はそいつにずっと追われ続けた」
 ……僕もずっと、そうだった。
「行く当ても無く、目的も無く、なんとか日銭を稼ぎながら何ヶ月もさまよって。だけど相手はどこに逃げても、振り向けばすぐ後ろにいた。ここから逃げ出して、お前の失望を見ることも、この町に埋もれることもなくなったっていうのに、そいつは俺を放してくれなかった。……怖かったな。いつでもそいつに見下されている気がして、苦しかった。怖がって苦しんで、疲れきった。
 ある時、思ったんだ。俺はなぜ逃げることしかできないんだろうと。もしかしたら、本当は俺は俺が逃げる理由にしたものとは違うものに追われているんじゃないかと」
「それで、兄さんはどうしたの?」
「徹底的に考えたよ。自分が逃げ出したもの、自分がなろうとしていたもの、自分さえ疑って、答えを探した。そして、見つけた」
「それは何?」
「この町の幻想に縛られて、見落としていた自分自身」
 それが、兄がここから逃げ出す本当の原因だったと言った。兄は、それを失っていたから逃げ出すことしかできなかった。自分を追い苦しめた相手は、裏切られた理想の陰に紛れ込んでいた自分自身。兄がなりたかった本当の姿への想いそのものだったのだと。
「それなのに、そりゃあどこに行っても逃げ切れるわけがないよな」
 兄の言葉は痛かった。僕も自分に襲われたから、その傷がうずいた。でもその痛みは、少し嬉しかった。どんなに追いかけても追いつけなかった兄に、僕はちょっとだけ肩を並べられた気がした。
「結局俺は、ここで価値がないと思われているものを、自分もそれは価値がないと思うだけになっていた。自分で考えもせずに、そう思うようになっていたんだ。
 俺の夢は、誰の目も言葉も構わず、自分で自分を心から尊敬できることを、この手で成し遂げたいということだったはずなのに。
 それを思い出して、だから、また目指すことにした。
 ……そうしたら、『俺』はやっと俺を追い回すのをやめてくれたよ」
「……それで、お酒造りを?」
「考えている時に働かせてもらっていた場所が、たまたま蒸留所だったんだ」
 兄は旅を止め、そこに留まり働き続けた。今では、昔から続く仕事の中から、新しいものを見出すことが楽しくて仕方がないと言う。まだ自分が携わったお酒はできていないから、これからもそこで働き続けると。
「もしかしたら、その酒ができた時、また旅に出るかもしれない。もしかしたら、その酒ができた時、俺の夢は叶うのかもしれない。社長はそれを見極めたいという俺を、許してくれている。ありがたいよ」
 そんな兄の横顔に、僕は僕がまだ兄にひきつけられる理由を知った。昔は誰もが認める兄に憧れたけれど、今は兄自身の輝きを僕は見ていたのだ。
「この町だって、本当は衰えているわけじゃないんだ」
 兄は、悠然としていた。その言葉は、昔と同じように僕を打った。
「そう決められているだけなんだよ。決められて、そのままだ。
 それなのに、そのままにしているのに、皆はこの町で未来を探している」
 僕たちの傍らには、夜を必死に振り払おうと光り輝く町があった。昔は工業都市として栄え、今ではその面影を残すだけの張りぼて。無意味に仰々しい工場や、大きさだけがとりえの集合住宅、計画性の無い開発で入り組んだ地理。人が去り、陰気臭く朽ちていく建物の群れ……
「だけど、この町に誰の未来も落ちていない」
 兄は噛み締めるように言った。
「じゃあ、どこにあるの?」
 僕の問いに、兄は町を見つめたままだった。
「誰かの未来は、その人自身の中にしかないんだよ。だから……」
「……だから?」
 兄が振り向いた。兄の眼差しに、胸が高鳴った。兄の瞳は湧水を湛えているように澄み渡り、慈愛が僕を見つめていた。
 塔を海風が駆け上がってくる。吹き抜けた風の尾に、兄の声が溶け込んだ。
「だから、お前の未来も、お前の中にあるんだ」

 僕は濁った空気の中で、相変わらず灰色の空を見ていた。町に漂う重い息苦しさは、胸を叩き続けている。そして時間は一定に脈打ち、足元の時計台は今日も誰に向けることもなく時を示している。
 兄は今朝早くに船で発った。
『なんだか言いっぱなしで、悪いな』
 桟橋で兄は、苦笑混じりにそう言った。兄は逃げ、そのために僕に押しつけたものを消し去るために帰ってきた。兄もそれを、勝手なことだと思っているのだろう。
 だけど僕は、兄に何も言わなかった。僕には兄の言葉を受け止めることができた。ただ笑ってみせると、彼も嬉しそうに笑ってくれた。
 兄は、さよならとは言わなかった。行ってくるとも言わなかった。『頑張れよ』と、僕に残した。
 その言葉は、3年前のものとは違った。僕は何も重圧を感じることも無く、追い詰められることも無かった。
 ……僕には、確かな変化と、変わらない変化がもたらされていた。
 兄への暗い感情は、未だにある。例え昨夜の話が兄の贖罪だったとしても、兄の罪は僕の心にあまりにも大きな爪痕を残した。
 だけど思えば、兄が僕に残したものも、僕が兄に対して抱いたものも、謝るとか、赦すとか、そんなことはどうでもいいものだったのかもしれない。
 僕は、新しい目で兄を見ていた。
 これまでは見ることも叶わなかった兄の足跡が、僕の爪先に触れている。兄も僕と同じように悩み、そして苦悩から逃げていた。弟の僕を身代りにして、それを後悔していた。
 僕の過去で大きな光を放ち、僕の未来に影を生んでいた憧れは消えた。大好きだけど、憎むことしかできなくなっていた兄。彼は僕の中でようやっと思い出に還り、憎しみは炎をなくし炭となってうずくまった。
 だけど、兄は光を失ったわけじゃない。
 むしろ、僕の中の羨望は、より強く大きく湧き上がっていた。見上げてばかりだった眩しい光は消えたけれど、今は少し先で灯火が揺らめいている。相変わらず僕に振り返ることはないけれど、その炎は間違いなく僕の中の小さな火に温もりを分けようとしてくれている。
 だけど、それは兄だから掴めた温もりだ。それは僕には儚く、頼りないものだ。兄は全てを一人で抱え込み、確かに一度は逃げたけれど、それでも押し潰されることなく道を見出した。兄は、強い人だから、彼の答えを掴むことができた。
 兄と僕は、違う。兄が見つけた答えが、僕にも光を与えてくれるとは限らない。
 それを兄は、気づいていないのだろうか。それとも、気づきながらも僕に伝えずにはいられなかったのだろうか。
 ……どうでもいい。
 そのどちらが正解だったとしても、僕にはもう関係なかった。
 僕の心は、ここから見える海のように静かだった。風もなく、波は小さく、船の軌跡が銀に輝く。灰色の空と鉛色の海の境界線はひどく曖昧で、それは瞳の奥底で溶け合って温かい陽光に少しの寒々しさを添えている。
 世界は変わらない。僕はこの町で、埋もれていこうとしている。
 変わったのは、この胸にある兄への想い。ずっと鈍色にびいろの炎が燃えていた場所が、空虚に煙るだけ。炎が消えても焼け跡は残る。炎熱にただれた傷跡は、それでも間違いなく今の僕を育ててきた大切な残骸だ。
 そこに、これから何が芽生えていくのか、僕自身も判らない。大きな期待はないけど、僕は少し楽しみに感じてもいた。
 朝、目が覚めて、気がついたことがある。
 僕は、か弱くも新しい足に支えられていた。
 僕は憧れている時も、憎んでいる時も、兄に頼りきっていた。僕には、彼にもたれかからなければ立てない足しかなかった。だけど、その足が夜のうちに溶け去っていた。
 これから僕は、どうなっていけるのだろうか。
 まだ未来は見つけられずにいるけれど、僕の中の小さな火は新しい足に運ばれて、これまで影もなかった場所を照らし上げようと静かに静かに揺らめいている。
 不安が胸をつき、期待が湧き出していた。
 挫折に出会えば、これまで以上に傷つくだろう。兄への憎しみに守られた心は、脆い肌を剥き出しにしているのだから。
 開放感が、切迫していた。希望と恐怖が頼りない天秤の上で揺れている。
 僕は肺の中から空気を全て吐き出し、大きく大きく息を吸い込んだ。
 床の下から、規則的な機械音が体に触れてくる。階段の扉が開く音がして、彼女が僕を呼ぶ声が聞こえた。

 天は高く、空は灰色。

 切り立つ崖と広大な海に挟まれた僕の町は、今日も重苦しい空気に満ちている。

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