セラニー・ヒルのアイス売り

 できることならば、太陽を殴り飛ばしたい。
 この暑さはなんだ。じりじりと陽が鳴っている。突き抜ける青空に浮かぶ雲らも暑いのか、太陽を隠すのを嫌っている。そのせいで無防備な地表には、手加減を知らない暴君の熱が我が物顔でのさばっている。
「う〜。あっちい……」
 炎天下で重いペダルを踏み続けるのは、さながら拷問だとトウコは思った。
 汗が休みなく落ちていく。十六にしては幼さが残る顔にサンバイザーが作る影程度では涼を得られず、その中で眼は力をなくして、ただ眉間に刻む皺だけが色濃くなっていた。
「あっちぃ」
 何度も同じ言葉を口にして心に溜まる熱を追い出しながら、トウコは進んでいた。暑さで人も少ない大通り、熱をはね返す黄土色の石畳の道で、商売道具を乗せた小さなリヤカーを引く三輪自転車をひたすら漕ぎ続けていた。
 控えめないななきが後ろから聞こえて、少し中央に寄っていた自転車を歩道側に寄せると、機械馬に引かれた馬車が脇をすり抜けて行った。車内では氷色のカラクリ蛍が宙を舞い、それが振りまく冷気は町並みを眺めながら談笑する老夫婦をいかにも涼ませている。
 すれ違い様にそれを目にしたトウコは、大きなため息をついた。
「あぢい……」
 彼女には、この通りの美しい風景を見る余裕はなかった。
 蒼い瓦で作られた屋根、壁を彩る薄いオレンジの焼煉瓦が美しく、蔵造りに似たデザインのアパートがセラニー・ヒルへと続く道を包みこむセラナス・タウン一美しい道で、汗だくになりながら、ただただ走り続けていた。
「やあ、トウコ。まったく暑いねぇ」
 前方から声をかけられて、トウコは伏し目がちだった眼を上げた。食品店を示す白い看板が日を照り返して眩しかった。その下に頭を見事に剃り上げた白衣の男がいた。彼は飴色のアヒル肉やソーセージを吊るす店の前で水を撒いていた。
「こんにちはホロおじさん。ホントに暑いね」
「おてんとうさんもきばりすぎだぁな。もしかしたらトウコのアイスが売れるように手伝ってんじゃないのかい?」
 言って、ホロは見事なビール腹を揺すった。彼の前に来たところで、トウコはブレーキをかけた。ハンドルを握る手に、ずしりとした重みがかかった。
「いやあ、それにしたってこれまで焼かれそうで堪らないよ」
 トウコはリヤカーに乗せた白く大きなアイスボックスを叩いた。汗まみれの顔に冗談めかした笑顔を作って見せると、ホロはつられて大きな口を引き上げた。
「それじゃあ、ありがた迷惑だなぁ」
「あんまり暑いとジュースとかに流れちゃうしね」
「なぁに、それでもトウコのアイスなら大丈夫さ」
 ウィンクをしてくる陽気なホロに、トウコもウィンクを返した。
「じゃあ、またね」
 再び自転車を漕ぎ出したトウコに、ホロはうなずきながら言ってきた。
「公園に着く前にへばらないようにな!」
「頑張るよー!」
 手を振って元気に応えたものの、トウコのそれは明らかに空元気だった。
 ホロの肉屋から少し走れば、セラナス・タウンの南にのっそりと盛り上がるセラニー・ヒルの頂へと、すぐに通りは傾き始める。
 すでに足にペダルから伝わる重さは増してきていた。うんざりしながら見上げれば、小高い丘へ続く長い坂道がまるでこちらに圧し掛かろうと逆巻いて、逆に丘の頂の下にある展望公園は遥か彼方へ逃げていくようだ。
「ああ、暑い……」
 目を伏せ眉間に皺を寄せうめきながら、トウコは気合を入れるようにサドルから小振りな尻を持ち上げた。彼女がペダルを踏み込むたびに、白いプリーツミニスカートが左右に振れる。その姿は、セラニー・ヒルへの道を飾る休日の風物詩だった。

 展望公園に辿り着いたトウコは、動けずにいた。町を見下ろす広場前の植え込み脇、いつもの定位置に着くと同時に、彼女はハンドルに突っ伏していた。
 疲労困憊で息も切れ、背にかかる唐茶色の髪が、汗に濡れた白いポロシャツの上で藻のようになっているのを気にすることもできない。深みを帯びた鳶色の瞳はもはや死んだ魚の目だ。それは少なくともこれから商売をする者の姿ではなく、実際、ここ最近で一番の暑さにトウコは挫けそうだった。
「あー。帰ろっかなー」
 つぶやいたトウコの肩に、横からからかうような声がかかった。
「おいおい、元気以外に売りがない奴がなにへばってんだよ」
 声の主へと顔を向けると、木陰で涼んでいる飄々とした風貌の青年がいた。
「あんたこそ、なにサボってんのよ」
 目線で、展望広場の柵の近くにある画架イーゼルに乗せられたカンバスを差す。
「そんなんだから、いつまでたっても完成しないんだ」
「おっと手厳しい」
「それに……」
 と、トウコはこちらの言葉に丸きり応えていない青年を見る。彼はここでは有名な存在だった。いつまでも完成しない油絵を描き続ける、シュド。彼はどんな天候でもいつも長ズボンに長袖のシャツを着込んでいて、どういうわけか汗だくになると分かっていてもけして薄着にしようとはしない。今日のこの暑さの中でも、やはりその出で立ちは変わらなかった。
 トウコは棘のある声で言ってやった。「相変わらず暑苦しい格好だわね」
「日焼け対策さ。トウコも気をつけろよ、シミを作らないように」
 その切り返しに、トウコは小さくうめいた。それは気にしていることだった。一応、日焼け止めは塗ってきてはいるものの、長く陽の下にいれば彼女の安物の効果はたかが知れている。
 ポロシャツの袖をめくれば、彼女の腕にはくっきりとしたTシャツ焼けの跡がある。サンバイザーに隠れた額は他の部分と差が出ないように気をつけているが、それでも前髪の下には顔よりも薄い日焼けが隠れていた。
 痛いところを突かれたトウコはそれを悟られないように振舞っていた。だが、言葉よりもよく動く表情は正直で、サンバイザーの陰に隠したつもりの目が泳ぐ様はシュドにしっかりと見られていた。
「だ、だいたいね。何であんたがシミを気にするの? 男子もそういうの気にするんだ?」
 ようやく息も整ってきた。トウコは自転車のボトルホルダーから水筒を手に取り、水を体に放り込んだ。
「俺は別に、気にしちゃいないよ」
「言ってることが違うじゃない」
「肌が弱いのさ」
「ふ〜ん」
 自転車に鍵をかけリヤカーのタイヤを動かないよう固定しながら、相槌を打つトウコはシュドの答えが嘘だと分かっていた。
 シュドは、ほとんど自分のことを語ろうとはしない。ほぼ毎週休日にはここで絵を描いているが、ふと何週間も姿を現さないこともある。ヨウコも知り合ってから二年が経つが、どうやって生活しているのか、そもそも家族がいるのかも知らなかった。
 だが、あえてそれを聞きだすこともないと思う。何か事情があるのかもしれないし、もしそうならば、聞いて後悔してしまうより、聞かずに謎のままにしておいた方がずっといい。ただ、いつか必ず聞いてやろうと思うことが一つだけあったが。
「よっと」
 トウコは掛け声とともに、リヤカーから藍色の大きな番傘を持ち上げた。傘の半径は三尺近い。竹製の柄は動径の竹棒をつなげて伸ばせる造りで、七尺もあった。
 蛇の目と『みるくあいす』の字が書かれた自分よりも大きな傘を、トウコは器用に開いて担ぎ上げ、柄をリヤカーの前面に溶接した金輪に通した。すると大きな影が彼女の周りに生まれた。少し、涼しくなった気がした。
 汗が滲むうなじに、背に、髪がひたひたと貼りつくのが気持ち悪くてアップにまとめていると、シュドがまた声をかけてきた。
「今日の出来はどうなんだー?」
「何を失礼な。あたしのアイスはいつでも最高だよ」
「ああ、そうだったな。ぜひ味見したいなぁ」
「その前にツケ払え。ていうか、普通アイス売りにツケなんかする?」
「ちゃんと給料入ったら払うからさぁ」
「ええい、飲み屋でくだ巻くオヤジじゃあるまいに。アイス代くらいすぐ出せってのよ、この甲斐性無し」
 そのシュドとのやり取りは、店を開く前の儀式のようにもなっていた。のんびりしている青年と言いあいながら、てきぱきと準備を進める少女の痴話喧嘩にも似た妙な様子は、時に足を止める者もいるほど人目を引いている。それは少し恥ずかしいことではあったが、開店前の宣伝になるのがトウコにとってはありがたい。
 最後に彼女は、リヤカーのアイスボックス脇にある引き棚から風鈴を取り出して、自転車のハンドルに結びつけた。そして、人が行き交う公園に向き直る。もう何人かの、おそらくは観光客が興味深そうにこちらに目を向けていた。
 トウコは瞳を輝かせ、大きく息を吸うと口に手を添えて声を張り上げた。
「さぁさ、セラニー・ヒル名物の! 美味しい美味しいトウコの手作りアイスが! 今日も元気に大売り出しだよお!」

 セラナス・タウンは観光地として有名だった。
 もともと戦乱のない太平の世になってから生まれたこの町は、十数人の若い建築家のアイデアと統制された指揮の下で建造が進められた。
 建築家達の激しい競争は、実に美しい町並みを造り上げた。町の中を歩くだけでも様々な建築様式を取り入れたアパートや通りの美しさが目を楽しませてくれる。しかし、何と言ってもセラナス・タウンの真価は、町を空から見た時にあるだろう。
 町は空から見ると、花瓶に挿された美しい白薔薇を地上に描いているのだ。
 建築家達は区画ごとに屋根の色を指定し、さも町そのものをカンバスに見立て、見事なモザイク画を描き上げた。建造物の高低や道の幅も細部まで計算され、巨大な絵は角度によっては立体的にもなり、さながら、地上に描かれた油絵にも見えた。
 それを最も綺麗に見ることができるのが、町の南にある丘、セラニー・ヒルだった。
 ここには様々な人が来る。観光客はもとより、町の人々にも愛される展望公園にはいつでも人が賑わい、当然それを目当てにした商売人や大道芸人が集まる。
 トウコも、そんな商売人の一人だった。
 彼女はごく平凡な家に生まれ、いつかセラニー・ヒルに続く蒼い屋根の通りにアイス屋を開くことを夢見て育ってきた。
 その夢のために手作りアイスの売り子を始めたのが、四年前のことだ。小学を卒業したと同時に思い立ち、高学に進んだ今も、休みの日になると展望公園に祖母から学んだミルクアイスを売りに来ている。
 開店資金を貯めるために全て自力で行動して金銭を節約し、小さな体で商売道具を乗せた重いリヤカーを三輪自転車で引きながら、汗だくになってセラニー・ヒルの長い坂道を登る少女のことはたちまち評判になった。
 さっぱりとしたミルクアイスと、トッピングに用意した色々なジャムが美味しい。商売用のカラクリ人形を使うこともなく、全て手売りというのも好評を呼んだ。
 全国に店を持つ『クアンファン』のスウィーツワゴンも、いつしかトウコの番傘が見えないところに停まるようになった。たまに企業の人間が彼女を偵察にもくる。稀に嫌がらせや面倒事もあったが、その時は町の人やシュドが守ってくれた。
 トウコの口上に嘘偽りはない。彼女のアイス売りは今やセラニー・ヒルの展望公園の名物で、観光ガイドブックにも紹介されるほどのものになっていた。

 昼も過ぎ、時も八つに差し掛かった頃、リヤカーの側面にかけられたメニュー表に『完売御礼』の赤札が貼られた。
「ありがとうございましたー!」
 最後の客に深々と頭を下げ、トウコは大きく息を吐いてサドルに腰を下ろした。サンバイザーを自転車のかごに放り込んで、水筒に残っていた水を一気に飲み干す。
 今日は本当に暑いから人出を心配していたのだが、相変わらず展望公園は観光客が行きかって、休日に連れ出された親と子ども達がたくさんいた。
「もう売り切れたんだ」
 達成感に身を包ませて、噴き出す汗をタオルで拭いていると、メニュー表の赤札に気づいたシュドがやってきた。
「今日も完売よ。どんなもん?」
 笑顔でピースをするトウコをよそに、シュドはアイスボックスを覗いた。
「あれ? 本当に空っぽだ」
「ん、そりゃね」
「……俺のは?」
「本気で言ってる?」
「今日は暑いからなー。そりゃアイスでも食ってないとやってられないよなー」
 シュドはトウコの眼差しをごまかす素振りで、どこかに歩いていく。口を尖らせその姿を眺めていると、ふとトウコは視線を感じてそちらに振り向いた。
 視線の下には、臙脂色えんじいろの山高帽を被った女童人形がいた。『クアンファン』の営業用のカラクリ人形だ。トウコが得意気に拳を握って見せると、女童人形は驚いたように慌てて逃げ帰っていった。その様子は感情のないカラクリ人形のくせに悔しそうに見えて、思わずトウコは微笑んでいた。
 番傘の影で休んでいると、先ほどまで無風だったあたりに風が吹き始めた。ハンドルの下で尾を垂れていた風鈴が、待っていましたとばかりに歌い出す。
 涼しい風だった。熱気と労働に火照った体に、それはとても気持ちよかった。
「おーい、トウコ」
 呼ばれて声に振り返ると、いつの間にかシュドが後ろにいた。彼はスカイブルーに透き通る瓶を二本手にしている。そのうち一本を、こちらに差し出してきた。
「ごほうび」
「……商売敵に払う金があるんなら、本当にツケ払ってよね」
 トウコはシュドから『クアンファン』のラムネを受け取った。
「でも、ありがと」
 シュドは手を振りながら、カンバスへと戻っていく。日がな一日公園で絵筆を持っている割に、その背姿はたくましかった。
 ラムネの口を塞ぐビー玉を蓋のでっぱりで押し込むと、封じ込められていた炭酸が音を立てて煙を吐いた。
「うわわわ」
 解放されたことを喜ぶように、白い泡が瓶の口から噴き出していく。慌てて服が濡れないよう瓶を体から離し、口を近づけて溢れ出すラムネをすすり取る。甘く刺激のある冷たさが、疲れた体に染み渡った。
 そうしていると、シュドの焦り声が聞こえた。見ると彼も同じように噴き出したラムネと苦闘していた。
 思わず吹き出すと、シュドが振り向いた。彼は仏頂面で、それがおかしくて、トウコは笑った。彼もつられて笑っていた。
 空には入道雲が悠然と浮かんでいた。山のように恐ろしく大きな雲の塊が、みね尾根を驚くほど柔らかく膨れ上がらせている。陽を受けて輝くその白さに、空の青みが際立っていた。
 風鈴がまた鳴った。柔らかい風が流れて、展望公園でさわめく人達も幾分楽になったようだった。犬を連れて前を通り過ぎていく婦人も、汗を拭きながら子どもの相手をする父親も、これまでの人々の顔にはなかった余裕がある。
 セミの鳴き声と、飲み物を売り歩くカラクリ人形の囃子が耳をくすぐった。
 眺める先で、ピエロが披露する芸の素晴らしい展開に歓声が上がった。
 シュドがいる展望広場のふちの向こうでは、セラナス・タウンの白薔薇が今日も美しく輝いている。町の左上隅にある飛行船港に降りていく一機の貨物船が、その黄色の船体もあいまって、まるで薔薇の芳香に誘われた蜂のようだ。
「うん……、いい気持ち」
 まだまだジッとしているだけで汗ばむが、風の加減でずいぶん過ごしやすい。
 今日は用事もないし、もう少しこのままでいるかとあくびをする。シュドがくれたラムネを飲むと、瓶の中でビー玉が転がって軽やかな音を立てた。

 展望公園の様子が一変したのは、町からシャランシャランと鐘の音が聞こえてきた時だった。
 自転車に座ったまま、少しまどろみかけていたトウコもはっとして空を見た。
 いつの間にか空を覆っていた入道雲が、にわかに、だが急速に暗くなっていっていた。まだ明るい白雲も見える。だが雨を告げる鐘の音は鳴り続け、展望公園では、傘を持つ者は傘を取り出し、持たない者はどこか屋根かひさしのあるところに避難している。
 商売道具にシートをかけながらシュドを見ると、彼も慌ててカンバスを厚手の布で包んでいた。急いで画材をケースにしまいこみ、それを手にカンバスを脇に抱える。
 ポツリと乾いた地面に滴が染みた。
 ポツポツと、青空から冷たい水が落ちてきていた。
 画架イーゼルと椅子は諦めて、シュドがトウコの番傘に走ってくる。そんな彼に彼女は微笑んだ。
「入れてくれ」
「ツケ払え」
「殺生な!」
 愕然とした顔でシュドが立ち止まる。その体を、激しくなり始めた大粒の雨が叩いた。
「嘘だよ。どうぞ遠慮なく」
 意地悪に笑うとシュドは表情を至極ひきつらせたが、さらに雷まで鳴り始めたので急いで傘の下に潜り込んだ。
 その一寸後だった。堰が切れたかのように、雨が爆音を上げて地面に降り注いだ。取り残された画架イーゼルと椅子はたちまち濡れそぼち、逃げ遅れた人の悲鳴がどこからか聞こえてきた。
「凄いな」
 番傘の厚い油紙に爆ぜて、大きな雨粒が激しい音を立てている。シュドはカンバスと画材を入れたケースをリヤカーの空きに置いて、めくったシートを元に戻すと髪を濡らした雨を手で拭った。
 白いシャツがところどころ雨に透けて、鍛えられた青年の体躯を見せていた。最も濡れた肩に見える筋肉は、それが生半可に培われたものではないことを容易に思わせる。だが特に目を引くのは、彼の左腕だった。袖に透けた彼の左腕は不自然に色が黒ずみ、どこか金属の質を感じさせた。
 興味は引かれたが、トウコはそれを見なかったことにし、彼のつぶやきに応えた。
「うん。凄いね」
 二人は自然と空を見上げていた。
 さっきまで眩しかった世界が今は薄闇の中にあった。
 バラバラと傘が鳴いている。その骨を伝い流れ落ちる滴は、もう滝のようだ。たちまち視界は雨に煙り、地に弾ける雨粒が巻き上げる土の匂いがあたりに立ち込めた。逃げ損なったのか遊んでいるのか、子どもが悲鳴のような声を上げて騒いでいるが、それは雨の幕の中で薄れてずいぶんと遠くから聞こえた。
 円の形に雨のない空間を切り出した傘の下が、そこだけ世界から切り離された場所のように感じられて不思議な気分だった。
「あ、そうだ」
 ふと思い出し、トウコはシートの下を指差した。
「棚に新しいタオルがあるから使いなよ」
「お、ありがとう」
 突然、大気を割る轟音が響き渡った。あまりの音量にトウコは思わず身をすくめたが、目の端に映った大きな稲光を追ってすぐにそちらへと顔を向けた。
「精錬炉だね」
 一瞬の光の柱は、町のどこかを天とつなげていた。この近辺で落雷がある場所は、それを誘導する源気精錬炉げんきせいれんろだと決まっている。
「そうだな。稼ぎ時だろうし」
 雨に霞む町の北東の外れにある白銀色の建物を、目を凝らして見ているトウコの隣で、タオルで頭を拭くシュドがうなずいた。
 厚い雲を貫き、また雷が落ちた。雨色のスクリーンに木の根のような稲妻が閃いた。あちこちから悲鳴と歓声が聞こえた。
 トウコとシュドも、雷光の美しさと迫力に感嘆をもらしていた。
 雷という臨時収入を得た源気精錬炉げんきせいれんろは、今頃大忙しだろう。
 そこでは電気や火気、生気といったエネルギーの結晶の珠が作り出だされ、世の中はそれによって支えられている。電気珠がなければ家電は動かず、火気珠がなくてはコンロに火はつかない。人を助ける機械家畜やカラクリ人形は、生気珠がなければ存在もしなかっただろう。
「これでしばらくは、電気珠が安くなるな」
「嬉しそうだね」
「そりゃあ、生活必需品は安いに越したことがないよ」
 トウコはもっともだとうなずいた。
 そして、そういえば、と思い出す。
 シュドを初めて見た時も、雨が降っていた。アイスを作るために、足りなくなった冷気珠を精錬所の出張所に買いに行った時、雨の中を傘も差さずに真剣な顔で歩く彼とすれ違った。
 その様子がとても印象に残っていたから、それからしばらくしてここで油絵を描き出した青年が、すれ違った男と同じ人物だとすぐに分かった。
 それにしても、その時の表情と、それから見てきた彼の顔はかなり違ったものだ。またあの真剣さを、彼の顔に見ることはあるのだろうか。
「……ところでさ」
 雨はまだ激しい。時折、雷鳴が雲間を明るく照らしている。天から落ちてきては無遠慮に騒ぎ立てる雨音の中、妙に神妙なトウコの声にシュドは戸惑った。
「シュドの絵、一体いつになったら描き終わるの?」
 いつか聞いてやろうと思っていたことを、トウコは口にした。夕立はしばらくやまないだろう。いつもこの話題になりそうになると逃げ出すシュドを捕まえておくには、ちょうどいい機会だ。
 シュドの頬は強張っていた。そんなに言いたくないことなのだろうか。トウコが見る限り、彼の油絵は完成している。だがここに来る度に彼は絵を描き直して、いつまでも筆を置こうとしない。初めは下手くそだったが、そのうちにずいぶん上手くもなっていた。
「けっこう、楽しみにしてるんだけどな」
 自転車に座り、揃えた膝に頬杖をつくトウコの顔を一瞥して、シュドは観念したように頭を掻いた。
「町は生きているからな。少しずつ様子も変わるし、描き直す場所はすぐに出てくる」
「それを追っかけてるの? それじゃあ、いつまでたっても完成なんかしないよ」
「まぁ、一応、いつ終わるかは決まってるんだ」
「……本当に?」
「本当に。それまでは完成しないな」
「それまでって、いつさ?」
 トウコが聞くと、シュドは少し間を置いた。
「トウコは」
 と言って、カンバスを取り出して、それを包む布も取る。彼は見事なセラナス・タウンの風景画の、下方にある道を示した。そこは、セラニー・ヒルに続く蒼い屋根の通りだった。
「ここに店を出すんだろう?」
「うん」
「それを描いたら終わり」
 意外な答えにトウコは目を丸くした。シュドの答えは、考えもしていないものだった。
「え? 何それ」
「俺はトウコのアイスが気に入っているんだ。だから、この絵にトウコのアイス屋が加わったら、終わり」
 カンバスを置くシュドの顔は、どこかいたずらをする少年のようだった。謎が多く、いつも本心を語っているのか分からない人間だったが、その顔は彼の心根を見せているようにも思えた。
「……えへへへ」
 トウコは笑った。シュドの答えの真偽を確かめる術はないが、そう言われて悪い気はしない。だけど、照れ臭かった。
「それじゃあ、まだまだ当分はかかるね」
 彼女は立ち上がると、シートを半ばまでめくり、引き棚からカップを一つ取り出した。アイスボックスの蓋を開け、その側面や隅に残ったミルクアイスをデッシャーで削り取ってカップに移す。最後にラズベリーのジャムをかけると、木屑のように積み重なったアイスクリームの白い肌に、甘酸っぱい赤紫がとろりと流れた。
「ほい、ラムネのお返し」
「え、いいのか?」
「これは売り物にはならないしね」
 シュドはトウコからカップを受け取ると、スプーン代わりに添えられた、長方形に作られたワッフルコーンでジャムのかかったアイスを掬い取った。
「うん。美味しい」
「当然だよ」
 トウコは胸を張った。あまりに得意気なその様子に、シュドは降参したように笑った。
 やがて雷鳴が遠くに消えていくと、それを追うように雨足が弱くなっていった。見上げれば、厚く重なっていた雨雲が嘘のように消えて、再び暑く眩しい青空が姿を見せ始めている。
「トウコ」
 シュドの呼び声と、歓声が聞こえたのはほぼ同時だった。
「わ」
 トウコの瞳が鮮やかな光に輝いた。
 セラニー・ヒルから見える、セラナス・タウンの最も美しい姿。
 水滴落とす夕立の名残が曲を奏で、光は水に撥ねてより透き通っている。雲間からは青空が覗き、太陽の光の帯が幾本も地上に射し込んでいる。
 町が描く美しい白薔薇は、露に濡れた大輪の花を咲かせていた。空にはそれを祝福するかのような大きな虹がきらめいていた。
「きれい……」
 トウコはつぶやくと、拳を握り、堪えきれないように身を振るわせた。この美しい光景に心から湧き出てくるものを胸いっぱいに溜め込んでいく。
「よぉし、まだまだ頑張ってこう」
 セラニー・ヒル名物のアイス売り、元気娘のその言葉を合図にしたかのように、展望公園がまた活気を取り戻していく。大空に架かった七色の橋もトウコの声を聞いたのか、いっそう光を浴びて美しく輝いていた。

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