45年8日10時間5分9秒

 透明な白色の中に黄が、やがて赤色が差し始めた陽光が射し込む車内は、人も少なくとても静かで、線路の上を金属の車輪が転がる音が、床底から伝わるモーターの振音がやけに大きく聞こえている。
 レールの接合部に差し掛かるとタタッタタンと鼓動のように刻まれるリズムは、小春日和の羽根蒲団はねぶとんのような温もりの中に、深く染みこみ瞼の力を緩めてくる。
 一定の間隔で、車内に現れては去り現れては去っていく電柱の影法師、その繰り返しはまるで、睡魔を手助けようとする催眠術師のタクトのようだ。
 宮永ミチルと鴨井天子かもいてんこは、車両の端の三人掛けの席に座り、冬物の服を詰め込んだ紙袋を足元に何を話すこともなく、うつらうつらとスライドしていく町並みを眺めていた。
 ふいに天子ががくりと頭を垂れて、はっと我に返ったように顔を振り上げて、隣で浅く目を伏せるミチルに何が起こったのかとばかりに眼差しを向けた。
「眠ってていいよ。起こすから」
 ミチルが言うと、天子はぼんやりと眼を泳がせてから、おもむろに口を開いた。
「今日ね、変な夢を見たの」
「へぇ」
 眠気に首筋を撫でられながらミチルが返した生返事に、天子はぼんやりとした声で話を続けた。
「あのね……」

 鴨井天子は時々とぼけた話をする。
 見上げた空に浮かんでいた雲の形、その日見た不思議な夢、母親を困らせていた落ち着きない子どもの様子。
 変な雲がまた変な形に変わる。
 夢の中で鮫に食べられたと思ったら半魚人に生まれ変わった。
 母親を困らせていた子どもはこんな感じだった。
 普段はそんな話をすることはないから、それは普段の会話の中では特に浮いていて、そのくせなんともない話ばかりだというのに、彼女が話すとなぜだか印象に残る。話術が巧みだとか、発想が面白いとか、そういうわけでもないのだが、不思議と心に張り付いてくる。
 彼女が雲の話をした日の帰り道、随分と空を見上げたことを覚えている。
 夢の話を聞いた日の夜、どんな夢を見るだろうと心が躍ったことを覚えている。
 母子の話を聞いた翌日、幼稚園の送迎バスを待つ母子の姿が無性に愛しかった。
 天子がぼんやりと話し始めたのは、久しぶりの妙な話だった。
 眠気混じりのミチルに合わせるように、ゆっくりと、のん気な調子で語ってきた。

 彼女はスクランブル交差点で、死神と並んで信号待ちをしていた。
 道路には人力車が何台も行きかっていた。
 信号が変わって今度は馬車が道路を走り始めた。
 次に信号が変わった時にはスペースシャトルが走り出して宇宙に飛んでいった。
 そうしたらまた信号が変わって宇宙からUFOが降りてきて、ハッチから顔を出した電気クラゲが「やあ」と手を振った。
 信号は何百もあって、人間の歩行者が横断歩道を渡れるのはまだずっと先だった。
 道路を走る様々な物を見ているのは楽しかったけど、半日もそこにいるとさすがに飽きてきた。退屈であくびを一つ、また少し待ってあくびを一つしていると、隣に立っていた死神がもらいあくびをした。
 もらいあくびをした死神は、照れ臭そうに笑った後、ふと思い出したようにつぶやいた。
「ああ、そうそう。君ね、あと45年8日10時間5分9秒で死ぬから」
 信号が変わって横断歩道を死神が渡ってよくなったから、その死神は彼女に見送られてふわふわ交差点を斜めに渡っていった。

 そこで目が覚めたと、彼女は話を畳んだ。
 話しているうちに睡魔が消え去ったらしく、瞳を輝かせ揚々として言った。
「わたし天国にいけるみたい」
「ん?」
 予想になかった天子の発言に、少し覚めはじめていた眠気を完全に飛ばされて、ミチルは片眉を跳ね上げて、にこにこしている天子に眼を向けた。
「その話からなぜそう思う?」と訊ねると、彼女はとても貴重なものを発見したような顔つきをした。
「だって数字を並べたら『死後は天国』じゃない?」
「あー。なるほどそこかー」
 ミチルは腕を組んで口を真一文字に結んだ。同意を得られると思っていたらしい天子は、戸惑いに眉を垂れている。
「論点、そこじゃないんじゃない?」
「え? 何で?」
「いやさ、ほれ。普通は残り『45年8日10時間5分9秒』しか生きられないってところが気にならないかな」
「あー。なるほどそっかー」
 今度は天子が腕を組んだ。
 床下のモーターの音が引き絞られて低音に鳴った。タタッタタンタタッタタンと軽いリズムを刻んでいた車輪がダダッダダッと力強く音を立てる。ブレーキの力に車内にいる皆が一様に進行方向へと体を傾けられて、それを好都合に天子がミチルの肩に頭を乗せてくる。車窓に滑り込んできたのは、人もまばらな駅のホームだった。
 電車が停まり、扉が開くと、その前で待ち構えていた数人がホームへ降りた。交代するように、ホームから同じくらいの人数が車内へ乗り込んできた。
 ホームに流れる軽やかなチャイムの尾にエアー音が混ざって扉が閉まり、また電車はガタ。ゴトンと走り出した。
「お姉ちゃんは気になる?」
 肩にこぼれたのは疑念も何もなく、ただ聞いてみただけ、というような声だった。
「そりゃ気になるよ」
 45年8日10時間5分9秒。随分と気の早い死の宣告だと思う。残りが数年数ヶ月と言われれば悲嘆し泣き崩れてしまうと思うが、半世紀近い時間を与えられれば切迫した思いが去来することもない。だが、だからと言って
「いつ死ぬって言われて、気にならない人はいないと思うよ」
 天子はミチルの肩から頭を上げた。彼女の細い髪が首筋を撫でて、ミチルはくすぐったさに身震いをした。
「でも、わたし、45年もいつ死ぬって言われたこと覚えてるかなぁ」
 天子は首を傾げた。言われてミチルは、確かにこの子は忘れているかもしれないと思った。
 鴨井天子は未来にこだわらない。刹那主義というわけではない。ただ、ひたすら脳天気に、未来は明るいと信じている。だから予言の類は、それが良いものでも悪いものでも彼女には関係がない。未来は明るいのだから、良いだの悪いだの、そんなことは小さなことなのだ。
 それは昔から変わらないことだった。同じアパートに住む2歳年上のミチルの後に、まるで刷り込みを受けた雛鳥のようにおぼつかない足取りでつきまとっていた頃から高校生となった今まで、体も心も大きくなったのにそこは変わることがない。
 ミチルは天子のそういうところは大好きで、そして羨ましかった。
「45年もあったら、色々できそうだしなー」
 先のミチルと同じように口を一文字に結んで、天子はうなった。
「まぁ、色々できるだろうけどね」
 どうやら45年で何ができるかを考え始めたらしい天子に、苦笑混じりで言ったミチルは、言って自分なら何ができるだろうと疑問にかられた。
(45年8日10時間5分9秒後、その時は何をしているんだろうな)
 自分の年齢と照らしてみれば、死は齢64の時に訪れる。
(64歳……私はおばあちゃんで、多分孫とか可愛がっていて……)
 孫へ対する祖父母の感情というものは、子に対するものとは格段に違うと聞く。子が憎くとも孫は可愛いという言葉を聞いたこともある。その真偽は分からないが、確かに自分を見る祖父の目は、娘である母に対するものとは明らかに違う。自分に対するものは格段に甘い。
(あ、64歳ってことは、おじいちゃんの年齢より先に死んじゃうのか)
 昨年喜寿を迎えた祖父の顔が、思い浮かんだ。
 喜寿の祝いの席に、ミチルは父母の半ば命令に従って出席した。この高齢化社会で77歳というのはそう珍しくもないだろうと思っていたが、そこに届かず死ぬとなると、祝われていた祖父の笑顔が急に羨ましくもなる。
 祖父は祝いに来た孫に、皺だらけの頬にさらに深い皺を刻んで「わしはミチルの子どもを見るまでは死なんからな」と言った。
 浮かれた祖父の気の早い言葉だと思っていたが、祖父の年齢より早く死ぬとなれば、自分が自分の孫にそう言うことは難しいだろう。
(……45年8日10時間5分9秒)
 ミチルは今、浪人生だ。今はただ大学に受かるため予備校に通い、毎日参考書と向き合う生活を続けている。大学へ通うのは来年以降、順調にいけば19歳になってからだ。それから4年間大学に通い、卒業して就職するのが23歳。結婚して子どもを産むのは30歳くらいでいいと思っている。それまでは仕事をして、しっかり遊んで……。
(30歳で、残り33年ともう少しか)
 その内、子育てから解放されるのは最速でも18年かかろう。自分と同じように大学に通うと子どもが言えば、22年以上。全て順調にいったとして、その時は52歳。
(52歳?)
 父と同じ年齢だ。
 そうだ、子どもが一人であればそこで計算が合うが、兄弟があればまた数字も変わる。友達の兄のように大学卒業後も進学するとなれば、またまた数字も変わる。もしパラサイトシングルやニートを抱えるとなれば、どこまで縛られるか判りもしない。
 例えば60歳で子ども達が独り立ちしたと考えてみても、余生は4年余り。その頃も現在の定年制と同じ60歳定年であれば、その時に収入はない。
(年金を受け取れることになっているのは、とりあえず65歳……あ)
 大学生は免除されるらしいから、卒業してから37年間収め続けても一円たりとて受け取ることなく死ぬ。
(うわ、何か損じゃない)
 いや、そんな損はまだいいのかもしれないと、ミチルはすぐに思いなおした。
(待て待て。その前に、45年の間にわたしは何ができる?)
 やりたいことは山ほどある。
 大学に通う間に一度留学してみたい。しっかり遊びたいし、恋もしたい。サークル活動もしたいし、学びたいこともたくさんある。社会人となってからキャリアをしっかり積めるように、地力を固めておきたい。
 社会人になってからだってやりたいことは山ほどある。自分で稼いだお金で色々なものを買いたいし、海外旅行もしたい。美味しい物だってたくさん食べたい。同期と嫌な上司の愚痴をこぼしあったり、同窓会なんかで友達と「変わったねー、今何してるの?」なんて言い合ったりもしてみたい。
 子どもは持ちたい。子育ては年中無休だし、夫もいるのだから、おいそれと『自分の時間』を作るのは難しいだろう。専業主婦ならうまく家事をこなして時間を作るつもりだが、共働きだとそれは困難を極めそうだ。夫が家事子育てを手伝うような人間ならいいが、そればかりは結婚して子どもが産まれてからでなければ判らない。ギャンブルみたいなものだと、結婚したばかりの従姉妹は言っていた。
 これから、『できること』も多くなるだろう。そのスケールも大きくなるかもしれない。だがそれに比例して、今この時に享受しながらきっと持ち余している『自由』は少なくなっていく。
 学生の頃よりもやりたいことができて、やれることもたくさんあるのに、それをするだけの時間がないとニュースの特集で嘆いている人がいた。
 きっと、自分のやりたいことを切り捨てる必要もあろう。時間はいくらあっても足りない。それなのに、確実に残り時間が減っていっているとまざまざと告げられた中で、どれだけ自分を満足させる人生を作り上げられるのだろう。
「短いなぁ」
 天子が言った。ミチルが顔を向けると、彼女はいかにも残念そうに眉を垂れていた。
「天子もそう思う?」
 ミチルの言葉に、天子は嬉しそうに目尻も垂らした。その様子をミチルは怪訝に思った。どうやら、天子が言う短いは、自分が思ったそれとは随分違うもののようだ。天子が何かを言おうとしたところに先んじて、ミチルは言った。
「待った。天子、45年で何ができるかって考えてなかったの?」
「考えてたよ。たくさん夢一杯で、楽しみ」
「45年しかないんだよ?」
「45年もあるじゃない」
「あー、そこから違うかー」
 顔を輝かせる天子に、ミチルは毒気を抜かれた。
 そうだった。天子とは思考の根底が違う。水平方向だけでなく、垂直方向まで逆だ。ミチルは残りを引き算して考えていたが、天子はきっと、足し算の上に掛け算までして『何ができるか』を考えていたはずだ。
「それじゃあ『短い』って、何のこと?」
 苦笑混じりのミチルに、天子は言った。
 床下のモーターの音が引き絞られて低音と鳴り始めていた。つり革の左右のふり幅が大きくなっていた。
「もう駅だよ。お姉ちゃんとのデート、もうおしまい」
(その短いか)と、ミチルは苦笑を深めた。
「受験生はこの時期追い込みかけて大変なんだから、買い物に付き合ってやっただけ感謝しなさい」
「うん、するする。でも短い。もっと遊びたい」
 ミチルの友達に、仲の良い妹を持つ者がいる。その友達に妹が甘える時と同じ口調で、天子は言う。ミチルは頭を掻いた。
 車輪がレールを転がる重い音に、甲高いブレーキの音が混じった。
「わがまま言わない。大学に受かったらいくらでも遊んでやるから」
 ミチルは足元の紙袋の紐に指をかけて立ち上がった。天子も倣うように立ち上がった。
 不意にブレーキが強まり、車内にいる皆が一様に進行方向へと体を傾けた。勢い堪えきれずよろめいて、慌ててつり革を掴んだミチルを天子が支えた。天子は笑っていた。
「じゃあ、終わったら温泉に行こうよ」
「年寄り臭い注文ねぇ。映画とか遊園地とかじゃないの?」
「温泉の次に映画、その次に遊園地。その次は海外、ハワイとか安いらしいよ」
「そこまで余裕ないって。天子だって来年受験じゃない」
「大丈夫。わたしはお姉ちゃんがどこに受かっても現役でついていけるもん」
「お、何か浪人生ムカつきましたよ? 今の発言」
 電車が停まり、エアー音を立てて扉が開いた。
 とっととホームへ出て行くミチルを、天子が慌てて追いかけていく。
 入れ替わりに妊婦と、それを気遣う母らしき女性が入ってきた。ミチルと天子が座っていた三人掛けの席に二人が座ると、まもなく扉が閉まり、車輪がゆっくりと回り出した。
 車窓に、ホームにある光景がスライドしていく。
 支柱、ベンチ、時刻表に看板、この電車に乗り込み損ねたらしく無念そうに顔を歪める男性、色とりどりの商品が並ぶ売店。改札への階段を、買い物帰りらしく紙袋を提げ笑いあう少女達が上がっていく。
 やがてホームは途切れた。窓の向こうでは、無機質で穏やかな町並みが、晩秋の美しい斜陽に照らされている。その中を横切り絶え間なく延びたレールの上を、タタッタタン、タタッタタンと、電車は滑るように走っていった。

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