120円の幸福

 夜の帳の黒の中、白い光がぼんやりと浮かんでいる。光の中に並ぶのは、色とりどりの商品とボタン。小さな公園の脇にある自動販売機は、寝静まった住宅街に小さなモーター音を遠慮がちに垂れ流していた。
 普段は気にも留めないが、いざ気にしてみると耳障りな音だ。四角く重い販売機自身が細かく震えているようで、ただの鉄と機械の塊が生きているように感じられて気持ちも悪い。
 ついさっきまでは、そんなことを思っていた。
 深夜、急に缶コーヒーが飲みたくなってやってきた青年は、夜の息吹に感受性が高まっていた心を奪われ、販売機の前に突っ立っていた。
 彼の目は、販売機の一点に注がれている。3段に分かれたディスプレイの下段。温かい飲料が並ぶその端に、オレンジ色に白の抜き字で『なまぬる〜い』と書かれた台座があった。それを見たときは笑ったが、その上にある、ラベルもなく銀の地に油性マジックで『幸福一発』と書かれた商品には意表をつかれた。
 彼は缶コーヒーを買いにきたことなどすっぱり忘れ、ただただその商品に心を奪われていた。
 怪しい。怪しすぎる。とりあえずこの自動販売機は世界に名だたる、赤がシンボルカラーのあの会社のものだ。こんな度肝を抜くデザインの新製品を出すこともないし、どうにかなって出たとしても、大々的なキャンペーンを張るはず。マーケットには常日頃から目を配っている。だが、こんな商品は見たことないし、聞いたこともない。
 新手のいたずらか? それともなんかヤバゲな犯罪なのか? しかし、見たところ販売機に細工された形跡はない。
 どちらにしても、生ぬるいのはまだしもなんだよ『幸福一発』って。なんとか一発のパクリか?
 いやいやそんなことよりも。
 この商品の選択ボタンに、売り切れの表示はない。値段は120円、適正だ。試しにコインを投入してみると、全てのボタンが赤く点灯して購入可能を示す。全て、購入可能だ。
「…………」
 なんとなく、彼は『幸福一発』を購入してみた。
 ガコンと、商品が取り出し口に落ちてくる。『幸福一発』のボタンに、売り切れの文字が現れた。
 売れて、いるのだろうか……。
 訝しく思いつつも、彼は缶を取り出した。そして、訝しく思う気持ちをさらに強めた。缶は、異様に軽かった。液体が入っている感触もない。というか、メーカー名どころか成分表すらなかった。
 奇妙なことはそれだけではない。この缶は、確かに形は飲料用であるというのに、上部はプルタブ式の缶詰になっている。
 そのまま開けることは躊躇われ、彼は試しに缶を振ってみた。
「痛いっ」
 声が聞こえて、彼は背後に振り向いた。
 誰かがつまずいたのかとも思ったのだが、街頭が照らす道には誰もいない。公園の中は光も薄く、植物の気配すらも薄い。近くの家は、全て明かりが消えている。どこにも人はなかった。
「……気のせいかな?」
 自動販売機のモーター音に自分の声を混ぜて、彼はちょっとした好奇心を震わせて缶を開けた。小気味のいい音がして、スチール製の蓋がめくられる。そして販売機の光が、その中身を照らし出した。
 そこには、人形が入っていた。
「……フィギュア?」
 彼はつぶやいた。
 昔流行ったガチャポンのようなものだろうか。缶の中には、照る照る坊主に体をつけたものを丸くデフォルメしたような人形が入っていた。頭でもぶつけたのか、手を頭に当てて顔をしかめている造形だ。
 確かに昨今の食玩ブームに乗って、こんなものが出ていてもおかしくはないが。それにしても……
「売れないだろう。こんなのじゃ」
「なんじゃいその言い草は!」
 怒りを上げて、人形が丸く描かれた目を彼に向けた。
「痛かったぞ! いきなり振るなんて非道いじゃないか! 貴様、名を名乗れ!」
 人形が、腕を激しく振って抗議している。彼は、それを人形以上に丸くした目で見つめていた。
 こんな光景は薬でぶっ飛びでもしなければお目にかかれないはずだ、というかそうであるべきだ。だが、しかしそれが今、目の前で現実ぶっている。まさか神経回路の配線が焦げついたのだろうか。精神の大事なところがいけない方向にずれでもしたのだろうか。
 何が起こって何がどうなっているのか解らないが、とりあえず。頭を掻きながら、彼は答えた。
「……え〜と、筒木津々です。すんません」

 頭を掻いて、困惑してはいるが混乱している様子は微塵もない筒木に、人形は不満げにぶうたれた。
「なんだよー。もっと驚けよー」
「いや、驚いてるけど」
「ぬを!?」
 筒木が普通に言葉を返してきたことに、逆に人形が面食らった。驚愕に顔を歪ませ、白目をむいてあんぐりと口を開けている。
 器用なものだ。そんなことを思いながら、筒木は尋ねた。
「あんた何者? 幻? それとも俺の脳内妖精?」
「貴様こそ何者だ!? 我輩を見てそんな冷静だなんて、面白くないではないか! さては貴様、ヘピア〜ン星人だな!」
 係わり合いにならないほうが良いらしい。筒木は缶を捨てることにした。
「あっ! ちょっと待って!」
 その気配を察知して、人形が慌てる。
「分かった! 分かったって!」
「……何が分かった?」
「我輩が何なのかお答えしますのでゴミ箱に捨てないで下さい」
 殊勝に丸い頭を垂れる人形に、筒木は頷いた。明らかに普通ではない状況だと、それを理解しながらも。
 そんな筒木の内心を知ってか知らずか。人形は、おほんと咳払いして胸を張った。
「我輩はポンテン助麻呂。愛と憎しみの伝道師であります!」
「ほう」
「以上!」
 筒木はゴミ箱に缶を放り込んだ。
「殺生なぁぁー……」
 そんな悲鳴を聞きながら、筒木は財布を取り出し、改めて缶コーヒーを買おうとコインを自動販売機に入れた。
「何をお求めですか? ダンナぁ」
「……」
 120円を入れたところで。すぐ横からの問いに、筒木は顔を背けてため息をついた。
「とりあえず。俺は薬をやってもいないし、世間が触れないようにしている人間でもないぞ。他当たってくれ」
「そんなつれないこと言わないでさー。付き合ってよツッキー」
「ツッキー?」
「筒木津々でしょ? 津々って何か呼びにくいじゃん?」
「筒木でいいだろ」
「面白くなーい。ツツキツツ、なんて上から読んでも下から読んでも同じになる面白い名前を普通に呼ぶのはつまらなーい」
 筒木は缶コーヒーをやめて、コーラを買った。
「ツッキーっては普通じゃないのか?」
 コーラを取り出し激しく振りながら、体を起こして人形を見る。あえて見ないようにしていたのだが、やはりやっぱり人形は宙に浮かんでいた。
「普通だよ。っあっ! 冷たい! やめて!」
 泡立つ炭酸飲料の鉄砲から、人形が実に人間らしく逃げ惑う。その姿と、次第に勢いをなくしていくコーラの噴水を目にしながら、筒木は何だか虚しくなった。
「何してんだろ、俺」
「できれば我輩の話を聞いていただきたい」
「できればちゃんと話してくれないかな?」
 ほんのり殺意のこもった筒木の眼光に、人形は何度も頷いた。
「改めて聞くけど、本当に何者なんだ?」
「ポンテン助麻呂でございます。ポンちゃんって呼んでね?」
「それで助麻呂」
「人の言うことを聞かないお人ですなぁ。ポ・ン・ちゃ・ん。はい、リピートアフタミー」
「缶に詰めなおして万力でゆっくり締めてやろうか」
「我輩、妖精でございます」
 マッハの勢いで土下座して、額をアスファルトに擦りつける助麻呂の発言は、衝撃的な告白だった。だが、
「ああ。妖精かー」
 筒木はすんなり納得して、残ったコーラを口にした。
「で、そのアホみたいな妖精が何の用?」
「…………」
 ぽかんと口を開けて、助麻呂は筒木を仰ぎ見た。
「どうした?」
「さっきから思ってたんですが、ホントになんでそんなに冷静なんで? 普通なら、我輩見た人間はギャーとかワーとか叫んで、取り乱したり正気を疑ったりとそれはもう愉快なんでございますが」
「だってあんた、幻覚じゃないんだろ? ということは、これは現実だ」
「ええ、まぁ」
「なら妖精だろうが何だろうが、いるならいるでいいかと」
「なんとまぁ淡白な!」
 助麻呂は未だかつて出会ったことのない、図太いのか鈍いのか神経どっか目詰まり起こしているのか、とにかく肝の据わった若者に俄然興味を持った。
「話を進めてくれないかな」
 目を輝かせて見上げてくる助麻呂に、残りのコーラを飲み干しながら筒木は言った。
「あ、はいはい。それでね、我輩は待っていたのですよ。我輩を呼び出す人間を」
「呼び出したつもりはないんだけど」
「『幸福一発』なんて怪しい商品、幸せに飢えた人しか買わないようなセッティング。それを選んだということは、つまり我輩を呼ぶに相応しい者=我輩を呼んだも同然なのだ!」
「俺、十分幸せだぞ」
「え、そうなの? 金に困ってるとかないの?」
「株でそこそこ儲けてる」
 あれ? と首を傾げて、助麻呂はちょっと迷った。だがすぐに気を取り直し、
「運良く我輩を呼び出せた人間を、素晴らしい世界に連れて行こうというわけなのだ!」
「いい加減な奴だなぁ。何だ? それじゃあ、あんたはティンカーベルみたいなもんなのか?」
「そそ、似たようなもん」
「え、マジ?」
「マジマジ」
 助麻呂は飛び上がって、筒木の顔の前で宙返りをしてみせた。そして、カワイコぶってポーズを決める。
「ほら、どことなく共通点あるっしょ?」
「微塵も無いな」
「正直なお方ですこと!」
「じゃあ、ネバーランドみたいなところに案内してくれるのか? 助麻呂は」
「ん〜、それはちょっと違う」
「違うのか。それじゃあ、一体何しにきたんだよ」
「案内じゃなくてね。我輩がするのは、一緒に逃げたり慌てふためいたり」
「何?」
 助麻呂の言葉を理解するよりも早く、筒木は気づいた。自分が、それを理解する前に感じざるを得ない状況にあることに。

 ここは、駅だった。瞬きの間に、筒木と助麻呂は人で込み合うホームに佇んでいた。
「何だ?」
 うめく筒木の肩に座って、助麻呂が囁いた。
「冒険だよ」
「冒険?」
「我輩は冒険担当。我輩を目にした人間を、めくるめく冒険の世界に連れ出すのさ」
「……それならそれでいいんだけどさ」
 筒木は、現状を気持ち悪く感じていた。すぐ隣を歩く人も、まるでこちらが足元の石であるかのように、気にすることなく通り過ぎていく。存在が知られていないというわけではないようだ。込み合い、多くの人が行きかう中、誰も自分にぶつかってこない。ちゃんと目にし、注意し、だがまるで気を向けることなく避けていく。
 疎外感を感じもするが、それよりも、強烈な寒々しさを筒木は感じていた。
「冒険って言う割には、随分現実的じゃないか」
「そうでもないぞ。何せ、これから何が起こるか我輩にも分からないんだから」
「何だって?」
 聞き捨てならない助麻呂の発言に、問い直す暇はなかった。
 筒木が立つホームに、電車が入ってきた。行きかう人々をボーリングのピンみたいに撥ね飛ばしながら、改札へと続く階段を下って電車が入ってきた。車輪の代わりにすね毛ボーボーの足っ、足が何本も生えた上に鬼瓦みたいな顔つきの電車一両がホームに入ってきた。
「……あれは、何だ?」
 ひとしきり人間を撥ねたところで、それは喫煙所に止まった。
「おや、驚いてるの? ツッキー」
 電車は、側面からにゅっと手を生やして灰皿からシケモクを拾い上げると、隣にいる客から火を借りて一服を始めた。
「驚くさ」
「あ、分かった。ツッキーって感情の振幅が極端なんだ。ガッて激しく反応した後は、もう平然としてるんでしょ」
「俺を分析するのは後にしてくれ。それよりあの『パチモントーマス』が何なのかをご教授願いたい」
「あ、だからそこらへん無理」
「は?」
 と、筒木が眉をひそめたところで、パチモントーマスがくるりとこちらに振り向いた。
「!?」
 目が合って、ぎょっとして筒木は身を引いた。
 パチモントーマスはタバコを指でもみ消しながら、じっとこちらを見つめていたかと思うと突然
 シュポーーーーー!
 鼻の穴からタバコの煙を噴出して走り出した筒木に向かって
「なにいいいい!?」
 筒木と助麻呂は絶叫した。いつの間にか電車の行き先には『筒木&助麻呂』と表示されていた、いやそれよりも物凄まじい勢いで客を撥ねながら奴はすぐそこまで迫っている!
「逃げろおおおお!」
 頭の上で騒ぐ助麻呂の悲鳴に、言われるまでもなく逃げ出しながら筒木が問う。
「だから! なんであんたまで慌てるんだよ!」
「言ったじゃん! 『これから何が起こるか我輩にも判らない』って、『我輩がするのは、一緒に逃げたり慌てふためいたり』だって我輩言ったじゃん!」
「それじゃあ何か!? これから何が起こってもお前には何もできないってことなのか!?」
「ザッツライト!」
 筒木は助麻呂を掴んだ。
「あっ、ヤメテ何をする気なの!?」
 そのまま振り返り、追ってくる電車に投げつけようとして……筒木は思ったより電車が接近していたことに顔を引きつらせた。鬼瓦顔のパチモントーマスが、本家トーマスばりの笑顔を浮かべていた。
 やばい、死ぬ。
 そう思うが同時、筒木の体はホームの下に向かって飛んでいた。生きる本能なのだろうか。筒木が思うよりも速く、彼は電車の車線上から逃れるために動いていた。
「ツッキー、水! 海!」
「はあっ!?」
 助麻呂の指摘に筒木は、なぜか飛んだ先が海であることを知った。

 ずぶ濡れの体を引きずるようにして、浜に上がった筒木は深く息を吐いて脱力した。
「よく溺れなかったのう」
 一人だけ、飛んで海に落ちることから逃れた助麻呂に、シャツを脱ぎながら筒木は凍りついた眼差しを向けた。
「い、いや。さすがだねツッキー。物事に動じない淡白加減が命を救ったね」
 筒木は助麻呂を掴み、シャツで包むと思いっきり絞った。
「ぎゃああぁぁぁ」
 吸い込んだ海水を出し切ったところでシャツを広げると、しわくちゃになった助麻呂がひらひらと浜に落ちていった。
 そこで、彼はようやっと安堵の息をついた。
「とにかく、理解はできたよ」
 コリをほぐすように首を回して、周囲を眺める。
 砂浜は地平線まで続いていた。海は果てしなく、そのどこにも島や舟の一つもない。世界は、三つに分断されていた。砂浜か、海か、空。ここにあるのはそれだけだ。
 気が遠くなる光景に、太陽だけはご機嫌だった。陽気は穏やかで、海は暖かい。これが日本であれば、海水浴客で砂浜は一杯だろう。もっとも、例え日本列島にいる人間全てが集まっても、この砂浜をうめることはできないだろうが。
「つまり何でもありなんだな? あんたが持ってきた冒険は」
 白い雲がゆっくり動く空の下、動いているのは波と自分達だけだった。他には誰もなく、そして何もいなかった。
「理解が早い人で、我輩とっても楽です」
 口をつぐみ鼻をつまんで息を吐き出して、ポンッと体を元に戻した助麻呂は、宙に浮かぶとサムアップしてみせた。
「これまでは理解させる前にゲームオーバーだったんだぜ」
「同情するよ、その人たちに」
 と、そこで筒木は疑問に思った。
「ん? ゲームオーバー?」
「あ。しまった」
「しまったじゃない。おら、目を見て話そうか? ポンテン助麻呂くん」
「いや、えーと。とっても怖い目をしないでくれよアミーゴ」
「そうよ。妖精さんには優しくしなきゃ」
 背後から聞こえたその声に、筒木は勢いよく飛びのきながら振り向いた。
 そこには、女性がいた。グラビアアイドルのようなスタイルの、白いビキニの少女。なぜか大きな時計を首からぶら下げて、優しく微笑みかけている。
「今、この時計が何かを起こすと思ったでしょー。違うのよーん」
「あれ?」
「先にお前が騙されてどうする助麻呂」
「だってー、なんかあからさまに怪しいじゃーん」
「筒木隊員、回れー右!」
 起立敬礼して言う少女に、筒木はため息をついた。
「この世界は全てにおいて唐突だな」
「回れー右っつってんだろがオラァ!」
「はいはい」
 筒木はもう一度ため息をつきながら、回れ右をして後ろに振り向いた。
「……本当に脈絡もないなぁ」
 振り向いた先にあったものは、今にも崩れそうな教会だった。

「今度は何だよ」
「筒木隊員、気を引き締めなさい」
 隣に並んでそう言ったのは、引き続きグラビアアイドルのような少女だった。ビキニから軍服に衣を替え、外見からは分不相応なガトリングガンを携えている。そういえばと気を回せば、筒木自身も軍服を着込み、肩にはアサルトライフルを担いでいた。背後には、何十人もの兵士がマネキンのように立ち並んでいる。
 だがここは、戦場というわけではなかった。遠くから弾薬が炸裂する音が聞こえてもこないし、目の前の教会も、放置された単なる廃墟らしい。
 チチチチ、と鳴きながら、青い小鳥が横切っていく。
「どういう場面なんだ、これ」
「上官に向かってなんと無礼な!」
 助麻呂に訪ねたところにいきなり平手打ちをくらって、彼は目を丸くして自分を叩いた少女を見た。いきなり叩かれたことには面食らったが、そのショックよりも先に立ったのは彼女のセリフだった。
「上官? 助麻呂が!?」
「呼び捨てとは何たることか! ポンテン助麻呂将軍閣下様殿下であろう!」
「うむ! その通りじゃ!」
 少女の言葉にふんぞり返って、助麻呂が偉ぶった。
「何だか知らないけどそういうことなら我輩エライ!」
「こーのインチキ妖精がぁ」
「貴様! それ以上暴言を吐くならば、このマッコイ少将が自ら銃殺刑にしてくれるぞ!」
「そうだ撃ってしまえ、そんな礼儀知らず」
 ガトリングガンを構える少女、いやマッコイ少将の頭の上であぐらをかいている助麻呂への報復を誓いながら、とりあえず現状に合わせることにした。この流れのままだと、本当に撃たれそうだ。
「申し訳ありませんでした!」
「うむ、分かればよろしい」
「え? そんなんで銃殺刑免除?」
 戸惑っているのは助麻呂だが、筒木はとにかく展開を求めた。
「それで、マッコイ少将。我々のミッションを今一度確認したいのですが!」
 踵を合わせて映画の見真似で敬礼をして、筒木はガトリングガンの銃口を不思議そうに覗き込んでいるマッコイ少将に尋ねた。
「何? 忘れたというのかこのミリチン野郎が!」
「いえ! これから任務にあたり、万全を期すためであります!」
「その心がけや良し!」
 マッコイ少将はガトリングガンを放り捨てると、拳を握って叫んだ。
「鼻の穴かっぽじってよーく聞け! ミッションは、漢字の書き取りテストである!」

 筒木は席に座っていた。目の前にはテスト用紙と机が一つ。ぽかんとしていた彼は、はっと我に返って自分の体を確かめた。
「……」
 服は学生服だ。手にはシャープペンシルがあり、隣の机上では助麻呂が懸命に問題と格闘している。いや、そう見せかけている。どうやら状況を把握したのは、奴の方が先らしい。さっきの『お礼』を恐れて、一生懸命テストを受けることで色々ごまかそうとしているのだろう。その証拠に、こちらの視線に気づいて顔を強張らせている。
 と、
「コぉラ、筒木。真剣にやらんかー」
 言われて、その声に聞き覚えがあった筒木は驚いた。見れば、やはりそこには高校三年の時、担任だった茂木先生がいた。
「現実の人間も出るのか。まるで夢だな」
「なぁにを言っているんだ試験中に。0点にするぞ、いい加減にしないとー」
「……すいません」
 とりあえず、返事をして。筒木はテスト用紙に目を落とした。茂木先生は化学の教師だったが、それにしたってこの問題はひどい。『やま』とか『かわ』とか、小学一年生だって満点を取れるだろう。
「ぬくくく……」
 助麻呂は、本気で悩んでいるらしいが。
(さて、ちょっとどうしたものかな)
 一応テストを解きながら、筒木は改めてこの世界のことに考えをめぐらせた。
 とりあえず、常識や現実といった尺での解釈が、通用する世界ではない。根拠や矛盾といった言葉はゴミクズに等しい。展開は無理矢理で、起承転結もない。そう、本当に眠りの中に見る『夢』のような世界だ。そう考えれば、どんな現象も納得できる。
「そういえば私たち、お互いのことまだあまり知らないね」
 テスト用紙から目を上げると、向かいには女性がいた。顔はぼんやりと白く輝き、それが誰なのかは教えてくれない。だが白いセーターにこぼれる長い髪と、ふくよかな胸、そして軽やかに澄んだ声が、目の前の人間が女性だということを知らせていた。
(だから、いきなりこんな展開をしても、何もおかしくはない)
 どうやらこの状況は、デート中、喫茶店で休憩……という設定らしかった。服は学生服から、なぜかタキシードに変わっている。テーブルの上で女装した着物姿の助麻呂が、自身よりも大きい茶碗を相手に茶道に興じているのは、ムカついた。
 筒木は、なぜか最後だけ難しかった漢字のテストに、『憂鬱』と答えながら言った。
「俺は君のことを何も知らないよ」
 それを意地悪だと思ったのか、彼女は「もう」とふくれた。
「そういえば、大学では何を学んでるの?」
「経済学だよ」
「へぇ。それじゃあ、お金に強いんだ」
「まあ、そういうことかな」
 苦笑しながら答えると、横手からウェイターがハーブティーを持ってきた。
「お下げいたします」
 そして、筒木の答案を持っていく。
 ハーブティーは、筒木のものらしかった。彼女は助麻呂のたてた茶を飲んでいた。助麻呂といえば、奴も優雅にティータイムと洒落込んでいやがる。彼は、助麻呂に拳を落とした。歯磨き粉がチューブから噴出すような悲鳴を聞きながら、筒木は物思いに戻った。
(こんな世界に連れ込んでくれたくせに、こいつは何もできない)
 することといえば、本当に自分と一緒に逃げたり慌てたりするだけだ。何の役にも立たない。そういえば、この世界からの脱出方法はあるのだろうか。まさか、一生このままなのか。いや、助麻呂が言っていたように、前にもこんな所に連れ込まれた者がいるのなら、ここは無限ではないはず。いつか終わりがあるだろう。
(……気になることも、言っていたな)
 助麻呂は、
「もう。聞いてるの?」
 機嫌の悪い声。どうやら、彼女はずっと話し続けていたらしい。顔は相変わらずぼんやりとしていて表情は見えないが、体全体で抗議を示している。
「もっと私にも興味持ってよ」
「そうだ、ひどい男だぞチミィ」
 助麻呂に、もう一度拳骨を落とす。
「と、言われても、先に整理したいことがあるんだ」
「もっと私にも興味持ってよ」
「いや、だからね」
「もっと私にも興味持ってよ」
 彼女は、一場面だけを繰り返しつなげた映像のように、言葉を繰り返していた。
「……え〜と、もしもし?」
「興味持ってよ興味持ってよ興味持ってよ持ってよ持ってよももももももも」
「助麻呂君」
「何ですかね、筒木君」
「膨らんでいませんか? この女」
「膨らんでいますなぁ」
 言葉通り、女性は膨らんでいた。まるで風船のように、皮膚や服がはちきれていく。
「逃げっ!」
 その瞬間、破裂音と共に周囲に白塵が舞い散った。

「天才じゃあああ!」
 破裂した女性の中から現れるなりそう叫んだのは、何だか婆様だった。
「これぞ神の子じゃああ!」
 その手には、先ほど解いた筒木の漢字テストがあった。どうやら婆様は、それに驚嘆して騒いでいるらしい。テストには100点と、花丸があった。
「こんな難問を解くこの者こそ、伝説に語られる勇者様じゃああ!」
「そんなバカな!」
 助麻呂が叫ぶ。
「そんなテストで勇者なんぞ決められてたまるか!」
「忌まわしくも同感だ」
 筒木が頷くが、婆様は取り合わない。
「勇者様を生贄に!」
「何ぃ!?」
 予想外の展開に叫んだのは、筒木だった。次の展開を待たずに逃げ出そうとするが、すでにふんどし姿の男衆に取り込まれていた。彼は、生贄生贄と合唱する男衆に担ぎ上げられ、なす術もなく……いや、飛んで逃げようとした助麻呂をふん捕まえた。
「貴様どこに行く」
「いやー! 勇者様離してー!」
「誰が勇者だ、さっきあんたも抗議していただろう!?」
「撤回撤回前言完全白紙撤回!」
「ふざけるな! あいたっ!」
 投げ飛ばされた筒木は、いかにも『生贄の祭壇』といった場所に叩きつけられた。無数の文字が刻まれた石畳、四角い広場。その四隅には、真っ赤な炎を灯す松明がある。さらに周りにまで目をやれば、どうやらここは、凄まじく高い塔の上であるらしい。そして広間から一歩でも外に出た眼下には、油彩画で描かれているかのような景色が広がっていた。
 地には山林が広がり、空には異常に大きい満月が浮かんでいる。先ほどまでは昼間であったのに、強制的に夜にする必要でもあったのだろうか。見れば、満月には餅をつくウサギではなく、不気味に笑う顔の模様が描かれている。それは山林の中でひときわ目立つ湖に反射して、奇妙な笑顔で天地を挟み込んでいた。
 絵本の中にでも放り込まれた気分だった。絵画の表現で構成された空間には、感覚が狂わされる。この広間が『現実』であることは、せめてもの救いだった。
「……縛りもしないで、生贄ってのはその場限りだったのか?」
 自分の体を確認しながら、筒木は立ち上がった。服は、自分のものに戻っていた。
「分からないよー。もしかしたら、これから魔物でも来るのかも」
 手の中で助麻呂が言う。筒木は、助麻呂を逃がさないように力を込めた。
「いたたた! 待遇改善を要求する!」
「やかましい!」
 助麻呂を睨んで、言う。
「大体あんたがこんな珍妙なことに巻き込んだのが原因だろう!?」
「いやいやそれは言いっこなしっすよ! これが我輩の役目なんだし!」
「はた迷惑な役目なんぞ捨てちまえ!」
「それは暴論だー! ほら、この殿方も不服を示していらっしゃる!」
 と、圧力が増していく手の中で、顔色紫にして助麻呂が『彼』を指差した。
「…………」
 二人は口を閉ざした。息を合わせたように、助麻呂自身も、自分が指差した先に振り返る。
 そこには、半透明のゴミ袋を被って斧を持つ御方がいらっしゃった。
「危ない人キターーーーー!」
 助麻呂が叫ぶ。その男が斧を振りかぶる。刃が松明の光で赤く光るのを眺めながら、筒木は、何となく思った。
(もしかしたら、頭叩き割られても死なないんじゃないか? 俺)
 これはほとんど『夢』のような世界だ。『夢』ならば、例えどうなっても自分は死なない。それなら、ここでも……
 だが、気になる助麻呂の言葉が思い出された。『これまでは理解させる前にゲームオーバーだったんだぜ』。
 無防備を決め込んでいた筒木の体から、血の気が引いた。ぬめるような光沢を炎に照らす斧は嫌に現実的で、そして今にも振り下ろされようとしていた。筒木は反射的に手をかざした。
「助麻呂ガーーーーーード!」
「ぬおおおおお!?」
 非情にも、斧は渾身の力で振り下ろされた。
 後に助麻呂は語った。『あの時ほど必死になったことはなかったね。ああ、そうさ。俺はあの時、最高に輝いていたんだ』と。
「白刃取りじゃあああい!」
 必死の形相で叫ぶ助麻呂は、見事に斧を両手で挟み取った!
 そしてそのまま斧を奪いとった瞬間、ゴミ袋を被った男の姿が掻き消えた。まるで斧を持たねば存在できないものであったかのように、いや実際そうだったのだろう、助麻呂の手にある斧も油絵のような風景に溶けるようにどろりと形を崩すと、やがて粒子となって空に混ざっていった。
 しばしの沈黙の中、ふと我に返った筒木は思わず感嘆の声を張り上げた。
「おお! 助麻呂が役に立った!」
「ウィナーーーー!」
 そして祭壇に、助麻呂の勝鬨が雄々しく響き渡った。

「筒木さんよぉ。あんなことしていいと思ってんのかい?」
 筒木は、取調室にいた。粗末な机の前、粗末なパイプ椅子に座っている。目の前にはコート姿の助麻呂。机の上には卓上ライトとカツ丼がある。
「…………展開が速すぎて疲れるなぁ。なぁ、助麻呂?」
 ため息をついて、筒木はカツ丼の蓋の上であぐらをかいて凄んでいる助麻呂に言った。
「ふざけてんじゃねぇ! いいか!? 貴様がやったことは立派に殺人未遂なんだぞ!?
怖かったんだぞ、物凄く!」
 筒木はもう一度、ため息をついた。
「真剣に聞きやがれ!」
「うるさい!」
 卓上ライトを助麻呂に向けながら、筒木の顔面が鬼と化した。助麻呂は、ひっと悲鳴を上げた。
「よーーーやく、二人っきりで話せるんだ。落ち着いていこうぜ」
「あの、筒木さん? あの、あなたこそ落ち着いて、ね?」
 並々ならぬ殺意を浴びて、助麻呂はちびった。
「そこに正座」
「はい!」
 筒木の命令に従い、助麻呂が光の速さで正座をする。筒木は腕を組み、背もたれに体重をかけた。ぎしりと、パイプ椅子が嫌な音を立てた。
「一番初めに聞こう」
「なんなりと」
「この世界から抜け出す方法は?」
「え〜と」
 助麻呂は、目をそむけた。筒木は助麻呂の頭を掴み、無理矢理こちらへと顔を向けさせた。ゴキッと盛大に骨が鳴った。
「いいな? はぐらかそうと思っても無駄だ」
「っほぉぉぉぅ……」
「それで?」
「この世界から抜け出す方法は、正直に申し上げますと、判りません」
 筒木は助麻呂を掴むと、カツ丼の中に放り込んだ。即座に蓋を閉め、押さえつける。
「熱い! 蒸し暑い! 生な卵が気持ち悪い!」
 ガタガタと暴れる丼を押さえながら、筒木は自制を極めた声で言った。
「判らないとはどういうことかな?」
「だからね! この世界の終わりを決めるのは、我輩ではないのですよ! お願い開けてカツが油臭い! 畜生この店、腕が悪いぞ!」
「……どういうこと?」
 この世界の終わりを決めるのが助麻呂でないのならば、いったい誰が決めるというのか。筒木は蓋を開けた。助麻呂はカツの衣と卵まみれで飛び出してくると、嗚咽を漏らして泣きじゃくった。
「この人でなし!」
「話を進めろよっ」
「くっそー、拳骨はしまってください。殴られるの怖い」
「分かった。譲歩しよう」
「ありがとう。つまりね、この世界は、ツッキーの心の穴を埋めるための世界なんだよ」
「……じゃあ、何か? この世界は俺の望みが具現した世界なのか?」
 思い出してみれば、ろくな場面はなかった。もしこれが自分の望みだとすれば、筒木は自分を疑おうと思った。だが、助麻呂は首を横に振った。
「ツッキーの希望とか、願望は関係ないよ。この世界は、ただ、ツッキーを退屈させないためだけの世界だもん」
「退屈させない?」
「そう」
 と、筒木は、自分が子どもの姿になっていることに気づいた。
 周囲は警察の取調室などではなく、夕暮れ時の公園となっていた。それは、昔よく親が怒って迎えに来るまで遊んでいた公園だった。
「我輩を見つけられる人は、みんな退屈しているんだ」
 助麻呂は胸にいた。ブローチとなって、泥だらけのシャツにくっついている。
「でもその退屈は、なかなか埋めることはできない。なぜならみんな、現実に退屈しているから。だから現実にいる時点で、どんなことをしても退屈なんだ」
「俺はそうでもないけどなぁ」
 目の前には犬がいた。そういえば、昔、こんなことがあった。飼い家から脱走した躾の悪い犬が、自分を噛んだのだ。
「この時は怖かった?」
「そうだな」
 犬が襲いかかってきた。だが、今の筒木は、体は子どもとはいえ心は大人だ。あの時は泣き叫ぶことしかできなかったが、今回は違う。冷静に距離を取り、かわし、牽制しながら、落ちていた太い棒切れを拾い上げた。そして機を見て犬を思いっきり叩く。
「でも退屈しなかったでしょ」
「退屈を感じる暇もなかったよ」
 思わぬ反撃に、犬は悲鳴を上げて逃げていった。
「そこだよ、ツッキー。冒険担当我輩の、その役目のホントの所。それは、退屈を感じる暇もない世界に招待することなんだ」
「今みたいな目に会わせるってことか?」
「でも、これまで招待した人たちは、退屈を感じさせない世界を目の前にするとパニックになるだけで、すぐにゲームオーバー。つまらなかったよ」
 ポンという音と共に、助麻呂が元の姿に戻った。その顔は笑っていた。筒木は初めて、助麻呂に恐ろしさを感じた。元々、妖精は可愛いものではなくもっと邪悪なものだったという話を聞いたことがある。それを思い出して、助麻呂の本性を見た気がした。
 だが、
「ゲームオーバーってのは、死ぬってことか?」
「死んだのもいたかなー? いやー、口ほどにもないよね。退屈したくないくせに、安全地帯にいないとすぐ文句を言ってはパニクっちゃうんだもん。人間ってやつぁ…」
「命の危険があるならあると先に言えやこの阿呆!」
「ぶぎゃ!」
 手に持っていた棒切れを思いっきり振り下ろし、助麻呂を地面に叩き落とす。ぬおお、と足元で悶える助麻呂に、筒木はため息混じりに問うた。
「てことは何か? 俺がこの世界で満足したら、ここは終わるのか?」
「惜しい。この世界になじんだら終わりだよ」
「ん?」
 目に差し込んでいた夕暮れの光が、白んできた。筒木が目を上げると、随分前に亡くなった祖母が、公園まで自分を迎えに来ていた。祖母は手作りのオハギを包んだ袋を見せて手を振っていた。子どもの筒木は歓声を上げて祖母に走っていき、それを今の筒木は空へ浮かび上がりながら眺めていた。
「おや?」
「おめでとうツッキー。合格だよ」
 ふわりと筒木の足下から飛び立って、助麻呂は彼の顔の前までやってくるとウインクをした。
「我輩とここまで渡り合った人間は初めてさ。ツッキーなら、どんなことも受け入れて、自分を見失わないでやっていけるよ」
「……気になる言い草だな。これから先も、何かあるみたいじゃないか」
「人生は色々だよ。何があったって、小説より奇なりさ」
 世界は、白い光に浸食されていた。全てが、影すらもが光り輝いている。余りの眩しさに目が閉じていく。その中で、筒木は助麻呂がニヤリと笑うのを確かに見た。
「興味があったら、また我輩を呼んでよ。今回は体験版。次は、現実、我輩のいる現実。何が起こるか判らないけど、退屈できない世界。それを幸福と思うなら」
 助麻呂が手を振る。それを最後に、筒木の視界は光で潰れた。瞼を閉じていても眩しい、もはや目を開けることはできない。手で助麻呂を探すが、助麻呂はどこにもいなかった。大声で助麻呂を呼ぶと、別れの言葉が返ってきた。
「もしかしたらこれが今生の別れかもしれないから言っとくね。とても楽しかったよ、ツッキー」
「待て! お前こんなやりたい放題で……!」
「じゃぁね〜」
 いくら叫んでも、筒木の声は何にも届かない。光が声すらも掻き消していく。そして、やがて肉体までもが光に消し去られていった。

 小さな公園の脇にある、自動販売機の前に筒木はいた。
「……戻ったのか?」
 状況を把握して、筒木はうなった。手の中には120円がある。どうやら、『幸福一発』を目に留めた時点まで時が遡ったようだ。
「いや……。ここで止まっていたのか」
 腕時計を見ると、家を出た時間から大差ない時刻が示されている。
 白昼夢でも、見ていたのだろうか。
 夢だとしても、妙に現実感があった。自分に何が起こっていたのか、筒木は顧みながら周囲を注意深く見渡した。もしかしたら、まだ自分はあの世界の中にいるのかもしれない。だが、見渡す限り、どこにも異変はない。見慣れた近所であるし、相変わらず人通りはなく、ましてやポンテン助麻呂なんていう怪しい物体は欠片もなかった。
 しかし、筒木は自動販売機の一角を見て笑った。
「……なるほど、『体験版』ね」
 そこには、『なまぬる〜い』コーナーがあり、胡散臭い装丁の『幸福一発』がある。ラベルもなく銀色の地金を怪しく輝かせて、当然のように鎮座している。そこだけは、筒木の知る世界から逸脱していた。
「意外に良心的じゃないか」
 筒木は苦笑した。おそらく、これを逃せば二度と助麻呂とまみえることはないだろう。そのようなことを、奴も言っていた。
「幸福、か……。さて、どうしたものかな」
 筒木は一時いっとき考えた。どちらを選ぶことが自分にとって幸せなのか。
 飲みたいものは、コーヒーだ。それは種類も多く、選ぶ楽しさも与えてくれる。喉も渇いている。飲めば満足は間違いない。
 だが、あの荒唐無稽な世界は、不思議なことに楽しい思い出となっていた。
 考えながら、筒木はコインを投入した。120円を入れた時、全ての商品が購入可能だということが知らされた。筒木は迷わず、ボタンを押した。取り出し口に商品が落ちてくる。
 筒木は選んだ商品を取り出すと、家に帰っていった。
 その手に、彼の幸福を握り締めて。

 小さな公園の脇で、自動販売機は働き続けていた。ショーケースの中には、色とりどりの商品が並んでいる。だがそこに、銀色に輝く『幸福一発』はもうなかった。

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