俺の携帯に見知らぬ番号から連絡が入ったのは、六日後の土曜日の朝だった。
 俺は前日の残業に疲れた体に鞭打って自転車に乗り、二時間かけてサキチの待つ場所へ向かった。
 そこは、隣の市の市営火葬場だった。
 町の中心から離れ、住宅の密度も少なくなった場所に広い敷地を取り、数年程度前に改装されたのか一見して火葬場とは思えぬ近代的な建物がある。
 去年まで火葬場といえば煙突がつきものだと思っていたが、技術の進んだ現在では必要がないらしい。聖苑の空に突き出る異物は無く、煙も臭いも取り除かれ、今まさに死者が荼毘に付されているのかどうか俺に判断することはできない。
 だが、今まさに、死者は火の力を借り空へと昇っているのだろう。
「ご苦労」
 振り向くと路上にサキチがいた。俺は自転車のスタンドを立て、周囲に人がいないのを確認し、ポケットから包み紙を取り出しサキチに塩をかけてやった。化け猫にお清めの塩を振るなんて滑稽だと思うが、サキチがそうしろというのだから仕方ない。
 お清めが終わるとサキチは俺の体を駆け上がり、太った体からは信じられないほどの敏捷さで自転車のカゴへ飛び移った。
「ぅおっ!」
 急な荷重を受けてバランスを崩した自転車を慌てて支える。カゴの中のデブ猫に気をつけろと言おうとすると、サキチは、どこか神妙な頭で火葬場の空を仰ぎ見ていた。
 化け猫には、そこに誰かの姿でも見えているのだろうか。
「気のいい婆さんだった」
 サキチが、ぽつりとこぼした。
「女手一つで育てた息子が自慢でな。吾が輩が顔を出すと、決まって息子の話を聞かせてきた。何度も何度も同じ話でも」
「息子は?」
「間に合わなかった。吾が輩の電話を悪戯だと思って切ってしまったよ。仕方ないことだがな」
 サキチは晴天の空、広がる青の輝きに目を細めている。
「やはり煙がないと、どうにも空に昇っていくという気がしなくていかん」
 化け猫が妙に感傷的なことを言う。
「それも仕方ない。火葬の煙を好む人はいないだろ」
 サキチは俺を見た。何を思っているのか解らないが、何か言いたそうで、しかし、サキチは何も言わない。
 だから、俺が先に口を開いた。
「苦しんでなかったか?」
「眠ったまま逝った。大往生だ」
「……お前にそれを看取ってもらえて婆さんも嬉しいさ。きっと」
 サキチは俺が会社に行っている間、周期的に一人暮らしの老人の家を回っている。それを聞いた当初は俺の他にもカモにしている人間がいるのかと思ったが、違った。
 餌をくれるなりして縁のあった一人暮らしの老人相手に、普通の猫の振りして話を聞いてやり、その死期を嗅ぎ取ったら傍にいてやり、一日後か二日後か、死が間近になれば老人の家から親族に急を報せてやる――
 サキチは化け猫のくせに、そんな“ボランティア”をしていた。
 サキチのしゃがれ声をうまく死を迎える老人の声と聞き違えてくれればいいが、ほとんどは悪戯電話と思われるだけらしい。それでも虫の報せと思ってくれれば幸いだが、親族が老人の死を看取りに来てくれるのは十に一度あればいいという。
 何でそんなことを? と聞くと、サキチは言った。
『命生まれ出でる時は、必ず誰かが傍にいる。それなのに死ぬ時は独りというのは寂しいだろう?』
 こいつと付き合って一年。今になって思うが、それはもしかしたら、最初の飼い主を富士山の宝永大噴火の年に亡くしたと言うサキチが、本当は自分自身が一番そう感じていることなのかもしれない。
 独りで死ぬのは、寂しいと。
『良かったな、ヨシユキ。お前は運が良い。吾が輩はお前が死ぬまでお前に飯と酒を用意させ、ふろ〜らるな香りのシャンプーをさせてやる。だからお前がこの先どんな人生を送ろうと、お前が誰にも看取られず寂しく死ぬことはないよ』
 そしてその時、サキチはそうも言った。体よく死ぬまで俺からたかり続けることを正当化された気もするが、それでも悪い気はしないことを、サキチは言った。
 ……そうだな。
 将来、誰か一人でもこうやって空に昇る俺のことを見送ってくれる奴が確実にいるというのは、それが例え化け猫だったとしても、うん、幸せなことなんだろう。
「ヨシユキ帰るぞ。もう六日もシャンプーをしてない。今日は念入りに洗ってくれ」
「はいはい。かしこまりました」
 俺は自転車のスタンドを蹴り、サドルにまたがり、ペダルを踏み込んだ。カゴの中の重い荷物にハンドルが取られそうになるのを慌てて修正し、走り出す。
 去り際に火葬場の窓に反射する太陽が目に入った。
 今日はいい天気だ。空に昇るのも気持ちいいだろう。
 見知らぬ気のいい婆さん。どうか安らかに。
「それにしてもお前、本当にシャンプー好きだよな。おかげで毎日毎日面倒臭いったらありゃしない」
「面倒だと? 何を言う。清潔第一、これは基本ではないか」
「そうは言ってもなあ。あんまりシャンプーしすぎると逆に悪いらしいぞ、猫にとっては」
「フン、そこらのやわな猫どもと同じにするな。吾が輩は悪霊も黙る化け猫様ぞ」

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