プロローグ



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 ――ミリュウは、夢を見る。
 ――瞼を閉じずに夢を見る。
 わたしの一番古い記憶。幼いお姉様。その微笑みと、その胸の温もり。
 至福、安堵。
 暗闇を抜けて初めて触れた空気は暖かく、初めて聞いた音は心地良く。
 運命、歓喜。
 胸の痛みは切なくて、胸の高鳴りは愛しくて。

 ◆

 母より産まれ出でた彼女は、産声を上げなかった。
 いつまでも、呼吸を始めなかった。
 初めに母と医師が、それからすぐに出産に立ち会っていた父と看護師達が青褪めた。
 事前の検査ではあらゆる問題が存在しなかったのに。出産自体、安産の手本のようにつつがなく終わったのに。
 死産……その恐怖に分娩室が支配された時、誰よりも先に行動を起こしたのは彼女の姉たるティディアだった。
 姉は言った――「だかせて」
 本来ならば、いくらティディアが王女とはいえ、当時三歳の女児の希望を医師が聞くことはなかっただろう。呼吸のない第三王女を救うために動き出そうとしていた皆の内誰一人として、無邪気な姉の言葉を聞こうとはしなかっただろう。
 だが、医師はもちろん、看護師も、何より母も父も彼女の希望に逆らうことはできなかった。
「だかせて」
 医師は、王女に命じられるがまま、力なくだらりと垂れる赤子をそっと手渡した。
 羊水と血に濡れた妹をしっかりと抱きとめたティディアは、息をせぬ妹に優しく微笑みかけ、愛らしい唇で額に触れた。
「おはよう、ミリュウ。さあ起きなさい」
 ミリュウはその時の光景を、はっきりと覚えていた。
 誰に聞かされたわけでもない。幼少期に受けたインタビューの際に彼女がふと語ったエピソードは、両親だけでなく、ティディアさえも驚かせた。
 初めて公式に受けたそのインタビューは、今もミリュウ姫の伝説として語られている。
 誕生より三年後――六歳にしてその人柄と美貌で国民を虜としていたティディアに寄り添われ、優しい姉の手を握りカメラの前ではにかみながら、ミリュウはたどたどしくも明るく言った。
「わたしはうれしくてないたの」
 あの時……幼い姉の腕の中で、ミリュウは初めてこの世の空気を吸った。大声で泣きながら、涙を流して姉を見つめた。
「わたしはおねえさまのために、うまれたの」
 後にテレビ局のスタッフが医師や看護師にも確認したところ、ミリュウの記憶は全く正確だということが証明された。
「だから、わたしはおねえさまにあえたのがうれしくてないたの」
 ミリュウは知ったばかりの言葉を――そして作ったばかりの自信作をお披露目したくてたまらないと言うように、幸福に満ちた笑顔を映像に残した。
「わたしはね、うまれながらにして『ティディア・マニア』なの」
 わたしはお姉様を愛している。産まれる前から。お母様のお腹にいる時から。
 わたしはお姉様を愛する。
 命ある限り。
 そして死しても、お姉様を愛し続ける。
 お姉様に降りかかる災いがあれば、わたしが盾となってお守りしよう。お姉様が受けねばならぬ罰があるというなら、どのような責めとて全てわたしが引き受けよう。
 お姉様のためならば、我が身、我が命――我が魂すらも惜しくない。

..▽




 小さな部屋。
 かつては物置であった地下室を改装した主人がここに持ち込んだ物は、弟が作り上げたシステム。改装する際に残すよう命じたものは、ただ一脚の粗末な椅子のみ。
 電灯が消されたままの暗い部屋を照らし上げるのは、椅子に座る彼女の前面に浮かぶ十数の宙映画面エア・モニター。画面それぞれの光量が変わる度、映像の色彩が変わる度に部屋の明暗も色彩も変わり、今は深緑色に毒々しい。
 映し出されている映像は様々で、ニュース番組もあればバラエティ番組もあり、インターネットに公開された個人報道インディペンデント・リポートから単に趣味で作られたWebサイトまでがある。そして映し出されている映像は様々だが、一目見れば、いずれの画面にも共通する話題を見て取ることができる。
 どこを見ても、そこではこのくにの第一王位継承者について語られていた。
 どこを見ても、そこでは希代の王女を射止めた少年について語られていた。
 美しい姫君の年下の恋人。
 出初でぞめでクレイジー・プリンセスを殴り飛ばしてみせた驚異の少年。
 一つの画面には、王女ティディアの発言をまとめた動画が流れている。
 また一つの画面では、ワイドショーのコメンテーターが『カフェでのデート』を目撃した人間の証言をさらに掘り下げ、得意顔で裏情報を付け加えている。
 ニトロ・ポルカトの発言を茶化して遊ぶサイトの文字が上から下へと流れる。
 ティディアとニトロの漫才番組を追ったドキュメンタリーでは真剣な二人が真剣にレポートされている。
 あるイベントでの王女と高校生のフリートークが、会場の笑いを誘っている。
 その中で、彼女の目線上に表示されているモニターの上隅に、ふっと赤いシグナルが灯った。
 膝上にキーボード用として表示された宙映画面エア・モニター上を飛び跳ねていた白い指が止まる。
 彼女は逡巡の後、その“ノック”に応じることにした。
「ミリュウ様」
 入室を許された女性が、部屋に入ってくるなり安堵の表情を浮かべて言った。
「お飲み物をお持ちいたしました」
 スーツの上にフリルのついたエプロンを付けた女性――セイラ・ルッド・ヒューランが小麦色の髪を揺らして頭を垂れる。
 女執事が開いたドアから差し込む光が眩しく目を細めていたミリュウは、次いで漂ってきた特有の甘い香りに目尻を緩めた。

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