部屋にレースカーテンを透かして夕日の差し込む中、ニトロはスクワットをしていた。
「103、104、105――」
息を吸いながら三秒かけて腰を落とし、息を吐きながら三秒かけて立ち上がり、ゆっくりと腰を沈め、ゆっくりと体を持ち上げていく。
「――156、157、158
ニトロは丸まりかけていた背を伸ばした。
「159ヨシ160」
と、カウントしながら
「171、172右ズレ173マダ174ヨシ175――」
しかしフォームの崩れは怪我の元ともなる。芍薬は、例え神経質と言われようともわずかな差異も見逃さない。
「195、196
「ッしょ!」
ぐっと体を持ち上げながら、ニトロは声を上げた。
スクワット――スロー・自重のみ・200回で1セット。間に腕立て伏せを挟んで、それを3セット。やり遂げた彼の顔は汗にまみれていた。トレーニングウェアもびっしょりと濡れ、足元のトレーニングマットにも大量の汗が落ちている。
「オ疲レ様」
これまでとは打って変わって柔らかな声で芍薬がタオルを差し出してくる。それを受け取り、ニトロは顔を拭うと、ちょうど良いタイミングで差し出されたスポーツドリンクを口に含んだ。拭ったばかりの顔にまた噴き出した汗がぽたぽたと落ちる。彼は清々しく息を吐いた。
「やっぱり汗をかかないと駄目だね。やっとすっきりしたよ」
苦笑混じりのマスターの言葉に、芍薬は笑った。
「モウ習慣ニナッテルモンネ」
「早くジムにも行けるようになるといいんだけど」
暇を見つけては通いつめていたというのに、もう二週間も顔を出していない。
「御意。ケド、マダ掛カルカナ」
「うん。まあ、しょうがないけどね」
息をつき、ニトロはトレーニングマットに腰を下ろした。速乾機能の働きで既に乾き始めているマットの上で、静かにストレッチを始める。ウェアも同様に乾こう乾こうとしているが、体内にこもる熱を追い出そうと止まらぬ汗が服の力を凌駕している。それがまた気持ちいい。
「マドネルさん達も元気かな」
「トレーナーノ勤務日ニ特別変更ハナイヨ。ジムモ通常営業ダ」
「じゃあ良かった」
アデムメデスはここしばらく、激動の中にある。
先週はミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの引き起こした『劣り姫の変』のために。
今週は、その後始末のために。
――とんでもない不祥事をしでかした第二王位継承者の処遇をどうするか。
実に様々な意見があった。
主として情状酌量派が大勢を占めながらもその議論は白熱し、昼夜を問わず
そして、昨日。
事態は大きく進展した。
セスカニアン
激震だった。
地表の人間達の動揺に
ニトロはその会見を見届けてからはテレビ・ラジオ・インターネット等々あらゆるメディアとの接触を避け、
それでも、そうまでしても彼の目にはテレビやインターネットに乱舞する画像が明確に見え、耳にはラジオやチャットルームで交わされる声が明瞭に聞こえていた。
全く、人一人の存在感というものは、一体どれほど大きくなることができるのだろう。
そしてその存在が起こしたたった一つの行動は、何故、他の何千人が同じ事を行っても到底敵わぬ影響力を生み出せるのだろう。
「――主様」
芍薬のその声が、物思いに耽っていたニトロを呼び戻した。
開いた両脚の間に倒していた上体をゆっくりと起こして、彼は訊ねる。
「何かあった?」
芍薬の声は緊張感を孕み、同時に困惑しているようだった。まるで血の通っているようなアンドロイドの端正な眉間と目元に浮かぶ色を見つめるニトロへ、芍薬は顎を軽く上向け、
「届ケ物ダッテ」
「誰から?」
「パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ」
ニトロの顔にも困惑と緊張感が浮かぶ。
「王子様が何を?」
「判ラナイ。許可ヲ求メテイルケド、ドウスル?」
彼は眉をひそめた。許可を求めるということは、宅配ボックスに放り込むのではなく、
「直接届けたいって?」
「御意」
「どうしようかな……」
パトネト王子と面識はあるし、歪んだ形ではあるが交流を持ったこともある。
といって何かを送りつけられるようなことは
(いや、あるにはあるのか)
姉の件で、お詫びとして、ということも考えられないことではない。が、それはどうも違う気がする。他に自然と思い浮かぶことといえば
(ティディアの差し金)
となるのだが、しかし、仕事など以前から決まっていた事柄以外での一ヶ月の接触禁止を約束させた現在のあいつがそれをしてくるだろうか。まさか、弟を介せば、などと甘い見通しを立てたとでもいうのだろうか?
ニトロは芍薬の顔を見て、芍薬も自分と同じように考えていることを悟った。彼は微笑し、一つ息をつき、
「まあ、いいや。許可するよ」
「イイノカイ?」
「パトネト王子にはまだ問答無用で拒絶するだけの理由もないし、ちょっと興味もある」
「何ヲ送ッテキタノカ、カイ?」
「うん。それに、ある意味じゃ王子様には借りがあるからね」
彼の行動がなければ、あの『結末』はきっと違うものになっていただろう。芍薬は、うなずく。ニトロは続けて言った。
「もちろん姉弟揃って結構な無茶をしてくれたから、もしかしたら危険なものを送りつけてきた可能性もあるけれど」
立ち上がりながら、ニトロは横目に芍薬を見つめ、
「でもその時は、きっと芍薬が何とかしてくれる」
どこか悪戯っぽく言われたセリフに、芍薬の唇が我慢し切れないように弓を引く。
「モチロンダヨ」
誇らしく胸を張った芍薬は、早速その瞳の奥に光を走らせた。
と、壁掛けのテレビモニターに屋上の監視カメラの映像が映る。
中央に映し出されたのは
箱。
何の変哲もなさそうな箱である。
大きさは一辺60〜70cmほどだろうか。
およそ正方形の真っ白な箱である。
アンドロイドは箱を台車に置くと、芍薬の開錠したエレベーターホールへ入っていく。
「危害ヲ加エルヨウナ物ジャナイトハ思ウケド、一応ココデ待ッテテオクレ」
そう言って芍薬は玄関に向かい、部屋と廊下を仕切るドアを閉めていく。
ニトロはモニターを眺めていた。カメラが切り替わり、この階の外廊下が映る。画面奥のエレベーターホールから台車を押すアンドロイドが出てきた。改めて注目すると、そのアンドロイドは作業服のようなものを着ていて、外見は中性的だが体躯は男性的だった。重量物を扱う業務によく見られるタイプである。だが、運ばれてくる箱には妙な違和感があった。それは何故かと考えていると、
「ああ」
そうだ、その箱は、まるで岩を削って作ったキューブのようだ。開口部も無ければ蓋も無い。折り目も切れ目も――少なくともカメラ越しには――まったく視認できない。
インターホンが鳴った。
一瞬、外から一千の言葉を一つに圧縮したような音が聞こえ、消えた。芍薬が玄関のドアを開け、配達員が入ってきたようだ。部屋と廊下を仕切るドアはほとんどガラス張りだが、はめられているのが曇りガラスであるため、ここから玄関の様子は明瞭には見えない。しかし外の音が聞こえたように声はこちらへ届いてくる。ニトロはドアの傍で耳を澄ます。
「内容ハ何デショウカ?」
礼儀正しい口調で芍薬が問う。それに応えたのは典型的な人工音声であった。
「生キ物デス」
「生キ物?
「ハイ」
「ソレハ何デショウカ」
「生キ物デス」
どうやら相手の応答には一定の制限があるらしい。芍薬が切り替える。
「細菌ヤウィルスデハアリマセンネ?」
なんとも単刀直入な問いだ。ニトロは苦笑する。しかし応えは冷静だった。
「身体ニ悪影響ノアルモノデハアリマセン」
「デハ、ドノヨウナモノデショウ」
「生キ物デス」
「ソウデスカ。シカシ中身ガ全ク解ラナイヨウデハ、受ケ取レマセン」
ニトロは驚いた。今、芍薬の『身体』となっている機械人形には様々なセンサーが内蔵されている。その配達物の中身が全く解らないとなると、否が応にも緊張感が高まる。
「“生キ物”ナドト濁サズ今ココデ明確ニシテ頂ク。デナケレバ、オ引取リ願イマショウ」
毅然とした芍薬の頼もしさよ。
ニトロは耳に意識を集中させながら、思わず微笑していた。
一方、相手は出方を考えているのか、誰かに許可でも求めているのか、両者の間には沈黙が降りていた。何も問題のないものを送ってきたというならその荷の正体を明かすことなどそれこそ問題のあるはずもないだろうに、一体何を逡巡しているのか。その沈黙は、そのまま第三王位継承者への疑惑ともなってくる。
ニトロの耳に小さな音が聞こえた。
それは何か空気の漏れるような音にも思えた。と、
「ニャア!?」
芍薬の驚愕がニトロを襲う。
彼の心臓が跳ね上がった。
「ヌ、主様!」
芍薬が助けを求めている!?
ニトロはさらに心臓を跳ね上げ慌ててドアを押し開けた。そして、