小吉

(第四部『9.エピローグ』の前)

2015『凶』の後

 深夜1時半。
 24時間営業体制にある王城にあっても活動する人間の少ないこの時間に、『舞鳥の間』では活動的な吐息が小気味良いリズムで弾んでいた。
「こんばんは、おひいさん」
 普段はがらんとして何もない部屋、床は一面大理石で、元々は王と王妃が二人で、あるいは家族でダンスを楽しめるように作られた場所。時にプライベートなホームパーティーも開かれるこの空間に、今は一台のランニングマシンがぽつんと置いてある。その上であくせく走っていた女が腕時計型のコンピューターを操作して、速度を次第に落としていくマシンに合わせて脚を止めていく。
「こんばんは、ハラキリ君」
 マシンから降りたティディアは肩にかけているタオルで額の汗を拭った。およそ一月前に綺麗に剃り上げた頭も今は青くなっている。シャツにスパッツという飾り気のないスポーツウェアに身を包んでいる彼女は、一見するとさながら競技に全身全霊で打ち込むアスリートのように見えた。
「招待に応じてくれて嬉しいわ」
「招待、というより呼び出しでしょう?」
「寝ていた?」
「寝るつもりでした」
「それでも来てくれて嬉しいわ」
 ティディアはにこりと笑う。その目の下は黒ずんでいるように見える――シャンデリアの煌びやかな光を受ける頬が運動の熱で赤みを帯びているからなおさらに顔色悪く見えている。ハラキリは嘆息し、
「で、何用ですか?」
「眠れないのよ」
「……はあ」
 ハラキリは眉根をひそめた。
「それで?」
「眠れるように、ちょっと運動に付き合ってくれない? くらくらになるまで疲れ切れば眠れると思うのよ」
「はあ」
 ハラキリは生返事のような声を出し、それから呆れたように、
「ヴィタさんは?」
「休ませている。明日――もう今日ね、朝が早いから」
「警備兵あたりに相手をさせればどうです。一人くらい引っ張ってきても調整は効くでしょう?」
「自信を失わせるわけにはいかないわ」
 ティディアはランニングマシンの傍らに置いてあったドリンクを飲む。その横には大きなバッグが置かれている。
 ハラキリは彼女が何を言いたいのか、そしてそのバッグの中身を悟り、肩をすくめて言う。
「別に、警護の対象が警護する者より強くてはいけない――なんてことはないはずです。問題なのは強弱ではなく、盾になれるかどうかですから」
「それでも盾には強度が必要よ。肉体的にももちろんだけど、特に精神的な強度がね」
 目立つ装置といえばランニングマシンだけが置かれているこのがらんとした『舞鳥の間』に、深夜、二人の声は寒々しく響く。
 ハラキリは腕を組み、ため息をつき、
「ホットミルクでも飲んで寝なさい」
「ニトロが出してくれるんなら眠れるかも」
 言って、ティディアはにやりと笑う。ハラキリは嘆息をつき、
「彼が恋しいのは判りますがね」
「やー、ツッコンでよー」
「その口に突っ込んで欲しいのは彼のでしょう?」
 猛烈なやり返しに、ティディアは唇を固く結んだ。目つきが険しくなる。しかしハラキリは何事もなかったかのように飄々と、
「あと四日、ですか」
「……今が一番辛いのよ」
 渇いた声で、ティディアが言う。しょんぼりと肩が落ちていた。
「あと、四日でしょう?」
 ハラキリが問うと、ティディアは息を吐き、
「『あと三日』になれば、期待の方が大きくなるんだろうけどね」
「四日と三日は大違いですか」
「違うわ。現に今、違う。『まだ会えない!』っていう気持ちの方がずっと大きくて、いつにも増して眠れそうにない」
「いつにも増して? “いつ”のことです?」
「……一昨昨日は、10分くらいうとうとできたかしら」
「一昨日からは眠れていませんか」
 ティディアは小さく笑う。
 ハラキリは、小さく笑う。
「『あと三日』になれば、それ以降は期待のせいでもっと眠れなくなるのでは?」
「それはどんなに楽しいことだと思う?」
 ティディアは小さな笑みの上で、うっとりと目を細めた。
 ハラキリはふむと鼻を鳴らし、しかし、
「四の五の言わず、睡眠導入剤を使ったらいいんじゃないですかね」
 肩すかしなセリフが繰り返される。ティディアは一呼吸の間を置いた。辛抱強いというよりも、それ以上に辛抱しないといけないものがあるために、感覚が少しばかり鈍磨しているような間の取り方だった。それから彼女は明るく言った。
「そのために友達を呼んだのよ」
「友達の間にも礼儀は必要だと思いますがねぇ。こんな時間に呼びつけるのを許してくれる相手なんて、そうはいないでしょう」
「ハラキリ君なら許してくれると思っているんだけどな」
「拙者はニトロ君ほど優しくありません」
「……怒っている?」
 ハラキリはまた肩をすくめた。
「いいえ、貴女の迷惑っぷりは今に始まったわけじゃありませんから」
「言ってくれるわねー」
 そこでティディアは初めて満面の笑みを浮かべた。
「ですが」
 と、そこにすぐさまハラキリが言う。
「スパーリングの相手にはなりませんよ」
 その途端、ティディアの顔が曇った。
「……ニトロの相手にはなっているのに?」
「だからこそです」
 ハラキリはティディアに歩み寄り、傍らのバッグにやはり入っていたグローブとヘッドギアを検めながら、
「拙者は、ニトロ君の『師匠』ですよ」
「だから?」
「そしてお姫さんはニトロ君の『敵』です」
 ティディアの目がかすかにしかめられた。まるで針で刺されたかのように。――ハラキリは気にせず続ける。
「ニトロ君が貴女を相手に身を守るために戦う可能性は、依然として高い。それなのに『師匠』である拙者が『敵』に情報を渡すようなことはしません」
「でも、ハラキリ君と手を合わせたからってニトロの対策ができるわけじゃないでしょう? 正直、貴方とニトロの実力の差は“雲泥”だわ。別物よ」
「確かにニトロ君には拙者をトレースさせているわけではありません。彼に“合う”ようにメニューもスタイルも組んできましたから、確かに別物です。しかし、共通するところもある。また、拙者も意図しないところで拙者の特徴が彼に移っているかもしれない。それは彼の“癖”になりましょう。そしてお姫さんなら、そういう“癖”から相手を攻略するのも容易でしょう。なればこそ、拙者は貴女とスパーリングはしないんです」
 ティディアは黙した。実に理路整然として突き崩す隙もない。それに、彼の根拠は確かに既に存在するのだ。
「例えば――」
 と、ティディアは小首を傾げてみせる。
「『ミリュウ』の足を踏んで攻撃したところとか?」
「正規の王宮剣術じゃあ反則もいいところなので効果的なんですがね、知られていちゃあ反則もしづらくなるってもんでして」
 しれっとハラキリは言ってのける。ティディアはもう一つ、試す。
「だけど私は既に知っているのよ? もちろん『資料』に当たれば他の癖だって見つけられるわ」
「そこに実体験という上積みを与えたら『鬼に金棒』でしょうねえ」
 語気強く言うわけではない。だが、そこに譲歩の気配はまるでない。どこまでもマイペースなハラキリの頑とした拒絶を受けたティディアは、かえって清々しく笑った。
「分かったわ――」
 それじゃあもう一台ランニングマシンを用意させるから、しばらくジョギングに付き合ってくれない?……と、そう言おうと思っていたティディアは、言葉を止めた。
 ハラキリがバッグからグローブを取り出していた。
 それをひょいと投げ渡され、ティディアは面食らった顔で彼を見つめた。
「『保険』は利きますよ」
 そう言うハラキリの手にはパンチングミットがある。そう、確かにそれは、ティディアの用意していた『保険』だった。本来は互いにミット打ちをし合わないかと持ちかけるつもりで、興が乗ってきたらスパーリングへ、と誘導するためのものだったが……
「別にスパーにこだわらなくても良いのでしょう? ニトロ君にやっているように、お姫さんを疲れさせることはできると思いますが」
 ティディアは何を言うまでもなく、いそいそとグローブをつけた。口元が自然と緩んでしまう。良い友達を持ったと思うと、『彼』に会うことを禁じられている辛さが和らいでくれる。
「体はほぐさなくて良いのですか?」
「十分温まっているわ。そっちは?」
「寝込みを襲われても問題ありません」
「なるほど」
「では」
 ハラキリがミットを構える。
 その瞬間、ティディアはニトロがあんなにも急速に実力を伸ばした理由の一つを実体験した。打ちやすい――パンチを打つ前から、それが判る。芍薬やジムのトレーナーの助力も無論大きかろうが、やはり『師匠』は彼なのだ。
「よろしく」
 一言言って、ティディアは試し打ちをするようにワンツーを打った。
 一度目は弱く。
 二度目は軽く。
 ティディアとハラキリの呼吸がここで完璧に調整される。
 三度目は、強く!
 パァン! と、乾いた音が『舞鳥の間』に高く響き渡る。
(――おお……)
 三度目のワンツー、特にその右ストレートにハラキリは内心驚愕していた。ミットの中で、手の甲が痺れている。手の平ではない、甲だ。衝撃が突き抜けた。肩にもびりびりと軽く痛みが走っている。油断していたわけではないし、甘く見ていたわけでもないが、それ以上だった。
 ワンツーとティディアが拳を振るう。その度にミットが高らかに威力を謳う。
 ワンツー、ワンツー、ワンツー――ハラキリは左のミットを右脇に移動させた――即座に反応したティディアがレバーブローをスリーで放つ。ドン、と、重い音が威力を誇る。
 見事なまでに美しいフォーム。敏捷なステップワーク。完成された重心移動。芸術的な回転運動。ハラキリは舌を巻いていた。
(やはり、憎らしいほどの才能の塊ですねえ)
 このパンチの威力を生むのは、けして腕力ではない。一発一発が、自在にしなる鞭の一撃だ。しかもその鞭は平均的な人間には決して手にし得ない繊維で出来ていて、全ての力を澱ませることも減少させることもなく作用点にエネルギーを伝える。そしてその自在性は彼女のテクニックを最大限に活かしきる。
(……これはスパーを避けて本当に正解でしたね)
 この凶悪な『敵』に、親友に関する“活きた情報”を少しでも与えてしまっていたら、まさに決定打になりかねなかった。
 ティディアはノってきて、パンチの威力もまた上がる。ワンツー、振るわれる腕の、威力を増す腰の、回転速度もまた上がる。
 ワンツー、切り返しのフック、ワンツー・ボディー・ダッキング、から戻りのフック、角度を変えてもう一度フック、追いかけながらワンツー、ワンツー・ワンツースリーフォーそしてアッパーカット!
 ズバン! と、突き上げられた拳に打ち上げられたミットが叫ぶ。
 熱を帯び出したハラキリはすぐにミットを引き戻し、すると構えたところへ吸い込まれるようにティディアのパンチが突き刺さる。小気味良い破裂音と共に彼女の汗が美しく散る。
「あはッ!」
 ティディアは笑い声を上げた。
「ねえハラキリ君! 週一で私も教えない!?」
 打ち続けながら彼女は言う。ハラキリは片眉を跳ね上げ、
「だから拙者はニトロ君の『師匠』だと言っているでしょうに」
「掛け持ちしてもいいじゃない!」
「また眠れない時は話し相手に呼んでください。気が向いたら来ますから」
「もー! フられてばかりで嫌になっちゃう!!」
 言いながら、拳を繰り出しながら、ティディアはキラキラと目を輝かせて笑みを大きくする。ハラキリは苦笑するように口の端を持ち上げ、言った。
「おしゃべりする余裕があるならもっとキツクいきましょうか。はい、十連!」
「はい!」
「もう一度!」
「はい!」
「十秒打ち続け!」
「はあああい!」

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