末吉

(第二部 幕間話2と第 [6] 編の間)

2015『中吉』と『後吉』の間

 シャワーの流れる音がニトロの耳を快く叩いている。
 今日もトレーニングをよく積んだ。
 疲労困憊だった。
 仮想空間での格闘トレーニングプログラムを受けた後、入念なストレッチをして、筋トレをして、ジョギングをして、スパーリングでトレーナーに叩きのめされて、その後、2kmほど泳いだ。
 体がふわふわしている。全身がだるくて歩くために足を運ぶのも大変なのに、重心は空に釣り上げられているかのように安定しなくて、どうにも足に地のつかない感覚が体をおかしくしている。
 しかし、心地良い。
 この疲労がトレーニングを頑張ったんだという証のような気がして、それが特有の気持ち良さとなって、ニトロの心をくすぐっている。
 シャワーを浴び終えたニトロは顔見知りになったジムの会員と一言二言交わしながらのんびりと髪を乾かし、着替え、スポーツバッグを肩に提げるとロビーに向かった。フロントにロッカーのカードキーを返し、それから地下駐車場へ行くのだ。芍薬が待っている。車ではすぐに寝てしまいそうだ。
 ロビーに出ると、大きな窓の外は真っ暗だった。
 もう23時を過ぎている。
 早く帰って寝ないとな――と思い、ニトロはふと疑念を覚えた。
 外は、真っ暗?
 ロビーには人がいる。他のジム利用者達だ。こちらに気づいて何か囁き合っている二人連れもいる。フロントには馴染みのスタッフさんがいて、そして、こちらを見て何かを話す二人連れ以外の人々は皆、ニトロを追うようにして外の異変に気づき、怪訝な顔をしていた。
 そう、真っ暗なのは、おかしい。
 普段、外には明かりがある。街灯、ビルや飲食店の明かり、種々様々な光源が夜の帳を引き裂いて、この現代の街中にあってこれほど真っ暗になることなどありようがない。例え――このジムが煌々と明かりを焚いている以上あり得ないが――大規模な停電が起こっているのだとしても、車のヘッドライトすら見えないのはあまりに異常だ。
 ニトロの携帯に着信があった。
 しかしニトロは、既に芍薬からの緊急コールを受け取るまでもなく、現在誰の手によって異常事態が進行されつつあり、そして、そこに誰がいるのかを理解していた。
「何やってんだあのバカ」
 ロビーにいる人々も、無論気がついていた。
 皆の目が一点に集中する。
 外にぼんやり浮かぶ人影。
 体にぴったり吸いつく服を着て、油を塗りたくったのか、大量のジェルが乾いていないのか、髪をぺったりと頭に撫で付けるようにして後ろでまとめている美しい女。
 どんな照明を使っているのだろうか、彼女自身が発光しているように見える。もしかしたら特殊なライトに反応する発光素材を全身に塗布しているのかもしれない。闇の中で一点だけ光が留まっているようにも見えて、やけに幻想的だ。そして彼女の背後は……恐ろしく巨大な黒いシートで窓から見える全体を覆っているのか、あるいは素子生命ナノマシンによって高密度な素子壁バリアを構成させているのだろうか。何にしろ――と、その時!
「きゃあ!」
 外をもっとよく見ようと窓に近寄っていた女性が悲鳴を上げた。
 突然、窓が音もなく砕け散ったのである。
 それもまた不可思議な光景だった。
 一瞬にして窓全体にひびが入った後、それがバラバラと分解されたかのように零れ落ちたのだ。元々割れても人を怪我させないようガラス片が粒状となるタイプのものであったのだろうが、それにしても不気味な光景に違いはない。無音というのがまた恐ろしい。
 空調で整えられていたロビーの空気が外に流れ出し、外気が侵入してくる。雨上がりのむっとした空気がニトロを息苦しくさせる。
「皆様、本日もトレーニングお疲れ様です!」
 と、湿気た外気に乗って、その女の声がロビーに響き渡った。
「『我らが子ら』の健康は我らにとっても喜ばしきこと! 不肖ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ! 皆様を労い一発芸を披露させていただきとう存じます! さあさ、皆様、どうぞお気楽にご覧下されますよう!」
 当惑と驚愕から目の醒めた皆が歓声を上げて窓際に寄っていく。どうやら外の異変に気づいたらしいトレーニング中だった人々も各フロアから押し寄せてきて、突然ごった返したロビーの中、ニトロは好奇心と早くも熱狂を帯びた人の作り出す波によって窓際に押し流されていった。
 ニトロがもうこれ以上は外であるという場所に至ると、窓枠のすぐ外には数本の透明な紐が横に張られていることに気がついた。黒を背景にすると至近距離でなければ分からないほどの紐だ。どうやらこれ以上進むのは禁止ということらしい。ロビーの玄関は開かないようで、つまり、観客はロビー内にいることをティディアから指示され、そして皆はそれに従っている。
 妙な統率の取れ方に半ば呆れながら、ニトロは見た。
 おかしな格好をしたティディアの傍らに、いつの間にかヴィタがいる。
 真っ暗な中でマリンブルーの瞳がきらりと閃き、その存在に気づいた皆がこれから何が起こるのだろうと心を引かれる。
 その中で、ニトロは、見たのだ。
 ヴィタが片手を前に突き出す。その手にあるのは、どうやらライターらしい。彼女は、もう片手には何やらスプレー缶のような物を持っている。
(――おい)
 と、ニトロが思うが早いか、ティディアが両腕を大きく広げ、空を仰ぎ見るようにして叫んだ。
「ファイヤー!」
 ニトロが止める暇もあらばこそ、ヴィタがライターを点火させ、スプレーを発射する。発射されたスプレーは可燃性で、すなわちライターの炎に引火する。即席のお手軽火炎放射、危険なので真似しないで下さい、一瞬にしてティディアが炎に包まれる!
「きゃああああ!」
 またも悲鳴が上がった。すぐ隣の女性の悲鳴がニトロの耳を貫き他の声はかすんでしまったが、とにかくその場にいたニトロ以外の皆が叫んでいた。
 それもそうだろう。
 一星いっこくの王女様が炎に包まれたのだ。
 そりゃあ驚くだろうし悲鳴の一つも上げてしかるべきだろう。
 しかし、ジムの外の闇を真っ赤に照らし、悲惨にも王女が全身を焼かれているその最中――ロビーのスピーカーから一斉に音楽が流れ出した。大音量で、ノリノリの重低音、炎に包まれた人型が激しく動き出す。苦しんでいる? 否! 踊っている!
 皆は唖然として口を開けた。
 それもそうだろう。
 王女様は炎に包まれていたかと思うとそのままぴょんと飛び跳ね、軽快にステップを踏み、ふいにバタリと地に倒れたかと思えば瞬時に華麗に回転を始めたのだ。
 唖然とせずに、何とする?
 燃え上がるお姫様は大股をかっぴろげてぐるんぐるんと回り続けている。
 普通にやれば喝采間違いなしのブレイクダンス。そんなこともできるのか才に溢れた希代の王女よ!
 ――だが!
 色々言いたいことが、ニトロにはあった。
 それだけのため!? とか、そんだけのためにどんだけ無駄遣いしてんだ! とか、そこまでやって本当に一発芸だな! とか、無闇に情熱を物理で燃やすな! とか、流行らせんなよ『マニア』に釘刺しておけよ危なっかしい! とか、阿呆! とか、お前を消火してやる!……とか、言いたいことは色々あった。
 しかし、何よりもひとまず言いたいことは、ただ一つ。
 ああ、ティディア、お陰様で心地良い疲労が消えてしまったよ。
 ところで、どうしてだと思う? 頭が痛い。
 携帯の着信バイブレーションはマスターにそれを言うのを止めている。言えば“色々言いたいこと”も結局全部言うはめになってしまうだろうから。――されど、もはや言わずにはいられない! ニトロは叫ぶ!
「そいつぁファイヤーダンスじゃねぇ! 何はともあれ火達磨だ!」

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