A.I.に制御されたハンドルが道なりに合わせて動き、夕暮れの薄光に滲んだ世界の輪郭が、やがてなだらかな早瀬の速度で背後へと消えていく。
倒したシートに身を落ち着けていたハラキリは、体に降り積もろうとする気だるさを払うように一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
車内にはタイヤがアスファルトを噛む振動もエンジンの鳴音もなく、ミュージックヒットチャートを紹介するラジオパーソナリティの声だけが朗々と響いている。
『映画』の出演料で父から買い取った車、『
あの撮影以来、久々にその助手席に座った友人は、トレーニングの疲れが出たのかうつらうつらと瞼を落としていた。
ハラキリはニトロのその様子に、苦笑を漏らした。
今日の彼のトレーニングへの力の入りようは並みではなかった。
いや、正確に言えば今日だけではない。
『映画PR旅行』のために開けていた間の埋め合わせをするよう、ここ最近はよくニトロのトレーニングに付き合っていたハラキリは、少し前から練習中の彼の眼に、まるで人生をかけた試合を前にするファイターの鬼気が宿り出したことに気がついていた。
それは日を追うに連れて色濃さを増していった。
それに比例して練習量も練習に打ち込むニトロの集中力も鋭利さを増していき、今日はトレーニングメニューの指定も超えてオーバーワークの領域に踏み出そうとするほどだった。
しかし、その気合は試合に向けて追い込みをかけているというよりも、近づいてくる試合に追い込まれて切羽詰っている姿だと、ハラキリはそう思っていた。
(まあ、気持ちも解りますけどね……)
ニトロは瞼を完全に落とし、眉間に皺を寄せた寝顔を見せていた。眠る時くらいもうちょっとリラックスすればいいだろうに、彼は夢の中でも緊張を忘れられないようだ。
スピーカーから流れていた曲がフェードアウトを始めた。
パーソナリティが音量を下げた曲をそのままBGMに話し始める。それが――ニトロの好きな歌だったため――ティディアが口ずさんでいたことがキッカケでブレイクした曲だったこともあって、話題はすぐに彼女のことになった。
「さて、誕生日も迫ってきたティディア姫。覚えていますか? ティディア姫は以前、二十歳の誕生日に……」
びくん! と、ニトロの体が大きく痙攣した。
驚いて振り向くと、身を乗り出すよう跳ね上がったニトロの体が、安全装置に引き止められたシートベルトに支えられていた。
「……ニトロ君?」
ベルトに吊られているような格好で、ニトロはびっくり眼で虚空を見つめていた。表情は完全に呆けている。彼自身、何が起こったのか判っていない顔だった。
「……夢を見ていました」
ぼそりと、視点も定まらぬままニトロがつぶやいた。
「はあ」
ハラキリの生返事に、ニトロはぼんやりとどこでもないどこかを見つめたまま続けた。
「悪夢でした。僕はバースディケーキの中に埋められていて、僕の頭には火が灯っているのです。僕は蝋燭でした。火は僕を溶かします。僕はそれがなぜか心地良かったのですが、突然現れた女の人が僕に囁きました。『可哀想に』そして僕に唇を突き出して近寄ってくるのです。僕は言いました『やめて下さい。僕はこのまま燃え尽きたいのです』でも女の人は近づいてきます。おや? 何で近づいてくるのでしょう。僕は火を消されると思ったのです。でも女の人は息を吹きかけてきません。ただすぼめた唇を僕に近づけて、近づけて、ああ、何でケーキじゃなくって僕が食べられているの!?」
「……」
ハラキリはふむとうなずいた。
色々と彼の心境を探るのに面白そうな素材ではある。が、このまま放っておくと彼の理性が面白い具合にショートしそうでもあった。
「韋駄天」
「オウ、病院ニ行クノカ?」
「まだ大丈夫。とりあえず、ヒーリングミュージックのチャンネルに変えてくれるかな」
「了解」
ラジオパーソナリティが軽快な口調で語るティディアの『二十歳の公約』が、海底から届く人魚の調べのように心溶かす旋律に切り替わる。
がたがたと震えていたニトロの体は次第に落ち着きを取り戻し、彼は深く息を吐くとシートに深く背を沈めた。
「短い間に随分リリカルな夢を見ましたね」
「…………」
ニトロは茫然と道の先を見つめていた。
ハラキリは彼の視線を追った。フロントガラスの向こうには、黄昏の空。その底には秋色の薄日が残り、そこから漏れ出した微光が夜闇を押し留める中で一際赤い円光が煌々と輝いている。
A.I.の操縦する車は自然にスピードを落とし、停止線の前で静かに停まった。同じ信号の切り替わりを待つ対向車のヘッドライトが、やけに目に刺さった。
「なあ、ハラキリ」
「なんでしょう」
「勝てると思う?」
ハラキリは倒していたシートの位置を戻した。
信号が青になり、韋駄天が緩やかに加速を始める。
「何に、ですか?」
腕を組み訊いてきたハラキリにニトロは肩を軽くすくめ、『解っているのだろう』と無言のままに示した。
ハラキリは、質問を変えた。
「
その問いにニトロは唇を結んだ。予期していなかった、至極簡単だと思えるのにとても難しい問題に、意表を突かれたのと自分が存外具体的に問題を捉えきれていなかったと気づかされたことに声を失う。
(まあ、気持ちも解りますけどねぇ……)
答えを求めて苦慮を始めたニトロの様子に、ハラキリは内心ため息を漏らした。
ニトロが何に勝とうとしているのか、それは確かに解っている。
ティディアだ。
今月の最後、あるいは――ニトロ・ポルカトの最期の日に、現第一王位継承者の誕生日が訪れる。
ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。過去、彼女は言った。
『私は二十歳の誕生日に結婚するのよ』
その時が刻一刻と、今も一秒コンマ秒と近づいている。
その時……今年になって一部訂正されたその約束の時が。
『私は二十歳の誕生日に、ニトロと結婚するのよ』
決戦の時だ。
ニトロの生涯で、おそらくは最大の決戦の時。背負うものは人生。過去に進むことのできぬ身で、未来へとただ押し流されるだけの体を、懸命に明るい場所へ向かわせるために彼は彼女と戦わねばならない。
敗北はすなわち、結婚を意味する。
さすれば彼の身は入籍の濁流に巻き込まれ、地獄の門番の前で書類にサインをすることになるだろう。
そして彼とアデムメデスの王女のサインが揃った時、二人が掲げた書類は光の祝福を浴びて伝説を開く鍵となる。
そう。全宇宙初、現役バリバリの王族夫婦によるドツキ漫才が、この世に
(正直、見てみたくはあるんですけども)
ハラキリは横目でぶつぶつとつぶやくニトロを見た。
ニトロの眼差しはまた虚空に注がれていた。だがそれは光なき眼ではない。答えを探し己を顧みるうちに心が奮い立ってきたのだろうか。サンドバックを親の仇とばかりに蹴り殴る彼が見せたぎらつきが、再びそこに戻っている。
それは必死に、己の生きる道を模索する戦士の瞳だった。
「あまり肩肘張ると、良い結果は出ませんよ」
苦笑混じりのハラキリの言葉に、ニトロは勢いよく振り向いた。
「1000%くらいの力を出さないと勝てないと思うんだよね!」
「そりゃまた豪快に戦力差を算出しましたね」
「ていうかね、それより何より俺の未来がかかっているんだから肩肘だろうが命だろうが張らないでどうするのさ!」
熱のこもったニトロの物言いに、ハラキリは一週間前のことを思い出した。
前期長期休暇も終わり、後期授業が始まった初日のホームルームで配布されたデータ。その書類のデータには三つの記入項目が用意されていた。
そのファイル名は、進路志望書。
担任は志望を書いたら、ファイルの末に学籍番号を付け足してから提出するように言った。
そしてホームルームが終わり、ニトロに隣の席の女子が語りかけたのを、クラスの全員が注目して聞き耳を立てた。
『ニトロ君はどうするの?』
ニトロは即座に答えた。
『どうするも何も俺には夢も希望もないよハハハハハ』
次の瞬間、沸き起こったのは爆笑だった。そのセリフはあまりに棒読みで、そのため皆は彼の言葉をただの冗談だと受け取ったのだ。
空気を読んだニトロはそう扱われることを否定しなかったから、結局クラスメートが知ったのは、彼が『とりあえず大学志望』ということだけだった。
もちろんハラキリは解っていた。
ニトロの言葉は、真実だと。
セリフが棒読みだったのは、真に夢も希望もない絶望が感情を奪い去っていたからだと。
ハラキリはクラスの中一人それを理解しながら、しかしニトロを哀れむよりも、その胸を期待に大きく躍らせていた。
奇跡は絶望を乗り越えた先にあるという。
ニトロは、絶望を乗り越えるだけの心力を持った人間だ。そして乗り越えた先で驚くべき光景を見せてくれる。
あの『映画』のラストシーンで、まさかティディアを刺し殺したように。
「なあ、ハラキリ、あのバカは絶対会見とか派手に開いてくると思うんだ。それを潰すの、手伝ってくれないか?」
活気を取り戻した顔で、ニトロが言った。
ラジオから流れていた曲がヒーリングミュージックから、躍動するロックミュージックに変わった。韋駄天がこの場に合うのはこれだと
ハラキリはニヤリと笑った。
「申し訳ありませんが、お断りします」
「何でだよ。手伝ってくれよ」
「いえいえ、拙者が出張るのはマイナスだと思いますから」
ハラキリは期待していた。
彼はあの無敵の王女様を相手に、今度はどんな光景を見せてくれるのだろうかと。
「きっと一対一の方が、好勝負になりますよ」
「あっちにゃヴィタさんがいるんだぞ? 直属兵もSPも味方がたっくさん!」
「そうですねぇ。ですが、多分大丈夫だと思いますよ?」
「何でさ」
「きっとあちらさんも、拙者と同じ気持ちだと思いますから」
「?」
ニトロは首を傾げた。
ハラキリは含み笑うように肩を揺らした。
「まあ、でもそうですね。もし……もしヴィタさんやその他大勢が邪魔することがあれば、その時はお手伝いしましょうか」
「本当か?」
「ええ」
ニトロの顔が輝いた。勝算が出てきたと、希望が瞳の奥で閃いていた。
彼は片手で拳を握ると、それを勢いよくもう一方の手の平に打ち付けた。快音が力強く鳴った。
「ようし、それじゃあ芍薬と相談して作戦立てとかないとな」
「芍薬は頼りになっているようですね」
「ああ。頼りになるよ。本当に助かってる。芍薬が来てくれて本当に良かったよ」
ハラキリは微笑んだ。
「今度そう言っておあげなさい。きっと、とても喜びますよ」