海辺の鉄人

 白波立つ穏やかな海を背景に、鈴なりに吊られたイカが揺れている。凧のように開かれているから、微かな海風にも空に漂うように揺れている。空と海から注がれる太陽光に焼かれる身の中で、旨味が熟成されているのが見えるようだ。
 海に面した丘陵の一角にある木造平屋建て。お世辞でもボロいとしか言えない家の居間から覗くこの光景は、母が深く慈しむ原風景で、そして僕の思い出だった。
「あ〜、いいて。こっちにゃナンの迷惑もないて」
 曇りガラスの障子戸に、台所に程近い廊下に据えられた今では骨董屋で見るような黒電話の前に立つ、小さいけれど骨太い背中が透けて見える。受話器を力いっぱい握りこむように持ち、れた声をケーブルの先の相手にかけている。声は少し嬉しそうにも聞こえた。
「ナン? 受験? あーあー、もう聞いた聞いた。すっこしくらいの休みくらいたまにゃ必要さね。それともナンか。お前の息子はちくと呆けたくらいでボケるとか」
 ばあちゃんは笑いを含んだ。
「お前かて受験の前に『もう嫌じゃー』言うて家出したじゃろね。すぐに帰ってきよったが」
 電話口から母さんの抗議の声が聞こえるようだ。
 だけど、ここに来た時点で僕の休暇は決定している。うちでは実権を握る強大な母も、ばあちゃんには敵わない。
 鉄人ばあちゃん。
 それが親戚中での、ばあちゃんの愛称だ。
 ばあちゃんは漁師だった夫を早くに亡くし、それから三人の子どもを女手一つで立派に育て上げた。夏も冬も海に潜っては行商に行き、馴染みの漁師から仕入れたイカで干物を作っては店に卸し。それこそ馬車馬のように働いて、苦しい家計の中でも三人の子どもをことごとく希望通りの進路につかせた。
 だから今でも伯父さんも伯母さんもばあちゃんの前では小さくなる。特に末っ子で手のかかったという母はなおさら小さくなる。
「お前はちゃんと受かったじゃろね、短大に。ナンに息子は無理じゃ言うんか」
 僕たち孫に優しく甘いばあちゃんは、昔は相当厳しく怖い母親だったそうだ。母や伯父伯母の思い出話はばあちゃんの『鬼母』ぶりばかりを描くけど、僕たちが見るばあちゃんからはそれはちょっと想像しづらい。
 ただ、それが誇張なしに事実だったことは疑いようもない。片鱗だけは幾度となく見たことがある。未だに夢に見る。おぼろげな幼心へ過激に刻み込まれた記憶。あの穏やかな海で開かれた、鉄人水泳講習を。バタ足もできない三歳児に、『大人には』穏やかな浅場でとはいえ、いきなり石を抱かせて潜水させるというスパルタ指導を。
 そして酷な講習内容を泣く泣く訴えた息子に、あろうことか母は『お母さんも丸くなったわね』と感慨深げに微笑んだのだ。
「だーら言うとるじゃろね。任せときぃと。三日もしたら蹴飛ばしてでも帰しちゃるから。ん? ……あ〜? もし帰らんかったらオレが勉強させるき、それなら良かろ」
 よし、休暇は二日確保された。それ以上いたら、家で勉強するよりきつい受験合宿になってしまう。二泊三日の条件は何が何でも守ろう。あの時たらふく飲んだ海水の味が、ちょっと口の中に蘇ってきた。
「あーあー。わーた、わーた。ああ。お前もたまには顔出しに来ぃな。
 うん、それじゃぁな」
 受話器が置かれて鈴の音が一度鳴る。どたどたと廊下を歩いてきたばあちゃんが、戸を開け僕を見るなりしわくちゃな顔をさらにしわくちゃにした。
「説得したったぞ」
 その顔は、いかな鉄人ばあちゃんにも老いを見せる。一昨年ここに来た時はもっと皺も少なく、背中ももう少し真っ直ぐだった。ばあちゃん自身も「最近ちぃと衰えてきてな」と嘆く。
 と言っても、孫に老いを見せるのが遅すぎると思う。齢80に近づいてようやっとだ。今になっても海女を続けているから、相変わらず体力はあるし足腰もしっかりしている。子どもの頃にばあちゃんと山登りをした時、そのスピードにこっちが息を切らしたけど、もしかしたら今も僕は置いてきぼりを食らってしまうかもしれない。
「サンキュー、ばあちゃん」
 僕の礼を聞くより早く、ばあちゃんは慌しく台所に引っ込んでいった。
「お茶飲むね」
「うん、飲むよ」
 僕はまた海に目を戻した。
 白波立つ穏やかな海を背景に、鈴なりに吊られたイカが揺れている。あの海が育む豊かな恵みとこのイカの干物が、僕の母を育て、そして今では僕たち孫にお年玉や小遣いを振舞っている。
「ねー、ばあちゃん」
「ナンねー」
「夕食はこのイカでさぁ、ビールでも飲みたいなー」
「なーに生意気言っとるね」
 台所からは強い言葉が返ってきた。
「酒ナンつーもんは、ちゃーんと働いて金を稼ぐ大人が飲むもんだ。お前にゃまだ早い早い」
 どたどたと廊下の板が鳴る。よく踏み抜かれもせず長年もっている。ポットと茶器を乗せた盆を手にしたばあちゃんは、僕の横に来るとどっかり座った。
 おかきが入った菓子入れを僕の前に置いて、お茶を淹れながらニヤリと笑う。
「さっさと大学入って、仕事に就いて立派に独り立ちしたらまたお願いしな。そしたらばあちゃんの自慢のイカで旨い酒をご馳走したる」
「何年後の話だよ」
 僕に湯飲みを差し出すばあちゃんの手は皺だらけで、男性のようにごつごつとしている。そこらにいる若者よりも力強そうな貫禄さえ漂っている。実際、湯飲みを受け取る僕の手には高齢者とはとても思えない力強さが伝わってきた。
「なーに何年なんてすぐさね」
 時々思う。確かに以前より老いたとはいえ、この鉄人ばあちゃんはひょっとして百歳を越えても今みたいに元気なんじゃないかと。
「分かったよ。その時までお預け食らっとく」
「そうせい。ばあちゃん、ちゃん、と待っとぅきな」

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