炎死ぬまで

 川端に広がる原に冷風が吹き一面を埋める彼岸花がいっせいに揺れた。
 黄昏の空には暗赤が染みついている。
 陽は追い立てる闇にわずかばかりと血の色を浴びせ、天地が毒々しい影に沈む中、血を飲む彼岸花だけがことさらに赤々と輝き、ちらちらと風に揺れる花弁はここに波立つ地獄の池の顕現を見せた。
 私の足元には、踏み倒された彼岸花が作る道がある。落日に背き迫る夜陰へと向かう小さな道。蟒蛇うわばみが通り過ぎた跡にも思える。
「姉様」
 道の先、そして道の終わりに佇む人影に声を押し殺し呼びかける。
 黄昏の中、影はゆっくりと振り向いた。
 残光と花の赤が白装束をぼんやりと薄紅に染める。腰まで流れる黒髪が風に乱れ、真珠のように白いはずの顔は陰に隠れて見えない。それなのに、顔は黒く塗り潰されているのに、眼光だけは白々とぎらついて、私を、恨めしく覗き込んでいる髑髏の双眸のようだ。
「姉様」
 私はもう一度呼びかけた。
 すぐにでも破裂しそうな声を必死に抑えて、赤い海に浮かぶ幽鬼のように、ただただ静かに佇み私を見つめる姉に呼びかけた。
「私です、お応え下さい。……どうか」
 歩み寄る私に姉は何も応えない。眼差しだけがそこで止まれと、近づくなと私を射抜く。
「どうか」
 身じろぎ一つしない姉の髪が風に揺れる内にその顔を覆っていた束が解けて、見えなかった顔があらわになった。姉の元まで数歩という所で、私の足は地に打ちつけられた。
「姉様……」
 胸に堪えていた思いが吐息と共に抜け出して、私は心の中から救いが消えていくことを悟った。
 間に合わなかった。
「私です、どうかお応え下さい。一緒に帰りましょう」
 声を押し殺す必要はなかった。私の喉はかすれて弱々しい言葉しか吐けなかった。
 それでも姉は何も言わない。何もしない。垂れた腕はそよ風にすら揺らされそうなほど力なく、白々はくはくの眼光の中ただ瞳だけが澱んだ鬼気を纏っている。もはや姉の心影は、ない。
「反魂の火は消しました」
 姉のぎらついた双眸の下には乾いた涙の跡があった。
「死者は皆、仲間が弔っています」
 姉は、とても責任感の強い退魔士だった。とても聡明で慈愛に満ちた術者だった。だけど姉は、強い術者ではなかった。
「……ちゃんと、死の世に還るように」
 助けを求めた村に現れた妖は強く、村は救援に駆けつけた退魔士たち諸共滅ぼされた。その退魔士たちの中で、姉は唯一、生き残った。
 姉を責めるものはなかった。姉は身を挺して二人の幼子を守った。そのため戦いから逃げ、隠れていたことは、ただ二人だけでも救えた彼女を責める者はなかった。
 しかし姉だけは自身を責めた。責め続けた。助けられなかった村人たち、見捨てた仲間たち、そればかりか親恋しく泣く幼子の涙までをも抱え込み、昼に暮らすことも夜に眠ることもできない絶望の中、終には邪法に手を出した。
「……姉様……」
 邪法が、姉に救いをもたらすことはなかった。
 姉の灯した反魂の火は死者の魂をいたずらに呼び戻し、生者にも死者にもなれない怨霊を新たに生み出すことしかなかった。
 姉は怨念の声を聞いたのだろう。あの苦悶に喘ぐ無念の群れを目の当たりにしたのだろう。
「なぜ私に……」
「あははははははははは!」
 けたたましい哄笑が姉の口を引き裂いた。姉は笑いながら舞うように、彼岸花を目茶苦茶に踏みつけながら暴れ出した。
 陽は完全に沈み、周囲の闇はすでに深い。東の空に浮かぶ大きな満月の中、乱舞する姉の周りには一つ二つと人の形を成す黒霧が浮かび上がっていた。
「あーっははははははは!」
 心が壊れ、その残骸を、魔に奪われた。
 奪われる前ならば希望はあった。だが、もう……このまま放っておけばその魂に邪霊が積み重なり、やがて人の身ながら鬼になる。
 私は腰に差す大太刀を抜いた。磨き上げられた白刃が、月光を撥ねる彼岸花の赤色で、もう血油に濡れているようだった。
 姉は金切り声を上げながら、眼を爛々と輝かせて踊り狂っている。千切れた花が宙に舞い、次第に数を増す怨霊たちに重なり吹雪く。月に零れる銀が煌めいて、姉の姿身を美しく包み込む。
 私は重い柄を握り締め、姉に歩み寄った。
「姉様
「ははははははははははははははははははははははははははははははは
 お赦しを」

 はじめは油の燃える匂いが立ち込めていたが、今は草と土が燃え灰の混じる黒煙が夜空に吸い込まれている。
 原には彼岸花の赤に成り代わり、明々と炎が逆巻いている。ちらちらと風に揺れる火の穂は、常世に咲く花の原を思わせた。
 きっと姉はこの送り火の花道に、迷わず死者の世へと渡れるだろう。
 私は、送り火を見つめ続ける。
 くすぶる消し炭もなくなるまで見つめ続ける。
 決意を破り溢れる涙が乾くまで、見つめ続ける。
 いずれ私が、姉恋しく反魂の火を灯すことのないよう、姉を焼く炎の死を見届けるまで。

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