太陽が眩しい。
空を凸凹に削り取るビルの群中に、緑地として、憩いの場として作られた公園の上空だけは気が抜けたように広く開けていて、高く高く漂う淡青の中で燦々と輝く太陽は、秋風が立つ天地を輝々白に輝かせている。
芝生の上でキャッチボールをする父子や、舌を出して走る犬と一緒になってはしゃぐ子ども達は、よくも平気で陽だまりの中その眼を開けていられるものだ。
陽光は強く、夏の日差しよりは柔らかいけれど、それでも木陰のベンチで開くこの目に鋭く突き刺さってくるというのに。
人々の多くも薄目に、あるいは手を額に庇を作って、眼底に爪を立てる光をいくばくかなだめようとしている。物の輪郭は儚く光に溶け込んでおぼつかなく、まるで蜃気楼の中にいるのかと錯覚に襲われる。連日曇天が続いていたためか、今日の太陽はことのほかことさら眩しい。
太陽が眩しかったからと人を殺したのは、小説の人物だったろうか、実在の人物だったろうか。
それは教科書に見かけた一文だった気もするし、かけ流しのテレビから聞いた一言だった気もする。別にどちらでもおかしくはない。でもこんなに太陽が眩しいと、願わくは小説の人物であって欲しいとは思う。
それにしても『太陽が眩しかったから』とは迷惑な動機だ。目の前を早足で通り抜けていった男性が、それとも遠くでウォーキングをしている女性が、そんな理由で突然襲いかかってきたら堪らない。
そもそも、この動機というものは厄介だ。
動機があれば行動を起こさずにはいられなくなる。
行動を起こしてしまえば動機を捨て去ることは難しくなる。
かといって動機を見失えばその姿を顧みて思い悩む。
動機はただ動機でしかないのに、時に精神の柱を砕く致命的な毒にもなる。
例え行動の持続が不可能となっても、動機は形を変えて後悔や意地、あるいは妄執となって心にこびりつく。排気口に粘りつくタール状の油膜よりも落としにくく、どんなカビよりも深く根を張り巡らせる。それを放っておけばやがて積み重なり、いずれ心の風通しは悪くなり、最後にはチアノーゼを引き起こす。
そうなったらお仕舞いだ。
空気を吸えなければ生きていけないのは、肉体も心も同じだ。
少ない酸素で何とか動き続けることができても、それには絶大な気力が必要だ。
必要なのに、気力を生み出す源は喉を掻きむしり喘いでいる。
だからそんな力を搾り出すことなんかできないと言うのなら、何かの力を借りなければやっていけない。心が折れる。恋人、趣味、家族、宗教、ペット、快楽、酒、ギャンブル、薬、何でもいい。とにかく何かに溺れるほど依存しなければ、すぐ傍で、とっくの昔に折れて朽ち果てた哀れな自分の姿から、目を逸らすことさえもできない。
……依存されるほうは、依存されるほうも、堪らないのだけれども。
それにしても、形も硬さもない心が『折れる』とはよく言ったものだ。
心が折れると、真っ直ぐ通っていた背骨の芯まで折れてしまう。折れては体が傾いて、猫のように曲がった背の上で、目玉は地面ばかりをぎょろぎょろ見つめる。顔に日が当たらないから、やけに血色が悪くなってまるで半死人だ。
死者を思うと悲しいのは死者の生前の姿を知るから、と思う。
逝ってしまった人を知っていれば知っているほど、遺された者の中には、死者に情を持ち去られた穴が開く。死者に何を望もうとも死者は何も応えないから、そこには空風だけが吹き込んでいく。思慕が募れば辛苦ばかりが降り注ぐ。
その穴を埋めることはできない。できることといえば、穴が開いたところに思い出を埋めることくらいだ。
心が折れた半死人の目は澱んでいて、その濁った水晶の中にいつか見せた輝きの屍を沈めている。
それは隠しきれるものではなく、面影となって強く滲むから、その目を見ると望んでしまう。いつかそこにある屍は、いつかまた蘇るのではないかと。望めば望むほど辛く悲しいのに、どうしてもまだ死んでしまったわけではないからと、いつか、いつか、望んでしまう。
いっそ屍を灰に還してくれれば諦めもつくのに。
死に別れの哀惜を思い出で隠すしかないのなら、生き別れの寂寞は諦めで誤魔化すしか、ないのだから。
携帯に、メールが届いた。
見てみると、先に待ち合わせ場所に着いたと告げる彼が「今どのあたり?」と訊ねてきていた。
少し時間を置いてから、「今日、行くのやめた」と返した。すぐに「なんで!?Σ(゚Д゚)」と返ってきた。
答えは決まっていた。
液晶に文字を打ち出していると、彼の呆れ顔が目に浮かんだ。いや、怒るかもしれないな。そう思いながら、メッセージを送り出す。
「太陽が眩しかったから」
空を見上げれば、ああ、今日の日差しは本当に厳しい。
終
050912-24-0924