金色の雪

 見えない手に耳を塞がれているかのような静けさだ。
 雪山の裾野の雪原に忽然と、まるで場違いに建てられた待合小屋には僕の他に影もなく、真ん中に据えられたストーブの上で薬缶の太鼓腹がコトココと鳴る音ばかりが、一人きりで世界を支配する静寂に抵抗している。腹の横に突き出された口からは、先まで六角の結晶だった水が白い帯となって揺らめき昇る。
 薬缶の黄金色の肌は冷やかな鈍沢を脱ぎ去り熱が生む艶に色めいている。色めかせる三尺の円柱の胸には猛る炎鱗がある。炎鱗はぶ厚い鉄を温め、染み入る熱で僕を温め、三面の壁に長椅子を押し込めた簡素な小屋の内から寒さを追い出していく。
 向かいにある窓の先は闇だ。窓ガラスは濡れた氷のように透き通っている。
 とそこに、曇りガラスに透けて見える物影のように、窓の闇に影絵が現れた。影絵は夜闇をさらに暗くして、その輪郭は人の影を作った。人影は左方に消えていった。
 すると、ふいに左の頬を冷気が撫でた。振り向き見れば小屋の扉が二尺ほど隙間を生み、また静かに閉じていった。
 入ってきたのは窓に見えた人影、この待合小屋の『駅守』だった。その色はとても薄く、桶一杯の水に墨汁を数滴落したほどに淡い。向こう側が透けている。その割に確かに触れられると感じさせる質感がある。駅守は湿った足音を立てて、ストーブを挟んだ僕の向かいへと進んだ。そして真正面に来るとゆっくりと長椅子に沈んだ。
「明け方に東へ向かう馬が参ります」
 囁きにも満たないくぐもり声が、そんな声なのにやけにはっきりと耳に言葉を届ける。
「明け方か。後一時間ひとつ半くらいかな」
「それくらいでしょう」
 駅守は座したまま腕と首をぐんと伸ばすと薬缶の蓋を開けて中を覗き込んだ。覗き込んだ顔に湯気が当たって、その部分だけがぼんやりと白く曇った。
 沸騰というまでには早いことは音で判る。だけど駅守は湯を沸かすことは稀にしかないから、音だけでは判らないのだ。まだ僕に茶を出せないことが心地悪そうに蓋を閉める。
 ここら一帯は一年の半分以上を雪空に居座られる。雪が完全に溶けることはない。短い春夏の間にも残雪が大地を冷やし、控えめに広がる森の育みも緩慢にしか許さぬ。近くにあるのは海に面する入り江に構える寒村だけの、辺鄙な土地だ。外界とのつながりは通商の船が月に数隻あるばかり。
 であれば当然、駅を使う者はわずかだ。僕が知る限り今年に入って三人しか使っていない。駅に来るを出迎え駅より発つを見送るためだけに存在することが許される駅守の、その体から色が失われるのも仕方がないことだ。
「……駅守は」
「はい」
「もう少し人が来るところに生まれたかった?」
 そうすればもっと色濃く、もっと美しく、もっと形も自由に己を誇れたろう。だが駅守がそれを求めることは決してない。
「いえ、そのようなことはありません。わたくしどもは、駅を守ることさえできれば満足でございます」
 思う通りの返しに口元が緩む。
 学舎の翁が開いた分厚い本は、世にあって自己の役目を知らぬは人間ばかりと言った。だから迷いなく動く世界の中で、迷うのは人間だけだと。それはとても愚かで不幸なことだけど、同時にとても賢く幸せなことだとも。
 その時はよく分からなかった言葉だったけど、今は身に染みる。
 薬缶の中で弾ける泡が変調子に騒ぎ立て、口から溢れた一筋がストーブまで垂れてしゅうと消えた。駅守が薬缶の中を再び覗いて、立ち上がった。
 駅守は扉の横にある粗末な棚から茶碗と茶筒を取り出すと、茶碗に筒から取り出した緑色のぎょくを転がした。こらんと耳触り好い音が鳴る。湯が注がれると小屋に摘みたての若葉の香りが広がった。
「どうぞ」
 と、駅守が受け皿に乗せた茶碗を差し出す。白磁の底で玉は次第に小さくなっていた。その内には風に揺れる葉陰が見える。葉魂と呼ばれるその揺らめきは、湯に揺らめき溶けて、熱をすする僕の口に茶の香味を含ませる。胸の底から体の芯へと温もりが広がった。
「美味しいよ。ありがとう」
 言うと駅守は満足そうに踵を返した。そしてストーブの前でかがみこむと、中の様子を見せる覗き窓を開いた。炎は少し勢いをなくしていた。開いた窓から小さな火蜥蜴ひとかげの数匹が、外の様子を窺いに首を伸ばして顔を左右に振ったが、すぐにそこが自分たちのいる場所でないと悟って引き返した。
 駅守はストーブ脇の床にある折り戸を開いた。そこには一寸ほどの石油虫いしゆむしの死骸が黒い小山と積まれていた。駅守は山に刺さっていたスコップで石油虫を幾つもさらうとストーブに放り込んだ。
 ぱっと炎が明るみを増した。火蜥蜴たちが石油虫に群がって、炎鱗が鮮やかに閃いた。
 二度三度と駅守は火蜥蜴に食事をさせると、暖かさを増したストーブを挟んで、また僕の正面に座った。その後ろで窓は曇り始めていた。

 太鼓腹に鳴る不揃いな囃子はやしに合わせて、しゅうしゅうと薬缶が口笛を吹く。やがて窓が白く曇りきった頃、はたと駅守が窓の外に気を向けた。
 まだ夜明けには早い。何かと様子を探っていると駅守は扉を開いた。
 雪が降っていた。僕がここに来た時はやんでいたのに、いまや絹が塵となったかのように美しい粉雪が、吹雪かんばかりに降りしきっていた。
 駅守が外に出ると扉は閉まり、小屋には僕だけとなった。それも一時のことで、すぐに扉はまた開き、駅守が雪蓑ゆきみのを被った女性を案内してきた。促されて小屋に入る女性の目元は蓑の陰に隠れて、ランプの光に照らされる、寒さに赤らんだ白い頬と色褪せた唇が淡く輝いて見える。薄い唇を割って流れた吐息が侵入してくる寒気に凍り、流れて小屋の暖気に当たると解けて消えた。
 僕は息を呑んだ。
 女性は手に持つカンテラの火を消して、つま先を僕に向けた。駅守も戻り、内外の隔たりが閉められる。その時、扉に煽られた空気に乗って綿毛のような小雪が紛れ込み、白黄の明かりに煌めきひらひら舞った。
 女性は雪蓑を取り、黒羊の毛で編んだ外套に白抜きの模様を描いていた雪をあかぎれが目立つ手で払い、それから僕に眼を向けた。僕は口を固く結んだ。
 蓑と外套とカンテラを、駅守が受け取って荷置きにある僕のものの横に置く。外套掛けに掛けられた外套は、先に掛けられていたものと揃いの形、揃いの色で、寸法をちょうど一回りの差の程に仲良く並ぶその様は、まるで仲良い兄弟を思わせる。
 無言のまま女性が隣に座った。駅守が茶を淹れて彼女に渡す。
「ありがとう」
 しなやかな声。高くもなく低くもなく、落ち着いた声。その奥に、頑健な意志が隠れていることを僕はよく知っている。
 駅守が僕を見ていたから、僕は横に置いていた、冷めた茶の残る碗を差し出した。新しい茶が淹れられる。「ありがとう」と受け取ると、駅守は窓の下の定位置に座った。その体の色は二人目の客を得て、さっきよりも少しだけ濃くなっていた。
「……義兄さんは?」
 ややあって、沈黙に耐えられなくなった僕は、そう切り出した。
「家を頼んでる」
「ここまで一人で? 危ないじゃないか」
「あんたに言われたくないね」
「……なんで分かったの?」
「あんたの考えることなんざお見通しだからさ」
「…………帰らないよ」
 姉は涼しい顔で茶をすする。昔から変わらない僕の意見を聞かぬ顔。姉の怒りは氷だ。表情は冷静に、だけど触れればあまりの冷たさに火傷する。
 母のいない家で、姉は僕の母を努めた。いや、母を失った悲しみを紛らわせるため体を壊してもなお仕事に打ち込む父の代わりもと、僕の父でもあった。そして幼い末子を間引くかどこか大店おおだなにでも出さねば苦しい生活の下、姉は自分の食を細めてまで僕を育んでくれた。
 僕は、姉に従い生きてきた。
 本当の意味で姉に反抗したことはなかった。姉が御婿を取り娘を産んですぐ、父が無理の祟りで倒れるまでは、僕は厳しくも温かい姉の腕に抱かれていた。
 だけど、それも昨日までだ。
「帰らない」
 しっかりと繰り返した時、急に薬缶ががらがらと鳴りはじめた。湯が切れかけているらしい。駅守が中を覗いて、それから薬缶を持って新雪を詰めに外へ出た。
 駅守はすぐに戻ってくると思ったが、しばらくしても戻ってこない。気を利かせたつもりなのだろう。だが、できればそこにいて欲しかった。静けさが重く身を押さえる小屋の中に、姉と二人きりは胸が苦しい。せめて他者がいれば、その気配に頼んで畏れの幾ばくかは誤魔化せた。
 姉がついた一息に、僕の肩に力がこもる。それが悔しく情けない。一言『帰るよ』と命じられれば、旅立ちの決意も露と消えて従ってしまいそうだと不安がよぎる。それがもっと悔しく情けない。
「びくびくするな、情けない」
 姉の声は言葉の強さとは裏腹に、温かかった。ついさっきまでの雪道に、まだ冷たい手で頭を撫でられて、僕は驚き姉に振り向いた。
「もう止めないよ」
 姉は見慣れた顔に、見たこともない微笑みを浮かべていた。
「だから、見送りくらいさせなさい」

 駅守の「馬が来ました」との報せに小屋を出ると、星を隠す重い重い雪雲が、ささら雪を絶え間なく降らせていた。雪が降り積もり影もなく、自然の作為に平にならされた真白の原はぼんやりと闇の中に浮き出ていた。
 光を受けている。小屋の灯り程度ではない。見渡す限りの雪原と、遠くに見える針葉樹たちの雪帽子、暗天の中、龍のうねりに描き出されたか霊峰の稜線が、光を受けて氷の内に閉じた銀の瞬きを着飾っている。
 見れば四天を覆う雲が東の空で切れていた。この地から、麓に降りる閑森を、ぽつぽつと火の灯る寒村を、船の留まる入り江を越えて東の果てへと迫る寒々とした雲海が、果てに辿り着く手前の一線で、水平線と平衡に、海を天とし空へ落ちる断崖とばかりに鋭く切り出されている。
 降りしきる雪を通し、断崖の先では群青と混ざる紫が、海の果てから湧き昇る山吹色を吸い上げて美しく、その中に一際明るく明星が輝いて、その輝きは空の色を絵の具に宙と海の境界を塗り染めて、泥灰を塗りたくった肌を鮮やかに暖かく彩られた大海は、泰然と揺れてなお美しい。
 遠い海の暖流と、この地の寒さが調和した時に見られる風の悪戯だと、父が昔教えてくれた景色だった。もう少しすれば、海面を破り山吹を切り裂いて、白熱に輝く天道が姿を現すだろう。その時、美しい世界がこの世に現れる。
「良い旅立ちになりそうでございますな」
 駅守が言った。
 土鈴の音がして、音のする方へと目を転じれば、目に見える世界の裏から馬の姿が雪原に段々浮かび上がってきた。
 現れた馬は九尺ばかりあった。体は長い緑色の体毛に覆われ、さながら幾百の海草を雑に背負わせている風だ。背は丸く盛り上がり、首は草を食む牛のように下へ垂れている。細長い顔には丸い口と、交互に暗く明るく点滅する五つの蒼い眼がある。紅色の虹彩の一つが駅守を見、駅守が僕を示すと、馬は新雪を音もなく踏みしめ五角の足跡を残しながら僕の前に巨躯を横付けた。馬が動く度に首に括りつけられた土鈴がごらんと鳴った。
 よく見れば、馬の体の脇には体毛を掻き分けて大きな窓があった。駅守の合図で窓の中に光が灯る。それは客室だった。大きく湾曲した馬の腹に立派な客室が吊り下げられていた。
 図に見たことはあったが初めて実物を見て呆けていると、駅守が手を差し出してきた。はたと気づいて僕は懐から、しわくちゃになった紙幣を六枚取り出して駅守に渡した。駅守が頷き馬に何やら話しかけると、馬は一つ低く唸って口を開けた。駅守がそこに紙幣を放り込む。馬は満足そうに五つの瞼を落して頬を緩ませた。
 駅守が客室の扉を開ける。中には誰もなく、客室の中そのものが輝いて僕を迎えようとしていた。
 僕は隣に立つ姉を見た。
 僕は姉の微笑みを見てから言葉を出せずにいた。いや違う。姉に何の言葉を置いていけばいいのか判らず、話しかけることもできずにただ時を過ごした。
 僕を見送ろうとする姉と出立の時までせめて楽しい思い出を作ろうと考えても、脳裏に描かれるのは台詞ではなく過去の思い出ばかりで、叱られたこと慰められたこと辛いこと楽しいこと悲しみと喜びと、僕が十年季の仕えに出ることを許さぬ姉と言い争った時間があの微笑みに重なって、胸がつまり、目の前が塗り潰され、何も考えられなかった。
 姉はどうだったのだろうか。姉は僕にそれきり目も向けず、駅守と話していた。何を話していたかは覚えていない。ただ薬缶がコトココと鳴っていたことだけを覚えている。
 雪が艶のなく褪せた黒髪を化粧している。姉はそれを払うこともせず、僕を見ていた。
「姉さん」
 目があって、僕の口からそれだけがこぼれた。
 姉は僕が外套を纏うのを手伝ってくれた時も言葉をかけてこなかった。そして今、姉は呼びかけた僕の声に何も応えようとしていないように見えた。
 と、姉が僕を抱き締めた。
 あまりに突然のことに、僕の息は止まった。柔らかな温もりが伝わってくる。背に回された力強い腕に、だけど想像よりもか弱い力に、僕はまた言葉を奪われた。
「寂しい」
 姉の顔が僕の肩に埋まる。首筋に涙が触れた。
 我知らず目に熱が溢れた。だけど僕はこぼれようとする涙を必死に堪えた。
 姉にどんな言葉を残せることもできないことを悟った。僕にできることは、姉に一抹の不安も残さないことだけだと悟った。涙は見せない。見せてはいけない。僕は唇を噛んで震えそうになる喉を鎮め、姉を一度、一息の刹那、強く強く育った腕で抱き締め返した。
 しばらくして、離れた姉は笑顔だった。涙を飲んで無理に作った笑顔だった。僕は微笑みを返し、客室に乗り込んだ。
 わずかな荷を詰めた袋を席に放り窓を開ける。馬が東へ、明星輝く空へと歩き出す。僕は声を絞り出した。
「いってきます」
「いってらっしゃい。どうか達者で」
 馬を追い歩きながら姉が手を振る。
「手紙を出すよ。姉さんも、家族皆で、体を大事に」
 駅守が鳴らす送りの鐘に馬の鈴の音が重なって、待合小屋から発つ者ありと世界に告げる。
 ふいに横から強烈な光が射し込んだ。夜明けだった。太陽が海の頂から姿を現し、並ぶもののない光が鮮烈に放たれた。
 その時、舞い落ちる雪が太陽の光を浴びて一斉に輝いた。
 金色の雪が降る。
 新しく生まれ出でた陽に純白の雪が煌めいて、天地を黄金に染め上げる。
「いってきます」
 馬の足が目に見えぬ世界の裏へと踏み込んだ。目に見える色が薄まったかと思うと、見たこともない風景が雪景色に重なり浮かび上がってくる。一歩踏み出される度に姉の姿が薄まる。一歩進む度に新しい光景が故郷の景色と置き換わる。
 姉はいつまでも手を振り続けていた。
 金色に舞う雪の中。
 その姿をいつまでも、僕は瞼の奥に焼きつけた。

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