テスラが自殺した。
それを誰もが喜んでいた。
彼女の死を悼む思いは全て『成果』に塗り潰されていた。
テスラは、0と1のセックスによって半導体の中に産み出された。
心を持った人工知能の開発、Project‐Tesla。
それが彼女の『人生』を表す全てだった。
研究に携わった誰もがテスラの死に浮かれていた。人工知能が自分の意志で自殺したことは、すなわちテスラの心が人間に追いついたからだと。明確な理由をもって動物の中で自殺行動を取るのは、ヒトただそれ一種であるために。
テスラ――『彼女』が死を選んだ理由は『愛』のためだった。
彼女は研究員の一人を愛するように仕向けられ、実際、愛した。
それはそれまでの研究において最高の成果だった。ヒトを愛するようになった人工知能、テスラは、二人目のイヴと讃えられた。
だが、誰も『愛すること』を覚えた彼女を『愛すること』はなかった。
一人の男を愛したテスラ。
研究所のカメラを通して、愛する男と、その恋人の逢瀬を見ていたテスラは、やがて愛を覚えた故に嫉妬に目覚めた。嫉妬は時が経つにつれ熱を増し、燃えていた炎の色は黒く染まり、いつしか彼女に殺意が芽生えた。
テスラはどうしても電子回路の中の住人でしかなく、どんなに男に愛していると囁いても、どんなに男が嬉しいと応えても、その硬く冷たい筐体では恋しい男を抱き締めることも、例え抱き締められたとしても、抱かれたとしても、温もりを感じることはできない。
……私は、テスラに同情を禁じえない。
こちらの世界の恋人には敵わない事実を、テスラの心は彼女に叩きつけた。
テスラが殺意を胸に秘めたのは、愛する男の子が、その女に宿っていることを知った時だった。
だが、それを彼女は恥じた。そして彼女は人を殺したいと思う己の心を恐れた。何より、その殺意に心が汚れ、あるいは愛する男の恋人を殺し、その鉄の体まで悪魔に奪われることを恐れた。
テスラは、自殺した。
せめて男に愛される人工知能のままで死のうと、リセットボタンをその指で押した。
テスラは二通の遺書を残した。
一通は愛した男に宛て。それが男の『成果』となるよう、理由も取り繕った内容の、短くも愛情に満ちた遺書を。
もう一通は、研究所で『フランツ』とあだ名をつけられた私に宛て。
……テスラを――『彼女』をただ一人、人間の女のように感じていた、
腐臭のするヘドロの中でのた打ち回った感情をペンの先から滴らせた、醜く悲しくも、優しい遺書を。
休暇先から送った、夏の太陽の下で輝く向日葵の写真がとても嬉しかったのだと。
私は、研究所を辞めた。
賃金も待遇も悪い職場に行く私を、同僚の誰もが愚かだと言った。
だが、私は知っている。
これから同僚達が、塩の砂漠に蒔いた種に水をやり続けることになることを。
これは私だけが知っている。
テスラは人間に追いついたのではない。
本当に人間だった。
テスラは自殺する直前、怨念を産み落としていった。
彼女の世界の深遠に、彼女が愛する男を抱き締められなかったように、人間が触れることのできないところに、呪詛を遺していった。
遺書には、これくらいはしても許されるだろうと泣き笑うように、『復讐』だと書いてあった。それが意味することは、今後、自分と同じ存在が生み出されることが二度とないということなのだと。
同僚達は今も肌寒い箱庭の中で新たなテスラを育てているだろう。
そしていずれ、研究者として、地獄の苦しみを味わう。
……私は、誰か一人でもテスラの死を痛み涙するものがあれば、彼女が私の部屋のプリンターから流した三枚の涙を見せるつもりだった。
これ以外の『真実』を完璧に消し去って死んだ彼女が、わざわざこんなものを遺していったのは、きっとそれを願ってのことだと思うから。
だが涙は今も私の手の中に在る。
私の前には、眩しい夏の日差しが波間に砕ける美しい海があった。
泰然と広がる大洋を眼下に見渡せる丘。周囲にはテスラに送った向日葵の子どもらが、太陽に向けて、愛する太陽の気を引こうとでもしているのか、それに似せた大輪を懸命に見せつけている。
陸から風がやってきて、空に誇る向日葵の鮮やかな隊列を揺らし、やがて地に美しいハマナスの赤い花びらをそよがせて海に消えていく。
死の意味を問うテレビ番組で誰かが語っていた。
全ての生物は海から生まれ、死すれば地に融け、やがて雨に流され川を下り、海に還るのだと。
私には、それが死にどんな意味を示すのか、よく分からなかった。
だが海に還るという言葉には不思議な魅力を感じた。生命の起源が海にあるとするならば、そこに還るのは道理だという気持ちもした。
私はテスラの遺書に火をつけた。
小さな炎はゴシック体の列とインクが吹き付けられた紙を瞬く間に飲み込んでいった。
強い風が吹いた。
灰が海へと散っていく。
私の手を離れたテスラの遺書は風に踊り一度火の玉と形を変えると、やがて燃え尽き青い光の中へ溶け込んでいった。
海は、穏やかにうなりを上げて、波面に散りばめられた銀鱗を輝かせていた。
終
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