4
「戯言を」
ノマの話が進むにつれ、段々と、段々と冷やかになっていったグゼは、
「そのような虚言、私が信じると思うか」
今までに、ホロビの器として忌み嫌われていた時にさえ浴びたことのない、非情と殺意をあらゆる侮蔑で凍りつかせた視線を受けて、ノマはたじろぎそうになった。
胸を突く弱音を必死に噛み潰す。
毎度も繰り返す、ユリネから蔑まれ、嫌悪を浴びせられている錯覚。それに倒れそうになる心根を噛み締められた歯が軋む痛みで支え、ノマはゆっくりと息を吸った。
「戯言でも、虚言でもないよ」
「では何だ。私が人に裏切られ、あまつさえホロビを滅する直前に殺されているだと?」
それは、
「戯言でも虚言でもないのなら、貴様の妄想だろう」
「違う。真実だよ」
グゼのコメカミが痙攣した。
「…………ならば真実という証拠はあるか? 私が、知らないその話が真実だと」
「…………」
ノマは、言葉につまった。確かに、カザラから話を聞いただけの自分が、証拠を提示することなどできない。だが、これが真実だという直感もあった。
――あるいは、その直感はホロビの記憶の囁きなのかもしれないが……
「証拠はないよ」
ややあって、ノマは力無くそう言い、しかし即座に
「でも真実だ」
「いい加減に…」
「真実でなければ、あの優しいカザラが、あんなにも憎しみに染まったりするもんか!」
ほとんど叫びに近いノマの声に、グゼは逆に静かに言い捨てた。
「汚い男だな」
ノマを睨みやり、憎々し気にゆっくりと、
「カザラのせいにすれば、私が信じるとでも思ったか?」
「違う! なんであなたは」
どうしようもない切なさと悔しさに、ノマはたまらず叫んだ。
「そこまで僕を信じてくれない!?」
「誰が貴様を信じるだと!?」
すると、ノマの叫びに呼応されたかのように、グゼも激昂して言い返した。
「薄汚いホロビの器が、分相応をわきまえろ!」
刹那、グゼはノマから流れてきた憎悪の気配を敏感に感じ取った。
(ホロビか!?)
いよいよ、待ち焦がれた敵に相対するかと胸が高鳴る。
――が、そのグゼの期待は、すぐに消沈した。
ノマの背後から現れた二人の人間を視界に捕え、憎悪の源がホロビでないことを悟ったのだ。
「…………?」
グゼの視線と表情からノマは自分の背後に振り返り、狼狽した。
「――――」
振り返ったその瞬間、視界に飛び込んできた
だが、
「カザラ?」
息を弾ませ額に汗するルシュの隣、右眼に眼帯を移し、異形の左目をギョロつかせる男に、ノマはうめくように問うた。
「後で話す」
カザラは一言で返し、ノマの隣に並んだ。
「今はどうでもいいだろう」
その言葉に反論の
「やっぱり……来るんだね」
「まぁな」
少し寂し気なノマの言葉に、彼が何を思っていたのか感じ取り、カザラは苦笑した。そして、黙したままにいるグゼに声をかける。
「やたらと……苛ついているようだな」
グゼはカザラを見つめたまま、ふと気になっていた。
カザラから得られる、感情の波。彼は昨日と変わらずに、強い憎しみを放ち、こちらを見つめている。そう、見つめている。だが、昨日と変わらない憎悪を纏いながらも、彼の眼差しには今、憎しみどころか敵意すら見受けられない。
「…………これはどうしたことかな?」
彼の、化物の眼にたゆとう
「一晩で、何があった?」
その一言がこちらの心境を悟ったものであることに気づいて、カザラは皮肉げに大きな片笑みを作った。
「……時の止まった過去から、一歩抜け出したのさ」
はぐらかす物言いにグゼはため息をつき、視線を黒髪の少女に移した。
「君は昨日会ったな」
「ええ」
少女はノマとカザラから少し離れた所、まるで自分達三人を見渡そうとしているかの位置にいる。あるいは、そのつもりなのかもしれないが。
「何をしに来た?」
グゼの自分への声に、ルシュは母親の声を思い出した。
「そうだよ、ルーちゃん。危ないから」
「ノマさん」
ルシュはノマを制し、声を
「危ないから……って何?」
「それは……」
「わたしカザラと同じ気持ちだから」
「ということは」
グゼが自分の言葉を受けたことに、視線をノマからユリネへと戻してルシュはうなずいた。
「そうですね。あなたの敵かもしれない」
グゼは嘆息し、カザラに
「どうやら、この娘は知ったようだが……お前は真実を曲げることなく語ったか?」
「一応、そのつもりだ」
「…………信じられんな」
頭を振り、グゼはルシュに言った。
「娘、このノマは世界を滅ぼさんとする悪魔なのだぞ?」
「それはホロビ。ノマさんとは違う」
ルシュはグゼを睨むように言い返し、
「それと、わたしはルシュ。ルシュ・アカニネといいます」
「そうか」
グゼはうなずき
「ではルシュ。私の敵になるということは、どんな意味を持っているのか解っているのだな?」
「ええ」
「……………………まったく、こんなことは初めてだ」
グゼは困惑の笑みを浮かべた。
「一人どころか、二人も私の邪魔をしようとはな」
その声音は、悲しみに満ちていた。
カザラだけならばまだしも、昨日初めて自分のことを知った者までが敵対してくるとは……グゼにとっては耳も目も塞ぎたい事だった。
「覚えているのか?」
と、ふいにカザラが、グゼに言った。
「……何だと?」
「お前は本当に、お前に敵対したものは俺達が初めてだというのか?」
「その通りだ。このようなこと、先例などない」
クッと、カザラの唇が歪んだ。笑っているように、怒っているように。
「なるほど。やはり覚えていないか」
つぶやいたカザラの全身から、再び憎悪が溢れ出した。
「やはり覚えていないだと?」
グゼは、カザラの言葉に眉をひそめ、問うた。
「私が何を覚えていないというのだ」
「真実を」
その答えに、グゼは双眸を細めた。
「そうか……お前の入れ知恵であったか」
「入れ知恵?」
「僕が話したんだ」
カザラはノマに視線を移し、次いでグゼに目を戻した。
「それで信じる信じない……か」
到着の直前に聞こえてきた怒号を思い出し、得心する。
その顔には、また歪んだ笑みがあった。
それは、ノマには怒っているように見えた。それは、グゼにはただ笑っているように見えた。そして、ルシュには怒っているようにも、ただ笑っているようにも見えた。
そのままに、カザラは言った。
「残念ながら、な。俺の入れ知恵じゃあない。
間違いなく、真実だ」
そこで、カザラは嘆息した。
「と言っても、敵である俺の言葉を、信じるわけもないか」
グゼは答えない。ただ、カザラを見据えている。
ノマも、グゼと同じように彼を見つめていた。三者の間には沈黙が降り、誰も身じろぎ一つしない。
その様子を一人離れた所で観ているルシュは、
(すごいな……)
胸中に、つぶやいていた。
カザラの存在感というものが、改めて痛烈に感じられる。
因縁の中に在る三者の中で、彼は飛び抜けていた。その意志、その心力、その存在は人ではないグゼをも越え、影響を周囲全てに与えている。
「だが、グゼ」
ややあって、カザラが言った。
「
「なんだと?」
「真実が俺の『入れ知恵』だと分かった今ならば信じないのも解る。だが何故お前は、ノマが語ったその時に、信じられなかった?」
「…………その言葉、理解しかねるな」
「お前は理解しているはずだ」
無差別に、聞く者全てに強烈な悪情を叩きつけるかのようなその声に、グゼは一瞬閉口した。
「では逆に聞こう。何故私がノマの言う事を信じる」
「人間を愛するお前なら、信じられるだろう」
「そいつはホロビなのだぞ」
犬歯をむき出して、グゼが吐き捨てる。
ルシュは眉をひそめた。ユリネの顔が憎悪に満ち、醜く歪んでいるところなど、見たくもなかった。だが自分以上に見たくないのはノマだと、ルシュが彼に目をやると、ノマは気丈にも言い返していた。
「僕はホロビじゃない」
グゼの片眉がはねた。ノマが口を開く度に吐き出す、いちいちささくれに触れてくる声。心に
「もうお前は黙っていろ」
語気強く言い放たれた怒気に、ノマは口惜しさを覚えた。そこにあるのは、自分を除かんとする意志だった。もはやグゼは、自分と話す気はないのであろう。現れた強大な敵に目を固め、こちらに対する注意は薄れている。
「黙らない」
だが、ノマは言った。
「ここで黙れば、意味がないんだ」
「…………」
ノマの言葉に、ルシュはカザラの表情の奥に、
しかし、カザラとは逆に、グゼの相貌はひきつり、目は切れ上がり殺気が滲み溢れている。
「初めより、お前の全てに、意味などない。あるとすれば、ホロビとして私に殺されるために生まれてきたという、運命だけだ」
嫌悪に弾かれそうな理性を保つ自分の声が、涙声のように揺れていることを自覚しながら、グゼはノマを睨みつけた。
ノマは目頭に皺を寄せ、それでも退こうという意を見せない。その態度にグゼは怒気を軋ませて……そして、はたと気づいた。
「っ」
慌てて、カザラへと目を戻す。そこに、彼がいることを確かめるような目を。
「……」
勿論、そこに彼はいた。
……勿論、いた。
しかし、彼がこちらに与えてくる重圧が、明らかに、これまでとは大きく違う。襲い掛かるように迫る感情の力が弱まっているわけではない。圧と力はそのままに、質が変わっている。
「――――何が」
グゼは、振り向いた拍子に頬にかかった髪を直し、探るような口調で訊ねた。
「お前を変えたのだ?」
カザラはその言葉と、その表情に顔の片面を歪めながら、訊き返した。
「いきなり、どうした」
「こういう時、お前は私を憎んでいたのではなかったか?」
カザラは、ノマがいない時でさえ、ノマに対するこちらの憎悪に
それが、今はどうだ。
彼が放つのは激しくも
「……………………俺は、変わっちゃいない」
ややあって、カザラが口を開いた。
「お前が憎い。だが、お前が憎いわけじゃない」
「?」
彼以外の者全てが疑問符を打った。無理もない、カザラの言葉は矛盾そのものであるのだから。
そして、それを指摘されるよりも早く、カザラは吐き捨てるように言った。
「俺が憎むのは、過去だ」
カザラに作られた心の隙を極寒の轟風で貫かれ、三人は同時に表情を硬直させた。
彼を中心に、また、あの全てを蝕む世界がここに現れた。昨日、彼とグゼとの間に現れた世界。先ほど、過去を覚えていないグゼに対し片鱗を見せた、カザラの揺るぎない憎悪が支配する場。
「過去、だと?」
「そうだ、過去だ。先に生まれ、俺達に身勝手な『運命』を押しつけやがった先人共だ。それには、お前も含まれる」
「…………」
ルシュはカザラの心の波に、ひりひりとした痺れを感じていた。彼の視界に入っていないのにもかかわらず、これほどのものを感じ取れるのだ。その左眼に睨み捕われているグゼが受けるものは、いかほどのものだろう。
いつの間にか握っていた拳を開きながらグゼに注意を向けようとし、ふいに、憎しみの空間がかき消えたことに、ルシュは慌てて瞳をカザラに戻した。
彼は少し悲しげに、表情を変えていた。
「とはいえ……お前は同時に、俺達と同じだ」
「何?」
グゼの顔は強張っている。カザラの心が唐突に元に戻ったことに、少し狼狽しているようだった。
「『他の者』を使い捨て、己等の利のためだけに奴らが歪めた世界を背負わされた、『仲間』だ」
「…………」
「そして、人に裏切られていることに気づくことを封じられ、心狂わされ、いいように踊らされている。お前が持つのは純粋な愛だというのに、守られる者は自らそれを
…………俺は、お前が憎いよ。そして憐れでならない」
カザラの声は穏やかだった。その中に憎しみと慈しみを忍ばせ、不思議なほどに心に染み渡った。
誰も何も言わない。
口をつぐんだカザラを見つめたままに、誰もが何も言えずにいた。
この沈黙は、ルシュには、半ば永久に続くかのように思えた。
しかし、この
「そうやって、『真実』とやらを
蔑みの、吐き捨てるかのような口調のグゼに、ノマは思わず反論した。
「あなたは、カザラの言うことも信じられないのか!?」
叫びのような怒声に、グゼは目を細めた。
ノマの顔に、明らかな怒りがあった。どんな言葉を受けようとも怒りを見せなかった彼が、今、純粋に怒っている。
それにグゼは、ほんの僅かに、薄く微笑んだ。
「……」
そのグゼの笑みをカザラの左眼は見逃さなかった。
「カザラはあなたのことも想っているのに」
「お前がいなければ、信じるさ」
「っ」
「ノマ」
なおもグゼに言葉をぶつけようとするノマを、カザラは制した。
その物静かな声に気を
「やはり鋭いな、グゼ。そう、嘘だよ」
「……カザラ?」
ノマが戸惑いの声を上げる。しかしカザラは取り合わない。
「こいつでお前の存在意義そのものを否定しようと思って仕込んでおいたんだが……甘かったようだな」
ノマはカザラの台詞に、悟った。ルシュに確認の視線を送ると、彼女は口唇を真一文字に結んで応えてきた。
(カザラは嘘をついている)
「冷や冷やしたよ。朝起きてみたら、ノマが勝手に先走っていて」
カザラは開き直ったように口角を
「正直、焦った。お前に呼応して、ホロビが出てくる可能性もあったからな」
(……それでか)
グゼは、カザラが初めから左眼を開放していたことに納得した。その上で、彼の言葉は正しいのだろうとも。そしてそれは、カザラが浮かべた嘲りの笑みで確固としたものに変わった。
「だが残念だったな。グゼ、お前とこれほど接してもホロビの欠片すらも出てこねぇ。いい加減、諦めたらどうだ?」
カザラの顔は、ノマやルシュにも不快を与えるほどの表情を刻んでいた。
――「嘘を本当にしてたんだよ」
昨夜の彼の言葉を思い出し、ルシュは首を絞められているように息苦しかった。
「そうもいかぬよ」
グゼが、哀しそうに言う。その表情は、カザラがグゼに『いらない』と言った時のものと、同じだった。
「そうもいかない、か。平行線は崩さないわけだな、あくまで、お前は」
「そうだ」
「だがホロビが出ない以上、お前は無駄に時を刻むのか?」
その問いかけに、グゼが沈痛の様を表した。カザラは、何よりも痛い所に矛を突き立ててきた。
確かにホロビがいなければ、ホロビより人間を守るという存在意義が――自分の存在そのものが成り立たなくなる。
「…………」
グゼはしばし、
「あるのか?」
目には見えざる態度の変化を見取って、カザラが鋭く言う。
「……」
グゼは答えない。だがその沈黙には、余裕があった。
「じゃあ、やってみろ」
「何?」
一瞬、グゼはカザラの言った事が解らず、思わず問い返していた。しかしすぐに理解し、驚きと共に再び問う。
「やってみろだと?」
「そうだ。手段があるなら、ホロビを導き出してみろ」
はっきりと言い放ったカザラに、ノマとルシュも動揺を隠せなかった。
カザラがホロビの出現を促す……例えグゼを説得するためだとはいえ、それは信じられないことだった。その意味は、ノマの死と直結しているのだから……
「もしホロビが現れたなら、俺はノマを殺すことを止めない。お前に従い、協力しよう」
一転したカザラの言動を猜疑に満ちた双眸で捕えながら、グゼは一言、つぶやくように言った。
「挑発か?」
「交渉だ」
即答するカザラの瞳に、言葉に、嘘はない。
ノマは彼の、
彼は、自分に任せてくれたのだ。
全てを背負って、重しを分けてくれなかった彼が、戦いに
(僕を加えてくれたんだ)
カザラはグゼを見たままにいる。
ノマは誰に対するでもなく挑みの色を表し、グゼに体を向けた。
「僕は、ホロビを封じ続けるよ」
何度目かの、繰り返された言葉。それを読むノマの声は今までで最も強く、自信に満ちていた。
グゼは胸に湧き起こる気色悪い感情に眉根をひそめ、しかし笑みを浮かべながらノマに顔を向けた。
最初は戸惑ったが……これは、またとない好機だ。こちらには、強力な手段がある。怒りという、憎しみに近い感情を見せた今のノマには防ぎようのない言葉が。それは奴の魂に宿るホロビを掴み、きっと
「カザラよ」
グゼはカザラに面を向けて、言った。
「その言葉、誓うな?」
「……ああ」
グゼに、グゼと同じ表情を返し、誓約するカザラ。その二つの意志を交互に見、ルシュは何か、強烈な違和を感じていた。
「やれるもんなら……な」
だが、ルシュが違和の正体を得る暇はなかった。
「やれるものなら……か。もしやお前は、何か勘違いをしていないか?」
「何をだ」
「いざとなれば、ノマを殺してしまえばいいのだ。ホロビが表になくとも、我が『力』は器の魂に宿るホロビの魂に届く」
「……勘違い、ね」
カザラは嘆息した。
「できるかよ。お前に、人であるノマを殺すことが」
「そうかな?」
「何?」
グゼはカザラから瞳をノマに戻した。
ノマは、深い
「お前も、私が人を殺せぬと思っているか?」
ノマは、ゆっくりとうなずく。
「それは誤りだ。私はもう、すでに一人殺した」
その言葉に、ノマの様子に大きな情動はない。ただ、グゼの言うことがあまり理解できていないような、中途半端な戸惑いを浮かべている。
そこに、グゼは言葉を投げつけた。
「お前の子だ」
一瞬、場の時が止まった。ノマの、カザラのルシュの表情が凍りつき、瞳が硬直する。
「全く危険なことだ。ホロビの子だと?」
口の端を引き上げ、肩をすくめるグゼ――ユリネの顔――グゼの表情に、ノマの全身から血の気がひいていく。その眼が驚愕に見開かれ、引き締めていた唇が力を無くす。
「ぇ?」
小さな、声。
ノマがこぼした
「知らなかったのか? 私が
ノマの様子が激変した。顔面が蒼白となり、指が細かく震えている。先までの落ち着きは、もはや微塵もなくなっていた。
「ノマさん!」
ルシュは平静を、グゼの虚言に奪われてしまったノマの名を、焦りの中で叫んだ。
ノマが、ゆっくりとルシュに目を向ける。
彼女はこちらに注意を向けてくれた彼に、グゼがそんなことをできるはずがない、そう忠告しようと口を開き――
「!」
しかし、視界の隅にあったカザラの形相に気づいて、喉をひきつらせ、言いかけていた言葉を飲み込んだ。
まるで鬼のような……左眼の姿のせいもあって本当にそう見えるカザラの顔は、ルシュにノマへの助けを強固に禁じていた。
(なんで!?)
恐怖すら覚えるカザラの制止に、ルシュは声なく口を動かした。
そして彼女は、ノマが、またゆっくりとグゼに目を戻す姿を見、しまったと内心に焦りの声を上げた。
今の自分の顔は、カザラに怯えたその表情は、ノマにはグゼの言葉に脅えた顔に見えたはずだ。これでは、彼を助けるどころか、逆にグゼに協力してしまう。
「それを殺したのか」
慌ててノマに駆け寄ろうとするルシュを制するように、カザラが口を開く。
「カザラ!!」
ルシュがカザラを咎める声を呆然と耳にしながら、ノマはカザラが問うたことを自らも口にした。
「殺した? 僕と、ユリネの子どもを?」
「ノマさん!」
ルシュの悲鳴が頭蓋の中で反響し、気分が悪くなる。ノマは、眼底が泥になったのか、急にぐらついてきた視界の中に懸命に『妻』の表情を納めていた。
その柔らかい唇が、一言嘘だと言うことを祈りながら、
「…………そう。殺した。将来のために」
ユリネが、嬉しそうに、言った。
「――――!!」
瞬間、ノマの体から怨念が溢れ出した。それは彼のものと言うには余りに過ぎ、粘りつくあらゆる負の感情が、ノマを源に急速に世界を侵していった。
ルシュは、魂が震えるのを感じた。本能が、怖いと慟哭している。頭の中で誰かが逃げ出せと絶叫している。
木々や池の水までもが、ノマが撒き散らす恐怖に怯えている。次第に色濃くなっていく絶望にざわめき泣き出している。
「ノマさん!!」
ルシュは絶叫し、ノマを助けようと、駆け寄ろうとした。
そこにカザラが体を割り込ませた。
鋼のような
「カザラ!!」
怒声を浴びせて……はたと、ルシュは彼の
「…………馬鹿」
ルシュはカザラの意図を理解して、小さく、言った。
カザラは、何も言わずノマとグゼへ振り返った。
ノマは全身を激しく震わせ、膝を地につき苦悶の形相で頭を抱えている。
それを見るグゼの表情は狂喜していた。まるで運命の赤い糸で結ばれた恋人と、奇跡の再会を果たしているかのように、破顔していた。
そしてカザラは、ノマから溢れるココロが膨れ上がる
「!」
瞬間、カザラが弾かれたように駆け、ルシュは、グゼが見せた凄絶な殺意にただ、恐怖するしかなかった。
――――――――――――――――――暗く
その中で
憎い
ノマが叫んだ。
憎い!
呪言の渦が見える、憎悪の猛りが見える。
それは自分のもの……
憎い!!
ノマは魂を割り砕く悲鳴に、絶叫した。
憎い!!!
闇の中にはグゼの姿が浮かんでいた。
殺――――
我が子を殺し、今そこで笑うグゼの――ユリネの――グゼのグゼのグゼの姿が、猛火を背に絶唱している。殺したと。
殺し、て――――
グゼの姿が溶けた。溶けたグゼは有象無象の人形劇を生み出しては潰していった。そのどれもが、ホロビの憎悪を災禍の中にくべていく。
殺してやる――――
誰がそう言っているのだろう。ただそれだけを、悲しく繰り返しているのは、一体誰だろう。
グゼであったまどろみが見せる陰惨な悪夢を見ながら、ノマは霞がかる意識を必死に働かせた。
殺してやる――――ホロビが叫んでいるのか。
――殺してやる!
それとも僕が叫んでいるのか。
――殺してやる! 誰も彼も。カザラもルシュも村の皆も人間共を殺してやる! グゼを。ユリネを――そうだ! 殺してやるんだ!!
脳裏を赤黒い闇が包み込んだ。
ノマは体を飲み込んでいく憎悪の海の純粋さに、奇妙な心地良さも感じていた。瞼の裏に、ユリネの笑顔が浮かぶ。この思い出だけを胸に
――殺してやる!
刹那、闇に混じって彼の背がユリネの笑顔を遮った。
殺して――――
「 ――るな!!」
「――――――――」
魂が抜けたかのように、呆けた顔で涙を流すノマの双眸に、彼の背が映った。
一瞬にして、記憶を突き破ってあの時の光景が、眼前にあるその姿に重ね描かれた。
「カザ……ラ?」
あの時も、こんな風に、気がつけば彼の背中があった。
恐ろしい未来が、瞳の奥に去来する。心臓が、張り裂けそうになる。
「カザラ?」
その光景に目を奪われ、ルシュは震えていた。
その中で
「カザラ!」
「…………」
もう一度ノマが自分の名を呼んでくる。その切迫した声に鼓膜を叩かせながら、カザラはゆっくりと目をグゼの瞳に合わせた。
「……良かったな」
グゼは見開いた双眸を凍りつかせ、顔を絶望的なほどに硬直させていた。
「今度は、止められたじゃねぇか」
グゼが茫然としたまま、己の手先を見る。
グゼが突き出した
「 」
グゼは何も言わない。何も言えず、ただカザラを凝視した。
彼は少しの間を置いて、嘆くように言った。
「本当なんだよ、グゼ……」
再びこの場に、禍々しいココロが溢れた。
「ノマの話したことは、全て真実なんだ」
「――――――」
グゼはカザラがまた現した情動によろめき、怯えているように身をすくめ、じりじりと後退した。
「そんな……」
(信じられないのも、無理はないか)
いかにグゼとて、自分の存在を否定する事象に、平静でいられるはずもないだろう。
「……そんな」
グゼはひたすら同じ言葉を繰り返すことしかなかった。
ホロビが
カザラの言う『真実』。己にあるという、
そして何よりも、
「なぜお前が、ホロビと同じ憎しみを放つ!」
耐え切れず、グゼは金切り声で絶叫した。
それに、ノマに手を貸し立ち上がらせていたカザラが、グゼからは離さずにいた眼に
「なぜお前が、そこまで憎んでいるのだ! 憎めるのだ!!」
グゼの心に、ノマと話していた時に脳裏をかすめた言葉が、ひどく色濃く刻み出される。その時は全てを思わずにいた。だが、今は、確信している。
これではまるで、カザラがホロビのようだ。
「なぜ、人間だというのに!」
その問いの答え。それをもう、グゼは理解しているのだろう。――それともあるいは、理解しているのに理解したくないのかもしれない。
自分の信じるもの、いや、自身の『ホロビを滅するという存在』そのものが覆されかけ、死相を浮かべるグゼの問いに、カザラは一言だけ告げた。
「人間だから、だろう」
グゼの頭が
その言葉は、グゼの人間に対する想いを、守るべき立場にあるという信念を、根元から薙ぎ倒すに十分な力を持っていた。
「――――――」
ホロビのような、カザラ。あの村を憎しみの炎に埋め滅ぼした、確かに、あの村にとっては『ホロビ』そのものであったカザラ。彼が言うのであれば、人間はホロビにもなれるのだろうか。脳裏にホロビの姿がかすめる。あれはどうして産まれたのだったか。私と同じように、人間に望まれて産まれたのだったのだろうか。ひどく心騒ぐ、ひどく恐ろしい、恐怖そのものでしかない不安が魂の奥底に爪を立てる。それともまさか、ホロビよ、お前は人間から生まれたか。カザラのように、カザラのような人間から生まれ出でたのか。ならば、もしそうならば、私は人間をも殺さねばならない。人間をホロビから守るために、私は、人間を滅ぼさねばならない。
そうすることでしか存在はできない。だがそれは、けして成し遂げることはできない。できるはずもない。相反することで存在が許される二つを、溶け合わせることは決してできない。
ぐぜハ、ほろびニハナレナイ。
そして目前には、もはや己には成しえぬホロビの封印を、またも遂げてみせた人間がいる。
「………………」
グゼは涙していた。
カザラの憎しみに、魂が打ち砕かれていく。
ノマの存在に、絶対たる存在意義が打ち消される。
「ユリネ!」
グゼの耳に、カザラの叫びが届いた。
彼は宿主の心を、あの時と同じように引き出すつもりなのだろう。グゼはあの時、彼が、記憶が途切れる直前に叫んでいた言葉を思い出していた。
――「お前がノマを救え!」
グゼは微笑んだ。それは、諦めの笑みだった。
胸の底から吹き抜けてくる別の心を感じ、それから心を守り切れないと、グゼは悟っていた。
自分の魂は、絶望と失意に汚れてしまった。もう、ノマを想う宿主の純粋な魂に勝ることはできない。
「まだ出てくるな!!」
「!?」
刹那、その時が断ち切られた。