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 ノマは、涙を流していた。
 尽きることなく溢れる。焦げつきそうなほど熱い滴が、頬を鼻を伝い落ちていく。
「…………」
 闇が、周囲を取り巻いていた。
 ベッドの上に体を起こしたノマは、灯りも点けぬままに泣き続けていた。鳴咽もうめきもない。ただ、目覚める前から流れていた涙を、そのまま流し続けていた。
 ――夢を見た。
 あまりに生々しく、余りに残酷な夢を。
「…………」
 僕の前に僕がいた。うつむき、影の中に顔を隠した僕が。
 僕は透明な宝玉を手にしていた。ちょうど幼子の拳ほどの、純粋な輝きを放つ宝石。だけど、それは僕のものではないはずだった。僕の宝玉は同じ形、同じ大きさでも
「血のように赤かった」
 その声に、ノマは顔を振り上げた。
 目の前に、うつむき影の中に顔を隠した、僕がいる。闇の中にぼんやりと、しっかりとした輪郭をもって、すぐそこに佇んでいる。掌の上で、きらきらと、太陽の光を固めた珠が輝いている。
 ノマは目を見開いた。声が出ない。まだ夢を見ているのか、それともうつつに幻があるのか。
 僕が持つ透明な宝玉の中に一滴の血が滲んだ。
 血はやがて小さく大きく渦を巻くように、無数のひるが分裂と伸縮を繰り返しているように、蠢動しゅんどう蠕動ぜんどうし、侵食し、あっという間に宝玉を真紅に染め上げた。
「こんな風に、赤かった」
 僕は、こちらにギラギラとぬめる宝玉を差し出してきた。
「覚えているだろう? あの日、ホロビ役のお前に手渡されたものだ」
 僕は肩を揺らした。笑っているらしい。とても愉快そうに、とても蔑むように。
「まったく、こいつはカザラに与えられるべきだったのになあ」
「そんなことない!」
 僕の言葉に、ノマは叫んだ。
「それは……僕にこそ相応しいんだ」
「相応しい? ふさわしい。そう、フサワシイ!」
 僕は体を一寸とて動かさない。ただ声一つが、おどけて嫌に騒ぎ立てている。違和に満ちたその光景は、滲み沸くような嫌悪を、ノマに与えた。
「嘘だね」
 僕は吐き捨てた。
「こいつは罪を重ねるカザラにこそ相応しいのさ。ユリネにグゼを押しつけ、僕と殺し合う運命を作り上げ、利己のために村人を殺し、目的のために家族も誰をも裏切り! そして今も! 僕達を苦しめ続ける!!」
「カザラは……僕達のために苦しんでいるんだ。罪があるとすれば、それは…………」
 ノマは、そこで口をつぐんだ。
「僕達か」
 嘲るように、僕がその先を続ける。
「そうだなぁ。僕と、ユリネが全部悪いんだ」
 僕が、動いた。
 腕を緩慢に持ち上げて、影の中に埋没している顔に赤い宝玉を近づける。そして、ゴクン、妙に大きな音を立て、宝玉が僕に飲み込まれた。
「だったら、僕の方が相応しいや」
 嬉しそうなその声に、ノマは唇を噛み締めた。
「本当、あなたがホロビにふさわしいのよ」
 ユリネの声が、忽然とノマの耳を撫でた。
「?」
 あまりに予想外なことに、彼は周囲を見回した。だが、ユリネはどこにもいない。どこにも、いるはずがなかった。
「なんで私、あなたなんかと結婚したのかしら」
 カラカラと乾いた音と共に、再びユリネの声。ノマは、声の元に目をやり、ぎょっと息を飲んだ。
 僕の手が、一体の人形パペットを操っていた。いや、糸はない。だが、平を下に差し出された手の下で、木偶人形が全身を滑稽に曲げて踊っていた。
 服も模様もない、関節もむき出しの人形パペットの顔には、ユリネの似せ絵が描かれていた。嫌味なほど誇張された笑顔で、大きく開かれた薄っぺらな瞳で、こちらを凝視している。
「ホロビを宿した卑しい男。なんでそんなことに気づかなかったのかしら」
 ユリネ人形の口が、絵で描かれている口がパクパクと動く度、ユリネの声が周囲に響いた。
「傍にカザラっていう、素敵な人がいたのに」
 その台詞は、ズグリとノマの心を貫いた。
 そう。そう思っている。カザラがユリネと結ばれれば、何の問題もなかった。
 それなのに、自分は薄々感じていた彼の気持ちを無視してユリネを手に入れたのだ。
 それなのに……彼は、何も言わずに助けてくれる。命を懸けて、たくさん傷ついて。
 それなのに!
「本当に非道い人」
 ユリネの侮蔑。
「いや〜僕がホロビになって、本当に良かった」
 僕が拍手し、喝采する。乾いた音を鳴らす手のその下で、宙に浮いたユリネ人形はカタカタと不気味に踊っていた。
「いやまだか。まだノマか。さぁ、さっさとホロビになろうよ」
「そして私に殺されて」
 ぼうっと、闇の中から、ユリネ人形と同じ操り人形が浮き出てきた。その顔には左目が描かれていない。
「大丈夫。あなたが死んだら、私は彼と結ばれるから」
 カタカタと、不自然な歩みでカザラ人形がユリネ人形の隣に並ぶ。
「それをカザラも望んでいる」
 僕が、笑いながら言った。
「建前じゃあ助けるとかなんとかキレイごと並べているけど、本当は僕を消してユリネを奪いたいのさ」
 ノマの心に、絡みつき、こびりつく。憎しみが、嫌悪が、憤怒が怨念が憎悪が
「ノマ、死んでくれ」
 ユリネ人形の隣に並んだカザラ人形が、言った。
 並び立った人形は、今までとは違う、嫌に艶めかしい動きで抱き締め合った。
「私達が幸せになるために」
 人形達の口が重なる。
 それは、今や彼と彼女は、カザラとユリネだった。
 見せるよう、見せつけるよう舌を絡ませる。濃密な甘美をねぶり合い、厚く愛しく口吸い合う。
 カザラの手がユリネの胸を揉みしだくと、ユリネの瞳が蕩けた。悶え狂う吐息が耳元でこだまする。遠く暗闇の底に甘い嬌声が這い回る。しだいにユリネは股を大きく開き、カザラの名を叫びながら激しく腰をくねらせ始めた。
「くっくっくっ」
 僕が笑う。喉を揺らし、笑う。
「カザラは、こうしたいのさ。ほぅら」
 と、カザラとユリネの姿がフと掻き消えた。
 すると、ノマの耳にカザラの笑い声が届いてきた。廊下への扉を越え、かすかにだが、しかし確かに聞こえてきた。
「こんなに楽しそうに笑っている。どうしてだと思う? どうしてだと思う? どうしてだと思う?」
 カザラの笑い声が、ベッドの下からも聞こえてくる。いや、箪笥たんすから。いや窓から。天井からランプからこの世の全てから天地を揺るがしカザラが笑い声を上げて、ノマを押し潰してくる。
「お前に死んで欲しいのさ。
 そして今、その機会が訪れた。だから笑ってんのさ!」
「それ以上言うな……」
「まったくこの世全ての人間は身勝手だ。結局全ては自分だけ。自分一人さえ良けりゃ愛する人も友達も家族も何もかも傷つける。互いに思いやることも知らなけりゃ、知ったふりして博愛はくあい掲げる。カザラもそうさ。ユリネもそうさ。そしてお前も!!」
「消えろ! もう消えてしまえ!!」
 ノマは絶叫した。金切り声で叫び狂う僕の口上に、胸に渦巻く殺意を吐き固めて叩きつけた。
 僕は、ぴたりと沈黙した。
「―――――――」
 沈黙したままノマをじっと見つめ、不意に、影の中の顔に赤赤い口を開いた。
 細く耳まで裂けたその口は、ニタリと、満足そうに笑っていた。
 そして――――
 ノマは、ベッドの上で寝汗を大量に流している自分に気がついた。
「…………」
 周囲には、闇。静かな夜息。
「…………夢? ……………………ホロビ?」
 そうつぶやいた時、廊下から微かに談笑する声が聞こえてきた。
 カザラと……ルシュの声だ。
 だが今は、僕はどこにもいない。だが、だが――
「……………………違う。
 あれは、僕だ」

 会話――と言っても、自分の問いに彼が答えるという形だった――が、一区切りついたところでルシュは息をついた。
「わたし、こんなに夜更ししたの、初めて」
「そうか」
 カザラは、彼女の瞼が緩んでいるのを見、言った。
「もう眠れそうだな」
 ルシュがうなずく。
「じゃあ、俺も寝るとするよ」
 言ってカザラが腰を浮かしたのに、ルシュは慌てて口を開いた。
「待って。最後にさ、聞きたいことがあるの」
「…………」
 カザラは少しだけルシュを見、それから椅子に座り直した。
 それを計って、彼女は問うた。
「もう、隠してること、無いよね?」
「おいおい……」
「だって、嫌だもん。話についていけないのは」
「大抵は話した。細かい所まで突っ込んだら一晩じゃ足りねえよ。それに、そこまでは必要でもないことばかりさ、残ってんのは」
 と言って、カザラはふと思い出した。
「そうか……一つだけ、訂正することがあったな」
「何?」
「末裔にも、いい人はいた」
 あれだけ悪く言っていた人間達の中に、いい人がいたと言うのに違和感を示すルシュに、カザラは言った。
「一人はユリネだ」
「えっ!?」
 思わず、ルシュは声を大にしていた。
「ユリネさんが?」
 自分の声の大きさに驚いたのか、今度は必要以上に小さな声で言う彼女に、カザラは目を細めた。
「ああ、純粋な末裔じゃないが、血は引いている」
「純粋?」
「…………基本的に、末裔共は近親婚を繰り返して血を守っていた。だから、例外的に『外』から伴侶を得た者は格が下がる。末裔の中で冷遇されるんだ。
 ……だからかな、ユリネの父親が俺に協力する心を持てたのは」
「じゃあ、いい人って」
「俺がこれだけの真実を知れたのは、ユリネの父親のお陰もある」
 うなずくルシュに、カザラは続けた。
「彼は、末裔の中で異質の人間だった。『外』から妻をめとり、グゼにも心酔していない。自分も純粋な末裔じゃなかったからかな。
 ユリネにグゼを押しつけちまった俺が例の部隊に入って色々なことを知っていって……『決意』を固めていったある日、言ってきたんだ。協力すると」
「……見抜かれたんだ」
 カザラは黙して答えないが、目遣いには肯定を表していた。
「…………なら、ユリネさんのお父さんは今はどこに?」
「死んだ」
「……死んだ?」
「ああ。彼は彼のやり方で……娘を守って、死んだ」
 カザラの目はどこか遠く、ユリネの父の死を遠望しているようだった。
 その瞳は、重い。幾つもの感情がない交ぜに固まっている。
 限りのない感謝を示しているようだった。
 途方もない羨望を送っているようだった。
 耐えられない悔恨を秘めているようだった。
 絶えることのない悵恨ちょうこんを抱えているようだった。
 とてつもない戒めの錨を心の奥底に打ち込まれた、逃げ場のない苦しみが彼の黒い瞳に影を落としているようだった。
 一体、その眼を通して、ユリネの父の死に何を見ているのか。
「…………」
 ルシュは、彼が見るものを訊くことはなく、しばし沈黙し、やおら、躊躇いがちに唇を割った。
「そのこと、ユリネさんには?」
「言っていない」
「どうして?」
「『何も告げない』と約束した。それに、言えばより悲しませちまうだろう」
「だめだよ」
 ルシュは即座に言った。
「言わなきゃ。お父さんの、愛を伝えなきゃ」
「…………愛を、伝える?」
「死んだおじいちゃんがね、教えてくれたの。命をつなぐことは生きているものには誰でもできる。だけど愛を伝えてはぐくめるのは人間だけだって」
 ルシュはカザラを見つめた。
「だから言わないと。だってユリネさんのお父さんも、命懸けでユリネさんを守ったんじゃない」
「…………」
 真っ直ぐに自分を見つめるルシュの瞳が、完全な黒ではなく、そこに凛とした夜明けの空の色、いつか美しい壁画に見たラピスラズリの深い青を秘めていることに、カザラは初めて気がついた。
「そうだな」
 思わず小さな笑みをこぼし、うなずいた。何の疑いもなく『愛』を口にできるこの少女を、少しだけ羨ましいと思う。
「伝えるよ。全てが終わったら」
 その言葉は、カザラが全てを終わらせた時に生きていることをも暗示している。ルシュは満面の笑顔で、それに応えた。
「さて、これでお開きにしようか」
 先に立ち上がったカザラを追って、ルシュも立ち上がる。彼女は小さくなった机上の蝋燭から手燭に火を移し、はたと気づいた。
「あれ? カザラ、灯りは?」
「昔の訓練のおかげで、夜目はきくんだ」
「でも、今日は月も出てないよ? それにこれ」
 と、ルシュは机の火を指差した。
「それは単に好きだからだよ。言ったろ? それに月が出てなくても、これぐらい、間取りも覚えてるし平気だ」
 本当は左目を使ったのだが、あえて言うこともない。
「へー。すごいね」
「大したもんじゃない」
 屈託ないルシュの感想に、少し後ろめたさを感じながら応えて、カザラは机の上の火を吹き消して台所に向かった。
 そして二人して使った器を洗い、廊下に戻った所でカザラは思い出した。
「ああ、そうだ。ルシュ」
「何?」
「お前、俺が二人にとって命に代えても守りたい人だって言ったよな」
「え? うん……」
 その時、自分が嫉妬していることを言ったのを思い出し、ルシュは少し口をもごつかせた。
「お前もそうさ」
「…………」
 ルシュは、カザラの顔を見つめた。そこにある一つだけの瞳は、彼女の手にある火を受けて、慣れない模様で優しい心を覗かせていた。
「そうかな」
「ああ」
 ルシュは、ほころんだ。
「ありがとう」
「礼を言うのはこっちだ」
 カザラは少し照れ臭そうに、彼女に背を向けた。
「……おやすみ」
「うん。おやすみ」
 自分に背を向けて、ノマが眠る寝室に静かに入っていくカザラを見送ってから、ルシュは客間へと戻った。先刻、逃げ出すように出た部屋の扉を静かに開き、もはや恐れ無い足取りで中へ入る。
 手元の光にぼんやりと照らし出される部屋は、いつもと同じ部屋だった。そのどこにも、違和感も、未知の闇もない。
「…………」
 ルシュはベッドに向かう途中、ふとカザラの葛籠へと近寄った。そして、手に触れる。
 この葛籠つづらも、ただの葛籠だ。カザラが殺した者達の亡霊を入れた黄泉の駕籠かごなどではない。
「カザラの贖罪って、このことも言ってたのかな」
 ルシュは葛籠をなでた。自らを絞首台に上る人間と言った、彼の顔を思い浮かべながら。
「…………人殺し、か」
 ルシュはベッドへ歩き、腰かけた。
「裁かれたなら、死罪……なんだろうな、カザラが言う通り」
 彼女は手燭を小卓に置き、しばしゆらめく火を見つめ、そうして吹き消した。
「…………人殺し…………許されざる…………」
 確かに殺人という大罪を犯しても、彼はノマとユリネを救った。だが、人を救うためということが、すなわち人殺しの免罪符になるなどということはない。
 ルシュは、そこに善悪を見ることが出来なかった。許す、許されぬに収めきれない。もし自分が彼の行為を裁けと神に命じられたとしても、きっと永劫にできないと思う。
(でも、カザラは、そんなことはどうでもいいんだろうな)
 彼にとって重要なのは、許す、許されないということではないだろう。許されても、きっと彼は苦しむ。許されなくともその苦しみは変わらない。
 カザラが殺された者の『時』を奪ってしまったことは、どうあっても変わらないから。
 その者その人が持つ、自らが担う未来。彼自身、奪われていたもの。そしてそれは、どう足掻いたところで取り戻すことも、返すこともできない。
 ルシュの胸には、逆巻きわだかまる苦しさが芽生えていた。彼女はそれを吐き出すように、深く深いため息をついた。
「……………………カザラ…………よく眠れてるのかな…………」

 静かに、ノマを起こさないように部屋に入ったカザラは、入った所で立ち止まり目を闇に慣れさせた。訓練の話は、まんざら嘘でもないのだ。
 しだいに、闇の中にそれぞれの輪郭が浮かび上がってくる。彼はゆっくりと足を進め、窓際に用意した寝袋とこに腰を落した。そして、ベッドの上でこちらに背を向けて眠っているノマに囁く。
「…………おやすみ、ノマ」
 その声に、溢れているのは慈しみだった。
 ノマは、カザラが寝床に入る布擦れの音を耳にしながら、唇を噛み締めた。
(そう。悪いのは僕だ)
 夢の中で、言えなかったこと。
(僕は今も大切なことなのに……)
 暗闇の中で小さくまとまり、恐怖に震えていたあの時とは違う。
(それなのに、君に任せっきりだ)
 ノマは闇の中、強い意志を瞳に宿していた。

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