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 透き通る陽光が照らす窓辺に椅子を寄せ、窓枠に頬杖をつくルシュの顔はにやついていた。鼻から少し歌が漏れている。その双眸は遠く山を眺めながらも、瞳には別のものが映っていた。
「美味しかったなぁ、昨日のクッキー……」
 昨日ユリネにごちそうしてもらったクッキーの味を反芻するように口を動かし、また顔中の筋肉を緩める。
 先ほどから、ずっとこの調子だった。
 今日の学校での授業が全て終わり、皆が帰宅した後の静かな校内の一部屋に一人。
 ここに戻ってきてから、ずっと……。
「御機嫌じゃないか」
 と、ルシュに声がかかった。彼女は声の主に振り返り、
「そう見える?」
「ええ」
 振り返った先には二人の少女がいた。一人は金に輝く髪を短髪に、もう一人は赤毛を三つ編みにしている。
「遅かったじゃない。リサ、エリー」
「ごめんね、先生のお説教、長くて」
 応えたのは、赤毛だった。細くかわいらしい声がそばかすの残る顔に似合っていると、ルシュは思っている。
「エリー、あなたも災難よね」
 ルシュは、すまなそうに眉を垂れるエリーの隣で平然としている少女を一瞥して、同情の声を発した。
「ラインを殴ったの、リサじゃない。それなのにお説教につき合わされるなんて」
「うるさいな。あいつがエリーの尻触ったのが悪いんだ」
「うん。私、リサは私のために怒ってくれたから、やっぱり私もついていかなきゃって思ったから……」
「いや…、まぁそうならそれでいいんだけど」
 にこやかなエリーに毒気を抜かれ、ルシュは少し肩をすくめた。
「それはそうと、そっちはどうだったんだよ」
「そっちって、わたし?」
「そうだよ」
 鞄を肩に、リサが詰め寄ってくる。彼女はルシュの前まで来ると、興味一杯の瞳で問うた。
「ダルに呼び出されてたじゃないか」
「ああ、さっきね」
「で、告白されたのか?」
 さらにリサに詰め寄られ、ルシュは頬をひきつらせながら身を引いた。椅子に足が当たり、押された椅子が机にぶつかった音がいやに大きかった。
「だめよぉリサ。こういうのはじっくり聞き出さないと」
 その様子に、慌ててエリーがリサの腕を引いた。
「あ、ああ」
 ルシュが仰け反っていることにようやく気づいて、リサが一歩退がる。ルシュは姿勢を戻し、安堵の息をついた。
「た、助かったわ。ありがと、エリー」
「ううん。いいの。じっくり聞きたいだけだから」
「……」
 ルシュは時々、エリーこそ最も油断のならぬ友だと感じることがあった。
「で、どうだったんだよ」
「つきあってくれって」
 その答えに、二人の少女は瞳を輝かせて歓声を上げた。
「それで? もちろん受けたんだろ?」
 再びリサが詰め寄ってくる。ルシュはそれを両手で押し止めながら、首を振った。
 静まり返った校内に、二人の少女の悲鳴が響き渡った。
「なんでだ!?」
 拳を握り、リサが叫ぶ。
「金持ちの息子で家柄も良く二枚目で性格まで良しときた男をなぜそうあっさりとフッた!?」
「そんなに力一杯聞かれてもなぁ」
 頭を掻いて、ルシュはうめいた。
「そうだよ、ルーちゃん。なんでなの? リサだったら玉の輿って飛びつくところよ?」
「いや……そんなこと言われてもね」
 苦笑しつつ、言う。
「だって好きじゃないもん」
 その一言に、リサとエリーは脱力して深く長い嘆息をついた。
「お前、男をその一言で何人フッたよ」
「リサより少ない」
 非難の眼を向けてくるリサに、ルシュは即座に言い返した。
 男に勝る気質、それに母親譲りの美貌。ルシュは初めてリサと会った時に何て魅力的な人だろうと思い、そしてその思いは今でも変わっていない。もちろん、そう思っているのはルシュだけではない。
「確かにリサの方がかわいそうな男子ひと大量に生産してるけど……」
「問題は質だ!」
 片頬に手を当てて言うエリーを遮り、リサは握り拳をルシュに突きつけた。
「お前に言い寄って来んのはどれもこれも上玉ばかりじゃねぇか! 土地有り地位有り金有りのお坊ちゃん! あ〜、もう! どいつもこいつもルシュのニッコリ攻撃に殺られやがって!!」
 リサはもどかしそうに身悶えた。そしてビシッと人差し指をルシュの
「あいた」
 眉間に突き立て、静かに言う。
「少しはあたしやエリーに回せよな。でなきゃお前、非道い女だ」
「だからぁ」
 リサの猛攻に苦笑いをひきつらせ、ルシュは彼女の手を払いのけた。
「そんなこと言われても困るって」
「なにが困るだ。ちょちょっとつき合っても損見るような奴等じゃねぇだろ、どいつもこいつも」
「好きでもないし、好みでもないのに?」
 その一言に、リサはたじろいだ。そして、エリーと申し合わせたようにため息をつく。
「……なによ」
 二人の態度にむくれたルシュに、腰に両手を当てうつむいたリサが言ってくる。
「身長は自分より20cmぐらい高くて、優しくて、少しかわいい感じの年上の男の人、だったな。ルシュの好みは」
「うん」
「村はずれの人夫ひとおっとだろ。ノマさんは」
「いけないわ。不倫になっちゃう。そんなことしたら、ルーちゃんの大好きなユリネさんも傷つけるわ」
「……」
 なおも言いつのってくる二人を……と、言うよりは、二人でルシュがノマと不倫をした場合どうなるかということを、想像しては勝手に喋りはしゃいでいる二人を眺め、ルシュは黙った。
 話はどんどん道を外れ、もはや愛憎悲劇の物語と化している。
「……あのさぁ」
 さすがにたまらず、低めに抑えた音量で、彼女は二人に声をかけた。その声に含まれたえも言われぬ迫力に、わめいていた二人がぴたりと口を閉じる。
「ノマさんは憧れの人なの! わたしはノマさんとユリネさんみたいな夫婦になりたいと思ってるんだから」
「……それもいいかもしれないけどさぁ」
 ルシュの主張にリサはガリガリと頭を掻いた。
「もっとほら。燃えるような恋ってもんもいいじゃん」
「そうねぇ。ノマさん達みたいにほんわりしたのもいいけど、物語に出てくるようなのもいいわねぇ」
 うっとりと、エリーが同意する。それにリサは勢いづき、
「だろ? ほら、エリーもそう言ってることだし、な? ルシュもここらでいっちょ夢見る少女を卒業してだな」
「夢見る少女って、わたしそんなんかなぁ」
「いつか夢の中の恋人に出会えるって思ってるところは、そうよね」
 エリーが肯定し、リサはルシュの肩に手を置いた。
「現実的になろうぜ、ルシュ。てなわけで上物逃がすな」
「結局、そこに行きつくわけね?」
「あたり前じゃねぇか。このままじゃ、お前一人の恋人も作れないぞ」
 リサの気持ちは、ルシュには何となく分かっていた。心配してくれているのだ。確かに、少々夢見が勝つ性分の自分を。
 しかし、
「それならわたしも言わせてもらおう」
 ルシュは肩に置かれたリサの手に、自分の手を重ねた。
「いい加減、ソナに声をかけたら?」
「…………!?」
 ルシュの反撃に、リサは一瞬の内に上気した。
「なななななに言ってんだ! ソナみたいな根暗になんであたしが!」
 耳まで真っ赤にして哀れなほどに取り乱すリサに、ルシュは底意地の悪い笑顔を見せた。
「人を愛するのに、理由なんていらないわよ」
「―――――エリー! てめぇ教えやがったな!?」
 リサはエリーに振り向いて、紅くなった顔を怒りに歪めた。
「内緒だって言っただろ!?」
「そうよ。ひどいわ。わたしだけのけ者にして」
「…………………………は?」
 リサは再びルシュに振り返った。彼女はにっこりと、そう、男子に大人気の笑顔で笑いかけていた。
「エリーは何も言ってないよ」
「あ?」
「うん。私言ってない。ルーちゃんが、リサってソナが好きなのかなぁって聞いてきた時も頑張ってごまかした」
 ルシュは墓穴を掘ったことに愕然と硬直しているリサの手を、しっかりと握り締めた。
「やっぱりそうだったのね」
「非道い女だお前は!」
「良かったぁ。これでもうルーちゃんに隠しごとしなくていいのね」
「こらエリー、そんなこと言ってないで助けろ! ルシュは農作業で握力あ痛たたた!!」
「そ。逃げられないよ」
 笑顔のままルシュはリサを引き寄せ、抱き締める。柔らかな金髪に頬を撫でられながら、耳元に唇を近づけて囁いた。
「ねぇリサ? さっき色々とわたしに言ってくれたけど……あなたこそ、このままじゃ恋人作れないんじゃなぁい?」
「は……離して? ルシュ」
「そうなのよ。リサってばソナに全然話しかけられなくって私も心配してたの。
 ルーちゃん、何かいい手ある?」
「エリー!」
「よぉし! これからそのことで盛り上がりましょう!!」
 腕の中で悲鳴を上げるリサを逃さないよう力を込めながら、ルシュは、さて、と笑った。

 上機嫌なエリーと、二人がかりの追及に精根尽き果てたリサと別れたルシュは、独り夕暮の道を歩いていた。もう一・二時間早ければ、学校から帰路を行く同村の級友がいただろうが、今はもう誰もいない。周囲に広がる畑も無人だ。すでに前方の空には夕飯仕度の煙が幾本もたなびいている。
「いつもは玉の輿とか男は顔とか言ってるくせに、リサってうぶなのね」
 ルシュは真っ赤な顔で想い人のことを話す友人を思い返して、つぶやいた。
 リサは、随分前からソナのことを慕っていたという。
 他の者がリサの恋の矢先がソナに向いていると知ったら、絶句するだろう。ソナは平凡な農家の息子で、大人しく目立たない少年だ。ルシュも彼の印象は『大人しい』の一言しかなかった。
 と言っても暗いわけではない。リサが言うには無口なだけらしい。人と話すことが苦手なだけで、話せば良い人だと分かる。一度だけ、彼と話したことがあるのだそうだ。その時のソナの笑顔が、リサの心を奪った。
 きっかけはそれだけだった。ルシュは思わずそれだけかと聞き返してしまった。それは普段のリサの恋愛に対する言動からは、まったく想像できない始まりだった。
 しかしその時のことを語るリサの瞳は本当に優しく、笑顔は見たこともないくらい緩んでいた。本当かという確認までは、訊かずとも必要なかった。
 以来リサは彼のことをそれとなく見続けて、しかし未だに話しかけられないでいる。
「いいよね、リサは。しっかり恋して」
 嘆息混じりにつぶやいて、ルシュは空を見上げた。
 朱に染まる大空に、山吹色に輝く雲が川に流れる帯のように漂っている。
「……いいよなぁ」
 ルシュとて、恋に関心がないわけではない。むしろ、恋というものに憧れている。そして二人が言った通り、いつか出会う運命の男性を夢見ている。
 その人といつ出会うのだろう。こんな顔だろうか、どんな声だろうか。きっと優しくわたしに笑いかけてくれる。どんな言葉を交わすのだろう。どんなに幸せになれるのだろう。
「はぁ……」
 思い巡らす度、甘い希望が切なく胸を占める。
 その人が、ノマのような人だったらどんなに素晴らしいだろう。そしてわたし達は、あの夫婦のように穏やかでも暖かい愛を育むのだ。
「……リサの言う通りかもなぁ」
 彼女は自嘲気味に笑った。そうそう都合のいいことは起きるものではない。それはよくよく知っている。苦しい不作の年を、何度も経験してきたのだから。
「待ってるだけじゃだめよねぇ」
 また、嘆息混じりにつぶやく。
「……羨ましいな」
 リサが。ノマが、ユリネが。
 だがルシュは信じたかった。いや、信じている。いつか、愛する者と出会えると。そして、その人に愛されたいと。
「あれ?」
 そんなことを考えながら歩いていたルシュの目に、一人の男の姿が映った。
 ちょうど村の入口あたり、行商人だろうか。一つの大きな葛籠つづらを傍らに、地面に座り込んでいる。
 暮れ時に影濃く遠目に表情は見えないが、男は途方にくれているようだとルシュは思った。根拠はないが、たたずまいがそう言っている。
 行商人だとすれば、宿の無い村に日の終わりに辿り着いた旅程に後悔しているのかもしれない。ここから宿のある町まで人の足で半日はかかる。到底夜までに町に行くことはできない。
 だが、一時ほど先にある隣村まで行けば乗合馬車の駅がある。確か日没に出る最終便があったはずだ。それに乗れば、宿がしまうまでに町に着けるだろう。
 もし男が宿を訪ねてきたら、それを教えてやろうと思いながらルシュは歩を少し早めた。日は少しずつ、しかし早々と落ちている。
 と、足音に気づいたか男がこちらに振り向いた。彼の顔を覆っていた陰が消える。その風貌を目にしたルシュは、とたんに小さく息を呑んだ。思わぬ怯えが浮かれていた心に突如として差し込まれ、知らずに歩調が狭まる。
 理由は単純だった。男が、怖かったのだ。
 男は左目を眼帯で覆っていた。髪は短く、黒髪。そして、何よりも、表に出ている右目が鋭い。鋭いだけでなく、何か――奥底に恐ろしいモノが潜んでいるかのような暗がりに感じる、得体の知れない寒気を思い出させる。
 ルシュが男から感じた怖さは、彼女がこれまで感じたどの恐怖とも勝手が違っていた。町で暴力を生活の糧にしている人間を見たことがある、旅芸人の一座が連れた猛獣の鼻息に触れたことがある、虻に驚いた馬に激突されて死にそうな目に合ったこともある。だがどの恐怖も今感じているものとは違う。
 もっと穏やかで、もっと深い恐れが胸に溢れている。まるでわざわいがすぐ傍に擦り寄ってきていることを、この目に見せつけられているようだ。
 ルシュの足はまた速められていた。男の眼差しから逃れるように視線を村に向け、一刻も早く家に隠れたいと、乾いた土を大股に蹴って進んだ。
 やがて男の前に差し掛かり、ルシュは声をかけずにその前を通り過ぎようとした。
「お嬢さん」
 すれ違いざまに、低い男の声が耳を打った。ルシュはそのまま走り去りたい気持ちを覚えながら――そのまま無視するには気が引けると思ってしまった。
 足が自然に前に進もうとするのを辞める。リサによくお人好しと言われるが、自分で自分にそう言いたくなったのは初めてだった。
 ルシュの歩は男を数歩過ぎたところで完全に止まり、彼女はゆっくり息を吸いながら振り返った。
「……何ですか?」
 すると男はほっとしたように目尻を下げた。
 ルシュは、男の眼差しが一瞬目を離した間にとても柔らかくなっていたことに驚いた。不思議なことに彼が放っていた威圧感が薄らいでいる。まるで化かされたように感じて戸惑ってしまう。
 そして、
「この辺に、ライベル夫妻は住んでいませんか?」
「――――え?」
 ルシュは、男が口にしたその名に、絶句した。

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