U. Prologue.

 ぶ厚い教科書を睨みながら、ルシュはもう何度目かのため息をついていた。
「苦戦してるみたいだね」
 そんな彼女を先刻から飽きもせずに眺めていたノマは、頃合いを計って声をかけた。
「…………」
 教科書から顔を上げたルシュは、活字を凝視していたため疲れて険悪な様を呈する双眸で、向かいのノマを見やる。
 彼は顎を組んだ手の上に乗せた格好で、こちらを見つめていた。その面には微笑みがある。穏やかで、優しい。彼女はこの笑顔が好きだった。
「そんなに大変かい?」
「……暗記、苦手なんだもん」
 教科書を閉じ、ルシュは伸びをした。
「ルーちゃん、頭いいのに」
 はぁと息をつきながら脱力する彼女に、ノマは言った。
 向かいに座る少女は、その言葉に小首を傾げた。背まで伸びる柔らかな黒髪が、一房肩に垂れた。彼女自慢の髪だ。細目の髪質だが、少しも痛んでいない。色褪せることのない黒は陽の下に艶やかに輝き、彼女の頭に天使の輪があるように見せる。
 その美しさは、家に入る弱い陽光の中でも失せることはなかった。彼女の人なつっこい顔立ちに、よくよく似合っている。
 ――もっとも、彼女はユリネの、色素の薄いそれに憧れているらしいが。
「ノマさん。変にわたしを誉めないで。調子に乗りやすいんだから」
「……思った通りに言ってるだけだよ、僕は」
「だから、それはノマさんが思ってるだけで、全然ちっともそうじゃないんだから」
「そうかなぁ」
 今度はノマが首を傾げた。
 ルシュは、小規模の村には珍しい『学校』に通っている。彼女はそこで、優秀な成績を修めていたはずだ。
「やっぱり頭いいよ、ルーちゃんは」
「だからやめて……。豚になって木に登っちゃうから」
 ルシュは苦笑した。彼に言われると、本当に木に登りたくなる。
「あら、ルーちゃんが豚なら、私は牛になっちゃうわ」
 と、そこへ、柔らかい鈴のような声が闖入してきた。ルシュはひきつりそうな苦笑いが消えない頬をさすりながら声の主に振り向き、非難の視線を送った。
「ユリネさんが牛なら、わたしは化物だよ」
「なぜ? ルーちゃん、可愛いのに」
 口を尖らせるルシュに言いながら、ユリネは頭のほおかむりを取った。その下にまとめていた髪が解け、さらりと、絹糸がこぼれるように流れる髪を、ルシュは羨望の眼差しで見つめた。
「ユリネさんに言われてもな……。顔どころか、背だって、胸の大きさだって負けてるのに」
「気にすることないわよぉ、そんなこと」
 掛けていた白い前掛けを外し、所在なげな顔をしている夫の隣にユリネが座る。
「ルーちゃん、これからだもの。きっと、ずっと綺麗になっていくわ」
 ユリネの微笑みは、まるで白花のように感じられた。その表情が持つ奇妙な力に中毒あてられ、ルシュは沈黙した。
「ね、あなた」
「へぇっ?」
 そこで話を振られるとは思っていなかったノマは虚を突かれ、緩めていた瞼と眉を跳ね上げた。
 目を丸くした夫の様子にユリネがブ然と言う。
「あら、なにその態度。まさかルーちゃんが綺麗にならないとでも言うの?」
「いや! そんなことないよ。僕も綺麗になると思ってるから」
 ノマが慌てて頭を振る。だがそれが逆に失言を取り繕おうとする誤魔化しに見えてしまって、さらに妻が詰め寄ってくる。
 子のいない中、子のある夫婦のように話題に上がるのはルシュのことだった。特にユリネはルシュのことを大切な友人と言うよりも、大切な妹だと思っている。妹の悪口は許さない。ノマの目元にほのりと浮かぶ笑い皺が、どんどん狼狽の色に濃くなっていく。
(いいよなぁ)
 そんな二人を眺めて、ルシュは胸の中でため息をついていた。いつ来ても、いつ会っても本当に幸せそうな夫婦だ。彼女はそんな二人に憧れていた。
「それでね」
 今にもノマが何度も頭を垂れそうになる頃合に、気が済んだらしくユリネがルシュに顔を向けた。ルシュが目配せで何かと聞くと、彼女は少し眉根を垂れて、
「クッキー、ちょっと作り過ぎちゃったんだけど、一杯食べてくれる?」
「あ、今クッキー作ってたの?」
 ルシュは歓声を上げた。てっきり夕食の用意をしていたとばかり思っていたのだが、確かに、そろそろ焼き上がりらしい匂いが漂いはじめていた。甘い、甘いけれど芳ばしく垂涎の食欲を誘う香り。それを掴むようにルシュは拳を握った。
「いいも何も、わたしユリネさんのお菓子だったら例え失敗作でも笑顔で食べる!」
 その剣幕にユリネは嬉しそうに笑い、そしてノマと共に吹き出した。
 はたと正気に戻ったルシュが赤面する中、ひとしきり笑ってからユリネは台所へ戻っていった。
「もう。そんなに笑うことないじゃない」
 未だに笑いを殺しきれないノマに、ルシュが不満をたれる。
「いやでも……」
 ひぃひぃと腹を抱えて、ノマ。
「本当に、ルーちゃんは、ユリネのお菓子、好きなんだね」
 息も絶え絶えなノマの様子にルシュはむくれて、再び教科書を開くと黙して目をそこに落とした。
「あれ? ルーちゃん怒っちゃった?」
 すると、ノマが戸惑いの声を上げた。
「ごめん、あやまるよ」
 おどおどとした口調。ルシュは、彼を見なくても彼の表情が見える気がして、くすりと笑った。
「怒ってません」
 顔を上げると、やはりノマは心配気なおもてでこちらを見ていた。
「本当に人がいよね、ノマさん」
 ノマはルシュの反応に、心底ホッとしていた。その様子は、自分より七つ上の男性を子どものように思わせる。思わず、彼女はまた笑った。
「ひどいなぁ。ルーちゃん、僕をからかったのか」
「からかったわけじゃないよ。でも、そうなっちゃったみたい」
「いいよ。僕はルーちゃんが苦手な暗記ものに苦しむの見てるから」
「う」
 ノマの反撃にうめいて、ルシュは教科書を一瞥した。そこには、年号やら事件名やらが列挙され、下にはその説明文が長々と記されている。
「……」
 ルシュは、嘆息した。
「やってることは似たり寄ったりなのに、全部名前違うんだもん」
 ぶつぶつと文句を言う彼女の言葉を耳にして、ノマは問うた。
「なにが?」
「歴史ってさ、何だか同じことのくり返しを覚えるだけに思えて、気が乗らないの」
「……王朝が建って、滅んで、またおこってって?」
「もしかしたら、この国もいずれそうなるのかもね」
 今は落ち着いているが、つい十数年前までは隣国と小競り合いを繰り返していたという。現王に代わってから大きな混乱はないが、後々どうなるか分かったものではない。
「だとしても、ルーちゃんはルーちゃんの人生を一生懸命に生きなきゃ」
 ノマの言葉の裏に、頑張れの意を読みとってルシュはうなだれた。
「ねぇ、ノマさん」
 そして、教科書の紙面を指で叩きながら言う。
「なんで人間って、同じこと何度もくり返すんだろうね」
「そんなに繰り返してるの?」
 そのノマの問い返しに、ルシュは大げさにうなずいてみせた。
「そりゃあもう。国が出来ては滅びまた作られては衰退し……」
 パッと両手を開いて、彼女は陽気に言ってくる。
「一・二回で止めてくれればこんなに覚えなくてもよくなるのに。厚さなんか、きっと半分以下で、試験も楽ちんだよ」
 あっはっはっと、ひきつったように笑うルシュに、ノマは相槌を打った。そして腕を組んでしばし考慮し、やおら適当な言葉を思いついた。
「それはきっと、神さまが人間に与えた問題なんだよ」
「問題?」
「うん。何で繰り返すのか……っていう問題。きっと、人間への永遠の問いなんだよ」
「その答えを探しなさいって?」
「そう」
 得意気に、ノマは胸を張った。
 ルシュは少し困ったように笑って、ノマに告げた。
「ノマさん、それって答えじゃない」
「あ」
 言われて気づき、ノマはうめいた。確かに、問題の意味を換えただけで、彼女の求めた答えを言ったわけではない。
 ちょうどそこへ、台所からお盆に三人分の紅茶と、きれいに焼き上がったクッキーを乗せて戻ってきたユリネは、立ち上がって喜ぶルシュとは対照的に、落ちこんでいるノマに眉根を寄せた。
「どうしたの?」
「己の未熟さに……ね」
「……?」

 夕食も済み、食後の茶を飲みながら、ふいにユリネがえくぼを刻んだ。
「どうしたの?」
「ルーちゃんの食べっぷりを思い出しちゃって」
 嬉しそうな彼女に、ノマは、ああと納得した。
「一人で半分食べちゃったしね」
「あれだけ喜んで食べてくれると、作り甲斐があるわ」
 クッキーを食べている間中、ルシュは終始笑顔であった。恍惚としていた、と言ってもいいかもしれない。
「今度は何を作ろうかな」
 楽しそうに目を細める妻を、ノマは穏やかに眺めていた。
 自分がここにいて、ユリネが向かいで微笑んでいる。これ以上の幸せが、他にあるだろうか。
 この村に来てから、心は平穏であり続けている。
 夢と現の狭間に横たわる暗闇で、ずっと願い続けていた生活が、本当に実現している。
 満足している。ユリネが傍らにいて、小さくても温かい家がある。二人で畑を耕し、手を取り合い、安堵の中で眠る。
 村の人達もいい人ばかりだ。ふらりとやってきた異邦人を、村に置いてくれている。開墾に加わった土地で、新しい畑を拓かせてくれた。村はずれにある家まで遊びに来てくれる、ルシュという優しい娘と出会うこともできた。
 毎日、常に感じ、思い返せる幸せが、ここにあった。
「ねぇ、ノマ」
「ん?」
 話しかけてきたユリネに、思考の中に沈めていた視線を戻す。
「何考えてたの?」
「いつもと同じ。幸せだって」
 ユリネは、夫のその言葉にうなずいた。
 この村に来てもう五年ほどになるか。その間、毎日のように彼のその言葉を彼女は聞き続けてきた。だが、飽きることはなく、鬱陶しく感じたこともない。それどころか、聞く度にその重みが増し、涙が出そうになるほど心に染みていく。
 嬉しかった。その言葉は、二人の間では愛と等しい。
「私もよ」
 ノマが手を伸ばし、ユリネの手を握った。
 お互いに、何にも代え難い温もりを感じ合う。
 彼女が微笑み、彼も笑った。
 指を絡め、からかうように力を込める。力を抜いて相手のなすがままに、あるいはその逆に。
 二人は手を離し、見つめ合ったまま沈黙した。
 ゆるやかな時が肌に触れるほど濃密に過ぎていく。
 すぐ傍らの森の奥から、梟の声が聞こえてきた。
「今日も、無事に終わるね」
「うん」
 そして二人は、合図をするわけでもなく、同時に祈りを捧げた。口にはせず、胸の奥で深い感謝を伝える。神にではない。遠い地に暮らす恩人への祈りだった。
 ノマとユリネは伏せていた目を上げ、視線が合った所でふっと笑い合った。言わなくても解る。
 今、愛する人は彼を想っていたのだ。
 どれほどの言葉をもってしても、例え大海を埋められるほどの心を伝えたとしても、感謝し尽くせないものをくれた、彼を。
「……さ、後片づけしなきゃ」
 立ち上がって、ユリネは髪を後ろでまとめた。
「じゃあ、僕はお風呂を沸かすよ」
「うん」
 ノマは食器を運んでいく妻の背を眺めてから
「よし」
 と、席を立った。今夜は少し冷える。妻は寒いのは苦手だから、いつもより少し温かくしようと考えながら。

T へ   U-2 へ

目次へ