炎が幾重にも重なり合い、轟々と立ち揺らめいていた。
家々が焼け落ちていく。
火に包まれた家畜が暴れ回る。
悲鳴、怒号、草木が、土が、血肉が焦げる臭いが満ち流れている。
猛火が生む熱風が劫火を産み、劫火が吐き出す灼熱が渦となり逆巻く。
人々にはなす術も無い。
消化を担う水は、ただ天に還る。
夜陰に
広がり続ける炎に絶叫も慟哭も飲み込まれ、波打つ影絵が千々に逃げ乱れている。
焦熱の波頭は暗黒にこぼれた血溜りを、猛る炎蛇の海と化す。
闇にすら赤い熱が混じり、毒々しい黒赤色に世界の全てが侵されていた。
それは終焉だった。
それは最期だった。
それは末路だった。
そこにあるものは、破滅だった。
人知れぬ山の奥に隠れ住んでいた者達の、全ての終わりが、そこにあった。
「……本当にこれでよかったのかな」
火海を眼下に見る山林の中、鬱蒼と下草が茂る斜面の中腹で、己を縛り続けてきた世界の死を見つめていたノマは、ここまで届く熱風に煽られたか胸に燻る葛藤を口にした。口にして少し怯えて、己の肩に頬を預けている少女を横目に見る。彼女は彼の背で、まるで彼を抱き締めるようにして、深く深く眠っていた。
「ノマ」
声をかけられ、そちらを見ると待ちわびた友が獣道を上がってきていた。
火照りの裏に年齢よりも歳重ねて見える精悍な顔は翳り、しかし下草が撥ねる僅かな照り返しを受けて陰の中でも彼の目は、意志の強さを表すよう
ノマは友が無事に合流してくれたと安堵し、同時に心締めつけられた。
彼は左目を負傷していた。
一時別れる前から。眼球にまで傷が及んでいなければと願っていたが、まだ瞼は閉じられたままだった。涙のように血が頬へとこぼれ落ちているのに、荷袋の紐を握る彼の手はそれを拭おうともしない。ノマのまだ少し幼さの残る相貌が、ひどい不安に曇った。
「カザラ、目は大丈夫なの?」
「ユリネの様子は?」
カザラは自分の心配をよそに、背中のユリネを一瞥して聞いてきた。
「無事だよ。ただ、相当疲れてるみたいだ」
「お前だって同じだろう」
笑みを見せるカザラになんと答えていいのかノマには分からなかった。彼から目をそらし、再び炎に包まれた郷を見つめると、喉の奥からまた同じ言葉がせりあがってきた。
「…………本当に、よかったのかな」
「いいんだ。お前が気にすることじゃない」
「でも、本当は」
「終わったんだ」
ノマの言葉を、カザラは語気強く遮った。
ノマはカザラを見た。彼も故郷を見つめていた。無骨な体躯が、幽鬼の気配を滲ませている。表情は穏やかに憎しみを孕み、ぬめるような赤光を浴びて、一層鈍く輝いていた。
その姿は、カザラの憎悪の先にないノマにさえ、心臓を握られるような恐ろしさを感じさせた。
「終わらせなきゃいけないんだよ」
カザラはノマに顔を向けた。打って変わって、そこには限りない労りがあった。
彼の眼差しに、ノマの胸に言い表せない感情が溢れた。ただただ彼に伝えたい思いがうねり、うまく言葉をつむげない。もどかしさに喉が締めつけられる。
ようやっとノマが声に出せたのは、一言の感謝だけだった。
「……ありがとう」
「当然のことをしたまでさ」
轟々と、炎が泣いていた。風が木々を揺らしていた。それらの間を割って、人の叫びが耳を塞いだ。
「行こう」
踵を返してそこに背を向け、カザラが促した。
「うん」
うなずいて、ノマはユリネを背負い直した。歩き出したカザラを追って、木の根に足をとられないよう慎重に足を進めていく。
「なぁ、ノマ」
先を歩いていたカザラが、思い出したように振り返ってきた。
「一つだけ約束してくれるか?」
「何を?」
「幸せになると」
ノマは足を止め、カザラを見上げた。彼の顔はこちらを向いているが、
「なるよ、絶対」
笑顔で、ノマは答えた。
その表情に、彼は言い切れない深謝を込めていた。だが、それは背後の大火の光に影の中へと追いやられ、伝えるべき者に届くことはなかった。
逆光の中にノマの表情を見てとることはできなかったカザラは、しかし影の中に輝く真っ直ぐな双眸を目にして微笑んだ。
「約束だからな」
軽く念を押すように言って、カザラは再び歩き出した。
ノマも彼を追って足を進めた。背中では、ユリネが心地良さそうに眠っている。痩せ細った体で人を背負い歩くのは辛いことだったが、全身の力を振り絞り、彼女を起こさぬように気を配った。眠り、脱力した人間はさらに重い。その上ただでさえ歩きにくい獣道だ。背負うにしてもせめて起こした方が楽なのに、彼はそうしなかった。
疲弊しきったユリネをこのまま眠らせてやりたいと思う。そしてそれ以上に、服を隔てて伝わってくる彼女の重みを感じていたかった。
この重みこそが、掴むことのできた幸福なのだから。
それを察してカザラは、己ならば人一人担いで往くのは造作もないことだったが、交代を申し出ようともせず、しかし常にノマを気にかけ歩を合わせていた。
長い間二人は黙々と足を進め、一つ山を越えた先でようやく小さな街道に辿り着いた。
「さて、お別れだ。ノマ」
そこでカザラはノマに告げた。
「え?」
唐突過ぎる言葉だった。ノマは、カザラとここで別れるなどとは思ってもいなかった。それどころか、これから彼ともずっと一緒に暮らしていけると思っていた。
だが、先刻の彼の言動を思い出し、それがすでに決められていたことだと、ノマは悟った。それを覆すことはできないだろう。ならば、自分にできることは彼の意思を重んじることしかない。
彼を引き止めたいと駆け上がる思いを必死で飲み込み、ユリネを落とさないように右手を差し出して、彼を見つめる。
カザラの左目の傷はもう血を落としてはいなかった。乾いた血が閉じられた瞼にこびりついて、まるで黒錆色の蝋に堅く封ざれているようだ。その奥にあるはずの、右の瞳と同じ輝きを見ることができないことに、胸が締めつけられた。
「今生の別れ……じゃないよね」
ノマの声は揺れていた。その右手を握り返すカザラは少し困ったように眉根を寄せたが、ややあってから、決心したように言った。
「一年後の今日、城下町の一番小さな教会で会おう」
「分かった」
二人は、ノマから促すように一度力を込めて互いの手を握り直し、手を放した。
「これを持っていけ」
カザラが荷袋から出して示したのは、金銀の硬貨が詰まった袋だった。
「少し重いが、役に立つ。使い方は教えた通りだ。けして人に見せず、他人に与えるな。自分たちのためだけに使ってくれ。盗人に気をつけろ」
父が子を諭すように言いながら、彼はノマの返事も聞かず、それを荷袋に戻すと近くの木の下に置いた。腰かけて休むにはちょうどいい場所だった。
「これからどうすればいいか、ちゃんと覚えてるか?」
「覚えているよ。カザラの言うことは全部守るから、安心して」
「……ユリネには、お前から別れを伝えてくれ」
そう言ってカザラは一度笑顔を見せると、すぐさま街道をはずれ山に入って姿を消した。
ユリネが目を覚ましたのは、それから半刻も過ぎた頃だった。
「そう……」
カザラのことをノマに聞かされ、ユリネはため息混じりにうつむいた。二人は新しい服に着替えていた。カザラが残した荷に入っていたものだった。
「お礼も言わせてくれないなんて、ひどいな」
「……最後の最後まで、世話になっちゃったね」
木の根に腰かけて、二人はしばし恩人との別れを惜しんだ。本当は、もっともっと礼を言いたかった。何か返したかった。だが、彼はそれを嫌ったのだろう。こちらの性格を良く知るが故に、早急に別れてしまったのだろう。
ノマとユリネには疼痛があった。それはとても苦く、だが温かい。二人はしばらく何も言えなかった。
「空気…………おいしいね」
ふとして、ユリネが言った。
「空気?」
「そう」
言われて、ノマは一度深呼吸をした。しかし、これといっておいしいとは感じない。彼はもう一度二度深呼吸して……ユリネの言いたいことを理解した。
自由だ。
彼女は、自由の空気を言っているのだ。
これまでは、息を吸うことにさえ支配が加わっているように感じていた。ノマは強く。ユリネも彼ほどではないにせよ。
だから自由の空気がこんなにも美しく、安堵に満ちたものだとは思いもよらなかった。隣に最愛の人がいるからか、温かくもある。その温もりに胸の奥に潜む不安が溶かされ、清浄な大気の中に消えていく。
「……これから、どうしたい?」
ノマは隣でこの時を甘受するユリネに訊ねた。彼女は少し考え込んでから言った。
「東に行きましょう」
「東に?」
「うん。なにかね、東に私たちを住まわせてくれる場所があるような気がするの」
ノマはうなずいた。
「それから小さな家を建てて、畑を作って……結婚して」
ノマは、うなずいた。
二人は手を握り合った。
「一緒に畑を耕して、静かに暮らそう」
ユリネはうなずいた。
「世界の事は何も知らないけど、僕達はこれから知っていくことができる。
知っていこう、一緒に、色んなことを」
ユリネは、うなずいた。
「カザラに会った時、笑われないようにしないとね」
「ええ」
二人は立ち上がった。
とめどない希望に心
夜はもう明け始めていた。
東の空は紫色に、群青色に、そして白銀に。
山は星と月の頼り無い光に照らされていた時とは違う顔を見せ始めている。
真っ白な世界が、果てしなく広がっていく。
まるで祝福を受けているようだ。そう感じながら二人は顔を見合わせた。
愛する人の顔には銀色に輝く光が降り注ぐ。
ノマとユリネは微笑んだ。
恋人は生まれる前から小指と小指を運命の赤い糸で結ばれている。カザラが教えてくれた伝説が、狂おしいほどに信じられる。
「行こう」
「はい」
そして、二人は世界を照らす太陽へ向かって歩き始めた――。