オンライン文化祭 ―2010―

その音楽家の結論

 あるところに、アポロンに愛された男がいた。
 男は幼少の頃より音楽の分野で神童と讃えられ、また、成人してからは神そのものと讃えられた。
 男は、音楽に関わることであれば何であっても完璧であった。
 演奏、歌唱、指揮、作曲といったものから、音楽の歴史などの学術的なものまで、男の手にかかれば全てが黄金に輝いた。
 男の手によって、世界の音楽は変わった。あらゆる分野において彼の功績は何かしらの進歩をもたらした。
 その飛躍的な進歩は、音楽の神アポロンになぞらえ、太陽の時代と音楽史に記録されることとなる。そして後世の人間も、彼があと十年、いや、五年だけでも音楽界に残っていれば――と大いに悔やむことになる。そう、後世の人間も。であれば、彼と同じ時を生きる人間であればより増して。
 地球上に男が作った音楽が鳴り響いていた。
 災いなるかな。男が作った曲名と同じ楽曲は、移り気な人の手からするりと捨て去られた。それが例え、ベートーヴェンの『運命』であっても。世界には、新たな運命の手が扉を叩く激しい音が轟き、音楽史はその時点を持って『彼以前』『彼以降』と表記された。彼は、音楽史のキリストとまでになった。

 ある日、男は息子に聞かれた。
 男は息子を愛していなかった。むしろ侮蔑していた。子の命の生殺与奪権が与えられるならば、迷わず彼は息子を殺していただろう。
 息子の母は、ミューズに愛されたピアニストであった。男が自分以外に唯一認める弾き手であり、そのために彼は彼女を愛していた。そして彼女もまた、ミューズが愛するに相応しいアポロンであるからこそ、夫を愛していた。
 口に出して自称こそせぬまでも、心の内では二人共に音楽の神を名乗っていた。我こそはアポロン、我こそはミューズと。
 そんな二人の間に産まれた一人息子は、絵に書いたような音痴だったのである。
 神と女神じきじきの特訓を受けても、必ず正しい音程から上下ランダムに半音ずれる歌声は矯正されない。ピアノを弾かせればどうしても一つの指で鍵盤を二つ同時に押し下げる。ヴァイオリンを持たせてみたら三歳にして肩こりから来る頭痛に寝込む。譜面は読めない、読めないどころか音符をおたまじゃくしの乱舞だと酔って吐く。加えて腹立たしいのは音楽以外のことに関しては優秀であったことだ。男の息子は、齢十にして高等教育課程に類する学問を理解していた。
 男は息子を激しく罵倒した。妻は虐待に等しい訓練を息子に強いた。それも五年経った頃、ぱたりと止んだ。代わりに二人の息子を見る目には汚物を見る色が宿り、やがて互いのどちらに『欠陥』があったから息子がこうなったのだとなじりあうようになった。二人が離婚するに、そう時間はかからなかった。
 男と男の妻の息子は、両親の愛を知らずに育った。
 しかし、災いなるかな、息子は両親を愛していた。
 両親の離婚が決まった時、息子は驚くほど大きな声で泣いた。父と母の手を取り、一緒に暮らすことを哀願した。それは、叶わなかった。
 息子は、世間体も考え、巨万の富をより生み出し続ける父に引き取られることとなった。
 初めて迎える『妻』と『妻である母』のない朝、牛乳に浸したシリアルを食べながら息子は父に聞いた。
 ――僕がもしちゃんと楽器が弾ければ、また皆で暮らせるの?
 男は面倒だった。そうだと答えた。しかし女と復縁することは考えられなかった。だから付け加えた。
 ――ただ楽器が弾けるだけでは駄目だ。最高の音が出せなければ。
 息子は言った。
 ――それじゃあ僕頑張るよ。でもお父さん。最高の音って何?
 男は答えた。
 ――わたしの奏でる音だ。決まっている。わたしは全ての音を黄金に変える竪琴だ。わたしのように弾けばいい。ヴァイオリンを、ギターを、フルートを、何であっても。
 それは男が口の裏に高慢なる意思を示す言葉だった。『竪琴』とはアポロンへの暗喩。神の名を直接称さぬまでも、他の追随を決して許さぬ男が己を神だと言ってのける自信そのものだった。
 そうだ、男は知っていた。他の誰もが、他のどんな天才であっても己を追随するに叶わぬ。それを知った上で男は息子に言った。悪意をこめて!
 ――わたしのように奏でればいいのだ。それだけで最高の音が出せる。簡単だろう?
 息子はしばらく考えた。父の言葉を内耳にこだまさせ、その残響から何かを悟ろうとするかのように考えた。
 やがて息子は尋ねた。
 ――でもそれは最高のピアノの音で、最高のヴァイオリンの音で、最高のギターの音で、最高のフルートの音でしょ? 『最高の音』じゃない。ねえお父さん。最高の音って、何?
 それは致命的なまでに音楽的センスがなく、反面素晴らしいまでに賢い子供であったが故に犯した『勘違い』にすぎなかったのかもしれない。
 だが、アポロンを自認する男にとっては実に重大な問いかけに思われた。
 天啓だった。そう言ってもいいだろう。男はその命題を息子から投げかけられた瞬間、雷に打たれた思いだった。
 ――そうだ!
 男は立ち上がり、叫んだ。よりにもよってこの最低なできの息子がわたしの下に遣わされたのは、神がわたしにこの天命を報せるためであったのだ! 最高の音! それより上のない、史上の音楽!
 その日、男は世界に向かって宣言した。
 ――わたしは『最高の音』を見つけてみせる。それまでは、さらば。

 偉大な音楽家は、その日以来、演奏、作曲、歌唱などなど、あらゆる外的な音楽活動を停止した。
 コンサートチケットの払い戻しのためにいくつかの会社が倒産し、彼の曲を与えられないことに絶望した歌手が二人死んだ。
 ありとあらゆる非難が男に振りかけられた。その急先鋒は元彼の妻であった女であった。しかし男は己の宣言を取り下げなかった。非難はやがて失望の吐息に変わり、失望の吐息は最後に絶望の嘆きと変わった。
 それほどまでに、男の『音』は世界を震わせていたのだ。
 新しい彼の音楽を得られぬ不幸に、誰もが肩を落とした。その急先鋒は、元彼の妻であった女であった。
 ある日、彼女は男の家に押しかけ言った。
 ――最高の音は、あなたの音楽です。新しいメロディを聴かせてください。そして弾かせてください。
 息子は母の帰宅に喜んだ。
 男は、首を振った。
 ――それはわたしの作る限りにおいて最高の音に過ぎない。『最高の音』! それそのもので最高の音は一体何なのか、わたしにはまだ分からない。
 妻であった女は世界の絶望代理人のごとき顔で去った。息子は女についていった。そうしなければ、永遠に母を失うと思ったからである。
 息子が去った後も、男は研究と思索を続けた。男が活動を止めた後も、男が生み出した音楽は男に膨大な収入を約束していた。研究のための資料を取り寄せることも、あらゆる演奏会に出席することにも、男の名声も手伝い叶わぬことはなかった。それゆえ、一層男は『最高の音』の探求に没頭した。

 次第に男が外へ出ることはなくなった。
 あらゆる最高の演奏会や歌劇から、夢を追うストリートミュージシャンの即興演奏、楽器に初めて触れた低学年の子供達の授業、果ては違法薬物による幻聴までも聴き尽くした。男にはもうそれ以上の外遊は必要ないと思われた。
 ついに男は人里離れた郊外に小さな屋敷を建て、その地下に設けた最高の『音室』に引き篭もった。一切の家事や一切の家計、元妻の下に行った息子のことすらもそれ専門の会社に任せ、男は『音』の世界に引き篭もった。
 その頃の彼を知る者は口を揃えて言う。
 ――音楽の神は、なるほど人ではなかった。あの男の顔は、神でなければ、鬼であったろう。給仕のために彼と顔を合わせる者は、いつか彼に『声』を食われるのではとさえ恐れた。
 それほどに、男は執念に満ちていた。
 音室に楽曲の止む時はなかった。あったとしても一つの曲が終わり次の曲が始まるまでの数秒、もしくは一つのディスクから次のディスクへ切り替える際の長くて十数秒のみ。しかしその間には、男の口から『最高の音へのアイディア』が旋律として漏れていた。
 昼夜もなく一日中、男は『音』に埋もれた。
 睡眠はいつとっていたのだろうか。もしかしたら眠っていなかったのかもしれない。眠っていたとしても、音室で眠る男の周りには記録に残る限りの音源が溢れていた。古今東西手に入れられる限りの音が。夢の中でも、男は現の音を聴いていただろう。

 それから何年も経ったある日、男は、恐るべきことを知った。
 男は『音』は耳を通して聴くものだと思い込んでいた。
 しかしある日、音室に引き篭もってから十年の年月を越えた頃だろうか。どんな楽器、どんな人間、どんな歌曲が奏でる『音』のどこにも『最高』を見出せないでいた男は、一冊の本の中に『新たな音』の存在を知ったのだ。
 それは全くの偶然だった。誤って取り寄せたその書籍を、戯れに読んでみようと思ったのも、男にとっては『魔が差した』程度のことであった。
 だが、男にもたらされた衝撃はいかほどのものか。
 文章は書く。静寂という音のうるささを。文章は、音として存在しないものを表現に拠って音へ昇華し、読者に聴かせる。
 文章は書く。あらゆる動作、あらゆる行為、あらゆる現象を、擬音という表現により紙に刻み込む。擬音は口にもする手法で男は当然それを知っていたが、それが活字にもなることをつい失念していたのだ。
 また、その本は男に別の真実も教えた。
 絵画は描く。一瞬のシーンが持つ刹那の音声を。絵画は、かつてその空間に存在していた音をキャンバスに塗り込み、閲覧者に聴かせる。
 絵画は描く。あらゆる想像、あらゆる景色、あらゆる感情に溢れる音を、あらゆる線と点と色彩と陰影とによって表現する。そうだ、そも音には色がある、音色がある!
 男が読んだ文章には、地下室に下りる少年の足音が書かれていた。父に贈られたばかりの少年の革靴が冷たい階段を打ち、コツ、カツ、と硬い音を立てる。音は少年の緊張に飲まれ、湿った地下室の空気の中で縮こまってコツ、カツ、と音を潜めようとする。どうしても音は潜まらない。鳴ってしまう。男は聴いた。少年が一歩踏み出すたびに心臓を凍らせる足音を。
 男が見た挿絵には、地下室で「あ」と叫ぶ少年と「あ」と叫ぶ父が描かれていた。その絵を見た瞬間、男は確かに聴いたのだ。父の見知らぬ姿を見て「あ!」と驚愕する少年の音声と、息子に隠していた秘密を見られて「あ!」と絶望する父の音声を。地下室に響くその声らの残響を。その二人の、複雑な心様を描く音色を。
 それは歌劇のワンシーンにも負けぬ、絶望を奏でる交響曲の楽章にも負けぬ、男の脳裡にまざまざと奏で出させられた旋律だった。
 ――耳で聴く音だけが音の全てではなかった!
 ――目によって聴く音、眼でしか聞こえぬ音もあるのだ!
 男は戦慄した。
 男は叫んだ。
 男が知るべき音の世界が、それ以前にも増して無尽蔵に広がっていった。
 男は己が挑んでいた相手の大きさをその時初めて知ったようだった。いや、実際初めて知ったのだ。男が挑む相手はあまりに巨大であった。男は怯んだ。目の前に広がる底の見えぬ海、それを覗き込むだけならばまだ震えるだけで済んだだろう、だが男はその真っ只中に取り残されている己を知った。男は怯えた。海は広がりながらも凝縮する。一気圧の音波が一億気圧の音響となって男を圧砕する。
 今や黄金は泥となり、太陽は去った。
 己の知らぬ音を見落とす神が果たしていようか? いない!
 神の称号を失った男は己の指先が骨灰と変わるのを見た。
 自意識の芽生えの時から神童として、神に連なるものとして、ついには神として讃えられた男は初めて己の大きさをも知った。
 ちっぽけだった。
 音室を染める新時代の天才達が奏でるふくよかな快音が、名状しがたい魔獣の咆哮に思えた。
 男は悲鳴を上げて逃げ出した。
 外へ。
 外へ外へ。
 扉を破り階段を駆け上がり門を走りぬけ、外へ!
 おりしも秋であった。
 男が逃げ出した先は、夜だった。逃げ出してもなお夜が待ち構えていた。
 男は我を忘れて走った。しゃにむに走った。
 天球に月がコウコウと輝いていた。
 月から離れた空で星がキラキラと輝いていた。
 リーリーと、虫の鳴き声が聞こえた。チッチッチッ、スイッチョン、リーリーリー……
 サァっと風が吹き、木々がサラサラと葉を擦る。
 ロロロ、と、遠くで車のエンジン音がさらに遠くへ去り。
 やがて男は立ち止まった。そこはいずことも知らぬ荒地であった。
 清閑な秋の夜の音の中、ドッドッを聴いた。
 ドッドッと、恐怖に男の心臓は早鐘を打ち――ああ、ここにも楽器が!――ドッドッと、男の鼓膜の近くの血管は、男に自らが生きている証拠である音を聞かせた。
 男は立ちすくんだ。
 ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、、、やがて、脈が落ち着いていく。
 天頂に月がコウコウと輝いていた。
 空の辺縁で星がキラキラと輝いていた。
 コロコロコロと、虫の鳴き声が聞こえた。リーンリーンリーン、チンチロリン、ギーッチョンギーギーギー……
 サワサワと風が撫で、草花がハラハラと葉をなびかせる。
 心鎮めた男の心の臓が、一分間におよそ60の鼓を打つ。
 己が刻む一定のリズムに、自然の音が合わさる。
 男の双眸から涙がポトポトとこぼれ落ちた。


 果たして男はその時、なぜ泣いたのであろうか。
 なぜ、泣けたのであろうか。
 不意に訪れた恐怖が、自然に拭われたため? それもあろう。
 剥き出しとなっていた心が、その瞬間の美しい音々に感動したため? それもあろう。
 ただの感傷? それもあろう!
 男は心の持ち様によって音の聞こえ方が変わることをもちろん知っていた。
 絶望を愛し他者への復讐心に満ちた者にはどんなに最高のベートーヴェン・第9番も疎ましかろう。
 穏やかな愛を恋人と語らう者にはヴェルディのディエス・イレはやかましい。
 失意の中で自己を見つめる者は、リストのエステ荘の噴水に何か感じ入るところがあるかもしれない。
 男は最高の『音』にこだわるあまり、また男が音を操る術に絶対なる自負を得ていたが故に、人の心を見落としていた。
 なんと初歩的なミスであっただろうか。
 男は笑った。
 文学、美術の世界の『音』の存在を知り、あまつさえ心理の世界の『音』までも。
 男は笑うしかなかった。
 途方もない。最高の音。それを探すために必要な地図はない。それなのに最高の音が隠れる海は、宇宙だ。
 男はひとしきり笑った。それは絶望のためでもなく、またやけっぱちになったためでもなく、とにかく愉快だったために笑ったのだった。
 男は諦めなかった。
 最高の音を聴きたい。逃げ出した先に見た夜。その空に見えた宇宙。そこに、必ずあるはずの音。それをどうしても聴きたいという好奇心が男に芽生えていたのだ。
 男は語った。
 ――正直に言おう。『最高の音』。わたしがそれを探すことこそ天命と悟ったことは嘘ではない。しかし一方で、心の片隅で、わたしは息子に『このわたしが』気づかなかった最高の音という概念を示唆されたことが悔しくもあったのだ。不出来な息子に、愛せぬ息子に、侮蔑する息子に先んじられたことが、まず許せなかったのだ。わたしは気づいて然るべきだった! 天啓を授かる神など、実にナンセンスではないか。
 しかし男は、再度探求を開始した。
 純粋なる彼自身の心によって『最高の音』を探すことを決意した。
 天命でもなく。
 許せぬことのためでもなく。
 男は自分自身のために。
 再出発の朝、男は息子に会いに出かけた。
 何年、何十年ぶりに会う息子は遥か昔に成人し、家庭を持っていた。過去、結婚式に是非出てくれと言われていたことを男は思い出した。
 息子の家には半身が麻痺した元妻もいた。過去、母が事故に巻き込まれたという火急の報せがあったことも男は思い出した。
 息子には子供がいた。男の子が一人、女の子が二人。息子の妻は楽士を生業としていた。息子は音楽を愛していた。憎んでいてもおかしくなかったのに! 男は温かな家庭の中に響き渡る母と三人の子の四重奏に涙した。涙する男の姿に元妻は狼狽し、彼女は躊躇いながら男の涙を拭った。そこにはアポロンとミューズの姿はなく、老いた二人の男女がいるだけであった。
 別れ際、男は息子に言った。
 ――ここには最高の音がある。しかし、これは『お前の』最高の音だ。
 息子は父に言った。
 ――そうです。ここにはわたしの最高の音がある。しかし、これは『お父さんの』最高ではありません。
 父と子は笑った。
 大声で笑った。
 それは初めての父子の笑い声であり、その『父子の』最高の快音であった。
 息子は言った。
 ――お探し下さい、愛しき竪琴よ。わたしはあなたの答えをいつまでも待ちます。
 父は言った。
 ――探し出しそう、忌まわしき耳よ。わたしはお前の心に必ず答えを響かせよう。

 男は『最高の音』を見つけられぬまま、己の言葉を翻して表舞台に戻った。しかし男をそれによって蔑む者はなかった。むしろ栄光に彩られた歓迎が男を待っていた。
 男が地下室に隠遁する間も、男が世界から忘れられることはなかった。
 男の楽曲は評価され続け、再評価され、再解釈によってまた誉れを与えられ続けていた。
 地下から地上に戻ってきた男は、最高の音を探す過程で得られた新発見を、技術や理論といった成果を惜しみなく公開した。それによって世界の音楽の時計は、またも男によって針を大きく進められた。
 男は世界中を渡り歩いた。
 男は音楽に、音に対して常に誠実であった。誠実でありすぎるあまりに偏屈な人間として知られた。それでも男の周りには多くの人間があった。様々な音があった。男の指導によって才能を花開かせた少女はこれまでにない歌唱を世に届け、男が発見したアルコール中毒のジャズピアニストは新たなグルーヴを世にもたらした。変わったところでは、絵によってあるいは演出された文字によって見事に音を描き鳴らしていると絶賛された漫画家がベストセラーを叩き出したこともある。
 男は世界中を渡り歩き、後進を育成し、そうして自らもまた新しい音を作り続けた。
 晩年の男を指して皆は言う。
 彼はまことに、アポロンであった。



 幾年月が過ぎた。男は、死の病床にあった。
 とうとう『最高の音』は見つからぬまま、今にも男の命の灯火は消えようとしていた。
 男の傍には息子だけがあった。
 他には誰もいなかった。男がそれを望んだ。
 男の作り出した音楽は、その日も世界のどこかで流れ続けていた。例えば音楽の神の快復を祈る声と共に。
 しかし男の周りには、男が世に与えたメロディは何一つとしてなかった。
 静寂だけがあった。
 男の細い呼吸が、息子の耳を叩いた。
 男には解っていた。息子の目は語っていた。――こんなものが、あなたが最期に聴かせる『音』なのですか?
 静寂だけがそこにあった。
 いや……静寂の中、一つ、音があった。
 男は初めて、否、改めて、否! 初めて、また改めて! かつ改めて、また初めて! 男はその時、聴いた!
 カチ・カチ・カチ・カチ
 規則正しくなる微かな音。
 カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ
 過去から未来永劫に渡って鳴り続ける音。
 カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ
 時の音!
 男の目は果てしなく回る針を捕らえた。
 ああ、時間!
 男は叫んだ。
 ――全ての音は、ここにある!
 そして全ての音はここにしか存在できない。
 人は聴く。耳で、目で、心で、音を聴く。
 人は聴く。音でない音も。
 音として存在せぬものも、人は聴く。
 時! ならば、それすらも――カチ・カチ・カチ・カチ・カチ――人は聴く!
 男は叫んだ。
 ――全ての音を包み込み、その存在を許す音!
 そしてまた、全ては時に支配されている。時間がなければ音符の種類も決められない。
 ――最高の音は、どこにもない!
 それは最高を示す基準が、移ろう人の心によって簡単に振れてしまうために。
 男は叫んだ。
 ――しかし最高の音は存在する! 全ての音の存在を包むものがあるならば、全ての音のひとつである最高の音もそこに存在しえなければならない!
 息子は父の手を握った。
 ――息子よ! 最高の音を見つけた! 最高の音は、一つの音ではない。複数の音でもない。無限の音を重ねた一にして十なのだ! その存在そのものが『最高の音』なのだ!
 男の脳裡にいつか聞いた台詞が蘇る。
 男は叫んだ。
 ――時よ、流れよ! お前は止まらぬからこそ美しい!
 男は泣いた。
 ――ああ、ああ! 息子よ! わたしにはもう時間がない。わたしはお前が羨ましい。この素晴らしい演奏の只中にもっと立ち止まっていたいのに、わたしにはそれが叶わない。我が子よ、誇れ! お前はこれから先、命が消えるその時まで、お前はいつも至上の音楽に祝福されている!

 その音楽家の結論を、いかように聴くも人の自由。
 息子は遺言に従い、父の最期の言葉おとを世間に公表した。
 音楽の神、太陽の時代をもたらした偉大な音楽家。男のその結論は議論を呼んだ。
 人は言う、彼は最期に福音をもたらしたと。人は言う、彼は最後に駄作を遺したと。
 賞賛、嘲弄、されどいかように聴くも人の自由!
 その口から、その心から発せられる音は全て時の中に現れ、時の中で消えていく。
 息子はどんな質問に対しても、以下の言葉を最後におとを閉ざした。

 ――彼は、息子との約束を果たした偉大な父です。

 その悲しみに震える音もまた、『最高の音』の中に。

メニューへ