三浦正と藤原美崎は幼馴染だった。
家は間に二軒を挟んで同じ並びにあり、両親の年齢も近い。さらに両家の子が同年齢となればごく自然と付き合いも深まろう。正と美崎は互いの家を自由に行き来し、時に互いの家で食事をとりあい、一緒に風呂も入った。同じ幼稚園に通い同じ小学校に通った。家族ぐるみでキャンプにも行った。漫画みたいと言われれば実際そうだと二人も思うし、小学校高学年にもなるとそうやってからかわれるのが嫌で、なんとなく、どちらからともなく距離を置くようになっていた。それに従い両家の交流も薄くなった。
中学に進学すると、二人の間に刻まれた溝はさらに深くなっていた。
互いに嫌っているわけではない。ただ気恥ずかしい。中学には同じ小学校の友達が多くいる。二人の関係を知っている者も当たり前にいる。一学年目はクラスが分かれたが、二学年目は同じクラスになり、初日から夫婦がそろったとからかわれた。委員決めの際に二人を同じ委員にしようという動きには正が断固として拒絶を示した。陸上部の次期エースと目される快活な正とは反対に、美崎は何も言わず困ったように笑っていた。
結局、二人は一緒に何かをすることにはならなかった。
しかし二人は互いに嫌っているわけではない。むしろ好き合っていた。それは恋ではない。家族ぐるみで付き合ってきたための、家族に対するものに近い感情だった。そのはずだった。
正は、いつしか自然と美崎の姿を目で追うようになっている自分に気がついていた。
一年間違うクラスであった美崎とは、当然その一年間あまり顔を合わせなかった。部活に入っている正と入っていない美崎では登下校の時間も違う。廊下ですれ違うことはあるが頻繁ではない。すれ違ったとしても互いに友達と並び歩いていて、ほんの少し目を合わせるだけで終わっていた。
たった一年離れていただけなのに、その一年はあまりに大きな時間だったと正には思えた。美崎の体は、なだらかに女性に近づいていた。骨ばっていたはずの体は丸みを帯び、乳房は他の女子より先に大きさを増している。髪も一年のうちにずいぶん伸びていた。ふとしたときに見せる仕草は美崎を見知らぬ別の女と思わせ、髪を耳にかける仕草を見たとき、正は美崎の指はあんなに細かったのかと人知れず頬を紅潮させた。
相手の変化に心を揺さぶられていたのは正だけのことではなかった。
美崎は家に帰ることが憂鬱で、つい教室で一人本を夢中になって読み耽り、帰宅が遅れたことがあった。
まだ初夏にさしかかったばかりの頃。だんだんと日の長さが増してきているとはいえ日の落ちるのは未だに早く、そのうえ雨の気配漂う曇りとあって外はようようとして暗い。家までの道のりには鬱蒼とした雑木林を脇にする場所があり、不審者注意の看板が立てられたその道を一人で歩くのは怖い。遠回りにはなるが明るい通りを進もうと考えながら美崎が校門に向かっていると、そこに部活仲間と別れの挨拶を交わす正がいた。
正は家が反対方向にあるらしい仲間と別れると、一人で帰途についた。美崎は追った。歩きの速い正に声をかけようとして躊躇い、また躊躇い、四度目にしてようやく声をかけた。それ以上遅れていたら美崎の声は正に届かなかっただろう。
街灯の下で正が振り返った。美崎は己の胸が弾む音を聞いた。その瞬間、美崎は正が自分の知るこれまでの正ではないとはっきりと悟ったのである。肩幅は広くなり、短距離走の選手らしく鍛えられた体躯は男性らしく角ばり、ひょろひょろともやしのようだった幼馴染はもういない。「美崎?」と声をかけられたときにはその声の低さに今さらながら驚いた。正が全く見も知らぬ別人に思え、足がすくみそうになった。
「こんな時間まで、どうしたんだ?」しかし、そう言った正の顔には美崎のよく知る人懐っこい笑顔があった。美崎は嬉しくなって彼に駆け寄った。「本を読んでて……」
「ふうん」
正の反応はそっけなかったが、二人は自然と並んで歩き出した。
実はそのとき、正は振り返った先にあった美崎の不安げな顔がふと嬉しさにほどけた様を見て激しい動悸に襲われていたのである。思わぬほど色づいた心が勢いやまず顔にまで出そうなところを相手に悟られないようにと正は必死だった。
一方、美崎は美崎で正の横に並ぶと彼に背をずいぶん追い越されていることを改めて実感していた。すると三浦正という幼馴染とではなく、三浦正という男性と並んで歩いているのだと強く思え、胸が甘く締めつけられているように感じられてたまらなかった。
二人には自分の心音が口から出てしまうように思えた。それをごまかすため必要以上に口数を多くした。最近の話題は心もとない。共通の話題は昔話が堅固としてある。なればと互いに申し合わせることなく色褪せない昔話に花を咲かせた。それが二人の心を再び近づけた。暗く鬱蒼とした雑木林の道を歩くとき、美崎は正を頼るように距離を縮めていた。美崎の発する熱が感じられ、正は頼られていることが嬉しかった。家につく頃には口数も減り、二人の手は触れ合いそうなほどに近づいていた。が、二人は手を触れ合うことはなく、別れた。
その日以降、二人は度々一緒に帰った。またも夫婦だなんだとからかわれたが、今度は気にしなかった。気にしないでいると周囲はつまらなそうに口を閉ざした。夏には二人でプールや隣町の大きな公園に遊びに行った。自転車を二人乗りしているところを警官に見つかり、一緒に怒られた。正の参加する市の陸上大会に美崎は応援に行き、惜しくも二位となって涙する正を慰めた。映画や買い物にも行き、つまるところ二人は恋人らしく過ごしており、また周囲も二人は付き合っているのだと思いこんでいたのだが、されど二人のどちらともから一方へ告白をすることはついぞなかった。
怖かったのである。
二人は互いに好きあいながら、その好きあう底では家族のように育ってきたための感情が根強く残っており、自分が相手を一人の異性として好きだったとしても、相手がそうではなかったらと思えば現在の関係を告白することで壊してしまうことが恐ろしく、互いに胸の内ではほのかなれどもこうこうと燃える恋心を差し向けあいながら、互いに己の燃える心の熱に怯えて切ない思いを伝えることができずにいたのである。特にその頃の美崎にとっては正との時間が心の支えになっていたこともあり、あまりに恋人らしい雰囲気となってしまったときなどは、恋よりも、正と男女の関係になってみたいという思春期の好奇心よりも、何より彼女はその恐怖に引かれて踵を返していた。触れれば壊れそうな美崎の様子を見つめる正には、いかに猛々しい男の欲望が目覚めかけていても、女を無理に追うことはできなかった。
正の家の庭で、金木犀が色づいた。
秋である。
それは青天の霹靂というにふさわしかった。
ある金曜の午後、美崎が急に転校することが報された。それも週明けにはもういないのだと。
どよめくクラスの中で正は色を失っていた。前の席の級友に知らなかったのかと問われても頷きすら返せない。正は美崎を見つめたが、美崎はじっと虚空を見つめていた。正は美崎にどういうことかを問おうとしたが、クラスの女子の壁に阻まれた。漏れ聞こえることには家の都合としか分からなかった。
美崎は正を避けるように先に帰ってしまった。引越しの準備があるのだと。正は部活を休み、美崎の家に押しかけたが、いざ美崎の家の前に来ると家内は確かに引越しの準備に忙しく、玄関前には大量のごみが出され、どうやらそれは一家がいなくなるというよりも一家の中から一部が抜き出される過程であり、そのためあるところで夜逃げをしようというような物々しさがあり、沈鬱で、その重苦しさにあてられた正は門前に立ちすくんで呼び鈴を鳴らすことができなかった。
呆然と家の前で佇むうち、正は見た。ごみ袋を携え玄関から出てきた美崎の母の頬に化粧で隠しきれない変色の痕が薄くあることを。美崎の母と目が合った。昔、何度も誕生日にケーキを焼いてくれた朗らかな人は驚いた顔を見せ、それから暗く澱んだ目で寂しそうに正を見つめた。何を言わずともごめんねと謝られたことが正には分かった。正はもう理解していた。おばさんとおじさんの間に何があったのか。美崎がどうして引っ越すのか。こんなに近くに住んでいたのに、よく知っていたはずなのに、気がつかぬ間に大きく変化していた他所の家庭の底に溜まっていた汚物が一気に足元に流れ込んできた気がした。正は頭を下げた。親しかった人の変質。さらにはあんな顔をした大人に謝られたということも衝撃であった。大人の謝意には恥辱も含まれており、それが彼女らの内情に踏み込んでくることを拒絶してもいた。正は追い立てられるように家に帰るしかなかった。
自宅へ戻った正は切実な焦燥に駆られて美崎の携帯電話へ呼び出しをかけた。しかし反応はなかった。メールも送った。やはり、反応はなかった。正はどうしようもなく肩を落とした。
その晩になって、深夜に正の携帯電話に着信があった。
正は慌てて外に飛び出した。
美崎がいた。
その顔は蒼白く、泣きそうなのか、それとも怒っているのか、よく分からなかった。
「お散歩しない?」
美崎は笑った。無理に笑ってそう言った。正は頷いた。
歩きながら二人は話した。と言っても、初めの一言二言の後は美崎が一方的に話した。
やはり、美崎の両親は離婚するのだという。
彼女はさらりと父の浮気が原因だと語った。春に発覚した。両親の関係は無論悪くなった。それでも世間体を気にする母は色女ときっぱり手を切ることを条件に水に流そうとした。父も同意した。が、しだいに互いの言葉尻を捉えての口喧嘩が絶えなくなり、喧嘩は激しさを増し、とうとう父が母に手を出した。父はすぐに後悔し謝罪を繰り返したが、全ては終わっていた。
美崎たちは母方の実家に身を寄せるという。ここからは遠い。飛行機でも二時間かかる。祖父母はお料理屋さんをやっているから生活は大丈夫、お母さんはお店を継ぐ気になっちゃってるし、お父さんからも慰謝料たくさんふんだくってやるって言ってたから……そう言って、美崎は少しだけ泣いた。
このとき正は美崎が思いがけず強い人間だということを知った。美崎が両親のことで泣いたのはその短い限りだけであった。もう彼女の中では整理がついているのだ。それを知って、正は美崎が何の相談もしてくれなかったことへの憤りと、それよりも激しい美崎の苦悩を何一つ察することのできなかった己への憤りとに喉を塞がれ、黙するうちに美崎に比べて幼稚で無力な己が情けなく、ここに至ってなお彼女に慰め一つかけられぬ羞恥に唇を凍らせて、ただ隣に並んで歩き続けることしかできなかった。しかし美崎には彼が隣にいるだけで良かった。快活な少年の押し込められた沈黙は、彼が彼女を思うがゆえに沈黙せざるをえないでいることを少女に伝えていたのである。
足は自然と学校に向いていた。
習慣というのか、二人が一緒に歩く道は通学路であり、だから二人はそうこうするうちに学校にやってきていた。夜の学校は静かで、昼の喧騒を知っているからこそ空恐ろしくもあり、住宅街の中にぽつんと現れる大きな暗がりはひっそりとして物悲しい。
「もう一緒に通えないね」
ぽつりと美崎が言った。
正は弾かれたように意を決し、美崎の手を握った。
正は美崎が戸惑うのも気にかけずに手を引き、校門に向かった。そして乗り越える。格子状になっている門扉越しに美崎が正を見つめた。正は腕を広げた。「落ちたら受け止めてやる」
美崎は躊躇していたが、正の真剣な眼差しを見るや思い切って門を登った。美崎は正の胸に飛び込むように降りた。正は美崎を受け止め、それから何も言わずに歩いた。美崎は正を追った。
正はまっすぐ体育館の裏に向かっていた。
正の背中を見つめ、早足でついていく美崎は胸の奥の柔らかなところが粟立つのを抑えられなかった。
正は、美崎の足音を聞きながら、迷っていた。本当にこんなことをしてもいいのだろうか。こんなことをしたら美崎には迷惑ではないのか。今さらこんなことをしたところで、もう全ては終わっているのに。
されど正は歩みを止めなかった。止められなかった。彼の足は頭を離れ、激しく脈を打つ心臓が動かしていた。
藤原美崎。もうすぐ北条美崎に変わる幼馴染。正の記憶の中では、彼女と過ごした日々は楽しいばかりだ。輝いている。少し離れたときがあったとしても、それも良い思い出だ。が、美崎の記憶の中ではどうだろう。この町で暮らした記憶の最後が、諍う両親の悲しさばかりだとあまりに悲しい。何より、自分が悔しい。
正は体育館裏にやってきたところで足を止めた。彼の背後の足音も止まった。体育館裏は、裏と言っても日当たりがよく、傍らにはプールがあり、体育館とプールとの間には園芸部の花壇がある。欠けた月の光の下、早咲きのパンジーやビオラ、マーガレットが花を開いていた。
正は深呼吸をして、振り返った。
振り返って、正は息を飲んだ。
月明かりは美崎にも射していた。月影に色ふ少女はことさらに美しかった。
正はうつむいた。幼馴染への、明日には遠くへ去る彼女への恋慕が彼を苛んだ。何でもっと早くに……。悔恨が彼を打ちのめしていた。
「漫画みたいだね」
ふと美崎が言った。正は顔を上げた。
「体育館裏でなんて」
美崎は頬を火照らせ、正を見つめていた。
双眸は潤み、切々として月色にきらめいていた。
正の胸に思いがこみ上げる。こみ上げて溢れ出す。
「好きだ。おれ、美崎が大好きだ」
美崎はうつむいた。彼女の足元にしずくが落ちた。
「ありがとう。わたしも、大好きだった」
「だった?」
「……ううん、大好き。本当は……」
その先を美崎は続けなかった。
正にはその気持ちが痛いほど分かった。
もし口にしてしまったら美崎は母のことも恨んでしまうだろう。
両親のことに整理はつけられても二人別れるのは、辛い。
正は美崎を抱きしめた。
美崎も正を抱きしめた。
互いの温もりが愛しい。何もかもが愛しい。
二人の心臓が重なる。
互いの胸を焦がしていた炎が解き放たれ、二人を包み込む。
二人は唇を合わせた。
涙が唇を湿らせていた。
少年と少女はつながり、そして、別たれた。
終
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