――み・ち――

 一人。
 女、一人。
 ドブ川のほとりに立つ古アパート、その二階その角部屋に女、一人。
 岩見千鶴、それが彼女の名。
 近江智香子、それも彼女の名。
 内海千尋、そう名乗ったこともある。
 他にも名乗った名はある。だが、他は忘れた。
 百以上名乗った気もする。そんなには名乗っていない気もする。
 だが、どうでも、それはどうでもいいことだ。
 名乗った正確な数など忘れた。忘れて、忘れたままで。それでいい。
 ただ今は岩見千鶴。
 それだけ。
 ただただ今は、ただただイワミ
「チヅル」
 色の悪い唇が、だるく動いて彼女の名を呼ぶ。
 その名を呼んだのは、岩見千鶴。
 その名を呼ばれたのも、いわみ
「ちづる」
 確かめるように、彼女はもう一度名を呼んだ。自分に名を呼ばれて、彼女は改めて自分が岩見千鶴なのだと意識した。
 おかしなことだ。
 そしておかしなことをしていると彼女も思う。
 けれど、ときどきそうしないと、彼女は名を忘れそうになる。そうして今の名を忘れれば、きっと本当の名までも忘れてしまうだろう。
「ち、づ、る」
 彼女には、鉛がつまっていた。
 その鉛に実体はない。だが、重い。
 その鉛は体の表面に薄雲となってまとわりついているようであり、または骨の芯の奥に根を張っているようでもある。
 寝ても醒めても、鉛は彼女の体を蝕んでいる。
 寝ても醒めても、鉛は彼女の心を犯している。
 特に今日みたいに暑い夏の日ともなれば、鉛はそこら中の熱気と湿気を吸い込んで余計に彼女を重く責め立てる。
 けばの目立つ畳を這うように進んで、彼女はドブ川に面した窓へ向かった。
 その窓は大きい。
 女々しい懐古趣味の映画やドラマに出てくるような、フォークソングと夕焼けが似合うデザイン。
 窓枠の外には高さ三十センチほどの赤錆だらけの柵があるが、こんなもの、うっかり転げ落ちる人間の助けにはならない。
 大きな窓枠の底辺にはりつけられたサッシの溝には砂埃がたまっている。
 けれどそれを気にしなければ、窓際に座って肘をかけるにちょうどいい。ちょうどそうできるように壁を切ったかのように。
 例えば窓枠に腰掛けてギターを爪弾く男と、それをうっとりと見上げる女でもいれば少しは絵になるだろう。絵に、したかったのかもしれない。
「千鶴」
 彼女は窓際に座り込んだ。窓枠にもたれかかって、肘をかける。弱々しい風が少しだけ吹いて、それだけでも涼しさを感じられる。
 今日は暑い。
 夏の日差しは町を焼く。
 細くも広くもないドブ川の向こうには来月の取り壊し日を待つこちらよりもっと古いアパートがあり、その屋根のさらに向こうには、遠くそびえる高層ビル。何本も屹立したそれらは陽炎の中にあるようで、ナンセンスにゆらゆらとかげろう。
 金属製のサッシに押しつけられた彼女の腕を守るものは何もない。
 だが、北向きの窓の枠に大した熱はない。
 ただ、熱せられたドブの臭気が彼女の鼻を襲う。
 だが、川の臭気を彼女が気にすることはない。
「ねえ千鶴、次の名前は何にする?」
 彼女の目は対岸のアパートに向けられていた。
 彼女は、そのアパートが壊された時、この部屋の主人と別れるつもりでいた。
 この部屋の主人。
 夢見がちな男。
 今日も駅の前の一角で、フォークギターを片手にくだらない詩を声を張り上げ衆人に晒す男。
 夢見がちな男?
 違う。
 夢だけしか見てない男。
 醒めている時に夢を見て、眠る時には夢を忘れる男。
 彼のセックスは、痛い。
 まるで悪い夢でも見ていたかのように、それを忘れるように女の体をむさぼるだけ。むさぼり果てれば、汗と液で汚れたシーツに慰められた体を沈めるだけ。
 女が男に合わせて腰を振っている、それだけのことにも気づかず。
 女が男に合わせて息を荒げている、それだけのことにも気づけず。
 君のカラダは気持ちよく擦れてイけたけど、私のカラダはむやみに擦れて痛むだけ。
 あじけないキスは面倒なだけ。
 甘みを知らない歯は傷跡を残すだけ。
 愛撫?
 ただ触っているだけ。もんでいるだけ。見当はずれなマッサージにはなるかな。
 君は私を愛しているつもりなのかもしれないけどね、君は君のセックスを愛しているだけだよ。君の愛を謳う美しい詩とやらが、独りよがりなのによく似ている。
 だけど、私は文句を言うつもりはない。
 愛がないのは私も同じ。
 でもそれでいい。
 私は愛など求めていない。求めているのは、セックスだけ。痛くてもいい。毎日訪れる寒くて気持ちの悪い夜をしのぐためにはそれでいい。だから文句は言わない。言う権利もない。それに、痛くないセックスなどしたこともない。
 だけど、どうしてだろうね。
 ときどき、私の舌でふやける君の間抜けな顔に笑いを堪えきれなくなりそうになるよ。
 そして多分、そろそろ限界。
 だからあのアパートが崩れたら、君とはサヨナラ。
 あの最後の葉っぱが落ちたら死ぬの、みたいでいいでしょう?
「川上・千夏?」
 窓枠にもたれかかったまま、じっとりと滲む汗もそのまま、じっと取り壊しを待つアパートを見つめて彼女はくり返した。
「かわかみちなつ」
 それがいい。そんな気分だ。景色にも似合っている。次はそう名乗ろう。そう名乗ったら、もしこの部屋の主人がイワミチヅルを探したとしても、そんな女はもうどこにもいない。いるのは、イワミチヅルを塗り潰したカワカミチナツさん。
 そうして彼女は、いたずらに思う。
「もし、イワミチヅルを塗り潰したカワカミチナツさんですか? って聞けたら、君を本気で愛してみるのもいいかもね」
 ドブ川に、発泡スチロールの箱。
 流れなどないように見える青黒い水の上を、白い塊がゆっくりと流れていく。
 魚を入れる箱だろうか。だが、魚はどこにも見当たらない。箱の中にも、川の中にも。
「私に愛があればだけど」
 彼女はそう言って、そう言った自分を笑った。
 鉛のつまった身がまた重くなったようだった。
 だるくて息を吐く。
 ふと、声が聞こえた。
 彼女が目を動かすと、対岸のアパートの敷地、アパートの壁と隣家との塀が作る隙間に小学校低学年くらいの男の子が二人と、女の子が一人。
 三人とも真っ黒に焼けている。プールで焼けたのだろう。日差しの強い日に遊びまわってもいたのだろう。ずっと部屋にこもって、男に消費させるだけの青白い肌とはかけ離れている。大人一人分の幅の空間に寄り合って、子供心の冒険か。立ち入り禁止に立ち入って、スリルを味わいひそひそと笑ってでもいるのだろう。
 その中の一人が、ふいに、まだイワミチヅルである女のいるアパートに目を向けた。
 女と女の子の目があった。
 距離があるのに、次はカワカミチナツになる女には、その女の子の目がきらきらしていることが分かった。
 二人は互いを意識した。
 女の子の顔には、明らかに焦りが浮かんでいた。立ち入り禁止の場所にいることを大人に知られて、それで焦っているのだろう。二人の男の子もドブ川の向こうにいる女を見上げて、身を構えている。
 イワミチヅルは、奇妙で、そして邪悪な考えが這い登ってくることに気がついていた。
 昨夜、男に抱かれてから何もまとわぬ体に目を落とす。
 あらわとなった乳房が、男の歯型が残る乳房がそこにある。下からは陰になって見えないだろう。だが、もう少し身を乗り出せば彼女らに見せつけられる。立ち上がれば不細工なキスマークが浮かぶ腹と、陰毛と、遠すぎて見えないだろうけど乾いた性行為の残りカスまで。
 今はまだ一緒にかわいらしい冒険をひそやかに楽しむあの子らが、知識では知っていたとしても、未だ熟さぬ心身には性差の実体を得ないあの子らが、もしこの体を見せつけられたらどういう反応をするだろう。
 この体を見せつけられたあの男の子たちは、それからあの女の子をどういう目で見るようになるだろうか。
 あの女の子のきらきらした目は、この私を見たら、どういうふうに変わるだろうか。
 それにもしあの女の子がヴァージンロードに、呆れるくらい純朴にウェディングドレスに憧れていた頃の私と同じだったとしたら、この気色の悪い考えをぜひとも実行したいと彼女は思う。実行しなければならないとも思う。
 私は気がついたらこうなっていた。
 だからだと思う。
 だから、あなたの目がキラキラまぶしい。
 だから、私はあなたが嫌い。
 だから、あなたの目をそこに流れるドブ川の色にしてやりたい。
 だから、私の醜いカラダであなたの目を汚させて?
 だってあなたが羨ましいから。
 あなたはずるくないのに、ずるいって、そう感じるから。
 彼女はそう思った。
 思って、そう思うだけにすることにした。
 良心が咎めたのではない。ただ彼女は体が鉛のように重くて、身を持ち上げることができなかった。それだけのために、考えを実行には移さなかった。移せなかった。
 彼女は、辛うじてずっと窓のサッシ溝に押しつけていた腕を持ち上げた。腕の柔肉に、真新しい焼印のように線上の跡が残っていた。
 なぜだろう、ぜいぜいと息が切れるようだった。
 彼女はようやく腕を持ち上げて、手を振った。
 子供たちにはそれが好意的に見えたようだった。
 彼女は、吐き気がした。
 子供たちは安心したように肩をおろし、そして彼女には何も返さず内緒話をするように顔をつきあわせ、それからどこかへと犯人を追う探偵の足取りで消えていった。
「手ぐらい振り返せよ」
 舌打ちし、彼女はごろりと横になった。
 ドブ川の臭いに、色あせた畳のカビ臭さが混じる。
 だが、彼女はそれを臭いとは思えなかった。
 なぜだろう、今日はとても暑くて何もしなくたって汗が染み出すのに、寒気がする。
 ドブ川の臭いが、畳のカビ臭さが、急に冷気を帯びたようだ。
 寒気がする。
 体は震えもしないのに。
 彼女は敷きっ放しの布団に向かって這い進んだ。
 寒い。
 布団に辿りつくと、ドブとカビに汗と垢の臭いを交え、タオルケットで身を包む。それでも寒い。それでもなお寒い。
 どこか近くでセミが鳴き出した。大声で泣いているようだった。
 気持ちが悪い。
 彼女は身を丸めて、指を噛んだ。
 鉛が重さを増し、量を増している。肉という肉が鉛になってしまったようだ。さらには血が水銀に変わり、骨は鉄に、爪と歯は石に、髪は炭に、みんな冷えきって、冷たく重い。このまま地の底へと引きずりこまれて沈みそう。
 夜はまだ、遠いのに。
 なのに、こんなにも気持ちが悪くなるのは初めてだった。
 セミの慟哭に耳を叩かれて、圧力で目玉が破裂しそうになる。
 こんなにも、あの心に響かないラブソングを作り続ける男が待ち遠しいのは初めてだった。
 セックスがしたい。
 どんな男だって、どんなタオルケットより体を温めてくれる。
 痛みしかないセックスがしたい。痛みで体を温めないと、凍えてしまう。そしてもし凍えきってしまったら、ああ、きっと私は    に戻ってしまって、そうしたら寒さに耐えきれず凍死してしまう。
 凍死してしまうのだ!
 独り。
 女、独り。
 ドブ川のほとりに立つ古アパート、その二階その角部屋に女、独り。

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