ありがとう、兄さん

 白無地の世界。
 無限の空間。
 そこに、黒い、線が引かれる。
 そこに黒い点が打たれる。
 黒い線と点はやがて一つの記号を象る。象る。形作る。
 記号には意味がある。
 一つの意味しか持たぬ記号がある。
 複数の意味を担う記号もある。
 一つ一つばらばらに描かれてもそれらは意味を持つ。しかし、形は持たない。世界は持たない。
 白無地の世界に、黒い記号が刻まれる。
 最初の記号の隣に、また一つ刻まれる。その隣にまた一つ、一つ、二つ、三つ、四つ連なり刻まれていく。
 やがて……一つ一つばらばらだった記号たちに、連帯が生まれる。
 二つの記号が一つの意味を作る。あるいは、二つの記号で複数の意味を担う。
 たくさんの記号の集まりがたった一つの意味を持つこともある。二つと二つが合わさり一つの意味を作ることもある。
 そして、そのうち、一つと二つと三つと無数がつながり意味と意味と意味を重ねて一つの意思を表す。
 いつしか連帯を持ち意味を作り意味を重ね意思を表した記号たちは、しだいに、物語を紡ぎ、世界を成していく
 空っぽであった白無地の世界。
 完全なるくう
 そこに、ふと、唐突に、黒の線と点の集まりだった記号が刻まれていくだけで、新しい世界が生まれるのだ。
 世界を創造する特権は神だけに与えられたものではない。
 人もその術を持っている。
 文字。
 あるいは一本の線だけで他人に意思を伝え、この白紙の上に築かれた我が世界を知らしめる奇跡。
 書く、それだけで世界が構築される。
 キーボードを打つ、それだけで世界が色づいていく。
 紅い海。
 黄色い空。
 金色の山。
 転がる森。
 歩く岩。
 喋る頭蓋骨。
 あなたはどんなイメージを持つだろう。
 紅い海が波打つ黒い砂浜から空を見上げれば、鮮やかに輝く黄色の中を緑色のはぐれ雲がゆったりと流れていく。金色山の峰には頂上に向けて転がる森。歩く岩がこちらへやってきて、その上にちょこんと置かれた頭蓋骨が「I Love You!」
 あなたの脳裡にはどんな絵が描かれているだろう!
 それは私がこの現実の先に見る『私の世界』と全く同じ色と形をしているだろうか。それとも少しだけ違う? 君の空想に浮かぶ世界はわたしの思う絵とは全く違うのに、この世界を構築する意味だけは同じかもしれない。だとすると、全く違う絵を見ながら君と僕は同じことを考えていることになる。もしかしたらその逆で、そっちとこっちが見ている絵は全く同じなのに、理解している意味は正反対だったこともあるかもしれない。
 それは、なんと面白いことか、なんと不可思議なことか、なんと素晴らしいことか!
 文字を書き、文字を打ち、俺は白紙の上に字と単語と文を血肉とした新しい世界を組み上げ続ける。
 それがしの指先から生まれる世界は貴様の脳裡に、貴殿の創造の空に、どんな新しい風を吹き込む。
 楽しい? 面白い? 哀しい? 笑える?
 もしかしたら、つまらない?
 ……いや、それは、余の考えるべきことではない。
 小生の生み出した世界が、作品が、貴方の心に響き、貴女に喜ばれればこれ幸い。
 だが、今、それは考えるべきことではないのだ。我が作品がどう受け取られるかという希望と不安の軋轢は深淵にて甘美なる煩悶のブラックホールを産む。自分の想像力を傾けるべき先は、そこではない。そんなことではない。そんな何も成さぬ暗黒に耽溺することではない。
 そう、今、あたしのすべきことは!
 ただ、ここに、こうやって作り上げられていく世界を、無数の一つを一束に結びその世界を完成させる言葉へ向けてソウゾウを続けることだ!
 全ては後からついてくる。
 喜びも怒りも哀しみも楽しさも一つの世界に存在する感情。例え無様な世界だったとしても、無数の一つを重ねて創り上げられた場所がなければ存在できない感情。
 さあ、書こう。
 書き続けよう。
 筆が走る。指が躍る。文字が歌い言葉が溢れる。
 たかだか植物の繊維についたインクのシミが、生を、歓喜を、笑顔を、友情を、愉悦を、セックスを、人生を、死を、愛を伝える。
 たかだかモニタに表れた黒い光が、命を、絶望を、渇望を、苦悶を、悲哀を、憤怒を、思想を、希望を、憎しみを伝える。
 額の熱は新たな世界を生み出すマグマの息吹。
 さあ、もう少し。
 あと三行。
 あと一言。
 あともう少しで新しい世界が産声を上げ―――――――――――――――――――――――
――――……………………………………・・・・・・・・・・・・・ん?


 ……あれ?


 白無地の世界が……
 最後に“。”を打つだけで産声を上げるはずだった世界が……
 急に。
 私の紡いだ希望と光に溢れた世界が、闇の世界に……
 ま、まっくろに変わっ……
 ふと     唐突に。
 網膜を刺激する光は黒。液晶モニタは何も映さない、恐る恐る見てみればパソコンの電源も落ちている。
 つまり……これは……?


「ふ、ふぎゃあああああああああああああああ!!」




 まるで断末魔の叫びが夕暮れの空に轟き渡った。
 その震源地たる閑静な住宅街の一軒家、その二階の一室へ向かってどたどたと足音が近づき、
「何だ何だどうした!?」
 乱暴にドアを開け放ち叫んだ孝広は、真っ黒なモニタの前で固まっている妹の姿を見て、そしてその視線の先を見て、何を答えられる前に全てを悟った。
 妹のデスクトップパソコンの電源コードが延びる先、そこにはモニタとプリンタと外付けHDDにも電気を供給している電源タップがある。集中スイッチ式のそれは、スイッチをオフにすると当然つながれた全てへのエネルギー供給を一括停止する。
 ――妹の『積読』が、雪崩を打っていた。
 おそらくこれまでぎりぎりのバランスで山を保っていたのだろう。何かの拍子に本の山が崩れて、電源タップのスイッチにピンポイントアタックをかましていた。
 美雪のうろんな瞳もそれを見ている。
 よりにもよって電源タップのそばに積読山を作っていたミス。積読山の不安定な断層を整理せず読みもせず放置していた罰。ようするに自業自得のその結果。
 美雪は電源タップのスイッチを入れ直し、恐る恐るパソコンを起動させた。
 それはもう五年も前に孝広が自作したパソコン――新しいものを作る際にサブPCにしようとしていたところ、欲しい欲しいとせがむ妹に兄が仕方なく譲ってやったものだった。
 HDDに寿命などあってないようなものだが、一説には五年ほどとも言われる。
 その上、美雪は最近パソコンの調子が悪いかも時々変な音がすると兄に相談していた。
 さて、形は違えど突然『コンセントを引っこ抜く』という荒技をくらってなお、HDDは生きていてくれるだろうか。
「――残念!」
 やがて液晶モニタに現れたのはエラーメッセージ。トドメに兄の宣告を受けた美雪は、事切れたようにキーボードに顔を埋めた。

「ま、外付けにバックアップをとっておいただけ幸いってもんだな」
 台所から包丁とまな板の奏でるリズムに乗って、孝広の声が食卓につっぷす美雪に届く。
「あー……」
 かすれた声が、美雪に返せる精一杯だった。
 昨夜から、深夜の空を眺め、朝焼けの空を眺め、眩しい青空を眺め、眠気なんて露とも感じずぶっ通しで書き続けた小説が、沈みゆく夕日と共に真っ黒な空に消えてしまった。
「もう……絶望だ。この世には絶望しかないんだ……へへ」
「何を大袈裟な」
 エプロンをつけた孝広が、台所から小鉢を二つ持ってくる。
 半分白目を向いて片頬をテーブルクロスにへばりつかせ、開け放たれた口は乾き唇がカサカサになった美雪の顔を見て孝広はたまらず吹き出した。
「ぶっさいくな顔。それでいいのか女子高生」
「うっさいバカぁ」
 孝広は力ない抗議をする妹の顔の前に小鉢を置いた。
「……お母さんは?」
「親父が出張なのをいいことに友達とお食事だとさ」
「ふぅん……」
 自分で聞いておきながら関心なさそうに生返事する妹は、つけっぱなされたテレビに流れるアニメを光失せた瞳で見つめ、
「へへ」
 乾いた笑いを浮かべた。
 画面では婿養子が編集者と駅前で話している。何も笑えるシーンではない。
 孝広は肩をすくめ、台所に戻った。
「美雪」
 そして、フライパンに油をひいて火にかけながら、
「また書きゃいいじゃないか、小説なんて」
 孝広の口は軽かった。気楽に、無配慮に、ショックを受けている美雪を馬鹿にしているようでもあった。
「小説なんてってなんだよ」
 さすがにカチンときて、美雪は体を起こした。台所に立つ兄の背中に鋭い視線を投げる。
「一晩、いや一日だよ。ずっと書き続けてきた傑作が、一瞬にして消えちゃったんだ。もう二度と戻らない。それなのに何で兄さんそんな軽々しくまた書きゃいいなんて言うんだよ」
「また書けるだろ? お前が書いたんだから、お前の頭ん中からはまだ消えてないだろう」
「書けない」
「それこそ、何でだ?」
 フライパンにタレに漬け込まれた豚肉が放り込まれる。熱された油と水分が激しく争い、部屋に香ばしいしょうが醤油の香りが漂った。
「兄さん、解ってない。いい? 文章ってのは、一期一会なんだ」
「余計に解らないな。バカな俺にもっと解りやすく教えてくれ」
「文章には、その時にしか書けない文章だってあるんだよ」
「そんなものか? 俺も卒論書いてたりするけど、その時にしか書けないなんて感じたことはないぞ」
「そういうものとは違う。何ていうのかな、こう……筆がノッてて、作家魂が燃え上がってて、それが脳汁だくだく溢れさせて、そう、パッション!」
「フルーツ?」
「これが実に甘酸っぱい、って違うわ変な合いの手入れるな! パッション! 情熱!」
 孝広がフライパンを振る。跳ねた油が火に触れて、燃え上がった。
「それともパトス! 熱い情熱がロゴスを飲み込んで手を動かす! おかしいと思わない? 小説にこそロゴスが重要だと思えるのに、書いている時、わたしは考えてないんだ。知性も理性もどこかにいって、わたしは突き動かされている。何に? 創作の魂に。それとも創作の神の意思に。キーを打つ手は止まらない。ただ頭の中に浮かんでは消える情景を追いかけて、わたしは手を動かす。わたしは何も考えていない。何を書いているのかは解っているのにどうやって書いているのかは分かってない。
 考えるより考えようとするより先に手が動いて、モニタに現れた文章を見てわたしはわたしが書きたかった表現を思いつく。そうか! わたしはこれが書きたかったんだ!  そんな文章をいつでも書けると思う? そりゃあわたしだっていつもは考えながら書いてる。そういうのなら同じものを何度だって書ける。でもね、時々、そういうことが起こるんだ。そんな時、わたしは一度掴み損ねたら二度と会うことのできないわたしの文章に出会う。こんな表現ができたんだって驚く。
 書いてたんだ。さっきまで。わたしはそういう小説を書いてた、さっきまで!
 それが! 一瞬で! 消えちゃったんだ! この無念を兄さんは解ってくれないの!?」
 美雪は立ち上がっていた。
 握り締めた拳を震わせて、知らず溢れた涙をこぼして、豚肉のしょうが焼きを盛った皿を運んでくる兄を睨みつける。
「そりゃまたオカルトチックな話だ」
 孝広は妹の敵視を平然と受け流して、皿をテーブルに置いた。
「だけど、だからってそれは『美雪』が書いていることに変わりはないだろう。だったらそれは美雪の実力から出てきたものに違いない。まさか本当に神様の手がお前の手を動かしてるわけじゃないんだろうし」
「分からないよ。本当にそうかも」
「そこまで言い切られると我が妹が本気で電波にやられてるんじゃないかって心配になるんだが……ま、それはないさ」
「……何でだよ」
「本当に神様がお前を通して書いているとしたら、そのわりにお前の小説面白くない」
「ふぎゃあ!」
 孝広の言葉に心臓を貫かれ、美雪は悲鳴を上げた。胸を押さえ、よろめく。膝裏が椅子に当たり、崩れ落ちるように腰を落とす。
「兄さん……」
「おう」
「忌憚のない的確な意見は大変ありがたいんだけど、それ、忌憚のない的確な意見過ぎてわたし死にそう」
 孝広は笑った。うなだれる美雪をそのままに、また台所に赴く。
「そうか。じゃあついでに言っておくと、文章もまだまだ下手糞だ」
「やめてよしてドS追い打ち痛すぎ兄さん」
「でも、美雪の小説が妙なパワーを持っている理由は分かった気がするよ」
「……え?」
 兄のセリフに、美雪は顔を上げた。孝広はナメコの味噌汁を持ってきていた。見れば小鉢には小松菜のおひたし。それにキャベツの千切りを添えた豚肉のしょうが焼き。どれも、美雪の好きな料理だった。
「お前が『小説家になりたい』って言い出した時は、ただの趣味に熱が入りすぎてるだけだと思ってたが……さっきの演説聞く分には、どうやら本気みたいだな」
 目を細める孝広に言われ、美雪は口を尖らせた。
「そうだよ、悪い?」
「悪くはない。だけど、それだったらよけいに 『傑作』が一つ消えたくらいでくよくよするな。ああ、それが大したことがないってわけじゃない。だけどもっと大切なのは、これから先、消えた傑作よりももっと上の大傑作をお前は書けるだろうってことだ。それなのにへこんでばかりいちゃあ時間が勿体無い。だから、これを食ったら今日は寝て、明日起きたらまた情熱燃やして新しく書けばいい。違うか?」
 美雪は瞳を輝かせた。思わぬ兄の励ましに感極まり、胸が高鳴った。
「――兄さんっ」
「ま、消えた『傑作』がお前の生涯最高の大傑作だったって可能性もあるけどな」
「ふ、ふぎゃあ!」

 上げてから落とされた美雪はそれからやけ食いするように食事をかっ込み、シャワーを浴びた後はすぐにベッドに潜りこんだ。
 徹夜の疲れもあってすぐに眠りの底に落ちた美雪は、翌朝、外を走る新聞配達のバイクのエンジン音に目を覚ました。体を起こして、ふと気づく。
 壊れたパソコンの置かれるPCラック、そのキーボードの上に一枚の紙があった。
 ベッドから出て見てみれば、そこには『次回作を楽しみにしてるよ』の一言。
 もしやと思いパソコンの電源を入れてみると聞き慣れた起動音が鳴った。モニタに見慣れたロゴが表示され、見慣れたデスクトップ画面が現れる。
 兄が昨夜の内にHDDを取替え、バックアップから環境を戻しておいてくれたのだ。新品を買ってくる時間はなかったから、きっと自身のバックアップ用に使っていたものをこちらに提供してくれたのだろう。フォルダを確認すれば、昨日書いていたもの以外のファイルが、ちゃんとそこにあった。
 登校時間まで、まだ時間がある。
 美雪は笑みを浮かべて文書ソフトを開いた。
 白無地の世界が現れる。
 何をどうにでも創り上げていける無限の空が。
 美雪は自分の不始末で失ってしまった世界を改めて創り上げようとキーボードに手を当て、タイトルを打ち、記憶の中から掘り起こした冒頭一文字目を入力して……そこで手を止めた。
 瞼の裏には、失った物語の横に、新しく別の物語が浮かんでいた。
「うん」
 思い立つと同時に美雪はマウスを動かし新規文書を作成した。キーが打たれ、新しい世界に名が与えられる。

 その名は――

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