5−h へ

 地上に戻ってきたニトロを待っていたのは、飲めや歌えの大騒ぎ――その前兆に沸き立つ人々だった。
 ロータリーの交通は復活しているが、今や警察と警備員によって隔離されたリングの周りはパーティー会場となり、実況席のあったトラックの荷台は料理やドリンク置き場となっている。残りの二台のトラックの片方にはダーツやパンチングマシーンといった遊具が置かれ、もう片方にはライブステージが用意されていた。どうやらそこでパフォーマンスを見せるのはメルシーであるらしい。生バンドのリーダーと何やら打ち合わせをしている彼女のフリフリドレスはこれから歌にステップにターンに合わせて躍動するのだろう、そしてその開始を待ちながら、APWのレスラー達と、観衆としてそこに参加した人々が打ち解けた様子でさんざめいている。さらにその周りを騒ぎに乗じなかった賢明な人々が取り巻いて、おこぼれに預かり損ねた悔いを醸しながら宴を羨ましそうに見つめていた。
 その中で、あのリングだけはまるで聖域のように誰の立ち入りも許されていなかった。いや、誰も立ち入ろうとしていなかったらしい。
「再び! お二人の登場であります!」
 ライブステージに立ちながら、未だ実況の役目を忘れぬメルシーが告げる。
「天に満ちた光、天に敷き詰められた美しい花々、しかしそれよりもワタクシ美しいと感じ入りましたのは星中から届けられた言祝ことほぎの海。たった一人のために多くの人の温かな心が一つとなったあの瞬間、それを美しいと言わずに何を言いましょう。率直に申し上げます。ワタクシメルシー、これまでの人生で一番、一番感動いたしました。ワタクシまで幸せでございます。あのお姿をご覧ください。女神に抱擁されて祝福されし英雄が美しい幸福の空から余韻に溺れる我々の元に降りてきます、降りてきます、降り立つ、降り立つ――降り立った!!」
 リングに立つニトロとティディアを、万雷の拍手と歓声が包み込む。
 そこでやっと解放されたニトロはティディアを見た。彼女はこちらを見ることはなく、まるでカーテンコールの役者のように辞儀をする。彼は、それに合わせて『ティディア&ニトロ』に相応しく辞儀をした。
 拍手と歓声が弥増いやます。
 温かな祝賀が二人を包み込む。
 ティディアはニトロに目で合図した。
 今となってはニトロに拒否するつもりはない。
 再びティディアに抱えられて、彼は空へと上昇する。
「さあ! 皆様! 例えどんな艱難辛苦があろうとも、幸多き未来に向けて飛び立つお二人を! 今一度大きな祝福でお送りください!」
 メルミ・シンサーの言葉に合わせて治まりかけていた拍手と歓声が再び、さらに今夜一番というように高まる。ニトロは力強く手を振るその人を見た。改めて思えば、こちらから観るばかりだったマックス・オーサム、そしてヒドゥン・ブレイバー、APWのレスラー達に見送られるというのは奇妙な気分だった。

「ニトロ君!」
 リングの真上に待機していた大型の飛行車に乗り込むと、そこにパトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナがいた。
「やあ、パティ」
 飛び込んできた少年を抱き止め、ニトロは言う。
「凄かったよ」
 その一言で、パトネトは満面の笑みとなる。
 あのリングでマスク・ド・シースルーの登場を目にして以来、ニトロはずっと頭の片隅に、そこに関わる全ての仕掛けギミックがパトネトの手によるものだと理解と戦慄を置いていたのだ。あの霧も、消えては生じる翼も、何の装置もないところに無数に表示された宙映画面エア・モニターも、透明な拘束帯も、何より、現状知られる背嚢型バックパックの最小の反重力飛行装置アンチ・グラヴ・フライヤーすら着けずに人二人を空に飛ばした技術も。自分にはどういう理屈で実現させられたものかは想像もつかない。が、見る人が見ればあれはきっと世界をひっくり返すものであっただろう。そして現実に、まさに現在進行形で銀河に衝撃が走っているだろう。
「まるで、魔法みたいだ」
 それは心からの感嘆を基にしていたとはいえ、ニトロにとっては何気ない言葉であった。しかしパトネトには違ったらしい。満面の笑みが、一種の誇りを伴って一層輝く。
「うん!」
 うん、うん、と何度もうなずくパトネトの様子にニトロは驚いた。抱き着く力を強めてくるその子どもは潤んでいるかのような瞳を青年に差し向け、
「僕ね、魔法使いになりたいんだ!」
 微笑ましく対面のシートに座していたティディアの目が丸くなる。どうやらそれを初めて聞いたらしい彼女の反応に、ニトロはパトネトのげんが何か重大なものであったと知った。そしてパトネト自身、それを口にした自分に気づいてびっくりしていた。満面の笑みが静止し、やがて照れ笑いにも似た形に変わる。
「あのね、ニトロ君」
 彼から離れてパトネトは、シートの隅に置いてあったデイバッグに手を入れる。話題を変えようという態度を隠そうとはして隠し切れぬ彼に、ニトロはツッコまない。そしてその小さな魔法使いの手が取り出したのは、
「これ、お誕生日プレゼント」
 小さな四角いケース。それは間違いなく、指輪を収めるものであった。
 ニトロはちらりとティディアを見た。彼女も意外そうにそれを見つめている。パトネトに目を戻すと、彼は不安げに、一方で自信ありげにこちらを見上げてきていた。
「ありがとう」
 微笑み、ニトロは受け取った。
「開けても?」
「うん!」
 どうやらこれも手作りであるらしいケースを開くと、そこには指輪が二個並んでいた。一瞬ペアリングかと思ったが、違う。それはどちらも同じサイズであった。銀に千年の時を経てした苔を溶かし込んだような色をしている。見つめていると固形であるはずのそれが流体であるかのようにも見えてきて、その際には鮮やかな水色が指輪の内部に炎の舌のように揺らめくようだ。一見いっけん磨き上げられ滑らかな表面にも光の角度で綾が浮かぶ。よくよく見れば、極めて微細な文字のようなものが印刻されているらしい。
 ニトロはアクセサリーといったものに興味が薄く、例えば王家の宝庫で様々な宝飾品を見た時にもその歴史的資料的意義に感得したことはあっても、美的に魅了されたことはなかった。――なのに、惹きこまれる。何か渓谷の奥にある底知れぬ蒼い淵を凝視しているときのように、引きずり込まれる。
 彼はパトネトを見た。
 美少女よりも美少女らしい『秘蔵っ子様』は得意げである。
「中指にね?」
 魔法使いの寄こした謎のアクセサリー。となればなかなか意味深いものだが……しかしニトロに拒絶する気などさらさらなかった。躊躇うことなく左の中指に嵌める。驚くほどするりと指輪は通り、まるで初めからそこにいましたとでも言うようにしっくりと収まった。しかも装着感といったものがなく、重さも感じられない。右の中指にも嵌めると自然さがさらに増した。
 しばらくじっと両手を表に裏に返すがえす指輪の存在を確かめていたニトロは、ふと、初めて指輪を付けたことに対する違和感を覚えて微笑した。照れ臭いような、ただこれだけで別人になったような、そんな不思議な気さえする。
「左の薬指は」
「埋める気はないぞ」
 横手からの茶々はぞんざいに跳ね除けて、ニトロは今一度じっと指輪を見た。思わず吐息が漏れる。美的な魅力にではなく、その魔的な力に。
「ありがとう」
 繰り返された言葉に、パトネトがまた抱き着いてくる。素直な感情がその額に表れて、姉と同じ黒紫の瞳はキラキラと輝いた。
「お誕生日おめでとう! ニトロ君! ホーリーパーティートゥーユー!」

 ゆっくりと空を走る車が辿り着いたのはメディシアノス宮であった。
 ニトロが車を降りた時、パトネトは眠りについていた。最近はずっと研究と作業に夢中になっていたとニトロにまた夢中で語っていた彼は、『指輪』を渡し、お祝いも言えた安心感も手伝ったのだろう、話しながらうつらうつらとし始めて、とうとう瞼を落としてしまった。
 出迎えたのはアンドロイドであり、それがパトネトのオリジナルA.I.フレアの操るものであるとニトロはすぐに察した。彼の後に降りてきたティディアと入れ違いにアンドロイドが乗り込んで、ニトロの掛けたジャケット――ジ・イリーガルに掴まれた時に脱いだジャケットに包まれるマスターを見守る。
 静かにドアが閉まると、飛行車はゆっくりと上昇し、王城へ向けて去っていった。
「……」
 ティディアと二人、取り残されたニトロは彼女に目を向けた。
 リングに降り立った時に着ていたローブを肩に掛ける彼女は踵を返す。王城と違いライトアップのされぬメディシアノス宮に光は乏しい。街灯と、防犯も兼ねて点けられた照明の他、ほとんどの窓も暗がりの中にある。リングブーツの踵が静かに音を立てている。メディシアノス公爵の家族が住まう区画は敷地内の目立たぬところにあると聞いた。飛行車の発着ポートのある裏手からもそれは見えない。
 ティディアの後について通用口と思しきドアの前に立つと、その内側から光が漏れ出てきた。ドアノブを手にしているのは王女の側仕え。もはや馴染みと言ってもいい彼女は相変わらず鋭い目つきをこちらに向けてくる。その後ろにも一人――こちらは異星いこくの衣を纏っている。その機械人形の目つきはとても柔らかい。
「着替えてくるわね」
 側仕えを引き連れてティディアは去っていった。
 遠吠えのように『マニア』の自己主張が聞こえてくる。敷地の外にどれほど集まっているのだろう?
 ニトロはこのまま踵を返して帰路に着こうかと思った。だが、結局は彼も内に入った。宮殿の裏手にこぼれていた光が細まり、カチャリと消える。
 通用口から入った先には小さな待合室があった。
 ぼんやりと補助灯だけがついている。
 暗い夜の下にあってはこぼれ出ていた光も眩しく思えたものだが、屋内で目も慣れれば薄暗い。芍薬の白地に百花ひゃっかが川と流れるユカタがぼんやり浮かんで見える。切れ長の双眸は落ち着いていて、トレードマークのポニーテールを質素な玉カンザシが飾っていた。
 今日だけでも逃げ切れるものなら逃げ切ってやりたいと思っていたニトロは捕まってしまった。
 芍薬はジジ家のオリジナルA.I.達に完敗した。
 しかし芍薬は、微笑した。
 ニトロも微笑んだ。
 悔しさがないと言えば嘘になる。
 だが、目指すものは今日の勝利ではない。
 ニトロは眼差しで訊ねる。
 芍薬は頷く。
 そうか、盗聴の恐れがないならば、
「収穫は多かったかな」
「御意。警察、公共セキュリティ、王家ノ警備機関、全テヘノアクセス権ガイツマデモ使用可能ダッタヨ」
「それはやっぱり俺が人質ってことだね」
「アノ状況デモ主様ノ身ノ安全ヲ確保スルタメニハ、アノバカハあたしヲ切レナイッテコトデモアルネ」
「お梅ちゃんはどうだった?」
「堅実ダネ。思ッテイタヨリズット控エメダケド、底固メッテ意味ナラ比類ナイ。オ百合ノ欠点ヲ補ウ意味デモ末恐ロシイヨ」
「やっぱり模擬戦とは違ったんだ」
「御意」
「芍薬は、いつ退いた?」
「クレイグ殿達ニ気ヅイタ時ダヨ」
「あれは?」
「ハラキリ殿サ」
 ニトロはうなずいた。学友に手を出すのはティディアとの間において一種のタブーとなっている。それを破って許されるのは確かにハラキリだけだ。そしてマスターのそのうなずきに、芍薬はおそらく彼も意識していない安堵を読み取ったのだが、黙して踵を返す。
「ハラキリは?」
 芍薬は肩越しに振り返り、
「ココニ」
「いなかったらぶん殴るところだった」
 おそらくはまた意識していないのだろう、マスターの眼が緩むのに芍薬は目を細め、歩き出す。
「ゴ両親ガ日曜日アサッテオイデッテサ」
「うん」
 次の間に移って、そこにある百を超える肖像画を眺めながら――あれは結婚前の王妃様か?――ニトロは言う。
「思いっきりめかし込んでいこう」
「フフッ」
 思わぬ軽口に芍薬は思わず笑う。マスターの足取りは軽くもなく、重くもない。
 次の間に移り、また次の間へ。
 メディシアノス宮は建造された時代もあって、廊下を持たない。廊下に見える場所もあるがいずれもへやとして扱われていて、午前にここに来た際には、それらを公爵が一つ一つ『〜の間』だと教えてくれたものだった。
 その内に、ニトロは芍薬が宮の『奥』へと案内していることに気づいた。
 通用口のあった左翼棟から主棟に入り、メインエントランスやラミラスこくの特使を招いて豪勢な昼餐の行われた食堂からはすぐに離れていく。右翼棟に入る前に芍薬は右手に折れて、一度外に出た。回廊といった感の屋根付きの道を行き、すぐ現れた建物に入る。
 それは上から見ると『回』の形をしていて、逃げ場のない中央部は小さな運動場になっている。過去は王婿おうせい候補の訓練と、警備兵の詰め所を兼ねた教練棟であったそうだが、現在は管理スタッフのアパートとなっていた。
 そこの、増員が必要となった際の臨時宿泊室にニトロは通された。
「汗ヲ流シテオイデヨ」
 芍薬の傍らには“めかし込む”ための服がある。ニトロは簡素なシャワールームで体を洗った。鏡を見ると胸に跡がある。よく見ることができなかったが背中にも色の変わったところがある。
 体を拭き、髪を乾かし、新しい下着だけを身に着け部屋に戻ったニトロを見た芍薬の目がグッと細められた。明らかにそれは怒気を帯びていた。が、芍薬はそれを幻でもあったかのように消すと、着替えを差し出した
 ニトロは真新しいシャツを着た。ズボンを履き、靴下を履き、靴も用意されていたものに履き替える。
 そこからは芍薬の出番だ。
 蝶ネクタイを結ぶ芍薬は手慣れている。ニトロは目を閉じた。よどみのない芍薬の手さばきは目を閉じていても伝わってくる。その短い一時、彼は心を無にしていた。衣擦れの音しか聞こえぬ静かな一間に、心安い芍薬との二人きり。今朝からずっと緊張していた心が――と、彼は慌てて目を開いた。
「ドウシタンダイ?」
「うん、ちょっと緩みそうになった」
 まだ気を抜くには早すぎる。夜はまだ浅く、ここにはまだ油断できぬ者がいる。
 息を一つ強く吐いて気を引き締め直すニトロの一方、芍薬は不思議な笑みを浮かべた。
「どうしたの?」
「今日ハ、良イ誕生日ダッタカイ?」
 その問いかけにニトロは面食らった。すぐに応えることができずにまごついていると、芍薬は蝶ネクタイを整え終え、上着を手に取ってみせた。ニトロは戸惑いながらも袖を通した。芍薬が前面に回ってきて満足そうに頷く。そして促され、姿見の前に立ったニトロは、そこに燕尾服姿の自分を認めた。
「行クカイ?」
 先の問いへの答えを求めず、芍薬は訊ねてくる。
 こちらの怪訝な眼差しにも芍薬は不思議な笑みを浮かべたままだ。
 ややあって、ニトロはうなずいた。
「行こう」
 芍薬はニトロを連れて宮の主棟に戻り、右翼棟に入ると階段を上った。常夜灯の薄暗い光に照らされる、ながの年月にも一度も崩れずにきた石の階段と芍薬のゾーリがすっすっと軽やかな音を立てる。その後を革靴のコツコツと固い音が追う。
 北西に面する右翼棟は本棟と左翼棟に比べて小さな間が多い。そして芍薬の選ぶルートでは一つ一つ間を抜ける度にその面積がどんどん狭くなっていくため、この薄暗さも手伝っているのだろう、何だか段々世界が自分と一緒に小さくなっていくような気にもなってくる。
 それは奇妙でありながら、心地良くもあった。
 部屋部屋へやべやも人の住むためのものといった様子を帯びていく。実際、書斎や寝室といった生活空間はこちらにあった。普通の客では通されぬ『奥』――これから王座につこうという人間の精神が幾ばくかでも隠れられるところ。
 その一画に、親しい人間だけを招いて安楽な茶会を行う部屋があった。そこにこんな最上の礼服でというのは似合わぬ気がするが、
「主様」
 その無垢のドアに手をかけて、芍薬はちょっと悪戯っぽく微笑む。
「驚クヨ?」
 その意味をニトロが探ろうとするより先に、芍薬はドアを開いた。こちら側とは違い煌々と光の満ちる部屋が彼の網膜に痛みを与えた。そして、
「?」
 一瞬、ニトロはそこにいる人達が誰かと理解できなかった。
 一人の貴婦人が間近にいた。彼女がこちらに気づいて振り返り、すると大きく肩を露にしたドレスが恥ずかしいかのように慌てて身を縮め、瞼を伏せる。
 その正体に気づいた瞬間、ニトロの目は本日一番に見開かれた。
 そしてその表情を見た彼女の目も見開かれる。しかし、こちらは驚きのためではない。より一層激しさを増した羞恥心のためである。口はすぼめられて、日に焼けず白い胸元は震えている。頬は真っ赤だ。目には涙すら浮かんでいる。
 ニトロは、そんな彼女としばし見つめ合い、ふいに口元を歪めた。
「わはははは!」
 思わず笑い声が爆発する。
 すると、カッと彼女の額までもが赤くなった。羞恥を超えて怒りのために。
「笑うなバカぁ!」
 瞬間、洒落たパンプスのつま先がニトロのスネにめり込んだ。
「痛ぁ!」
 ニトロが悲鳴を上げると同時、
「わあ!」
 と声を上げて彼に蹴りをくれた少女が転びそうになる。そこに手を差し伸べたのは芍薬であった。芍薬の腕に抱かれて少女は態勢を立て直す。そこに燕尾服を着た青年がやってきて、芍薬は、彼女を彼に預けた。
「あれ? 芍薬さん?」
 強かに蹴られたスネをさするニトロに芍薬は静かに言う。
「当然ダロ?」
「……ぎょい」
 ニトロが唸ると、プッと吹き出す者があった。それを追うように、部屋に笑い声が満ちた。
 その直前まで部屋に満ちていたぎこちなさが、その瞬間、ほどけて消えた。
 ニトロは笑う友人達を改めて見た。
 ほんの少し前まで怒っていた貴婦人――ミーシャは腹を抱えて涙を浮かべている。その身を包むのはフリルの多用された“お嬢様のドレス”だ。されど古臭くはない。絵画に出てくるような古典的な意匠を現代的な感覚でリデザインされたもので、最近の社交界の流行でもあるが、それだけに着る者を選ぶ。
 正直、彼女とドレスはどうしようもないほどお仕着せの関係だった。
 彼女と一緒に笑う青年――クレイグの燕尾服姿はなかなか様になっているが、少しばかり初々しすぎる。
 窓辺で嘲笑を隠さぬ伊達メガネのフルニエは己に似合ってくれぬ燕尾服に憎しみを向けて、燕尾服もまた憎しみを向けてくる相手に似合ってやるものかと意地を張り、有体に言って喧嘩していた。
 部屋の隅寄りに立ち位置を決めかねるように立っていたキャシーは……色々あって、久しぶりにこうして同じ一間に顔を合わせる彼女は、持ち前の華やかさも活かして“お嬢様のドレス”を流石に着こなしているが、それでも『本物』には遠い。
 部屋の片隅に寄せられている豪奢な椅子の傍らに立つ大柄なダレイは燕尾服というものにアレルギーでも起こしたのかひたすらむず痒そうだ。
 ただ一人、この場で最も絵になっているのはダレイの傍ら、その豪奢な椅子に座る痩せぎすの少女、クオリア・カルテジアだった。彼女も例に漏れず“お嬢様のドレス”を着ているのだが、一見体つきとドレスの丸みとがちぐはぐなのに、似合っている。着慣れていると言った方がいいかもしれない。
 最後にミーシャに目を戻す。と、ふいにバチリと目が合った。
 驚いたような顔をする彼女に、ニトロは落ち着いた青年の笑みを見せる。
「ごめんごめん。――似合っているよ、ミーシャ」
 再び彼女の顔が赤くなる。今度は、羞恥のために。そして彼女は臆面もなくそう言ってのけたクラスメートから目を逸らし、
「バカ。笑ったくせに。……似合ってないって自分でも分かってんだよ」
「確かに見違えたよ? けど、よく見ればそうでもない」
 そう、お仕着せだ、彼女はドレスを着せられている。が、かといって事実“似合わぬ”からは程遠い。なるほど、これはあいつのコーディネートだなとニトロは思う。女性陣のドレスもそうだが、男性陣の燕尾服も微妙にデザインが違う。そしてそれぞれが、ほんの一縫いの違いにしかならないようなラインの差が、当人の本質的な素養に合うように選ばれている。
「胸を張りなよ、ミーシャ。走ってる時みたいに堂々とさ。ドレスもそれを待ってる。大丈夫、似合っているってのは本当だ」
 微笑むニトロを、彼女は呆気にとられたように見つめる。まるで初めて見る人間をまじまじと見るようにその人を見つめて、彼女はふとほころんだ。
「ニトロって、そんなキザだったっけ?」
 また友人達が笑う。フルニエが悪態をつくように同意している。ニトロは苦笑しながら、彼女を支えていたクレイグに、
「やあ」
「やあ」
 朗らかな彼の返答にニトロはわずかに目を伏せ、それから、
「まだお礼を言うには早いかな」
 クレイグに言いながら、それは全員に向けた言葉だった。すると自然と全員を代表して――それを皆が納得して――彼が応える。
「ああ、まだ早いだろうね」
「ハラキリは?」
「いつも通りさ」
「自分達をこんなところに連れてきたくせに、ふらっといなくなって?」
「そう、それっきり」
「友達甲斐のない奴だね」
「全くだ。ニトロも気をつけてないと肝心なところで逃げられるぞ? 俺たちはもうこの部屋でどうしたらいいか分からなかった」
 ニトロは笑い、
「つうか、既にさんざん逃げられた覚えがあるなあ」
「それで親友っつうんだから頭が沸いてるぜ」
 と、これはフルニエである。ニトロは笑い、
「沸くのはいつも腹だよ」
「煮えくり返るって? は、そんなことより俺の腹は泣いてるぜ」
「もう少ししたら喜びに咽び泣くんじゃないか?」
「まっっッたく期待してねぇよ」
「あら、私はとてもわくわくしているわ」
 思わずといったように言ったのはキャシーである。そして彼女は気まずそうに口をつぐみ、しかし集めてしまった注目に対抗するように顎を持ち上げる。
「キャシーが来てくれるとは思ってなかったよ」
 彼女は睨むようにニトロを見た。
「キャシーが来ないわけがねぇじゃねぇか」
 彼女の視線が窓辺の青年に移る。その瞳には先になかった敵意に似たものがある。
「そうだな」
 と、ニトロが頷くと、キャシーのみならず、皆が意外そうに彼を見た。
「だから、嬉しいんだ」
 フルニエの言を意図的に曲げながら、一方で彼の彼女に対する揶揄を認める鷹揚さがニトロにはあった。そして彼は豪奢な椅子に座る華奢な少女に目をやり、
「今日から出てきたんだ」
 少女は頷く。
「体の調子は?」
「大分良くなったわ」
「やっぱり食事は大事だと思うな」
「そうね。今夜はそれも楽しんでいくつもり」
「その余裕があればね?」
 いつかその人を描きたいと願う画家は苦笑し、やがてそれを微笑に変え、
「今朝、ミーシャが言っていたけど」
「うん?」
「本当に急に変わったわね、随分大人びて見える」
「そりゃ衣装のせいだよ」
「そう? もし今あなたの絵を描けば、そうね、もしかしたらちょっと怖い絵になるかもしれないって思う」
「怖いって、どんな風に?」
「うーん……変な例えになるけど、風船に針が近づいているような怖さかな」
「そりゃ怖ぇ」
 と、またも嘴を挟んだのはフルニエである。その瞬間、皆の感情がズレたのを機に、ニトロは胸裏の動きを表に出さぬように言った。
「そう言われるとむしろ見てみたい気がするよ。けど、今はやめておいてもらいたいかな」
「――そうね。もうちょっとしたらね。心配もかけちゃうし」
 ニトロはちらとダレイを見る。が、彼はもうそれを受け入れている。大人びている、というなら彼の方だとニトロは思う。八日前、クオリア・カルテジアは彼女のこれまでの作品の中で紛うことなき最高傑作を描き上げ、そして倒れた。栄養失調と脱水症状。集中するためにA.I.の干渉を切られた夕暮れの美術室、外から見えぬ机の陰に横たわる彼女をダレイが発見しなければどうなっていたか分からない。
「ところでさあ」
 と、言ったのは先ほどからずっとしげしげとニトロを観ていたミーシャである。
「ニトロ、やけに似合ってるよな。似合ってないのに」
 その物言いにニトロは笑ってしまう。
「ひどい言われようだけど、これのこと?」
「うん。その燕尾服。それで、もしかしてって思ってんだけどさ」
「ああ」
 聞きにくそうなのに聞きたくてたまらないらしい、ミーシャの眼差しにニトロはうなずき、
「そうだよ、これは最近着ていたものだ」
「あ! やっぱり!?」
 歓声を上げたのはキャシーだ。
「私も思ってた。それ、やっぱり『お誕生日会』で着ていたものなのね!」
「マジで!?」
 ミーハーな反応を思わず漏らして苦い顔をしたフルニエが腕を組む一方、キャシーがニトロに近づいてくる。元より傍にいたミーシャは興味津々にニトロの燕尾服を見つめていた。この服を着て、そうだ、彼はあのワルツを踊ったのだ。
「いいなぁ」
「あら、もしかしてミーシャも踊りたいの?」
 キャシーに問われ、ミーシャの耳が赤くなる。
「なんなら教えてあげましょうか」
「……」
 ミーシャはキャシーの腹を探るように見つめていたが、ふいに意地悪そうに口の端を引き上げると急にニトロを見やり、
「ニトロが教えてよ、ワルツ!」
 意外な展開にニトロは驚いた。そのキャシーへの当てつけは強烈だ。キャシーも驚いていた。が、誰より驚いたのはクレイグであろう。「お」と喉の奥で潰れた恋人の声が部屋にこぼれ、そして一番に笑ったのはミーシャであった。からからと、その気持ちの良い笑いにニトロがつられ、ダレイが続いてクオリアも笑う。最後に笑ったのはキャシーだ。フルニエは面白くなさそうに外に目をやっている。
「折角ですし、いっそおひいさんに教えてもらったらどうです?」
 その瞬間、笑い声がぴたりと止んだ。いつの間にか部屋の中にいたハラキリ・ジジ。その姿を認めた皆は――ニトロも含めて皆は一斉に叫んだ。
「「うわあ!?」」
 見事に揃った驚愕を意に介さずハラキリは言う。
「いらっしゃいますよ」
 まるでそれが何事でもないことでもあるかのような彼の様子に即座に反応できたのはニトロだけである。他の皆は短い合間きょとんとして、ドアノブの回される音にやっと事態を理解した。息を飲む音、喉の鳴る音、姿勢の正される音。ニトロにはピンと背筋を伸ばした級友達の背骨の音が聞こえるようであった。
 そしてドアが開かれた時、またも聞こえた息を飲む音は、もしや心音をも飲み込んだ音だったかもしれない。
 ――ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 彼女は少女達に比べて地味なドレスを着て現れた。化粧も控えめで、ただ清潔感のある出で立ち。しかし、それだけでも誰より華やいでいた。その圧倒的な存在感。ため息が漏れる。話には聞いていても、初めて間近にその姿を見た級友達は思わず膝をついていた。一度直接王女に会ったことのあるクオリアでさえ、忘我に至ったような顔で床に降りている。
「やー」
 すると、困ったように笑ってティディアは腰に手を当てた。
「お立ちになって、お客様方? 折角のお祝いの席ですもの。お心安く参りましょう?」
 軽くウィンクをするように気軽く言う彼女とは裏腹に、ニトロの級友達は畏まって立ち上がる――というよりも、その“命令”に従う。顔は一様に強張っていた。キャシーに至っては何やら絶望的な様子ですらある。
「皆さん、完全に固まっちゃいましたねえ」
 ただ見たままを言っただけ、という口調でハラキリは言う。
「そんなになるような相手でもないでしょうに」
「あらひっどい」
 とティディアが苦笑するが同時、方々から暴言に対する非難が上がった。級友達の舌鋒は、級友だからこそ遠慮がない。しかも相手は先ほどまで自分達を放置して姿をくらましていたひどい奴だ。それこそ不満が爆発する。珍しくクオリアはミーシャと並んで感情を先に出しているし、キャシーは呆れ果てて口は開かずひたすら冷たい眼差しで刺し殺そうとしている。特にフルニエはもう夢中になってスラングを連発していた。クレイグとダレイの、日頃の思いも載せた言葉は半ば説教にも近い。だが、それらも飄々として生返事で捌くハラキリ・ジジにはなしのつぶてだ。
 ニトロは眉をひそめて、彼を見つめていた。
「なあ、ハラキリ」
「なんでしょう」
 やっとまともな反応を示したハラキリに集まる眼差しは、まだまだ燃える力を残している。
「なんでお前はそんなに楽な格好をしてんだ?」
 シャツにゆったりとしたスラックス。それに気取らないジャケット。カジュアルなパーティーには合格を取れるが、燕尾服とドレスの並ぶ会からはつまみ出される装いだ。しかしハラキリ・ジジは答えの分かり切ったことを聞かれた時のように眉を上げ、
「何故と言われましても、そんな堅苦しい恰好、窮屈なだけじゃないですか」
 それだけでも暴動の起こる発言である。と、その爆発寸前、
「ハラキリ君が着せてやれって言ったのに?」
 愉快気にそう暴露したのはティディアである。
 瞬間、空気が凍りついた。
 そしてハラキリ・ジジへの非難が怒号を上げて再燃する。クオリアと恩恵を受けたキャシーは何の文句も出さないが、男性陣は流石に面白くない。ミーシャがハラキリへ勢いよく詰め寄っていく。思い出された羞恥心が彼女の背を押していた。フルニエがそれに便乗し、慌ててクレイグが止めに行くが、怒りと恥ずかしさの混じる涙目のミーシャに肩を掴まれ抗議されてもハラキリはそれでも平然としていた。それがまた彼女の怒りを煽るのだ。
 もはやキーっと吠え出しそうなクラスメートを眺めながら、ニトロは“ニュアンス”というものを考える。
(着せてやれ、ね)
 彼はティディアを見た。
 彼女は思惑通り、こちらに微笑を向けていた。
「……」
 とうとう襟首掴まれ揺さぶられ、ガツガツ脛を蹴られてもハラキリは平然としているからにはやがて周りも泥に杭を打つような徒労を覚えるものだ。ようやくクレイグになだめられてミーシャが離れると、ちょうど彼女を一層けしかけようとしていたフルニエの煽り文句が尻すぼみとなって消えていく。その座りの悪い間が全てに水を差す前に、ニトロは言った。
「それで、どこに行ってたんだよ」
 呆れ半分、吐息混じりの問いかけに、
「折角の機会でしたから、少しここを散策しまして」
 ジャケットを直しながらハラキリは飄々と言う。
「それから小腹が空きましたのでつまみ食いを少々」
「そうねー、お腹が空いたわ」
 話に割り込んできたティディアは額にうっすら汗を浮かべるミーシャを見る。
「あなたは?」
 不意打ちのように声をかけられ、少女は目を丸くした。
 直々に声をかけられた!
 改めてその事実を把握した彼女の顔は白くなり、されどすぐに顔に血の気が戻ると耳まで真っ赤になった。ようやく、彼女は喘ぐように小さく頷いた。ティディアはうなずき、
「それじゃあ狡い人ばかりに良い思いばかりをさせていないで、私達も楽しみましょう」
 それに反対する者はない。
 すると機を窺っていたようにドアが開くと、ワゴンを押してヴィタが現れた。
 また息を飲む音がする。見惚れているのはフルニエ一人ではない。
 王女ティディアに従う宝石、藍銀色の髪の麗人はタキシードを着ていた。自慢の美しい髪は撫でつけて、後ろで束ねている。
 それは一目には男装であった。が、ニトロは、それよりも彼女に『執事』という印象を受けた。そもそも彼女が執事であるのは承知の上で、そのように感じたのだ。
 衆目の中、ヴィタは部屋の中ほどにまで進んでくる。そのワゴンは明らかにドリンク用のものであった。天板の上にはバスケットがあり、それにはワインのボトルが収められている。
 大昔、執事が必要となってきた時代、その役職には酒類の管理という重要な仕事があったんだっけ――ニトロはそう思いながら、では、この演出はなんだ? と新たに思い、そして気づいた。
 明確に表情には出さないままに、ヴィタは至極ご満悦である。平静を装いながら長い鼻息を吹き出し続けている。微かに震えてすらいないか? 我が級友達はまだ彼女に目が釘づけだった。それは美のためだけではない。よもや男装をしてくるなどとは思いにもよらず、おそらくは藍銀色の髪の麗人のドレス姿を期待する向きもあっただろうが、それを裏切られながらもその魅力に驚き、なお魅入られずにはいられないでいる、我が級友達のその新鮮なリアクションにこそヴィタは興奮しているのだ。つまり、
(どこまでも平常運転じゃねぇか)
 演出意図など探ろうとしたことに内心ニトロが苦笑していると、男装の執事の後から二人の給仕が現れて、彼女の仕事を手伝い出した。その二人の正体にキャシーが目を輝かせる。鋭い目つきの女、おっとりした頬の女、どちらも王女の側仕えである。二人はヴィタのワゴンの下段からワイングラスを取り出していく。
 ヴィタはワインボトルを手に取ると、ワイナリーや使用品種、格付けなどは省き、涼やかな声で歌うように言った。
「こちらフィオ・フラウ、プロディエンシで造られた三年物。先ほど当方のワインセラーより盗み出され、何故か、用意されていたディ・ヴォに代わってここに置かれていたものでございます」
 一斉に、皆が皆、ハラキリを見た。すると彼はしれッと言う。
「万人受けする中では最高・最高級の逸品ですよ」
 今度はニトロの級友達はティディアを見た。すると彼女は困ったように、
「ディ・ヴォも最高・最高級なんだけど」
「あんなの慣れない者に飲ませたらただのカビ臭い液体ですよ。そうですね、この中の誰かはその深味に酔うこともできるかもしれませんが、ほとんどは一口で終わるか、それとも無理に飲んでトラウマになるだけです」
「それでも間違いなく貴重な体験になるわ」
「体験のための体験なんて、ただの見栄というんですよ」
「見栄を馬鹿にしちゃダメだと思うわー。ていうか、人生見栄を張らずにどうするの?」
「見栄を張るのは結構です。見栄がじつになることもありましょう。が、見栄を張って嘔吐されちゃあ、それはあまりに勿体ない」
「折角の、星に10本もないものなのに?」
「その意味もありますが、今後の良い飲酒に対してもです。言ったでしょう? トラウマにって。最初にまずい酒を飲んで飲めなくなるなんてことはざらでしてね」
「それは安酒の話でしょう?」
「そこに高い安いは関係ないと思います。ご存じでしょうに」
「ふふ。でも、ちゃんとその時のための用意もしてあったのよ?」
「ええ、甘くてアルコールを感じないのに度数は高い『レディキラー』ばかり作れるラインナップが用意されていました。きっと皆さんそちらは大変喜んで飲んだだろうと想像しますがね、それで貴女はどうするつもりでした?」
「人口が増えることは国を預かる身としてはとても喜ばしい」
 その意味を悟ってミーシャが顔を真っ赤にするのを脇にハラキリは言う。
「ああ、それで『酔い止め薬』もここにはなかったと」
「あら、うっかりね。後で係を叱っておかなきゃ」
「大丈夫です。拙者が買っておきましたから、ちゃんと補充されていますよ。係の方にもそう言っておきましたので、ここは拙者の顔を立てて叱らずにおいてやってください」
「やー、ハラキリ君って気が利く上に優しいのねー」
 その間、ニトロの級友達はずっと王女とハラキリ・ジジというクラスメートを交互に眺めていたのだが、そのハラキリに向ける目は次第に変化を見た。このやり取りをするのがニトロ・ポルカトなら解る。だが、窃盗を働きながら悪びれず、しかもクレイジー・プリンセスに真っ向から抗弁する彼は一体何なのだ? 彼もティディア姫のおぼえめでたい人物だということは知っているが、それでも実際にこうしてやり合っている姿を目の当たりにすると馴染み深い同級生がまるで見知らぬ深海の生物のようにも思えてくる。光の届かぬ超水圧の中を、悠然と泳ぐ巨躯の鮫。何を考えているか分からぬが、口を開けばあまりに恐ろしい。
 クレイグがミーシャと共にもう一人の同級生に近づく。彼は――ニトロ・ポルカトは、愉快気に恋人と親友の舌戦を眺めていた。
「なあ、ニトロ」
 ニトロは小声で言ってきたクレイグに目を向けると、ニヤッと笑って、
「な? 友達甲斐のない奴だろ?」
 その軽口エスプリにクレイグは目を丸くして、やおらハッと心底たのしげに息を吐いた。
「ま、しょうがないか」
 とうとうティディアが折れた。その事態にまた級友達が度肝を抜かれる。が、彼女の眼差しがニトロに向けられているのを知ると、彼女が折れたのは悪巧みが恋人にバレたからだということに思い至った。
「もしディ・ヴォを飲みたい人がいたら言ってね? 喜んでふるまうから。それとお酒がダメならもちろん飲まなくていいわ。――ヴィタ」
「かしこまりました」
 そして、皆はヴィタから目を離せなくなった。
 胸ポケットからソムリエナイフを取り出して、彼女は鮮やかにワインを開ける。キュキュ、ポ、とコルクの抜かれる音は一流のソリストの奏でるものにも思えた。そしてコルクの香りを嗅ぎ、劣化の有無を確認した執事はボトルを傾け、グラスに注ぐ。トットットッと小気味よくボトルの空気を飲む音が心地良い。
 ワインレッド、という色がある。
 それはその色が美しいからこそ、それをそのまま名として冠したものだ。メディシアノス宮という古く歴史のある建物の小さな部屋でそれを見た時、ニトロは先人の感性を確かに理解した。そのワインは、美しかった。
「どうぞ」
 ヴィタが、まずはニトロにグラスを差し出してくる。国教会においても儀礼に用いられる太陽のように赤い酒。
「……」
 ニトロは受け取った。
 芍薬も手伝いに入り、ヴィタのワインを注いだグラスをティディアに手渡す。ティディアは嬉しそうに目尻を垂れていた。
 皆にグラスが渡されていく。
 その中で、次第に深まるものがあった。
 皆のニトロに対する疑念である。
「なあ、ニトロ」
 再び、クレイグが皆を代表するかのように訊ねてくる。彼の手にもグラスがある。
「なに?」
 今度は軽口を返されず、それどころかきょとんとしたニトロの様子にクレイグはひどく戸惑ったようだが、問いを続けた。
「いや、ツッコまないのか?」
「何を?――ああ、いや、そういうことか」
 ニトロは苦笑した。見ればティディアとハラキリ、ヴィタ、そして芍薬すらも不思議そうな顔をしている。
「確かに俺は真面目で、クソ真面目なんだろうけれど」
 ワイングラスを軽く回して、彼は笑う。ここにはハラキリを含め、未成年である者が三人いる。
「だからって無粋じゃないよ」
「まあ、成人年度の同級生がその祝席で酒を飲むのは暗黙に許容されてるところですしね」
「正直それもある」
 ハラキリのツッコミをニトロが潔く認めると、皆が笑った。
「だけど、ホントにバレちゃったらどうするんだ?」
 笑いが治まる頃にふと不安をこぼしたのは未成年のミーシャである。
「大丈夫ですよ」
 それに答えたのはハラキリだった。
「既にここでの未成年の飲酒は王権によって許されていますから」
「はあ?」
 寝耳に水だったのはニトロだ。ティディアを睨む。彼女はふいっと目を逸らした。
「……芍薬」
「事実ダヨ。既ニ実効サレテル」
「よし、それについちゃ後で説教な」
「やー、でもニトロのためなのに」
「だからこそだってんだ。そうだ、マスク・ド・シースルーのフィニッシャーについても言いたいことがあったんだ、それも後でじっくりいくからな」
「やー、やぶへび―」
 声を震わせて嘆くティディアは、しかしどこか嬉しそうだ。
 ふ、と笑う者がある。
 姫君に今生の美を見出す痩せぎすの画家が、その幸福にてられてほころんでいた。実際彼女だけではなく、ニトロの級友達は皆、彼が本当に王女様の『恋人』であるのだと今さらながらに実感していたのだった。
「それじゃあ、乾杯しましょう?」
 ティディアの音頭に皆がグラスを構える。そしてニトロの級友達の期待に応えて、引き続いてティディアが口上を述べる。
「今宵は私の夫の」
「おいまて」
 出だしから腰を折られたティディアがニトロを睨むが、彼も退かない。
「分かったわよぅ。――今宵は親愛なるニトロ・ポルカトの成人を祝いに集まってくれてありがとう。普段から彼に良くしてくれていると聞いています。キャシー・ゼネスさん」
 ふいに名を呼ばれて、少女が息を飲む。その瞳は硬直し、長いまつ毛までもが石化したようだ。溢れ出した感涙は宝石となって目の端々を飾る。それはとても丁寧に施された化粧と相まって少女を華麗に輝かせた。
「ダレイ・ベンドットさん」
 大柄な少年が畏まる。緊張した面持ちには、反面、いつでもどんな行動に出られるであろう悠然とした余裕がある。その立ち姿にはどこか近衛騎士に通じるものがあった。
「クオリア・カルテジアさん」
 痩せぎすの少女は崇拝者の眼で王女を見る。その瞳の奥には以前にも増して激しい炎が渦巻いている。王女は少しだけ微笑の色を変えた。労わるような、憐れむようなその慈しみの後に、彼女は頷くようにゆっくりと瞬きし、
「フルニエ・カデンドロ・フィングラール」
 その声は他に比べて高圧的だった。が、それは王女が麾下の貴族にかけるものだという直感を聞く者に抱かせる。いつもは自身が『称号貴族ペーパーノーブル』であることを思い出させるその名を嫌悪している小太りの少年は、しかし反射的に肩をそびやかした。胸を張る背姿に誇りの灯ったように見えるのは気のせいだろうか。
「ミサミニアナ・ジェードさん」
 順を追って名を呼ばれると解っていながら、実際に自分の名を呼ばれた時、少女は急に目の前に百年待っていた想い人が現れたかのように体を震わせた。快活な少女の頬が赤らみ双眸が潤む。と、お仕着せのドレスがまるで以前から彼女の物であったかのようにその身を優しく包み込んだ。震える膝を支えるのは、そっと彼女の背に触れる恋人の思いやりである。そして、
「クレイグ・スーミア君」
 瞬間、その声に不思議な親近感があるのを聞く者は聞いた。ミサミニアナ・ジェードが――ミーシャが恋人を見ると、彼は当惑と理解の双方を眉に広げて王女を凝視していた。
「いつかは従兄さんにもお世話になったわね。奥方はご懐妊されたそうで、私からの祝福を伝えておいてくださるかしら」
 微笑む王女へ、クレイグは感動そのままにうなずく。ミーシャが彼に見惚れ、横からキャシーが彼を見つめている。ハラキリは素知らぬ顔を通り越してそれをこの祝宴に相通ずるめでたい話として決め込んでいるが、それも含めて、ニトロは苦笑したい気持ちだった。あの土地のことを思い出し、あの夜のことを未だに歯痒く思い出す。一方であの夫妻が子を成したという慶事に祝福が胸裏に芽生える。他方、あの友達の唯一の『ニトロ・ポルカトへのお願い』を己が聞いたことで一組の恋人が別れ、かつ結ばれた。感情が奇妙に絡まる中、ダレイとクオリアが、そしてフルニエがクレイグを見る目を見れば、そこに、いつもみんなのまとめ役になっているクレイグへの眼差しが王女から知遇のごとき言葉を得たことでまた厚くなっていることを知る。
 ニトロはティディアを見た。普段は学校のことには触れぬくせに、こいつは結局こちらの内情をどこまでも把握しているのだ。
 ティディアは朗らかな微笑の中に、ニトロにだけ解る得意げな影を加えてみせた。そして彼女は一度周囲へ視線を巡らせると、最後にクレイグ・スーミアとミサミニアナ・ジェードの立つあたりに目を止め、皆が分かるように息を吸い、
「あなた方の存在は、大きく変化する彼の暮らしの中で変わらぬ居場所の一つとなり、困難や心労の重なる陰では憩う日常としても彼を救ってくれていました。この場を借りて私からも感謝を申し上げます。いつもありがとう、彼もあなた方が駆けつけてくれたことには喜びの絶えぬことでしょう……ねえ?」
 急に話を振られ、目を細めるティディアの瞳に射られて、ニトロは思わず頬を引きつらせる。
「いや、それを言わされるのはなんかあれなんだが」
「ニトロ」
 と言ったのはミーシャだ。先ほどの復讐に相違なかった。それではニトロに逃げ場はない。彼は息をつき、
「うん、嬉しいです。ありがとう」
 ひゅーぅと囃し立てる声が上がる。ニトロは頬に熱がこもるのを自覚した。それをティディアは目を細めて見つめる。ひと盛り上がりの治まるのを待ち、彼女は続けた。
「成人の日という人生で一度きりの夜を祝うにはいささか地味かもしれないけれど」
「いやお前さっきのあれを地味というか?」
「本当なら祝日にして王都を全封鎖して朝から晩までパレードを慣行、星中で祝祭よ、国教会の全礼拝堂で祝歌を24時間歌わせ続けても足りないくらいよ?」
「そんな拷問、祝歌もとんだ呪詛に変わるわ」
「だけど、ニトロが嬉しいのなら、私も嬉しい」
「――」
 ニトロは口を閉ざされる。それを皆が――級友達がにやにやと見つめる。ハラキリと芍薬、そしてヴィタは三者三様に二人を見つめていた。
「ささやかだけれど、きっとご満足いただける料理も用意しているわ。皆、遠慮なく楽しんで。――ニトロ」
「ああ」
「お誕生日、おめでとう。成人おめでとう」
 ティディアの目配せに級友達が応じる。
「「おめでとう!」」
 そしてティディアはグラスを掲げた。その顔に、ニトロはあの空では見えなかった彼女の表情を見た気がした。
「乾杯!」

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