成人の日

 青天の霹靂である。
 その連絡はまさしく稲妻となってティディアの中心を貫いた。
「え?」
 彼女の唇からこぼれ出たのはよもや魂だろうか。
 それを聞いたオリジナルA.I.は、自分のもたらした情報が相手にいかほどの衝撃を与えたのかと恐れた。と、同時にこの報せがそんなにも重大であったかといぶかり、異常事態に戸惑う。レンズを通じて見える女の目は丸くなり、眉は弓を描いて跳ね上がっていた。口元はだらしなく緩んで、それなのに眉間には固い皺が寄せられて、頬は血の気が引いて色褪せ、一方で首筋はひどく強張っている。その表情は奇怪でさえある。なのに、奇妙な色気があるのは何故だろう。それは彼女が『蠱惑』と形容される美女だからか? メルトンのココロに、今まさに目撃するこの顔を長年蒐集しゅうしゅうしてきた卑猥なデータベースに照合したい欲求が起こる。しかしメルトンにはこの媚びへつらいたい権力者の不興を買ってしまったのではないかという強烈な不安を無視することはできなかった。古来より、不吉を報せる先触れは忌み嫌われ迫害されるものなのだ。
「アノ、姫様?」
「本当にッ!?」
 激しい語勢。メルトンはたじろぐ。
「エ? アノ? 姫様?」
 重ねられた疑問符は震えていた。ティディアは動揺を晒しすぎたことに気づいたが、瞬時にそれを取り繕うことはせず、むしろ勢いそのままに問うた。
「本当に『誕生日会』を開かないの!?」
「ハ、ハイ!」
「何故!!」
「ソレハ、ニトロガ、ニトロヲ好キナ人カラ自由ニ祝ッテモラエルヨウニスルタメデス! 具体的ニハコチラニ気兼ネセズ、姫様ニ自由ニ祝ッテモラエルヨウニスルタメデス!」
 ティディアは頭を抱えた。舞台俳優のように大仰に、しかし心底から頭を抱えた。そして彼女は荒々しく両腕を広げる。ご両親の心遣いは大変ありがたい。だが!
「それでその連絡が“今”なのは、何故なの!?」
 10月10日――ニトロ・ポルカトの誕生日はすぐ間近。具体的には明後日である。もはやティディアに尋問されている風情のメルトンは、数時間前に負った大怪我のために包帯の巻かれた肖像シェイプをガタガタと震わせながら懸命に気をつけの姿勢を取り、
「ソレハ、パパサントママサンノ踏ン切リガ付カナカッタカラデス! 断腸ノ思イ!」
「断腸!?」
「イエス! 実際腹痛!」
「ストレスで!?」
「イエス! 悩ミニ悩ミ抜イテケツノ底モ抜ケマシタ!」
「お大事に!」
「伝エマス!――伝エマシタ!」
「よろしい!」
「イエス! プリンセス!」
 親衛隊よろしく敬礼するメルトンに向けてティディアは軽く肩をそびやかし、一方で顔には親しげな微笑みをたたえてうなずいてみせた。
 それが、これまでメルトンを脅かしていたものを霧散させた。
 彼女は今やまったくの自然体である。そのため、先ほど彼女の見せた激しい動揺もむしろ自然なことだったのであり、あのように驚くことこそがあの場合適切であったと思い込まされる。そしてメルトンはそう思うことに疑問を挟まない。それならその方がいい。どんな形であれ、この人間と異常事態を共にすることは全力で避けたい。
 王女は一つ、息をついた。
「お使いご苦労様。確かに承りました。お義父様とお義母様のお気持ちに甘えて、ニトロを祝わせてもらいます――そう伝えて?」
 語尾にほんのわずかに混ぜられた甘い声。
「イエス! 伝エサセテイタダキマス!」
 メルトンは有頂天となった。
 自分のもたらした報せは、つまり果報となった。
 となればそれを報せた自分も果報者である。
 このアデムメデスで様々に賞賛され、讃えられ、絶大なる地位と力を有する第一王位継承者――そう、未来の女王のご機嫌を一つ取るたびに我が身の栄華はきっと輝きを増すのだ。
 ティディアは今一度微笑む。しかしそれは彼女自身意図したものではなく、単にここで微笑むべきだから自然と微笑んだだけの形象であり、だがそれはメルトンの最も期待の膨らんだ瞬間におのずと突き刺さった。もしメルトンに脳があり、血液があったなら、この絶頂に堪えられず失神していたであろう。
「ッデハ!」
 まるで飲み込むように止めていた息を一気に吐き出すように声を張り上げ、メルトンはほとんど脳天がつま先に触れんばかりに頭を垂れた。
「失礼シマス!」
 ご機嫌を取ったからにはその得点を失わないうちに退散するべきだ――電子の身にして“本能的な”タイミングでメルトンは下がっていく。
 掌サイズの宙映画面エア・モニターから学生服を着た肖像シェイプが消えた。
 そしてティディアは、再び頭を抱えた。
「――えぇ?」
 突如、世界の法則が書き換わった。
 ニトロ・ポルカトの両親が、最愛の息子のために誕生日会パーティーを催すのは必然であり、そこに親しい人間が招待されるのもまた必然である。これは数学的・物理的な定理に等しい。――なのに、それが崩れた。
 つい五分前まで、ティディアはニトロの誕生日を祝えると思っていたのだ。
 その日、彼の両親が用意してくれる席で彼に「おめでとう」と言祝ぎ、その日、彼の胸にありったけの花束を届けられると……彼の生まれたことを共に喜び、彼との幸せな時間を過ごせると、信じ切っていたのだ。
 つい五分前まで期待に満ち希望に輝いていた心が、失望と困惑と焦燥の渦に飲み込まれる。
 絶望。
 もちろん彼の両親に代わって誕生日会を開くことは容易であるし、明後日まで猶予があればどんな席だって用意できる。ケーキを飾る蝋燭だけで照らし出されるような小さな一室で素朴な祝宴を開くことも、競技場ドームを借り切って有名人やセレブがひしめき合うド派手なパーティーを催すことも、私が号令をかければ叶わぬことはない。だが、そのどちらであっても、そこにニトロ・ポルカトは来ないだろう。いや、絶対に来てくれない。だからいくら私が号令をかけたところで蝋燭はケーキの上で燃え尽き、ド派手な会場で人々は白けたつらを晒すのだ。彼のないままに。それを思うだけで胸が塞がり、喉が絞めつけられる。
「……」
 ティディアは目を上げ、息を吸い、体内に溜まる苦しみを吐き出した。それと共に彼女は、心臓に最も近い肌にピリピリとした痺れを覚えた。その痺れは肉体的なものではなく、なのにどこまでも肉体的なもの――きっとこれを癒すには彼の愛撫を受ける他はないのだろう。と、彼女は、そこに何か、この苦しみの中でしか得られない特別な蜜の気配を感じた。すると同時に心の弱く敏感な部分がその蜜に溺れたいという欲求を伝えてくる。脳裡には、それに触れてみたいという興味も生まれる。
 ――息を吐き切ったティディアは小さく、小さく目元を緩めた。
 そして彼女は、意識を眼前の世界に移す。
 五つ星ホテルのスイートルームから望むオーシャンビュー。緩やかに弧を描く真っ白な砂浜が、威風堂々と満ちる王座洋スロウンが、美しい夕日を浴びて蕩けるような金色に染まっている。穏やかに砕ける波頭に光がきらめく様は、揺らめく蜂蜜の中に満天の星が散らばっているかのようだ。
 南大陸の貴族、政治家の集まる会合の場として厳重な警備が敷かれる海岸には、それでもちらほらと恋人達の姿が見えた。砂浜に、ヤシの木の並ぶ道に、本人達よりも大きく伸びて重なる影は、もしや彼ら彼女らの体から溢れる感情そのものだろうか。
 ……あの砂浜で彼と並んで夕日を眺められたら――
 そう思ったティディアは、そう思った自分に苦笑してしまう。苦笑して、自然と浮かぶに任せてしまったその歪みを執事にられていることに気づき、そちらへ目を向ける。
「パティにはどう言おうかしら」
 ヴィタは藍銀あいがね色の髪を夕映えに燃やしながら、首を傾けた。その涼やかな表情からは彼女が主人の苦笑を言葉通りに弟への対応へ苦慮する姉のものとして取ったのか、それとも甘い妄想に耽っていたところを知られた女のものと取ったのかを窺うことはできない。ただ彼女の目頭には困難に直面する人を見る気色けしきがあった。その一方で明るい海の色素を凝縮したような彼女の瞳には、己の仕える主人へ向けるには相応しくない、一種挑戦的な光もあった。それはこう語っている――「お手並み拝見致します」
 ティディアはため息混じりに、しかし愉快気に肩を揺らし、プライベート用の携帯モバイルを手に取った。
 先月、ティディアはパトネトに聞かれていたのだ――「ニトロ君の誕生日はどうするの?」
 彼女は答えた――「ニトロのご両親がパーティーを開いてくれるから、そこでお祝いするわ。パティも行く? 行けるなら、私から席を用意してもらえるよう頼んでおくけど」
 弟は、随分迷った後、うなずいた。ティディアは言った「それじゃあ詳しい話は、招待状が届いた後にね?」――弟は不安を残しながらも期待に満ちた眼で笑っていた。
 しかしいつまで経ってもポルカト家からの招待状は来ず、こちらから確認するのは催促するようであるし、催促したことがニトロに伝わるのも嫌だったので待ちぼうけ。とはいえ流石にもう確認しなければという今になってようやく連絡が来たと思えば不開催通知である。
 私の誕生日会からこっち、彼との小さな交流においても全て何もかもが順調であったから……ニトロに関わることはなんとも思い通りに行かないことばかりだというのに、我ながら油断していた。
 彼を祝う理想ホームパーティーの失われたことはもう仕方がない、それなら次善の策を用意しよう。
 ――次善?
(いいえ)
 ふいに、ティディアの心の底から、驚くほど明るい感情が沸き上がってきた。
 胸が高鳴る。
 体が火照る。
 そうだ、彼を、私が祝うのだ!
 それはかえって最善である。なんて楽しい事だろう? 会は、私が開く。弟にはひとまずそれだけを伝えよう。
 王都は今、深い夜の底。弟は寝ているかもしれないし、最近の彼は何か研究をしているらしく部屋にこもりきりだから、そもそも私への応答も鈍い。ティディアはそれでもコールボタンを押した――その時、執事の眉間に不愉快な影がよぎったのを王女は見逃さなかった。コール音が一つ鳴る、と、
「ゴ用件ヲ承リマス」
 電話に出たのは予想通り弟のオリジナルA.I.フレアだった。挨拶もない簡潔な応対に、ティディアは至極平静と、
「折り返し、気が戻り次第、至急」
「承リマシタ」
 通話が切れる。フレアは常に弟にのみ忠実だ。だからこそ仕事に遅滞はない。事の詳細も伝言で済むものではないからこれでいい。
 ――さて。
 次に行うべきことは、当然ハラキリ・ジジへの連絡である。
 彼は昨日まで星外こくがいにいた。再び出星しゅっこくした報はないものの、自宅に戻ってきていないのは確実だった。どこにいて、何をしているか判らない彼を捕まえるのは王女わたしにとっても骨である。弟と同じく彼のオリジナルA.I.に繋ぎを頼めばそのうち連絡は来るだろうが、彼とは可能な限り早く話をしておきたい。
 だからティディアは、彼とニトロにだけ教えてある“緊急用”の回線を用いるつもりでいた。そうすれば時に王女よりも一杯のお茶を優先する彼とて即応してくれるだろうし、仮に電話のできる状況になくとも必ず間を置かずに折り返してくるだろうから。されど、
「……」
 ティディアはヴィタを見つめた。
 執事は、モバイルを操作した。
「精査を始めたばかりですが」
 そう前置きして、先ほどメルトンが映っていた場所に再び画面を投射する。
「現在、猛スピードで爆散されているものです」
 宙映画面エア・モニターに表示されたのは、電脳社会ネットスフィアで何万と複製されているコメントがいくつかと、真偽はともかく注目を集めるトピックスを何でも掲示するポータルサイト。それから悪食のゴシップ記者や個人報道者インディペンデント・レポーターの個人チャンネル。
「ぅんッ?」
 ティディアの喉で奇妙な音が破裂した。
 それは驚きや焦り、怒りや呆れ、同時多発した感情とそれによる全ての反応の重なる音であった。例えるならあらかじめ起こりうると考えてはいたものの、あまりに予想外のタイミングでそれが起こったことを目の当たりにした者の声。あるいは絶対にありえないと思っていたことが、ほんの数m先の道端で起こったのを横目に見て思わず二度見した者の声。およそ『クレイジー・プリンセス』が発するにはあまりに不似合いな声であった。
 悪いことは続けて起こるとはよく言うし、実際、ままあることだ。
 それともこれは本当に雲一つない青空を稲妻が引き裂いたのだろうか?
 ティディアは今一度ヴィタを見つめた。
 ヴィタは真っ直ぐに見つめ返す。
 ティディアは、画面に目を戻した。
 ひそひそとした噂話、声を拡散したい煽り口調、文言おひれもボリュームも様々に、それらが伝えることを要約するとこうである。
『ハラキリ・ジジが、死んだ』
 なかなか面白いジョークである。
 ティディアはモバイルの通話アプリをエア・モニターと同期させ、“緊急用”の回線を繋げた。
 コール音が鳴る。
 それは思いのほか長く鳴り続けた。そこで初めてティディアの胸に一抹の不安がよぎった。ヴィタが真剣に成り行きを見守っている。
「モシモシ」
 やっと応答があり、そしてティディアは驚く。スピーカーから流れた声はハラキリのものでも、彼の電子機器しんぺんを管理するオリジナルA.I.撫子のものでもなく、そのサポートA.I.の声であった。系統は撫子と同じながら幼さの滲むその声は、本来天真爛漫な性格を後にして事務的な調子で言ってくる。
「現在ハラキリハ連絡ノ取レナイ状況ニアリ、代理デ失礼致シマス。ティディア様、ドノヨウナ御用件デショウカ」
 冷たいものが走った。確かに異常事態にあるらしい。ヴィタは極度に耳を澄ませている。ティディアは問うた。
「死んだの?」
「イイエ」
 率直な返答に王女と執事の背骨が弛緩する。ティディアはちらとヴィタを一瞥し、口元に微かな笑みを刻んで、
「なら、どうにかお話しできない? 状況ってどういう状況なのかしら?」
「ハラキリハ現在病院ヘ搬送中デス。意識レベルニ問題ハアリマセンガ、手元ニ端末ヲ所持シテイマセン」
「地域は?」
 わずかに間があった。苦笑したのか、困惑したのか――きっと前者だろう。
「フエルシェスパ領グランダル市」
「撫子ちゃんは?」
「救命活動中」
「ありがとう、牡丹ちゃん」
「滅相モアリマセン。ソレデハ失礼致シマス」
 終始事務的に通話が切られる。
 ティディアが命じるまでもなく既に執事は動いていた。中央大陸南西部に位置するフエルシェスパ領、それを横断するようにゆったりと流れる川沿いにのびのびと境界を描くグランダル市――その消防本部を通じてハラキリ・ジジを運ぶ救急車両へ回線を繋げさせる。するとため息のような失笑のような音が先触れ、声だけが届けられてくる。
「こういう介入って法律的にどうなんです?」
「知らなーい」
「知っといてくださいよ権力者様」
「あら、ニトロみたいなことを言うのね」
「彼ならこう言うかなぁと思いながら言ってみました」
 ティディアは笑った。
 車載の無線を通じて届けられるそれは、あまりにも普段と変わらぬものだった。飄々として、慇懃無礼な響き。ティディアは軽く頬杖を突き、
「ところで、今大丈夫?」
「それを今聞きますか?」
 苦笑混じりの声。やはり普段と変わりない表情で彼は言うのだろう、
「大丈夫ですよ。ただ付き添いがいますので国家機密などはお漏らしになりませんよう」
「付き添い?」
「そこら辺の説明は面倒です」
「貴方が死んだことに関係しているのかしら?」
 笑い声。
「なるほど、拙者は死んだことになっているのですか」
「耳だけ早くて想像力逞しい連中が色々噂しているわよー。例えば……抵抗虚しく首を噛み千切られた、とかね?」
 微かに息を飲む音が混じる中、ハラキリの軽い声音が返ってくる。
「それは拙者のことではありません。二の舞になりそうではありましたけどね」
 エア・モニターの画面が分割され、先ほどヴィタの示したデータが更新される。
『誤報』の源は、ある貴族の令嬢だった。彼女はおよそ15分前、グランダル市で行われていた『グッド・オールド・パーティー』の会場で起こった事故をネットに報告した。事態を明確に把握していたわけではない彼女の五秒声記ミニボイスは混乱しており、その分緊迫していて、あの『ティディア姫の誕生日会』で活躍した「ハラキリ・ジジらしい人が死んじゃったみたい」という曖昧な要旨は多くの耳目を引きつけた。そこに、秒ごとに、他の参加者達の曖昧な周辺情報でんぶんが加わっていく。それら曖昧な情報は人の心を通過する度に濾過されて、やがてセンセーショナルな部分だけが凝縮していった。その結果として今やハラキリ・ジジの死は“確定”し、話題の中心も真偽の確認を求める声を無視して“彼はいかにして死んだか”ということに移っていった――という推移を一目で把握し、そこでティディアは、再度眉をひそめた。
 中に彼が救急車で運ばれた目撃談があった。その身は血まみれであったという複数の証言もあった。最新の投稿画像にはジョークでは済まない血痕まである。それがまた彼の死亡説を補強しているのだが――
「ちょっと、本気で死にかけているじゃない」
 思わず低く呟き、そして問う。
「本当に大丈夫なの?」
 その語調に、ティディアが現在進行形で事情を正確に把握しつつあるとハラキリは理解したらしい。説明する手間が省けたことを喜ぶような気楽さで、
「全く問題ありません」
 そこに背後から抗議のような響きが加わった。女の声だ。それはティディアに聞き覚えのある声で、震えていて、明らかにハラキリ・ジジの言葉を打ち消そうと躍起になっている。断片的に聞こえるだけでも彼女はパニックに近い状態にあり、王女こちらに――国教会の祈りを交えるように――救いを求めていた。
「安心なさい」
 内心では負傷した友達かれを困らせているであろう付き添い人にうんざりして、しかし声音にはそれをおくびにも出さず、彼女は力強く言う。
「このティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは協力を惜しまない。最高の治療を受けさせるわ」
 次々と情報の更新されるエア・モニターには、彼がそのパーティーに『ライリントン』という少女のパートナーとして参加していたと記されていた。彼の隣で今、安堵と感謝の言葉を発しているのは彼女で間違いあるまい。それを踏まえれば、その土地でのハラキリの目的も明確になる。そしてそれを理解した途端、ティディアはとても嬉しくなってしまった。嬉しくなって、しかしすぐ、まるで我が事のようにがっかりしてしまった。
「ということは、ひょっとして……台無し?」
「そうですね」
 半ば嘆息混じりにハラキリは言った。
「ニトロ君にはきっと察されてしまうでしょう。こうなった以上、驚きの――とはいかないでしょうね」
 ティディアは口元に影を刻み、
「逆に驚かされるわよ?」
「何がです?」
「彼のご両親が、誕生日会を開かないって」
 反応が途切れた。
 どうやらハラキリは絶句したらしい。
 たっぷり十秒待っても返事はない。
 そこで、ティディアは口火を切るために、訊ねる。
「やっぱりまだ連絡は行っていなかったのね?」
「ええ?……ああ、ええ、来ていません」
 彼は心底当惑している。気持ちは解る。事実それはそれほどのことなのだ。
 しかし彼は間もなく気を取り直したように、
「ああ、でも、それならそれでこうなった以上かえって都合が良かったか……」
「あら、何故?」
「祝い物に対して食い合わせの悪すぎる影がついてしまいましたし、考えていたのはポルカト家でのパーティーあってのことでしたからね。それがないのなら、彼に単独で渡すのはどうにもあれです」
「んー、別に友達に誕生日プレゼントを贈るのは“あれ”なんかじゃないんじゃなあい? しかも成人のお祝いなんだからそれが特別なものでもおかしくないわ」
「いやいや、そういうのは拙者の柄じゃありませんよ」
「そう?」
 と疑問を呈しながら、ティディアは笑みの浮かぶのを止められない。話題を切り上げるようにハラキリが言ってくる。
「しかし、となると本来の用件は消息確認などではありませんでしたね?」
 ティディアは声を立てて笑った。彼は理解が早くて実に助かる。
「ハラキリ君が死んでいたらニトロも誕生日どころじゃなかったから、ホントに良かったわ」
 笑い声が聞こえる。そこに一つ、何か非難のような響きが混じって聞こえたのは隣の少女の良心の故だろうか?
「まあ、そういうことなら了解しました。もちろん是非は判じますが、おそらく、力をお貸しできると思いますよ」
 もはや完全に事態を理解している彼の隣で、少女ははっきり耳にしている会話の半分も理解できていないだろう。きっと好奇心を激しくくすぐられて、反面、目の前の怪我人が心配でならなくて、恐ろしい事態に遭ったばかりでもある良家のお嬢様の心はもう滅茶苦茶なはずだ。その表情を眺められないのは少々残念ではあるが、
「それじゃあ落ち着いたら連絡をくれる?」
「かしこまりました。諸々終わり次第、急ぎ戻ります」
「困ったらすぐ私の名前を出してね」
「有難く。あと土産はありませんので、その点はご寛恕を」
「ハラキリ君が無事ならお土産なんていいわよぅ。……災難だったわね」
「どうやら拙者も波瀾万丈な人生であるようです」
 その言葉には棘がある。ほんの少し、親愛なる皮肉が。そこでティディアは口角を引き上げ、
「くれぐれもお大事にねー、ヒーローさん?」
 すると、非常に困ったようなハラキリ・ジジの吐息が聞こえてきた。それはとても深く重い。常々目立たぬ人生を希望していた彼の表情がはっきりと目に浮かんで、ティディアは思わず微笑んでしまう。その気配を電波の先で感じ取ったのだろう、今一つ彼の吐息が聞こえ、
「お心遣い感謝いたします。ではまた」
 そうして通話が切られてすぐ、ティディアのモニターに新しい情報が入った。
 それは画角が固定され、少々画素も粗い映像だった。
 彼の参加していた『グッド・オールド・パーティー』は、古典時代おおむかしを懐かしむそのコンセプトから会場への近代的な機器の持込が禁止されている。だからこれまで目撃談は大量にありつつも、それとセットになっていてしかるべき画像や動画が存在しなかった。その事情も誤報に拍車をかける要因であっただろう。
 ティディアに届けられたその映像は禁止事項を無視して会場に持ち込まれた機材によるものではなく、そこに元から備え付けてある監視カメラのものであった。そして現時点ではまだ公になっていない“信頼に足る真の目撃者”である。
「――お見事」
 短いその映像が終わった時、ヴィタが嘆息混じりに呟いた。食い入るようにそれを見つめていた彼女は心底安堵しているようにも見えた。
 ティディアも同じ気持ちだった。
 そして彼女は、友の傍らに横たわる、彼の体よりもずっと大きなむくろを見つめながらしみじみと思う。
「流石『師匠』ね」
 そういえば、その弟子はもうこのことを知っているだろうか? もしかしたら今頃忠実なオリジナルA.I.に急を知らされて、深い眠りを破られているのかもしれない。ひとまず無事と知らされたにしても彼は『師匠』のことを心配するだろう。そして、心配のあまりに、親友があちらで厚遇を受けられるよう私に頼んできてくれれば嬉しいのだが……
「……」
 ティディアは胸の内で頭を振り、立ち上がった。そしてヴィタを一瞥する。執事は会釈するとドアへ向かった。斜陽に藍銀色の長い髪が揺れ、その艶めく毛並みは青白い星が尾を引くようにきらめいていた。音もなくオレンジ色の――本来は純白のドアを開いて彼女が部屋を出ていくと、入れ替わりに二人の側仕えがやってくる。
 側仕え達は王女のドレスと、化粧メイク道具を携えていた。ヴィタは戻ってこない。彼女には彼女の仕事がある。今夜の会食に関わる数々の業務、関係各所との連絡、そこに今、フエルシェスパ領グランダル市の市主ししゅと市長へ『王女の私信』を代筆して送るという最優先事項が加わった。その他に緊急で話し合うべき者があれば、そちらとの通信も行わねばならない。
 一方、部屋に残ったティディアが自然体で佇むと、側仕え達は手早く主の服を脱がせ始めた。
 一糸纏わぬ女が夕日を浴びて輝く。
 もう幾度も王女の裸体を見てきたというのに、側仕え達は初めてその玉肌に触れるとでもいうかのように、どこかうっとりとした顔で夜会のための装いを整えていく。
 ティディアは考える。
 動かせる人員、資金、利用できる組織、場所――様々な要素を同時に検討しながら理想的な『ニトロ・ポルカトの誕生日会』を思い描いていく。
 さあ、どのように祝おうか。
 どうせ普通に招待しても彼は応じてくれないだろう。ならばこちらから押しかけて祝うしかない。とすると、それがサプライズになるのは避けられまい。
 サプライズ、か。
 無論、それを行うには芍薬の警戒網を潜り抜けねばならないが、その障害も後に得られる喜びを増すためと思えばいつにも増して攻略のしがいのあるものだ。
(……)
 喜び
 そうだ、
(そもそも)
 どうすればニトロは、一番喜んでくれるだろう?
 私は、彼を喜ばせたい。
 私は彼が好きだけど、彼は私が好きじゃないから、私は彼の心を奪いたい。彼にも私のとりこになって欲しい。けれど今はそれが叶わない。それならせめて、彼を私が生み出した喜びで満たしたい。
 例えば穏当にハラキリ・ジジの家でこぢんまりとしたホームパーティーを開けば彼は喜んでくれるだろう。最初は無理矢理連れ込まれたことに不機嫌であっても、最後にはきっと笑顔を見せてくれるはずだ。そこには彼の親友がいて、彼が可愛がってくれている『弟』もいるのだから。
(……いいえ)
 それでは、きっと私が満足できない。否、絶対に満足できないと判っている。そうだ、それで私が満足できるものか。もっと、私にしかできないことでもっと彼を喜ばせられることがあるはずだ。
 例えば――
 そう、例えば――と、そこに考えが及んだ時、ティディアは我知らず驚いた。
 数々のパーティー、無数の言祝ことほぎ、数え切れないプレゼントの山。そこに一つだけ、確実に、彼がとても喜ぶであろう組み合わせがある。
 例えば、会場はやはりハラキリ・ジジの家だ。
 素朴なパーティーを開こう。
 親しく「おめでとう」と皆が言う。
 ニトロははにかむだろう。
 ハラキリ・ジジの笑みがある。
 パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナの笑顔がある。
 芍薬の微笑。撫子や『三人官女』の祝福もある。
 そしてそこに、私はいない
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナがニトロ・ポルカトに干渉しない時間――それが彼を最も喜ばせる、他の何にも勝るプレゼントではないのか? そうすれば彼は心置きなくパーティーを楽しめて、友からの祝福を浴び、皆と快く談笑し、特別な日の夜にとても幸せな時間を送れるのだから。
 私がいなければ
 そのような考えが自然と、しかもある種の力強さを伴って現れたことに彼女は心底驚いていた。
 以前の自分ならそんなものは考え付いたとしても一顧だにせず捨て去っていただろう。しかしそれは今、驚くべき説得力を以って心に貼りついて離れない。胸が締めつけられる。この胸を締めつけるほどには、こんな考えなんてすぐにでも投げ捨てたいはずなのに、どうしてだろう、捨て切れない。
「何か音がしたようです」
 極めて自然に、まるで風が街路樹を撫でる様子に気がついたかのように、側仕えの一人がそう言った。冷たい眉の下に、鋭い目つきをした彼女は、不思議そうな顔をしている同僚を気にせず、一歩下がって主人へ頭を垂れた。
「確認してまいります」
 その手にあった黒いフィンガーレスの長手袋ロンググローブを同僚に預け、スライトという名の側仕えは一続きとなっている次の部屋へ歩いていく。その背を見送る同僚は、“ティディア付き”の古株がそう言うならと疑わず、王女の腕に通せずにいた長手袋を大事に携えてじっと待機する。
 ――ティディアは、内心苦笑していた。
 いつの間にか手を握りこんでいた。それほど力強く握っていたわけではない。しかし側仕え達に仕事をさせない程度には硬直していた。そしてそれをほどくタイミングを逸していたことに、気づきもしていなかった。
 スライトがあとほんの数コンマ秒黙っていたならば、ここに残った側仕えも王女に何か異変のあったことを察していただろう。そのおっとりとした婦人はこちらの一瞥にも気がつかず、年下の先輩の戻ってきたことに安堵の顔を見せている。
 小さく頭を垂れてから、先と一つも表情を変えずにスライトは言った。
「何事もありませんでした」
「そう」
 ティディアはうなずいた。
 それで全て終わった。
 スライトは同僚から長手袋を受け取り、ティディアは二人の側仕えに長手袋を着けさせる。細かな刺繍の施された黒い生地がするすると肘まで覆い、一方で手の甲を飾るレースの先に指がすらりと抜け出る。漆黒のマニキュアがまばゆい光を飲み込んでいた。
 最後にダイヤモンドをちりばめたチョーカーが付けられると、ティディアはスツールに座った。
 側仕えにメイクを任せ、彼女は再び考え始める。
 ――そう、彼の幸福に、私はいらない。
 胸は締めつけられている。『弱い私』が悲鳴を上げないのが不思議だった。猛烈な不快感が下腹をえぐり込んでくる。
 だが、ベースメイクが施される中、彼女はどこか他人事のように考えた。
 とにかく驚くべきは、まさかそんな殊勝なことを今の私が考えたということだった。気の迷いと切って捨てるのは簡単だが、どうにも違う。もっと深刻な理由が根底にあるような気がして……やがて彼女は思い至る。
(ああ、そうか)
 つまりそれは彼を愛するが故に、あの『誕生日会』を、あの決闘を、あの幸せなワルツを経て深まったニトロ・ポルカトへの真情まごころが、私にそう思わせたらしい。なるほど愛する者を思うがゆえに身を引く――なんてのは何も奇矯なことではない。現実にも実際あることだし、古来より数多の物語に一つの理想、あるいは至高の愛の形としても描かれてきたものだ。
 ティディアはなんだか身をくすぐられる思いだった。
(やー)
 まさか、まさかだ。まさか自分がそんなことを思うようになるなんて! 新しい己を発見した感動に震えそうになる。彼の存在が私の中にこんなにも力強く息づいているのを感じられて、それがとても嬉しい。
 アイメイクが始まる。
 とはいえ、感動し、いくら嬉しくても、そんなものはごめんだった。
 私はそうして愛に殉じることなどできない。
 私は、欲深いのだ。
 それに一時は彼を思って離れたところで、すぐに彼を欲してやまなくなるのは目に見えているではないか?  そもそも彼の誕生日に私が不参加を決め込む、という案そのものにも考慮の余地があった。
 私がいないことを彼が喜ぶ――さて、それは本当に事実なのだろうか。ことここに至って、ニトロ・ポルカトは私の不在を真実喜ぶのだろうか。他の時ならいざ知らず、成人の誕生日という特別極まるイベントに私が身を引いて参加しないことを、あのお人好しが純粋に喜ぶのだろうか。
 ――そうだ、もし私がパーティーに参加しないとなれば、その私の寂しさをきっと彼は思ってくれるだろう。いかに私が彼の仇敵だとしても、彼は優しくて、愚かしいくらいにお人好しなのだから……そんな彼がそのような状況で祝賀を心から楽しむことはきっとないだろう。
(としたら?)
 そこでティディアはふと芽生えた企てを展開させてみる。
 化粧は進む。
 それなら、あえて私は不参加としよう。そうすれば彼は彼を想って身を引いた私のことを気にするだろう。そこにつけこむのだ。あるいは疚しさにも近いであろうその心象を、彼にこれまでとは違う方向で私を想わせるための足掛かりとするのだ。
 唇に紫がかった紅が差される。
 ちょっと小賢しいだろうか? しかし恋愛の策としては有りだと思う。私の中でそれに賛成するものもある。これまでの手段では想いを成就させることはできなかったのだから、これまでとは違う手段を講じるのも一理だ。
 仕上げが施されると、おっとりとした側仕えが鏡を持って眼前に立った。
 今夜のために演出された顔が鏡に映る。
 そこにはベリーショートの髪に合わせて活動的な芯の強さを強調し、クールで、それゆえの色気を醸し出す化粧メイクアップ――その意図に沿った王女がいた。側仕え達の仕事に非の打ち所はない。そのためのかおを作ってみせれば思わず側仕えが吐息を漏らす。チョーカーのダイヤモンドが気位高く煌めいている。
「上出来」
 ティディアは言った。
「けど、気が変わった。このままフェミニンに寄せて」
「かしこまりました」
 難しい注文に即応したのはスライトである。
「お召し物はこのままでよろしいですか?」
 その問いをスライトが継ぐ合間に、鏡を持った側仕えも慌てて動き出す。ティディアは目尻を垂れ、
「チョーカーはやめね。ハラキリ君の件は知っている?」
「存じ上げません」
「犬には首輪とリードをしっかりつけていないといけないのよ」
「それではティディア様は自由に走り回ろうというのでございますね?」
「そう。
 ええ、そうよ」
 王女は笑った。おっとりとした側仕えが、敬愛するあるじとそのように会話のできる先輩を羨望と嫉妬の眼で見ているのが鏡の端に映っている。それを薄く紫の透く黒い瞳に残して、ティディアは瞼を閉じる。
 修正するより一からやり直すことを選んだ側仕え達がメイクを落としていく裏で、網膜の内から羨望と嫉妬の女の顔の薄れていくのに代わって瞼に浮かび上がってきたのは、どうしたって彼であった。ニトロ・ポルカト。彼の眼差しはきつくこちらを責めている。なのに、その口元には柔らかな笑みの浮かぶ気配がある。そうして彼はそのうちため息をついて、きっと仕方なさそうに肩から力を抜いて、とうとう本物の笑顔を見せてくれるだろう。
 彼女は正体の知れぬほど激しい彼への感情が、体の中の己も知らない処からどうしようもなく溢れ出てくるのを感じた。
 きっと――そう、きっと!
 化粧がすべて落とされて、目を開けば素肌の己が鏡に映る。側仕え達が素早く、されど静かに準備を整えている。特におっとりとした側仕えはそのメイクの腕を買われて『光栄なる役』を得た者だ。王女の気まぐれに付き合うことなど慣れたものだとしても、そこには先ほどにはない緊張が加わっている。
 その緊張に刺激されたのか、ティディアの胸の片隅でひどく強張るものがあった。それはいつしか常に彼女を脅かしている不安であり、それがハラキリ・ジジの遭遇した危機を今また反芻すると、震えて、それにまた刺激されて、何よりも大切なニトロ・ポルカトを喪失する恐怖がふいに沸き立った。
 ゾッとする。
 歯車が回り、一回転するたびに1mm近づいてくる針を目の前に見るのに似た戦慄。
 ゾッとしてしまう。
 しかしその駆動を、例えその機械仕掛けを作ったのが自分であったとしても止めることは困難を伴い、しかも何故か“止めたい”とはどうしても思い切れない。そのためにずっと不安と恐怖に苛まれ続けるとしても、それを圧し潰す高揚感がやがて彼女を支配するのだ。いいや、その不安と恐怖もまた、もはや彼女の想いを強める一つの要因に過ぎなくなってしまっているのかもしれない。
 冷たい不安と恐怖の傍らで、心臓は甘やかに踊る。
 ティディアは目を外へやった。
 海はまだ蜂蜜色に輝いている。
 だが、それも先ほどに比べればずっと色褪せていて、波間には前にはなかった暗い影が滲んでいる。
 しかしその景色は、嗚呼、なんて美しい。
 彼女はただその美を見つめた。寄せては返す波を見つめた。波頭に砕ける光を見つめた。光の明滅するはざまに、彼女の耳は遠い遠い声を聞いていた。
 やがて側仕え達が改めて化粧道具を手にする。
 彼女は鏡に目を戻し、鏡の中のティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナをじっと見つめると、夢を見るように目を閉じた。

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