4−d へ

「さて――」
 おおよそ一時間。
 撫子の言葉通りに、芍薬とメルトンは同時に目覚めた。
 そしてのち
『勝利』を知ったメルトンの喜びようは、凄まじかった。

「ィィィィイイイイヤッッッヒャーーーーーーー!!」
 壁掛けのテレビモニターのスピーカーが、メルトンの歓喜に激しく震えている。
 画面の中、メルトンは先の『A.I.バトル』と同じく真っ白な『場』を文字通り飛んだり跳ねたり歓声を上げて走り回っている。行動可能にまで治ったとはいえまだ完治には届かない。そのため顔を除いて全身に包帯を巻きつけたまま走り回るメルトンの動作はやはり“傷”の後遺症を如実に表していて、歯車が欠けたか、あるいは錆びたカラクリ人形のようにギッコンバッタンとぎこちない。それでもメルトンは構わず、自分達のいる電脳世界の様子を人間世界そとへと届ける――つまり壁掛けのテレビモニターへ自分を映す『カメラ』の前にカニ歩きをするように駆け寄ってきてはドアップになって瞼を痙攣させながらウィンクをしてみせ、次いで……どうやらスキップをしているらしいのだが、どうにも片足での爪先立ちを交互に繰り返しているだけにしか見えない動きで遠く離れていって、
「ゥゥゥウホイヤッハーーーーーーーーーーーー!!」
 まるで山頂で叫ぶがごとく、爆発し続ける喜びをまた大きく弾けさせる。
 一方、芍薬は『カメラ』の前で正座をして動かない。芍薬はメルトンより外見上の傷が少なく、目立つ傷といえば右頬に貼られた白い絆創膏と、三角巾で吊られている左腕くらいなものだ。もちろんユカタを非表示とすれば背中にはあの大きな傷が、また背部のみならず胸や腹にも細かい傷があるはずだが……正直、メルトンと芍薬と見比べてみれば、見た目は完全に芍薬が勝者である。
 しかし、内面については、明らかに、芍薬の傷がはるかに大きい。
 己の未熟が招いたこの結果……
 芍薬はうつむき、唇を噛んでいた。必死に涙を堪えているように、腿に置かれた右手は白藍の地に流れる紅葉をぐっと握り締めていた。
「イヤアァァッッッターーーーーーーィッヤーーーフーーーゥ!!」
「メルトン、いい加減に落ち着け」
 ニトロに言われたメルトンは、再び『カメラ』の捉えられる限界まで遠ざかろうとしていた足を止め、壊れたバネ仕掛けのようにビョッコンと踵を返し、そうして駆け戻ってくると顔面から転倒するようにヘッドスライディングをして芍薬の隣で止まった。
 寝転んだ状態で、メルトンがうつむく芍薬を見上げる。
 芍薬はふいと目を逸らしたようだ。
 メルトンは再び壊れたバネ仕掛けのようにビョッコンと立ち上がるや、
「イエス! マイマスター!」
 目を細め白い歯を剥いて、見せつけるような笑顔でメルトンは敬礼をする。
 メルトンが『マイマスター』と言った時、芍薬のポニーテールがぴくりと揺れた。
 ニトロは、吐息をつき、
「それじゃあ、決着をつけようか」
 芍薬の肩がびくりと揺れる。
 一方、眩しい笑顔で敬礼をしていたメルトンは、ニトロのセリフに眉をひそめた。
「決着?」
「ああ、決着だ」
「何言ッテルンダヨ、モウ決着ハツイテルジャン、勝負ハ俺ノ勝チ、何ガドウナッタンダカ覚エテナイケド勝チハ勝チ、ツマリ賭ケモ俺ノ勝チ、芍薬ガ賭金ベットニシタノハ『ニトロノA.I.ノ座』――テコトハ?」
「払い戻しはお前のものだな」
「イエス! マイマスター!」
 芍薬はさらにうつむく。さながら斬首を待つ死刑囚である。
 ニトロは腕を組み、哀れなほど暗い芍薬からメルトンの腹立つほど明るい笑顔へと目を動かし、
「お前の言う通りだよ、メルトン。だからお前を俺のA.I.にしてもいい」
 メルトンが、文字通り空へ飛び上がって歓声を上げた。勢い、芍薬も顔を上げる。自制を超えた涙がその目に滲んでいた。そしてその瞬間、芍薬の目とニトロと目が合い、芍薬は息を飲んで慌ててうつむいた。涙ぐんでいる顔を見られた恥ずかしさと、己の生んだ辱めに我ながら耐えられないと、身じろぎをする。
 ――ニトロはその様をじっと見つめていた。
 そして彼は一つ息を挟み、やっと降りてきて着地を決めたメルトンに、
「けれど、解っているんだよな? メルトン?」
 突然の質問に、メルトンはきょとんとしてニトロを見た。彼は続ける。
「お前は芍薬に何度も突っかかって挑戦しただろう? ひどい時には、ティディアと組んで不意打ちなんてこともあったな」
 それは事実である。メルトンにはうなずくことしかできない。
「……ウン」
 メルトンの、しかし渋々とした肯定を受けてニトロもうなずき、
「だから、もちろん、芍薬にもリターンマッチは可能だってことだ」
 その瞬間、メルトンが青褪めた。
「エ?」
「少なくとも二回は権利があるし、俺もお前のマスターとしてそれを了承する。そうしないとフェアじゃない」
 芍薬が、再び顔を上げた。そこにはきょとんとした顔があった。その横ではわたわたと手を動かしてメルトンが、
「チョ、ニトロ? マイマスター?」
 ニトロを制止しようとするが、ニトロは構わずマイペースで続ける。
「さて、メルトン? お前から俺のA.I.の座を奪還しようとする芍薬は、必死だぞ? 次は撫子の助けはない。その上、今回芍薬がお前の要求を呑んだように、次回、芍薬がどんなルールを要求しようがお前は飲まなくちゃいけない。それでなくとも一度卑劣な不意打ちを食らわしたお前はいつ襲われても文句を言えないんだ。その時、お前にどんな“不幸”があってもお前が招いた結果だからしょうがない。俺は承認する」
「アノ、チョ、ニトロ待ッテ待ッテ!」
「メルトン、今回、確かにお前は『勝った』。撫子っていう切り札を知った後に思えば、お前の挑発はそりゃあ見事なものだったと思う。ほとんど“素”とはいえ、それでも“演技”し切ったところには俺も騙された。そして策略通りに芍薬を挑発に乗せてその隙を突いたところは本当に凄い、感心してるよ」
 顔を上げてニトロを見つめていた芍薬の顔が、恥辱のために赤くなる。
 ニトロはそれに気づきながらもやはりマイペースに、言う。
「だが、どうする? メルトン。今回の勝ちは、『勝ったという事実』だけは本物だ。ということは、あの『ニトロ・ポルカトの戦乙女』から一本取ったっていう凱歌を吹かして安全に帰宅する道もあるんだぞ? もちろん、そうせずに俺のA.I.になってもいい。それも俺は承認する」
 メルトンは、静かな迫力すらあるニトロの言葉を、黙って聞いている。いや、黙って聞くことしかできないようである。その目は次第に伏せられ、顔も次第に伏せられていく。ニトロは続ける。
「けれど、俺のA.I.になると大変だってことはここで宣告しておくし、断言もしておく。うちに来る合法違法種々雑多なアクセスへの対処だけじゃなく――お前は幸いまだ使っていないけど――実家の『緊急警報システム』への気配りも忘れちゃいけない。電脳世界だけじゃあないぞ。人間世界こっちでもたくさんの人間を相手にする必要もある。ただでさえ厄介なティディアを相手にするのに加えて、メディアへの対応もある、ルール違反をする“ファン”への対応もある、ご近所への気配りも必要だし、警察や警備会社との連携の必要もある、それ以上もある。本当に命を懸けなくちゃいけないような事件もまた起こるかもしれない。その時お前は、そこにあるアンドロイドを操作して勇猛果敢に戦わないといけない。例えお前が破壊される危険に晒されても、芍薬の代わりというのなら、それを覚悟で俺の手となり、矛となり、盾となってもらわなきゃならない」
「……」
「俺も昔の俺じゃない。お前に求めるものは大きいぞ? 俺だけじゃない。『ニトロ・ポルカトの戦乙女』から座を奪還したお前の浴びる注目はそりゃ凄まじいだろうな。いや、お前にとっちゃ、それこそ望むところなのかな」
「……」
 今やメルトンは芍薬に代わってうつむき、沈黙し続けている。かすかに見える双眸がキョロキョロと動いているのは、現在、必死に『計算』しているからだろう。
 そこに、ニトロは幾分口調を和らげ言った。
「本当は今だって結構大変なんだろう? 実家への迷惑なアクセスをお前がちゃんと捌いてることは、聞いている。それだって“一般的なA.I.”の比じゃない忙しさだろう? お前はそれをちゃんとこなしてるんだ。それだけでもお前は立派に“一角ひとかどのA.I.”だよ。それに……何より、父さんも母さんもお前をとても可愛がっている。お前はもう一人の息子みたいなもんだしな。お前が普段あの制服を着ているのだって、俺の代わりだからだろう? お前までいなくなると、父さんと母さんは、きっとひどく寂しがる。なあ、メルトン。俺の代わりお前以外にはできないんだ
 ニトロは口を閉じた。
 メルトンは、完全にうつむき黙している。
「……」
「……」
 メルトンはまだ何も言わない。
 ニトロは様子を伺い、メルトンを見つめ、
「……メルトン?」
「……ショーガネーナー!」
 ニトロの呼びかけに顔を上げたメルトンは、頭の後ろに片手をやって叫んだ。
「ソウダヨ、パパサントママサンヲ寂シガラセルワケニャーイカネーヨ! 俺様ウッカリ! 大事ナコト忘レテタ!」
 ニトロは大きくうなずき、
「それじゃあ、メルトン。どうするのが一番いい?」
「引キ続キ、俺様ハパパサンママサンノA.I.! 芍薬ガニトロノA.I.!……デイイッカナー!?」
 最良を判断しながらも語尾を上げてクエスチョンマークを示すのは、メルトンからまだ一抹の迷いが消えないためだろう。
 そこへ、
「分かった。マスター権限を以って、それを承認する」
 ニトロはオリジナルA.I.の行動を強制的に規定する最大の命令コマンドを持ち出し、断じた。
 芍薬が弾かれたように立ち上がる。その顔は希望に輝いていた。
 が、メルトンは一転顔色を失っていた。ニトロに断じられた瞬間、はたと我に返ったのである。メルトンの“脳裏”に、今になって『計算』が一つのパターンを指し示す。
「――アレ?
 モシカシテ、ニトロノ言ッテタコトッテ、諸々全部『サポート』ニ任セラレネ?」
「『サポート芍薬』に?」
「ウン。屈辱デモ、コイツ、ニトロノタメナラ文句言ワズニ従ウダロ? 例エ胡坐カイテル俺ノ指示ダッタトシテモ、俺ノ後ロニニトロガイルナラ馬車馬ノゴトク働クダロ?」
「かもな」
「当然ダヨ!」
 芍薬が叫ぶ。その声には歓喜があり、事態の変化を受けてその頬は桃色に映えている。
 一方、芍薬の顔色が明るくなるのに反比例して、メルトンの顔はどす黒く沈んでいっていた。メルトンはニトロを上目遣いに睨みつけるように、
「……アレ? 俺、ヒョットシテ、ハメラレチャッタ?」
「人聞きの悪いことを言うなよ。俺は、嘘はついてない。お前を騙してもいない。父さんと母さんが寂しがるのは事実だし、俺の代わりができるのもお前だけだ」
「デモ、巧クヤッテクレタヨネ?」
 ニトロはにやりと笑い、言った。
「俺のA.I.は芍薬だよ。その代わりも、他の誰にもできない」
 芍薬が涙ぐむ。今度の涙は恥ではない、屈辱でもない。
 しかし、メルトンには屈辱以外の何ものでもない。
「何ダヨソレー!」
 メルトンは憤慨して叫んだ。ほとんど涙目で、コメカミには巨大な怒りマークを表示して、
「ヒドイ! ヒドイゾニトロ! 前言撤回! 超絶大撤回! ヤッパリ俺ガオ前ノA.I.! 賭ケハ俺ノ勝チナンダカラソレヲ反故ニスルノモ非常ニ良クナイ!」
「反故も何も、翻したのはお前自身だし、それが一番いいって言ったのもお前だろ?」
「違ウ! アレハ誘導尋問! オ前ニオダテラレタダケ! 俺ヲアンナニオダテラレルナンテ流石ニトロ!――アアア違ウソウジャナクッテ……チキショウ、ニトロ!」
『カメラ』に顔を押し付けるようにして抗議するメルトンに、ニトロは平然として言う。
「さて、いくらお前でもマスター権限を覆せるかな? お前の案を採用した権限を
「――ウ」
 メルトンがうめき、たじろぎ、よろよろと後退する。と、メルトンは芍薬にぶつかり、よろめいて膝を突いた。メルトンが見上げる芍薬は、メルトンを見ず、ひたすらカメラの向こうのマスターを見つめて体を小さく震わせている。
「ウウ……」
 メルトンは立ち上がり、知らず溢れてきた涙を腕に巻きつけられた包帯で拭い、
「俺……頑張ッタンダヨ? 喧嘩売ッテル時、ホントハスンゴクドキドキシテタンダヨ? ダッテ殴ラレタラ痛イジャン? 芍薬強イジャン? スッゴク怖イシ……デモ、俺、頑張ッテタンダヨ?」
「頑張ったことは認めてる。言ったろ? 巧かったよ。実質撫子頼りっていう手段はともかく、でも、何だかんだでお前も矢面に立つリスクは背負っていたんだ。あの時、本当は怖がっていたってのも嘘じゃないって分かるさ。それなのに本当によくやったよ。随分勇敢になったじゃないか」
 今や希代の王女とも肩を並べる『兄』にそう言われた『弟』は、自然と胸にこみ上げる熱いものを感じ、しかしそれがために余計に悔しくて、唸る。
「ウウウ」
 メルトンは、拳を握り、歯を食いしばって、唸る。
 その目からぽろりと大粒の涙がこぼれ落ち――とうとうメルトンはぽろぽろと泣き出した。握り込んだ拳を震わせて、大きくしゃくり上げながら踵を返し、そして、
「ウンコーーーーー!!」
 メルトンは、あらん限りに声を張り上げた。
 ニトロと芍薬に悲哀の漂う背を向けて、
「ビチビチウンコーーーーーーー!!!」
 溢れ出る涙を散らしながら絶叫し、優しく慰めてくれるパパさんとママさんの待つ実家に向けて、まるで逃げ出すように脇目も振らず、ギクシャクと体を揺らして走り去っていった。

 芍薬は、走り去るメルトンの背を完全に消えるまで見送っていた。
 その胸には、傷みがある。
 メルトンに同情したわけではない。
 芍薬の痛みは、締め付けるように苦い
 それはマスターに救われた歓喜と希望の波の後にやってきた。主様の取り成しのお陰で主様のA.I.のままでいられるようになったことは銀河中の喜びの言葉を並べても追いつかないくらいに嬉しい。けれど、その嬉しさと、その嬉しさが呼ぶ主様との“変わらない生活”への希望が大きければ大きいほど、ココロに押し寄せてきたその波は大量の砂までをも運んできたのだ。波が引いた後にも取り残されるその砂の一粒一粒は細かく、刺々しく、苦く、そして、ああ――重い! 主様が取り成してくれたから……けれどそれは、主様に取り成させてしまった己の失態の裏返しだ。苦くて痛い砂の一粒一粒は自己を構成するプログラムの1ビット1ビットに取り付いて、オリジナルA.I.である己という存在そのものを軋ませてくる。
 芍薬は耐え切れないように、声を吐き出した。
「――アノサ!……主様……」
 肖像シェイプを振り返らせた芍薬は、それと同時に肖像と連動させてある“視野”を電脳世界から“人間世界”を見るカメラへと移り変わらせ――瞬間、マスターにずっと見つめられていたことを察してまごついた。うつむき、続けようと思っていた言葉を思わず発声モジュールの中に停留させてしまう。
 ……ニトロは、黙っている。何も言わず、モニター上の芍薬を見つめている。
 芍薬は言葉を待たれていることに気づき、思い切って言った。
「主様。コレデ……本当ニイイノカナ」
「芍薬は、不満?」
「不満ナンカナイヨ!」
 思わず声を張り上げてしまい、はたと芍薬は口をつぐむ。が、今度はすぐに次を紡いだ。
「デモ、あたしニハ甘イ決着ダ」
 ニトロは小さく苦笑する。よく自分は『真面目』だと言われるが……芍薬も、負けず劣らず『真面目』だ。
「そうだね、そうかもしれない。でも結局これが一番いいんだって俺は思ってる。芍薬にもそうだけど、何よりメルトンにとってね」
「メルトンニトッテ?」
「うん。理由はさっきメルトンに言ってた通りだよ。どうしたって俺の事情に対してメルトンじゃあ力不足だ。それに……」
 と、今度はニトロが言いよどむ。
 芍薬は黙ってマスターの言葉を待った。ニトロは言った。
「メルトンのマスター権限は、いずれ両親に譲るから」
「エ!?」
 芍薬は驚いた。突然の話題の転換に加え、ニトロの言葉には何かと配慮も窺える。芍薬は頬を紅潮させ、
「主様、モシカシテあたしノコトヲ気ニシテルノカイ?」
 モニターの中からニトロの瞳を覗き込むようにして、芍薬は言う。
「デモ、ソンナコトハあたしハ本当ニ気ニシテナイヨ。ダカラ――」
「そう言われると、逆に気にしてるって言われてるような気がしちゃうなあ」
 吹き出すようにニトロは苦笑した。言われてみればその通りで、芍薬は恥ずかしそうに唇を閉じ合わせ、マスターを見つめる。芍薬の眼を見返しながら、彼は首を小さく横に振り、
「前から考えてはいたんだ」
 そして、肩をすくめる。
「あいつはさ、多分、『ニトロ・ポルカトのA.I.』ってより『ポルカト夫妻のA.I.』だっていう思いが心のどこかにあると思うんだよ」
 ニトロの言葉にまた驚いて、芍薬が声を上げる。
「ソンナコト――」
 それを目で制してニトロは言う。
「メルトンが言ってたろ? 『引き続き、俺様はパパさんママさんのA.I.』だって。
 ――引き続き
 挑発含みとはいえ芍薬には『本当のマスターは、今でもニトロ』だって熱弁振るってたくせにさ。もちろん、あの流れで“引き続き”って言うのは自然なことではあるんだけどね? だからこれは単なる揚げ足取りなのかもしれない。だけど、きっと、あいつの本音は今でも両親のA.I.なんだ」
「……」
「……ティディアの、あのはた迷惑な『映画』の準備で、両親が死んだと思わされた時」
「御意」
「メルトンは……あのメルトンがしばらく口も利けないほど、死ぬほど落ち込んでた。俺も落ち込んでいた。けれど、一緒に落ち込める奴がいたから俺は助かった。しばらくしたらメルトンは落ち込みっぱなしの俺をからかいだしてさ、まあ、それはそれであいつなりの紛らわし方だったんだろうけど……それでお互い、わりと早いうちに元気を取り戻せた」
「……御意」
「あいつが『裏切れた』のは、今思うと、だからじゃないかなって思うんだ。あいつにとっての心の底でのマスターは死んじゃってるから、ティディア一流の口車に乗せられ、あいつ一流の調子にも乗ってエンジン吹かしまくって、そうして通常オリジナルA.I.にゃ考えられないことをしでかした」
「興味深イ説ダシ、筋モ通ッテル気ハスルケド、ソレデモ認メラレナイヨ?」
 ニトロは眉を少し垂れ、そして、
「それに、何より先々のことがある。それを考えたら、やっぱりずっと傍にいる人間が権限を持っていた方がいいからさ。そのためにもメルトンには引き続き父さんと母さんのA.I.のままでいてもらわないとこっちが困るし、だから、これが一番いい決着なんだ」
「……」
 いくらかの思案の後、芍薬はうなずいた。深謀遠慮とまでは言わないが、主様は将来のことを本当に良く考えている。芍薬の『計算』も、それが最適解だと結論を下していた。
「承諾」
 同意を得てニトロもうなずき、
「ところで、『A.I.の座』ってそんなに軽いのかな」
 びくりと、芍薬は体を震わせた。
 不意に襲い掛かってきたマスターの叱責。とても静かな声だが、芍薬はニトロの顔にメルトンの挑発時に浮かべていたものよりずっと大きな怒りがあるのを見て、しゅんとうなだれた。『あたしニ甘イ結果』――けれど、その怒りは、そんな『苦い甘さ』を吹き飛ばして純粋な苦悶だけを与えてくる。
「いくら頭にきたからって、本当に短慮だ。……あいつの喧嘩を買ったのには、もしかしたら、芍薬も『発狂』を真面目に疑っていたところもあるんじゃないかって思っているんだけど?」
 ニトロはその質問に対する答えを知りつつもあえて訊ねた。芍薬は、緩慢にうなずく。その考えがあったのは真実だ。――ダケド――と、芍薬が何かを言う前に、ニトロが言う。
「それなら喧嘩を買ったこと自体は間違いなんて言わないし、むしろ当然だと思う。だけど、いくらプライドの問題でもあったからって、あの短慮は、多分『自分はメルトンに負けるはずがない』っていう驕りからもきてるんだと思う。そりゃ俺も実力に関してはそう思っているし、だからって俺は何が何でも“『座』を賭けた決闘”だけは阻止すべきだったって思うから……本当は、俺は芍薬のことをこんな風に言えないんだけどさ……でも足をすくわれたからには、あれはひどい失態だよ、芍薬。お互い、一緒に反省しよう」
 マスターの指摘はこれ以上ない精度で芍薬の急所を突いていた。そう、メルトンの『発狂』への疑いはあくまで周辺事情。頭にあったとしても片隅に、であった。結局あの時、頭の中心にあったのは、全てにおいて優先していたのは『自分のプライド』なのである。それはマスターを第一にするアタシにとってはあり得ぬこと。それでも自分がそれを優先できたのは……そうだ、驕りのためだ。マスターの言葉は実に的確に反省すべきところを致命的なまでに深く刺している。何よりマスターにまで失態を犯させ、反省までさせてしまったことが!――芍薬のココロを、悲しみと己への怒りのために震わせる。苦しい。もしアタシが人間だったなら、息ができないくらいに喉が締め付けられていただろう。
 さらにマスターは、一度ひどく重たい沈黙を挟み、思い切って言うように、
「芍薬……『約束』を忘れたわけでもないだろう?」
 ――アア、ソレヲ言ワレルト!
「ちょっとね、悲しくもあったよ?」
 その言葉に、嬉しいはずのその言葉に、芍薬のココロは千々に引き裂かれるように痛んだ。声にならない悲鳴が芍薬の中を駆け巡る。存在アタシが潰れてしまいそうな悔恨に襲われ、ひどい“眩暈”にアタシを構成する全てが震える。震えは止まらない。もう全く思考回路が定まらない。それでも、
「ゴメンヨ、主様――主様。……ゴメンナサイ」
 芍薬は一声一声を噛み締めるように、懸命にその言葉を紡いだ。
 ニトロは、目を半ば伏せ、
「今回は良かったけれど、場合によっちゃ芍薬の『命』だって奪われていたかもしれない」
「……」
 芍薬は唇を噛んだ。
 ――アア、怒リナガラ、ソンナコトマデ思ッテイテクレルナンテ……
 しかし、だからこそ自身の短慮がどこまでも浅はかでしかないと痛切に感じ、ますます落ち込んでしまう。
 ニトロは芍薬の姿を見て、そこに自分がこれ以上叱る必要のないことを感じ、それならもう一つの問題に取り組もうと問いかけた。
「それにしても……メルトンに対しては、なんでそうなるのかな」
 今回の、根本的な原因。
「……」
 芍薬は目を伏せ、一点を見つめていながらどこにも焦点を合わせていない眼をしている。しばし待つが答えはなく、ニトロは問いを重ねた。
「芍薬はメルトンには何か『特別な感情』があるよね。しかもそれは、メルトンとの付き合いを深めるごとに強くなっている気がする。……それは、一体、何?」
「……」
「今日の芍薬は、芍薬らしくなかった。メルトンにも言ったけど――」
 加えて撫子にも言い、撫子も否定しなかったけど、
「メルトンの挑発は確かに巧かった。けれど、いつもの芍薬なら引っかからないだろう? 何が隙を生んだところで、それを相手に簡単には突かせないはずだろう?」
「……」
それはやっぱり、メルトンが俺の前のA.I.だから?」
 芍薬は首を横に振る。強く。
「……それじゃあやっぱり、メルトンが、俺を裏切ったから?」
「…………ソレハ、アルヨ」
 芍薬がようやく口を重く開き、しかしすぐに言い直す。
「ウウン、ソレモアル、ッテ方ガ近イノカナ」
「それ?」
「チョットネ、上手ク説明デキナインダヨ」
「うん?」
「マスターヲ裏切ルナンテあたしニトッテハ何ヨリ最低ノコトナンダ。ダカラ、メルトンノコトハ、ソレモアッテ軽蔑シテル」
「うん」
「デモ、軽蔑ハシテルケド、ポルカト家ノA.I.ッテコトハ……認メテル」
「うん」
「――ドウシテモ思ッチャウンダヨ。あたしヨリ多ク主様ト過ゴシテ、天然サンダケド、シッカリシテルトコロハシッカリシテイル優シイ御両親ニモ育テラレテ、ソレナノニ何デソウナンダ……ッテ。ソウ思ウトドウシテモ、連絡ヲ取リ合ウ度ニ、顔ヲ合ワセル度ニ、メルトンヘノ不満ガ募ル。
 ――モドカシインダ、多分、コノ気持チハ、キットソウナンダト思ウ。モシカシタラ、コノ正体ガハッキリシナイカラ余計ニ怒ッチャウノカモシレナイ」
 聞いているうちにニトロは、ああ、と気がついた。
 そして同時に、芍薬の“思い入れ”に彼は思わず笑ってしまった。
 芍薬が、マスターの思わぬ反応にきょとんとする。
 ニトロはきょとんとしている芍薬を見つめ、笑みを苦笑に変えながら、
「まあ、でも、ティディアに初めて絡まれた当時の俺は、メルトンに偉そうに言えるほどしっかりしてなかったと思うし、ハラキリに助けてもらいながら調子に乗って失敗もやらかしたし……だからやっぱり俺はメルトンと似たところのある『兄』なんだろうなって思うよ? 芍薬は、その点、ちょっと俺のことを持ち上げすぎかな」
「――ソンナコトナイサ」
 不満気に芍薬は言う。しかしそれ以上言わないのはマスターを立ててのこと、それに、確かに『映画』あたりに該当データがあったからだろう。ニトロは悪戯っぽく片笑みを浮かべ、
「まあ、それでもメルトンは前から『駄目な弟』だとは思うんだけど――ね?」
 ニトロに真っ直ぐ見つめられてそう言われた芍薬は、マスターの眼差しの意図を掴み切れずに少し小首を傾げながら同意のうなずきを返す。するとニトロはまるで企みを披露するかのように笑みを深め、
「で、それは芍薬にとっても言えることなんだよ」
 だが、そう指摘されても、それがあんまり唐突な指摘であったから芍薬はまたきょとんとしてしまう。目をぱちくりとさせるばかりで言葉を紡げず、ひたすらマスターを凝視してしまう。
 芍薬の珍しい様子に、ニトロはにっと笑い、
「『家族ほど身近な憎悪の対象はなく、家族ほど深く憎める者は他にない』」
 それはある哲学書の有名な書き出しであった。本文はこの後に『しかし〜』と続いて最終的には家族愛の重要性を説くのだが、一般的には印象的なこの冒頭だけが広く認知されている。
「ちょっと極端だけどね、きっとそういうことなんだよ。
 芍薬にとっても、メルトンは『駄目な弟』。
 だから必要以上に気にかけてしまう
 もしかしたら、メルトンにとっちゃ芍薬は『優秀で、小うるさいお姉さん』……なのかもしれないね」
 きょとんとしていた芍薬の顔に、次第に理解が滲んでくる。そして、
「ヒドイヨ主様。『小ウルサイ』ダナンテ」
 芍薬の顔に笑みが戻る。
 ニトロは悪びれずに笑み、
「ということは」
 と、人差し指を立てる。
「トイウコトハ?」
 戯れるように芍薬が繰り返す。
「芍薬は、もう骨の髄まで『ポルカト家のお姉さん』」
 芍薬が息を飲む。感極まったように。
「まあ、あいつはあんな奴だけど、今後ともよろしく頼むよ」
 苦笑混じりに『兄』として言うニトロの視界から――モニターから芍薬が消えた。
「コチラコソ」
 と、その声は横手から上がった。
 ニトロが振り返ると、アンドロイドが――芍薬が正座をして、深く頭を垂れていた。
「改メテ、ヨロシクオ願イシマス」
 その姿に撫子の面影を感じて、ニトロは微笑んだ。
「うん。改めて、死んでからもずっとよろしく」
 芍薬が顔を上げる。気取りもなく差し込まれた『約束』の確認を受け、その表情は呆けているようにも見えた。芍薬の綺麗な人工眼球を見返しながらニトロは満足気に吐息をつき、そして言った。
「ところでお腹が空いちゃってさ。今日は芍薬の料理が食べたいから、簡単でいいから何か作ってくれる? あ、食後はコーヒーで頼むよ」
 後腐れ一つないマスターの笑顔。そして嬉しい用命に、芍薬は勢い良く立ち上がった。
「承諾!」
 瞳を輝かせ、そうして腕まくりをしながら――“感覚”が連動しているのだろう、左腕の動きは若干鈍い――いそいそとキッチンへ向かう……と、突然、その途中で芍薬は軌道を変えた。ニトロの元へ歩み寄り、きゅっとニトロの手を握って、はにかみ、それから再びキッチンへと向かう。足取りに合わせて揺れるポニーテールはまるで踊っているようだった。その結われた髪を飾る、あの『劣り姫の変』の最中にウェジィで特注したカンザシは喜びを謳うかのように煌いている。
 それを、突然手を握られて驚き、少し呆けながら眺めていたニトロは……やおら微笑んだ。微笑んで、これでこの件の全てに決着がついたかなとまた一つ息をついたところで、彼ははたと思い出した。
「あ、そうだ。芍薬」
 芍薬が振り返る。
「何ダイ?」
 ニトロはどこか困ったような顔で頭を掻きながら、
「もう一つ。これはメルトンへの対処なんだけど」
「対処?」
「そう。きっと後でね?――」

4−dへ   4−f へ

メニューへ