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 あれから時を置いて何度かコールをかけてみたが、結局ニトロに通じることはなかった。

 ティディアは落ち込んでいた。
 何でだろう。
 何がどうしてニトロに無情にも拒否されたのだろう。
 解っている。
 私はまだ彼に嫌われている。
 けれど、お人好しで優しい彼が無闇にあんな風に通話を拒否してくることはないはずだ。
 何か事情があったとしても、それを一言告げるくらいはしてくれるだろう。
 なのに、それも無かった。
 あるいはそれもしてくれなくなるほど怒らせるようなことを、気付かぬうちにしでかしていたのだろうか? いや、そんなはずはない。一昨日からは彼の模試を邪魔しないようにメールの1バイトすらも送っていない。日課である漫才の練習の休止を彼と約束したのは模試が終わる本日まで。日数にして三日間、漫才の練習だけでなく無用な接触も控えていた。彼と会話もしないで一日を過ごすのは退屈ではあったものの、あの辛かった『一ヶ月』に比べればずっと短いし、あの時と違って“ニトロのため”という名分が彼と会話を交せぬ辛さをずっと軽く……いいや、軽いどころか充実した気持ちにすらさせてくれていた。二日目の夜には彼の目を見られぬ痛烈な切なさが不意に胸に去来したが、それでも切なさに狂って馬鹿な接触を試みはしなかったのはその充実感の故だ。それとも……まさか切なさは夢遊病のように私を駆り立てていたのだろうか? あるいは本当に突発的に夢遊病になり、私は、私の記憶に残らぬ間に?――否! 何に対して誓ってもいい、少なくともこの三日間は絶対に何もしていない。思い返せば三日前。日課の練習も無しでいいと提案した際には彼は驚いていたものの、そこに怒りの片鱗など一毛足りとて存在していなかった。それどころか、それを提案した私への感嘆(それとも当惑)がその愛しい顔には表れていた――ということは、三日以前に彼の怒りを買った覚えはやはりないのだ。ならば、やはり、この三日間の内に私は何かをしでかしたということになる? 私は? それでも誓って何もしていないというのに? 何故!?……それとも……もしかしたら、ニトロは、私の接触のないことに怒ったのだろうか? 彼を愛していると言っておきながら、ここに来て三日間の非接触の宣言、そして、それを守ることがかえって私の愛情を疑わせる結果を呼んで、それで彼はご機嫌斜めになっちゃったりしてくれたのかしら? あんなこと言っておきながら、俺と三日間話さなくても全然平気なんじゃないか……とか? 結局あいつは俺と触れ合えなくても悲しくならないし、まったくもって平気なんだ! とか? はっはっはっ。ないない。自分で考えていて馬鹿らしいし、馬鹿らしいと思うのは我ながら悲しいし……
 でもそれなら、本当になんでだろう?――ぐるぐると、ニトロの行動の理由を考えながら、考えるごとに落ち込みながら、ティディアは自室の小さなテーブルに座り、それでも公務をこなすために板晶画面ボードスクリーンに表示した王女宛の請願書の類をひたすら読み続けていた。いつもは2秒で読めるところが4秒かかる。内容が頭に入ってこないということはない。しかし、いつもより理解と対応への判断が2秒ほどのタイムラグを起こしている。ニトロへの困惑と、公務。それぞれを並列処理している脳がまるで“処理落ち”を起こしているようだった。この手の並列思考は得意なはずなのに、やはりニトロのことには『心』を奪われてしまう。……『心』に、脳のパワーを大幅に奪われてしまう。『心』は、心の問題を処理するためにも、逆に心の問題を頭から遠ざけようとしようとするためにも、大きなエネルギーを必要とするのだ。
 ――と、ティディアの携帯電話に着信があった。
 その瞬間、ティディアの『心』と脳が直列につながった。すると彼女の中で、大きなエネルギーが消費されると同時に、消費されるエネルギー以上のパワーが爆発的に生み出された。
「!」
 同時――その瞬間、主のために紅茶を淹れようと茶器一式を揃えたワゴンを押していたヴィタは驚愕していた。
 目の先に居る王女の……何と素早いことか!
 板晶画面ボードスクリーンを脇に放り、テーブルの隅に置いていた携帯電話を取り上げ着信に応じる――その様は、獣人の動体視力を継いでいるヴィタをもってしても残影にしか見えなかったのである。
 そして、その直後、思わずヴィタは微笑んでいた。
「もしもし!?」
 声だけを届ける通信機を耳に当てる王女の顔には、きらきらと輝く恋する乙女の笑顔があった。



 ▲ ▲ ▲ ▲ ▲


 ▽ ▽ ▽ ▽ ▽



 ニトロとの会話を終えたティディアは、通話を切り、
「ふふ」
 と、吐息をついた。
「口はヤりなれた女、されど顔は生娘――と言ったところでしょうか」
 そこにヴィタが声をかけてくる。
「お顔が真っ赤ですよ」
 ティディアは女執事を軽く睨み、頬に手を当てながら、
「自覚しているわよぅ」
「“音声通話サウンド”でよろしかったですね……いえ、映像付きの方が、むしろよろしかったでしょうか。堅牢なニトロ様のお心もティディア様の可愛らしさにきっとドキドキと揺らがされたはずですから」
「……いけずねー」
 部下のからかいにティディアは唇を突き出すが、その部下は悪びれる様子もなく微笑む。それはもう心の底から愉快気に微笑む。そして、
「それにしても、楽しそうでした」
 そのセリフに反論の余地はない。当然、主人はうなずく。それを横目に、女執事はポットからティーポットへ湯を注ぎながら問う。
「ニトロ様は、どうかなさいましたか?」
 ティディアはニトロの声を届けてくれた携帯電話を愛撫するように一撫でし、紅茶を淹れているヴィタに、
「何かトラブっていたみたいよ?」
「面白そうでしたか?」
 実にヴィタらしい問いである。ティディアは笑い、そして、
「詳細は解らないけど、多分、芍薬ちゃんがメインのトラブルじゃないかしら」
 言って、またティディアは笑った。その笑みは優しげなものであり、ヴィタはそれがきっとニトロを想っての“思い出し笑い”であるのだろうと悟った。実際、ティディアは思い出していたのである。そして、愛しく想い返していたのだ。
 ――ニトロは、嘘が下手ね――と。
 普段なら通話をするには芍薬のワンクッションがあるのに、それがなかった。もちろん稀にはストレートにニトロが受けてくれることもあるが、それでも今回のような場合、折り返しの連絡は芍薬が行わなければならないはずだった。何故なら、『間が悪かった』……つまりニトロが通話できない状況にあるのならば、そもそも彼の代理となって初めの電話を受けることこそ(また主の不都合を相手に伝えることこそ)彼のA.I.の『役目』であるのだから。――なのにそれがないからには……あの『A.I.の鑑』である芍薬がそれをし得ないからには、芍薬の間こそが悪いのであろう。その上でニトロが何かを隠したがっているとなれば、状況から考えてまず事は芍薬の名誉に関わる可能性が高い。
「芍薬様が? それは珍しい」
 王女の『笑み』には触れず促しの言葉を口にした執事に――その絶妙な距離感を常に保つ同好の士に――ティディアは同意のうなずきを送った。
「ニトロと派手に喧嘩をしたか、どこかからクラッキングがあったか」
 自分で言っておきながら、ティディアは“それはないな”と思った。前者ならともかく、後者ならニトロはもっと慌てている。場合によっては『嫌いな相手』にも形振り構わず助力を求めてきているだろう。……とすれば、
「もしかしたらメルトンちゃんがまた何かしでかしたかもしれないわねー」
 芍薬を煩わせる諸事情の中で最も可能性の高いものを口にして、ティディアは目の前に差し出された紅茶の素晴らしい芳香に目元を緩ませる。
「まあ、何にしたって最後にはニトロがどうにかするんじゃないかしら。だから、それがどんなことでも、きっと面白い」
「そしてニトロ様はいつものように困ったように笑う?」
「そう。『やれやれ』っていつものように笑うのよ」
 ティディアは笑い、ヴィタも笑った。肩を揺らして笑い合った後、ティディアはヴィタをふと見つめ、
「ところで」
「はい」
「私の今回の対応、ニトロはどう思ったかしら」
 ヴィタの眼前には、電話をしている時の“余裕”を見せる女はいない。そこには恋する乙女がいた。彼女の期待のためにほのかに赤らんだ顔を見て、その笑顔を『彼』に通話拒否を食らった際の青褪めた顔と比べてみて、ヴィタは思わず微笑み、
「きっと、良く思われたと思いますよ」
 執事が受け合うと、ティディアはぱっと瞳に星を散らし、
「そうよね、私も我ながら上出来だと思っているのよ」
 そう言ってティーカップを手に取り、鼻歌なぞを歌い出す。無敵の王女は公の場では決して見せない隙だらけの蕩け顔をして、紅茶が熱いことを忘れたように勢いよく口に流し込んで目を丸くする。というか、
「ぅぐぉほ!」
 悲鳴を上げる代わりに熱い飛沫を激しく吹き出した。辛うじてカップをテーブルに叩きつけるようにではあるが置くことに成功してさらなる惨事は防いだものの、激しくむせるやら口の中を火傷して痛いやら、どちらを優先して苦しめばいいのか神経が混乱しているようにティディアは身を痙攣させ、ついに椅子を蹴るようにして立ち上がっては悶絶ダンスを踊り出す。すると彼女に蹴り倒された椅子が、反撃とばかりに身をくねらせて踊る彼女の脛のあたりに脚を置く。
「っホんッ!?」
 踏んだり蹴ったりであった。強かに脛を打ったティディアは短い悲鳴を上げてダンスの振りに変化を加えた。片足でぴょんぴょんと飛び跳ねながら、まさに必死であった。呼吸も辛く、文字通り必死であった。
 それを特等席で眺めつつ、
(ああ、本当に……)
 舌を出してむせてはヒーヒー呻いて跳ね回る主人のため、手振りで部屋付きのA.I.に救急箱を手配し、自身は冷水を取りに――『クレイジープリンセス』の極上のリアクションを見逃さないようバックステップを踏みながら、ヴィタは、
(ニトロ様は色々な意味で『弱点』なのですねぇ)
 しみじみと、そして、にやにやと口元を緩ませていた。

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