4−c へ

 撫子が、ニトロの許可を得て一時ニトロ宅の全コンピューターを統括し、そして瀕死の芍薬と、半ば瀕死のメルトンを行動できるようになるまで――人間で言うなら集中治療室に入った後に退院できる程度にまで――回復させようとしている。
 ニトロはその様子を壁掛けのテレビモニター越しに眺めていた。既にヘッドマウントディスプレイはクローゼットにしまってあり、彼の手元には黒褐色の液体の満ちるコーヒーカップがある。モニターに映っているのは、所々を包帯で巻かれた芍薬と、相変わらず全身を包帯に巻かれたメルトンが並んで横たわる姿。二人の周囲では小さなイチマツが数体、白装束に身を包んだ撫子の指示に従って忙しそうに動き回っている。
 撫子の前には、小窓ウィンドウがいくつも表示されていた。それらにはニトロには何を意味しているのか全く解らない数列や、下から上へと流れるのがあまりに速すぎて読み取ることもできない“ソースコード”が映し出されている。撫子は、ニトロ宅のバックアップに納められている芍薬の『体組織構成表』――つまりオリジナルA.I.にとっての“カルテ”を参照しながら(メルトンにも実家にある記録から同様に)『治療プログラム』を作り上げているのだ。それを、イチマツ達が芍薬とメルトンへ適切に“投薬”していっているのである。
 一方、ニトロにも意味の解るウィンドウが、彼に向けて二つ表示されていた。モニターの両下隅、左右に分けて置かれているそのウィンドウは、それぞれ芍薬とメルトンの“ステータス画面”を表している。それによると、バトル中から治療を開始していたメルトンの方が回復の早いことが一目の下に理解できた。
「……」
 現在、芍薬とメルトンの思考回路は止められている。いや、正確には、回復に専念させるため外部情報が届かないよう“遮断”されている。
 ふいに、撫子がウィンドウを一つ閉じた。
 するとウィンドウそのものが薬になったかのように、やはりニトロに解りやすく外見を整えられた“軟膏ソフトウェア”が一つ空中に現れる。それを落下地点にいたイチマツが受け取って、芍薬に駆け寄った。芍薬は他の二体のイチマツによってうつぶせにさせられていて、ユカタも上半身だけ非表示ぬがされ、女性アスリート然としなやかな強さを感じさせる背中が露となっている。その背中には視覚化された打撲痕や擦過傷などの数多くの傷があり、中でも胸まで貫通する黒い穴――カタナによる刺し傷が目を引きつけた。刺し傷の周囲の肌は、今にも粉になって崩れ去ってしまいそうに気味悪く歪んでいる。それだけ『芍薬の自己からだを安定させる力』が脆弱となっているのだろう。オリジナルA.I.の『死』には“消失(例:データ削除)”や“機能停止(例:構成プログラムが何らかの誤作動のため無限ループに陥り回復できない)”など様々なものがあり、そこには“崩壊する”と呼ばれる形もある。ニトロ自身はそうやって死んだA.I.を実際に見たことはないが、A.I.バトルシステムなどで視覚化された状態においては、本当に“崩壊”の言葉の通りにA.I.の肖像シェイプが崩れ去っていくのだという。……その背の傷を見れば、芍薬が、どれほど命懸けで『ニトロ・ポルカトのA.I.』であり続けるために戦っていたのかが……その背の傷の痛みと共に、言葉にならない激情が伝わってくる。まだ腕の復活がなく、肩から先のない左肩を見れば、弥増いやまして強く。
 軟膏を持ったイチマツは、芍薬のカタナ傷へ透明な薬を塗りつけた。すると傷周りの“歪み”がいくらか安定し、もう一度塗りつけられると完全に固定される。そこにまた新たにやってきたイチマツが絆創膏を貼り付けた。機能としてはギプスに近いのだろう。そうやって芍薬の崩壊を止めているのだ。隣では一度包帯を解かれたメルトンが、全身の火傷に同じような軟膏を塗りつけられて、また包帯を巻かれつつある。その体のどこにも、バトル中に見られた立体画素ボクセル崩れはなくなっている。
 本来なら、このような治療におけるビジュアル面の演出などしない方が、撫子にとっては楽であるはずだろう。なのにそれをしているのは……他家のコンピューターを使っている以上、何をしているかをいちいち明示してみせようという撫子なりの礼儀というものなのだろうか。あるいは、マスターを安心させるための一手法として取り入れているのだろうか。……何にしても、そのような演出をしながら的確に素早く治していくのだから、その実力にもいちいち感嘆させられてしまう。
 ニトロは久しぶりに手ずからおとしたコーヒーを一口啜り――実際、芍薬とメルトンが治っていく様に安堵を得ながら――色々と、色々な考えをまとめたところで、
「芍薬は、どうだった?」
 撫子が目をニトロへと向けた。その姿は既に傷の一つもない。右手も綺麗に治っているし、バトル終了直後には閉じ気味だった左目も、もうぱちりと開いている。カメラ越しに彼を見つめる撫子は、小首を傾げるように微笑み、
「マダマダ、未熟デス」
「まだまだ? 結構いい線いってると思うんだけどなあ。どう?」
「アラ、私ノ『娘』デスヨ? ニトロ様」
 その言い返しは『答え』ではないが、しかし十分である。背中の他の傷についてもイチマツの治療を受け、眠るように横たわる芍薬を見つめる撫子の眼差しは誇りに満ちている。が、ふと、撫子はその眼を伏せ、
「……芍薬ニハ悪イコトヲシマシタ」
 ニトロは自分が淹れるより芍薬の淹れてくれた方がずっと美味しいなと思いながらコーヒーをまた一口飲み、
どっちのこと?」
 撫子がニトロを見る。彼はカップを口に当てたまま撫子を見つめ返している。
 撫子は、微笑んだ。その微笑みは、ニトロの初めて見る撫子の表情だった。苦笑しているような、喜んでいるような、面映く感じているような、悔やんでいるような、そして、
「オ恥ズカシイ話デスガ」
 と、もう一つ、ニトロが感じた“感情”を撫子は口にした。
「私ハ、浮カレテイタヨウデス」
「浮かれていた?」
 ニトロはソーサーにカップを置き、注意を深める。芍薬へと目を落として撫子は、
「芍薬ニトッテハ大事ダイジ最中サナカトナリマシタガ――何ハトモアレ、コウシテ芍薬ト直接手合セスルノハ久方振リノコト。無論ハラキリト組ミ、ニトロ様ト組ンダ芍薬ト手ヲ合セルコトモ楽シイ一時デハアリマスガ、ヤハリ違ウモノデスネ。コチラニ来テ、コノ世界デ“敵方”ニ立ツ芍薬ト対峙シタ時ニ、フト昔ヲ思イ出シマシタ。芍薬ガマダ私ノA.I.ダッタ頃、ソレコソ『未熟』ナ芍薬ヲ手取リ足取リ鍛エテイタ懐カシイ日々。ソレガ何故ダカトテモ嬉シカッタ。……デスカラ、ツイ、母親面ヲシテシマイマシタ」
 芍薬を見つめていた撫子が振り返り、ニトロをじっと見つめ、
「ニトロ様、コレガ『親離レ』ヲサレル寂シサトイウモノナノデショウカ」
「さすがに、それがそうだとは俺には言えないよ」
 ニトロは“親”ではない。撫子は、己で問いかけておきながらそれもそうでしたと言うように笑い、息をつくように間を置いて、
「芍薬ニ世話ヲカケテシマッタノハ、ツマリ私ノ『子離レ』デキテイナイ心ガ故。ソノ結果、芍薬ヲトテモ傷ツケテシマッタ。私モ、マダマダ、未熟デス」
「うちの両親が言っていたけど、子は親に、親は子に育てられるもんなんだって。そして、それが当たり前なんだってさ」
 撫子が両眉を跳ね上げてニトロを見る。少し目の丸いのは驚いたためか、それとも感心のためか。撫子の反応をどこかむず痒く感じ、それを誤魔化すようにニトロは苦笑し、
「だから息子ニトロに怒られるのは恥ずかしくない――って、それをしかも『どうだ!』とばかりに親に語られる子としては複雑な気持ちもするもんだけどね。いや、それを免罪符にするなと」
 撫子は笑った。肩を揺らして、楽しげに。ニトロもその時の呆れた自心を思い出し、そうして不思議と――その時はツッコミ倒したが――今は、面白く笑ってしまう。
 やがて笑いも止んだ時、撫子は問うた。
モウ一方ハ、ドウナサルオツモリデスカ?」
 それは、ニトロへの問い返しだった。
 撫子の顔にはこれまでとはまた違う真剣味がある。ニトロは撫子の表情を興味深く見つめた。撫子は真剣な顔をしてはいるが、その表情のどこにも罪の意識というものは存在していない。おそらく、こちらについては『悪イコトヲシマシタ』とは思っていないのだろう。何故なら、確かに撫子こそが芍薬にとって絶望的な“結果”をもたらした者である。しかし、その絶望的な結果をもたらした“因”には芍薬の明確な意志と選択が介在している。そう、これは十分に免れ得た事態なのである。されど芍薬はマスターの制止を拒否してまで自らそれを拾った。であれば責を負うのは芍薬。であればこそ撫子は己を責めることはしていないのだ。真剣なその表情は、ただ行く末を見届けようという意志のみが表れた顔。ニトロには、己の態度を当然とする撫子を、ある意味で身勝手にも思えるその態度を、しかし芍薬が責めることは決してないだろうと思えた。芍薬の価値観に撫子の強い影響があることに異論を挟む余地は無い。二人の生き方にとってはこれこそが『当然』であるならば、同時にその価値観の共有は二人の絆ともなるだろう。撫子は一欠片も己を責めぬ一方で、同時に芍薬の誇りを尊重してもいるのだ。――いや、むしろ芍薬への敬意があればこそ、撫子のその態度なのだと言い切ってもいいのだろう。……だが、反面、ニトロには、それでも撫子の真剣なその顔と態度のどこかに、どうしても隠し切れぬ温情を求める意志がこっそりと表れているような気がしてならなかった。そして、それこそが、おそらく『親』の心情というものであるのだろうと彼には思えてならなかった。
「……」
 ニトロはコーヒーを一口飲んで間合いを取り……撫子が『親』の心情をも慮らせてくるのなら……それでなくてもどうしても聞いておきたかったことを口にした。
「メルトンからこの話を受けた時。それだけは断ろうとは思わなかった?」
 問いへの答えではなく、さらに問いを返された撫子はニトロを窺うように見つめた。
「『理由』については理解したし、やるとなったからには互いに全力……ってのは“らしい”なって思うんだけど、でもその前段階からこの条件でやる気満々だった――とはとても思えない。いや、思いたくないって言おうかな。芍薬に『苦行』を与えるのは本意でないとも言っていたし……それが例え修行とか何とかのために“苦渋にも”って意味だったとしても、そのために『座』を失わせるっていうのはいくらなんでもやりすぎだと思うから。――それともそういうのは俺の幻想で、実際にはメルトンに『兵法』のヒントなんかもあげてたりしてたのかな? 何事にも厳しい『お母さん』は」
 ニトロは穏やかに語るが、その台詞回しには棘があり、声の底にも小さな揺らぎがある。撫子は、それが不満・憤りの類であると分析ききとった。この事態において、その類の感情を抱くのはマスターとして当然の反応だろう。いいや、むしろそのような感情をマスターに全く抱かれない方が悲しいと撫子は思う。この事態を徹頭徹尾冷静に見届け、その全てを受け入れているように見えていた彼も、その心中はやはり穏やかならざるものであったのだということを嬉しく思いながら、撫子は、やや間を置いてから、
「ドノヨウナコトデモ、ト、オ約束シテイマシタ」
「うん」
「シカシ、私ハ『喧嘩』ノ助太刀ニ呼バレルダロウト思ッテイマシタ」
「『決闘』じゃなくて……『喧嘩』? ただの喧嘩?」
「ハイ。モチロンメルトン様ノ計画ヲ聞イテハイマシタガ、『座』ヲ賭ケタ決闘マデ持チコム成功確率ハ3%以下ダロウト予測シテイマシタ。ソシテ『座』ヲ賭ケヌママニ憤怒ノ芍薬トノ『喧嘩』ニナリ、ソコデ命カラガラ応援要請ヲシテクルダロウト。……デスガ……結果トシテ、読ミ違エテシマッタ事モ私ノ未熟ガ故デショウ。今回ハ、私モ本当ニ勉強サセテ頂キマシタ」
 どこか嘆息を忍ばせての撫子のセリフに、ニトロは笑った。
「それじゃあ『決闘』に呼び出し食らった時には驚いたでしょ」
「実ハ生キテキタ中デ三本指ニ入ルホド驚イテイマシタ。アノ“スイッチ”カラノ情報ログハ永久保存デスネ」
 正直に、しかも……そういえば撫子は初めから事情に精通していた……この事態についての詳細な情報をどこで得たのかもしれっと開示され、ニトロは声を上げて笑った。何だか親友のやり口を思い出してしまう。加えて彼の心の琴線を震わせたのは、こちらに現れた時に撫子が一瞬見せていたあの捉えどころのない顔である。あれは、撫子の人生三本指に入る驚きと、もちろん“結果”への戸惑いもあったろう、そこに先ほど撫子が語った嬉しさの混ざったもの――そういうことだったのか。彼は笑いながら何度もうなずいた。心の底にあった撫子への憤りも吹き消されていく。それにしても、撫子の予測まで裏切ってみせるとは……メルトンには呆れてやればいいものか、それとも感心してやればいいものか、とにかく本当に困った奴だ。
 ニトロはひとしきり笑った後、コーヒーを含んで喉を均し、再び真剣な顔で言葉を待っている撫子へ穏やかに言った。
「……メルトンの勝ちだよ」
 撫子は、うなずく。
「権利は、メルトンのものだ」
 撫子はうなずく。
「でもまあ、大丈夫じゃないかな」
 撫子はやや間を置いてから、問うた。
「――トハ?」
 問われたニトロは、間の置き方といい、問う際の自然な声音といい、期待をくすぐられているはずなのにそれを微塵も見せない撫子の自制心の強さを思い知りながら、しかし悪戯っぽく目を細め、
「残念だけど、それはうちの内部事情。プライベートは、いくら芍薬の『お母さん』でも簡単には明かさないよ」
「マア、ヒドイ」
 そう言われてニトロは笑った。撫子もくすくすと笑う。それから少しの間を置き、ニトロは言う。
「それに、これは芍薬だけじゃなく、メルトンの問題も絡んでるからね。……ただ、撫子をきっと裏切らない。任せてくれるかな?」
 ニトロの言葉には確信がある。すると撫子は即座にうなずき、
「ハイ、オ任セ致シマス」
 ニトロは少し、眉をひそめた。
「何か……やけにあっさり言うね」
「『決闘』ニ呼ビ出サレタ時ニハ本当ニ驚イタモノデスガ」
「……うん?」
「スグニ――マア、ドノヨウナ結果ニナッテモ、ニトロ様ニオ任セスレバ後ハ上手ク治マルデショウ――トモ。デスカラ、ソノ御言葉ガ聞ケタダケデ安心ナノデス」
 ニトロは思わず笑った。撫子は、ある意味無責任なことを飄々と言ってくれた。しかも同時にこちらへの大きな信頼を至極当たり前とばかりに明示してくれるのだから堪らない。思わず笑ってしまったニトロは、今改めて痛感させられたことをそのまま口にした。
「撫子は、まさに『ハラキリ・ジジのA.I.』だね」
「ハイ」
 またも即応する撫子には誇りだけがある。しかし撫子のその様子は『ハラキリのA.I.』というより『芍薬の母』という印象を強く抱かせるものであった。
 撫子――というオリジナルA.I.が垣間見せる、『オリジナルA.I.』のココロの深さ。連れてニトロは芍薬というオリジナルA.I.の描いた情動、メルトンというオリジナルA.I.の紡いだ言動を思い起こし、それらが彩った今回の一件、その背景に広がるものにまで思いを馳せれば……彼は奇妙な感慨すら覚え、穏やかな笑みを刻んで一つ小さく息をついた。撫子は彼の様子を見守るように少し目を細めていて、ふいにまっすぐ目の合った両者は、思わず小さく笑い合う。
 どこまでも似ているがどこまでも違うヒト人工知能A.I.同士、しかし同じ“こころ”で小さく笑い合った後、ニトロはもう一度、今度は大きく息を吐き、
「それにしても……」
 と、話が一つ終わったことを機に題を転じた。
「芍薬は――芍薬にしては、下手を打ったよ」
 撫子はニトロが何を聞きたいのかを察し、彼を再び真剣に見つめてうなずく。
「負ケン気ノ強イ子デスガ、アレホドノ短慮ハ珍シイ」
 ニトロはうなずき、それから少し言いにくそうに唇をもごつかせ、
「撫子達にとって……『前のA.I.』って……気になるもの?」
「個体差ガアリマス。一概ニハ言マセン――ガ」
「うん」
「芍薬ハソノヨウナコトヲ気ニスル性質タチデハアリマセン。イエ、アリマセンデシタ、ト言ッテオイタ方ガ良イデショウカ」
「うちに来てから変わった?」
「ソレダケニトロ様ヲ大事ニ思ッテイルノデショウ」
「それは嬉しいけどね。でも、俺も違和感がある」
 ニトロはコーヒーを飲む。
「本当にメルトンにだけなんだ。ベクトルが違うけど、正直ティディアに対して以上に険が立つ。今日はメルトンが巧かったのもあるけど、根本的な原因は別にあると思う」
「ハイ」
「思い当たることは?」
「……悪イ方デハナイノデスガ……」
 撫子はメルトンを見やって、小さく肩を落とす。
「少々、オ調子者ニ過ギマスネ。生意気デモアリマス」
 ニトロはうなずき、付け加えた。
「しかもマスターを裏切るときた」
 はっとして、撫子がニトロを見る。
「ソレハ非常ニ大キイ。ソレハ私達ニトッテ信ジラレナイコト。『バグ』ヤ『発狂』ナラバトモカク、モシ自身ノ意志デ裏切ッタノダトシタラ――ソレヲ本当ニマスターノ許可モナクスルコトガデキタラノ話デスガ――ソレハ、心カラ侮蔑スル事柄デス」
「それがずっと尾を引いている?」
「アリ得マス」
 そう言われればそうかもしれない。芍薬がうちに来た当初にも、そのような話題が幾度もあったように思う。
「……なるほど……」
 ニトロはそうつぶやいて、ふと、自嘲気味に笑った。
「ドウサレマシタ?」
「『家族』は、やっぱり似るものなのかもね」
「ハア」
 いまいち要領を得ないニトロの返事に、撫子が首を傾げる。ニトロは携帯電話を取り出して、その着信履歴をカメラに向けながら片目を細めて、
「俺も、こいつにだけは色々尾を引いている」
 そこに表示されている名を見て、撫子は大いに得心したような顔をして……それから何かツボにでも入ったのか、口元を手で隠す間もなく吹き出し、そうして肩を揺らしながら笑った。つられて、ニトロも笑ってしまった。
 ――しばらくして、芍薬とメルトンの治療に一段落がついた。
「オオヨソ1時間後ニ、同時ニ目覚メルヨウニシテイマス」
「うん」
 撫子は帰るという。
 目覚めるまでいたらどうかとニトロは言ったが、撫子は首を振った。ここからは『家族の問題』ですから、と微笑んで。
「ああ、そうだ」
 と、早速帰ろうとしていた撫子をニトロが引き止める。別件で聞きたいことがあったのだ。
「ハラキリは?」
 親友は『誕生日会』の翌日から行方不明だ。どうやらマスメディア逃れのための行動ではないらしいのだが、その行き先はニトロも知らない。黙ってどこかに行くのは彼の得意技だから大して心配してはいないが――
「明日、帰ッテ参リマス」
「どこに行ってるの?」
 反射的に問うて、ニトロは先日撫子に同じことを聞いていたと思い出した。その際の返答は『所用』の一言のみ。しかし、口にしてしまったからにはしょうがない。ニトロが答えを待っていると、撫子はやや思案し、
神技ノ民ドワーフトノ『コネクション』ヲ作リニ」
 ニトロは目を丸くした。答えが返ってきたこともそうだが、その内容に驚いた。
「何のために? もう、コネならあるじゃないか」
「ソレハ“母上様ノ”コネクションデス。神技ノ民ドワーフハ個性者揃イト言イマショウカ、人付キ合イモ個性的ナコトガ多ク、概ネ一ツノコネクションガ世襲スルコトハアリマセン」
「……つまり、だからハラキリ独自のコネを作りに行った、と?」
「ニトロ様ノオ陰モアリマシテ、先方様ニハハラキリノ覚エモ良ク、途中経過モ良好デシタカラオソラク成果ヲ得テクルコトデショウ」
 自分のお陰、と言われると色々嫌な思い出が蘇るが……『天使』とか『天使』とか『天使』とか……まあ、それが彼への恩返しになったのなら良いか。
「でも、何で今になって?」
 その問いに対して、撫子は不思議な顔をした。微笑んでいるような、感謝しているような……それとも面白がっているような? ニトロには撫子の微妙な心情が掴み切れない。
「生活ノ糧ヲ得ルニハ、良イ相手トハ思イマセンカ?」
 撫子はそう言うが、それが建前だということだけは解る。が、ニトロはそれに乗ることにして、うなずいた。
 すると、
「ニトロ様。コチラモ一ツ、オ聞キシタイコトガ」
「何?」
「――芍薬ハ、ドウデスカ?」
「それを聞くのは撫子とハラキリの絆を疑うようなものかな」
 真顔で即答され、撫子は思わず目を丸くし、それからゆっくりとその双眸を細めた。自然と口元がほころぶ。牡丹に羨ましがられていた芍薬は、本当に――本当に幸せなA.I.になったのだとココロの奥底まで実感し、撫子は裾を払って正座をすると、ニトロを真っ直ぐ見つめ、そのあまりの真摯な様子に驚くニトロへ、『心』を込めて、深々と頭を垂れた。
 そうして撫子は、最後に『母』の笑顔をニトロの瞼に残して、去っていった。

 撫子が去ってから、やや時を置き、
「……さて」
 一つ決心するように意気を込め、ニトロは携帯電話を操作し、通話機能のロックを解除した。着信履歴からティディアに音声オンリーで掛け直す。その胸中には彼女へ『濡れ衣』を被せた呵責があった。
 受話口からコール音が一つ、ふた
<もしもし!?>
 ニトロは面食らった。その声は異常なまでに明るかった。
「……もしもし?」
<良かったー。拒否された後は繋がりもしないし、ひょっとして嫌われちゃったのかと不安になっていたの!>
「いや嫌われちゃったんじゃなくて事実嫌われているわけだが」
<そんなことはどうでもいいの>
「ぅおい」
<さっきは都合の悪い時にかけちゃったかしら。だとしたら、ごめんね?>
 う、と、ニトロは良心の内部で呵責が暴れるのを感じた。そしてそれが、声に表れた。
「ああ、うん。ちょっと、間が悪かったんだ。こっちこそ、ごめん」
 言葉自体には嘘はない。しかしその心持ちには偽りがある。
<……>
 少し、間があった。
 ニトロは確信した。
(勘付かれた……)
 間違いない。何はともあれこちらがティディアへの悪い感情を突沸的に抱き、実際に間が悪かったとしても、根本的にはその心持ちこそが先の通話拒否を招いたのだということを確実に悟られた!
 ニトロは即座にティディアが『何をどうしてそう思ったのか』を巧みな話術で聞き出しに来るだろうと覚悟した。ティディアのそういう力は、よく知っている。ここにきて誤魔化すのは何だかまた変な気持ちもする。とはいえ全部をしゃべるわけにはいかない。何しろこれは“内部情報”……芍薬も、己の失態を、マスターに、よりにもよってティディアにべらべら話されては傷つくだろう。そう、これは芍薬の名誉にも関わることなのだ。
 ティディアの追求をどうやって切り抜けたものかと待ち構え、かつその上で上手く謝るにはどうしたものかと困難極まっているニトロの耳を、ティディアの声が叩いた。
<エッチなことしていた?>
「ぶ」
 ニトロは吹いた。これが吹かずにいられるものか。
<言い換えるとオ「言い換えんな!」
<ね? すっきりした?>
「うるさい!」
<それともまだビンビンにボッ「だからうるさい! っつーかシモネタやめい!」
<えー? 別に私はシモネタだとは思わないけどなあ>
「な・ぜ・に!」
<だってー、それって当たり前の生理現象じゃない? それに、ニトロにだって秘密にしたいことの一つや二つはあるでしょう?>
 う、と、再び内心でニトロはうめいた。
 ティディアは愉快気に続ける。
<男の子が秘密にしたいことって、やっぱりそういう類だと決め付けたいのよ。年下の男の子にとってもエッチなことされたいお姉さんとし・て・は♪>
 あからさまなからかい口調であった。もちろんティディアの“からかいの真意”が他にあることを、ニトロは解っていた。そのセリフにはツッコミどころがあるのに、それ故に彼は何も言えない。脳裏を埋めるのは、ただ一言。
(やられた)
 音声通信をつなぐケーブルの先で、ティディアはくすくすと笑っている。
 ニトロはため息をつき、
「ああ。お陰で、すっきりしたよ」
 色んな意味で。
 ティディアは、そう、と相槌を挟み、
<それで、用件なんだけど、来月のエリンクス古代劇場のタイムテーブルに変更があったから、その連絡>
 言うティディアからは妙に落ち着いた余裕が感じられる。
 ――その“余裕”は、ニトロにとって久しぶりに感じるものであった。
 そして、それは……ちょうど自分が『道具』として愛されていた頃には良く示されていたものでもあった。最近はこのような“余裕”は感じられず、逆にこちらを戸惑わせる反応が目立っていたものだ。しかし、では、あの頃の感覚が全て蘇ったのか? と言われれば、それは違う。
<『猛獣使いアニマストリアン』が出られなくなってね。今から代わりを探すのも大変だから、私達がその分時間をもらうことにしたわ>
「てことは二本やるのか?」
<ちょうど新作ができたからね。テキストを送っておくからチェックしておいてくれる? 明日から練習したいから>
「解った。けど、猛獣使いアニマストリアンは一体どうした? 病気?」
猛獣使いアニマストリアン』とは、アデムメデスで『猛獣使役術アニマストラ』と呼ばれる、太古、中央大陸の魔境ユーリーヌ密林に住んでいた部族が編み出した秘儀の継承者のことだ。来月ニトロとティディアが参加する『エリンクス古代劇場大祭』では、普段は史跡として保護されている、露天掘りのごとく地を掘り下げ作られた大劇場が特別解放される。往時には獣と人間が戦った闘技場ともなっていたその場所で、今や後継者問題のために絶滅寸前のアデムメデス重要無形文化財――その猛獣使役術アニマストラが堂々披露される予定だったのだ。ニトロ自身、ちょっと楽しみにしていたのだが……
<事故った>
「じ――」
 ニトロは息を飲んだ。事故――その言葉だけで、もう解りに解る。冷や汗が額に浮かぶ。
<練習中に『パートナー』のサーベルファングライオンちゃんが急に野性に帰っちゃったんだって>
「……程度は?」
<頭齧られた。けれど「恥ずかしくてお見せできない。修行し直してきます」って涙ながらに辞退を申し出られるくらいには元気>
「ああ、そりゃ不幸中の幸いで」
<もう少しで脳の一部を再生治療しないといけなかったみたいだけどね>
「ぅおいッ?」
<やー、本当に不幸中の幸いだったわー。ざっくりイかれていたら折角のイベントに影が差しちゃうところだったもの>
「いや……お前ね」
<冗談よ>
「冗談には聞こえないんだがな」
<やー、見損なわないでよねー>
 冗談めかせて言うティディアは朗らかな調子で、声にも笑みを含ませながらも真剣である。ニトロは非難を止め、代わりに、
「スケジュールの変更点は、そこだけか?」
<ええ、仕事の後はトリの『アイウォンと平和の鐘』を観て――そうそう、劇場の打ち上げに“飛び入り”しようと思っているんだけど、ニトロもやる?>
 企み声でティディアは言う。ニトロの目には彼女のニヤリとしている顔がまざまざと浮かんだ。
 ――そして、
(……メルトンが言ってたのは、この劇のだったな)
 芍薬を挑発する時に使っていた古典劇の文句。古めかしい比喩。メルトンらしからぬ趣味とは思っていたが、もしやそれは『マスター』の観る劇を予習してのことだったのだろうか。
(……)
<ニトロ?>
 問われ、はたと我に返って、ニトロは言った。
「『やる』も何も、既に織り込み済みなんだろ?」
<流石>
 ティディアが嬉しそうに微笑んでいるのが、ニトロの目に浮かぶ。
「……いいよ。先方もきっと喜んでくれるだろうから、そういうのなら、嫌じゃない」
 ニトロが言うと、ティディアは小さく歓声を上げた。そして、
<そういうことで、以上、よろしくね?>
 ティディアが突然口にしたそれは、まるきり会話を打ち切るセリフであった。ニトロは眉をひそめ、
「ん?」
 思わず、疑念が音になる。
<どうかした?>
 ティディアに問われ――失敗したと思いながらも――ニトロは疑念をそのまま口にした。
「いや、随分手短に切り上げるなと思って……。いつもはどうにかしてでも長電話にしようとしてくるのに」
 そう、例えば日課の漫才の練習後。すぐにあれこれ話題を振ろうとしてくるティディアを振り切って接続を切るのがニトロ(と芍薬)のもう一つの日課ともなっている。
<今日は疲れているでしょ? だから、こうやって声を聞けただけで十分>
 その『疲れている』とは、もちろん模試のことを指しているのだろう。が、裏ではやはりこちらにトラブルがあったことを理解しての思い遣りにも思える。
「……」
 ニトロは、惑っていた。
 思えば、どうにもティディアは、ここ数日で明らかにまた変わったように思えてならなかった。そうだ、特に二人で踊ったあの夜から、ティディアは確かに変わったのだと思えてならない。
 ――彼女が示し続ける、“余裕”。
 それはちょうど自分が『道具』として愛されていた頃にはよく示されていたもので、しかし、あの頃の感覚とはやはり全く違うその“余裕”。
 ニトロには、その何が具体的にどう変わったのかは言葉にできない。
 あえて言うならやけに芯の通った余裕……とでも言おうか、あるいは底を掘り下げた懐の深さとでも言おうか、とにかく強敵がさらに強度を増したような気がしてならず……そしてこちらへの『好意』も増したように思えてならない。
 とかくニトロは惑っていた。
<あ、でも、物足りないっていうなら今からそっちに行ってもいい? それともこっちに来ない? 私、多分安全日なのよ。もっとすっきりさせてあげるから、ね?>
 ――のわりに、変わらないところは、やはり変わらない。
 ニトロは、哂った。
「『多分』って、随分雑な誘い文句じゃねぇか」
<逆に言えば孕ませろと言っている。でなくても私の股で吸い尽くさせろと言っている>
「ド阿呆。そこまで行くと誘い文句もシモネタも通り越してあからさまに下品だ」
<下品がなにさ!>
「うわいきなり何だびっくりした!」
<大体人間ってシモから生まれてくるじゃない? そこには何らかの教訓が秘められていると思うの。下品に隠される神のメッセージなんて神秘的だと思わない!?>
「ああもう、うるさい。ンなもん一人で勝手に読み取っとけ」
<ざっくりそれだけ!?>
「それだけだ。それじゃあ疲れてるから、もう切るぞ。テキストは見ておく」
<よろしく。それから>
「ん?」
<おやすみなさい>
「いくらなんでも早いだろ」
<言っておきたかったのよ>
 ニトロは、笑った。
 思わぬ芍薬とメルトンの諍い、芍薬と撫子の思わぬ戦い、撫子との思わぬおもしろい会話を挟んで、ハラキリの思わぬ行動……そうして思わぬ、ティディアのこの調子。
 今日はどうにも変な日だ。
 彼は大きく息を吸い、それをゆっくり吐き出しながら、
「さっきは、ほんとに、悪かったな」
<? どうしたの? もう済んだことでしょう?>
「ああ、そうだね。
 それじゃあ、おやすみ。また明日
 思わぬニトロからの穏やかな返しに、一瞬の間の後、ティディアが嬉しそうに言葉を返してくる。
 そうして名残惜しそうにティディアが通話を切り、ニトロも、接続を切った。
「……」
 自分を変えることになった『キッカケ』――ティディアとの会話を終えたニトロの脳裏には、『ターニングポイント』の以前と以降が断片的に巡っていた。
 メルトンの言葉を借りれば“腹ハ緩クテポヨント揺レチャッテタ”日々と、“ヤタラ努力家ニ”ならねば『ニトロ・ポルカトという自己』として生きていけなかった日々。
 その日々の断片の中から“変化以前と以降のメルトンと自分との関係”を拾い上げて思い返せば、過去を思い返す際の気恥ずかしさと共に思わず苦笑いをして目を落としてしまう。そこに芍薬と自分との関係を加えて考えてみれば、過去を思い返す際の感傷と共に少し失笑するように天井を見上げてしまう。
 彼は頭を掻くと、何となく部屋を見回した。
 元々あまり物を持たない性でもあるが、何よりいつでも引越しができるよう物の少なく殺風景な部屋。
 そこに、一点、鮮やかな緑がある。
 小さな素焼きの鉢に植えられた、最大でも30cm程度にしかならない極小低木。丸い肉厚の葉を連ねたシルエットは緑の球のようであり、その外観が観葉植物としてもとても良いので室内に置いてあるハーブ。日当たりのよい窓際にちょこんと座しているそれを、ニトロはしばらくじっと見つめた。
 アデムメデス最大の塩湖周辺地域原産のその塩性植物は、当地では“家庭円満”の象徴にされているという。芍薬の手入れによってぴかぴかに艶めいている塩気を含む肉厚の葉は、ドライであれば単独でも塩分を含むハーブソルトとして、あるいは独特の香ばしい風味のために特に癖のある食材の臭み消しとして使え、フレッシュであればそのまま食せる。一般的には主にサラダのアクセントとして用いられ、ベーコンのような食感と共に、乾燥させた後とは違う鮮烈な柑橘系の香りと、しょっぱさの中にもほのかな甘さ、それからほのかな苦みという複雑な味が楽しめる。ニトロの家でもよく使われていたもので、いつだったか、このハーブを入れたサラダを食べながら、この植物を家庭円満の象徴にした原産地の人間の感性について語り合っていた料理好きの父と園芸好きの母は、互いの趣味の観点から意見を違えて極めて珍しく喧嘩になっていた――ニトロはふと思い出した――そう、あれは小学生になる前夜だった。だが、結構な大喧嘩をしながらも、食後にはもう両親はいつもの仲良し夫婦に戻っていた。それが、その頃の自分にはとても不思議に思えたものだった。一方で『弟』のメルトンは、両親が仲直りしたことを素直に喜んでいた。
「……」
 やおらニトロは一つ息をつき、二杯目のコーヒーを淹れに席を立った。
 ……二杯目のコーヒーも、やっぱり、芍薬の淹れる味にはとても及ばなかった。

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