4−b へ

 キモノ――その中でフリソデと分類されるらしい、異星の装束。
 袖口は小さく(とはいえシャツよりは大きく)取られているが、袖の両腕を広げた際に下側となる部分が袋状となって膝下にまで垂れている。その長い袖丈が非常に特徴的であり、一目見ただけで印象に残るシルエット、アデムメデスにはない奇抜なそのデザインは、異星情緒と共に華やかさを感じさせながら、一方では得も言われぬ奥ゆかしさを感じさせる。両腕を広げれば体が大きく見え、長い袖の深みがそのまま懐の深さを想像させるが、腕を閉じて手を体の前で揃えれば、長い袖が翼を休める鳥のように穏やかな形を描き、楚々と纏まるシルエットは可憐であり、またどこかで母性と庇護欲を同時に掻き立てる不思議な装束。
 キモノ――という服は、柄によってその印象を大きく変えるものでもあった。その柄は無地やシンプルな紋様・図案から、それだけで芸術品と呼べるような絵画まである。そして無地・シンプル・芸術、そのどれをも受け止めながら、キモノという一つの『カテゴリ』はどこまでも逸脱しない。無地だろうが芸術だろうがそれを“キモノ”の中に包み込んでしまうのだ。親友の言葉を借りれば「これは一つの宇宙なんです」ということらしいが……今、目の前にある黒地には、金銀銅、赤に青、様々な色彩の糸を綿密に縫い込むように描かれた『宇宙』があった。裾の左下には一つの大きな“星溜まり”があり、そこから両袖に向けて星雲や星々が花開くように描かれている。大分だいぶん意匠化されているとはいえ、それはまさしく『宇宙』であり、それを純白の帯が引きまとめ、さらに真紅の帯止めが一つ緊張感を生んでいた。
 全てを包み込みながら、反対では全てを押し潰してしまいそうな宇宙の上には、どこまでも穏やかな顔があった。腰まで流れる黒髪の先端を一直線に切り揃え、同じく前髪も一直線に切り揃える特徴的な髪型。肌は粉を塗ったかのように白く、その中で、細い眉の下の黒い瞳と、唇に指で一押しするように小さく塗られた紅が美しく映えている。
 見間違えようもない。
 小柄ながら、その大きな存在感。
 見間違えるはずもない。
 撫子。
 ハラキリ・ジジのオリジナルA.I.にして、芍薬の『母』。
 なるほど……メルトンを馬鹿ほど調子に乗らせるに納得せざるを得ない『虎』――!
「ゴ機嫌ヨウ、メルトン様。オ呼ビ出シ頂キマシテ、撫子、ココニ馳セ参ジマシタ」
 撫子に深々と頭を下げられ、メルトンはご満悦の様子である。そうしてメルトンが素早く呼び出しに応えた撫子を労う光景を見れば、現在、両者の関係が『マスター』と『サポート』(あるいは『隷属スレーブ』)にあることが理解できる。
 芍薬が、ニトロが唖然として二の句を紡げないでいる内に撫子が振り返る。撫子は先にカメラ越しにニトロへ目をやり、最後に芍薬へ顔を向け――その時、ニトロには、撫子が一瞬だけ妙に捉えどころのない不思議な表情をしたように見えた――それから撫子は一つ息をつくように佇まいを整え、すっと頭を垂れると、
「オ邪魔致シマス、ニトロ様。ソシテ芍薬」
 撫子の辞儀は馬鹿がつくほど丁寧であった。
 しかし、正直、そんな挨拶などどうでもいい。
 心底浮かれているメルトンが、こちらを心底馬鹿にしながらあっかんべぇをしているのも最早どうでもいい。
 どうでもいいことを目の当たりにしたことで少しだけ思考を取り戻した芍薬とニトロはまず口にすべき言葉を思い出し、同時に叫んだ。
「「何故!?」」
 ガシャン、と、ニトロの傍らでけたたましい音が鳴った。先ほど驚いた拍子にコップを倒してしまっていたのだ。それが床へ転がり落ちて、割れていた。ニトロは水浸しとなったテーブルと、端からぽたぽたと水が垂れて床にも水溜りができているのを見て、しかし今すぐそれをどうこうしようとは思わなかった。
 こんなことは、後でどうとでもなる。
 だが、
撫子オカシラガ……何デ……メルトンノ『武器』ダナンテ物扱イサレテルノサ! ソンナ、ソンナ屈辱――!」
 芍薬が狼狽している。ひどく動揺している。
 撫子は、微笑んでいる。
 メルトンは……今頃額のいたみに気づいてぞっとしたらしい。自分より小さな撫子の背後にこそこそ隠れるやプルリと震え、息をつき、安全地帯で気を落ち着けるや再びクソ生意気な得意顔を覗かせている。
 撫子はメルトンに盾にされながら平然と、
「アラ、私達ハ『道具』デアルコトコソ存在意義。ソシテ誇リデショウ? マスターノ『手』トナリ、同時ニドノヨウナ『手先ブキ』トモナル。誰ガドノヨウニ汚ク呼ブ仕事デアッテモ、マスターノ声ヲ通セバ、ソレハ私達ニトッテハ何ヨリノ黄金。
 貴女ハ、ソノ『矜持』ヲ忘レタトイウノデスカ?」
 問われた芍薬は頭を振り、未だに信じられないというように、
「ソウジャナイヨ! ソウイウ意味ジャナクテ……ソレハ撫子オカシラダッテ判ッテルダロウ!?――ッコンナクダラナイ問答ハ止シテオクレヨ!!」
 覆面から覗く目を大きく開き、最後には、耐え切れないように芍薬は叫んだ。
 その気持ちは、ニトロには理解できるものがあった。
 自己の矜持や存在意義を『道具』と言い切り、それをココロから誇るA.I.達の価値観には完全な理解を及ぼせるわけではないが、それでも、自分の『母』、自分の憧れ、自分が目標とする相手が『単なる武器』として『使役』されていることに我慢がならない――その芍薬のならば、痛いほど解る。
 そして芍薬の訴えを聞いた撫子は、小さくうなずいた。
「ソウデスネ。少シ意地悪デシタ」
 激情を吐き出したばかりの芍薬は息苦しそうに撫子を見つめている。芍薬は次の言葉を待っているが、撫子は息苦しそうにしている芍薬を不思議と懐かしむように見つめているだけで何も言わない。そこで、
「この状況よりは意地悪じゃあないよ」
 と、ニトロが言うと、撫子ははたと思い出したように己のA.I.に助け舟を出したマスターを見つめ、口元に片手を当ててくすりと笑った。ニトロは胸中に整理のつかない感情を覚えながら、しかしこの状況でマスターまで狼狽うろたえてはいけないと、努めて穏やかに、かつ自然に、
「俺も驚いている。理由はあるんでしょ?」
 ニトロにそう問い直された撫子は笑みを消し、真摯な顔で一度うなずいた。それからちょっと困ったように眉目を垂れて首を傾げると、
「ミリュウ様トノ事件ノ折、メルトン様ヲ叩イチャイマシタカラ」
「ソウナノサ!」
 と、叫んだのはメルトンである。ちょっとだけ撫子の後ろから出てきて、撫子のセリフに対して“それが何の理由になるの?”と疑問符を浮かべていたニトロへと叫ぶ。
「俺ハ家ヲ守ロウトシテイタダケナンダヨ!? ソレナノニ撫子オカミサン、何モ悪イコトシテナイ俺ノコトヲ非情ニモ引ッ叩イタンダヨ!? 非道イダロ! 俺、マジデ死ニカケタンダカラ!」
 ああ、そんなこともあったっけなぁ……と、ニトロはぼんやりその頃のいきさつを思い出していた。そして、撫子と同じように眉目を垂れて首を傾げ、
「いやでも、それはお前が迷惑かけたからだろ?」
「俺ハ本ッ当ニ家ヲ守ロウトシテタダケナンダ! ソリャニトロノ許可ヲ得テイルトハ言ワレタケド『証明』ガナイ限リハ見過ゴセネェモン。芍薬ナラ渋々認メテモ、他人ノA.I.ガ家ノシステム勝手ニイジルノヲ認メチャナラネェモン。邪魔シタトモサ、アア、トコトンヘバリツイテ作業ノ邪魔ヲシテヤッタトモ! ソレデモ無理矢理作業ヲシヤガルカラ、ダカラソレニツイテモタッッップリ抗議シテヤッタンダ!」
 その光景が目に浮かぶようである。
「ネ、ニトロ、俺、偉イデショ!?」
 誉めて誉めてとばかりに目を輝かせているメルトンを見るニトロは、言葉に窮していた。確かにメルトンの言い分には道理がある。メルトンの行為は間違ってはいない。しかし実家のシステムに手を加えようとした撫子に非があるかといえば、無論全くない。というか正直撫子に同情を禁じえない。確かにメルトンを誉めてもいい案件ではあろうが、撫子の心境を慮ればそうはいかない。だのにメルトンには道理があるのだ!……この気持ち、どう言葉にしたものか……ッ。
 そこに撫子が頬に手を当てて、
「説得シタノデスケドネ。貴方ノマスターガ危険ニ巻キ込マレテイルカラ、ト」
 撫子は当時を思い出したように苦い顔をして言う。
「デスガ、聞イテ下サイマセンデ」
「ダカラッテ『証明』ハ必要ナノ! ソリャ俺ダッテニトロガ大変ナ目ニ合ッテルコトハ知ッテタヨ? ダッテ大笑イシタモノサ! テイウカ事件ノニュースヲ集メテ回ッテ抱腹絶倒シテイタトコロダッタモノサ!」
 ニトロは言葉を見つけた。
「撫子、君の行為は実に正しかった」
「ニトロ!?」
 メルトンが悲鳴とも怒声ともつかぬ抗議の声を上げるが、ニトロは無視し、ひとまず“余裕”もできたことだ。手元の携帯から多目的掃除機マルチクリーナー命令コマンドを送りながら、
「それで、あんまり邪魔で鬱陶しかったから――つい、だったっけ?」
「ハイ」
「ダカラ俺ハ純然タル被害者ナノ! 誰ヨリモ哀レナ、ソシテ最後マデ家ヲ守ロウトシタ忠実ニシテ勇敢ナルオリジナルA.I.ナノ! 少シハ見直セ!」
 モニターの中でメルトンが両手を振り上げ怒鳴っている下を多目的掃除機が走ってくる。ガラスの破片が回収され、テーブルと床にこぼれた水が拭き取られていくのを傍目にニトロは一つ息をつき、
「……で、実際、撫子もそれは認めたと」
「ハイ。メルトン様ノ仰ルコトハ正シイ。コノ件、非ハ私ニアリマス。ソレニ……アレハアマリニ恥ズカシイ行為デシタ」
「恥ずかしい?」
「イクラ鬱陶シク、イクラ面倒臭イカラトイッテ、タダ感情ニ任セテ叩イテシマッタコトハ私ニトッテ恥ニ他ナリマセン。コノヨウナコトデ他者ヲ傷ツケタコトハ初メテノコト。シカモ相手ハ曲ガリナリニモハラキリト懇意ニシテクダサッテイル御方ノA.I.――コレデハ不義理ニモ過ギ、助力申シ上ゲル任務中ノ事案ト考エレバ重過失ニモナリマショウ。ソレハハラキリニ泥ヲ塗ル行為。穴ガアッタラ入リタイトハコノコトデシタ」
「アノ、撫子オカミサン?」
「何デスカ、メルトン様」
「今サリ気ニ“毒”入レテナカッタ?」
「イイエ」
「ホント?」
「ハイ」
「ナライイヤ」
「ソノヨウナ経緯イキサツデ、一度ダケ、ドノヨウナコトデモオ手伝イシマショウトオ約束シタ次第デス」
「ナルホドネ……」
 これまで沈黙していた芍薬が、つぶやくように言った。
 それに応じたのは、メルトンである。メルトンはここが見せ場とばかりに顔を紅潮させ、
「ソーイウワーケデ! コレハ俺ノ正当ナ権利! 撫子オカミサンハ今コノ時ダケハ正当ナ俺ノ『武器』ナノサ! オット、二対一ニナッタカラッテ卑怯トハ言ウナヨ? 全テハオ前ヲコノ状況ニ引キズリ込ミ、勝利ヲ得ルタメノ兵法ナリ!」
 言い切ったメルトンの全身から満足感が溢れ出している。芍薬はメルトンのその満足感の出所に思い当たり――なるほど『逆襲』に他ならない――自嘲気味に小さく笑んだ。
「アア、確カニネ、立派ナ兵法ダ。反省スルヨ、あたしハ……」
 そこで芍薬は一度言葉を切った。『兵法』――昔、メルトンに言ったことのある言葉。いくら“おかしい”からと言っても“メルトンらしい”今回の騒ぎ……そう、メルトンは、己が“ニトロと芍薬にどのように見られているか”ということすら利用して、所々で怯えを隠し切れずにいながらもこの状況を作り上げてみせたのだ。認めねばならない、メルトンも学び成長していた……芍薬は針を飲む思いで、言った。
「あたしハアンタノ策ニ見事ニハマッチマッタ」
 そして、ちらりと、芍薬はニトロを一瞥する。
 ニトロはその目つきに、先ほどまで芍薬を支配していた狼狽が既に一欠片もないことを察した。それどころか芍薬の表情にはマスターへの小さな詫びがある。一度マスターが止めてくれようとしたのに、自らこの状況に陥ってしまったことへの恥と共に。
 ――そう、恥だ。
 しかし、すぐに『敵』へと振り返った芍薬の顔からは詫びも恥も消えていた。目の前にいる相手は詫びと恥を抱えたままで戦える相手ではないのだ。そうして気持ちを切り替えた芍薬は、どこか不思議と清々しい面持ちで撫子を見つめた。吐息をつき、芍薬は言う。
「デモ、安心シタヨ」
 芍薬を見つめる撫子は、微笑みを絶やさない。
「メルトンニイイヨウニ使ワレルノハ、撫子オカシラガ誇リヲ捨テタカラジャナク、ムシロ誇リノタメダッタンダネ」
「エエ」
 撫子が、『娘』に隠し立てをすることもないとばかりに言う。
「己ノ恥ヲ己カラソソグタメ。格好ツケレバ、自ラ科シタ罰トデモ言イマショウカ?」
「正直『苦行』ダロ?」
 メルトン由来の“恥”を抱いた者同士である。芍薬に言われ、撫子はくすりと笑って、
「ソウ言ッテモイイデショウ」
「ン? 俺様ヒドイコト言ワレテネ?」
 メルトンがぼやくが、芍薬は取り合わず、撫子も受け流す。
 それに対してメルトンは少々面白くなさそうな顔をしたが、ふと、芍薬と撫子の間に強烈な緊張感が芽生えていることに勘付き、流石に口をつぐんだ。
「ケレド、貴重ナ機会デモアリマス」
 撫子が体の前で揃えていた手を、その両腕を、大きく横に開いた。
 すると、芍薬と撫子の間に再びカウントが表示された。
 ――90――
 それを見た芍薬が、瞬間、眉目を吊り上げる。
 そのカウントダウンは、この『決闘場』の構成・維持を担当するコンピューターから発せられていた。
 メルトンとの『決闘』は、A.I.としての純粋な実力勝負とするため、ハード面は全くの互角にしてある。最も力のあるメインコンピューターはこの仮想世界を構築している『A.I.バトル:システムソフトウェア』の運用に回し、芍薬とメルトンは12基あるサブコンピューターを半々に分け合っている形だ。メモリやHDD等の使用できる領域、CPUの処理速度、各種転送速度、全て等しくセッティングしてある。ただ、芍薬とメルトンの間には一つだけ大きな差があった。メインコンピューターへのアクセス権の有無である。芍薬は、家のコンピューターを守る意味からも、メインを相手の自由にさせることだけは避けていた。しかし今、現にメインコンピューターは芍薬の手の離れたところでカウントダウンを始めてしまった。もちろん芍薬はそんな命令を出してはいない。――ならば? それは撫子の手によるものに決まっている。メルトン側にアクセス権は与えていないものの回路自体はメインにつながっている。クラッキングは、可能だ。
「既ニ『勝負』ハ始マッテイルハズ。油断ガ過ギルノデハアリマセンカ?」
 何もしていないように見せかけて……実際、全くこちらに気づかせずにシステムの一部を乗っ取ってきた撫子の言葉に、芍薬はクナイを消し、カタナを現すことで応えた。
「イクラ撫子オカシラデモ手加減ハシナイヨ」
 芍薬は己の言葉が強がりだと自覚していた。直前に力量差を見せつけられたのだ! これが強がりではなく何であろう? それを見透かす撫子は、まるで何かに区切りをつけるように小柄な肖像シェイプが大きく見えるほど凛として言う。
「貴女ニ『苦行』ヲ科スノハ本意デハナイノデスガ、貴女ガ撒イタ種デス。後程、ヨクヨク反省ナサイ」
 ぐっと芍薬が息を詰めたように唇を結ぶ。そして、
「アア、反省スルサ。ケレド、何ダイ? モウ勝敗ガ決シタヨウナコトヲ言ウジャナイカ」
「間違イデモ? 貴女ハ私ニ勝テタコトアリマセン」
 それは、明らかに挑発であった。しかし芍薬はもう二の轍は踏まない。
「勝ツサ。……今日コソ」
 冷静に、言う。決意だけを込めて言う。
「最長記録ハ1分01秒5523。今回ハ、ドレホド頑張レマスカ?」
「勝ツ。
 ソウ言ッテルダロウ?」
 芍薬の意志を受け止め、撫子はうなずいた。その口元は、心なしか嬉しそうにも見えた。
 そのやり取りを横から観ていたニトロは、はたと思い当たり、急いでヘッドマウントディスプレイをクローゼットのクリアボックスから取り出してきた。この戦いを平面的なモニターで見るわけにはいかない。少しでも同じ世界で見届けたい。ヘッドマウントディスプレイを起動する。家には『訓練用』に意心没入式マインドスライドが――深度は浅いものの――できるシステムはあるが、残念ながらそれをするとA.I.達の戦いに支障が出るほどパワーを食ってしまう。意心没入式マインドスライドほどリアルではないことを惜しみながら、ニトロは、それでも電脳世界へ入り込んでいった。彼の全視界が真っ白な空間に占められる。視線の先にはこれから戦おうという『母娘』がいる。
「メルトン様ハオ退ガリヲ」
 突然、撫子にそう言われて、メルトンが目を丸くしていた。
「エ? 二人デボコシタ方ガ楽ジャナイ? 援護スルヨ? 俺モシ返シシタイモノ」
 撫子は、微笑み、
「ヒーローハ遅レテヤッテキテ美味シイトコロヲ頂クモノデス」
 メルトンは撫子のセリフに丸くしていた目を輝かせた。『英雄ヒーロー』に例えられただけでもご機嫌なのに、メルトンはとりわけ『美味しいところ』というのが気に入ったらしい。ことさら鷹揚にうなずいて、
「分カッタ。ソレジャアオ膳立テヲヨロシクネ!」
「ハイ。オ任セクダサイ」
 撫子に簡単におだてられたメルトンは、わざとらしく偉そうに胸を張って場から離れようと足を踏み出す。
 撫子はメルトンを見送るのもそこそこに『50』を切ったカウントを一瞥し、芍薬へ向き直ると何かを語りかけるように小首を傾げて見せる。
 ――と、芍薬の横に、小さなシャクヤク人形が四体現れた。ミリュウの“信徒”との戦いでも使っていた『クノゥイチニンポー 戦雛』のヴァーチャル……いや、実際版か。人形達は二体ずつ、芍薬の横に並んで構えを取る。
 すると撫子の周囲には無数の花が現れた。戦闘態勢を整える芍薬に応じて現されたそれは、まさに百花繚乱であった。古今東西の名花が色とりどりに、時に一輪のまま、時に舞い散る花びらとなって幻想的な景色を作り上げていく。
「ア、綺麗」
 と、撫子から離れつつあったメルトンが、つい興味を引かれたらしく近くにあった薔薇に指を触れた。――瞬間、薔薇から放たれた強烈な電撃がメルトンに襲いかかる!
「ホギャギャギャギャ!?」
 まさかの“味方殺し”である!
 よくあるアニメーション表現のごとく体に電気を走らせたメルトンが、これまたよくあるアニメーションのごとく真っ黒焦げとなって倒れ伏す。体の所々が立体画素ボクセル崩れを起こして痙攣するようにノイズを走らせている。白目を剥いたメルトンの、だらしなく開かれた口から煙がひょろひょろと昇っていく。
「……」
 それを、撫子がひどく焦った顔で見下ろしていた。どうやらこの事態は全くの想定外であったらしい。撫子はメルトンに駆け寄り、眉をひそめてじっとメルトンを見つめ、それからカウントを見る。カウントは43、つつがなく42と下っていく。撫子は先ほどシステムに干渉した際に、現在のフィールドの敗北条件が『死んだ場合』または『瀕死、あるいは敵の攻撃により行動不能状態に陥った場合』であることを知っていた。とすると、メルトンは辛くも『A.I.バトルシステム』が敗北と判定するまでには至っていないらしい。やがて、メルトンの手が目に見えない命綱を掴もうとするかのようにゆらゆらと力なく空を掻く。――やはり、死んでいない。それから一応行動も可能だ。“敵の攻撃により”という条件が合わなかったために見逃されたのかもしれないが、否、それだけ『死線ギリギリの』判定基準を芍薬は設定していたのだろう。もし、その基準が緩ければ、この時点で芍薬の勝ちとなっていたはずだ。それに関しては、メルトン側は芍薬の厳しい設定に救われた形とも言えよう。
 撫子は倒れているメルトンが芍薬に対して自分の影に入るよう立ち位置を変えながら、長い両袖を一振りした。すると両袖から白装束を着た小さなイチマツ人形がそれぞれ一体ずつ飛び出してきた。二体のイチマツはすぐさまメルトンに駆け寄ると、懐から(治療プログラムだろう)包帯を取り出し、それをせっせとメルトンに巻き始める。
「ウー……ゥ」
 メルトンが――芍薬に攻撃されているとでも勘違いしているのか――か細く唸りながら、しかし声のか細さとは逆にやけに力強く手を振ってイチマツを追い払おうとしている。まともに言葉を紡げず、正常な判断もできていないところから考えれば、半ば“失神”しているのか……あるいは意識を保ちながらも己の現状のためにパニックに陥っているのか。……どちらにしろこの状態では軽く一撃でももらえばアウトだろうし、本物の芍薬の攻撃を防ぐことなど全く不可能だろう。
 ――このままメルトンが抵抗し続けてカウントダウンが終われば、開始と同時に芍薬に大勝機が生まれる。
 ニトロがそう思っていると、メルトンの手に包帯を巻こうとして――やはり敵と勘違いされてその手に振り払われるイチマツの片方が、何やら業を煮やしたように懐から注射器を取り出した。そして、それを乱暴にメルトンの首に突き刺す。
「ォウン!」
 メルトンが悲鳴とも呻きともつかぬ声を上げる。メルトンの手がぴくぴくと震える。首に止まった蚊を叩き落とそうとしてできないでいるかのようにもどかしく、ぴくぴくと。それを眺めては何やら首を傾げていたイチマツが、もう一本メルトンの首に注射器をぶっ刺した。瞬間、メルトンの手から力が失われ、ことんと地に落ちる。強力な麻酔……か何かだろうか。それも二本。メルトンはもはや身じろぎ一つしない。完全に沈黙している。味方による“治療のための昏倒”ならば敗北条件を満たさないのも道理ではあるし、チーム戦では良く見る光景ではあるものの、とはいえ過剰投与を恐れず思い切ったことをするものだ。ひとまず患者を大人しくさせたイチマツは、相棒のもう一体とハイタッチをしてから再び治療に取りかかる。
 その様子を見ていた撫子は片頬に片手を当て、
「叩イテシマッタ時ニモ思イマシタガ、変ニ打タレ強イ方デスネ」
 困惑と驚きのどちらを示せばいいのか判らないような顔をしている撫子の他方、一連の顛末を見つめていたニトロは、己の『弟』の道化っぷりにただただ苦笑するしかなかった。
 ――だが、その中で、芍薬だけは表情を変えないでいた。メルトンの滑稽な結果にも、もしや勝利が転がり込もうという瞬間にも顔を変えず、ひたすら撫子を見据えていた。
 包帯でぐるぐる巻きにされたメルトンをタンカに載せた二体のイチマツが、芍薬と撫子から遠く遠く離れた場所へと運んでいく。
 カウントを――13――確認し、撫子が言う。
「ケレド、コノ結果ハ貴女ニトッテハ不幸デスネ」
 確かに。と、ニトロは思う。
 メルトンと撫子、二人のA.I.がいるということはそれだけハードに負担をかけるということだ。割り当てられた計算機を一人で最大限使える芍薬と、二人で分け合わなければならない撫子とメルトン。そのハンデは大きい。いや、大きかった。この戦いは、あくまで芍薬とメルトンの戦いである以上、そのどちらかを倒せば勝者となる。撫子がメルトンに足を引っ張られている隙に芍薬がメルトンを破壊するという勝機も、メルトンがこうして遠くへ運ばれてしまう前には確かに存在していたのだ。いくら撫子がその危険を避けるためにメルトンを遠ざけようとしていて、一面ではそれに成功していたとしても、メルトンのことだ。元気一杯であれば急に調子づいて思わぬところで乱入してきた可能性は実に高い。そうして、つい今しがた撫子の意表をついて見せたように、また別の形で撫子の意表をついて自ら自分達の足をすくっていたかもしれない。――それを考慮すれば、数的不利を被っても、芍薬にとっては二対一の方がずっと良かっただろう。しかも、メルトンが眠らされているこの状況は、撫子が割り当てられたコンピューターを思うまま独占できるようになったことを意味しているのだから!
 しかし、芍薬は首を振った。9まで減ったカウントを一瞥し、
「変ワラナイサ。イザトモナレバ協力シテモラエバイイダケダッタ、ダロウ?」
 それはつまり、メルトンが勝手に撫子の攻性プログラムに触れて自爆したことは『結果オーライ』。もし、そうなっていなかったなら、撫子は能動的に同じことを行えばいい……ということか。
 撫子は口元に手を当て上品に笑い、
「ソレモソウデスネ」
 と、常に敬語を使っているが、しかし芍薬に対してはどこか気安く“他人”に対するものとは違う口調で撫子は言う。
 6、5、4、とカウントが進む。
 芍薬の顔がより引き締まる。
 撫子が口元に当てていた手を下す。
 メルトンの不在によりこの場の緊張感が増していた。
 戦うと決めたからには……そう、『戦う』のだ。この『母娘』は。
 この“プロフェッショナル”達は、メルトンのような“素人”では出せない冷たい空気を電脳世界にも作り出すのだ。
 ニトロは固唾を呑んだ。
 カウントは3となり――
 無数の花に囲まれた撫子は少しだけ目を鋭くし、帯の下で両手を合わせて泰然自若と佇む。
 ――2
 芍薬は逆手にカタナを構え、四体の芍薬人形を、左右に二体ずつ等間隔に展開させながら、己は重心をぐっと前に傾ける。
 ――1――
「「勝負!」」

 先手を取ったのは芍薬だった。“勝負”の掛け声と共に、芍薬を中心に左右に展開していた四体の芍薬人形が一斉にシュリケンを乱れ撃った。標的は撫子の周囲。まさに花吹雪のごとく、芍薬へ向けて襲いかからんとする“百花”である。
 その花は、9割がただの“デコイ”だ。触れても電撃を発しはしない。しかし付与されている属性が厄介で、それは撫子が『花の蜜』と呼ぶ効果を発揮する。その花びら一枚にでも貼りつかれれば、次に撫子が放ってくるであろう大量の蜂に襲われることになるのだ。その蜂自体は脆く、攻撃力もさほどない。とはいえ情報量が軽いためにコンピューターへの負担も軽く空を覆う雲霞のごとく数を放てて、それ故に一度群の中に巻き込まれると抜け出せず、適切に反撃できなければ、まるで自己を形成する構成プログラムを一文字ずつ削られていくように“衰弱死”させられることになる。また、蜂を群ごと消し去れるような広範囲に及ぶ『技』を持っていたとしても、蜂は『蜜』を目指しながら撫子が寝ていても自動追尾してくる。乱数も混ぜられた行動パターンに従う蜂の一匹一匹を捉えることはなかなかに難しく、それに手間取れば、次の瞬間には蜂に注意を奪われている隙に接近してきた撫子に一撃をもらって昏倒することとなろう。
 そして花の残りの1割は、電撃、爆発、氷結、毒ガスなど、様々な効果を発揮する『爆弾』だ。一見したところでは前者の9割と同じ物。されど何かに触れれば即座に正体を現し作動する。威力はメルトンが身を以って証明した通りで、これに『蜂』まで併せられれば最悪以外の何物でもない。
 ――撫子は『戦い』の初めには必ずこの花を散らす。
 既知の相手に対しては、肩慣らしのためのルーチンワークとして。
 未知の相手に対しては、無数の花に対し相手がどう対処するか――それを見て相手の力量を測るため。花に構わず突っ込んでくるか否か、その場合は蜂へどう対処するか。それとも慎重に花の特性を分析するか、分析するとしたら結論までにどれほどの時間を要するか、また分析しきるか否か。爆発に耐えられるか否か。それとも爆発をさせずに潰してくるか、否か。そうやって相手の性格・性質・使用プログラムの種類等の情報を得て適切に対応するのだ。無論集団戦の場合は、その貴重な敵の情報を味方と随時共有して活かしていく。芍薬も『三人官女サポートA.I.』の一人として、そうやって撫子と情報を共有しながら何度も一緒に戦ってきた。
 それにしても『敵に回せば厄介』とはこのことだ。
 この百花繚乱の花吹雪……理屈も内容も単純な技ではあるが、初見で対処するには難しい技だと芍薬は思う。しかし、理屈も内容も良く知っていても厄介なこの技に対して芍薬が選んだ対処法も、至極単純であった。
 迎撃し、撃墜する。
 全て。
 無数にある花の全てを!
 芍薬人形は目にも止まらぬ疾さでシュリケンを投げ、同時に生成し、投げ続けている。二体に一つ割り当てているサブコンピューターは早くも処理限界の寸前である。が、芍薬はそれでも人形達に投げ続けさせた。
 そして人形に迎撃を任せている間、芍薬は撫子の動きを注視しながら次の手のためのプログラムを編み、時折シュリケンの弾幕を抜けて飛来してくる花を切り落としながらじっと機を窺っていた。
 所々で“爆発”が起こっている。
 黒煙を吐く火炎球。
 周囲の花も諸共粉々に砕く冷気。
 放電に咲く恐ろしくも美しい火花。
 その中を、次第に薄くなっていく花吹雪を纏いながら、一歩一歩、撫子が楚々として歩んでくる。裾を乱さず、長い袖を揺らすことなく、微笑みを湛えたまま。一歩、また一歩――と、その時、遠くで激しい爆音がした。
 爆発は、遠く遠く、避難させられているメルトンの側で起こっていた。炸裂する炎が空に無数の花を咲かせている。花が開いた後、一瞬の間を置いて爆音が主戦場へと届いてくる。その百を数えそうな爆音の連鎖は最早一つの轟音となって響いている。芍薬人形のシュリケンの嵐と恐ろしい牙を潜ませた花吹雪の間を縫って、いつの間にか、芍薬本人が爆弾つきのクナイを大量に遠擲えんてきしていたのだ。それを二体のイチマツ達が撃墜した。あのイチマツはただの回復専門というわけでなく、芍薬の人形達と同様、A.I.本人の攻撃を精密に射撃して落とせるほどに優秀なボディーガードでもあったのである。
 そして、その爆発は、この状況下でも『勝利』を得るために最善を尽くそうという芍薬の意思を表してもいた。
 イチマツ達が厄介なボディーガードであると証明したからには――また、撫子を無視して倒しにかかるにはリスクが高過ぎると判明したからには――やはり眼前の最大の障壁を排除することこそ最善であろう。が、それがまだ判明していない間は、やはりメルトンへの攻撃を試みるのが最善であったのである。
 それを理解している撫子は、芍薬を慈しむような目で眺め、微笑み、また一歩進んだ。花吹雪に対応して見せる芍薬の動向から先を考慮し、念のため、今のように隙をついて『マスター』を狩られないよう全身武装したイチマツを一体現し、急ぎメルトンの元へと向かわせる。と、その瞬間すきを狙っていたかのように、
「クノゥイチニンポー!」
 芍薬が叫ぶや、四体の芍薬人形が無数のシャクヤクの花びらへと変じながら撫子へと突撃した。
「まあ」
 予想外だったか、撫子がつぶやく。
 無数のシャクヤクの花びらは、撫子に向かいながら一枚一枚が巨大化していく。花吹雪ごと撫子を包み込むように!
 ――これに包まれるのは面白くなさそうだ。
 撫子はギリギリまで待って、上に跳ぼうとし
「ドトン!」
 がくん、と、撫子の体が揺れる。驚き、撫子は足元を見た。『得意技クノゥイチニンポー』の二段重ね、空中の花からではなく地中からの攻撃――それをより効果的にするための“叫ぶこと”でのフェイント!――
「ヂゴクハンミョウ!」
 撫子の足元には二体の小さな人形がいた。芍薬の合図に応じて、白い地面に穴を穿って突如飛び出してきた『オヒナサマ』と『オダイリサマ』――姿を潜めていた二体の戦雛の下半身はおどろおどろしくも虫のようになっていて、人形の腕はそれぞれ撫子の足首を砕かんばかりに抱え込み、また虫状の六本の足は撫子を地中へと引きずり込もうとしている。その凄まじい力に、撫子はその場に繋ぎ止められて動けない。
花トン!」
 さらに芍薬が叫ぶ! 瞬間、無数の巨大なシャクヤクの花びらが撫子へ向けて花吹雪を巻き込みながら集い、一輪の花となり、
「逆巻きの蕾!」
 すると一輪のシャクヤクの花が一気に蕾へと戻るように収縮し、花吹雪ごと撫子を巻き潰していく! 残っていた“爆弾”が花の包みの中で炸裂していた。その爆弾は味方メルトンも昏倒させたように無差別に攻撃する。創造主の撫子とて例外ではない。圧殺されながら、無数の爆発にも巻き込まれる撫子はひとたまりもないだろう!
 ――だが、芍薬はこんなことで撫子が倒れるわけがないと次の手に出た。唇を尖らせ、ふうと息を吹く。クノゥイチニンポー キリガァクレ……芍薬の唇の先から霧が広がって、周囲の『視覚情報しかい』を利かなくする。と、同時に――
「ッ!」
 芍薬は背後に振り返るや、センサーの役目を兼ねる霧を揺らがせ突進してきた撫子の、その上段から斜めに振り下ろされた長刀をカタナで受け止めた。
 重い。
 万全の体勢で受けたのに、芍薬の演算たいせいが崩れそうになる。
 二撃目はない。
 芍薬の眼前にあった長刀の刃はすっと霧の中に消えていく。
 と、
「ふっ」
 一つ、息を吹くような音が聞こえた。
 すると、芍薬の展開した霧が他者によって強制的に排除され、周囲は再び透き通った白い地平となる。
「驚きました」
 全くの無傷の撫子が、少し先にいた。
 一振りの長刀を両手で持ち、互いの刃が届かぬ距離を取り、芍薬を正面から見つめて佇む撫子に微笑みはない。が、その頬には代わりに感嘆の笑みがあった。その片足には、力任せに引き千切られた人形の腕が巻きついていた。
「ヂゴクハンミョウに逆巻きの蕾――初めて見る技ですね」
「そりゃあ色々学んでるからね」
 驚いたと言いつつ涼しい顔をしている撫子へ苦々しく言いながら、芍薬は逆手に握るカタナを鎖鎌へと変化させた。長刀とカタナでは分が悪い。過去の模擬戦で長刀相手に最も有効だったのは、近接武器として鎌を、遠距離攻撃用として長刀よりもリーチを取れ、かつ相手(あるいは武器)に絡みつかせられる鎖分銅を併用できるこの武器だった。が、
「そこで過去に頼ってどうします」
 撫子が長刀を振りかぶったかと思うと、互いに離れたその場所でひゅっと振るう。
「!」
 芍薬は慌てて後退した。
 撫子が振るった長刀は、その穂先が霞んでいた。
 そして、芍薬の感じた危険の通り、霞んだ先の分厚い刃が、直前まで芍薬の頭部があったくうを恐ろしい音を立てて斬っていく。
 それは、芍薬の知らない撫子の技であった。
 戦慄に言葉を失い瞠目する芍薬へ、楽しげに撫子は言う。
やられたらやりかえしませんと」
 撫子が、長刀を今度は横薙ぎにする。その穂先は再び霞み――その時!
「タタリ!」
 芍薬が撫子の刃を鎌で受け止めるが同時に術を発動させた。刹那、撫子の足に絡みついていた戦雛の腕が変形へんぎょうする。戦雛の怨念こもる腕は蛇となり、蛇となるや大蛇となり撫子の胴に巻きつき締め上げる!
 ――しかし、
「強度不足」
 長刀を消すや両手でぐっと大蛇を掴んだ撫子が、逆に大蛇を締め潰す。撫子は面前の芍薬へ向けて、
「後で改良しましょうね」
「言ってる場合かい!?」
 撫子の背後で、芍薬が言った。その時には既に、芍薬の鎌の刃は撫子の首にかかっていた。
「あら」
 撫子は小さく笑った。撫子の前方には、確かに芍薬がいる。否、いた。直前に長刀を鎌で受け止めていたはずの芍薬の姿が、やおら薄れていく。それは『分身』と『変わり身』の術の併用であった。
「――以前よりずっとうまくなりましたね」
 芍薬は……戦慄していた。鎌は撫子の薄皮を切っている。だが、それ以上、切ることができない。芍薬は撫子の首を刈るため躊躇なく鎌を引いていた――だが、それ以上は微動だにしない!
「けれど、まだまだ切れ味不足」
 撫子のたおやかな首は、表皮だけで芍薬の鎌を受け止めていた
「これも後で改良しましょう」
 頬を引きつらせる芍薬へ、撫子が振り返る。
 撫子は、右手を大きく振りかぶっていた。
 それは『三人官女むすめたち』が何よりも恐れる撫子の得意技――メルトンはもとより、防御に優れた王家のA.I.オングストロームですら一発で行動不能に追いやられた恐怖の平手打ビンタ
「ッ!」
 芍薬の記憶メモリが総毛立つ。
 いくつかの悪夢がフラッシュバックして身が縮まりそうになる。
 その体験は、あるいは幼心に植えつけられた根源的な恐怖の再生。厳密には年齢の概念がないA.I.にも、人間と同じようにそれがあることを芍薬は知る。知って……と、そこへ、
「1分02秒は超えましたね」
 撫子の、声。
 それこそ生まれた時から聞いている『母』の、それは子を誉める時の声
 ――その時、芍薬の思考ルーチンの中で、何かが弾けた。
 さっきから……ッ
「ふざけるな!」
 芍薬は叫んだ。
 硬直しかかっていた“自己”を動かし、頭部を左腕でかばう。
 撫子の平手は芍薬の左腕にそのまま命中した。
「ぐぅ……ッ」
 芍薬の腕が折れる――“腕”を構成する箇所が“圧迫骨折”する。
 それと同時に芍薬は、漆黒のシノビショーゾクの左袖、及びその内側の帷子を『発動』させる!
「!?」
 撫子が――初めて――驚愕に目を見開いた。“刹那”よりも短い“虚空”の間に漆黒の袖と帷子が溶鉄と化して撫子の手を包み込む。そして次の瞬間には撫子の右手がけ消
「!――くそ!」
 芍薬は怒りのままに毒づいた。芍薬の目の前からは撫子が消えている。その動きを芍薬の『目』は追うことができなかった。
「危なかった」
 左方から撫子の声がした。芍薬は即座にそちらへ体を向けた。と、左腕の損傷が邪魔になって“全身のバランス”が崩れていることに気づく。――“れた”左腕も修復するまで用を成さない。このままでは単に壊れたプログラムを身中に抱え込んでしまうだけ。ならば邪魔だと芍薬は左腕の構成箇所を一時切断した。外見上にも隻腕となり、そうして“全身のバランス”を再調整しながら、眼前に立つ、立体画素ボクセル崩れを起こして右手の形の定まらぬ撫子を睨みつける。
「もう少しで持っていかれるところでした」
 撫子のその言葉は決してハッタリではない。その右手の形は形を定めぬままでいるが、とはいえ完全に崩されたのは表面的なプログラムのみ。『自己』の姿シェイプを保たせられていない――というその状態自体はオリジナルA.I.にとって(人間が裸を見られることに例えられるように)恥ずかしいことではあるが、それでも動作自体に支障の出るものではない。“骨格”にまで損傷を受けた芍薬と違って、撫子の能力なら2分もあれば元通りにできるだろう。
 しかし、撫子にそこまでの“傷”をつけたのは芍薬にとって初めてであった。
 そして、だからこそ芍薬は口の端を険に歪めた。
他人の技で、ってのが気に食わないけどね……」
 撫子は崩れた右手を黒い手袋で覆い隠しながら、
「何を言います。自分のモノにし切っていたでしょう? それは立派に「ッもっと気に食わないのは!」
 撫子の言葉を遮り、眉目を吊り上げ芍薬は怒鳴った。
「アタシは『ニトロ・ポルカトの戦乙女』だ!
 撫子なでしこ
 アタシはもうあんたの『三人官女サポートA.I.』じゃあない! 今は、敵だ!」
 そのあまりの剣幕に、そして芍薬に己の名を呼び捨てられたことに、撫子が面食らったように唇を引き結ぶ。
「それなのにその舐め切った戦い方は何だ!」
 激昂のためにわなわなと震え、芍薬は喉が裂けんばかりに声を張り上げる。
「この決闘には! アタシは主様のA.I.の座を懸けている! 短慮だった、ああ、認めるよ、そうしてこの事態を招いちまった、けれどこうなったからには、自分でああ言ったからには、真剣に命を懸けて、賭けている!――あんたは今は『メルトンの武器』だろう!? だったらメルトンマスターの意志を汲み全力で望みを叶えにかかるのがA.I.アタシらの『矜持』だろう! それをアタシに教えたのはあんたじゃないか! それなのに、そんな風に、アタシの“母親面”して、指導戦闘きょういくじみて……あんたはアタシを馬鹿にしているのか!」
 と、芍薬の体が、分裂した。
「!」
 撫子が目を見開く。
 その『分身』はまるきり芍薬そのものに見えた。“一目”では真偽の見分けが全くつかない。急ぎ分析しても容易には解らない。それは撫子も知る芍薬の秘蔵っ子であり――と、さらに、二人の芍薬の間にもう一人の芍薬が現れた。その分身は一人目ほどではないにしろ、それでも素晴らしく精巧であった。位置情報がめまぐるしく移り変わって真の芍薬が“限りなく真の偽”の中に紛れる。まさに三位一体、そうして『芍薬』は手に手にカタナを持ち、
「「「イザ!」」」
 声を揃え、『芍薬』が撫子へと襲いかかる。
 その技は、ハードへの負担は凄まじいはずだ。自滅もあり得ると撫子は判じた。無論芍薬もそれは解っているだろう。
 しかし、それでもなお芍薬は決行し、突撃してくる。
 怒りをぶちまけながらも、芍薬はそうでもしなければやはり勝てないと冷静に判断したのだ。
 そうして自滅も覚悟の上で、全力で、駆け込んできている。
「……」
 撫子は小さく頭を下げた。
「謝ります。芍薬、私は貴女の誇りを傷つけ、そして、またも私の誇りを傷つけていました」
 芍薬が一斉に、叫ぶ。
「「「カミナリグモ!」」」
 撫子の頭上に小さな蜘蛛が現れるや八本の稲妻を迸らせる。撫子は、電撃に撃たれた。そこに三人の芍薬が、己が身も雷に打たれるのも厭わずに飛び込んでくる。
 撫子には、ただでさえ判別のつきにくいのに、雷撃の影響で霞むその『目』ではどれが本物の芍薬か……判別はつかない。
「そして」
 だが、判別がつかないのならば全て屠れば良いとばかりに三人の芍薬を見据え、撫子は長刀を手の内に現し言った。
「芍薬、確かに私は、貴女を害する者です

 それからの芍薬と撫子の攻防を、ニトロは満足に追うことができなかった。
 人間のためのはずの『A.I.バトル』の仮想世界で、撫子と芍薬は、まるで格闘ゲームの早回しかのごとき光景を繰り広げたのである。その上映像は乱れに乱れ、見たこともないようなブロック状・砂嵐状のノイズや頻発するストップモーションのために視聴環境としては劣悪なものとなった。自宅のコンピューターに二人の本気の戦いを可視化するだけの処理能力がなかったのだ。そして、それ以上に二人の能力が常識的なA.I.の範疇から飛び抜けていたのである。
 もしこの戦いをちゃんと観たいのならば、もっと高性能なコンピューターにシステムを統括させねばならないだろう。仮想世界を構築する『A.I.バトル:システムソフトウェア』自体も、ニトロの家にあるものより上位版を使って、その上で映像には最大限の“ディレイ”をかけなければいけないだろう。――A.I.達の現在を観るのではなく、ほんの少し過去の映像を観るように。
 しかし、ニトロは最悪の視聴環境の中でも懸命に見続けた。
 何が起こっているのか解らない。視界の全てが滅茶苦茶で、それを網膜から受け取る脳まで滅茶苦茶になりそうで、目の裏側には3D酔いにも似た眩暈が生じる。時に芍薬の体が弾けたかと思うと当たり前のように芍薬は別の場所にいて、撫子は常に一度に数箇所に現れ続ける。それがスキルなのか、映像の崩れのためなのかも解らない。
 そんな中で、ニトロの口からは我知らずため息が漏れていた。
 こんな映像でも、はっきりと解ることがあった。
 ――撫子は……本当に、強い。
 以前、ハラキリは撫子についてこう言っていた。戦闘能力は芍薬より秀で、分析力は牡丹より優れ、プログラム作成能力も百合花ゆりのはなより速い……言わば『三人官女むすめたち』全員の上位互換だと。そう、確かに、そのように話には聞いていたが……実際に芍薬が子ども扱いされていたのを目の当たりにして、そしてこのような滅茶苦茶な映像の中にあっても燦然と燃える実力を見せつけられては、ニトロにはため息をつくしかなかった。しかも見たところ、本人の本質は意外にもパワーファイターだ。乱れる映像の中から垣間見えただけでも、芍薬を掴むや片手で振り回し、地に叩きつけ、先の大蛇もそうであったが芍薬の『ニンポーアニマル』や操り人形達を簡単に素手で潰して回る。芍薬達の上位互換で、純粋に、高火力。ひょっとしたらアデムメデスのオリジナルA.I.の中で最も強いのではないかとさえ思える。芍薬が誇りにして、芍薬が憧れだと瞳を輝かせて言っていたのも、痛切なまでに理解できる。
 ――だが、それでもニトロは芍薬の勝利を信じて見つめていた。
 芍薬が必死に食らいついている姿も、こんな映像でもはっきりと見て取れるのだ。
 芍薬も、本当に……強い。
 接近戦の折、撫子の顔面に頭突きを見舞うその形相は鬼にも似て――その姿は処理落ちのためにしばらく映り続けていた――その一撃がよほど強烈だったのか、初めて撫子の表情が苦悶に歪んでいた。
 しかし、それ以外は、芍薬が圧倒的に劣勢であった。
 けれど、それでも、芍薬には諦めるという思いが一度も表れないのだ。
 ある瞬間、破れた覆面の下から芍薬の泣きそうな顔が見えた。それは不思議と明瞭にニトロの目に飛び込んできた。しかしその芍薬の顔は本当に“泣きそう”であるのではなく、ただただ命を捨ててでも己の守るべきものを守ろうとする人間の形相が時にそう見えるように、芍薬の顔もそのように歪んでいたのだった。
 ニトロの歯は我知らず噛み締められ、その握られた拳の内は汗に濡れていた。
 ……勝敗が決したのは、決闘が始まって3分32秒1016後のことであった。
 人間のニトロにとっては短い時間であっても、信じられないくらい長い時を過ごしたように彼は思う。
 滅茶苦茶だった映像が一瞬にして整い、ニトロの視野に電脳世界の景色を見せる。
 ぱっと開けた真っ白な世界の中心に、片袖の千切れ、そして芍薬の頭突きのために傷を受けた左目を半ば閉じた撫子が、一人静かに佇んでいた。
 ――芍薬は、撫子の足元にいた。
 ぼろぼろになって、とどめに背に己のカタナを突き立てられて、撫子の星の散らばる裾を握り締めて芍薬は……地に、伏していた。

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