3−e へ

 大きな感動がロザ宮を揺らしていた。
 ニトロとティディアの繰り出した奇襲、その連携の美しさ。王女は天才の誉れに相応しい体操作を披露し、その天才に舞台上でパイルドライバーをかましたこともある『相方』は彼らしい豪快な技を披露し、何よりも、次代の君主夫婦様の実に息の合った共同作業!
 一騎打ちの末に老剣士フルセルが敗れた後、観客達は、正直、優勝はグラム・バードン公ではないのかと思い込んでいた。いかにティディア姫が天才剣士であるとしても、明らかに一人突出したこの達人に、その弟子である彼女が勝つのは難しいのではないのか、と。
 しかし、あるいは無敵にも思えるこの壁を、王女とその恋人は共に見事に乗り越えてみせたのである。
 退場するグラム・バードン公を拍手が迎えている。
 それと同じくして、試合場に残る二人にも惜しみない賞賛が送られている。
 ニトロ・ポルカトの名声は、またも高まっていた。既に討ち取った星の数は彼が首位で確定している。この余興を『余興』足らしめながらも要所要所ではその実力をいかんなく発揮した『英雄』。世間の一部では、あの『劣り姫の変』はニトロ・ポルカトを持ち上げるためのヤラセだったのではないか――そんな口さがない噂も流れていたものの、この場にいる人間はそれを断じて否定するだろう。ニトロ・ポルカトは、真に強い、と。
 そして、これから始まるのは、『運命の一戦』。
 結果的に王女ティディアとニトロ・ポルカトが残ったことも、“結果的”であるからこそ運命を感じさせる。
 否が応にも期待は高まっていた。
 しかし、期待感が『運命の一戦』に向けて昂ぶる一方、矛盾しているようではあるが、観客達は“一戦”に対する緊張感というものをどこにも持ち合わせていなかった。
 人数が二人となったこともあり、青いレーザーで仕切りを作る従僕アンドロイド達が試合場をやや狭めていく。それを機に、決勝戦がもっと見えやすくなるよう譲り合いながら列を整えていく観客達には歓談の笑顔すら戻っている。
 ここに至って皆が皆、安堵感を得ていたのである。
 ある種の予定調和。
 この『運命の一戦』においては、王女と英雄の一騎打ちへの期待とはまた別の期待感が観客達の心に入り込んでいて、そして、むしろその別の期待感こそが皆の心に勝っているのだ。観客達の目は、既に極めて近い未来に向けられている。皆が見ているのはもはや戦いの後。皆の心を掻き立てるのは、その時訪れるであろう『栄光なる運命』への大きな期待であった!
 思えばティディア姫は言っていた――「優勝者は決まっている」
 それに対してニトロ・ポルカトは言った――「それは、お前のことだろう?」――さらに彼は暴いた――「それはお前が最大の障壁として立つということだろう?」
 それら一連の言葉は、例え一方では確かな事実だとしても、もう一方ではとんでもない『賞品』を用意した王女が、その賞品のかかるとんでもない『余興』に我々を安心して参加させ、見物できるように計らった言葉でもある。
 そうして今、王女は宣言通りに最大の障壁としてニトロ・ポルカトの前に立っている。
 これからその挑戦を受けようと、彼を待っている。
 これから……これから、また素晴らしい戦いが見られるのだろうか?
 それは楽しみである。
 しかし――と、そう『しかし』と、既に“一戦”を飛び越え『運命』に心引かれている者は皆思う。
 しかし、そうは言っても、果たして全てが王女の言葉通りになるものだろうか。決勝戦がこの二人になった以上――『優勝者は決まっている』――それはやはりニトロ・ポルカトのことではないのだろうか。もしそうだとしたら? それについて文句を言う者はこの場にはいない。何故なら、ニトロ・ポルカトは、間違いなく実力でここまで辿り着いた。彼が決勝まで残ったことを『出来レース』だとは誰も露とも思わない。あえて言うならそれはやはり『運命』なのだ。優勝者は決まっている?――その通り! 王女よ、希代なる貴女様が決める前に神の手によって決められていたのです!――そしてニトロ・ポルカトは、おお、運命の定めた座を今改めて勝ち取ってみせた
 であれば。
 王女は既に満足しているのではないか? これ以上彼の望みを邪魔する意味があろうか? ないはずだ。姫君は愛を持って御前に現れた英雄を喜び迎えるはずだ。もう、ティディア様が障壁として立ちはだかる必要などどこにもない。幸せな結末しかないのだ。後は美しい姫君が恋人の愛を受け入れるだけではないか。
 であれば!
 きっと、姫様は恋人に勝利を譲られることだろう!
 そしてきっと、今日のこの良き日に、我々は歴史に名を残す『プロポーズ』の証人となるのだ――
 ……そのような期待のために、ほとんどの人間は試合場をもはや穏やかに見守り、胸をときめかせていたのである。

 大きさを調整されていく試合場――ざわめくロザ宮ホールの中央にぽかりと開いた空間で、ニトロは周囲の空気の変化を感じながら、その心中では寒いものを感じていた。
 彼は己の手の内、鞘に収めた剣へ目を落としている。
 グラム・バードン公の一撃を防ぐため、彼は剣を鞘に入れることを選択していた。フルセル氏と公爵の戦いを見ていて、そうしなければ自分の腕では力量では剣を折られる――そう思ってのことであったが。
(本当に、良かった)
 合成木材製の硬い鞘は半ば割れていた。しかも剣は微妙に歪んでしまっているようであり、さらに、どうやら金属製の剣身がちょっとばかり斬られている。その部分がササクレのようにめくれて内部で引っかかり、いくら引っ張っても剣を鞘から抜くことができない。
「……剣を換えるのは?」
 ニトロは壇上に向かって訊ねた。
 壇上にいるゲームマスター・パトネトが大きく丸を作る。彼は大好きな姉と『兄』の活躍に喜色満面である。純粋な喜びに支配された幼い心は自身の『他意』をまたも忘れさせていて、それ故にニトロは何の引っかかりもなく可愛らしい『弟』へ微笑む。ニトロが軽く手を振ると麗しき王子も手を振り返す。その様子に若い婦人達が黄色い声を上げていた。
「さて」
 ニトロはつぶやき――と、その時、こちらに一瞥もくれずに試合場中央に歩いていくティディアを視界に捉え、異様な感覚を味わった。
「?」
 共闘のために極めて短く打ち合わせた時のティディアは、いつもの憎らしいほど得意気で才気溢れる彼女であった。こちらが目で促しただけでハラキリの意図を察し、一言を言う間もなく話に乗ってきて、周りの参加者を一掃する間に作戦を立案し、要点だけを抜粋した箇条書きをそのまま口にするような簡潔極まる言葉だけでこちらに内容を十分伝えてくる。その時の様子には勝機を逃さんとする眼差しの他に特別おかしな点はなかった。
 だが、今、ニトロはティディアの横顔におよそ彼女らしからぬ『影』を見た。
 この余興の盛り上がり。
 その上――自分で言うのもなんだが、決戦として最高のシチュエーションとなったであろうに、ティディアの目には上機嫌というものが欠片も見えなかった。それどころか、自分の目は、あの反則じみた天才の顔に、これから何十年と続く苦役に直面した囚人が目の下に浮かべるような青褪めた黒を見たのである。
 振り返ってよく見ようとしてみると、試合場の真ん中に辿り着いたティディアは、こちらへずっと背を向けて佇んでいる。
 と、ふいに、ティディアが声援に応えて横を向いた。
 彼女の横顔には明るい笑顔があった。
 観客が振りかける応援に応える彼女にはどこにも『影』はない。やはり、上機嫌そのものである。
(見間違いか?……)
 距離があるため明確には判じ得ないが、いいや? 上機嫌な笑顔のわりに、目の動きに少し違和感がある気もするが……それもすぐにティディアが顔の向きを変えたために判断ができない。
「……」
 釈然としないまま、ニトロはある場所へ向かった。そこにはグラム・バードンに弾かれたハラキリの剣が落ちている。自分が誰かに剣を借りるとするならば、それは親友の剣をおいて他にない。
 剣を拾いに歩くニトロにも大きな声がかかっていた。応援、賞賛、激励。しかし、彼は非礼を承知で、それら全てに応えなかった。ティディアへの疑念もそうであるが、彼には現在、それらに関わっている余裕がなくなりつつあり、また、既になくなっていたのである。
 彼の、声援のどれにも応えず、それどころか明らかに声援を無視して黙々と歩く姿に、初めは誰もが戸惑っていた。中には反感を得た者もいただろうが、しかし、やがて誰かが気づき始めた。
 ニトロ・ポルカトの表情が、これまでにも増して雄々しく引き締まっている。
「……」
 ニトロは、一歩踏み出すごとに心を整え、集中力を研ぎ澄ませていっていた。
 ――運良く、ここまで生き残ることができた。
 ここからが正念場だ。
 これから始まるのは『運命の一戦』――まさに、自分の運命を決める一戦!
 だが、正直、まともにティディアと剣でやり合って勝てるとは思えない。ヴィタさんは言っていた。あいつが剣を持てば敵わないと。剣を持ってもヴィタさんに敵わない自分が、それなのにあいつに敵う論法がどこにあろうか?
(いや)
 論法など、そんなものはどうでもいい。
 ただ、ここでは、勝つのだ
 勝って堂々と宣言しよう。
『ニトロ・ポルカトはティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナを愛さない。今ここに、決別を望む!』
 それがどんな結果をもたらそうとも、勝って、望むべく未来を勝ち取るのだ!
 ――ニトロの表情を目にした観客達は、戸惑っていた。
 何故、この『王女の恋人』はこんなにも険しい顔をしているのだろう。
 何故、この希代の王女に愛された幸運な少年はこれまでのどの時よりも危険を感じているかのように張り詰めているのだろう。
 そのように戸惑いながら、観客達は、いつしか自分達の『運命の一戦』へ向ける“安堵”や“期待感”が崩れていくことを感じていた。
 ――きっと、姫様は恋人に勝利を譲られることだろう。
 それを、誰よりも『ニトロ・ポルカト』が信じていない?
 ――そしてきっと、今日のこの良き日に、我々は歴史に名を残す『プロポーズ』の証人となるのだ――
 ……本当に?
 にわかに緊張感が湧き上がる。それは人から人へと伝わっていく。ニトロの近くにいる観客から、ニトロの背を見るしかない位置にいる観客にまで。最後には、試合場を包み込む全ての観客にまで。
 目的地に辿り着いたニトロは片膝を突くと壊れた自分の剣を床に置き、そして『師匠』の剣を手に取った。
 立ち上がり、円形――正確にはパトネトがいる壇に面する場所の開いた蹄鉄形――となった試合場を囲む人々を見渡す。
 ハラキリは少し離れた場所にいた。試合場を区切る青い枠線レーザーのすぐ前、観客の最前列に位置し、既に燕尾服に戻っている彼は、近くで『鎧』を脱いでいるグラム・バードン公の視線を努めて無視するようにして会場の様子を眺めていた。
 と、ハラキリがニトロの視線に気づく。
 ニトロは剣を差し上げた。借りるよ、と。
 ハラキリはうなずいた。頑張りなさい、と。
(ああ、頑張ろう)
 一つ、息をつく。
 と、そこで彼は目の前に王家広報のカメラマンがいることに気がついた。余興を最高の位置で撮影し続けていたらしいその女カメラマンが、片目でレンズを覗いたまま、もう片目でこちらを見やって小さく手を振ってくる。王女の登場以降どこに行ったのかと思ったら……ヴィタだった。面白好きの彼女は再びカメラマンに戻り、どうやら常に最前列で(おそらくは時に“カメラマンの特権”を利用して試合場内にも入り)熱心に余興を楽しんでいたらしい。
 ニトロはヴィタの目とカメラのレンズの双方を見つめた。
 レンズ越しに――同時に直接女執事のマリンブルーの瞳に向けて眼で語る。俺は勝つよ、今日があなたのお楽しみの終焉だよ、と。
 ヴィタはそれを読み取った。片目を細め、きっとレンズの向こうの目も細め、唇の隙間から愉快そうに時に牙ともなる白い歯を見せる。
 ニトロは踵を返し、また一つ息をつく。
 ――また一つ、息をつく。
 息をつく度に、彼の体は熱を帯びていく。
 その熱は、闘志という名を持っていた。
 最後にニトロは、オッドアイの給仕アンドロイドを探すために一度周囲を見渡した。
 観客の壁もあり、給仕アンドロイドも十数と歩き回っている。流石に一度見渡すくらいでは見つけ出すことはできないかと思えたが、芍薬は、いた。ある婦人と紳士の隙間の先で、こちらを見つめてきている芍薬の姿がニトロの目に飛び込んできた。芍薬は信頼の瞳を向けていた。マスターと目が合った芍薬は、ふっと小さく微笑を浮かべてうなずいた。
 ニトロは、息をつく。
 ティディアは未だこちらに背を向けている。試合場の真ん中で、そうして『運命の相手』を待っている。
 ニトロは感触を確かめるように剣の柄を握り、力強く足を踏み出した。

 跪き敗北を認めたグラム・バードンの肩に、東大陸の伯爵の時と同じく受勲の儀式のように剣を当てて失格の“火”をつけた後。
 笑顔で歓声に応え、ゆっくり試合場中央へと歩きながら、ティディアは早鐘を打つ胸の中で全ての幸運に感謝していた。
 ニトロと最後に一対一で戦えることに。
 ハラキリが難敵である我が剣の師をよく抑えてくれて、最後には決定的な勝機を作り上げてくれたことに。
 それにしてもハラキリの突然の参戦には驚いたものだった。
 彼に剣を渡す時、彼にははぐらかされたが、状況的にミリュウがパトネトに協力を求めて――パトネトが直接、はない。弟は彼を怖がっている――『保険』をかけてくれたのだろう。この結果から慮れば、グラム・バードンを抑えることが本来の目的ではなく、場を自分とニトロの『一対一』に整えることこそが依頼だったろうか。
 だとしたら、妹は私にはできなかったことを見事に行ってくれたことになる。
 その依頼について言えば、実はティディアにもハラキリにそのように依頼しようという“思惑”はあったのである。何故ならこの余興のラストとして『王女と英雄の一騎打ち』以上に最高の結末はなく、また、そうでなければならないために。
 しかし、ティディア自身がハラキリに依頼するには、非常に大きな問題があった。その大問題とは、彼女の『作為』に鋭いニトロ・ポルカト。他の誰でもない、ティディアを悩ませるのはいつだって彼だけなのだ。
 今回、特にティディアに苦悩を呼んだのは、彼女がニトロを“企て”の内に入れている状況下での彼の勘の鋭さだった。その感度は異常の一言に尽きる。もし彼女自身が事前の“思惑”を実行しそれを『保険さくい』にまでしていたら、それとも妹に『保険ほけんをかけるよう』頼んでいたら、きっと彼はいずこからともなく何らかの違和を感じ取り、警戒し、ハラキリが身も名も犠牲にするようにしてまで作ってくれた絶好機にもこちらと協力して挑むことはなかっただろう。それどころか、途中で自らリタイヤする可能性だってゼロではなかったはずだ。
 それを考えると、自分がハラキリに頼むのはあまりにリスクが高い。
 しかし、この余興にかける『最大の目的』のためにはハラキリの協力は喉から手が出るほど欲しい。なのに、その『最大の目的』のためにこそ――ニトロをちゃんと参加させるためにこそ彼の協力を一切諦めねばならぬ酷いジレンマ。
 さらにこの余興を決して『出来レース』にしてはならないという問題もあった。ニトロには私の庇護を除いて実力で勝ち上がってもらわねばならない。何故なら、そうでなければ『最大の目的』の説得力が薄れ、従ってその効果までもが薄れてしまうからだ。下手にハラキリを“味方”にすることは簡単にニトロを生き残らせることにもつながり、それは参加者にも観客に『出来レース』を印象付けるだろう。それではいけない。この余興は、もしかしたら決勝は王女と“ニトロではない誰か”かもしれない、そう思わせるような真剣な『余興』でなければならない。あるいは優勝者は王女でもニトロでもない誰かでは? と思わせるようなものでなくてはならない。その上でのニトロと私との決勝戦こそが理想なのだ。ハラキリは、何も言わなければその性格から参加はしないだろう。私の意図を知れば彼は『出来レース』を避けたうえで上手く振舞ってくれるだろうが……しかしそうすれば、間違いなくニトロに疑われる。ハラキリの行動からは感づかれずとも、頼れる友達への私の信頼感からきっと感づかれる。それならいっそニトロに私の意図を話してしまうのは?――駄目だ。あのシゼモの時と同じく、ニトロに意図を知られていてはこちらの目的は果たせない! では、やはりハラキリには何も頼まず不参加を促すか。でも、彼の助けがなければ、あとは運の助けに頼るしかなくなる。しかしそうなればほとんど不確定要素だけで計画が成り立つことになってしまう。混戦という紛れの生じやすい中で、それはどうにも怖ろしすぎる。やはり彼の助けは欲しい! それなら一体どうすれば!?……
 結局、“サプライズ”としてこの余興を思いついてからおよそ一月に渡る思索と逡巡の結果、彼女はついに『保険』としてハラキリに頼み込むことは手控えた。それにしても人事を尽くした上に天命を引きずってでも連れてくるのがポリシーのこの私が、人事を尽くせぬまま“運頼み”に走るなど!――だとしてもやむにやまれぬ、苦渋の決断であった。実際、どうやらこちらの意図を察してくれたらしい彼の素晴らしい働きを思えば、苦渋どころではすまない決断でもあった。
 ――だからこそ、この状況で妹が与えてくれた『ハラキリ・ジジという保険』はまさに最高の贈り物であった。自分の作為が介入していない分、こちらも彼の行動には戸惑い、彼がどのように動くかという不審が胸にある。それはニトロに対する絶好の目くらましとなろう。まさにこれ以上ない最高の贈り物であった!
(……何だか、私には過ぎた妹になってきたわね)
 ミリュウが、あんなにも惨い仕打ちをしたこんなにも非道い姉のために、これほどまでに気を遣ってくれることが……心の底から嬉しい。
 そして彼女は思う。
 全てが上手く回った今、こうなると本当に、
(あの時、ニトロが私の願いを聞き入れてくれなくて良かった)
 北副王都ノスカルラのチャリティーイベントの楽屋で、ニトロ、あなたが『髪を伸ばしたい』という私の希望を拒絶してくれて、本当に良かった!
 あの時と現在では状況が大きく違っている。
 当時は髪を伸ばすことが――恋心に片目を潰されていたことは否めないまでも――自分のために“より最善”を得られることに間違いはなかったが、東大陸での一件が燃えている今、髪を伸ばすことよりもこちらの『余興』の方が“より最善”を得られるものに変じている。しかもその“最善”は、東大陸の一件を背景にすると、現在の自分にとって何よりの喫緊の課題ともなっているのだ。
 そう、東の領主会議ラウンド・テーブルで激怒する直前、彼女はその激怒の結果、少なからずニトロに迷惑がかかることを予期していた。
 そして実際、“その言葉”は会の前に聞くこととなった。
 ――『ニトロ・ポルカトの取り成しがあるのではないか』
 私は、無敵の王女。
 私は恐怖のクレイジー・プリンセスだ。
 そしてニトロ・ポルカトは、その私を唯一、いざともなれば力づくで止められる人間である。
 今や『英雄』とまで言われる彼の初期のあだ名――『身代わりヤギさん』……その性質は、彼が『英雄』となった今でも変わらない。いいや、『英雄』となった今だからこそ、その性質への要求は以前とは比べものにならぬほど弥増いやましていると言っていいだろう。
 その要求は、こう述べる。
 ――いざともなれば彼に頼ればいいや
 私が“無敵の”王女であればあるほど、“英雄”である彼への期待とその要求は否が応にも高まってしまう。
 ……高まるだけならまだいい。
 彼への期待とその要求は、最悪、しかしそう低くない確率で、いつか身勝手な押し付けへとまで高じることだろう。
 そうなれば、王女ティディアから(『クレイジー・プリンセス』ではない、『王女ティディア』からであっても)少しでも不利益を受ける者は、貴族も民も、階級資産に隔たりなく必ず『ニトロ・ポルカト』を呼ぶこととなろう。そして言う。私達を助けてください。貴方様は英雄でしょう? 助けてくれるでしょう? いいや、助けてくれるはずだし、助けなければならない。何故ならあなたは英雄であり、私たちよりずっと強く、地位も名誉もあり、何よりあの暴君の恋人だ。例えお前がどうなろうとお前にはその義務がある!
 直接口に出す者は少ないだろうが、その眼差しをニトロが察しないわけがない。
 それに対面した時に彼がどう対処するかは判らないが……きっと芍薬やハラキリが支えになってくれると思うが……それでも、苦しむことは間違いがない。実際、今だって苦しく思っていても無理はない。少なくとも動揺はしているだろう。――王史には、市井の出の王が自殺した歴史も刻まれている。その王は、暗愚の王女に見初められたその男は、元々とても聡明で優しい人だった。彼とニトロが同じだとは言わない。が、それでも悲劇の前例として無視することは絶対にできない。
「……」
 もちろん、あの『ニトロ・ポルカトの取り成し』を期待した者――その“関係者”を、あるいはその“関係者”が下っ端であればその主人を私は許さない。ミリュウの取り成しとレド・ハイアンの出方次第で領主の大半を許すことになったとしても、その発言をした“関係者”だけは必ず洗い出して厳しい処罰を下す。見せしめとして。そのように厚顔な愚考を口にすることがどれだけ浅はかであるかを、横暴だ暴君だ何だと言われようとも私は徹底的に知らしめる。
 だが、それだけでは、足りない。
 それで例え何十人が、あるいは何百人が路頭に迷うことになっても、それだけでは打ち込む『釘』が浅過ぎる。何故なら、王女に無情に罰される貴族らの、私の激怒を買ったその理由が明確でなければ、それはあらぬ憶測を生み、それがレド・ハイアンに与しなかったからだと理解されるのであればまだいいが、ともすれば大衆にはただ『クレイジー・プリンセス』の“気分”としか意識されない可能性まであるがために。
「……」
 試合場中央に辿り着いたティディアは、周囲に安堵が満ちていることを見て取り、その安堵を顔に浮かべるほとんどの者が“甘い結末”を期待して、そうして既に試合を見守るのではなく、恋人達の行く末を見守りに入っていることをも見て取った。
(そうね。それが当然でしょうね)
 そもそも『ニトロ・ポルカトの取り成し』が期待されるのは、彼が私を止められる唯一の人間として認知されていることが原因にあるとしても、そこにはもう一つ、看過できない理由が垣間見える。
 今現在、周囲にいる招待客のほとんどはこう思っていることだろう――『きっと、姫様は恋人に勝利を譲られるだろう』
 それはつまり、私が彼を愛しているから、私は彼だけにはきっと甘い――そう思われているということに他ならない。いかに恐ろしいクレイジー・プリンセスであれ、愛するニトロ・ポルカトには特別扱いをするはずだ、あるいは、ニトロ・ポルカトにだけは特別扱いをしてもいい(そしてそうあって欲しい)――そのような『期待ごかい』をされていることこそが、看過できぬもう一つの大きな病巣としてあるのだ。
 既に前例は『シゼモ』にある。
 そこではニトロに釘を刺しておいた。
 今度は、外だ。
 外で悪性腫瘍のようにぼこぼこと膨らみつつあるその病巣の根を、ここで叩く。
 私が余興の賞品として提示したものは、ニトロは喉から手が出るほど欲しいだろう。
『愛する男』の前で無茶苦茶な――言ってしまえばその愛情を軽んじ裏切るようなことを愉快気に語る恋人に愛想を尽かした……それを建前にすれば、彼はここで私と世間的にも“真っ当に”別れることができる。
 彼はきっと、これ以上なく真剣に、これ以上なく全力で私に挑んでくるだろう。周囲にそれが『プロポーズをするため』と誤解されようとも、恐ろしい気迫で向かってきてくれるはずだ。
「……」
 思えば、あの『取り成し』を望む言葉も最高のタイミングでメディアに載ってくれたものだとティディアは思う。その思想自体には腸が煮えくり返れど、このタイミングで言ってくれたことにはむしろ感謝すら覚えていた。きっとその者は、その関係者は、後日その身に降りかかった災厄の源をこの余興に見つけることになり、魂までをも青褪めさせることだろう。しかし、お前の犠牲があったからこそ、この『一対一』……その理想的なシーンはより理想的なものとなった。
 最後の決戦。
 運命の一戦!
 行動を伴わぬ言葉は脆い。いくら私が「ニトロの『お願い』でも簡単には聞かない」と言っても、それを全く疑わない者はいかほどいるだろう?
 ならば見せよう。
 願いを叶えようと必死に向かってくるニトロを真正面から打ち負かすことで、彼がどれほど私に何かを願おうとしても、そう、例え請願者が愛するニトロであっても簡単には私は願いを聞き届けない、聞き届けられたいなら例え私に唯一愛されるニトロであってもこの私から勝利を勝ち取れ、それを大衆の意識に焼き付けよう!
 もちろん、それでも安易にニトロに頼ろうとする愚か者はあるだろう。それでも、それが容易でないとなれば彼への『期待』は今よりもぐっと軽くなる。そこに東大陸の見せしめの効果を合わせれば、彼が耐えるに難しくないくらいにはなるだろう。
 ――この余興で、ティディアが『最大の目的』としたことこそは、それであった。初めから彼女にはただこの目的しかなかった。
 だからこそ全ての幸運へのティディアの感謝は、深い。
 シァズ・メイロンの私怨の絡んだ手加減のない初撃。
 あのフルセル氏の思わぬ大活躍。
 この余興を徹頭徹尾引き締めてくれた我が剣の師、豪傑グラム・バードンの大迫力。
 戦いの最中には内心で冷や冷やしたところもあったが、結果を見ればこれもまた感謝してもしきれないことである。特に、何度でも頭を垂れる、汚れ役を買って出てまでこの『一対一』をお膳立てしてくれた友達には感謝してもしきれない!
(お陰で私は、ニトロを守ることができる)
 そう思えばこそ――ふいに、ティディアの掌に汗がじわりと滲んだ。
 そして手に汗が滲んだことに、彼女は動揺はせずとも、いよいよ喉が締めつけられるような痛みを感じた。
(……)
 ティディアは思う。
 ニトロが参加してくれない場合にも、例えばシァズ・メイロンやアンセニオン・レッカード、特にグラム・バードンを優勝させるわけにはならなかったから、私は負けるわけにはいかなかった。
 だが、今はそれ以上に負けるわけにはいかず、いいや、負けてはならない
 彼女は幸運に感謝する一方で、この理想的な状況下があまりに理想的であるからこそ、その身に、その肩に、粘りつくような重苦しさが圧し掛かってくることをまざまざと感じていた。
「……」
 声援に応えて横を向いた時、ふとニトロの影が視界の隅に入った。その時、彼女は慌てて――これ以上ない上機嫌の笑顔のまま――彼を視界からそっと外した。
 努めて急がぬよう再びニトロから顔を背けて、思う。
(これから私は、ニトロと戦う)
 それはいい、それは全く問題ない。
 だが、問題なのは、彼が必死になってかかってくるということだ。
 当たり前のことだし、それをこちらも望んでいるし、そうでなくては『目的』のためにもならないことであるが、それなのに彼が剣を持ち必死に挑んでくることが――怖い、怖くてならない。矛盾していることは解っている。しかし怖いことに変わりはないのだ。
 そういえば、ミリュウがひどく真剣に『お負けになりませんように』と釘を刺してきたのは、もしや妹は私の中の恐怖と不安を見抜いていたのではないだろうか。
 そう、私は例え請願者が愛するニトロであっても簡単には願いを聞き届けない。皆は思っているだろう『きっと、姫様は恋人に勝利を譲られるだろう』……そんなことはないのに。そんなことはないはずなのに。
「……」
 いつしか周囲が、次第に、次第に静かになっていった。
 ティディアが観客の一人を見れば、その紳士は王女の視線に気づかず、ただ彼女の背後へ戸惑っているような、それとも驚いているような目を向けている。しかしその引き締められた口元は、おそらく、彼の見る先にいる『英雄』の顔を映したものであろう。
「っ……」
 ティディアはその瞬間、胸が張り裂けそうになるのを感じた。手の汗が量を増す。額に熱がこもり、滲もうとする汗を必死に抑える。急に心が千々に乱れそうになる。ああ、喉が渇く! 彼女は静かに深呼吸をした。
(――そう)
 私は、例え請願者が愛するニトロであっても簡単には願いを聞き届けない! 皆は思っているだろう『きっと、姫様は恋人に勝利を譲られるだろう』……そんなことはないのに。そんなことはないはずなのに
 しかし今、彼女は思う、心の片隅で、どうしても思ってしまう。
 ――ニトロの願いなら『叶えてやりたい』――どうしてもそう思ってしまう自分が確かに存在する!
 北副王都ノスカルラから帰って来て、誕生日会の準備を進めて、この余興について数え切れないほどシミュレーションを繰り返しながら、そのシミュレーションの精度を上げていけばいくほど、はっきりしてきた己の胸の内。
 初め、ティディアはそんな愚挙極まる己の思いを軽く否定した。
 されど、いつまで経っても否定しきることはできなかった。
 それどころか、初めは軽く否定できたはずのその思いは日が経つにつれて重みを増し、否定される度に粘度を増し、そして、とうとう今になっても彼女はその考えを心の中から移動させることも引き剥がすこともできないでいた。
 だが、それもそうであろう!
 ティディアには、本当は初めから解っていた。
 その愚挙極まる己の思いは……『叶えてやりたい』と私に囁くのは、他でもない、『弱い私』なのだ。彼を愛するが故の不安、恐れ、そういったものをぎゅっと抱え込む『弱い私』が生み出す絶叫なのだ! それを心から捨て去ることなどできるものか。何故なら『弱い私』にも一理がある。彼の願いを叶えないと、ほら、そうしないと――そうよ、そうしないと私はもっと嫌われちゃうんじゃない?――いいえ! 元々嫌われている私が今更この程度のことで……でも、嫌われているのだからこそ、ほら、馬鹿な私、そんな強がりを言っていないで? ね?
(……)
 グレイフィード宮殿の――初め五代様のものであった宮殿の鏡の中に見た私が問いかけ続けている。少しは折り合いをつけたと思ったのに、またそちらからおどおどと手招きをしてくる。弱々しい態度のくせに、やけに強く頑迷に自己主張を繰り返し続けている。
「……」
 ティディアは呼吸を整え続けた。
 ニトロに背を向けたまま……いいや、ニトロに目を向けられないまま。
 彼のその決意に固めた表情、その願いを秘める瞳をまだ見たくない。
 私は彼を愛しているのに、彼は私と別れるために戦う。
 彼のその思いが強ければ強いほど望ましい状況なのに、彼の思いが強ければ強いほど私は苦しい。
 今更?
 そうだ!
 今更だからこそ、苦しい!
「……」
 大体、これは彼と一騎打ちになることが理想であると考え至った時から解っていたことだろう? ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 彼と一騎打ちになればこの苦しみとも戦わねばならないのだと、お前は解っていた。
 そうだ、全ては『今更』だ。
 しかし、彼が拒絶してくるのは今更のことだが、今日はいつもとは違う。今日は、彼の『拒絶』が実現する絶好機。それも私自身が叶うことを保証したこの機会。彼の拒絶の表出はいかほどのものだろう? それを見るのが怖くて未だに彼へ振り向けないまま、振り向けないほど怖い拒絶を胸に戦う彼と相対し続けることを予感すれば、ここにはただただ息もできないほどの苦しさしか存在しない。
 ああ、だけど、それだけならまだ良かったのかもしれない。
 何よりも怖いのは――『弱い私』がまたも言う。「私が彼に譲れば、愛のために譲れば、彼はそれでほだされてくれるかもしれないでしょう?」――そんなことをしても彼の心を繋ぎとめることなどできはしないと解っているのに……どうしても振り切れない。そんな愚かな希望に縋りたくなる弱さ、今夜パトネトを連れて私の誕生を祝う会に来てくれた彼をカメラ越しに見ている際にも感じたあの不安感、今の彼ならば私の手元からすぐにでも去っていってしまえるのではないかという強烈な喪失への恐怖、喪失の後に予期される耐え難い悲しみ、またそれへの恐怖と不安! そして、それら『弱い私』に自分が負けるかもしれないということが、私は情けなくも何より恐ろしい。
「……」
 ティディアは、己の人生でこれ以上ない緊張を味わっていた。
 負けてはならない。負けたくない。絶対に負けてはならない!
 だが、ニトロ・ポルカトは強敵だ。
 もちろん、彼と私の腕の差は歴然としている。私は剣を持ってニトロに負ける気はしない。『映画』では負けたが、あれは私の実力ではない。あれこそ余興だった。本気を出せばグラム・バードンからも勝利を奪える私が、ハラキリ・ジジにも勝てないニトロに負ける道理もない。
 なのに、ティディアは、どうしても確固とした自信を得ることが出来ないでいた。
 ニトロに負ける気はしない。
 けれど、勝てるとも思えない。
 ニトロは時に驚くべき力を発揮する。絶望的な実力差があったとしても、これまで数々の困難を乗り越えてきたように、時に驚異的な爆発力で状況をひっくり返してしまう。
 そうして私は、打ち負かされてきた。
 そう、そうして彼は私を打ち負かすのだ!
 もしかしたら、今夜も?
 でも……もしそうやって打ち負かされてしまったら、私はどうしよう……
「――ッ」
 ティディアはその時、全ての不安を振り払うように一つ大きな息をついた。
(五代様も、出陣前はこんな心境だったのかしら?)
 時を経て伝説となった女性のものと同じデザインの軽鎧で守る胸に、目を落とす。
(貴女は国の命運を懸けて戦ったけれど、それは私も同じなのよ――って言ったら、怒られるかしら)
 冗談めかせた思いを千々に乱れそうな胸に無理矢理流し込み、精神を整える。
 手汗で滑らぬよう剣を握り直し、感触を確かめる。
(……よし)
 ニトロの足音はもう直後まで来ている。
 周囲の観客の目、無数の視線それぞれの角度を比較することで互いの距離は計算できる。
 そのまま彼は背に斬りかかってくるだろうか?
(いいえ、きっと、斬りかかってこない)
 それは彼が今更騎士道に則るためではなく、背後へのカウンターが得意な私に――彼の位置からは私の持つ剣の位置が把握しづらいはずだ――背中から斬りかかることは危険だと、きっと鋭く感づくために。
 そしてティディアの予想の通り、ニトロは、いつまでもそれ以上は進んでこなかった。

 ティディア姫は背を向けたままである。
 ニトロ・ポルカトは残り数歩のところにまで接近している。
 背後からの斬りかかりを大歓迎する型破りな王女である。
 そして変幻自在に戦える上、公爵へジャーマン・スープレックスをかますようなある意味彼自身も型破りな『英雄』である。
 観客達は、理解できなかった。
 何故、ニトロ・ポルカトは隙だらけなティディア姫へ斬りかからないのだろうか。
 背を向ける天才剣士を目前にして、千載一遇のチャンスであろう? なのに、ニトロ・ポルカトは剣をだらりと提げ、じいっと王女の“全体像”を見つめて動かない。わずかな踵の動き、わずかな腰の捻り、わずかな肩の予備動作――その全てを見逃すまいと、じいっと警戒を続けている。
 それはまるで、背を向けているティディアが自分の位置を正確に把握していて、あと一歩でも間合いを詰めれば先手を打って斬りかかってくるだろう。……そう予期しているようであった。
 大きな疑念の混ざる不思議な緊張感の中、ティディアがゆっくりと振り返る。
 ニトロはまだ剣を構えない。彼は王女を真っ直ぐ見つめている。
 ティディアも構えない。彼女は伏目がちに英雄を見つめている。
 量産された鎧と冑を纏う少年と、明かりに映える白い鎧に身を包み、この星で高貴な色を示す黒紫の瞳を輝かせる王女の作る光景には何とも言えぬ雰囲気がある。戦いの終わった静かな戦場で、その戦に勝利をもたらした平民上がりの騎士が共に戦火を生き抜いた王女の下へ歩み寄ってきた……とでも言おうか。公爵と老剣士の作り上げた聖域とはまた違う、静謐な厳かさがそこにあった。
 周囲が静まり返る中、二人はしばし対峙し合う。
 やがて、ティディアがニトロを真っ直ぐ見据え、口を開いた。
「二人きりね」
 ニトロは応えない。
 彼の目は鋭く、口は一文字に結ばれている。
 明らかに集中しており、明らかに、勝利への執念を瞳に灯している。
 ティディアは気圧されそうになる『弱い私』を押し殺し、もう一度言った。言わねばならぬことを、言った。
「ねえ、ニトロ。あなたの『お願い』は何かしら」
 周囲がざわついた。
 ここでそれを聞くかという驚きと、彼は我々の思う通りの願いを言うだろうという期待が表出する。
 ニトロは、言った。
「お前は、知っているだろう?」
 彼の答えは周囲の期待には応えていない。しかし、それでもざわつきは大きくなる。彼の願いを『彼の恋人』は知っているという事実に、否が応にも心をくすぐられる。
「そうね、知っているわ
 ティディアがそう言うと、ざわめきの中に黄色が差し込んだ。
 彼女は婦人達の恋物語への関心の高さを利用するように、続けた。
「叶えて欲しい?」
 黄色い声が静まり、固唾が呑まれる。
「叶えて欲しいものだな。ひょっとして、今ここで聞き届けてくれるつもりか?」
「どう思う?」
「そうは思わない」
「何故?」
「『何故』? それはお前が一番解っているだろう。もし俺が、俺の頼みならお前は二つ返事で叶えてくれるとでも思うようなら、ここで今こうしてお前と剣を向け合うことになんてなってない。とっくの昔に愛とやらじゃあなく怒りをもらって、今頃どこかでひっそりと暮らしているだろうさ」
 ティディアは、微笑んだ。
 それは不思議な微笑だった。
 ニトロが当てこすりをしていることを理解しながら、それを満足に感じ、それ以上に至福を感じているような微笑み――ニトロは、まさか自分がティディアの希望に100%適ったセリフを吐いているとは露にも思わなかった。何故なら、これは『いつものこと』だからだ。いつものように皮肉を返した、そこにティディアはいつもながらの満足の笑みを返してきて、しかし、いつもと違うのは、どうやらティディアはいつも以上に喜んでいる。
 何かがある――そう思ったニトロは、一つかまをかけるように言った。
「それとも、今日だけは『特別』なのか?」
 ニトロのセリフに、やや沈みかけていた周囲の期待がまた高まる。
 ティディアは微笑みの下で歯を食いしばっていた。指も痺れている。ともすれば、最後の最後で私に大きな幸運を運んでくれているニトロに抱きつき大声で愛を叫んでしまいそうだ。彼女はその歓喜を押し殺すために、あえて恐怖と不安を胸に呼び戻した。これから彼と――こんなにも愛しい彼と戦うことへの……あるいは、彼を失うかもしれないことへの恐怖と不安によって頭を冷やし、そうして声も冷静に、言う。
「あなたは、そうね、『特別』よ。そして今日を『特別』な日にしたいとも思う」
 周囲の期待が、さらに高まる!
 しかしニトロはその期待が裏切られることを知っていた。続けてティディアは言うだろう、
「だからこそ特別に願うわ。愛しいニトロ、あなただからこそ私から勝ち取ってみせて」
 やはりティディアはニトロの思った通りのことを言った。一方で思った通りのことを言ってもらえなかった婦人達が少しばかり失望の色を差す。と同時に、改めてそう宣告した王女の声に強固な意志が込められていることを察する者がいた。ティディアが朗々と続ける。
「全力で私を打ち負かし、そして私の心をあなたの言葉で奪い取って。そうすれば、あなたは私の魂までをも永遠に手に入れられることができるわ。ねえ? 愛しいニトロ、私とあなたの特別な関係は、そういうものでしょう? この特別な日に、そうでなければ意味がないでしょう?」
「……ああ、そうだな。その通りだ」
 二人のやり取りに、再度周囲が固唾を呑む。婦人達の失望は一息に吹き消された。そこには、二人だけの世界があった。『恋人』以外の人間が立ち入れない世界があった。そしてそれを支えるのは、あまりに強固な二人の意志である。それを見れば、どれほど二人が反目しているように見えたとしても、どれほど二人が理解しあい信頼しあっているのかが伝わってくる。婦人達のみならず、この場には、それだけ強固に心をつなげあっている二人への羨望の眼差しが生まれていた。
 ティディアは――私がニトロを愛しながら、それなのに彼の頼みを容易には受け入れない――それを改めて強調しながらの“地固め”が(しかもそのことをニトロも受け入れているという事実のオマケつきで)上手くいったと内心安堵しながら、一つ吐息をついた。そうしてニトロが何かを言う前に、
「それにしても、私は隙だらけじゃなかった? ニトロ、あなたは最後の勝ち取るチャンスをみすみす逃したのよ?」
 どこか挑発じみた口調である。ニトロはしばし黙する。その沈黙が周囲に緊張感を取り戻させる。彼は、言った。
「いいや、お前に隙はないな」
 その声は、この宮殿に来て彼が発したどの声にも似ていなかった。ドスの利いた声というわけではないが、それを耳にする者は彼の“敵意”に震える思いがするのであった。
 ――本気である。
 ニトロの様子に『余興』への趣はない。
 その一瞬に、もう誰もが気づいていた。
 勝ち取ってみせて――王女のセリフがリフレインする。
 その通りだ――『英雄』の肯定がリフレインする!
 静けさの中、観客達の心に未だしつこくこびりついていた『運命の一戦』へ向ける“安堵”や“期待感”が霧散していく。それでも『恋人達の行く末』を見守ろうという気配は消えないが……いや、安堵や期待感が消えたからこそ、二人の決着がどのような形となるのか観客達には一向判らぬものとなり、結果、一層この『運命の一戦』を見守ろうという気配が生まれていた。
 そして、それと同時に、いかに本気だとしても何故この“愛し合う”二人がこれほどの緊張感を生んでいるのかということへの戸惑いも生まれていた。
 ティディアがため息をつく。
「隙がない?」
 問いかけられても、ニトロは肯定のうなずきも返さない。
 ティディアは微笑み、
「やーねー、こんなに私、隙だらけなのに」
 両手を無造作に広げる彼女の口調はいつもの気軽な『ティディア姫』のものだ。その声音は緩やかで、この緊張感にあってなお聴く者の心もふと緩めようとする。実際、彼女の背後にいた『社交界の情報源』たる夫人の娘が――他人の影響を受けやすいのだろう――少しばかり肩から力を抜いていた。他にもちらちらと、ニトロの視界の中だけでも、男女問わずに王女の言葉にくすぐられたように微笑を湛える者も見える。
 しかしニトロは、剣を構える。油断なく、両手でしっかりと剣を握る。
 宮廷剣術、両手持ちのヴォンの構え。
 その立ち居にこそ隙がなかった。無論、グラム・バードンやフルセル――そしてティディアといった剣豪にかかれば甘さもあるのであろう。されど観客の大多数は、剣を構えたニトロに対し一種の畏れを胸に抱いた。
 今の彼には近づけない。
 近づけば、彼の剣をかわせはしまい。
 事実、命懸けの戦いを切り抜けてきた戦士の佇まいにほとんど誰もが魅了されていた。――ティディアも、魅了されていた。
 その時、ニトロが一気に間合いを詰めた。
 ニトロ自身、何故その時に体が動いたのか判らない。しかし、ここだという内なる声が彼を突き動かしていた。
 ティディアは――完全に虚を突かれた
「ッ!」
 ニトロの突きがティディアの喉元に迫っていた。両手持ちから片手持ちに変えながら、半身を伸ばすように放たれる突き。流石はハラキリ・ジジの愛弟子と言おうか、その無駄のない動き、例えトップアスリートのように恵まれた筋力がなくとも、無駄を省いたが故に疾い突き!
 タイミングとしては、避けられるものではなかった。
 されど、剣先がティディアの喉へ届こうという直前、彼女の体は速やかに横にずれていた。たった半歩の横移動。しかし、トップアスリートのように、あるいはその中でも特に恵まれた筋質を備える王女の敏捷性は驚くべきものだった。
 ティディアの頚動脈からたった数センチ離れたところを切っ先が通り過ぎる。
 ニトロはそのまま剣を横滑りさせようとした。切れるだけの威力は要らない。刃で触れれば、それだけで勝ちなのだ。
 だが、
「!」
 ニトロはぞっとした。
 得も言われぬ恐怖に突き飛ばされるように彼は尻餅をつく勢いで屈み込んだ。
 すると彼の首があった空を王女の剣が通り過ぎていく。剣を振る動作など体のどこにもなかったのに、それなのに、気づけば彼女の剣は、もしそれが本物であれば首を刎ね飛ばせる威力で振るわれていた。
 そのまま尻餅をつけばそこで負けると判じたニトロは強引に脚力を爆発させ、エビのように背後へ飛んだ。勢い背中から倒れこむようになり、その勢いを殺さぬままに後転して立ち上がる。立ち上がった時には、また彼は構えを取っていた。
 ティディアは深追いをしなかった。
 やはりニトロは恐ろしい
 ティディアは恐ろしい敵への警戒心のために顔を強張らせ、下手に深追いすれば一瞬の交錯の内に彼に殺されると判じ、目も鋭くビィオの構えを取ってニトロをめつけていた。
 会場は、どよめいていた。
 驚愕、感嘆、あるいは……恐怖?
 希代の王女と『英雄』のファーストコンタクトはあまりに衝撃的であった。
 一切の手加減や手心というものの感じられない、まさに当初よりの緊張感がそのまま剣筋と化したかのような鋭さ。
 二人の手にしている剣が、いくら競技用とはいえ見た目には『真剣』そのものであることが今になって安全圏にいるはずの観客の心に怖気を走らせていた。
 その剣が、もし見た目のままに『真剣』であったなら……二人は、そこに対峙する『恋人達』は何という……!
 一方、観客とはまた別の意味でティディアの心にも怖気が走っていた。
 そう、やはり、ニトロは怖いのだ。
(解ったでしょう?)
 彼女は胸中にそう問いかける。ここは、この戦場は、『弱い私』――お前がのこのこ顔を出せる場所ではない。お前は彼に勝ってもらえればいいのかもしれないが、断言する。もしここで私が負ければ、殺されるのはお前自身だ
「……」
 ティディアは誰にも悟られぬよう、唇の内側を小さく噛んだ。……足りない。噛み切った。口の中に血が広がる。鉄の味が舌を這い、新鮮な生臭さが鼻の裏を刺激する。
「ふう」
 と、小さく息をつく
 や否やティディアはニトロへ斬りかかった。
 上段から脳天へ真っ直ぐ打ち下ろすために剣を振りかぶる。ニトロは応じて防御のために剣を寝かせる。と、その瞬間、ティディアは突きを放っていた。フェイントにしても直前の形から変化する凄まじい速度、驚くべき技であった――が、ニトロは突きが放たれるより刹那の前に小さくバックステップを踏み、寝かせていたはずの剣を振り下ろしにかかっていた。されど既に王女の刃は彼の体には届かない。もはや互いに互いの刃が剣を持つ手にすら遠く届かない。それでもニトロは剣を振り下ろす。それは防御のための“弾き”ではなかった。ティディアは理解する。ならば狙いは、
(打ち落としか!)
 ティディアは歯を食いしばり――ニトロの剣がティディアの剣の背を叩く! 限界まで伸ばされていたティディアの腕に痛みが走り、その衝撃に彼女の手から剣がこぼれそうになる。しかし前もって力を込めていた彼女の手は彼の『打ち落とし』に堪え切った。
 ニトロが、ティディアから見て大きく左に回り込みながら、右手に持った剣でやはりティディアから見て左から右に抜ける横薙ぎを狙ってくる。
 ティディアは己の剣の切っ先を、現在彼のいる場所から、彼女から見てわずかに右に置いた
 するとニトロがびくりとして動きを止める。
 彼の横薙ぎは間合いからわずかに外れていた。それはフェイントであり、剣の動きに沿いながら体を横にずらし、また剣筋もずらしての変則的な軌道で彼女の頭を打とうと狙っていたのだ。
 それを、まるで……いいや、まるでなどではない。それを二手先から完全に見切られていたことに戦慄し、ニトロはまた一度間合いを広げる。
(……まったく)
 今の攻防で解ったが、距離感はティディアが完全に上だ。半端な距離は不利である。どちらも触れ得ぬほど広く取るか、あるいはゼロに詰めるか。どちらにしても勝利を奪うには剣の間合いに入らねばならず、純粋なリーチはこちらが上であってもそれは難儀である。距離をゼロに詰めての力比べならこちらが勝てるが、しかしその際には怪力のヴィタすら投げ飛ばす王女の技を警戒しなくてはならない。何にしても、やはり簡単にはいかない。
 その上、こちらは一手先を読むのがやっとであるが、あちらは少なくとも二手先を読んでくるらしい。いや、もっと先まで読めるのかもしれない。フェイントはまず通用しないだろう。初めから解り切ったことではあるが、やはりティディアは恐ろしい
「……」
 彼は唾を飲もうとして、ふいに気づいた。
 喉がカラカラに渇いていた。

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