3−d へ

 開始直後から連続した見所に心を鷲掴みにされた観客達が、場内の参加者へ向けて、たかだか『余興』に対するものとは思えぬ熱気に満ちた声援を送っている。
 現在、大きな声援を特に集める箇所は三つあった。
 一つは『ニトロ・ポルカト』である。
 開始直後に美技を披露し会場を沸かせた彼は、グラム・バードン公爵の強襲から逃げ延びた後には常に複数人に狙われ続けることになり、そのため常に試合場を逃げ回っていた。アデムメデスの騎士道において、敵に背中を向けて逃げ回るのは美徳に反する。『英雄』と呼ばれるに至った『勇敢なニトロ・ポルカト』に対してもその美徳は人の“先入観”として存在するものではある。しかし、彼に非難の声はかかっていなかった。一度もまともに追っ手に正面から相対しない彼は、それなのに卑怯だとも臆病だとも思われず、故に『勇敢な英雄』の名に傷がつくこともなかった。理由はある。もちろん複数人に追われているという不利そのものが彼を擁護するものであるのだが、それ以上に、逃げる彼の動きには無駄がなく、また一度に数人に襲い掛かられても巧みにすり抜ける様がまた一種の美技となっていたのだ。時に一瞬場外に出てルールの裏をかいたり敵同士を利用して罠にはめたりという、実力者であるが故に許される――かつ漫才師らしい――滑稽な“演出”も相俟って、彼は度々見物客の喝采を呼んでいた。そのため見所三点の内で最も“余興らしい”振る舞いをしているのは、皮肉にも、彼であった。
 二つは『王女ティディア』である。
 開始以降、ティディアはずっと一対一の戦いを繰り返していた。背中からの斬りかかりが許可されていても、“王女”にそうするのはどうしても憚られているのだ。それに並行して、参加者の胸の内では『王女に勝つ』ことよりも『王女と剣を交える栄誉』への欲求が勝っていた。混戦の最中にあっても彼女に挑む人間は名乗りを上げて『礼』をする。ティディアはその度ににこやかに――ニトロは彼女を一瞥した際に「ひどく退屈そうだな」と感じ取ったが――笑顔で応じ、華麗な剣の腕を以て既に五人を仕留めていた。剣に覚えのある人間には相応の技で、全く剣に触れたことのない人間には優しく指導をしてやるように。これまでの彼女のどの戦いも実に平和的で、王女の気品に溢れた戦いぶりは感嘆と賛辞を呼んでいた。
 そして三つは、そう、グラム・バードンと伏兵フルセルの一騎打ちである。
 既に五分を超える一騎打ちは、場内のどの戦いよりも激しく、時に激しい剣戟の音が鳴るというのに妙に静かで、それ故に、異質であった。『余興』には相応しくない――否、『余興』に相応しいなどと言っては非礼となる本物の戦いがそこにあった。
 グラム・バードンは、基本的に上段からの打ち下ろしを多用していた。もちろん横薙ぎや突きも使うが、七割は恵まれた大きな体躯を活かして剣を振り下ろす。そのワンアクションはただ見ているだけの人間にも恐怖を与えるほどの迫力に溢れ、恐ろしく速く、素人目にも彼がただの力押しであるとしても決して手を抜いているわけではないことが理解できる。とはいえ、無論グラム・バードンは決して腕力に頼っているわけではなかった。公爵は常に非常に繊細で高度な技術を駆使していた。その技術とは足の運び方、天才的な距離感による間合いの調整、剣を振り下ろす際にも相手に対してどの角度から切り込むかを随時計算し、それを以て敵に後手を踏ませ、その上で己の体軸を敵の剣筋には決して重ねず常に優位な位置を取り続ける“制圧力”であった。それ故に彼の敵は、例え公爵へ攻め込んでいたとしても、攻めているはずなのにいつの間にか彼に攻め込まれて追い詰められてしまう。これこそが公爵の天才たる真価であり、年に一度開かれる軍の剣術大会において十連覇の記録を打ち立てた(以降は参加を自粛した)礎であり、そして彼が訓練を施した何千の教え子の中でたった数人しか受け継ぐことのできなかった秘技であった。
 しかし、フルセルは、その才と熟練に裏打ちされた天才剣士に堂々と拮抗していた。彼の武器もまた、練達の技であった。美しい正統派宮廷剣術。公爵のパワフルな打ち込みを柔らかく受け、いなし、避けてはカウンターを見舞う。特にいなしの技術は老練の極みにあり、ため息が出るほどに素晴らしい。彼はニトロがシァズ・メイロンに見せたせんの技も披露してみせた。これは公爵がさらに見事に受け返して見せたのだが、その時はロザ宮が歓声に揺れたものだった。そして剣のみならず、公爵の制圧力をもフルセルの洗練された足捌きは巧みにいなし続けていた。敵を追い詰め返すことはできずとも、彼は決して王女の剣の師に優位を支配させない。自ら攻撃をすることは少ないものの、的確に己の確固たる足場からカウンターを仕掛け続けることで公爵に伍する。
 公爵が轟然と打ち込んでくる連撃を防ぎながら、フルセルは左に右に常に動き、公爵に的を絞らせない。その最中も、フルセルは公爵が右手に剣を持つこちらの正面からわずかに左にずれこみながら(つまりこちらの剣からは遠ざかりながら)足の指一本分接近してくることを(つまりわずかな距離の操作で公爵の次の攻撃が最大限有効に働く位置に近づいてくることを)、これまでの右片手持ちのビィオの構えから、両手持ちのヴォンの構えに移行することで邪魔をする
 しかしグラム・バードンは老剣士の構えが変わる直前、剣をしならせるように小さく振り下ろしていた。
 ――構えが変われば、様々な“要素”も変わるものだ。例えば半身に構えるビィオに比べてヴォンの構えは胴が敵の正面に向く。当然、隠れていたもう片方の腕も正面に出る。それからもう一つ大きく変わることに、蜂では手首と肩の高さが同じ位置になるよう構えるのに対し、熊では鳩尾の前に手首が並ぶという点があった。
 公爵の剣は、老剣士が構えを変えることを予め解っていたかのように振り下ろされていた、そう、剣はフルセルの位置を下げた右手首をめがけていたのである。それは、まるでフルセルが自ら公爵が振り下ろした剣の先に右手首を置いたようにも見えるほどであった。
 そして公爵の剣が老剣士の手首を捉えようとした時、ふいに老剣士の右手が、消えた。
 フルセルも公爵の攻撃を予め知っていたかのように右手を剣から離していたのだ。
 そうして老剣士は左片手で持った剣を撫で斬るように振り下ろす。
 公爵の小手狙いに対し、カウンターの小手技であった。
 タイミング的に避けられるものではない。
 ならばと公爵は避けるのをやめた。手首を返すことで剣の十字鍔の位置を整え、老剣士の剣を見事に受ける。
 ガチン、と硬い音が鳴った、直後、ギャリと鉄の擦れ合う不気味な音が鳴った。
 フルセルの剣を鍔で受けた公爵が、フルセルの剣を鍔に載せたまま突きを放ったのだ。
 腕力は明らかに公爵が上回っている。
 老剣士の片腕では己の額に向かってくる公爵の突きをそらすこともできないであろう。
 だが、フルセルはその時には離していた右手を柄に戻していた。突きを避けるために腰を落としながら剣を操作する。すると、公爵の剣の鍔に載っていた老剣士の剣は、逆に公爵の剣を腹の上に載せる形となっていた。
 シャリン、と、高く澄んだ音がした。
 公爵の剣は受け流された。その切っ先は老剣士の喉ではなく、天を突き上げていた。
 片腕を高く掲げたまま、公爵のグレーの瞳は心底愉快気に老剣士を見つめていた。と、フルセルが間、髪いれず足首を狙って剣を払う。公爵は狙われた足を引くことで攻撃を避けるや天に向けられていた剣を袈裟斬りに振り下ろした。フルセルは身をよじってその剣をかわし、再度公爵が取ろうとしていた“有利な角度”を潰すために小さくフェイントを入れながら体勢を整える。
 そこで公爵は一歩後退した。
 フルセルも、一歩後退する。
 動きを止めたグラム・バードンは口元に笑みを浮かべていた。
 肩を大きく上下させるフルセルもまた目尻を緩めていた。
 誰かの深く息を吐く音が、聞こえた。
 公爵と老人の動きが止まった時、引きずられるように観客の声も止み、そこだけ穴が開いたかのようにホールは静寂に包まれていた。
 両剣士による一騎打ちは、今や“次期君主夫妻の活躍”を脇において最も注目を集めている。
 ここにきてフルセルがグラム・バードンと同じ達人であると認めることに誰の異論のあるはずもない。ロザ宮ホールで一番にニトロ・ポルカトから声をかけられた民間人がこれほどの人間であったとは……動きを止めた二人に、いくら驚いても驚き足りないとばかりの驚愕と、感嘆に満ちたため息が次々と送られる。やがてため息が声となり、声援が飛んだ。その声を受けるのは圧倒的にフルセルが多かった。目に見えて体力を消耗している老剣士への応援が、ホールを揺らしていた。
 だが、声援の大きさとは裏腹に、決着が近いことは誰の目にも明らかであった。
 両者共に達人であることには変わりなくとも、時間が経つにつれて、絶対的な体力の差が両者の間で顕在化したのである。技は互角であろう。しかしリーチもパワーもスピードも、スタミナも、悲しいほどにグラム・バードンが上であった。
 フルセルの顎からは汗が滴り落ち、肩は大きく上下し、老人は喘ぐように息をしている。
 グラム・バードンの額にも汗はあるが、少ない。息は一つも乱れず、肩もぴたりと制止している。
 フルセルにかかる声援の大きさは、それだけ彼の劣勢を証明してもいた。
 そしてフルセル自身、己の劣勢を認めていた。それどころか彼は誰よりも己の敗北を確信していた。
 されど、彼は今にも己を負かそうとする公爵と同じく、笑みを浮かべている。
 己の敗北を確信しながらも、老人は、充実していたのである。
 彼は今、人生とは実に面白いものだと実感していた。
 剣術を始めた頃の彼は才能の著しく欠如した少年であった。体質が弱く、筋力もなく、運動神経にも乏しい。意心没入式マインドスライドを用いたトレーニングにより誰でも一定レベルにはすぐになれる世にあって、しかし一定レベルにもなかなか届かず、一定以上となればどうしても至れない。学生時代は万年補欠。それでも剣術が好きで、赴任した学校で剣術サークルの顧問に自ら志願した。そこで彼は人生における最良の師に出会った。その師は、誰でもない、彼の『生徒』全てであった。実力の乏しい彼は生徒に教えるために改めて一から剣を学び、そして生徒らに教えることで逆に生徒から教えられてきた。未熟な指導のために生徒に涙を流させ、学ばされ。大会を制した生徒の涙を見て、また学び。何十年と学び続けることで、気がつけば、彼の中で剣の才能が人知れず花開いていた。随分と寝ぼすけな才能であったと思う。いや、才能と呼んでいいのか解らない。ただの技術だと言い切っても良いと思う。とにかく彼が己の剣に手応えを感じた時には既に体力は衰え、体のあちこちが痛み、今更大会に出るような気もなく、それからもただひたすら生徒に教え、それまでと変わりなくひたすら生徒から教えられ続けてきた。定年退職した後には、地域センターにやってくる子ども達が相手となった。
 そうして彼は、気がつけば、現代のアデムメデスにあって剣術を志す者なら誰でも知っている天才剣士と切り結んでいる。
 これが面白くなくて何であろう?
 眼前の天才は両手に構えた剣を真っ直ぐこの老兵に向けてきている。古語で熊を意味する構え――なるほど、何故この構えを『ヴォン』と呼ぶようになったのか。公爵を見ているとフルセルには解る気がする。
 老剣士は同じくヴォンに構え、息を整えながら素早く周囲を見回した。彼は、あの若者はどこにいるだろうか? 北副王都ノスカルラでの幸せな晩餐の席で、王女が、彼が弟王子にしてくれていることへの感謝と賛辞を述べている時に「単に自分が格好つけたいだけなんですよ」と照れ臭そうに(また、どこか心苦しそうに)言っていた、あの優しい少年は――
 ――ニトロは、試合場を駆け回りながら、二人の『本物の剣士』の一騎打ちを可能な限り視界に入れ続けていた。
 現在、参加者はおよそ三分の一に減っている。そしてティディアが七人目の挑戦者を下した時、ふと気がつけば、公爵と老剣士の戦いだけが試合場に存在していた。
 現時点で生き残っている参加者の全てが、達人同士の一騎打ちを見届けたいと動きを止めたのだ。
 お陰でようやく一息のつけたニトロは、その結末を自分もしっかり見届けようと足を止めた。視界に入った王女を見れば、彼女もまた、思いがけない名勝負を見届けようと両剣士をじっと見つめていた。
 と、その時、ニトロはフルセルがちらりとこちらへ目をやってきたように思えた。
 ……いや、きっとそれは勘違いではない。
 フルセルが、それまでの微笑とは違う笑みを刻んだのだ。
 老剣士は笑むと同時にニトロから目をそらし、グラム・バードンに目を戻して大きく息をついた。
「いやはや、歳は取りたくないものですな。息が続かない。お陰で恥ずかしい技ばかりをお見せしてしまい、閣下には大変申し訳なく存じます」
 静かなホールにフルセルの声が響く。彼は確かに疲労困憊で、声音もそれを如実に伝える。
「何を仰る。そのお歳で、素晴らしいものです」
 公爵が真摯に応える。フルセルは笑った。
「大変光栄ではありますが、閣下に言われると立つ瀬がありませぬ」
「おっと、それもそうですなぁ」
 公爵は豪快に笑った。
 フルセルは、ちらりと、今度はニトロではなく、この混戦の場にあって、まるで死人のように“目立たない”少年に目をやった。
 老剣士の目の動きから、グラム・バードンはずっと背後でプレッシャーを与えてきている曲者を意識した。
 そして、先ほど老剣士が『彼』を気にしたことも含めて、この伏兵の意図を探ろうとする。
 剣を交えている者同士のテレパシー……とでもいうのだろうか。フルセルは公爵の思考を察知したように、笑った。
「さて、そろそろ老いぼれは退場するといたしましょう」
「退場とは、まるで敗北を前提としているようですな」
「勝っても負けても、もう限界でございます。リタイヤですよ、閣下。明日はきっと立つこともできませぬ」
「……そのわりに、何か希望を持っているように思えますが?」
「これでも、昔は教職にありましてな。まあ、教え方の下手な駄目教師でありましたが、それでもありがたいことに、こんな私からも生徒は色々と学んでくれたものでしてなぁ。いやはや、才気溢れる若者を裏切らないようにするのに必死の人生でした」
「貴殿の教え子は幸せと思いますがな」
「お褒めのお言葉、ありがたく頂戴いたします」
 フルセルは大きく息を吸い、そこでぴたりと呼吸を整えた。
「幸運にもティディア様のお誕生日会にご招待いただき、さらには閣下とお手合せ願えたこと、余生の誉れといたしましょう」
 フルセルは両手で剣を握り直し、剣先を己の眼の高さに合わせる。
「それ以上の誉れもあるやもしれませんが?」
 そう言いながら、グラム・バードンも構え直す。
 二人とも同じ構えをし続けているのに、何故だか、皆には二人が全く違う構えを取ったように思えてならなかった。
 声援が、次第に消えていく。
 再び静寂が達人達を包む。
 静謐とも思えた。
 ここがロザ宮ではなく、どこかの神殿の中にも思えた。
 開け放たれた玄関からふいに風が舞い込み、薔薇の香りが戦場に迷い込んできた。
 ――と、次の瞬間。
 フルセルが、老人とは思えぬ伸びで袈裟斬りを放った。斬りかかると同時に彼は片手持ちに変化している。両手から片手に切り替えることで生まれるリーチの変化、それによる幻惑。両手で持っては届かぬ位置にまで届く剣の軌道、限界まで伸ばされた体勢はほとんど捨て身であり、それゆえに必殺の意志を閃かせる。
 誰かが「あ」の形に口を開く。が、その口から声が出るより先に剣の切っ先は公爵の肩に届こうとしていた。
 しかし、それを公爵は冷静に弾きにかかった。弾けば後は体勢の崩れた老剣士を仕留めるだけである。多くの人間がとうとう公爵がフルセルを討ち取った――と、そう感じたその刹那! ふいにフルセルの剣が変化した! 肩口に向けて振り下ろされようとしていた剣先が軌道を変え、公爵が上段の攻撃を防ぐために持ち上げた剣の下、大きな胴へと突きが迫る!
 誰かの「あ」という声がようやく事態に追いついた。
 その声の主は、フルセルの必殺の技が公爵をとうとう討ち取ったと感じていた。
 渾身の突き。
 全身全霊を込めた最高の突き。
 それは間違いなく、フルセルの剣術人生においても最高の突きであった!
 ――が、
「むん!」
 公爵の裂帛の気合がロザ宮を揺らす。
 つい直前までフルセルの袈裟斬りを弾こうと差し上げられていたはずの公爵の剣が、下段から振り上げられていた。
 キン、と、澄んだ音がした。
 それは清廉な音であった。
 主の手から弾き飛ばされたフルセルの剣が、宙を舞っていた。
「お見事にございます」
 フルセルが言った。
 彼の背後に剣が落ちて、また清廉な音を立てた。
 公爵は剣を鞘に収め、真摯にうなずき、大きな右手を差し出した。
 フルセルが老いに骨ばる右手で応える。
 両剣士が握手する姿を、歓声と喝采が包み込んでいた。

「……さて」
 退場するフルセルへの賛辞が余興にちょうど良い小休止を作っている。
 試合場から出た老剣士を心配と感動で頬を濡らした夫人が出迎えると、それに続いて多く賞賛が彼を取り囲む。戦いの最中とは打って変わって恐縮して身を縮めているフルセルを眺めながら、グラム・バードンは言った。
「てっきり背を斬りにかかってくると思っていたのだが?」
 グラム・バードンの声は歓声の中にあってもよく通る。王女の声もそうであったが、彼の声が主のものと違うのは、それだけで気弱な相手は降参してしまうであろう迫力が込められていることであった。
 ハラキリは、頭を掻いた。
 公爵のセリフは明らかにこちらの『性質』を前提としたものだ。
 できれば全く素性が知れない状態で“爪”を隠したまま戦いに臨む――というのが理想であるのだが……まあ、それは初めから叶わぬと解っていたことである。ティディア直属親衛隊隊長である彼が自分のことを知らぬはずがないのだから。
「いやいや、素晴らしい一騎打ちに水を差すのは流石に躊躇われましてね」
 肩をすくめて、ハラキリは言った。
「それに、割って入ったところで実力差が目立って恥を掻くだけです。下手をすれば二人の剣風に巻き込まれて失格――なんて醜態を晒しかねない。あるいはお二人の怒りを買って、達人の二人がかりで退治されることになったら目も当てられない。何にしろ、拙者には入り込めない世界ですよ」
 口軽い彼のセリフを聞きながら、グラム・バードンが剣を抜く。
 それが、余興の小休止を終わらせる合図となった。
 と、
「おぬあ!?」
 突然、ハラキリの耳に素っ頓狂な声が届いた。ちらりと目を走らせれば、二人がかりの不意打ちを受けたニトロが慌てて逃げ出しているのが視界の端に映った。
 一方、王女はまた一人の青年から挑戦を受けている。中央大陸で注目されている新進気鋭の政治家であった。
 そしてハラキリの……正確にはグラム・バードンの周りには誰も寄ってこない。
 人数が減り、密度の薄まった試合場には散発的な小競り合いもなく、今や完全に三分割されていた。
 戦場の中心にはティディアがいる。彼女の前には一人の対戦相手と四人の順番待ちがいる。戦場にあってのんきに行列を作って、しかし、それには誰も襲いかかろうとしない。それどころか新たに一人、列の最後尾に加わっては先に並んでいた者と丁寧に挨拶すらしている。
 悲しいのはその周囲を動き回るニトロだろうか。のんびり順番待ちをしている兎を側にして、彼はさながら1ダースの狩人に追われる牡鹿である。見事なステップで降りかかる刃をかわし、避け、逃れ逃れて逃れるように見せかけながら時につるぎで反撃を食らわす立派な牡鹿。それでも『獲物』役を一身に担わされたニトロは、時折、
「だぁぁい!」
 とか、
「ちょ、わーお! やめ、わあああお!」
 とか。
 いくらなんでも多勢に無勢だと、相変わらず抗議を含めた(それでいてどこか滑稽な)悲鳴を上げている。
 ……まあ、正直哀れではあるものの、
(うん)
 ハラキリは内心で力強くうなずき、ティディアはもちろん、これまでと同じく愛弟子も放っておいて良しと断じて目の前の難敵に意識を集中した。
「貴殿の力、肌で確かめたかった」
 グラム・バードンが言う。
 ハラキリは少し眉をひそめ、
「閣下のご興味を引くようなことをした覚えはありませんが」
「興味を引かぬ方がおかしいとは思わぬか?」
「だとしても、実際に剣を交えようというほどではないでしょう。拙者はただの“外部要因”なんですから。しかし、どうやら閣下は入隊テストのように仰っている」
 グラム・バードンは察しの良いハラキリに笑みを返す。しかし、どこかそれは険のある笑みに思えた。
「外部要因とはよく言ったものだ。もはや“身内”に近いであろうに」
「“近い”と“そうである”には非常に大きな開きがあります。閣下ともあろうお方がそのような差異を正確に測れぬとは思えませんが?」
「では言い方を変えよう。王太子殿下は、貴殿を臣に欲している。場合によっては「閣下は、どうやら冗談はお下手のようだ」
 ハラキリは突如つっけんどんに言い放ち、公爵の言葉を強く遮った。年齢も身分もずっと上の者に対するには無礼に過ぎ、それだけに、そこにはハラキリの強い意志が込められていた。そして彼は、その意志も明確に口にする。
「拙者には笑えません
 グラム・バードンは険のある笑みの上で、目を細める。
「それが、気に食わないでいる」
「正直なお方ですねえ」
 ハラキリは苦笑を浮かべた。
「実に、おひいさんには受けが良さそうだ」
 正直な感想とも、極めて侮辱的な皮肉とも取れるセリフを怖気なく吐くハラキリに、グラム・バードンはにやりと笑った。先の一騎打ちへの熱が止み出した今、彼らの周囲にはそのやり取りを聞く者もあり、それらはハラキリ・ジジの傲岸さ――いや、ここまでくると豪胆さにむしろ聞く者達が肝を冷やしていた。
 ハラキリが、これまで一度も振るっていない剣をグラム・バードンに向けて、構える。
 フルセルに向けられていた喝采が静まっていくに従い、『余興』への関心がにわかに盛り上がりを取り戻していく。
 派手な追いかけっこを繰り広げるニトロは感心と笑いを呼んでいた。
 ティディアは流麗な剣術によって感嘆を呼んでいた。
 ハラキリとグラム・バードンは、公爵に相対する新たな挑戦者……それも挑戦者がハラキリ・ジジであったからには息を飲むような重い関心を集めていた。
 果たして、あのニトロ・ポルカトの『クノゥイチニンポー流護身術』の『師匠』は達人を相手にどのように戦うのか。
 そこには、フルセルと公爵の一騎打ち以上の戦いが望まれていたと言ってもいい。
 グラム・バードンが探るように一歩踏み出す。
 ハラキリ・ジジは動かない。
 グラム・バードンがもう一歩踏み出す。
 ハラキリ・ジジは公爵を中心点として円を描くように横に動いた。
「――」
 何かを悟ったように、公爵が一気に間合いを詰めようとする――その瞬間、ハラキリが先んじて大きく後退した。
「……」
 グラム・バードンが不愉快に眉をひそめる。
 彼は、今のやり取りのみで、この曲者が“危険地帯”と“それ以外”とを分ける『間合い』を的確に掴んでいることを察知したのだ。
 では、あの曲者は危険地帯を避けて常に逃げ回るつもりなのだろうか。
 ――その答えは、否であろう。
 ふと、大きく後退していたハラキリが逆に自ら間合いを詰めてきて、ついには“危険地帯”にも進入してくる。攻撃してくるつもりか? とグラム・バードンが身構えればそんなこともなく、『ニトロの師』は中途半端な位置で足を止める。そして彼は間合いを探るようにしながら、そのくせある地点を行ったり来たりするようにするだけで、結局何もしてこない。
 公爵は、確信した。
 その地点こそは境界線である。こちらの攻撃も届くが、あちらの攻撃もギリギリ届くであろう距離。こちらの間合いに入りながらも防御に徹すれば安全圏に逃げられると自信を持てる位置であり、そのくせ隙あらばちょっかいをかけるには最適の地点。純粋な剣術の腕では大きな差があったとしても、それでも負けない戦いができる――何と素晴らしくも嫌らしい『間合い』ではないか!
 公爵はそれと判らぬように微かに間合いを詰めた。
 ハラキリがそれと判らぬように微かに重心を後ろにずらす。
「……」
 グラム・バードンの口元が不快に歪む。
 癪に障った。
 この若輩者は、そう、この『間合い』をフルセルの戦いぶりから学び取ったのだ!――そう思えばこそ、グラム・バードンは癪に障るのであった。もちろん、奴のその学習能力は、その観察眼は誉めて然るべきものであろう。しかし、公爵には、正々堂々とした老剣士との素晴らしい戦いを、そのような狡い戦法へと還元するハラキリ・ジジの根性が我慢ならぬほどに気に食わなかった。
 さらに!
 何より気に食わないことは!
 ハラキリ・ジジが常にティディア姫を背にしようとしていることである!
 もし自分が強引に押し込んでいこうとすれば、ハラキリ・ジジは遠慮なく一騎打ちに興じている王女を『この戦い』に巻き込みにかかるだろう。そうすれば、自分は、おそらく王女も敵に回すことになる。場合によっては、それが好機とばかりにニトロ・ポルカトや生き残っている全ての参加者全員が襲いかかってくるだろう。その場合、あの天才でしの腕をよくよく知る身としては、それが敗北を意味することをもよくよく知っていた。
「……貴様」
 ハラキリの意図を完全に悟ったグラム・バートンが苦々しくつぶやく。
 一方で、ハラキリは、緊張感もなくへらへらと笑っていた。

 気がつけば。
 パトネトの頭上の大宙映画面エア・モニターに表示されている余興ゲームの成績表で、トップスコアを叩き出している人物の名は『ニトロ・ポルカト』となっていた。
 撃退数2人の同率四位以下は団子状態。
 三位はグラム・バードンの8人。
 二位はティディアの12人。
 ニトロは、王女を五つ上回って17人であった。
 参加者のうち、半数以上がこの三人に負けた計算となる。
 最初の突進で7人を倒し、次いで老剣士を激闘の末に下した公爵。
 常に一対一で戦い続け、勝ち続けている王女。
 この二人の星は実力で真正面から勝ち取ったものであるが、一方、ニトロは最初のシァズ・メイロン以降はほぼ『どさくさ紛れ』の形で星を得ていた。
 詳細はこうである。
 ニトロは、例えば自分に襲い掛かってくる二人がいたら、一人を壁にする。それでもう一人が困っている間に壁になった一人と鍔迫り合いに持ち込み、すると困っていた敵が仕方なく壁となっていた一人を背中から斬りつけ倒す。壁とされている間に脱落が決定した人間はがっかりだ。一方、形はどうあれ星を奪った人間は喜ぶ。と、その間に、がっかりして棒立ちとなった人間の陰から、ニトロは星を取ったことで隙を作っているもう一人の足にちょんと剣を触れて負かす。がっかりが二人に増える。ニトロは別の参加者に襲いかかられる前にその場から離れる。
 ニトロは、例えば三人に囲まれたら、思い切って一人に思い切り打ち込む。その打ち込みの威力に相手がたじろいだ瞬間、ニトロは急に方向転換して囲みから脱出する、と同時に、ニトロの行動に意表を突かれて動きを止めている相手がいればその体に剣を微かに触れさせて星をもぎ取る。
 追いかけてくる先頭の人間の足元に急にうずくまって“玉突き事故”を起こさせたり、初めから鍔迫り合いを狙って組み付くや即座に足をかけて転ばしたりという奇襲から退場者を生んだこともある。
 一人に対し数人で一斉に襲いかかるというのは意外に難しく、ついさっき顔を合わせた者同士では当然上手く連携はできない。剣という不慣れな物を扱いきれぬ者もあり、結果、攻撃者がもつれ合って勝手に自滅した際には抜け目なく始末する――といった形もあった。
 これらの戦法が完全に『ニトロ・ポルカトのショー』として成立したこともあり、それ故、ニトロが勝ち星を増やす度に大きな歓声が沸き上がっていた。
 反面、ただ一人不興を買っていたのがハラキリであった。
 彼は初めから全く真面目に戦う気がないように締りなくへらへらと笑い、のらりくらりとグラム・バートンから着かず離れず、戦いもしなければ逃れもしないという半端極まる行為を繰り返し続けている。少年と公爵は未だに一度も剣を触れ合ってすらいなかった。されど少年が剣を振らないわけではない。痺れを切らした公爵が別の箇所に向かおうという素振りを見せるや、ひょいと敵の前に回りこんで剣をちらつかせる。まるで斬ってみろと挑発するように構えを崩しながら。なのに公爵に詰め寄られると逃げる。そして敵を馬鹿にするように切っ先を揺らしながら公爵の周りをうろうろとする。
 ハラキリ・ジジの行為は、ともすれば先の素晴らしい一騎打ちまでをも愚弄するかのように思えるものであった。公爵を相手に立派に戦った老剣士に比べて何という恥知らずな人間であろう! なまじ『ニトロ・ポルカトの親友』にして『師匠』への期待が大きかった分、その失望は非常に大きなものとなっていた。
 この王女の誕生日会に集まっている者達は、紳士淑女である。余興に没しないことが王女の意に反するとしても、流石にブーイングまで出していない。されど、声はなくとも、いや、声がないからこそハラキリに向けられる目は極めて軽蔑に満ちていた。グラム・バードンの険しい顔よりも激しく、『ハラキリ・ジジ』への眼差しは侮蔑に染まっていた。
 その悪感情は凄まじく、好意的な声援を受け続けるニトロでも常に感じ取れるほどであった。『ショー』の最中、ニトロがちらりと目にしたハラキリとグラム・バードンの“一騎打ち”の近くにいる観客達の中には、怒りのために顔を赤くしている者すら存在したのである。
(……ハラキリ?)
 ニトロは正面から襲い掛かってきた相手――中年太りの男性で、ニトロを追いかけすぎて息も絶え絶えに疲れている――を正面から打ち負かし、そこで生まれた少しの休息の時を見計らって渦中の場に今一度目をやった。心配げに、同時に疑念の目でハラキリを見つめる、と、その瞬間、ニトロの目とハラキリの目が合った。するとハラキリは、ほんの一瞬、ニトロへ何か意味のある眼差しを送ってきた。そしてすぐに公爵に向けて、それまでのヴォンからビィオへと構えを取り直す。
 ニトロは戸惑った。
『師匠』の眼差しには明らかに“指令”があった。
 そして、ニトロは気づいた。
 公爵から左手を隠し心臓を遠ざけるビィオの構えを取った『師匠』の、その隠された左手が、ほとんど朧げにではあるが、しかし確かにハンドサインを作ったことを。
 その意味を理解したニトロは驚いた。驚くと同時に、親友がやはり公爵への壁となってくれていて、そのために汚れ役にもなってくれていることに胸を熱くした。
 ニトロは親友への感謝を胸に『余興』に戻り、己のつまらぬ意地など捨てて彼の意志を汲み、そうして緩慢にティディアへ近づいていった。
 ――途中、仲間割れもあり、ニトロを追い回す追っ手の数は7に減っていた。
 ティディアは最後のお手合せ希望者を相手にしている。
「いつまでこうしているつもりだ!」
 業を煮やしたように、グラム・バードンが怒声を上げた。観客の中に、怒りを買っているのが自分ではないというのにびくりと体を震わせる者があった。
 しかし、怒声を受けた当人は笑みを浮かべたまま何も言わない。公爵は、ハラキリのそのふざけた表情はどうでもよかった。外から見ればへらへらと笑っているようであるが、実際にはそうではない。ハラキリ・ジジは作った表情を浮かべ続けているだけで、その双眸は極めて真剣にこちらとの距離を測っている。そんなことぐらいはとっくに承知している。
 だが、それでも、ハラキリ・ジジのこの『意図』には腹が立った。
 ――時間稼ぎ、あるいは、本当にただの嫌がらせ。
 無論、それは何か『狙い』があってのことであろう。
 時間を稼ぐのならば、その“機”を奴は待っている。
 嫌がらせであるのならば、こちらが激昂することを待っている。そうやって何か“罠”にはめようとしている。
 奴が狙う“機”や“罠”がどのようなものか気にならないと言えば嘘になるが……それ以上に、期待していたハラキリ・ジジの実力をこの身で確認し得ないという焦燥にグラム・バードンは憤懣やるかたなかった。
 そうしている内に、ニトロが、彼を追い回すうちにスタミナ切れを起こした相手を一人、また一人と討っていく。
 ティディアが、最後の挑戦者を倒して『礼』をしあう。
 挑戦者もいなくなり、手持ち無沙汰になった王女がぼんやりと周囲を眺め、新たな挑戦者がいないことを見て取ると剣を収めた。そしてハラキリとグラム・バードンとへ目をやる。どうやら彼女は暇潰しに二人の戦いを眺めることにしたらしい。
 ――と。
 その時であった。
 戦場が急変した。
 渦を描くようにティディアに接近し始めていたニトロを最後まで追い回していた四人の内の一人が、突然、背を向けているティディアに向かったのである。
 それは一番目の参加者、あの東大陸の伯爵であった。
 観客達が声を揃えて「あっ」と叫んだ。
 ニトロも、ニトロを追い回していた者も驚き動きを止め――そして、観客の驚声に足音を隠した伯爵がティディアの無防備な背中へ猛然と剣を振るう!
「上出来!」
 直後、ティディアの歓声がホールに響き渡った。
 まるで背に目がついているかのように、王女は――彼女は瞬時に抜剣していた――伯爵の剣を振り向き様に受け、弾いていた。剣の絡み合う複雑に甲高い音がした。ティディアは剣を巻きつけるようにして伯爵の剣を捉え、宙に舞わせようとしたのだが、伯爵がそれをさせなかったためにただ『弾いた』形となったのだ。ティディアは頬に笑みを刻みながら即座に反撃に転じた。伯爵は王女の剣をかわし、さらに追って放たれた一撃を弾き返す。
 それと同時に、別の場所でも驚愕が生まれていた。
 ハラキリ・ジジが、ついにグラム・バードンに斬りかかったのである。東大陸の伯爵が王女に斬りかかった瞬間、思わずそちらへ注目した公爵の“唯一の隙”を彼は逃さなかった。床を滑るような上下に体のぶれない足捌きで一息に間合いをつめ、全力の袈裟斬りを放っていたのである。
 その、これまでの少年の動きからは信じがたい剣筋に驚愕が爆ぜる中、しかし、公爵は後手に回りながらも敵の攻撃を容易に剣で払った。
 公爵のグレーの瞳が燃え上がる。
 その顔は、不快から一転、喜悦に染まっていた。
「いざ!」
 ティディアに対し伯爵が激しく打ち込む。一度、二度、三度。成人男性の渾身の斬りつけを、しかし王女は難なく防ぐ。四度目には、誰もが目を疑ったのだが、それでも優位に打ち込んでいたはずの伯爵が大きくバランスを崩していた。剣がぶつかり合った際にほんのわずかに前進する動きで、力に劣る王女が力に勝る伯爵を押し返していたのである。まるで子ども扱い。攻めていたはずなのに攻め込まれてしまった伯爵はたたらを踏みそうになったが、即座に体勢を立て直すと、面前に迫っていた王女の突きをこちらもわずかなバックステップでかわしきった。そして、直後、低く深く体を沈め踏み込むや王女の突きの引き際に必殺の突きを合わせる!
 素早かった。これまでの展開で、様々な人間の剣の腕を見てきた観客達が改めて息を飲む速度であった。しかしティディアは――伯爵の渾身の攻撃に対し、その時、驚くべきことに間合いを詰めていっていた! 迫る剣を紙一重でかわして、彼女は伯爵の懐に、それこそ抱き締められるほどに一瞬で入り込んでいたのである。
 両者の動きが止まった時、王女の剣が、伯爵の首筋に添えられていた。
 その刃は未だ伯爵に触れてはいない。
 しかし、勝負は決した。
 伯爵は潔く負けを認め、剣を収めて跪く。
 すると王女は微笑み、その剣を伯爵の首にではなく、まるで叙勲式のように肩へと静かに触れさせた。
「いざ!」
 他方、伯爵がティディアに敢然と斬りかかると同時に、ハラキリに対してグラム・バードンが轟然と斬りかかっていた。
 誰もが目を見開いていた。先ほどまで姑息な戦法を取り続けていたハラキリ・ジジ。公爵の隙を突いた初撃は確かに見事ではあったが、それに対する驚愕すら今は霞む。彼は親衛隊隊長が嵐のように打ち下ろしてくる剣を的確に、素人目にも達者な巧みな剣の使い方で受け続けている!
 勝負は、決さない。
 ハラキリは、公爵の猛攻の中、受けから転じてふいに鋭く突きを放った。それは彼の年代から考えれば信じられないほど修練度の高い突きであった。が、公爵はそれを己の弟子と同じく紙一重でかわし、やはり――奇しくも――弟子と同じくハラキリの懐に入ると同時に彼の首に剣を押し当てるようにする。実戦では刃を当てた後に引くことで喉を切るのだが、この余興のルールでは触れた時点で敗北だ。ハラキリはそれを避けるべく巧みに体を捌き、公爵の刃と己の首との間に強引に剣を差し込み鍔迫り合いに持ち込んだ――が、いくらなんでも体格差がありすぎる。公爵が気合を込めて体を当てていく、と、ハラキリが派手に吹き飛んだ……いや、ハラキリは自ら後方に跳んでいた。
 そこに、さらに公爵が追撃を加えようと接近する。
 誰もがハラキリ・ジジは逃げるだろうと思った。
 公爵との腕の差がはっきりした今、再び、先と同じように中途半端で姑息な戦法に――違う、彼の実力が判明したからには『したたかな戦法』に切り替えるだろうと思い込んでいた。
 だが、ハラキリは、今度は堂々と受けて立つ。
 一度目よりも激しさを増した公爵の連撃へ、ハラキリは一度目より激しく打ち返す!
 大きな驚きが再び沸き起こった。
『のらりくらりとグラム・バートンから着かず離れず、戦いもしなければ逃れもしない』でいた先ほどと同様の的確さで――フルセルの戦いから学び取った“自分の腕でも公爵と戦える”間合いを保ちながら、ハラキリは達人たる親衛隊隊長と正面から立派に相対していたのである。
 驚きの声を発した後は、誰もがまばたきを忘れた。
 激しくぶつかり合う剣戟の轟音。
 ハラキリは深く半身に構えて左手を後ろに、右手で剣を操り、まさに正統派の宮廷剣術のビィオのスタイルで、器用にも時に左手に剣を持ち替え、かと思えばとヴォンへと構えを自在に切り替え、そのいずれにおいてもオーソドックスな動きからトリッキーな動きまで剣筋の種類も豊富に、目まぐるしく、老剣士フルセルとはまた違う熾烈な一騎打ちを演じていた。
 そしてフルセルに技術は負けても力に勝るハラキリの剣は、公爵の豪剣と何度も何度も火花を散らす。
 まさに火花の散る斬り合いであった!
「やはり! やるではないか!」
 グラム・バードンがこの上なく楽しげに叫ぶ。
 が、ハラキリには叫び返す暇などなかった。そんなことに割り当てられる余裕はない。わずかにも集中力を欠けば即座に敗北するだろう。彼は半ば呼吸すら止めて打ち合っていた。公爵は、やはり上段からの斬りつけを主にしてくる。だが、解っていてもそれを凌ぎ切るのは極めて困難であった。
 と、公爵が急に突きを放ってきた。
 リズムが狂い、ハラキリは危うく剣の切っ先を喉に受けるところだったが、辛うじて剣の腹で軌道を逸らし、そのまま剣先を相手の指に向けてスライドさせた。
 こしゃくな、とばかりにグラム・バードンがハラキリ・ジジとの戦いにおいて初めて大きく退避した
 どよめきにも似た歓声が上がった。
 それはあまりに信じられない光景であったため、ハラキリ・ジジの勝機にも思われた。
 しかしハラキリは攻め込まない。誘いには応じず、その隙に、ようやく満足な呼吸を取り戻しながら後方に跳び、彼は間合いを広げながら周囲の状況を確認した。
 グラム・バードンが即座に反応し、ハラキリを休ませないとばかりに追ってくる。
 打ち合い、またハラキリが後方へ跳ぶ。今度は押し負けてのものであった。
 それを機に、ハラキリは完全に劣勢に立った。後先を考えずに無呼吸で全力を尽くしていたため、早々に息が荒くなっている。休むための隙間を公爵が的確に潰してくるため、いくら弟子以上のスタミナを持っていてもこの短時間においては意味がない。彼の体力は見る間に削られていた。
 ハラキリはどんどん後方へ跳ぶ。
 公爵はぐんぐん追う。
 ハラキリの視界にニトロが入った。公爵の背後で、親友はティディアと共に他の参加者を一掃していた。
 ――最高だった
(よし!)
 ハラキリは内心で喝采を上げた。
 彼は、グラム・バードンとフルセルとの一騎打ちを見て、やはり公爵を自分の手で仕留めるのは不可能だと判断していた。“実戦”ならば剣をこの身で受け止め相打ちに引きずり込むこともできようが、この余興のルールではそれはできない。奇襲もよほどの奇襲でなければ通用しないだろう。だが、この隠れ場所もない“戦場”でできる奇襲など数が知れている。
 では、どうするのが最善であろうか。
 妹姫の願い通り、親友と友達の『一対一』を実現させるには?
 ハラキリの結論は『ある段階でニトロとティディアを共闘させる』ことであった。
 グラム・バードンに地力で勝つ可能性があるのは――あの老剣士が敗れた以上――やはりティディアだけである。とはいえ、それも“確実”には程遠い。彼女の覚悟を加味しても、良くて六分四分で彼女の不利だろう。ニトロであれば? ゼロだ。いくら実戦に強く、時にとんでもない力を発揮する彼であっても、『師匠』として断言する。ゼロだ。
 しかし、あの二人が協力するならば勝率は格段に跳ね上がる。ニトロは前面に出なくていい。前衛はティディアに任せ切っていい。彼は天才のフォローに回るだけでいいし、それこそをすればいいのだ。公爵を挟み込み、この怪物を王女にだけ集中できなくさせればそれだけで“確実”に手が届く。何より、そうなれば、公爵はきっと驚くことになるだろう。ニトロとティディアは相性がいい。ニトロに言えばひどく嫌がられるだろうが、二人の『コンビ芸』は何だかんだで最高なのだ。それがいかんなく発揮されたなら、もしかしたら、ティディアではなくニトロが公爵へ大きな一撃を食らわしてやることだってあるかもしれない!
 ――だが、ハラキリには、二人を『共闘』させるに当たって障壁が二つあった。
 一つは、愛弟子の『つまらぬ意地』である。宿敵と手を組むことが最良の手であることは彼も解るだろうが、それでも彼が“宿敵である彼女”に自ら協力を申し込むことはないであろうということだ。
 もう一つは、ティディアもが『共闘』を拒否する可能性であった。そして、ハラキリにとってはこちらこそが問題であった。何しろ、ニトロのつまらぬ意地に比べ、こちらには『強固な意志』があったのだから。
 ハラキリがティディアから剣を賜った時のことである。
 彼女はこう言ってきた――「一体、どの天使が貴方に助言したの?」――それは気まぐれな人間に対する、アデムメデスの昔ながらの言い回しだった。そのセリフをそのまま受け止めれば、ハラキリの場合、模範解答は戦いか遊興に通じる守護天使の名を挙げるところであろう。が、アデムメデス国教では、王の子女は『天使の代行者にして依代』とされる。彼女の言葉は、もちろん“ミリュウとパトネト、どちらに頼まれたのか?”という質問だった。
 そこでハラキリは質問には答えず、こう返した――「もしかしたら『ティディア&ニトロ』の相手ができるかもしれないでしょう? 実に興味深い経験です。だから、この機を逃すことが急に惜しくなったんですよ」――それは無論ただの戯れ言。しかし思わぬ反応があった。彼女が、少し困ったような顔をしたのだ。それは“ニトロと組むことはない”――と、そう言っているようだった。興味を引かれ「どうしました?」と聞くと「機会はいくらでもあるわ。『漫才』の舞台に飛び入りなさい。ピンとコンビでお笑い対決をしましょう」とはぐらし返されるだけ。
 それでも、彼女の表情は重要なヒントをハラキリへ下賜してくれた。
 ミリュウ姫は言っていた――『愛が大事なのです』と。
 そしてティディアは……思えば、彼女は、『勝ち取る』という言葉を要点に置いていた。
 ――『私からそれを勝ち取った者ならば、ニトロ・ポルカトでなくても、私は愛するでしょう』
 そこまで言い切るほどに、重きを置いていた。
 愛を大事にした上で、妹は『最後はニトロとティディアの一対一』が理想的であると言うのに、姉はニトロと組むことを望まず、そして、『勝ち取れ』というキーフレーズ。
 ここまでくれば、ハラキリには自ずとティディアの『目的』が見えた。
 思い出すのは『シゼモ』である。
 そうなれば、ティディアの覚悟、彼女があれだけのリスクを抱えたことについてもハラキリには納得できた。確かにその『目的』へ最大の効果を望むなら、少なくとも彼女がニトロを贔屓にすることは禁忌だろう。最終決戦が『王女と英雄の一騎打ち』になることは別にいい。しかし、例えその“予定調和”が皆に歓迎されるものであったとしても、それは結果としての“予定調和”にしなくてはならない。それは、困難の末に彼と彼女が実力で『勝ち取った』状況でなければならないのだ。
 となると――ハラキリは確信した――やはり簡単には『ニトロとティディアの共闘』を成立させることはできない。同時に自分と彼女の共闘、という選択肢もなくなった。自分と彼女が共闘してニトロを生き残らせるというのは、あまりに出来レースである。
 しかし、だとしても、二人を可能な限り確実に生き残らせるには二人を共闘させるしかないのだ!
 では、どうする? ティディアの抱える厄介な諸条件をクリアしつつ、二人が心に築いている障壁を同時に破壊する手はないか?
 ……一つ、あった。
 時期的には決勝戦手前――ニトロが自力で最終段階まで生き残った後――しかも残る相手が圧倒的実力者グラム・バードンであること――それなら公爵の“弟子”であるティディアがニトロと組んでも贔屓にはならない――その状況下で、二人の『義理人情』をくすぐることである。
 自分が二人のために汚れ役を買って出たら、さて、二人はどう出るだろう?
 ニトロは意気に感じてくれるだろう。
 ティディアは――これでも正直、賭けだ。しかし、友達として信じる!
(上々上々!!)
 内心では笑いながら、実際にはより必死に――より大きく剣戟の音が鳴るよう攻めにも転じながら――公爵の剣を防ぎ続け、ハラキリは、ついに場外際まで追い詰められた。
 否、ハラキリから見れば、ようやく公爵を追い詰めていた。
 ここに来て『ニトロ・ポルカトの師』として相応しい剣の腕を披露した彼を、激しい応援が後押ししようとしていた。そして凄まじい攻防を見せる二人を歓声が包み込んでいた。その声の大きさも凄まじい。メインイベント前の温まりに温まった会場。紳士淑女の皆が、失望と侮蔑を買うだけ買ったハラキリ・ジジの一変した戦いぶりに熱を上げられたこともあって大声を上げていた。紛れて聞こえる足踏みの音は、おそらくそうやって“拍手”することが身に染み付いている楽団員のものだろう。それもまた一つの“声”だった。さらに場外際である。ハラキリのすぐ後ろで令嬢が声を上げている。若い紳士が劣勢の若者に声をかけている。無論公爵への声援も少なくない。ホールの音響効果も手伝って、ハラキリも公爵も、何重にも響く声以外の音が聞こえぬほどであった。
 だが、時は既に遅い。
 全ては決したのだ
 ハラキリは、苦心して保っていた“辛うじて防戦できる間合い”までも潰された。
「どうする!?」
 グラム・バードンが剣を大上段に構えて声を奮わせる。横に逃げれば斬る。向かってくれば斬る。受けてきたならば、受け切らせずに斬る。カウンターを仕掛けてくるならばその剣が届く前に斬ってやろう。逃げれば場外負けだ。三秒未満の復帰を狙っていても、無論斬り捨てる!
 昂ぶりながらも冷静さを微塵も失わない公爵のグレーの瞳を見返し、ハラキリはふいに――再び――へらりと笑った。この轟音の中にあっても、公爵やおひいさんほど通らなくても、これくらいの距離なら自分の声くらいは届くだろう。
「どうやら拙者はここまで」
 そう言って、無造作に、ぽいっと剣を公爵に向けて放り投げる。
 会場が驚愕に包まれた。
 だが、公爵は冷静に放られた剣を弾き飛ばし――得物をなくしたハラキリ・ジジに、少し失望を眼に映しながら、一気に詰め寄る。
 と、その時、ハラキリがにやりと笑った。
餞別です
 彼は後方へ跳んだ。最後の、場外へのバックステップ。
 驚愕に包まれていた会場がさらなる驚愕と惑いの声に包まれる。
 ハラキリ・ジジは場内に戻る? そして剣を拾う?
 いや!
 グラム・バードンは、会場を包む驚愕の中に異変を感じ取った。微かに――観客の声で音が耳に届くのが遅れた!――背後からの、敵襲!
(これが『狙い』であったか、ハラキリ・ジジ!)
 至極愉快に、彼は驚くべき速度で背後へ振り返った。振り返る際に、彼の動体視力はこちらへ向かってくる人物をしっかりと捉えていた。
 ニトロ・ポルカト!
 公爵の頬に思わず獰猛な笑みが浮かぶ。
 ――『餞別』?
 面白い! お前の残した餞別でしは小生の剣で討ち取ろう!
 グラム・バードンは剣を振りかぶった。
 この試合は、余興だ。
 主人の意図を汲み、公爵は可能な限り単純な技で戦うことを己に課していた。
 そして、それをニトロは悟っていた。
 あのフルセル氏の戦いを断続的に見続けるうちに、グラム・バードンが意識的に技を選んでいることに気がついたのである。
 さらに、ハラキリが公爵の間合いを見知っていたように、この余興における公爵の腕もニトロの知るところである。必ず迷いのない達人の剣を真っ直ぐ振り下ろしてくれる、彼はそう確信していた。
「ハァッ!」
 今日一番の裂帛の気合と共にグラム・バードンの剣が振り下ろされる。
 その迫力は、その剣を受ければきっと受けた剣ごと持ち手は叩き斬られる――誰にもそう予感させるものであった。
 ニトロも、そのように感じた。
 もし、彼が鞘に収めた剣で、片手は柄に、片手は剣先に、そうして渾身の力を込めた両腕で受けなければ……さらに、フルセルがそうしていたようにインパクトの瞬間に柔らかに受けることで剣の威力をいくらかでも殺せていなければ……きっと公爵の一撃は『ニトロ・ポルカト』をこの余興から脱落させていたであろう。
「おお」
 剣を受け止められたグラム・バードンは、自身の渾身の剣に対し、逃げる素振りすらなく、躊躇もなく、一意専心防御に徹し、それを見事に遂行してみせた少年へ感嘆の吐息を漏らした。
 そしてグラム・バードンは、刹那、選択する。
 振り下ろされた剣と、それを受け止めた剣が触れ合ったままのこの状況からは、大きく分けて取れる行動が二つある。
 一つは離れて攻撃なり体勢を整えるなりとすること。
 もう一つはさらに接近して鍔迫り合いの形に持ち込むこと。試合中に目にしたニトロ・ポルカトの行動を思えば、彼は剣術よりも帯剣格闘ソードレスリングと言おうか、剣にこだわらぬ戦いの方が得意なようだ。現在の宮廷剣術ならありえないが、延々鍔迫り合いをするような状態になったら迷わず膝を金的にぶち込む流儀を身に染みつけさせているのだろう。『護身術』としてもそちらの方が合理的だ。では、ここからはそれに付き合うのも面白いかもしれない。――そのためには、もう一人、制さねばならないお人がいるが。
 と、グラム・バードンの脳がニューロンの一回閃く間に複数の情報を並列処理し、そこまで戦略した時であった。
 ニトロの陰から公爵の目に影が走り、瞬時に上へと消えたのである。
「!」
 グラム・バードンは頭上に目を走らせた。
 そこには、やはり、王女がいた。
 ニトロと共に駆けながら、彼を盾にし、その陰に身を潜めていた王女が彼の背を踏み台にして高く宙に舞っていた。
 歓声の中、ふわりと……どこか重力からも逃れたかのように、王女が伸身で宙返り、身を捻りながら剣を振るってくる。
 奇抜極まる奇襲。
 しかしグラム・バードンは焦らない。
 その単純な軌道しか描けぬ剣筋を見極め、首の動きだけでかわす。
 刹那の攻防。
 その一瞬だけでいくつもの攻防があった。
 王女を追って公爵が上を向き、そのため体勢がわずかに崩れたが同時、ニトロが公爵との間を詰めていたのだ。鍔迫り合いの形となり、公爵は、さらにニトロが自分を押し倒そうとしていることを察した。彼の左足が、こちらの右足を払おうとしていたのである。それを公爵は膝を外に張り出すことで防ぎ(同時にティディアの剣を避け)、次いでニトロを逆に押し倒そう、そしてそのまま背後に着地する王女から距離を取ろうとした――のだが、ここで公爵は驚いた。
 ニトロは、自分よりも身長も体重も力も強い公爵の押し込みをぐっと腰を沈めることで堪えてみせたのである。
 公爵はニトロとの押し合いに均衡が生まれたその一瞬間に、再び戦略を描いた。
 さて、このままだと王太子殿下は小生の背後に着地する。このままニトロ・ポルカトと押し合いをしていては背を斬られて敗北する。無駄ばかりの大きな動きでわざわざ派手なアクションを見せたのは『余興』のための“演出”でもあろう。また、そのまま挟撃に移るための“飛び越え”でもあるのだろう。確かに王太子殿下を相手に挟撃を受けてはひとたまりもない。しかしニトロ・ポルカトは剣を鞘にしまっている。鞘は割れている。剣を折ったとは言わないが、少なくとも曲げた手応えはあった。なれば簡単には抜けまい。どこかで別の剣を調達するにもそのような暇はない。――ならば。
 グラム・バードンは、現状ニトロは全く無害であると判じた。そして彼を捨て置き王女を先に制しようと身を翻す。
 ティディアは着地したばかりで、その体勢は整っていない。
 その隙を見逃さず、グラム・バードンは全力で斬りかかった。
 いかに我が最高の弟子とて逃れられますまい。王太子殿下にはここでお休みに――……
「?」
 その時、グラム・バードンの眉がひそめられた。
 彼には、一つ、大きな誤算があった。
 それは、彼のニトロ・ポルカトに対する『認識』についてであった。
 この余興に対し、ニトロは『剣術大会』というよりも『プロレスのバトルロイヤル』という認識を強く持っていた。
 そう、ニトロは余興のルールに従い剣を用いながらも、グラム・バードンも気づいていたように、ソードレスリングの分野の技術を積極的に使うなど、この会場において存在する最大公約数の剣術のイメージには初めから全く従っていなかったのである
 そもそもニトロは元より『騎士道』を規範とする人間ではない。こと戦いとなれば『師匠』の教えが規範であり、その規範は、一般常識からすれば正直えぐい。
 そこにもう一つ付け加えると、彼の得意は、何よりプロレスリングの技である。
「ッ」
 ニトロが力を込める。剣を捨て、グラム・バードンの背後に取り付き、その腰に回した両腕を引きつけるように背筋を爆発させ、そして公爵の巨躯を瞬時に引っこ抜く!
「イィィヤッ!」
 ニトロの気合を聞いたが同時、グラム・バードンはロザ宮の天井を見ていた。
 半球型の美しいロザ宮の天井。
 星のように煌くシャンデリア。
 そして今宵限り中空に浮かんでいる不思議な時計。
 時間を刻むはずの針は、まるで時の流れが鈍化したかのように緩慢であった。
 それを見つめながら、彼は驚き、思わず苦笑する。
 天井を見ていたはずの公爵の目は、次の瞬間には逆さまになった紳士淑女を眺めていた。彼ら彼女らは、一様に瞠目していた。
 それもそうだろう。
 まさか、剣術大会でジャーマン・スープレックスを見ることになるなど! 一体誰が想像できたであろう!
 重い音が響いた。
 美しい弧を描いて床に後頭部から叩きつけられ、グラム・バードンの体が歪なコの字に曲がる。それでも公爵は己の胴をロックするニトロの腕に剣を当てようとし――が、それを予測したようにニトロの腕は外れた。ならばと公爵は即座に立ち上がろうとした。頭部への衝撃は冑が吸収している。首への衝撃は首と肩の筋肉が吸収している。ダメージは皆無だ。戦える、まだまだ戦える! 彼は素早く後転の要領で膝を突き、とにかく『敵』の状況を確認しなければと顔を上げた。
 顔を上げたグラム・バードンは、そこで笑った。
「これはこれは」
 ……アンバランスながら、何と強い絆か
「小生の、負けにございまする」
 満足げに笑う公爵の鼻先で、王女の剣が煌く光を受けて美しく輝いていた。

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