3−c へ

 下手をすると退屈を呼んでしまう準備時間は、しかし退屈とは無縁に進んでいた。
 まず、王女による剣の下賜という、例え遊戯だとしても得がたい栄誉が人の心を引きつけていた。参加者の一人が栄誉にあずかる度、剣を賜る当人が、そして彼の付き添いや関係者が歓喜に震えている。王家広報のカメラマンも心得たもので、複数人で陣を張り、最高のポジションと角度でその光景を撮影し続けている。
 王女から剣を賜った参加者には大昔の従僕然としたアンドロイドが一体担当につき、特製のプロテクターを渡していた。アンドロイドの説明に従いプロテクターを身に纏った参加者は思い思いにストレッチをしたり、剣を素振りしたり、付き添いの人間や知己の貴婦人らと会話を交わしている。真剣味も人それぞれで、今から顔を強張らせている者もあれば、美しい婦人や令嬢の気を引こうとアピールに精を出している者もある。一方で婦人や令嬢の方でも、参加する男性の気を引こうと応援の言葉をかける者や、甲斐甲斐しく世話をしている者があった。
 それ以外の観客は、美味なる料理やドリンクを口に「誰これの活躍が期待される」だの「あの人が参加されるとは驚いた、年寄りの冷や水にならなければいいが」だのと楽しげにしている。不参加なれど多少剣に覚えのある老貴族がこの手の事柄には無知な婦人数人を相手に弁舌を振るっていて、「いかにニトロ・ポルカトが達者であってもやはり“決勝”はティディア王太子殿下とグラム・バードン公爵閣下の一騎打ちになるだろう」と断言する。すると、彼のご高説を耳にしていた壮年の政治家が「そうは言ってもニトロ・ポルカトに期待せざるを得ない」と割り込んでくる。さらにそこへ「我らの代表シァズ・メイロン伯があっと驚かせるだろう」と若い貴族が嘴を挟んできて、以降三人の紳士が熱っぽく、次第に意地を張って論をぶつけ合う様を婦人達は微笑とも冷笑ともつかぬ笑顔で眺め合っていた。
 何はともあれ、ほのかに熱気が昇り始め、実に余興らしい雰囲気であった。
 その周囲の変化を肌に感じながら、ニトロは、時折飛んでくる声援に向けて顔は朗らかにしながらも、内心ではずっと緊張していた。声援も、誰が声をかけてくれたのかまでは理解していない。今、老齢の男が王女の前で跪いているのは解るが、それが誰であるのかにまで頭を回す余裕もない。
 ……一か八かの、賭け。
 優勝できたら待ち望んだ『結末』を迎えられる絶好の機会。
 どうしても、それを得たい。
 それを得るために、ニトロは軽く肩を回しながら混戦下に起こりうる様々な状況を想定し、手首のストレッチをしながらシミュレーションを始め、とにもかくにも生き残るためにはどのような手が最善かと戦略を深めていく。ティディアに初めから向かうのは得策ではないだろう。背に腹は変えられない、いっそ協力を申し込むか? それは非常に有効な手であり、およそ最善とも思えるが……いいや! 『師匠』には「青いですねぇ」と苦笑いされそうだけどもそれはやっぱり癪に触るからナシだナシ!
 時折、すぐ後ろのグラム・バードン公爵が何度か話しかけてくるが、その度にニトロはどこか上の空で答え続ける。その様子を公爵は面白さ半分、不満半分で見つめていたが、それにもニトロは気づけなかった。
 あと十人ほどで、自分が剣をあのバカ姫から賜る。
 思えばそれも癪だった。
 いっそあいつを素通りして装備をもらっていこうか。パティもいないから、少しぐらいあのバカにきついことをしてやっても構わないだろう。そう思いさえする。思って、そして、そうしようとも思う。そうしようと思って、次第に決意を固める。
 ――と、その時だった。
 おお、と、妙な歓声が上がった。
 驚きと戸惑いと歓迎の混じったような声だった。
 流石に興味を引かれ、ニトロは歓声の対象が背後にあることを悟って振り返る。と、列の最後尾に、ハラキリが並ぼうとしていた。
 あの『映画』の『助演男優』にして『ニトロ・ポルカトの親友』――それと同時に『師匠』でもあるハラキリ・ジジの参戦のためにホールがまた興奮の度合いを増していた。さらには、受付終了後であっても彼が列に並べるのは、おそらく初めから王女ティディアが彼の指定席を開けていたのであろうことを示している。となれば、彼も王女の特別な期待を受ける人間ということだ。彼に向けられる目の色があからさまに変化していた。
 その中で、ニトロも、周囲がハラキリ・ジジを迎えた歓声と同じく、驚き、戸惑い、そして歓迎という感情を胸に抱いていた。
 だが、その三つの感情の内でどれが最も大きいかと言えば、ニトロには何より驚きが勝っていた。ハラキリは全く参加への意欲を持っていなかったし、そもそも『目立ちたがらない』彼がこんな余興に参加するとは思っていなかったため、ニトロは心底驚いてしまったのである。
「ほう」
 ニトロの耳をやたらと嬉しそうな声が叩いた。見れば、グラム・バードン公爵がニヤついていた。公爵の眼は獲物を前にした肉食獣の様相である。彼は先ほどニトロの背後に並んだ時にも「幸運にも早速手合わせの機会がやって参りましたな」と嬉しそうにしていたが、しかし、その時には、この野獣を思わせる眼はどこにも見られなかった。
(……)
 どうやらハラキリ・ジジは、この親衛隊隊長にとって、将来守るべき対象となるであろうニトロ・ポルカトとは別の意味で興味深い相手であるらしい。
(……まあ)
 とはいえ、ニトロは思う。
 グラム・バードンの意図は、よくよく理解ができる。
 自分とバカ姫の間に起こった数々のトラブルにおいて、ハラキリ・ジジの介入はいつだって大きな影響力を持っていた。それが特に顕著であったのが『映画』であるし、スライレンドでの『赤と青の魔女』の一件だ。むしろ、グラム・バードンが相手をしたいと思わぬ方がおかしいというものだろう。
(……けれど)
 ニトロに理解できないのは、むしろハラキリの意図であった。
 最後に見た時には何やら熱心にメニューを見て給仕と話しこんでいたのに、何故、彼は急に参加する気になったのか。
 ――いや、状況からだけ考えれば、彼は初めから参加することになっていたようだから、急に気まぐれに『参加する気になった』わけではないのだろう。
 だが、ニトロにはこの『初めからハラキリは参加することになっていた』という前提がどうにも納得できなかった。状況からは確かに彼の参加が前提とされていたのに違いないし、それは理屈で理解できるのだが、一方感情ではどうしてもうなずけないのである。
 初めから参加することになっていた?――であれば、彼はこの企画について何か知らされていたのか? ティディアはハラキリには前もってサプライズの詳細を語り協力を打診していたというのか、例えば「ニトロを参加させてね」等と。……いやいや、そんな様子はやはり見受けられなかった!
 では、何故だろう? ティディアを見る。すると、
(ッ?)
 ニトロが愕然とするほど驚いたことに、ティディアは剣の下賜を中断していた。彼女すらもが驚き、戸惑い、そしてハラキリを歓迎していた。が、その表情はすぐに消えてしまった。彼女の前で跪く相手に疑問を与える前に剣の下賜が再開される。
(……関知、していない?)
 ニトロは、呆然と考えた。
 ほんのわずかな時間に刻まれていたティディアの表情を瞼の裏にリフレインさせる。彼女が演技していた様子は――やはりない。皆無だ。あれは純粋に驚いていた。
 では、どうやってハラキリは?
 考えられるのは先ほどの給仕アンドロイドを介して、パトネトに……いや、それはない。パトネトはハラキリの頼みを聞きはしないだろう。それならば先に芍薬に頼み、芍薬を介することで“人数調整”をしていたか? その演出と突然の参加は、例えば友達ティディアのための贈物サプライズとして。
(……それとも、芍薬が頼み込んだのかな)
 自分が参加するまで、ハラキリには絶対に参加の意志はなかったはずだ。では、彼の参加への意思は、当然自分が列に並んだ後に芽生えたことになる。それではとニトロが自分の参加表明の後にあったことを省みれば、そうだ、大きな出来事としてグラム・バードン公爵の参加表明があった。その瞬間、自分は公爵を凄まじい障壁と感じたが、それは芍薬も同様だっただろう。ただでさえティディアが強烈無比な壁であるのに、加えて彼女の剣の師まで! それではあまりに不利、どうにか協力して欲しいと芍薬に頼み込まれて、ハラキリは……? だとしたら、俺のために?
(…………どれも合ってるようで、どれも間違ってる気がするな)
 ただ、肌感覚として悪いものは感じない。
 むしろ頼もしさばかりが募っている。
 それならそれで良しとしておいても良い気がする……が――と、あれこれ考えている間に、気がつけばニトロはティディアの眼前に進み出ていた。
 これまでざわめいていたホールが、シンと静まり返っていた。
 あらゆる視線が『二人』に集まっていた。
 どこか冷やりとした空気があった。その空気の冷たさは、何か『良いものが見られるのでは』という期待から来る緊張感が生み出していた。その証拠に、空気は冷たいというのに、反面ニトロが背や首筋に感じるのはわくわく感を源にした熱視線である。彼は内心、苦く笑っていた。皆様の期待には応えられません――そう思いながら、彼は従僕に扮したアンドロイドから剣を受け取っている王女の前に立った。
 元よりニトロは、ティディアに対し跪くつもりはなかった。剣を賜る栄誉もロールプレイもいらない。それがここまで作られた折角の『空気』を壊しかねない行為であることは承知しているが、それと並んで自分だけは跪かなくても“許される”ことも彼は承知していたのだ。このまま事務的に受け取っても問題はない。自分の行為が名目上の『主』であるパトネトに泥を塗ることもない。何か問題があるとすれば、こちらの立位りついにティディアが文句を言ってくることだけだ。が、それも『漫才コンビ』のやり取りにしてしまえば、問題は、やはりない。
 堂々と、ニトロは王女を見つめ、その御前おんまえに進み出た。
 彼は当然ティディアが何か言ってくるものと確信していた。そのため即座に言い返せるよう呼吸も整えていた。そして実際、ティディアは立ちっぱなしで膝を突く様子のない彼に対して何かを言おうとしたように見えた。
 しかしティディアは、そこで急に息を止めたかのように、ふいに唇を結んだ。
「?」
 ニトロが怪訝に眉をひそめる。
 周囲にも訝しげな様子があった。
「……」
 ティディアは、ひたすらニトロを見つめていた。
 彼女は、燕尾服を身に纏い凛々しく立つ想い人の晴れ姿を改めて目の前にして、彼にかけようとしていた言葉を飲み込み、思わずじっくりと見惚れてしまっていたのである。
 彼女の脳裏にはニトロ・ポルカトに関する初めての記憶が蘇っていた。あれは、彼の高校の入学式だった。彼は当然制服に身を包んでいて、けれど、こんなに立派ではなかった。制服と正装の違いはあれど、中身が断然に違った。入学式のみならず、あの『映画』の頃、たった一年半前も彼はどこにでもいる運動不足のちょっと頼りない高校生に過ぎなかった。けれど今は全く違う。今日この日までに彼が辿ってきた成長の歴史が彼女の脳裏にどっと溢れ出す。私が彼にしてきたこと、彼が私に仕返してきたこと。懐かしさや驚嘆、嬉しさや幸福感がめまぐるしく心を巡る。それに連れて彼と関わることで変化してきた自分の心までもが逐次思い出され、それらがとうとう現在に至れば、全ての感情が深い感慨と大きな感動となって彼女の心を締めつける。
 そう、それこそは初恋の歴史だった!
 初恋の歴史の末に、今、華やかに開花した『彼』がいた。
 彼は、決して愛の眼差しではないけれど、それでも私を見つめ返してくれている。
 彼女の頬には紅が差していた。
 瞳は生気に溢れてきらめき、息苦しくはなさそうなのにひどく呼吸し辛そうにして、どこか恥ずかしげに睫が伏せられ、しかし瞳は彼を見つめ続けて、彼女は、唇を微かに震わせていた。
 沈黙は時に千の物語より雄弁に愛を語る。
 ホールは先よりも静寂に包まれていた。
 そしてその時には、ニトロは自身の失態を悟っていた。
(裏目に出た……!)
 顔の皮膚の下で顔をしかめる。これならば大人しく剣を下賜されていれば良かった。あるいは“言い返す”のではなく、こちらから何かしら声をかけた方がずっとマシだった。
 周囲の空気が、冷たさのある緊張から、じわりと火照るような緩和に移っている。
 目の端で『王女の下賜』を間近に見続けていた婦人の一団を捉えれば、その誰もが、まるで王女の頬の色が感染うつったかのように頬を染めている。
 そっと、やっと、ティディアがニトロへ剣を差し出した。
 剣は白地に金の飾りを施された鞘に納まっている。
 この空気を変えるための機を完全に逸したニトロは、黙って剣を受け取った。
 ティディアの唇の端が持ち上がり、ほんのかすかに笑みの形を作った。
 剣を受け取ったニトロが踵を返す、と、
「ぅ」
 彼は思わずうめいた。
 何と言うのだろう……周囲には、桃色があった。近くの婦人達だけではない、多くの女性が自らの初恋でも思い出したかのように――あるいは現在の恋心を掻き立てられたかのように色づいていた。恋に色めく人間を見ている方がドギマギする……というシチュエーションがあるというが、まさに今の一場面こそがそうであったらしい。恋の色香を放つ王女を中心にしてロザ宮のホールに慕情が満ちていた。気を回せば女性だけではなく男性にも色づきが見える。恋に艶めいた王女の美しい笑みに見惚れている者もあれば、連れ合いの婦人と何か睦まじく囁き合っている者もいる。
 恐るべきはティディアの影響力、だろうか。
 できれば自分がこの空間を生み出した一因だとは信じたくない。
 ニトロは“恋物語の主人公”に向けられる視線の中を居心地悪く歩き、ふとティディアに振り返った。
 ティディアは何事もなかったかのように平常を取り戻し、跪くグラム・バードンに声をかけながら剣を下賜していた。
「……」
 ひそひそと、どこかでティディアを見るニトロを見ての感想が囁かれている。
 ニトロは頭を掻き、気まずくきょろきょろと周囲を見回した。剣を与えられた者にはすぐに『鎧』となるプロテクターを持ったアンドロイドがやってくるはずなのだが……ああ、助かった。ちょうどプロテクターを携えたアンドロイドが足早にやってきている。
 ニトロはそのまま人の少ない場所へ足早に行き、遅れてやってきたアンドロイドを迎えた。
「ニトロ君」
 その小さな呼び声に――近くに人がいたのに気がつかなかったのは指向性音声であるためらしい――ニトロは表情を緩めた。
 装備品の説明のために一人に一体(必要であれば給仕から加わって二体)付くアンドロイドは、皆同じ姿をしている。『覇王姫』の時代の綿の服に中性的な顔立ち。背はニトロより10cmほど低く、体格的には未熟な少年といったところだ。
 機械的に表情は豊かに作れないようになっているようだが、しかし、ニトロはこちらを見上げてくる人形の向こうに満面の笑みを見た。
「今、何をしているの?」
 名は呼ばず、それだけを聞く。するとアンドロイドの片目にパトネトの笑顔が映り込んだ
「監督をしているよ」
 無表情に近いアンドロイドの声は自慢気であり、片目に映るパトネトはニトロに対してそう言えることが誇らしいように頬を赤らめている。
 ニトロは、その一言でこのアンドロイド群、それだけでなくこれから行われようとしている『余興』のシステムをパトネトが統括しているのだと悟った。その悟りは重要な仕事をしている王子への賛嘆をニトロの顔に表し、それを見たパトネトがアンドロイドの瞳の中で身じろぎをする。とても嬉しいらしく、そのために王子は幼さを出してニトロをまごつかせていた。アンドロイドの手にあるプロテクターを着たくてもなかなか渡されず、また、今着ている燕尾服もどうしたものかとニトロは困惑していたのである。
 そこに、たまたま通りかかった給仕アンドロイドが、ニトロ達には手が足りないと見てやってきた。その目元にホクロはない。赤と青の双子月のごとく、オッドアイの女性型アンドロイドだった。
「オ預カリシマショウ」
 が、ニトロに聞こえたその声は芍薬のものであった。同じ機体ばかりがニトロに近づけば、そこに何かがあると鋭い者には感づかれよう。そのため機体を乗り換えてやって来たのだ。
 芍薬はちょうど空であったトレイを脇に挟み、微笑みながらジャケットを脱ぐニトロの手伝いをする。
 その様子を、従僕アンドロイドの瞳に映るパトネトは不機嫌そうに眺めていた。彼の不機嫌はニトロと芍薬のやり取りに対するものではない。それは自分がニトロの困惑に気が付けなかったことへの憤りであった。するとパトネトの不機嫌を察したニトロは彼にも笑みを向け、手を差し出した。
「着せてくれる?」
 パトネトは顔を輝かせた。ニトロ君に頼まれた! その顔はまざまざとそう語っていた。
 ジャケットを脱いだニトロは次いでベストも脱ぎ蝶ネクタイも外していて、定型通りにシャツにサスペンダーとズボンという服装となっていた。そこにパトネトはビニール製の服に強化プラスチックの篭手や胸当てを貼り付けたような『プロテクター』をたどたどしく着せていく。上はフード付きの長袖のシャツといったところで、さらに袖の先には手袋が直接取り付けてある。ボトムは靴ごと包み込むようにできていて、上下共にだぼだぼなほどにサイズが大きいため着ること自体は苦ではなかった。不思議なことにビニールのような生地は麻のような感触で、着てみると蒸れるような不快感もない。
 ひとまず全てを着終えたニトロは、パトネトの指示に従い、細かな部品が張り付けられたフードを被った。
 パトネトがアンドロイドの機能を用いて、プロテクターを操作する。と、瞬時にビニール様の下地がニトロの体に吸着した。それと同時にバラバラであったフードの部品が寄せ集まってかぶとを形成し、体も、簡単ながらまさに軽鎧に包まれたようになる。
「おお」
 思わず、ニトロは感嘆の声を上げた。
 パトネトが至極嬉しそうにまた頬を赤らめる。
 ニトロは体を動かしてみた。ビニールのような下地はやはり合成樹脂であるらしいのだが、しかしどう体を動かしたところで特有の嫌な“衣擦れ”の音は聞こえてこない。さらに生地は体に吸着しているというのに、締め付けのために体の動きを阻害するようなところも一つとてなかった。動きに合わせて柔らかなゴムのように伸縮している。なのに、思いっきり体を捻って生地を伸ばしたところで、伸ばされた後には当然あるはずの縮まろうという抵抗は全く感じられない。
 ニトロは改めて周囲を見渡した。この『鎧』を着たばかりの参加者はやはり己と同じく一様に感嘆の表情を浮かべていた。同時に篭手や肩当て、もちろん鎧の胴体部などプロテクターの位置も個々人に対し適切に配置され、何とプロテクターの大きさは着た人間の体に合わせてその場で調整されている。強化プラスチックのように思えたが、ニトロの知らぬ特殊な素材で出来ていることは間違いがなかった。奇妙な柔軟性まであって慣れぬ格好であるはずなのに支障の一つも感じられない。しばらくするとフード部分には“耳穴”も開いて、音が聞き取りやすくなる。動きにくいか? と危惧していた革靴の底にはスポーツシューズにも負けないグリップ力が備わり、どういう理屈か非常に運動しやすくもなっている。鞘もちゃんと腰に佩けるようになっていて、装備してみると安定性も抜群で邪魔にならない。
(……何となく、戦闘服あれに似ているな)
 一般的な既製品にも体形に合わせて吸着するとか、環境に応じて体を温めたり冷やしたりするなど特殊機能を持つ服は存在する。代表的なのはダイビングスーツや宇宙服で、以前パトネトと行った王都宇宙技術研究所付属資料館で試着した最新版もこの手のタイプであった。だが、その最新版も、ニトロからすればあの『戦闘服』には劣っていた。そして現在、ニトロは身に纏うこの服の着心地は、他のどの特殊服よりもあの『戦闘服』に最も近いものであろうと感じていた。
「これ……」
 と、そこまで言ってニトロは周囲の注目を集めていることを思い出し、問いかけの目をパトネトに送った。が、それだけではパトネトは彼が何か言おうとしているのかまでは察せなかった。
「ハイ。パトネト様ノ手ニヨル物デス」
 そこで代わりに答えたのは給仕しゃくやくだった。
 ニトロはアンドロイド・パトネトへ再び賛嘆を寄せた。パトネトは姉からあの『戦闘服』の話を聞いて――もしくは過去の資料を研究して――それを参考にしたのだろうか。それとも独力で神技の民ドワーフの発想に追いついたのか。どちらにしても、この機能、この素材は素晴らしい。
 純然たる驚きと感動を見せるニトロに対し、パトネトは嬉しそうにまた身じろぎをした。そして幼年の天才は言う。
「剣を」
 言われるがまま、ニトロは剣を抜いた。参加者の煩いとならぬよう軽量化のために合成木材を用いているらしい、見た目は金属製のように優美な鞘の中からすらりと剣身が現れる。
 剣は当然のように刃引きしてあった。しかし外観はまさしく“剣”そのものである。やや細身で全長は1mほど、ミリュウとの対決で用いたものを少し長くした形だ。それでも貴族が儀礼用に持つオーソドックスなタイプの長剣――という形は同じであり、区分で言えばハンド・アンド・ア・ハーフに収まるだろう。ミリュウの時と大きく違うのは重さで、本物の剣であった先のものよりずっと軽い。それでも片手でも両手でも扱いやすいよう重量と重心が工夫されていて、手応えはしっかりしている。柄に余計な飾りはなく、滑り止め防止の溝のみならず表面に特殊な加工でもされているのか非常に握りやすかった。鍔はシンプルに、握る手がしっかり守られる長さの十字鍔である。
「振ってみて?」
 言われるがまま一振りしてみると――実に振りやすい。ヒュッと音を立てて空が切れる。近くにいる婦人が二人、何やらうっとりとため息を漏らしていた。
「床に突き当ててみて?」
 再度言われるがまま、ニトロは剣を床に突き立てようとして、
「わ」
 驚きのあまりに思わず彼は声を上げてしまった。
 持っている時、振り抜いた時には硬い剣であったのに、床に突き当てた瞬間、その剣身がくにゃりと曲がったのだ。それは非常に抵抗が弱く、床に垂らした糸がたわんだ……そのような印象を抱くほどであった。
「……特定の方向には、曲がる?」
 ニトロはパトネトに問うた。そういう性質が付与された素材はずっと以前から存在するものの、ここまで極端な物を見たのは初めてである。パトネトは、ニトロの理解の速さもまた嬉しそうにうなずく。
「だから、突きで怪我をさせる心配はないよ」
 なるほど、と、ニトロもうなずいた。
 プロテクターの隙間、最も守られていない面積が広いのは顔面であるが、確かにこれなら危険はなさそうだ。
 それからニトロは硬いプロテクター部を剣の柄尻でコツコツ叩いてみるが、その程度の衝撃は肉体にまで全く伝わってこなかった。関節の、合成樹脂の生地がむき出しになった箇所でも驚くほど衝撃が吸収される。これなら剣で強打されても大した怪我はすまい。万が一大きな怪我をするとしたら、足やら手やらを挫いたとか、張り切りすぎてギックリ腰になったとか、そのようなものだろう。
「それから、ちょっと“刃”で篭手に触れてみて?」
 ニトロは剣の刃で篭手に触れた。すると触れた部分に火のような赤い光が灯った。
「次に関節の、プロテクターのないところも」
 刃を、つまりビニール様の生地に触れる。すると、やはり触れた部分に“火”が灯った。思えば、どこか格闘ゲームの演出にも似ている。
「今度は同じ事を“腹”でやってみて?」
 同じ事をしてみるが、どちらも剣の腹が触れた際には反応しない。
 ニトロは言われる前に刃先――つまり“突き”でも同じ事を試した。すると足の甲に当てられた剣自体はくにゃりとたわみながらも、刃先の触れた箇所には“火”が灯った。これで有効打のみに『鎧』が反応することが知れた。
「……凄い」
 ニトロの感嘆は何度でも何一つ嘘偽りなく、常に本心からの賛辞であった。
 それを浴びたパトネトはこの上なく嬉しそうに笑い――何度もの喜びのために現在進行形でニトロに隠し事をしていることを彼は本気で忘れ――頬をこれまでで一番赤くして双眸を輝かせる。
「ニトロ君」
 喜びに彩られた声でパトネトは言う。
「ヒイキはできないけど、応援してるからね」
 ニトロはアンドロイドを――その向こうにいるパトネトを見た。彼が『頑張ろうね』と言っていたことを思い出し、そして今、姉も参加するこの余興においてなお彼が応援してくれることの意味を思い、ニトロは笑った。
 ニトロが準備を整えている内に、最後の参加者であるハラキリもティディアから剣を賜っていた。ハラキリは跪き、王女からの下賜の栄光に預かっていたのであるが、もしニトロがその光景を見ていたら、両者にあるものは『ごっこ遊び』の趣だけだということを見取っていただろう。そして、その遊びの中にも、ハラキリがどうして参加を決めたのか、どういう意図で参加することになったのかを確認したい姉姫と、それを飄々とかわす親友の姿をも見ただろう。
 しかし、今となっては、そのハラキリも準備を手早く済ませている。
 後はティディアの“司会進行”を待つばかりであった。
 ニトロに説明をし終えたパトネト=アンドロイドはもう一度「頑張ってね」と言い残し、去っていった。本番が始まれば彼は多忙極まる。ニトロは彼に激励の言葉をかけ、それにパトネトは「頑張る」と笑顔で答えていた。
 そして、ニトロの上着を預かった芍薬も、マスターに何かを言おうとし……いや、主様とあたしの間の言葉は必要ない。ただ、眼差しだけを残して芍薬は去っていった。
 残されたニトロは剣を収め、不思議と近寄ってこないハラキリを遠くに眺めながらストレッチをし、その時を待った。
 と、前触れもなく例の壇上の扉が開いた。そこからパトネトが再登場し、王子を迎える大きな拍手が鳴り響く。王子は近衛兵の服を着た三体のアンドロイドを従えていて、その内二体が壇の入り口に陣取り、最後に豪奢な椅子を持って現れた一体(フレアだ)が彼の傍に控えた。
 パトネトは拍手にも注目にも顔を上げることなく、椅子に座ると即座にフレアに目配せをし、眼前に宙映画面エア・モニターをいくつも開いた。
 そこで、皆は準備が全て整ったことを悟った。
 とうとう『その時』がやってきたのである。
 ティディアが、高らかに言った。
「この剣と鎧には驚いてもらえたかしら? どちらも私の自慢の弟、パトネトの手のかかるもの。彼の設計を元に王立汎科学技術研究所と『クロムン&シーザーズ金属加工研究所』が共同開発した、あの人工霊銀A.ミスリルを用いた新素材を活用したものよ」
 大きな歓声が上がった。これも大きなサプライズだった。アデムメデスが主幹として関わり、将来的に大きな利益を出すことが見えている栄光の技術。それが早くも実用化に向けて動き出していることが今、ほぼ製品として成り立つ完成度で披露されたのだ。万雷の拍手が、壇上に座す幼き天才と、余興には参加せずシャンパングラスを妻と傾けていたクロムン&シーザーズ金属加工研究所の代表取締役とを包み込んだ。
「この素晴らしい発明に対し、パティとモーゼイ代表へこの場を借りてお礼を言うわ。今後の発展にも大いに期待している。貴方達はきっと後世へ素晴らしい財産を残してくれるでしょう」
 ティディアの賞賛がさらに歓声を呼んだ。
 恐縮して頭を何度も下げる代表取締役に、初老の子爵が朗らかに声をかけている。その周囲には政治家や貴族、それ以上に投資に励む資産家が多く見えた。
 ニトロは、それを傍目にパトネトへ向けて拍手をしていた。
 これまで宙映画面エア・モニターに目を落としていたパトネトが、広間を震わせて止まない拍手の中で恐る恐る顔を上げ、ティディアを見、それからニトロを見る。
 ニトロが微笑んでいることを見た彼も微笑み、小さく手を振った。
 もちろん、それはニトロただ一人に向けられたコミュニケーションであったが、彼と王子の間には距離がある。近場の者ならまだしも遠目には王子が皆に手を振ったように見え、そのため拍手と歓声の音が増した。万歳の声。彼を讃える声。それにびっくりした王子が顔を伏せたところで、
「さて、それでは始めましょうか」
 先ほどもそうだったが、万雷の拍手の中にあってティディアの声は不思議とよく通った。歓声が止み、拍手が静かに収まっていく。と、パトネトの上空に大きなエア・モニターが表示された。
「そうね……じゃあ、シーラ・チュニック・チュニジア!」
 突然名指しされた――文豪チュニフ・チュニック・チュニジアの子孫である婦人が驚きの声を上げる。
「1から10の内、一つ番号を挙げなさい!」
 ティディアの命令に、チュニック・チュニジアは反射的に5と答えた。すると大エア・モニターにホールの間取り図が表示され、ホール中央を舞台として、縦に8つ、横に9つと等間隔に並べられた点が追記される。ティディアを加えて73人になるため、中央の縦列にだけ調整用の9つ目の点があった。それぞれの点は格子状に並んでいるのではなく、斜め格子――偶数列と奇数列は互いに点同士の半分の距離をずらして配置されている。それぞれの点を隣り合う点と線で結べばそこに無数の正三角形が描き出される位置関係である。そのため直近の“隣”となる相手は、自分を中心点とした正六角形の頂点に並ぶ六人であった。まさに乱戦である。
 皆がそのまま大モニターを見ていると、画面の隅に『組み合わせ:5』と表示が入り、直後、点の一つ一つに不規則に番号が付記されていった。と同時に、あの宙に浮かんだ時計から光線が放たれ、大モニターの表示に対応して、参加者それぞれのスタート地点がレーザーポイントされていく。
「胸に参加番号があるわ」
 ティディアの言葉に従いニトロが目を落とすと、プロテクターの胸部に67と浮かんでいた。王女の言葉に併せてそれを見れば参加者は全てを理解する。大モニターに表示された番号と照らし合わせ、命じられるまでもなく、参加者達はホールにポイントされた己の地点に身を置いていく。
 そこかしこで参加者へ連れ添いや知人友人から激励の声が上がっていた。
 ニトロには、彼の『ファン』からの声援が飛んできていた。
 彼ははにかみながら応えつつ定位置に移動し、そして即座にハラキリの位置と、何より自分と手合わせをしたいと言っていた強敵――正直勝てるとは思えない相手、グラム・バードンの位置を確認した。
 ……両者共に、遠い。
 自分はパトネトのいる壇を上にして、右から二列目・下から三番目にいるが、ハラキリは右側大外の最上隅――羨ましいことに直近の敵の少ない『角』であり、グラム・バードンは左側大外の中央である。
 実力者がそれなりに地理的有利を得るのは、ちょっとずるい。
 それから、ティディアは――
「おお」
 と、皆が声を上げた。
 どうやら彼女がそこに立つことは初めから決定されていたらしい。どこかしら女性的で気品のある白いかぶとを脇に抱えた王女は、何と自ら最も地理的不利にある“ど真ん中”に進み出ていた。いくら何でも無謀・蛮勇に思えるが、いいや、それでこそ『クレイジー・プリンセス』であると喝采が沸き起こる。
 ニトロは喝采に手を振り応える宿敵から目をそらし、交点同士、直近の“てき”との距離を測った。目測のため危ういが、およそ4mだろうか。混戦ということで、一般的な『決闘様式の試合』の開始線の位置より少し余裕を持っているらしい。が、それぞれ互いに進み出れば二・三歩程で切り結べる位置だ。ニトロからティディアまでは二人挟み、つまりその距離は12m。駆け抜ければ近いが、二人の剣士を向こうにして臨むとやけに遠く感じられる距離であった。
 にわかに盛り上がりを見せるホールに、ティディアの声が響き渡る。
「ルールは簡単。体のどこかに――どこでもいいわ、有効打として剣が触れて赤い“火”を灯された者は敗北よ」
 ティディアの声を聞きながら、ニトロの意識は別にあった。
 ここにきて、最後に、ハラキリの参戦への驚きのために中断させられていたシミュレーションを再開していたのである。
 彼はプロレスの様々な試合形式の中で結末の見えないバトルロイヤルが一番好きだった。だから、バトルロイヤルにおけるプレイヤー同士の心理の働きは、類型としてよく見知っていた。
「それから場外に三秒以上出た者も敗北。押し出されても駄目よ。タイムアウト前に戻ってくるのはセーフ。場外負けが認められたら全身が真っ赤に燃えちゃうから気をつけてね?」
 王女の不気味な比喩に笑い声が上がる中、“戦場”を示すように、先ほど参加者に仕えていた従僕アンドロイド達が場を囲みこんでいた。それらの指先と指先が青い光線でつながれ、すると“場内”と“場外”が目に見える形ではっきりと区切られた。
 ニトロにはその青い光線がまさにプロレスのロープに見えた。彼の理解で解釈すれば、このルールはつまり古典的な『オーバー・ザ・トップロープ』だ。三秒以上がトップロープを越えて場外に落とされることを示し、三秒未満はロープをくぐる形で落とされることを示す。後者は一種の抜け穴じみた面もあり、つまり、一度場外に逃げてすぐに戻って虚を突く、という戦法もありだということだ。もちろん鍔迫り合い等に持ちこみ、ピンフォールよろしく相手を三秒押し出すのもありだろう。
「それから……騎士道では背中から斬りかかることは卑怯とされているわね。けれど、注意なさい。実戦においては、背中から斬りかかることは卑怯ではない。むしろ背中を斬られる未熟こそ恥よ」
 ニトロは元より『騎士道』を規範とする人間ではない。こと戦いとなれば『師匠』の教えが規範であり、その規範は、一般常識からすれば正直えぐい。目潰し上等、金的上等、というかむしろそこをこそ狙え。『劣り姫の変』における霊廟でのミリュウとの戦いも、正式な決闘作法からすれば――例えば足を踏みつけるなど――悪徳の方面に外れている。
 ティディアの指摘に対してニトロが平然とする一方、参加者中に多数いる貴族男子は明らかに戸惑いを見せていた。
 彼らが嗜みとして習うのはもちろん正規の宮廷剣術の流れを汲むもので、当然のように一対一の決闘を前提としている。さらに長い平和な世の中で、いかに『騎士精神』に則るかという儀礼的要素が強くなって発展したものだ。王女の言葉が例え戦場における道理であったとしても彼らが戸惑うことに無理はなく、その意味で言えば、貴族以外の参加者、中でも特に多数派である“剣術を習った覚えのない人間”の方が柔軟に対応できるだろう。
 ――しかし、既に賽は投げられている。
 それに、皆同じ条件下にあるのだから、この状況に対応できないという姿を見せる方が見栄えも悪い。格別厳しい監査の目を持つ王女を前にしていることも勘案すれば、対応できない人間であると示してしまうことこそ避けるべきであろう。
「まあ余興なんだから堅苦しくなくいきましょう。ていうか、むしろ卑怯な手も歓迎よ? こずるい手で面白おかしくしてくれたら私は泣いちゃうくらいに喜んじゃう。だって、楽しいじゃない? そういうものこそ『余興』に相応しいわ」
 王女の、実に彼女らしい言葉に皆がうなずく。そうやって皆がルールを完全に納得していく、その最中、王女の目などどうでもいいニトロは周囲の人間を素早く観察していた。あいつは『余興』と言うが、こちらはここにこそ人生が懸かっている。必死である。できれば最善かつ安全なルートを辿って結末まで駆け抜けたい。
 それなのに、いきなり悪いことがあった。
(……ほんとに、パティは贔屓をしてないんだねぇ)
 しみじみ、ニトロは思う。
 しみじみ思う彼の頬は、今、いや、ずっと前から強烈な敵意をびんびんに感じていた。
 ずっと前から……ここに来たその時からずっと、下手に挑発してしまわないよう努めて直接見ないようにしていたのだが……彼はかぶとの下はスキンヘッドの伯爵様に、歓喜と憤怒がブレンドされた凄まじい笑顔に歓迎されていたのである。
 クルーレン・シァズ・メイロン。
 芍薬が『招待客ノ中デ一番ノ“マニア”。狂信的』と注意してくれていた相手がすぐ横、それもティディアに向かおうとすれば壁になる位置にいた。もし監督パトネトが手心を加えてくれたのなら絶対にいるはずのない強敵がそこにいたのだ。
 さらに――もう慣れっこだが――悪いことは重なるもので、加えてアンセニオン・レッカードが、芍薬が『同ジク逆恨ミ注意』と言っていた相手が二つ先の右下角にいるのを先ほど見つけた。
 そう、芍薬がブラック・リストに載せていた筆頭二人がご近所さんである! これでもしパティが手心を加えたというのなら、あの子は実は俺のことを嫌っているのだろう。
 そして、これも慣れっこというか、泣きっ面に蜂であるのだが、そのブラック・リストな二人だけでなく、他の周囲の人間までもが『次代の王』に手合せを所望する気配満々であるらしい。シァズ・メイロンを含めて“隣”である六人のみならず、その周りも含めれば十数人が早くもこちらに熱視線を送ってきている。いやはや、こんなにもモテモテでは困ってしまう。これじゃ身が持たないよコンチクショウ。
(本当に、コンチクショウ)
 ニトロは、自然と頬が引きつっていくことを止められないでいた。
 そうと思えば、一番初めに思い至るべきことであった。
 ここに来て嫌な予感がする。
 というか。
 予感ではなく確信する。
「あ、言い忘れていたわ。相手が私だから、ニトロ・ポルカトだからと手を抜くなんてしては駄目よ。それは、この余興に対する侮辱と知りなさい。むしろ私は私を倒した者、ニトロを倒した者を尊敬するわ」
「いらんこと言うなっ!」
 ニトロは思わず叫んだ。
 それは合いの手と受け取られ、参加者の一部と観客から大きな笑い声が上がった。
 ティディアは、ここで初めてニトロを見つめた。彼女の眼差しは彼への激励を示していた。同時に、信頼を重ねていた。『あなたも勝ち抜きなさい』――『あなたなら勝ち抜けるでしょう?』――彼女は、愛しげに微笑む。それは愛しげながら非常に真剣な微笑みであり、それ故、場の空気が余興に和みながら勝負事に対しても引き締まる。特にシァズ・メイロンの形相が引き締まる。
(ッお前、解ってやってるだろう!?)
 ニトロは怒りを込めてティディアを睨んだ。
 彼の眼差しにティディアは目を細め、それからふいと目をそらすと、ぐるりと周囲を見回した。
「さあ、準備はいいわね?」
 冑を被りながらティディアが言う。
 おう、と、勇ましい声が合唱される。
「抜剣!」
 王女の号令に、一斉に剣が引き抜かれた。
 ニトロも剣を抜きながら、胸に湧いた確信のためにさらに頬を引きつらせていた。それはもはや笑みの形となるほどに。
 そうだ、この余興の形式は、プロレスのバトルロイヤルと非常に良く似ている。
 そのバトルロイヤルにおいては、“強豪”あるいは“注目株”が最も狙われやすいものである。
 さて、それでは『ニトロ・ポルカト』はどうだろうか。……自分は『劣り姫の変』にて“複数のミリュウ”との決闘に勝った。この点では“強豪”に当てはまる。“注目株”に関しては言わずもがなであろう。
(まずいだろ、これは)
 このまま何の策もなく『開始』の合図を聞けば、開始と同時に完全に囲まれてしまう。シァズ・メイロンは即座に切り込んでくるだろう。彼は既に血相を変えている。何だかもうあまりに怒った人がそうなるように青褪めている。彼は、間違いなく、絶対的・確定的・物理法則的に『一方的恋敵』へと切り込んでくるだろう! それを思えば、囲まれるだけならまだいいのかもしれない。伯爵の突撃を合図に周囲の皆様お揃いで一斉にかかって来られては、正直、非っ常にまずい。プロレスのバトルロイヤルにおいても、そうなったらどんな強豪も袋叩きの末に敗北を喫してしまう!
(――どうする?)
 ニトロが策略を練る間は、なかった。『師匠』の救援は期待できるが、それにしても遠い位置にいる彼が駆けつけてくれるまでの時間を生き延びねばならない。だとしても、そもそも周囲の人間の実力が把握できていないため、周囲の誰を“脆弱性”として時間稼ぎの糸口に、あるいは突破口にすればいいかということすら見定めることができない。とりあえずこちらから見てシァズ・メイロンの右手にいる肥満体質の男性は押しのけるのが難しい(一方動きは鈍そうだ)、背後のひょろりと背の高い青年はリーチ差が怖いので下手に近づかないようにしておこう(一方剣の握りが甘いので剣術経験はないようだ)――その程度までしか判断できない。
 ティディアが剣を掲げる。その姿は見る者の目にまざまざと伝説の『覇王姫』を再臨させ、観客のみならず参加者からも感嘆の声が上がっている。
「構えよ!」
 開始が迫る。
 ニトロは必死に考えた。
 バトルロイヤルの必勝法などはないが、少なくとも指摘できるのは、できるだけ戦いに参加しないことが最善である。
 では、その状況に自らを持っていくには!?
(無理だよねえ!)
 ニトロは内心泣きたい気分だった。
 俺は完璧狙われている。できるだけ戦いに参加しない……などとはこの余興を勝ち抜くことよりも難しい、何故なら――って、ああもうまだ開始の声もないのにジリっと近づくなシァズ・メイロン!――俺は狙われ続ける『美味しい獲物』だもの!
 他方、ニトロの焦燥など知らぬとばかりにティディアは雄々しく叫ぶ。
「勇敢にあれ! 貴様らの命は屈辱を掃い栄光を掴むためにある!」
『覇王姫』の伝説を元にした劇のセリフを引用する王女に応じ、参加者らが雄々しい声を上げる。伝説と劇が備えるイメージに引きずられ、この『余興』もその伝説あるいは劇の一部のように錯覚されて、早くも大いに盛り上がっていく。観客に徹する紳士のみならず婦人までもが剣の放つ輝きに色めき立つ。
「いざ、勝負!」
 ティディアが叫ぶや、楽団のパーカニッショニストが大きく太鼓を鳴らした。
 直後、開戦の音を打ち消すほどの声がホールを揺らした。
 グラム・バードンが、他にも数十人の男達がこの『戦い』を主君に捧げるべく――そう、まさに伝説の通りに!――王女の名を叫び讃えたのである。次いで自然と沸き起こった雄叫びに、その勇壮で生命力に溢れた響きに、戦う者も、戦いを観る者も、“戦い”だけが生む熱を胸に喚起されて一気に心を奮わせた。
 そして――
「わーお!」
 ニトロは雄叫びとは別に叫んでいた。
 解ってはいたけど叫ばずにはいられない、そんなこともあるものだ。
 やっぱりこちらに向かって脇目も振らず、シァズ・メイロンが目を血走らせてえらい勢いで向かってくる! さらにはやっぱり周囲の他五人もこの機を逃さんとばかりに襲いかかってくる! さらに外? 今は見えないことにする! そりゃ、あのバカの釘刺しがあった以上『ニトロ・ポルカト』を仕留めりゃ注目の的、余興の花ともなろうけどちょいと勘弁してください先輩方! 年上の余裕をさ、もっとこう、もっとこう……!
 ――が、内心では慌てながらも、しかしニトロは自然と体を動かしていた。内心で慌てながらも、いざ開始となれば自然と覚悟は定まり、どこを突破口とするかも彼は見定めたのである。
 シァズ・メイロンは右足を前に出して半身に構え、右手に剣を持ち、左手を相手から隠すように腰に当て、横に開いた体をサイドステップの要領で前進させてきていた。宮廷剣術において古語を元にビィオと呼ばれる、片手で剣を扱う時のオーソドックススタイル、そのお手本のような足捌きであった。
 ただ、そのステップは通常より一歩が非常に大きかった。仇敵へ向かおうとする意識の強さと、憎き恋敵を最大限派手に打ちのめそうという激情がそうさせていたのだ。
 外から見て、シァズ・メイロンの動きは早く、また大振りながらも洗練された剣士の迫力があった。全身に気が漲り、それは殺意と断言してもいいだろう、大上段に振り上げた剣を受けてはいかに冑があろうと少年の頭は割られてしまう――そういう恐れが皆の胸に去来する。なのに、一方のニトロはまだ満足に構えも取れていない。
 どよめきが起こった。
 早くも優勝候補の脱落が予感され、悲鳴じみた声を上げる婦人もいた。
 それなのに、ニトロは緩慢に一歩、あろうことかシァズ・メイロンに向けて踏み出した。
 どよめきの語尾は驚愕に染まった。
 その瞬間、誰よりも驚いていたのはシァズ・メイロンであった。
 彼は真っ直ぐに敵を見つめていた。仇敵ニトロも、真っ直ぐに彼を見つめていた。無造作に。……無造作に
 いかに刃引きがされているとはいえ金属製の剣を用いた戦いである。いかに安全面が考慮されているとはいえ外見的にはまるきり『真剣』なのである。
 人の心は、それが剣よりも殺傷力に乏しい木の棒であっても目の前に突きつけられれば恐怖を覚えるものだ。武器に打たれる痛みを想像し、それに近づくことを躊躇する。それを持って迫られれば恐怖と嫌悪を以って退避する。
 木の棒であってもそうなのに、されど、シァズ・メイロンは剣を眼前にするニトロ・ポルカトの瞳のどこにも躊躇や恐怖や嫌悪を一片足りとて見出せなかった。
 それどころか、今にも振り下ろされんという剣を前に一歩踏み込んできた成人前の少年の足にはまるで散歩に出かける一歩目といった風情まである!
 シァズ・メイロンは、ぎょっとした。
 散歩に出かけた少年の瞳の奥に、敵意も殺意もない落ち着いたその瞳の奥に、何か恐ろしく凝縮した意志があることに気がつき、ぎょっとしたのである。
 ニトロからすれば、確かに剣を振り回しあうということは恐怖を生む行為であったし、周囲でようやく『剣を持って相対する』という現実に気づいた気軽な参加者が生む躊躇の顔へ同意を示すところである。
 だが、ニトロは思うのだ。
 果たしてシァズ・メイロンの振るう剣は、自らも手にするこの剣で受け止めてなお殺されるような凶器なのだろうか?
 ニトロの脳裏には、巨大な戦斧を振り回す女獣人の姿があった。その攻撃を剣で受けようものなら剣ごと胴を真っ二つにされるであろう恐怖に比べて、この安全な余興はやはりどこまで行っても『余興』に過ぎない。例えばあの『女神像』との戦いに比べれば、例えば『赤と青の魔女』に襲われたことに比べれば――傲慢にも言い切ろう! 児戯である!
 それに、シァズ・メイロン。
 確かに彼の動きは素晴らしい。
 けれど、少しでも隙を見せたら止めてと言ってもタコ殴りにされる(場合によっては練習と解っていても死を予感させられる)『訓練』を数限りなく繰り返してきた人間に対するには少々油断が過ぎるのではなかろうか。
 もちろん、もし彼が血気に逸って大振りな攻撃をしてこなかったら、自分は勝てたかどうか解らない。
 ――そう、勝てたかどうか解らない
 ぎょっとしていたシァズ・メイロンは突進の勢いのままに剣をニトロの脳天に向けて振り下ろし――全てはもう止められない!――ゾッと震えた。
 シァズ・メイロンがニトロの瞳に見たものは、勝利への意志であった。その眼底には凄みがある。それはシァズ・メイロンの知らぬ凄みであった。それは、実際に命に関わる危険を潜り抜けてきた人間が、ここ一番で勝利を絶対にするために押し固めた何よりも強靭な確信であった。
 シァズ・メイロンの動揺は剣筋にも表れた。
 ほんのわずかなブレであったが、それが“致命傷”となった。
 先手を取ったシァズ・メイロンの優位が完全に消え、ニトロの後手が追いつく。
 追いつき、追い越す。
 後の先。
 自然と――あまりに自然であるため最速となった動作でニトロが(戦闘プログラムによって何千回も刷り込まれた動作に従い)剣を差し上げ、シァズ・メイロンの剣の腹に軽く当てる。そのタイミングは絶妙であり、シァズ・メイロンの剣はニトロから見て左に少しだけずれた。
 刹那、ニトロは半歩右にずれながら前進する。と同時に彼は剣を持つ手首を返すやシァズ・メイロンの胴をすり抜けざまに、払う!
 剣を振り抜いたニトロの横を、勢い余ったシァズ・メイロンがたたらを踏むようにして通り過ぎていく。そして彼はニトロを取り囲もうとしていた背の高い青年とぶつかって、二人絡まるように派手に転んだ。
 歓声が上がった。
 周囲にいる『敵』を警戒して剣を構え直すニトロ・ポルカト。
 立ち上がることもできず、呆気に取られたように彼を振り返るシァズ・メイロン。
 盲目的に熱烈な『ティディア・マニア』で知られる伯爵のプロテクターの胴部には、鮮やかに、赤い火が灯っていた。
 歓声の音量が増した。
 シァズ・メイロンが並より上の腕を持っていたがために、ニトロの技はより一層美技として輝き、観客の目に、心に焼きついた。あの『劣り姫の変』において強さを見せた次代の王は、その実力はやはり紛い物ではない! ホールには怒号にも似た歓声が沸き起こっていた。
 そして、その歓声は、次の瞬間、
「うわあ!?」
 ニトロの驚愕の声と同調するように、地鳴りにも似た驚愕の声へと変わった。
 ――誰もが信じられないものを見ていた。
 ニトロに向けて、どこからともなく中肉中背の男が宙を飛んできたのである。ニトロに背を向けて、我が身に起きた信じがたい出来事に目玉が飛び出そうなほどに瞠目して。
 しかしニトロを驚かせたのは、その男の背中だけではなかった。こちらに迫る背中を追って、こちらへ向けて恐ろしい速度で大熊のようなグラム・バードン公爵が駆け込んできていたのである。あり得ない、どうして公爵がこんなにも短い間にそこまで接近してこられる? 彼と自分との間には剣を持った参加者が何人もいたはずだろう!?
「!? ?!」
 驚愕と疑念に支配されながらも、ニトロは何とか飛んできた男をかわした。哀れな男は墜落するやごろごろと床を転がり、シァズ・メイロンと、彼に巻き込まれて転んでいた哀れな青年とに激突する。
 背後に悲鳴を聞きながら、ニトロも悲鳴を上げたい気分だった。
「いざ!」
 グラム・バードンの野太く雄々しい気合が耳をつんざく。
 その時には、ニトロは全てを理解していた。
 どうして自分の目前に今、公爵がいるのか。
 背中が通り過ぎたために視界に入ってきた公爵の背後。
 そこは死屍累々であった。
 少なく見積もってもニトロと公爵の間には六人の成人男性がいたのだが、グラム・バードンはこの短い間にそれら全てを打ち倒し、あるいは力任せに吹き飛ばし、脇目も振らず一直線に突撃してきたのだ。
 老齢でこの力。化け物である。
 グラム・バードンが大上段に剣を振り上げる。
 それは構えこそ違えど、シァズ・メイロンと同じ攻撃であった。
 周囲にいた人間の内には、ニトロが先と同じ光景を再現するという予感が芽生えた。が、その予感を得た人間は、きっと戦場では生き残れないであろう。
「!」
 ニトロは息を飲むと同時に素早くサイドステップを踏んだ。
 彼が『師匠』から最も叩き込まれたものは一にも二にも『逃げ足』である。
 彼のすぐ横で、グラム・バードンの剣が恐ろしい音を立てて空を切った。突進の勢いのまま駆け抜けていく公爵を辛うじてよけきった彼は、数歩のバックステップで一息の間に彼との間合いを大きく広げていた。
 不運だったのは、グラム・バードンがニトロを狙っている機を見て敏、と動いていたアンセニオン・レッカードであった。
 ニトロにかわされた猛者は、ちょうどアンセニオン・レッカードの直前で止まったのである。
 両者は、剣の間合いに入っていた。
 グラム・バードンはまたも剣を大上段に振り上げた。反射的に――顔を引きつらせ――アンセニオン・レッカードはその剣を防ごうと構えた。
 振り下ろされたグラム・バードンの剣の威力は凄まじく、完全に防御の体勢を整えていたアンセニオン・レッカードの剣をあっけなく打ち落とし、そのままレッカード財閥の御曹司の脳天に痛烈な一撃を見舞った。その衝撃は見た目にも凄惨なものであり、当のアンセニオン・レッカードは同じ剣であるはずなのに大槌で殴られたと錯覚した。冑に守られていたため頭部へのダメージは無かったものの、刹那、頭部を支える頚椎、その椎間板が押し潰されたかのような激痛が走り、アンセニオン・レッカードは耐え切れず短い悲鳴を上げて転倒した。彼の側で打ち落とされた剣が床に激突し、甲高い音を立てて一度大きく跳ね上がり、カラカラと音を立ててやがて主と共に横たわる。
 その時、観客だけでなく戦場の中までもが静まり返り、動きを止めた。ティディアまでもが!
 ……その光景は、ニトロ・ポルカトの判断の正しさを皆に知らしめていた。
 そしてニトロは、絶句して、先ほどの自分の考えがいかに傲慢であったかと猛省していた。
(全っ然児戯なんかじゃなかった、未熟のくせに調子乗ってましたごめんなさい……!)
 この王女の剣の師は、マジで洒落にならない。模造の剣をしてヴィタに劣らぬ恐怖感プレッシャー。特に殺気立たず、余興らしい余裕も纏っているのに、だからこそ、それらとプレッシャーとの凄まじいギャップに真の猛者への畏怖を見る。
 と、
「流石ですなあ!」
 グラム・バードンが、叫んだ。その声は歓喜に満ちていた。流石とニトロを誉めているものの、そこには賞賛ではなく手応えのある獲物を前にした狩人の至福が漏れ出していた。
 瞬く間にアンセニオン・レッカードを含めて八人を脱落させた(パトネトの頭上の大モニターにスコアが表示されている)グラム・バードンは、無造作にのしのしとニトロへ向かって歩いた。
 ニトロは剣を構えた。
 グラム・バードンが迫る。口元の笑みは獰猛にして、双眸は楽しげに閃く。
 ニトロは、じりじりと後退した。
 無造作に向かって来ているだけなのに、公爵の体のどこにも打ち込める隙を見出せない。なのに、公爵から打ち込まれれば防ぎ切れる気が全くしない。
 後退し続けるニトロの周囲からは、先ほどまであれほど『ニトロ・ポルカト』へ注目していた参加者達の誰一人としていなくなっていた。当然であろう。こんな怪物に狙われる人間を近くにするのは、生き残りをかけたゲームにおいては愚策に過ぎる。
 ――だが、果敢にも、その愚策に挑もうとする影があった。
 観客に回った招待客だけでなく、参加者も、あまつさえニトロも驚きの声を上げた。
 ニトロとグラム・バードンの間に割り込んできたのは老人だった。
 あのフルセル氏であったのだ。
「む」
 剣先を下げて構えるフルセルを前に、グラム・バードンの動きが初めて止まった。
 ニトロは思い出していた。そういえば長く中学の教師を勤めた彼は、クラブ活動では剣術を指導していたと、北副王都ノスカルラでのディナーの時にそう話してくれていた。指導に明け暮れて彼自身は大会などに出場していないためその実力は知れないのだが……
 グラム・バードンがまたも大上段から打ち込んでいく。
 フルセルはふわりと剣を持ち上げると、なんと公爵の獰猛な剣を柔らかく受け流してみせた。それどころか受け流した形からそのまま剣先の向きを修正し、一気に公爵の首へと突きを放つ!
 されどグラム・バードンも流石である。公爵はその巨躯からは信じられない体捌きで反撃の剣をかわし、次いで追ってきた二度目の突きを一歩下がることで最小限にやり過ごしてみせる。
 一瞬の沈黙。
 さらに一瞬後、歓声が沸き上がり、感嘆の吐息が会場を埋め尽くした。
 思わぬ伏兵の、しかも驚愕の登場である。
 観客は大いに盛り上がっていた。
「見事なお手前」
 グラム・バードンは喜色満面に笑う。
「いやはや、閣下には及びませぬ」
 フルセルのその姿は、当初の誕生日会の空気に縮こまっていた面影をまるでなくしていた。背筋を伸ばし、堂々とした目は活気に溢れている。グラム・バードンに比べてずっと小柄な体も、剣を持った今は玉鋼と変わったかのように力強い。
 と、この場において初めて公爵と剣を打ち合った老人がニトロを一瞥する。その目は距離を取るよう語っていた。
「――」
 ニトロは素早く目礼を返し――グラム・バードンの後方にいつの間にかやってきていた『我が師』の姿を目に留めつつ――この混戦の中で優位置を取るべく踵を返し、
「ッ! わおチックショーイ!」
 最上の獲物が怪物から離れたと見るや現金にも即座に殺到してきた狩人の群れを見て、彼は悲鳴とも抗議ともつかぬ声を上げたのであった。

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