ティディアが登場した瞬間、ホールにいるほぼ全ての人間が度肝を抜かれた。
何しろ皆の脳裏のイメージは完璧『薔薇姫の夢』の主人公のドレス姿から連想されるティディアの華やかな姿と仕上がっていたのである。
しかし現実に網膜を突き抜け脳裏に向けて飛び込んできたのは、馬用の鎧を着た白馬に勇ましく、というか血生臭くまたがる白い軽鎧姿のティディアであった。
その、あまりのギャップ。
短髪のティディアに鎧姿があまりにはまっているため、何よりも彼女が右手に提げる生首のために、この宮のイメージと妖精達が作り上げた幻想との落差の凄まじさ。
度肝を抜かれずになんとする?
正規に招待された客の全員が、職務柄主君が何やら馬を必要としていたことを知っていたグラム・バードンさえもが予想を遥かに超えた光景にあんぐりと口を開けていた。
誰も反応できない。
主役を迎える拍手も、歓声も、言葉も、紳士淑女の皆様からは何も出てこない。否、出せない! その様を見て馬上の姫君はこの上ないしたり顔である!
「な・ん・で・だ!」
だが、『彼』だけは違った。
紳士淑女が振り返る。
壁際に親友と二人で立つニトロ・ポルカトを……クレイジー・プリンセス・ティディアが何をしでかそうと即座に対応できる『恋人』にして『英雄』を!
「――ぁ」
ニトロは、うめいていた。
ツッコむ気はさらさらなかったのに、馬上のティディアの得意気な顔を見た瞬間、思わず叫んでしまっていた。
何とかごまかす手立てはないか? ニトロはそれを考えようとしたが、
「諦めなさい。君の性分です」
ハラキリが愉快そうに囁く。
ニトロは一度唇を噛み、
「――違うだろう!」
叫んでしまったからには仕方がない。言葉は
「そこはお姫様然とした白いドレスだろう!? フリルもふわっふわに華やかに! もしくは洗練されてクールに美麗にアダルトに! それなのに何で雄々しく『
その時、馬上のティディアのしたり顔が歓びに輝いた。
また、その時、ホールには大きなどよめきが上がっていた。
ニトロの様子からして、彼は王女がどのような姿で登場するか全く知らなかったらしい。しかし彼は素晴らしい指摘をした。――そうだ、
「流石はニトロ」
そこで初めて、ティディアが声を発した。
そして彼女は携えていた生首をひょいっと投げた。小さな悲鳴じみたどよめき――と、その瞬間、どこか穏やかな死に顔をしていた生首が空中で瞬く間に白いツバメと変じた。今度は小さな歓声混じりにどよめく。そのツバメは二羽が左右で結合した『一羽』であった。右のツバメは右の翼を、左のツバメは左をそれぞれに羽ばたかせて空を飛ぶ。
皆の脳裏にアデムメデス神話の一説が蘇っていた。涙雨のエピソード。恋人である雲の神に愛を疑われた湖の神が絶望のあまりに自ら首を落とし、すると落ちた首が比翼の白ツバメとなり、雲の神に真心を伝えた。湖の神の愛を知った雲の神はその後一年に渡って泣き続け、ようやく泣き止んだ後も、時折失われた大切な人を思い出しては泣くという。空から大切な人をなくして嘆く者を見かけると、同情を寄せて共に泣いてくれるという。
比翼の白ツバメは――アデムメデスで愛を象徴する鳥は、一度ホールを一周すると、身を翻すや一直線にニトロへと向かった。ニトロへと滑空し、そして、彼の目前で突然光の粒子に変じた。粒子は明滅しながら、まるで彼の体に、心に、染み込もうとするかのように消えていった。
どよめきが一種厳かなものを見た時の嘆息に変わり、比翼の白ツバメに誘われるままニトロへ注目していた視線が再びティディアへと戻っていく。
「あなたなら理解してくれると信じていたわ」
恋人に向けられた華やかな声には、信頼と共に恋人へ向ける特有の甘さが忍んでいた。その声を聞いた婦人らの内には、何か心打たれたように羨望の吐息を漏らす者もあった。
ティディアは馬を進ませた。
よく調教された白馬は二完歩進んでぴたりと止まる。その背後で扉が閉まった。そこにはもうパトネトもヴィタもいない。壇上には、ロディアーナ朝の長い歴史の中で唯一の内戦を治めた伝説の王女――『覇王姫』を模した現代の王女だけがある。
ニトロは、黙っていた。
ティディアの言葉は説明には程遠い。
ニトロが黙れば他に口を挟める者もない。
馬上からティディアは朗々と華やかな声を響かせた。
「紳士淑女の皆様、親愛なる『我らが子ら』、古い友人、新しき友人――本日は私のためにお集まりいただき、謹んで感謝を申し上げます」
ふいにもたらされた丁寧な挨拶を受け、皆が反射的に頭を垂れる。……ニトロと、ハラキリ以外が。
ティディアは愛しい人と唯一の友達を一瞥した後、口調を崩して言った。
「早速だけど、余興といきましょう」
皆が頭を上げるが、誰も何も言わない。
ニトロは、もはや馬上の姫君と言葉を交わす役は自分にのみ与えられていることを察し、
「余興だって?」
静まったホールには声が良く響く。壇から離れた壁際からでも十分に会話が成り立つ。
「そう、余興」
ティディアは微笑み、ニトロから目を離すと招待客を見渡した。
招待客らは王女の言葉を待っていた。
彼女はすっと息を吸い、雄々しく言った。
「これより剣術大会を開く!」
「馬鹿だろう!」
再びニトロが思わず叫んだ。
「何でロザ宮まで来て剣術大会だ! せめてダンス大会だろ!」
ニトロは、まさしく代弁者であった。ほぼ全ての人間がそう思っていた。しかしティディアは握り拳を作って言う。
「そんなんじゃあ切った張ったのスリルが足りない!」
「切った張ったのスリルなんぞいらんわ! てか何でスリルが必要なんだ!」
「賞品が豪華だから!」
「――賞品?」
ニトロが疑問符を打つと同時、客らがざわめいた。
賞品……つまり、ティディアから、この色々無茶苦茶ながらも希代の王女であられる御方から何かを賜れるということだ。
「例えば?」
ニトロはやはり代弁者である! 彼の口にした問いは、誰もが心に浮かべて、かつ誰かが訊いてくれることを期待したものであり、しかも彼は絶好のタイミングでそれに応えてみせた。視線が馬上の王女に集まる。彼女は言った。
「まず、参加者は72名。形式は一対一ではなく
皆がさらにざわめく。
参加賞で、運がよければそれだけの金額とサービスだ。では、優勝だと一体……?
ティディアは笑顔を浮かべて朗々と告げる。
「そして優勝者には、一つだけ、特権を上げる。何でも望みの叶う特権を」
一瞬、静寂があった。それはすぐに意味を理解して息を飲んだ者と、いまいち意味が解らず首を傾げた者の作る静寂であった。
ニトロは……何も言わない、様子を窺っている。
ティディアは一同を素早く見回し、さらに笑みを増して高らかに宣言する!
「そう、この星で最高の特権!
私に一つだけ、どんなことであろうと命令できる権利を!
私は勝利者に惜しみなく捧げましょう!」
直後、ホールが揺れるほどのどよめきが起こった。無理もない! 確かに、今、我らが王女様はとんでもないことを言った! もし聞き間違いでなければ、いいやむしろ我々一同揃って聞き間違えていた方がいいのだが――
「何でも、全て、願いを聞いて上げるわ」
しかし、どよめきの中にある希望をティディアは笑顔で否定する。
そして続ける。
「爵位が欲しければ授けましょう。
領地が欲しければ授けましょう。
私が欲しければ、身も心も捧げましょう」
その瞬間、どよめいていたホールが逆に静まり返った。あまりの驚きに、皆が息を飲む音だけがそこにあった。さらにティディアは言う、力強く、畳み掛けるように!
「国が欲しければ、男子ならば私の婿に迎えましょう。女子ならば私の養女にし、継承権がいずれ届くようにしましょう」
皆々目を剥いていた。誰もが我が耳を疑うが、やはり聞き間違いなんかではない。隣の人間と何かを確かめ合うように目を合わせるが、どちらも焦点は定まっている。我々は正気だ、それだけは間違いない!
そして“間違いない”と考えるに至るに、皆、唖然茫然と口を開けて王女を見つめた。
正直、とんでもない。狂気の沙汰である。しかし彼女は――そう、クレイジー・プリンセス・ティディアは、それが正常なのだ。
再び声が上がった。それは歓声ではなく、かといって怒号でもない。何かとりとめのない無意味などよめきであった。蘇ったどよめきの中にはニトロを気遣う声もあったが、それも明瞭な文章を作れてはいなかった。
その不明瞭な声に応えるように、どこか恍惚として王女は言う。
「例えニトロ・ポルカト以外の男であっても! 私は今ここに言ったことを違えない。もし野心ある者ならば、この宴の後、私を抱くがいい。そうして私に子を宿させよ。すればその者は確実に王の系譜に名を連ねよう!」
とうとう悲鳴まで上がった。しかし、ティディアは恍惚として言い続ける。これが私だと。これがクレイジー・プリンセスだと。これが、相変わらずクレイジー・プリンセスである私が、己の誕生日会にもたらす『サプライズ』なのだと!
「私は王権を以て、ここに宣言する! これより開かれる剣術大会の優勝者は、神に恥じぬ、己の腕で栄光を勝ち取った“英雄”であると! もしその者が王にならんとするならば、それは民にも恥じぬ、紛うことなき真の王になるのだと! さあ、我こそはと思う者は名乗りを挙げよ! どんな願いも、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――この名において私が叶えてやろう!」
ニトロは、腕を組んでティディアの演説を聴いていた。
それまで恍惚としていたティディアの顔が、ふいに和らいだ。
「……私は、自らの力で何事かを成そうとする人が、大好きだから」
それまでの勇ましさから一転、優しさを含んだ声でティディアは言った。そして彼女は唖然としている招待客らを、己を祝いに来た者らをゆっくりと見回した。……しかし彼女はニトロのいる方向にだけは目を向けなかった。むしろ顔を背けるようにしていた。
すっと、彼女は息を吸った。
「私からそれを勝ち取った者ならば、ニトロ・ポルカトでなくても、私は愛するでしょう」
ティディアの声は朗々と響く。
ニトロはこちらとは反対に顔を向けるティディアの首筋を見つめたまま、黙し続ける。確かに彼女の声は朗々として明るいが、その底には、奇妙な緊張感があるようにニトロには感じられた。
だが、依然として王女は朗々と続ける。
「もちろん、これは私の本気を示すため。勝った男は私を娶れと言っているのではない。しかし、そう願うなら聞く――そう言っているだけのこと」
ティディアはあからさまな吐息をついた。それと共に彼女は幾分肩の力を抜く。彼女につられて聴衆の緊迫もいくばくか緩んだ。その様子を見ていると、この王女の演出力、その人心を巧みに操る力がいかほどのものかと改めて恐ろしくもなる。
「ここにいる全ての者にチャンスがあるわ」
何も恐れることはないとばかりに明るい笑顔を浮かべる王女を見ていると、その笑顔を見ている者も彼女と同じように恐れるものはないと思ってしまう。
「貴族の男子ならば剣は嗜み。惚れた女にどんなものでもプレゼントできるわよ? もちろん剣の腕に覚えがなくとも混戦だからチャンスがある、そのための形式だから。どさくさにまぎれて勝利を得るのも立派な実力、私は願いを聞き届けましょう。ご婦人には厳しい条件だけれど――それなら頼りになる殿方をけしかけなさい。参加賞だけ取りに来るのもいいわよ?」
最後の段になっての洒落めかせたセリフに、皆はいつしか頬を緩ませていた。
とはいえ、それでも頬の底からは未だ強張りは消えない。
馬上の王女の無茶苦茶な条件……実際、『ニトロ・ポルカト』以外に、勝ち残った何者かが彼女の夫の座を望んでしまえばそれが叶う可能性があるために――そして数人、それを望んでも決しておかしくない人間がいるために――この場からはおかしな緊迫感が拭い去れないでいるのだった。
「大丈夫よ」
と、そこにティディアが朗らかに言った。最後の仕上げである。
「どうせ優勝者は決まっているんだもの。余興と言っているでしょう? これは、私の誕生日の、私が楽しむための余興だって」
多くの目がニトロに集まった。確かに、ニトロ・ポルカトは『劣り姫の変』において剣の腕を披露した。それは、相手が女子であったとはいえ多対一で勝利するほどの腕前であった。となれば?……急速に、ホールから緊迫感が拭われていった。そしてそれは、それだけ『ニトロ・ポルカト』が信頼されているという証拠でもあった。
「お前が楽しむため、ね」
と、そこで、当のニトロ・ポルカトが険のある声で言った。
「それじゃあ、お前が優勝した場合はどうするんだ?」
「あら、どういうこと?」
「すっとぼけるなよ。優勝者は決まっている。それは、お前のことだろう? 私からそれを勝ち取った者ならば――それはお前が最大の障壁として立つということだろう? 五代様と同様、武勇にも名高き、ティディア王太子殿下」
再び、全ての視線が馬上のティディアに集まった。
――そうだ。そういえば、軍の剣術大会での優勝経験もある王女は、剣の天才とも誉れ高いこの王女は鎧を着ている。それは何のためだ?――決まっている。自らも剣術大会に出るためだ。私が楽しむため……ニトロ・ポルカトの言う通りに!
「やー、気づかれていないようだからシメシメと思っていたのに……後のサプライズが台無しじゃない」
鋭いニトロのツッコミに、困ったようにティディアは言う。
「打ち合わせなしだ。こういうこともあるさ」
しかしニトロは変わらずきつい口調で言う。傍目には二人の仲を疑うやり取りであるが、これは概ねいつものことだ。『ティディア&ニトロ』特有の距離感。それでいて意思疎通は完璧であり、互いの言葉の深いところも逃さず掘り出すのだから聞いている方は癖になる。そしてここにいる者は安心感のあるいつも通りのやり取りの中、改めて思うのだ。どんなにふざけたことを言われて場をかき乱されようと、決して希代の王女の思い通りにはさせない、その少年の力を。
一方でティディアは、全てが自分の思い通りにはならなかったことにこそ、ひどく満足していた。本当にニトロは手応えがある。何もかも簡単に思い通りに行くというのは、初めは良くとも後になるとつまらなすぎて堪らない。延々と砂に釘を打ち続けるようなものだ。けれど、彼は砂に水をまいてくれる。場合によってはコンクリート舗装までしてくれて、特別な道具を用意しなければ釘も打てないほど頑丈に固めてくれる。その手応えが一体どれだけ私を喜ばせてくれることか! ああ、東大陸の領主共に彼を見習えと言ってやりたくて堪らない!
――だが、ティディアは、表面上はつまらなそうにため息を挟み、
「と、いうわけだから……参加者は、場合によっては一国の王女と剣の相手が出来る――という名誉が副賞になるわ」
その言葉に、主に貴族の男性がざわついた。実際、王女と(普通は王子とであるが)剣を交わせるというのは臣下にとって大変な名誉である。しかもこの王女と剣を交えることは、すなわち未来の女王と……間違いなく重要な意味を伴い歴史に名を残す君主と剣を交わすことになるのだ。それは一体どれほど身に余る栄誉となろう!
貴族の男子が気色ばめば、他の紳士にもその意味が伝わる。
そして――さらに考えを巡らせれば……未来の王とも剣を交えられるのである。
「ね? 安心して参加できるでしょう?」
ティディアがたまたま目の合った若い貴族に言うと、彼は王女から直接声をかけられた光栄に瞳を輝かせ、妻の横で大きくうなずいた。
「まず、一人ね」
笑いながらティディアは言う。その貴族は、ニトロとパトネトが庭園で初めて出会ったあの東大陸の伯爵であった。思わぬ強制参加となってしまった彼は愕然としたが――もし優勝すれば? 彼は思った。
ティディアは伯爵の目の色に彼の“目的”を見て微笑み、
「――さて、それで、私が勝った場合ね」
目を多勢に移しながら言い、そうすることでティディアは他にも参戦を表明しようという人間を言外に制した。そして、ゆっくりと馬を歩かせる。大人しく賢い白馬は段を器用に下りていく。馬の進行方向にいる人間がさっと脇にどき、道が開かれる。
「その時には、誰かにお願いを聞いてもらいたいかな」
誰かとは、つまりニトロ・ポルカトであろう。であれば自分達にリスクはなさそうだと、剣術大会に対する皆の意識がさらに『余興』に相応しい気楽なものとなっていく。
ティディアはそのまま馬を歩かせ、ロザ宮玄関まで辿り着いた。300人の招待客はどうすれば良いのか判らず、ひとまず元の位置に留まったまま王女を見つめていた。
王女の手綱に従い白馬が反転する。
壇の前に固まる招待客らと正対したティディアは、そこで雄々しく告げた。
「さあ、運命を共にしようという愚か者は、私の前に進み出よ!」
そのセリフはティディア自身の言葉ではなかった。
だが、その姿をした王女が言うと特別な意味合いの生まれるセリフであった。
――三代王の治世に起きた『北大陸の反乱』。
それを治めた者こそが、覇王の孫であり、当時第四王位継承者であった後の五代女王『覇王姫』イザリナであった。
彼女は第四王位継承者として
彼女の残したある手紙にはこうある。
……
二代女王様の尽力によりまとまってはいるものの、未だ覇王の暴挙が記憶に残る現在。
アデムメデスのまとまりは、表面張力で危うく保たれている満杯の水に似る。
そこからこぼれたのが此度の一件。
この反乱の結末は解っています。王の勝利に終わります。それだけ力の差があるのですから。
しかし、逆臣の狙いは北での戦いのみにはありません。今、国中が反乱に揺れている。北の反乱に続くものがないとは限りません。ここで国軍を北に集めることは、ならぬのです。されば隙をつき、蜂起の狼煙が国中に溢れるやも知れません。二代『聖母王』様のお心を殺した尽力を無に帰すことは、何を置いても決してならぬことなのです。
ご理解ください。ここで私がおめおめと逃げ出せば、蜂起の連鎖を生みかねないだけでなく、後の王威にも致命的な瑕疵を与えましょう。もはや、賊軍に比して蟻の群れに過ぎぬとしても、王女が勇敢に戦わねばならぬのです。王女が逃げ出す姿は、あの覇王の孫が見苦しく逃げ出す姿は、覇王の暴威が記憶に残るこの国にあって決して人心に晒してはならぬことなのです。私がこの地を離れられるのは、勝利を得た時か、勇ましく死した時のみ。そのいずれかなのです。
非力な女である私は勝利して奇跡でありましょう。負けて当然、しかし王子であれば敗北も許されなかったでしょうが、私は許される。男であるよりも私は民草の哀れみを引ける。ああ、私は女であったことを神に感謝します。親愛なる貴方。貴方と出会えたことを神に感謝したように。
愛しい貴方、願わくは、再会できることを祈って。
……
恋人への、遺書を兼ねた決意の手紙にそう書き残していたイザリナ。
そう、ティディアのそのセリフは、反乱鎮圧に向かう出陣式の際、長かった髪を短く切り落とし、絶望的な戦いに共に挑まんとする仲間を前にしてイザリナが叫んだ口上の切っ先であった。後にイザリナは続ける。上も下もなく、私と共に先陣を切ろうという者は来たれ。身分の差もなく、私の命を預けよう。
今、その物語が皆の心に想起されていた。
ティディアが参加者数を72と定めたのも、イザリナと共に敵陣に切り込んだ騎兵の数に拠る。ある種のロールプレイと言おうか。史実ながら、伝説でもある一幕に、まるで自分達が参加しているかのようだ。そのため『余興』の意味合いもより強くなり、それと同時に客らの心が昂ぶっていく。
参加者を呼び込んだ王女の下へ先陣を切ったのは、もちろん一番に参加を表明させられた東大陸の伯爵であり、彼は妻に送られて勇み走った。
続けてスキンヘッドの貴族を先頭に何人、何十人が声を上げて王女の下に向かう。まるで若い頃を思い出したかのように顔を明るくして進む年嵩の紳士の姿もいくつも見えた。無論、全ての男性が参加に動いているわけではない。運動不足が目にも明らかな男性や、無様を晒す可能性を避ける大物政治家、年齢を理由に辞退する者、それにいつ何時も穏やかに振舞うことをポリシーにする紳士等はその場に留まり、婦人らとこの余興について会話を交わしている。しかし、そのような不参加者を考慮しても、300名の招待客のおよそ半数を占める男性、さらにその約半分が参加する計算となるこの余興ではあるが(流石に婦人の参加者はいない)……この分だとあっという間に募集人数に達しそうである。
「ここらへんの煽りっぷりは見事だよなぁ」
その光景を相変わらず壁際で眺めていたニトロがため息を吐く。
ハラキリは腕を組んで、眉をひそめていた。彼は近場のビュッフェ台に向かうニトロを目で追いながら、
「何をそんなにのんきにしているんです」
「……何が?」
小皿を手に、ビュッフェ台からクロスティーニを取ろうとしていたニトロがきょとんとする。
ハラキリは苦笑し、
「参加しないのですか?」
「するわけないじゃないか」
さらにきょとんとしてニトロは言う。トングで挟んだクロスティーニを皿に載せ、
「パティもいなくなっちゃったし、
「それはまた度胸がありますねえ」
「……何が? むしろここに居た方が不利だろう。どうせあいつはろくなお願いをしないんだ」
「?」
ハラキリは、ニトロの発言がそんなに不思議なのか、眉根を寄せて首を傾げた。ティディアを起点にする参加者の列や壇前から思い思いに散り出した客の中にもハラキリと同様ニトロへ怪訝な顔を見せている者が多数いる。やはり『ニトロ・ポルカト』が未だ参加表明をしないことに眉根を寄せているのだ。
まるで全員の疑問を代弁するように、ハラキリはニトロへ問うた。
「では、ニトロ君はお
「ん」
クロスティーニを齧りながら、ニトロはうなずく。
「それなのに、お姫さんの『お願い』は怖くないので?」
ニトロはクロスティーニをもしゃもしゃ食べ、その美味しさにほころびながら、
「あいつは『結婚』を願いはしないよ。それじゃあ強制になるからさ。なら、それ以外のことは特に怖いこともないだろ? むしろこの公衆の面前でキスしてとか、『ここでしかできないお願い』をされる方が怖い。俺はパティの付き添いだから、下手な拒否はパティの顔に泥を塗ることになっちゃうしね」
「……はあ」
ニトロの言葉は道理ではある。彼のティディアに対する変な信頼感を改めて実感しながら、まだ眉を寄せたままにハラキリは言う。
「まあ、それはそれでいいんですが……そういう意味で『度胸』と言ったんじゃあないわけで……」
「ん?」
クロスティーニの残りを口に放り込んでいたニトロが、ハラキリの困惑顔に眉をひそめる。
と、そこに、泣きボクロのある給仕が、走りたいのを懸命に堪えるように極めて足早に歩み寄ってきた。その給仕アンドロイドは二人の元に辿り着くや炭酸水の注がれた細いグラスを――建前のために手近にあったものを持ってきたのだ――ハラキリに押し付けるように渡し、
「主様、何ヲノンキニシテイルンダイ!?」
指向性の音声で、しかも強い語調でアンドロイドは言った。驚きながらも一応グラスを受け取っていたハラキリがそれを動かしているのが芍薬だと理解する傍ら、ニトロは芍薬にまで『のんき』と言われてびっくり仰天していた。
「大チャンスジャナイカ、バカガ裏デ何ヲ企ンデイルニシテモ――コレハ大チャンスダ、千載一遇サ、絶対ニ逃ス手ハナイヨ!」
「……え?」
「王子の引率、ツッコミと、もしや一仕事終えて気が抜けてるんですか?」
信頼する二人に同じ言葉を突きつけられ、さらに芍薬に責められてニトロはおろおろとしてしまう。折角だからとばかりに炭酸水を口にしていたハラキリが、最近では珍しいニトロの様子に笑みを浮かべる。
「先ほどのお姫さんのセリフ。全ては、むしろ君を焚きつけるためですよ」
「え?」
「ヒックリ返シテゴランヨ! 何デモ聞ク、ソウ言ッタンダヨ!?」
芍薬は他の招待客らに背を向け、表面的にはニトロとハラキリの注文を聞いている素振りを取っているが、いや、このままだと自分がこのアンドロイドにいることを悟られても良いという勢いである。
「――あ」
そしてニトロは芍薬の勢いに、気づかされた。
「そうか……」
何でも聞く。王権を以て。つまり、それはニトロ・ポルカトがティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナと結婚できないようにすることも可能であるということだ。あるいはそこまで直接的にいかなくても、先の『暴言』を利用し、例えば「俺がいながらあんなことを言うお前にはもうついていけない。別れよう」とでも告げて承認させることも可能ではないか?
――大チャンス。
千載一遇!
「そうか!」
ハラキリの言う『度胸』。それは皮肉だ。あいつがどういうつもりにしろ、確かに到来したこの超絶好機を目の前にして踵を返す愚考・蛮勇を指した言葉であったのだ。そうとなれば、例え勝ち目が薄かろうと、帰ったりのんきに食事をしたりしている場合ではない!
ニトロはティディアの前に並ぶ男性の列を慌てて見た。最後尾には一体の給仕アンドロイドがいて、その頭の上に投影された
と、いうことは。
まだ間に合う!
「出る、出るよ!」
ニトロは叫び、芍薬に空の皿を渡すや列の最後尾へと全力で走った。
「ニトロ・ポルカト、参加しまぁぁす!」
彼の宣言を聞き、安堵にも似た歓声と拍手が湧き起こった。
馬上のティディアは微笑みながら……しかし、その目元が引き締まるのをハラキリは見逃さなかった。
「良カッタ……間ニ合ッタ」
芍薬が安堵を声にする。
「では小生も参加しよう」
と、その時、ハラキリと芍薬の耳にその声が聞こえた。ホールがもう何度目かのどよめきを起こした。
声の主は、グラム・バードン公爵――ティディア直属親衛隊隊長にして、王女の剣の師であった。
これで優勝候補が三人。特に王女と公爵の天才師弟は強力である。
そして公爵が参加を表明したと同時、この『余興』の中に不思議な弛緩と猛烈な緊張が生まれていた。
参加者の多数に『参加することに意義がある』という空気が流れ出したのである。が、それは『余興』としての気楽さを担保するのでむしろ良いことだろう。
他方、勝ち目が薄くなっていくばかりの状況に目つきを変えている者も少数存在していた。代表格は一番参加の東大陸の伯爵。他にも、何か胸に期するものがあるらしい者はちらちらと
それから、
(それ以外は……この余興で良いところを見せて、というところですかね)
ハラキリは列に並ぶ人の表情を――ニトロはグラム・バードンに話しかけられ困ったように笑っている――眺め、そう考えた。余興は、あくまで『余興』とはいえ家柄や資産のない者にとっては目立つための格好の舞台なのだ。特に王女の目にも止まれば最高だろう。
(術数権謀とまではいかぬものの、人の目論見それぞれ……と)
ハラキリはティディアを見た。
大昔の伝説の王女に扮した現在の希代の王女は既に下馬していた。馬は玄関を抜けて去っていて、入れ替わりに剣とプロテクターを携える古めかしい姿のアンドロイドが次々と入ってきている。王女はアンドロイドから剣を受け取ると、その競技用の剣を参加者に下賜し始めた。
東大陸の伯爵が跪き、恭しく両手を差し伸べる。
王女は何か声をかけながら、差し伸べられた手に剣を与える。
――王女から剣を賜る。
いくら余興とはいえ、その行為に感極まった顔をする若い伯爵へ王女らしい威厳に満ちた笑みを向けるあのバカ姫様は、さて、一体何を目論んでこんな余興を開いたのか。
正直に言って、この『余興』は彼女にとって非常にリスキーである。
彼女自身が言っていたように、
(この方式だからこそ、というメリットがあるんでしょうけども)
それも、多大なリスクを背負ってなお恩恵余りあることが。
(……しかし)
ハラキリは、二番目の参加者――余興とはいえ剣を賜ったことに感涙をぼろぼろ落としているスキンヘッドの貴族へ言葉をかけ、何か余計に琴線揺さぶることを言ったのか、臣下の剃り上げられた頭を感動で真っ赤にさせている王女を困惑の目で見つめていた。
バトルロイヤルに含まれる『紛れ』以上に、もう一つ、ティディアには何よりも看過できないリスクがある。
それこそは、ニトロ・ポルカト。
そう、ティディアが誘い込んだニトロこそが彼女にとっての最大のリスクでもあるのだ。それは彼女自身が一番良く解っているはずなのに、では、何故に?
(……ま、ご自身で決めたことなら見届けさせてもらいましょうかね)
ハラキリは吐息をつき、いつまでも場を動かないウェイトレス・アンドロイドに振り向いた。
「何か用が?」
「解ッテルダロウ?」
ハラキリは肩をすくめ、半分飲んだ炭酸水のグラスを差し出し、
「では、ワインをもらえますかね」
芍薬は、ハラキリを睨むように見ていた。ワインが問題ではない。この会場は、十五歳から飲酒可能な地域からの客もいるため、王権を使ってまでそのように配慮されてある。だからそれはいいのだ。それはいい、が、芍薬は苛立ったように、
「手伝ワナイノカイ?」
「どちらを?」
ハラキリは軽く言い放った。
芍薬は眉の間に険のある皺を刻んだが……ハラキリが“中立”であることは既知のことだ。特にこのような状況ではむしろ見物を決め込むのが自然ではある。
「安酒デイイネ」
それでもやはり面白くなく、芍薬は炭酸水のグラスを引っ手繰るように受け取った。ハラキリは苦笑し、
「いや、一番高いのを」
「御意。一番安イノヲ水割デ」
「ちょ……」
ハラキリが止める暇もあらばこそ。芍薬は即座に踵を返して去っていき……と、急に芍薬が立ち止まり、振り返った。芍薬の視線の先には、今しがた芍薬とすれ違ったウェイトレス・アンドロイドがいる。一方そのアンドロイドは芍薬へ振り返ることはなく、真っ直ぐハラキリへ歩み寄ってきていた。優雅に振舞う歩き姿、その手にトレイを携え、その上に水晶を削って作り上げたグラスを載せて。
「?」
ハラキリは、二体のアンドロイドがすれ違い様に作った空気に眉根を寄せていた。
見れば芍薬は、何か納得がいったように別の貴婦人の注文を快く受けている。その様子からは芍薬がこちらへ『ワインの水割り』すら持ってこないだろうことを確信させた。もちろん、芍薬にそうさせたのは、真っ直ぐこちらへ向かってくるウェーブのかかった髪の給仕アンドロイドだろう。ハラキリはそれに目を移した。
アンドロイドはハラキリの目前までやってくると、言った。
「手伝わないのですか?」
ハラキリは驚いた。
アンドロイドの発した声は、ハラキリの聞き覚えのある声であった。
ハラキリの眼前にクリスタル・グラスに満ちるミネラルウォーターが差し出される。
立て続けに注文もしていない飲み物が来ることには困ったものだが、ハラキリはそれを受け取った。
「……」
早速一口飲みながら――その間にハラキリはどういう会話を以て相手の腹積もりを探ろうかと計算しながら――言った。
「目立つのは嫌いなんですよ」
遠回しな否定の言葉に、
「あら」
アンドロイドは――その向こうにいる女性は、例の成人祝いのパーティーで初めて直接面識を持ったハラキリに目を細めて見せ、
「それは、もう無理な話ではありませんか?」
「無理な話?」
「ええ。貴方はあの『映画』にも出ていただけでなく、
普段、ニトロに対して自分がしていることを思わぬ方向からやり返された気がして、ハラキリは思わず苦笑した。
彼女の言った『一部』とは、もちろん彼女のいる社会のことだ。
そしてハラキリは、今だけでなく、ここに来た当初から自分に集まる視線を自覚していた。巧みに誰かに声をかけられぬよう、また多くの人の注目に晒されないよう息を殺していても、常にまとわり付いてきた“観察”の眼。『ニトロ・ポルカトの親友』への値踏み。あるいは、次代の王の親友を抱き込めば将来的に有利であるはずだという打算。
「なかなか認めたくないことをずばりと仰るのですね、妹様は」
吐息をつくようにハラキリが言うと、アンドロイド――ミリュウは微笑み、
「事実は正直に認めること、と、教えられています」
ハラキリはまた苦笑した。
「なるほど。確かにそれは賢明なことと存じます」
ミリュウはうなずく代わりに小首を傾げて見せた。
相手の出方を探るために軽い皮肉にも嫌味にも聞こえるように返したのだが、それを軽くいなされてしまったハラキリは間合いを測るために小さく息を吐き、と、そこでふと冗談を思いついて言った。
「しかし、こうなったらいっそ一度死んで姿を隠したいものですね」
彼の脳裏には彼の父の姿があり、彼の視線の先には何やら婦人を相手に笑顔を向けているグラム・バードンがいる。そして彼の口調には、“それ”をできる立場にある王女へまるで依頼するような色が含まれていた。
すると、
「お手伝いしましょうか?」
ミリュウは、予想外にもハラキリにそう言ってきた。
驚いたのはハラキリである。
彼女は『真面目な妹姫』だ。てっきり「ご冗談を」とばかりにたしなめてくると思っていたのに……
(……ふむ)
成人祝いのパーティーでは周囲に祝福と歓喜の色ばかりがあったこと、また、直接言葉を交わした時間も短かったために確信することはできなかったが。
(ニトロ君は妹君のことを好評価していましたが……なるほどなるほど)
思わぬところで『劣り姫の変』を契機に彼女が得たのであろう変化に触れたハラキリは、内心愉快気に笑った。
一方、ミリュウの操るアンドロイドは近場のビュッフェ台へと向かっていた。ハラキリの注文に従っている振りをしているのだ。しかしその意識がこちらに向いていることはハラキリには容易に知れた。その上、あちらは、探り合いはやめにしましょう――そのようにたしなめる目を投げかけてきている。
その眼差しの豊かな表現力を見て、そこでハラキリはこのアンドロイドは汎用A.I.を経由した遠隔操作ではなく、もっと直接的な
ハラキリは小さくうなずき、同意を示した。声のみならず表情や仕草も使っての、ある意味“全力の干渉”というならば、それに応じてここからは直接的にいこう。
「どちらも手伝いません」
彼は口の中だけで消えるような小声で、きっぱりと言った。まるで腹話術の出来損ないであるが、相手は“高性能な耳”を持っている。小皿にローストビーフを取っているアンドロイドの目は、ひたりとハラキリを見つめていた。
さらにハラキリは続けた。
「拙者は二人の友達ですからね」
ティディアの……彼女の姉の出した条件は非常に大きな威力を持っている。ここでどちらかの味方になることは、下手をすれば二人の関係性を壊滅させる危険もある。――ハラキリの一言はそのような意味を含んでいたが、ミリュウは無論それを理解した。
ヴィチェアという塩漬けにした高級魚卵とピクルスを載せたクラッカーも一枚皿に載せ、
「それでは、手伝ってくださいませんか?」
差し出された皿を受け取り、その依頼を聞き、ハラキリは探るのではなく、試すように問い返した。
「誰を?」
「姉を」
予想通りの答えが返ってくる。が、次に続けられた言葉にハラキリは意表を突かれた。
「ニトロさんを、そして、私達姉弟を」
ハラキリは片眉を跳ね上げ、
「……三方同時とは……これまた豪儀ですねぇ。しかし、三方全てを手伝うことは不可能と存じますが?」
ミリュウは、音声をこれまでの通常モードから指向性に切り替えた。そして、グラスと皿を器用に一手に持ち、空いたもう一方の手でクラッカーを口に運ぶハラキリにだけに聞こえる声で言う。
「不可能ではありません。最後に二人が『一対一』になるようにしてください。二人を守っていただきたいのです」
王城の料理長の手によるピクルスとヴィチェアのハーモニーは流石だ、と舌鼓を打っていたハラキリは、一瞬その味覚を忘れた。妹姫の言葉に驚いたのではない。いや、驚いたのは確かだが、それよりも、彼女の話をより深く聞こうという『真剣さ』が心に湧き上がってきたのだ。
「どういうことです?」
咀嚼もそこそこにクラッカーを水で流しこみ、ハラキリが問う。ミリュウは自分とハラキリの間に
「グラム・バードンは、おそらく『御成婚』を願います」
「……」
ハラキリは、姿勢はそのままに再びニトロの背後に並ぶ大男を見た。老齢を感じさせない豪快な男――光学兵器全盛であるこの時世にあっても『暗殺では未だにナイフも使われている』ために平然と剣の達人となった忠臣は、何やら楽しげに参加者達を眺めている。
「アンセニオン・レッカードは『結婚』を、あるいはその足がかりとなる『環境』を願うでしょう」
ハラキリは、ちょうどティディアから剣を下賜されている男へ目を移した。ティディアに対して『浮気騒動』にもならない下手な恋の駆け引きを仕掛けてきて、自爆というにも憚られるほど湿気た自爆をしてしまったレッカード財閥の三男坊。彼は、その失策のために財閥内での立場に少々ケチをつけてしまった。ここは捲土重来を狙っているだろう。
それから――ハラキリが、ミリュウの後を引き継ぐ。口の中に留まるような喋り方で、
「クルーレン・シァズ・メイロンは間違いなく『結婚』を願いますかね」
ミリュウは、うなずいた。
剣を下賜される折には感涙を流していたスキンヘッドの貴族。熱烈な『ティディア・マニア』として知られる西大陸メイロン領の跡取りであり、ティディアが妹のために剃髪して以降、忠誠を示すようにスキンヘッドを貫いている男だ。先ほどティディアを迎える際に大声を張り上げていたのも彼を中心として集まった『マニア』の即席グループだった。話の流れで東大陸の伯爵が、自分と同じ伯爵の位にある他の男が“一番名乗り”となったことには――ハラキリは確認していたのだが――殺意と誤解されてもおかしくないほど顔を歪めて悔しさを堪えていた。それでも二番目に下賜の栄誉を受けた青年は既に準備万端となり、現在はニトロ・ポルカトへ向けて熱烈な視線を飛ばしている。
ハラキリは、ロディアーナ宮殿料理長自慢のソースのかかったローストビーフを無作法にも指で挟んで齧りながら、言った。
「しかし、解りませんね。他の二人はともかく、グラム・バードン公の願いはそちらにとっては願ったり叶ったりではないのですか?」
すると、ミリュウは首を小さく左右に振った。
「いいえ。決してそうではありません」
齧り取ったローストビーフを飲み込んで、何気なくワインリストのページを繰りながら、ハラキリは問う。
「何故です?」
「正直に告白すれば、私はお姉様の味方です」
「それはまあ、そうでしょうねぇ」
「しかし、それは二人が決めなくてはならないことです」
ハラキリは眉をひそめた。そのセリフには、一つひっかかることがある。
「では、もしお姉様が勝たれた際に『結婚』を望むのなら、それはいいと? 公爵の場合と結果は同じことであるのに」
「はい」
思わぬ断言に、ハラキリはワインリストから眼前のアンドロイドへと目を移した。
「……それでも、本当によろしいのですか?」
「はい。公爵の場合と結果は同じであったとしても、こちらでは二人が決めることになりますから」
「なるほど、それこそが重要で、結果など二の次ですか」
「これだけが重要とは言いませんが、もしそれで成功したら嬉しく思います。しかし、もしそれで失敗したのなら、それはお姉様の責任です」
ハラキリは、目を丸くした。
「……なるほど」
驚きのあまりに、相槌を打つ裏でハラキリは笑い出しそうになっていた。
よもや『伝説のティディア・マニア』からこんなセリフを聞く日が来ようとは!
いや、そこらへんの割り切り方は姉譲り、それとも姉の教育の賜物と言えなくもないが、いいや、これは間違いなく彼女の変化だ。さらに彼女は何気なく『これだけが重要ではない』と、暗に他意を差し込んできた。それはつまり彼女が先ほど自ら“探り合い”をたしなめておきながら、実際には、現在も引き続き『腹芸』を決め込んでいるのだという密かな告白でもある。
随分イメージと違う“真面目で優等生な姫君”の言葉を面白く感じながら、ハラキリはさらに問うた。
「しかし、ニトロ君が勝った場合は――解っていますね?」
しばしの間があった。
アンドロイドが、唇を引き結ぶ。一瞬、瞳が下を向く。その顔は明らかに不安を表していた。失いたくないものを失うかもしれないということへの、隠し切れない恐怖が漏れ出していた。
やがて、彼女は努めて力強く、言った。
「その時は、ニトロさんへの正当な報酬です。寂しいですけれど、私は、受け入れます」
ハラキリは口が笑みの形になるのをもはや止められなかった。以前は全く興味を向けていなかったミリュウ姫ではあるが……こうなってくると実に興味深い。しかも、彼女の態度には、自覚的かそうではないかはともかく、どうやら姉に対するものと比肩するほどの『ニトロへの好意』が見受けられる。
「ですがお姉様は負けません」
追って続けられた断言に、ハラキリは目を細めてうなずく。
(――さて?)
ハラキリは、ワインリストを見つめながら考えた。
何事かを隠しながらも、ミリュウの言い分は確かに理のあることだ。
アンセニオン・レッカード、シァズ・メイロン……社交界でも有名な両者は、しかし正直雑魚である。もちろんバトルロイヤルの利を活かす可能性がないわけではないが、それでもその二人はどうでもいい。ニトロにとっては脅威ではあろうが――それでもどうでもいいのだ――ティディアにとっては噛ませ犬にもならない。
脅威は、やはりグラム・バードンのみである。
あの公爵は『ニトロ・ポルカト』のいくつかの虚飾も知っている。が、それでも第二王位継承者がそう言うのであれば、それはすなわち、ニトロが既に文字通り主君のために命を捨てた忠臣にも認められているということである。思い返せば、あの人見知りのパトネト王子をこの場に現実に連れてきてみせたニトロへ対する公爵の態度も、その認識から逸れないもののように思える。
「……」
ハラキリは今一度参加者を見渡した。
改めて見定めてみても、自分が知る限り、混戦ゆえの“紛れ”に乗じて台頭する者はあっても実力のみで勘案すればやはり脅威は『王女の剣の師』、彼だけだ。この平和な世にあって、本気で多対一の危機的状況から生き残るための訓練を積んでいるのは――ティディアと、我が愛弟子を除けばあの達人だけである。もちろん未知の伏兵は否定できないが、それでも、あの豪傑に敵うだけの実力者は想像できない。
となると、
(もう一つ怖いのは、お姫さんがグラム・バードンを仕留めようとした時にニトロ君が邪魔をすることですか)
その場合、間違いなくニトロは負けることになろう。
そしてその場合、優勝はグラム・バードンとなるだろう。唯一公爵閣下に勝ちうる可能性があるのは、ティディアだけなのだから。
「……気になることが、一つ」
ハラキリは、ミリュウに訊ねた。彼女が隠していることを明らかにしておきたい。
「先ほどの話を聞くと、貴女はこの『余興』において“結婚を目的とする”ことへの価値を低く見積もっていらっしゃるようだ。もっと具体的に言えば『姉がそんなことを願うはずがない』と確信していらっしゃるようにも見受けられる」
ミリュウはハラキリを見つめる。その沈黙には肯定の影がある。
「お姫さんの思いは貴女もご存知でしょう? なのに、彼女が『結婚』以上に据える目的とは一体何でしょうか、お姫さんは、一体何を望まれているのでしょうか」
最後には直接的な問いを受け、ミリュウはハラキリを見つめたまま、言った。
「『結婚』は交際のある二者の取り得る生活形態の一様式に過ぎません。あるいは、民法に従った契約ですね」
「……つまり、そんなことより気持ちが大事と?」
「もっと具体的に言えば、愛が大事なのです」
その切り返しに、ハラキリは大声で笑いそうになった。実に面白い回答だ。セリフに反して具体的には答えていないくせに、そのくせ本質的には答えてくれているように思える。――が、ミリュウが至極大真面目な顔をしているから、ハラキリは辛うじて肩を揺らす程度に心を抑えた。
まあ、生活形態でも民法に従った契約でもなく、とかく望むは『愛のため』と言うのであればそれでもいい。
最近ちょっと心配になるほど『恋の病』の重篤患者が――ニトロは確信していたが――結婚を無理強いして自滅しようとはしていない、その確信を自分も得られただけで十分としよう。
「しかし、難しい注文をしてくれるものですねえ」
ハラキリはローストビーフの残りを一口に食べ、食べることで間を空けて、言った。
「拙者は公爵より弱い。まず勝ち目はありません」
「お姉様は、貴方を信頼しています。ニトロさんも、貴方を信頼しています」
「おや」
ハラキリは苦笑した。そう言われるとなかなか厳しい。
と、そこでミリュウがふいに笑顔を浮かべた。
「そして、お仕事はしっかりなされると、お姉様から聞いています」
なるほど――と、ハラキリはもう一つ確信した。
この姫君は、間違いなく『真面目で優等生な王女様』だ。ただ真面目なだけでも、ただ優等生なだけでもない。先ほどからの腹芸といい、直接的な内容を避けながらも納得させてくる話術といい、政に通じる交渉力を確かに持っている。
「では、これは単に貴女方の頼みというよりも、仕事としての『依頼』なのですね?」
普通、この流れなら本来は『頼み』を先にして、それを断られたら“保険”の『依頼』に切り替えるのが素直な順序であるが……ミリュウは、そこをあえて逆にしてきた。ここには一つの意図が窺える。そしてその意図に感づいたハラキリの言葉を、彼が言葉の裏に潜めた推測ごと肯定するようにミリュウは目を細め、
「1億で、いかがですか?」
「おっと、そいつは豪儀だ」
ハラキリは、むしろ苦笑した。今流行の『ラクティ・フローラ』の筆頭株主である彼女には簡単に払える額なのだろうが……
すると、ハラキリの思惑を見透かしたように、ミリュウは言った。
「いいえ、『未来』がかかるのであれば1億など安いものです」
ハラキリは、今度は笑った。その“誰の”を外した『未来』は、果たして誰を対象にした未来なのか。彼は小さく肩を揺らし、水を飲んで気持ちを落ち着けてから、きっぱりとした口振りで言った。
「お断りします。そんな金を貴女からもらっては、拙者がニトロ君に怒られてしまう」
「――では、百万でいかがでしょう」
今度は控えめに提案されて(それでも大金だが)、ハラキリは思わず苦笑する。
「お断りしますよ。額の多寡ではなく、こんなことで金をもらってはニトロ君に怒られてしまうでしょう。それは、避けたいのですよ」
「……怖いのですか?」
その問いかけに、ハラキリは何だか声を上げて笑いたい気になりながら、
「ええ、怖い。ニトロ君に怒られるのは、怖いんです」
「…………そうですね」
その時、アンドロイドの肩がぶるりと震えた。ハラキリは直感した。その震えは、きっとあのヘッドバッドを思い出してのものだろう。生身の方の彼女もきっと震えていたはずだ。
ハラキリはこみ上げる笑いを堪えるのに必死だった。ああ、そうか。我が親友は下の王女様にも“恐怖”を致命的なまでに刻み込んだのか!
一方、ミリュウは気持ちを落ち着けるように肩を上下させ――現実の肉体も深呼吸をしたはずだ――それからハラキリをじっと見つめ、
「しかし……それでは私にはもう貴方にお願いすることしか残されていません。どうか、お願いいたします」
確かに、依頼を先に蹴られたからにはミリュウのできることはもうそれしかない。状況を素直に認めて(周囲に不審がられない程度に)小さく頭を下げようとするのをハラキリは素早く首を振ることで制した。そして彼は口元に意図の読み切れない微笑を浮かべ、
「貴女は意外にずるいお方なのですねえ」
ミリュウは動きを止め、ハラキリを見つめた。ハラキリは先にも思った『頼み』と『依頼』の意図的な順序の逆転を思い浮かべ、
「最後は情に訴えるしかないこの流れで『お姫様』に頭を下げられると非常に断り難い。実に有効な“戦術”です」
ミリュウは何も言わず、ハラキリを見つめ続ける。そこにはタネを見破られながらもショーを実行し切った手品師の見せる、一種威風堂々とした姿勢が垣間見えた。
ハラキリはまた小さく笑い、そして息をつく。
「それにしても本当に意外です。貴女はこのような交渉が苦手だろうと思っていたのですが」
「いいえ」
ミリュウは、にこりと笑った。
「私、こういうことは以前からわりと得意なんですよ? 『劣り姫』の頃から、これだけは皆様にお認めいただいていましたから」
どこかはにかむように言われて、そこでハラキリは彼女の特性に思い至り、これは自分の考え足らずであったと肩をすくめた。
「そうでしたね。以前から貴女は調停役になることが多かった」
今までは、第二王位継承者――真面目な優等生な妹姫は、非常に優秀ながらも問題児である姉の尻拭いをして回るばかりであった。つまりそれはフォローであり、姉姫の威を嵩にしつつの謝意のばらまきであったのだが……なるほど、確かにフォローを先んじればそれは『根回し』ともなる。これまでは受身の姿勢で公務に当たっていた彼女にそれをできるイメージはなかったが、どうやらこの点でもこの第二王位継承者は大きな変化を得たらしい。
(いやはや、お姫さんは本当に優秀なサポーターを手に入れましたねぇ。ひょっとしたら、この件に関しては初めての純粋な味方でもありましょうかね?)
ニトロには芍薬という純粋な味方がいるが、ティディアにはいない。いるのは“およそ中立”な自分と、味方ではあるがどちらかと言えば観客寄りのヴィタだけだ。しかも、その初の味方が非常に理想的な妹姫となればティディアには何より素晴らしいことだろう。思えば『わりと得意』――なんて、姉の口調にそっくりだった。
(この結果は、頑張ったニトロ君にとっては皮肉としか言えないのでしょうが)
何にも悪いことはしていないのに、むしろ最善を目指せば逆に追い詰められる――そう、ニトロの言う通り、彼の行為が彼を追い詰める! そのことにハラキリは思わず肩を揺らし、その感触からミリュウはハラキリが次の瞬間には首肯を返してくれると期待していた。が、
「ですが、依頼も、頼みも、お断りします」
期待を裏切る応えにミリュウは驚いた。彼女は思わず次の手を打つための声を上げようとしたが、それをハラキリのなんとも言えない笑みが押し留めた。
「ああ、いや、言い方が悪かったですね。依頼も頼みもお聞きしませんが、しかし貴女の期待には沿いましょう」
怪訝な顔を見せるミリュウへ、ハラキリは苦笑じみた顔で言う。
「むしろ、貴女に感謝しますよ。どうやら拙者こそ気が抜けていたらしい。危うく、そんなにも簡単な『嫌な結果』を見過ごすところでした」
ミリュウは、ティディアかニトロ以外が勝つ……とりわけグラム・バードンが優勝することを示して言うハラキリを見つめた。
「友達がどちらも望まぬ結果を迎える可能性があって、それを拙者が防げる可能性があるのなら、いくらでも“お手伝い”します。出来る限りのことはしてみましょう」
ミリュウはしばしハラキリを見つめた後、ひねくれた姉の唯一の友達、同い年でありながらニトロとは違う底知れなさを感じさせるこの少年に、深い辞儀の変わりにそっと瞼を伏せた。
「しかし、一つ問題が」
と、そこで、ハラキリは言った。
「既に参加者は埋まっているんですよねぇ」
列の最後尾にいるアンドロイドは、宙映画面に『終了』と記している。
すると、ミリュウは和やかな笑顔をアンドロイドの顔に刻んだ。
「問題ありません。最初から含めておきましたから」
そのセリフを聞いたハラキリは『参加者』の数を素早く数えた。――71。ティディアの言った数に一人足りない。無論、これは“姉弟”の弟側の仕事によるものだろうが、
「……拙者が参加しなかったらどうする気だったのです?」
ハラキリは“どうする気”だったのかを察しながら、あえて問うた。
そして問われたミリュウは問いかけてくる相手が既に“理解している”ことを察し、まるで社交界流に照らしてすかしたやり取りをするように、貴婦人調の口振りで言った。
「簡単なこと、姉を含めればよろしいのですわ」
そう、確かにティディアは『参加者は72名』としか言っていない。この数字への含意からはそれが彼女を含まない数であることは明らかであるものの、しかし、それが彼女を含めてなのか、そうでないのかについてはこちらもまた明らかなことに“明言していない”。であれば、この数の操作は結果としてどちらに転んでも“嘘ではない”。
ハラキリは笑う代わりに水を飲み干した。この『腹芸』を見られたことだけでもここに来た甲斐があったと思う。
「妹様がこれほど面白い方だとは思っていませんでした」
そうしてハラキリが言うと、ミリュウは不思議な微笑を見せた。
「全てはニトロさんのお陰です」
さらに彼女は続ける。
「二人のこと、これからもどうかよろしくお願いいたします」
ハラキリは、再び目を伏せたアンドロイドの向こうに、深々と頭を垂れる妹姫の姿を見た。そして彼は、彼女のその姿に深い感慨を得るのだった。
(君自身への結果はどうあれ、ニトロ君は、お姫さんといい弟君といい……、本当に人に良い影響を与えるのですね)
親友は自分のことを『師匠』だなんて尊敬してくれているが、ハラキリは、彼のその力こそ自分には真似できない尊いものだと感じていた。
が、それは胸に秘めるべき感情であると思う彼は、思わず笑みがこぼれそうになったところで空のグラスと皿をミリュウに返した。素早くワインリストの中の一つを示し、次いで
「それはそうと、岡惚れをなさってはなりませんよ?」
ミリュウは少し怒った顔をしたが、それから――こちらも冗談めかせるように、思わせぶりにそっと微笑んだ。