3−a へ

 ロディアーナ宮殿の広い中庭は幻想的にライトアップされていた。
 ジオ式と呼ばれる、幾何学に設計思想を委ねる庭園様式。外から見れば生垣の造る美しい緑の線と白い石畳の線が描く交差の美を眺められ、内から眺めれば整然とした緑のリズムに心地良さを感じられる。生垣には常緑の品種が用いられ、下草のように植えられた季節の小さな花々がアクセントを生んで庭園を歩く者を飽きさせない。庭の中心に設けられた池と噴水は、静けさの中へ不規則ながらに快い水の囁きを投げかけて客をもてなす。それでいて、心地良さにかまけてばかりの客は簡単に迷わせてしまう少し天邪鬼な性質を持つ庭。
 ティディアの誕生日会に呼ばれた客は、公式に発表された招待状の数から150人であった。一昨年の『サプライズ』故の惨状から会への参加へ気後れする者はあっても、断る者は皆無である。招待客は一人付き添いを連れて来ることが許されているため、結果、会に馳せ参じた招待客と合わせて305人となっていた。端数の5の内訳は、非公式な客であるハラキリと、北大陸のチャリティーイベントで幸運を射止めた老夫婦、それから最大の目玉客――パトネトとニトロである。
 招待客は皆、王女の手配した迎えによって会場に連れられて来ることになっていた。大昔は馬車であったが、現在は車内にミニバーすらある最高級の飛行車だ。そしてこの宮殿に招き入れられた客らはパーティーが始まるまで、ロザ宮と中庭で自由に宴を楽しめる。
 客が集まる主たる舞台はもちろんロザ宮であった。
 現在、ロザ宮のホールでは様々な交友が育まれている。普段面識のない人間、普段面識を得ようもない人間同士も一同に会するまさに社交の場。主人ホストが気楽にくつろげるようにと設けた立食のためのビュッフェ台に並ぶのは、王城と宮殿、それぞれの料理長が競い作り上げた逸品ばかり。舌の肥えた貴族や資産家も鼓を打つ料理には誰もが虜となる。給仕の運ぶドリンクも名品名酒揃いで美味であり、王立アデムメデス交響楽団の奏でるBGMが耳を華やかにくすぐる。夢のように優雅な空間で、客らはグラスを傾けながら料理についての感想を糸口に交流を深めていた。
 そのため、いくら名園とはいえ、ホールに比べて寂しい中庭に出る者はフレアの言った通りに少ない。
 だが、アデムメデスに名高いロザ宮も美味なる料理も最高の音楽も捨て置いて、ロザ宮と同様に名高い中庭を静かに楽しんでいた者こそ幸運であっただろう。
 庭のどこかで奏でられている四重奏を聴きながら、一番初めに彼らをその目で見たのは若い貴族夫婦だった。
 喧騒を逃れて水の湧く音が心を落ち着かせる池の辺へとやってきていた夫婦は、そこでロディアーナ宮殿の方角から現れた少年二人を前にして文字通り息を飲み、瞠目した。その“御二人”が参加されることは知っていたものの、まさかここで遭遇するとは思ってもみなかった――そして参加されると知ってはいたものの実際にその姿を見るまで信じられないでいた――そのため二重の驚きに打たれたのである。少年達の片方は少年と言っても青年に近く、もう片方は幼年の最中にあり、また少年というよりも美少女と言う方が的確に思える……それを何度も確認するように見つめた後、若い夫婦は慌てて膝を突くや深々と頭を垂れた。
 ニトロは、立ち止まった。
 噴水から飛び散る水の飛沫が、絶えず揺れる池の水面が光を受けて美しく輝いている。それを傍らにして、この幻想的な光景には不似合いなほど恐縮し畏まる男女がいる。
 ニトロは、それから『他人』に遭遇して息を止めているパトネトを見た。
 パトネトの顔は蒼白であった。ついさっき、中庭に出る前に見た活気は微塵もなくなっていた。まあ、無理もない。いくら覚悟しても怖いものは怖い。強固な決心が瞬く間に揺らいでしまうのも、むしろ自然なことだろう。
 そこでニトロは、少しだけパトネトと繋ぐ手に力を込めた。
 パトネトがニトロを見上げるが、ニトロはパトネトを見ない。見ないことで信頼を伝える。
 彼のその信頼は、パトネトにはひどく嬉しかった。喜びが彼の決意を刺激して、瞬時に萎れてしまっていた勇気を懸命に生き返らせる。
「……おもてを、上げて」
 細く小さい――パトネトの振り絞った声が、辛うじて貴族夫婦に届く。二人が顔を上げたのを見て、パトネトは額に薄く汗を滲ませながら言った。
「楽にして」
 貴族夫婦の表情は、庭を照らし上げる間接光の中で半ば影が覆ってよく判らない。しかし、どうやら呆然としているらしい。
 まさか、この王子から……これまでどんな高い地位の貴族にも声をかけた記録のない王子から直接声をかけられるとは思ってもみなかったのだろう。どうしていいのか分からないように、ニトロへ目を移してくる。
 ニトロは相手の顔を見つめ――相手が話題の東大陸のある領主の息子夫婦(位は伯爵だったか)であることを思い出しつつ――丁寧に会釈した。
「こんばんは。良い夜ですね」
 ニトロの声に緊張はなく、王子と並び立っているのにその威を借る素振りなどは微塵もなく、そこにはただ偶然出会った祝宴を同じくする目上の人間への真摯な挨拶だけがあった。
 王女の『映画』の共演者として、いきなり王女を殴りつけるという衝撃のデビューを果たして以来、『ティディアの恋人』『身代わりヤギさん』『トレイの狂戦士』『スライレンドの救世主』……そして今や『英雄』とまで呼ばれるに至った少年のその声に、貴族夫婦は彼に実際に手を差し伸べられたかのように立ち上がった。
「こんばんは、パトネト殿下、ポルカト様。良い夜ですね」
 そして妻を従えた夫が、穏やかに返してくる。妻は緊張の面持ちで頭を垂れる。
 ニトロはパトネトがうなずくのを待ってから、会釈を返した。そして、常にパトネトの半歩前を行くように歩き出す。
「立派だったよ、パティ」
 伯爵夫婦に声が届かないあたりで、ニトロは囁いた。
 返事はない。が、ニトロの手を握るパトネトの手に力が込められ、彼を追う小さな足音には誇らしさが加わっていた。
 ――その光景を、少し離れた場所にいた二組の招待客が見守っていた。
 もちろん各放送局のカメラも見つめていた。
 中継を見る誰もが王子の成長と、ニトロと手を繋ぐ王子の微笑ましさに心を打たれていた。モバイルでそれを見たのだろう、宮殿の外から感激の声が地鳴りのようにここまで届いてきていた。
 されど、王子の肉声を聞けて、ニトロの『英雄』に相応しい態度を直接見られた者の感激はカメラ越しとは比べ物にならないほど大きい。
 ニトロはパトネトをつれて庭を行く。
 すれ違う招待客らと挨拶を交わし――二人と面する者は皆感激に打たれて同じ顔をする――少しずつ、ほんの少しずつ、パトネトが自信を深めていくのを感じながら、ニトロは次第に生垣の背が高くなっていく中庭の奥を目指す。
 と、ニトロは、生垣の中に、ぽつぽつと小さな薔薇が現れていることに気がついた。
 小さな花弁を作る品種の薔薇が、生垣の作る道の中で特定のルートに点在していたのである。それはまるで見る人を誘うように奥へ奥へと進んでいた。どこか幻惑的な雰囲気であった。誘われているという感覚が、ぞわぞわと胸の内側をくすぐっていた。
「こんばんは」
 薔薇を追うに連れて、礼装やドレスに身を包んだ招待客と出会う率も上がっていく。
 薔薇は、そう、ロザ宮への案内役であった。
 ニトロの目には、背の高さが庭の内で最大となった生垣の向こうに鎮座する、実に瀟洒な造りの館が見えている。薔薇の花は迷路のような庭の中、ニトロ達をそちらへと誘い続けている。
「ニトロ君」
 招待客と遭遇する度に声を振り絞って挨拶を繰り返していたパトネトが、『他人』に対するものと比べてとても大きく元気な声でニトロに呼びかける。
 ニトロは足を止め、パトネトに振り向いた。
「何?」
「期待しててね」
 パトネトは、どこか得意気であった。
 どうやらこの先にある物に対して言っているらしいが……とすればそれは、
(ロザ宮の、薔薇園か)
 それは話に聞いているし、映像も見たことがある。それだけでも確かに素晴らしい印象を受けたものだ。が……この子がそう言うのなら、きっと、もっと深い感動を味わえるのだろう。
「期待してるよ」
 ニトロはポケットからハンカチを取り出し、パトネトの額に残る汗を拭ってやった。相変わらず彼の手の平は汗で一杯である。
(……)
 ……ここまでは、慣らし運転もいいところ。間接光のために相手の表情が詳細に見られないのも都合が良かった。それから、相手が距離を掴みかねて、挨拶に続けてのコミュニケーションをとろうとしてこないことも。
 問題は、この先である。
「――期待してる」
 ニトロは、もう一度短く繰り返した。
 パトネトは、彼の真意を聡く察した。
 期待される喜びとそれによるプレッシャーを感じて複雑な表情を作り、少しだけ目を伏せる。
「……」
 ニトロは、しかし、そのプレッシャーを忘れているところに不意打ちのように『本番』を迎えるよりは、こちらの方がずっと良いと考えていた。
 ポン、と、優しく一度パトネトの頭を触り、歩き出す。
 パトネトの手から一瞬の躊躇が伝わってきたが、それでも王子はしっかりとついてきた。
 ニトロとパトネトの先には、向かい合う蔓性の低木を編んで作られたアーチがあった。低木は並木のように連なり、そのため蔓状の枝を編まれて作られたアーチも連なり並んでいて、そのためにトンネルの様相を成している。トンネル状アーチの内側には光がない。暗がりの中、絡まりあう低木の枝にほんの小さな白い花がぽつぽつと浮かんで見える。ほのかに爽やかな香りに満ちたトンネルの先は今や3mほどの高さの壁となった生垣に続いていて、その生きた壁をくり貫いて造られたような出入り口の向こう側から、暗いトンネル内へと華やかな彩光がじわりと漏れ出してきている。
 光に導かれるようにトンネルを進み、通り抜けた時、ニトロは明暗の落差のために目を細め、そして目が慣れるに従いその光景が視界を彩っていく様に、彼は、息を飲んだ。
 別世界だった。
 話に聞き、映像でも見たことのあるロザ宮の薔薇園。
 館をぐるりと囲む、春夏秋冬四季を通して様々な品種が咲き誇り続ける華やかな庭。
 しかし、違う!
 話に聞いただけでは、映像で見ただけでは感じられない華麗さ、優雅さ、美しさ……一度暗い場所を通って来たためもあるだろう、ニトロの目に飛び込んできたのは光を受けてことさら眩しく輝く見事な薔薇の花々だった。そして、別世界なのだ! 彼が味わったのは、薔薇の香りと彩りと、夢のような薔薇園に飾られながらも存在感を示す瀟洒な宮が作り出す、そう、これはまさに『御伽噺の世界に入り込んでしまった』という感覚だったのである。
「ね?」
 くすくすと笑いながら、パトネトがニトロを見上げる。
 ニトロはうなずくしかない。
 生垣の壁で仕切られた中庭とこちらでは、様子が全く違っていた。あのトンネルがこの感動のための演出であるのは(園芸好きの母のせいもあって)理解できるが、それでも、理解と実感の違いに心身が痺れてしまう。現実感が薄れ、浮き足立ちそうになる。
 どこからか漏れ聞こえてくる調べにも美しく……と、ニトロは、本来ならば彼をそのまま美への恍惚へと導くであろうメロディに、逆に我を取り戻させられた。
 そのメロディは、今は開け放たれているであろう宮の扉から流れ出てきているはずだ。
 そう思えば思考も認識も正常に戻り、薔薇園にはちらほらと招待客の姿があることにも彼は気づいた。
 誰もが、一様に驚き直立不動の体勢であった。あまりに硬直しているから、自分の視覚はそれを庭の装飾品と錯覚していたのかもしれない。――そんなことを思いながら、ニトロはこちらの反応に気をとられて緊張を忘れているパトネトに目をやり、微笑んだ。
「とても綺麗だ」
 パトネトは嬉しそうにうなずく。
 その様子に最も近くにいた婦人が感嘆の吐息を漏らし、そこでパトネトも“正常”に戻った。
 ニトロは、一瞬にして固い緊張状態に揺り戻ったパトネトの代わりに、薔薇園にいる者達へ丁寧に会釈をした。
 薔薇園の中には、ニトロが、受験勉強と並行して招待客の素性を予習する中で芍薬が特に覚えておくべきとリストアップした人物……曰く『社交界の情報源』という異名を取る有名な中級貴族の夫人もいた。ばちりと夫人と目が合ったニトロは、彼女と共にいる娘であるらしい少女にも向けて、微笑と共に会釈する。
 この会に『厳格な序列』はない。もちろん身分や立場による序列は存在するものの、先ほど我に返った伯爵夫婦がニトロのみならず王子に対しても簡略な挨拶をしてきたように、この会では最敬礼のような礼式は必要とされていない。もし必要とされる場面があるならばそれはその時に明確に解る。また、とはいえ『厳格な序列』はなくとも『礼儀としての序列』は当然存在する。それに対するバランス感覚は普通なら数々の社交界での交流の中で目上の人間に導かれながら学び取るものであるのだが……そのような機会を経ていないニトロには極めて難しいことであった。
 これについてニトロはヴィタに相談を持ちかけていたのだが、「ニトロ様なら周囲の反応からすぐに学び取れるでしょう」――と、彼は彼女から告げられていた。
 そしてその通り、夫人はニトロへ、彼と同様に微笑を伴う会釈を優雅に返してきた。流石は社交界に名を馳せる夫人である。これまで驚きに固まっていた者達とは違い、続けてパトネトへ、軽くスカートの裾を持ち上げて膝を曲げ、腰までは曲げないものの、ニトロに対するものより深く頭を垂れる。娘も慌てて同様に頭を垂れた。
(なるほど……)
『親愛なるティディア姫』が用意したこの“気軽な”祝宴において下手に格式ばっては野暮になる。野暮にならない程度に、それでいてきちんと敬意を示す塩梅……きっと娘は母からそれを学んでいるところだろう。そしてニトロも、この夫人の感覚ならば間違いないだろうと即座に学び取った。先の伯爵夫婦のものと合わせて検討すれば、それはより具体的に彼の感覚にすり込まれていく。
 ――いつの頃からか、彼はアドリブが得意なのだ。
 ところでパトネトは、明るいところに出たため相手の正体をはっきり見取れるようになったことが苦痛であるらしかった。やはり中庭では淡い間接光の作る影が彼を勇気付けていたのだろう、ニトロにぴったりとくっついて歩く彼はもはや誰の会釈も見ることはない。夫人の会釈にも応えないが、その事情はあちらも理解している。彼女は『ニトロ・ポルカト』にもう一度会釈を返されたことで満足そうであった。
(さて)
 ニトロは歩き出した。
 パトネトも、ニトロにぴたりとくっついたままついてくる。
 そこかしこから遅れて挨拶の言葉が飛んでくるのに、ニトロは丁寧に応えていった。一方、パトネトは次第にうつむきを深くしている。
 しかし、ニトロはパトネトに何も強制はしない。幸いこの子の『人見知り』は有名だ。この反応こそが当然であるために相手が可憐な王子の無愛想に不快を感じることはない。それどころか、おかしな話だが、この反応こそを嬉しく捕らえるはずだ。そして初めて社交の場に出てきたこの『秘蔵っ子様』をその目で見られたことこそを光栄に感じていることだろう。
 その判断は、間違っていなかった。ニトロは、周囲の様子から自分の判断が正しいことを確かに感じ取っていた。何しろどこを見ても朗らかな自然な笑顔があり、視界の隅では少々ミーハーな反応を示している婦人もいるのだから、パトネトの姿が不愉快を生んでいないのは明らかだった。
(上々、上々)
 ニトロも、パトネトの汗ばむ手を引きながら満足を得ていた。
 パトネトは常に躊躇いがちではあるが前に向けて足を出し続けている。
 彼が立ち止まらず、ここから逃げ出そうとしないだけで今は十分なのだ。絶食していた人間に急にたくさん食べさせてはいけないように、少しずつ慣らしていくのが肝心だ。これまで中庭を通ってそうしてきたように。
(……けれど)
 そろそろ、たくさん食べなくてはいけない時間がやってくる。
 この薔薇園にはまだ人が少なく、屋外ということで開放感もあるが……
 ニトロは一度立ち止まった。パトネトもぴたりと止まる。
「パティ」
 とうとうパトネトにとっての――かつ自分にとっても――『山場』が迫ってきた。
 二人の目の先にはロザ宮の開け放たれた門扉がある。近衛兵の服を着た門番が二人いて、宮の中からは楽団の奏でる優雅な調べが先より音を増して流れ出し、そこに大勢のざわめきが混じりこんでいる。
 ニトロは囁いた。
「平気だね?」
「――ん」
 パトネトは、口を真一文字に結び、少し震えながらも、しっかりとうなずいた。
「よし」
 ニトロは、パトネトが気後れしないよう努めて堂々と足を踏み出した。
 その姿は彼の抱く一種の使命感により勇ましい印象を見る者に与えた。
 そして誰よりも、ニトロより少し遅れ、彼に半ば隠れるようにぴったりと歩くパトネトこそがまさにその『兄』の背中に勇気付けられ、大きな安心感を得ていたのである。
 と同時に、パトネトは彼に対して――大好きなミリュウお姉ちゃんを救ってくれて、また大好きなお姉ちゃんに純粋な温かさを芽生えさせていき、それから“僕にもとても大切なもの”をくれる彼に対してとても大きな憧れを胸に溢れさせ、その憧れに引っ張られるようにして歩を進めていた。
 ――その二人が描き出す様子は、薔薇園にいる招待客にとってニトロ・ポルカトという『英雄』が英雄たる証明に他ならなかった。極度の『人見知り』の王子がこのような場所に出てきたのは、間違いなく彼のお陰だという印象が人々に強く強く刻み込まれる。
 無論、これはニトロにとって皮肉な結果ではある。
 だが、ニトロは、今日ばかりはそれも折り込み済みで腹を括ってきたのだ。そのために彼の顔つきはますます意志強く引き締まり、その雰囲気を敏感に感じ取るパトネトは大勢の喧騒を間近にしながらも決して立ち止まらない。ここでやっぱり嫌だと立ち止まってはニトロ君を失望させてしまうから、立ち止まらない。
 そうして、ニトロとパトネトは、共にロザ宮の中へと飛び込んでいった。

 ロザ宮の構造は、非常にシンプルである。
 玄関を入れば、すぐに大きな円形のダンスホールが目の前に広がる。エントランスはない。自慢の薔薇園がエントランスを兼ねている、という設計思想のためだ。
 四百人(二百組)が一斉に踊ることのできるホールの床には、茶を基調とした大理石が敷き詰められている。壁際には等間隔に並んだ大きな柱が全体で8本あり、蝋燭の火のような暖色の壁には細かな幾何学模様が描かれている。中央部に柱のない当時としては最先端の建築技術で作られていて、高さ15mに達する半球型の天井は周囲の視覚効果も手伝ってより高く見える。バランスよく配置されたクリスタル製のシャンデリアの輝きは、ホールを美しく照らすと同時に天井一面に金・銀・螺鈿を用いて描かれた天使や動物、草木の意匠を豪華絢爛に煌かせていて、その光ために、ホール全体はほのかに黄金色に染められているようであった。
 そのロザ宮に、今日は普段と違う特筆すべき点が、一つある。
 ホール中心の中空、ちょうど最も大きなシャンデリアの直下に、大きな時計が浮かび上げられているのである。それは水晶球の中に機械式時計を封じ込めたような、不可思議な印象を与える時計であった。面白いことに文字盤はどの角度から見ても真正面から見え、文字盤を薄く透いて見える精巧なトゥールビヨンが美しく一定のリズムを刻み続けている。
 その時計以外は、ニトロも良く知る美しいロザ宮ホールに変わりはない。
 玄関から見て正面の壁には周囲からへこんでいる箇所があり、そこには五段ほど盛り上げられた壇がある。まるでバルコニーのように柵に囲まれた壇の奥にあるのは、豪華な装飾で飾られた玄関とはまた別の扉だ。中庭から薔薇園への出入り口が『御伽噺の世界への演出』であったと同様、こちらも“世界観”を分かつものであり、そしてこれは主役のためだけに許される出入り口である。過去、覇王は、その扉から召し物を変えて現れる王妃を迎えることを、そして自分が用意させたドレスに身を包む美しい王妃がその特別な出入り口から現れ注目を浴びる様子を楽しんでいたという。
 その壇の右側に楽団がいて、今は優雅な曲を穏やかに流していた。
 壁には一定の間隔でアーチ状の出入り口が開いている。休憩室にいくための広い通路へ出るためのそこに扉はない。素通しの出入り口の先には大きな窓があり、そこからは夢のような薔薇の彩りが目に飛び込んでくるように計算されているのだ。
 また、壁際に寄せてはいくつものビュッフェ台と、皿やグラスを置き落ち着いて食べられるよう小さな丸い机が並べられていた。その辺縁が社交の中心域となっているため、鳥瞰して見れば壁側が最も人口密度が高く、中央に向けて次第にまばらとなっていく。その分布図の隙間を、人間・アンドロイド混成の給仕達が忙しくも優雅に動き回り、王家広報に属する撮影隊が記録を取っている。
 社交の場では、大貴族や政治家、資産家、芸術家、芸能人に、特別招待を受けた一般市民と、様々な階級の様々な人間が言葉を交わしていた。
 今まさに、ここで有力なコネクションを築こうという野心家もあり、一方でただ交流を楽しむだけの者もある。コネクションを築こうという者も手管は様々であり、話術でひきつけようという者もあれば、自らの子女を連れてきて将来の利益や伴侶を探させる者もある。庭園・薔薇園に出ていた者の中にも、庭を楽しむというよりも作戦会議のために席を外しただけの者もいただろう。宴を楽しむ者も楽しみ方は様々であり、料理に夢中になっている者があれば、そこかしこで交わされる会話に聞き耳を立てる者もあり、ただただ王女の誕生日会に招待された栄光に酔いしれている者もある。
 ――と、心模様も複雑に入り乱れる社交の場で歓談していた人間全ての視線が、その瞬間、ある一点に向けて集中した。
 視線の集中する先には、新たにロザ宮に入ってきた二人の少年がいる。
 次代の王と目されるニトロ・ポルカトと、第三王位継承者パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――国の次代を担う二人が、人々の視線の焦点で、じっと佇んでいた。

 門番の近衛兵の脇をすり抜け、開け放たれた玄関を通り抜けたニトロはそこで足を止めた――いや、止めさせられていた。
「――ッ」
 ロザ宮に入ったとほぼ同時、手をつないだパトネトが小さく息を飲み、全身を硬直させて立ち止まったためである。
 ニトロとパトネトのすぐ目の前にはちょうど外に出ようとしていた二人の紳士がいた。玄関から入ってきたニトロ達と鉢合わせた形だ。共に燕尾服に身を包んだ片方はロマンスグレーの髪と口髭、もう片方は風格ある隣の紳士を若くした形で、どうやら父子であるらしい。
「お」
 と、思わず驚きの声を上げたのは息子であった。初老の紳士は声には出さないまでも丸くなった目で驚きを表している。そしてその声に導かれ、何人かの婦人の短い驚きと歓びの声が上がり、その瞬間、三百人弱の全ての眼がニトロとパトネトに振り返り、彼らを凝視したのである。
 一拍の沈黙の後に、大きなざわめきがあった。
 それらは全てこれまでニトロが聞いてきたものと同種であった。
『来ることが分かっていながら、実際に目にして驚きを隠せない』心理の表れ。
 もちろん『ニトロ・ポルカト』が来ることが疑われる点は一つもなかったであろう。だが、『パトネト王子』はそうではない。土壇場においての欠席なども当然考慮されていたし、むしろそうなるであろうという向きも強かった。――そう、その“驚き”は、一種定説が覆された際に喚起される感情に極めて近かったのである。
 そして皆一様の感情を共有した集団は、そのため増幅された自心に縛られ動きを止めてしまっていた。やがて、徐々に目の前の現実が受け止められるに従い、集団の中に誰かが何かを言うのを待っているような気配が生じ、その気配が逆に自分が何かを言っていいのか戸惑わせる空気を作り上げる。そうしているうちに、もし自分が何かを言うことで、あるいはその御二人が何かお声を発されることを妨げてしまうのではないか? と、ニトロとパトネトの不興を買う可能性を恐れて怯む様子も散見され始める。
 純粋な歓喜から計算高い功名心まで、色も形も様々なものが絡み合う沈黙は異様な重さがあり、それはパトネトをさらに怯えさせる結果となった。
 王子は、唯一心を許すニトロの陰に半ば隠れた。
 王子の双眸は不安と恐怖と猜疑心に満ちている。
 それがまた、周囲に困惑じみた沈黙を強いた。
 有体に言って、ニトロのこれまでの道中では“移動中”という状況が――つまり突然の遭遇も一過性のものであり、逆にもたついていると挨拶も出来ないままに二人の背中を見る羽目となる、それこそが不敬であるという状況が周囲に『距離感』を見失わせなかった。
 しかし、今、ニトロとパトネトは目的地に辿り着いた。この遭遇は一過性のものではなく、どんなにもたつこうがその存在はここにあり続ける。あのクレイジー・プリンセスの『恋人』と、王家の『秘蔵っ子様』というある種の脅威を不意打ちの形で真正面から受け止める羽目になった客の皆が、怯える王子を正面にして完全に竦んでしまうのも無理のないことであろう。
 楽団の音までもが、止まっていた。
 ホールはシンと静まり返っていた。
 それは、そう長い時間に起こったことではない。しかし、この場にいる人間にはとてつもなく長い数秒であった。
 パトネトはニトロの右手をまるで縋りつくように両手で強く握り締め、また少しニトロの陰に入っていく。
 ニトロは、そろそろ完全に背中に回りこみそうなパトネトの“恐怖”を感じ取りながら、少しだけパトネトの手を強く握り返した。
 大丈夫だよ、と。
 その力強さにパトネトは一度ニトロを見上げた。
 するとそこにはニトロの微笑があった。
「……」
 パトネトは、ニトロの陰から少しだけ表に戻り、そして、ホールに居並ぶ列席の皆に向けて――少しぎこちなくも微笑みを浮かべて見せた。
 その時、まるで機を見計らったかのような最高のタイミングで、どこからか拍手が鳴った。
 それにつられて皆が王子を歓迎する拍手を打ち鳴らした。
 音響の良いホールに温かな拍手が鳴り響く中、ニトロは――初めの拍手の方向へ微かな笑みを一瞬だけ見せ――皆に向けて丁寧に辞儀をした。パトネトは目礼程度にしか返せないが、それでもそこにいる人間にとっては十分だった。何故なら、自分達は、間違いなくこの瞬間を他人に誇れるのだから。
 ニトロはさらに内へと足を踏み入れた。慌ててパトネトも追ってくる。
 眼前の、やはり皆と同様に拍手をする紳士二人へニトロは、
「こんばんは」
 と努めて穏やかに声をかけ、そして穏やかな微笑と返答を受けながら、こちらの右手を右手で掴み、左手で燕尾服の裾を握って付いてくるパトネトの歩調を乱さぬよう気をつけながら右方の壁際に向かった。
 ゆっくりと進んでくる二人の前にいる人間は道を開け、思い思いの挨拶の言葉を投げかけてくる。ニトロは会釈し、時に相応しい返答を送りながら、
(――さて)
 ニトロは、一つ安堵していた。
 最悪の場合、ここで人が殺到してくると思っていたのだが……幸いにもそのようなことはなく、それどころか未だ誰も接近しようとはしてこない。しかし、このパターンもニトロは芍薬と共に想定していた。『極度の人見知り』で知られる王子に対し適切な距離感を掴める者は、先の集団の行動停止が証明したように存在しない。招待客の中には王家に近い貴族などもいるが、それでも――いや、むしろそのような立場だからこそ我先にと駆け寄ってくる者はいない。極上の好機を前にして目をギラつかせている人間も散見されるが、これまた、そのような人間こそこの好機を失わないよう誰かが“犠牲”になることを望んでいる。ニトロ・ポルカトもパトネト王子も距離感が解らなければ応答可能な話題も見えにくい。だから能天気な人間がミーハー気分でお近づきになろうとしてはくれまいか? 失敗してくれると地雷原も見えて好ましい。それを見てからこちらは動くから、と。
 流石は、王女の誕生日会に招待されるだけの格――とでも言おうか。上流の人間の持つ“間合い”が、この場を混乱には導かないでいる。
 しかし、
(パティにはきついなあ)
 短い時間の中で、敏感に“利己的な皮算用”の臭いを嗅ぎつけたニトロは、改めてそう思った。思って、ふと、ミリュウにも――やはり本質的には似合わないと思う。すると次にティディアが浮かんできて……
(いや、あいつは嬉々として楽しむな。ていうか楽しみすぎるか)
 しかも意地悪く場を掻き混ぜて。意気揚々と野心や功名心をくすぐりながら失望もさせて。
 歩きながら、ニトロは努めてそんなことを考えていた。そういうことを考えていれば、この場に渦巻く空気には飲まれない。――それも、彼なりの間合いの取り方であった。
 と、
「良い夜ですな」
 ふいに、ニトロの横顔に張りのある声がかかった。
 その声にはただの挨拶ではない、この場に引き止める力があった。
 ニトロは足を止めた。パトネトがびくりと体を震わせ、ニトロにしがみつくようにして止まる。
 ……周囲の人間は、固唾を呑んでいた。
「大きくなられましたな、殿下。実にお健やかであられる。小生、真に嬉しゅうございますぞ」
 おずおずとパトネトがうなずく。
 幼い王子に頭を垂れ、満面の笑みを向けた後、その男はニトロへ向き直った。
「お初にお目にかかる。ニトロ・ポルカト殿」
 細いシャンパングラスを手にした大柄な男性が、頭を下げてなおニトロを見下ろしていた。身長は190を超え、肩幅は広く、王軍親衛隊の礼服の両肩を飾る肩章がいっそう体躯を大きく見せている。胸にはいくつもの勲章が連なっていた。生気溢れる顔には厳しい皺が刻まれ、短く刈り込まれたシルバーブロンドと、揉み上げから顎までを覆う見事な髭が彼に熊のような印象を抱かせる。ぎょろつく大きなグレーの瞳には、気の弱い者でなくともそれだけで威圧されるであろう力がこめられている。
 しかしニトロは怯むことなどなく、それら全てをにこりと柔らかに受け止めた。そして、その男性が続ける前に言う。
「初めまして、グラム・バードン公爵閣下。機会あれば、いつか御礼申し上げねばと思っていました」
 グラム・バードン――その名は、常に一代限りの公爵に与えられる特別な名である。その名と爵位は一組のものであり、その名を頂きその爵位を戴くにも特別な条件がある。例えば以前は“ニトロ・ポルカト”であった者は、ある瞬間から戸籍や経歴のみならず身分照明情報アイデンティティすらも抹消し、顔など変えられるところは変え……つまり“生前”の“自分を殺して”新たに『グラム・バードン』というロディアーナ朝設立以来同じ名を持つ存在とならねばならない。ある意味で、生きた幽霊である『グラム・バードン』は代々同じ任務につく。王軍――王位及び各王位継承権者を守るそれぞれの親衛隊と近衛兵を含む総称――五代女王の頃より設立された、国軍に属しながら実質私設軍であるその部隊の、総隊長である。
「常日頃からまことにお助けいただいています。閣下と、また閣下の誉れある貴軍皆様のご尽力に、この良き日に、この場をお借りして、心より感謝を申し上げます」
 本来、王の直属であるはずの総隊長は、現在、実質第一王位継承者の直属である。ニトロがいつもバカ姫から迷惑かけられる際にそのスタッフとして動いているのも、他方、特に最近勢いを増している“ファン”やマスメディアから警護してくれているのも彼の指揮下にある部下達だ。
 グラム・バードンは、ニトロの礼を受け、豪快に笑った。
「お言いなさるなポルカト殿。それが我らの務めです」
 笑うたびに揺れる体は、それだけで鋼のように鍛えこまれていることが解る。彼が当代グラム・バードンとなってから半世紀以上、少なく見積もっても七十を越えた年齢にあって、肉体的にも精神的にも衰えを欠片も見せない闊達さにニトロは思わず笑ってしまう。
「それにしても、小生、常日頃から貴殿の活躍には大いに感心しておりますぞ」
 どこか覗き込むような物言いで、彼は言う。
 ティディア直属の彼は、『ニトロ・ポルカト』に関するいくつか事件の『真実』を知る立場にある。一面ではニトロにそれを臭わせるような発言だ。
 しかしニトロは苦笑するように小首を傾げて、そのジェスチャー以外に何も応えない。秘するが花。沈黙は金。下手な返しは、ツッコミとしても禁忌だ。
 すると、グラム・バードンは面白そうに目を細めた。
「機会あらば、いつか剣のお相手をさせていただきたいものですな」
 当代グラム・バードン公爵といえば――つまり、彼はティディアの剣の師である。
 ニトロは微笑み、刃物を手にするジェスチャーをしながら、
剣術つるぎではなく料理ほうちょうでなら、いつでも喜んで」
 はっきりとした、かつ、この状況にあっての洒落た返しにグラム・バードンは再び豪快に笑った。笑いながらニトロを力のある瞳で見つめ、その背後で震えるパトネトを見、その小さな手がニトロの手をきゅっと握りこむ様子に王子の彼への信頼の強さを確認し、やおら顎鬚を撫でながら笑い声を止める。
 グラム・バードンは今一度ニトロを見つめた。
 ニトロは堂々と胸を張っている。それだけでなく、挨拶以降は相手から先を奪って会話の流れを制してきて、返し技も決めてきた。この少年の胆力は知っていたが……
「……」
 ニトロへ、グラム・バードンはシャンパングラスを軽く差し上げて見せた。
「ティディア王太子殿下に」
 続けて「では」と短く言って会釈し、悠々と肩を揺らしてグラム・バードンは去っていった。
 その大きな背を見送るニトロは、パトネトと繋いでいる手を濡らす汗が幼い王子のものなのか自分のものなのかもう分からなかった。
 しかし、山の一つを越えたことは確かである。
 今のやり取りに何らかの迫力を感じたのか、それとも感心を得たのか、とにかく動きを止めている周囲が再び話しかけてくる前に目的地へ――内心急ぎながら――歩を進める。
 そうしてニトロは、ようやく、パトネトをある場所にエスコートできた。
 そこは壁際、まさに立食用の料理の並ぶビュッフェ台の前。
 ニトロが目を向けるのは、泣きボクロのあるウェイトレス・アンドロイドであった。
「オレンジジュースを二つ」
「カシコマリマシタ」
 アンドロイドは恭しく頭を垂れ、そして去り際に微かにウィンクをパトネトに送る。姿も声も変えられているが、それが芍薬だと知っているパトネトにいくばくかの安堵が差し込まれた。
 それからニトロは周囲に目をやった。
 ここには居場所を掴みかねておどおどとしている、ティディアが無作為に招待した一般市民が肩身狭く集まっていた。皆、王女が手配した担当者に手伝ってもらって思い思いに着飾っている。されど普段からこのような機会に触れることなく、間違いなく初めて着たであろう豪華なドレスに身を包む女性達は完全に服に着られており、慣れぬ姿にぎこちない女性をエスコートすることにもやはり不慣れな男性達もお仕着せの燕尾服に肩を強張らせていた。
「こんばんは」
 ニトロが声をかけたのは、北副王都ノスカルラでのチャリティーイベントの折、そこで行われた抽選に当たったがためにここにやってきた老夫婦であった。こちらも双方関節も真っ直ぐに闊達な老人であるが、流石に先のグラム・バードンと比べては老齢の衰えを見せている。無論、グラム・バードンが人並みを外れているだけなのだが、しかし、それが故に、老夫婦は健やかな老いのみが持つ穏やかな表情を皺に刻んでいた、はずなのだが……
「この前はお世話になりました。楽しんでいらっしゃいますか?」
 その五十年連れ添った夫婦は、柱の根元に小さく隠れるように肩を寄せ合っていた。精一杯の“おめかし”をしていても、面持ちは緊張の極限。顔色は蒼白に近い。折角の柔和な表情もこれでは憐れみしか湛えておらず、それを彼ら自身理解していたのだろう。一度晩餐を共にした穏和な少年の挨拶を受けて、笑顔を無理にも作って挨拶を返す。
「これはこれは、ポルカト様。いえ、どうにもこのような場は初めてですから……水も喉を通らない次第でして」
 燕尾服に身を包んだ夫が、がちがちに身を固めている妻の手を握りながら言う。その口調が晩餐の時よりも改められ、完全に『目上』に対するものとなっているのがニトロには少し寂しかったが、まあ、ここでそうなるなと言う方が酷だろう。何しろ、夫婦の表情は明らかに物語っている。まさかここで初めにニトロから声をかけられるのが自分たちであるとは! と。
 だが、ニトロが初めて声をかけるとすれば、老夫妻はこれ以上ない最適な人選であったのである。
(いや……)
 老齢の男性の口調を寂しいと思ったことこそ、身勝手だった、とニトロは考えを改める。
(俺の方が、悪いことをしてるな)
 そう、ニトロは利用していたのだ。『最適な人選』――経緯はどうあれ自分が招待した形とも取れる唯一の客にまず挨拶することは、周囲の人間から見ても至極自然なことであるために。
「それは勿体無いですよ。ここにある料理はどれも極上ですから、どうぞ堪能してください」
「は、それは……そうですが」
「大丈夫です」
 ニトロは微笑んだ。
「何か困ったことがあれば僕に遠慮なく。とはいえ、僕もこういうところは初めてで……実は物凄く緊張しているんですけどね」
 小さく困ったように微笑の形を変え、肩の緊張をほぐすようにしながらの言葉に、老夫婦の肩からも力が抜けた。その頬にも自然な笑みが浮かんでいる。
 ニトロはこれなら大丈夫だろうと、右手を引いた。
「パティ。こちら、フルセルご夫妻だよ」
 ニトロの紹介を受け、パトネトは一瞬どのようにすればいいのか分からない様子を見せた。しかしニトロは微笑んで見守ってくれている。やおら彼はニトロと手をつなぎ直し、おずおずと言う。
「こんばんは」
 すると、フルセル夫妻は慌てて膝を突き、王子の挨拶を恐縮余りある態度で受け取った。
「ご尊顔を拝し、恐悦、至極に存知、ます」
 夫婦共に、再びガッチガチに体を固めての挨拶である。
「おモてをアげて」
 そこにガッチガチの抑揚でパトネトが慌てて言った。
「楽にシて」
 先ほども口にしたセリフを繰り返す。
 その光景は、一種微笑ましくもあった。
 ニトロに耳打ちされて、パトネトが躊躇いがちに右手を差し出す。その手を恐縮の限りで受け取り、フルセル夫人が立ち上がる。それを目を細めて見守るニトロの姿はまさに『兄』であり、彼の言う通り、何か困れば彼が助けてくれるという安心感が老夫婦の緊張を完全に和らげ――他方、相手が柔和な(ニトロの知る)老夫婦ということもあり、パトネトの緊張も少しだけ和らぐ。
 ニトロを介しながら老婦人とぽつぽつと言葉を交わすパトネトの声は可愛らしく、また微笑ましい。
 その微笑ましさは、人見知りの王子への遠慮の壁を少しだけ崩した。
 それを契機として、我先にと、ようやく人前に現れた王子――また『次代の王』と挨拶を交わそうと人がゆっくりと――それだけに迫力を伴い押し寄せ出す。
 背後の気配を察知し、それを肩越しに一瞥したニトロは一瞬慌てたが……そのタイミングで、芍薬が戻ってきてくれた。
 トレイに乗せた細いグラスには、鮮やかなオレンジ。
「オ待タセイタシマシタ」
「ありがとう」
 グラスを受け取りニトロが言う。
 パトネトもグラスを受け取り、
「ありがとう」
 これまでにない明るい声、これまでにない満面の笑みで言う。
 そのあまりに愛らしい態度に、周囲の婦人達が吐息を漏らした。
 そして、二人が飲み物を手にしたことは、二人が『一息入れている』風体をも皆に示したのである。
 ニトロは悠然と構えてフルセル氏と言葉を交わしている。となれば、ここに我先にと声をかけるのはマイナスであろう。
 その判断が正しいことを示すように、ニトロは絶妙のタイミングで別の一般市民の招待客に声をかけた。その際にパトネト王子が老夫婦にぺこりと頭を下げたのがまた婦人達の好評を誘い、うまく立ち回れば自分たちもそのような恩恵に預かれるという『結果』が場の流れを完全に掌握した。
 いつしか楽団が、改めてメロディを奏でていた。
 やがてニトロは、それまでティディアの無作為抽選によってこの場に駆り出された市民らと言葉を交わし終え、その緊張を多種の気配りでほぐし終えた。
 と、その頃合を見計らってニトロに(あるいはニトロ・ポルカトを媒介としてパトネト王子に)ある下級貴族の婦人が連れの……妹だろう婦人を伴い挨拶をする。
 多くの有力者がその様子を見守っていた。
 駄目押しのテストケースである
 ニトロは常に穏やかで友好的であり、誰を相手にも気後れすることなく公平に対応する。王子は再び『兄』の後ろに隠れてうつむいているが、それでも彼に促されると言葉はなくともうなずきや素振りといった仕草で返事をする。美少女よりも美少女らしい――そう称されるパトネトのその様子は、不思議と他人に情けなさや鬱陶しさを感じさせない。むしろ人々の胸に庇護欲を喚起させ、彼独特の愛嬌として皆の目に映っていた。
 婦人は、妹と共に『英雄』の活躍を少々大袈裟にも褒めた。言葉を交わすうちに姉妹は興奮を増していて、幾人かはニトロがその勢いに閉口するのではと不安に思ったが、しかし、彼は不愉快などおくびにも出さず、それどころかはにかみながら謙虚な応答を返した。それはまさにいつもながらの『ニトロ・ポルカト』であり、その光景はまた、先の『結果』を絶対的なものとしたのである。
 ――この“距離感”を間違えなければ、失敗はない。
 そして、この構図が完成した瞬間、もう一つの結果が確定することとなった。
 そう、ニトロ・ポルカトと、何よりパトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナのデビューが、無事に行われたのである。

 ホールの様子を王家広報撮影隊のカメラを通して見ていた王女達は、安堵と共に微笑を浮かべていた。
「第一歩、ね」
「はい。とても大きな一歩です」
 満足げにつぶやいたティディアへ、ミリュウが同意を送る。
 ティディアの眼前には、二つ表示された宙映画面エア・モニターがあった。
 左側には柱を背にして客の相手をしているニトロと弟の姿がある。『社交界の情報源』の異名を取る夫人の暗に娘を引き立ててもらおうという話術に対し、ニトロは素直で裏のない謙虚な言葉を返していた。ニトロの受け答えは一聴して馬鹿正直なほど素直で謙虚であるが、しかし、合格である。元々平和主義者で人を気遣う性分――その上でツッコミという『返しの技術』を得手にしている彼は、夫人を立てつつその攻勢を嫌味なく“回避”することに成功していた。
 一方、どうしても思惑通りにはいかない夫人ではあるが、そのわりに彼女は満足を顔に表している。ニトロが自分のことを“知っている”という情報を会話の中から拾い上げたためだ。となれば、初舞台において堂々とした『英雄』に対し百戦錬磨の夫人も引き際を心得たもの。自分のことが知られている以上下手な押し付けは逆効果と判断し、さらに今回は“お近づき”が叶っただけで十分と計算したらしい。娘と共に『次代の王』とその『未来の義弟』へ満面の笑みで頭を垂れ、次のターゲットに向けて肩で風を切るように去っていく。その後を慌てて追いかけていく彼女の末娘は……母によく似て器量だけはいいが、面前で繰り広げられた母と少年との会話をどれだけ理解しているだろうか。ここら辺は、あの夫人のうだつの上がらぬ夫によく似ている。
「それにしても……」
 と、右側の宙映画面エア・モニターに映る作業着姿のミリュウが、嬉しげに微笑みながら――その裏でひどく複雑な表情を刻みながら――言った。
「ニトロさんは、本当に、お人好しなのですね」
 ティディアも、本当に、そう思う。
 次にニトロに挨拶に訪れたのは『クロムン&シーザーズ金属加工研究所』のモーゼイ代表取締役であった。妻を伴った挨拶を受けて、ニトロは今回のクロノウォレスこくとの件について簡単な祝辞を述べている。周囲に幾人かいる事情通達が感心の吐息をつき、ミリュウも感嘆していた。妹は感嘆のままに、
「一体どれほど勉強されたのでしょう」
 その研究所のモーゼイ代表取締役は、その分野に特に興味のある人間か、普段からよほど注意深く情報を得ている人間でなければ顔と名を知れないほどに認知度が低い。一般的には(あるいは報道関係者ですら)特別顧問を務める前駐クロノウォレス大使が社長であると間違えられているほどだ。しかしニトロは、会釈の後、自己紹介を受ける前に祝辞を返していた。無論モーゼイ代表を“間違えない”だけならそこまで感嘆を得ることはないだろうが、彼が話題に出した内容は常に専門誌を精読していなければ触れられないレベルのものであった。礼儀としても素晴らしく、知識としても素晴らしい。
「ここまで立派にこなさなくてもいいのにねー」
 ここまでのニトロの振る舞いは、贔屓目を抜いても実に立派だった。
 社交界に慣れた人間に全く劣らない。
 それどころか貴族の子女でもここまでの貫禄をデビューから見せられる者はそうはいない。
 グラム・バードンを相手にしての気後れのないやり取り。フルセル夫妻他一般市民達の緊張をほぐす気配り。以降の全て……見ているこちらが嬉しくなってくるほどの、誇らしい姿。
 だが、本当に、ここまで立派でなくても別に良かったのだ。
 なにしろ、いくら『王女の恋人』としても彼は社交界にコネクションのない一般市民であることが知れ渡っており、その上で初めてこのような場に出てくることも周知されている。彼が社交界の流儀を知らなくとも、またそこに初めから溶け込めないでいても誰も責めはしない。それは至極当然なこととして許される。それどころか初々しいと好感をも得るだろう。
 ニトロが――それにあの芍薬が、そこに思い至らぬわけがない。そしてそこに思い至れば、こんなにも自ら進んで『王の器』を見せつけるようなことをしようと思うはずがない。さらに『ティディア』のみならず、『パトネト』にとっても自分が重要人物となっていることをことさら示すようなことなど絶対にしまい。
 それなのに、そうだ、これではまるでむしろ彼自身が自ら望んで『次代の王』に相応しいと証明しているようではないか!
 しかし、それこそありえないことだ。
 彼が、彼自身のために、そのようなことをするはずがない。
 それなのに……彼がその姿を公に見せつけているのは、自分に“不利”があると解っていながらそうするのは、ひとえにパトネトのためだ。
 ティディアはこの件でニトロと相談したことはない。それでも、相談をしなくとも彼女には判ることであった。
 彼はパトネトの将来を考えてくれているのだ。ともすれば、方向性は違えど以前のミリュウのように未来を自ら壊しかねない可能性を孕んでいる弟のことを“他人”でありながら親身になって考えてくれているのだ。彼は、そういうとても優しい人間であるのだから。いつまでもこれほど甘えさせてくれるとは思えないが、少なくとも弟の内側に確固とした足場が作られるまでは面倒を見てくれるだろう。
 ティディアはそう考えていたが、早くも今日、弟には確固とした足場が一段大きく積み上げられた。この経験は今後も弟にとって非常に重要なものとして育まれていくはずだ。弟には、弟の類稀なる才能の故に懸念も大きかったが、今では懸念の雲は晴れていき、ただ明るい未来ばかりを思い浮かべさせてくれる。
「……」
 しかしティディアは、そんな明るい未来と現在のニトロの姿を見比べようとすると、時々奇妙な不安を感じることがあった。
 優しく堂々と、もはや『ティディアの恋人』という光明などなくとも自ら輝く彼の姿を見ていると、彼が輝いているからこそであろうか、今の彼は何だか急に消えていなくなりそうな……そんな不安がすっと心に吹き込んでくるのである。
 彼が成長したニトロ・ポルカトの姿を見せてくれることはこの上なく嬉しく、同時に堪らないほど愛しいことだというのに、おかしなものだとは思う。
 これも『恋の病』の症状の一つなのだろうか。
 ……きっとそうなのだろう。
 恋心に常に付きまとう喪失への恐怖が生む臆病風なのだろう。
 ティディアはじっと、モニターを見つめていた。
 パトネトは相変わらずニトロの陰に隠れているものの――相変わらず不安と猜疑に満ちた眼をしているものの――それでもあの子なりに懸命に頑張っている。そして、あの子がそうしていられるのも、あの子が繋ぐ彼の手と、彼の背の力強さにあることがカメラ越しにも良く解る。
 ――と、ニトロがパトネトに振り向いた。
 パトネトに耳を寄せ、何か合点したようにうなずき、クロムン&シーザーズ金属加工研究所代表取締役との会話を弾ませる。
 どうやら未知の言葉について、ニトロはパトネトに助けを求めたようだ。そうしてニトロの力になれたことで、弟は、ああ、とても嬉しそうにあんなに多くの人前ではにかんでいる。
「ニトロさんには、感謝し切れません」
 ぽつりとミリュウが言った。
 ミリュウも、もちろん、パトネトにこれだけやってくれるニトロの『目的』をちゃんと理解している。先に“お人好し”と言った時には、彼に救われた彼女が彼女自身に則して思うところを含んでもいた。
「そうね……」
 妹のその様子にティディアも言葉にならない思いを胸に抱きながらうなずき、ふと、画面の中の妹が涙ぐんでいることに気がついた。
 可愛い弟の成長への感激が、その双眸に表れているのだ。
(……)
 あの『劣り姫の変』以来、妹は感情を素直に表すようになった。元々素直な妹ではあったが、今の彼女を見れば、それがどれだけ不透明な仮面越しのものであったのかと思い知る。……ティディアは、それを理解していたのに、思い知る
 ニトロに嫌われるのも本当に当たり前のことだ。
 ティディアはほのかに『罰』が続いていることを知り、そして内心で苦々しく笑う。
 ――道徳は、つまるところは他者(あるいは神)への見栄が生む――と言った詩人がいたものだが、まさか自分がその感覚を味わうことになろうとは。これも彼に会うまでは全く思いもしなかったことだった。
(……でも)
 とはいえ、その『他者』はニトロだけ……そんなことを言ったら彼には怒られるだろうか。それとももっと嫌われる? うん、きっと嫌われる。ハラキリにも困り顔をされてしまうだろう。『それでホントに大丈夫ですかね』などと不安を抱いて『自覚しているだけましですかねぇ』とでも苦笑して。
 だけど、ニトロだけ……それが道徳としてどうなのかは関係ない、この『ニトロだけ』という思いは本物なのだ。そう思うだけで私の心は艶めく。ニトロだけ――そう、彼にだけ私を受け入れてもらいたい。この心臓の音を直接聞いてもらいたい。
 そして……ティディアは、数々の目的のためとはいえ、この誕生日会を非公開にしたのを少しだけ悔やんでいた。誰を前にしても怯まず堂々と振舞う彼を見よ! それを世界にリアルタイムで公開し、親馬鹿も逃げ出すほどの勢いで誇ってやりたくてたまらない。これが私の愛する人なのだと高らかに告げ、そうして彼と、そう、内心では実は羨ましくてならないパティのように彼と手を繋いで、それから……
「お姉様?」
 ミリュウが小首を傾げていた。
「何をそんなにだらしないお顔をされているのですか?」
 小首を傾げながら、妹の目尻は下がり、口元にはにやつきがある。
 解っていながらの問いかけに、ティディアはハッと口を結んだ。口を結んだことで、どれだけ唇が緩んでいたのかを自覚し、彼女は気まずく少しだけうつむく。
 ミリュウは、くすくすと笑っていた。
「私の見間違いでした。とても凛々しいです、お姉様」
「……」
 あの『劣り姫の変』以来、妹はある点で完全にイニシアチヴを掴んできたようにも思う。
 ティディアは降参の吐息をつき、それから気を取り直し、
「それで、レド・ハイアンは何て言ってきたの?」
 質問を受けた妹姫は和やかな笑みを消し、しかし、口元に再び微笑を刻んだ。
「秘密です」
 意外な応えに、ティディアはミリュウを見つめた。
「私がどう応えたのかも、秘密です」
 ミリュウは悪戯っぽく目を細めた。
「アイラ・レド・ハイアンと私の“密談”の内容も、どのような結果を得たかも。全ては『見てのお楽しみ』です」
 その言葉に、ティディアはひどく愉快気に目を細めた。
「見てのお楽しみ?」
「はい。どうぞお楽しみになさっていてください」
 農作業着姿のミリュウはしゃんと背を伸ばし、これまでになく頼もしい。レド・ハイアンの要請を受けた妹が、それを断ったにしろ、受け入れたにしろ、これならどちらであってもその決断を尊重できるし、尊重してやりたいと思う。
「とても良い誕生日プレゼントね。ありがとう、ミリュウ」
 その返礼にミリュウは感激を露にした。多少イニシアチヴを得たとしても、妹が『伝説のティディア・マニア』であること――そうあってくれることには変わりないのだ。
 そして、ミリュウは少しはにかみながら言う。
「ホーリーパーティートゥーユー、お姉様」
 ティディアは微笑み、
「ホーリーパーティートゥーユー、ミリュウ」
 ミリュウはカメラから一歩下がり、農作業着のズボンを少しつまんで貴婦人の礼をする。
 それが妙に面白く、ティディアはくっくっと笑い、ミリュウはくすくすと笑った。
「お姉様」
 穏やかに笑いあった後、そろそろホールへ出ようという姉に向け、ミリュウは急に表情を変えると言った。
決してお負けになりませんように
 ミリュウの眼差しには恐ろしいほどの力が込められていた。こう言っては何だが、先ほどの領主レド・ハイアンとの密談などこれに比べればまるで軽いとでも言うようなほどの力が。以前の彼女では姉に向けられるはずもなかった、強烈な釘を刺す迫力が。
「……」
 ティディアはミリュウの視線をしっかりと受け止めた後、胸中では妹の思いを嬉しく思いながら、一方外面では不敵に笑いながらうそぶいた。
「あら、ミリュウ。あなたは一体、誰に向かって言っているの?」

 ――『あら、ミリュウ。あなたは一体、誰に向かって言っているの?』
「……」
 通信を切った後、ミリュウは、姉の言葉を反芻しながら……口を一文字に結んでいた。
「……」
 ミリュウは、姉を信頼している。
 姉との間に色々とあったとはいえ、やはり姉は尊敬すべき人間であり、王女であり、銀河一美しく有能な女性である。
「……」
 しかし――と、ミリュウは思う。
 姉のことは信頼している。
 しかし、信頼した上で『保険』をかけることはまた別の話である。これは姉から学んだことでもある。
 これから姉が『サプライズ』として行おうとしていることは、なるほど流石にクレイジー・プリンセスらしいことだ。それでいて姉の目的には大いにうなずかされる。が、それにしても目的の大きさに比するように非常に大きなリスクが伴い、また、目的遂行のためには多くの不確定要素と確定的な障害が存在していた。最終的に理想とするシチュエーションに至るにはその不確定要素と障害を乗り越えるか取り除かねばならないが、驚いたことに姉はそんな今回に限って策を弄していない、自然に任せると言う。驚きのあまりに何故と詰め寄るように訊いてみれば、返ってきた答えにはまたうなずかされるばかりで私も困ってしまった。そして理想的なシチュエーションに至った後も、いや、理想的なシチュエーションが成立すればこそ、そこには何より私にとっても最悪のリスクが存在し――だけど、その点については、私は覚悟を以て結末を待つしかない。
 結局は、姉の行おうとしている『サプライズ』と、そこに込められた最大の目的は、ある意味で全面的にニトロ・ポルカトに懸かっていた。姉は「きっとそうなる」と彼を心の底から信頼していて、同時に、彼を心の底から警戒している。
「……」
 そしてミリュウは、姉とそのことについて話している時、姉の言動の裏にある不可思議な感情をも感じ取っていた。
 姉のはぐらかしの中には目的達成への強靭な意志が透けて見え、それだけならまだしもそこに並んで奇妙な不安感が感じられたのである。同時にその不安を打ち消そうとしているかのような緊張感があり、さらにその緊張感を覆って余りある、もっと張り詰めた緊迫感までもが姉にはあった。そうして何重にも重なる意識が姉の瞳の中でない交ぜとなっていて――どこか、不安定にも感じられた。
「……うん」
 ミリュウは決心した。
 やはり姉の心の負担をできるだけ軽減しよう。私のそういう親切心ならばきっと彼にも“作為”とは感づかれないはずだから。
「セイラ」
 部屋の隅、カメラの画角から外れた位置にいた執事に言う。
「やらないといけないことができたの」
 ミリュウはこれから放牧の手伝いをする予定であった。
 セイラは主人の意図を察し、言った。
「私一人でも問題ありません。ミリュウ様」
 その答えを聞き、ミリュウはうなずいた。そしてうなずきながら、弟のオリジナルA.I.に連絡を取る。
「――あ、フレア? ちょっとパティと相談があるんだけど、都合がついたら取り次いでくれる? うん、最優先でね」

 ――その時、ロザ宮ホールの空気が変わった。
 まず変化したのは給仕であった。彼ら彼女らは、積極的に客らの持つ皿やグラスを引き上げにかかった。食べかけも飲みかけも関係ない。もしその後に何もなければ余計な世話に他ならないが、ホール中央の空に浮かぶ時計を見れば、長針がもうすぐ10を示すところである。
 それまで『次代の王』と『秘蔵っ子様』に夢中になっていた皆が、それまでとは違う落ち着きのなさを示し出した。既に両手の開いている者が先に、ちょうど飲食を楽しんでいた者も給仕に渡すなり立食用の丸テーブルに皿を置くなりしていそいそとホール奥の壇の前へ集まっていく。
 壇上の扉はまだ硬く閉まっているが、その時、壇の前には一人のテレビカメラを肩に抱えた王家広報の人間がいた。随分大胆な位置取りである。そのために戸惑いを得た客らは壇から一定の距離を保って止まり、カメラマンを中心点に弧を描くようにして人垣を作った。
 中庭や薔薇園にいた者も含めて全ての客が壇の前に集まった頃合を見計り、楽団が手を止め、曲が止む。
 集まった客は皆、未だ壇の真ん前で撮影を続けるカメラマンを怪訝な目つきで見つめていた。やがて、そのカメラマンの下に助手と思しき者が駆け寄ってくる。カメラマンは肩に担いでいた大きなカメラを助手に渡した。
 燕尾服を着たカメラマンは、浅黒い肌をして、オールバックにした長い焦げ茶の髪をうなじで一つにまとめていた。よく見ると面立ちはある人物に似ているようだ。しかし瞳は黒くて……いや? また助手と思しき者が“彼”の元にやってきて手鏡を渡した。手鏡を受け取った“彼”は芝居がかった仕草で胸ポケットからコンタクトレンズ着脱器を取り出し、やはり芝居がかった仕草で手鏡を見ながらカラーコンタクトレンズを外していく。
 黒い瞳の下から、鮮やかなマリンブルーが現れた。
 招待客が驚きの息を漏らす。
 驚きの吐息の中、着脱器を助手に投げて渡した“彼”は、パチン! と大きく指を鳴らした。
 すると着脱器を投げたばかりの手に小瓶が現れる。
 そして巧みな手品によって小瓶が現れたと同時、“彼”の肌と髪の色がその小瓶に向けて移動し始めた。小瓶から遠い位置から順に色が薄くなり、グラデーションを描いて色が小瓶へと移っていく。
 やがて自在肌色デコレーション・スキンを用いた変装が解かれた時、そこには王女の執事が――男装した藍銀色の麗人が立っていた。
 正体を明かした彼女は男装に相応しく、右足を軽く引き、左手の甲を腰骨に当て、右手をすっと胸に当ててアデムメデスの紳士の礼を優雅に行う。
 男装の麗人の美しさに、その所作に、自然と拍手が沸き起こった。
 まずは面白好きなお姫様からの小さなサプライズ。
 皆々笑顔であり、それは成功と言えよう。
 ヴィタは微笑みを浮かべながら面を上げ、さっと踵を返すと壇上へ続く五段を一息に上がり、扉の前に控えた。
 と、それを追うようにして、客らが小さくざわめいた。
 ニトロ・ポルカトが、パトネト王子の手を引いて壇の下に歩み寄ったのだ。
 ニトロは短い階段の下でパトネトの手を離し、王子に膝を突いて最敬礼をする。
 顔を上げたニトロは、パティの頬に少しの不機嫌が現れているのを見て苦笑したかった。何と言ってもこの行為は、つい先ほど、主役の登場を前に周囲から人がはけ、ヴィタが壇前に現れた際にパトネト自身から聞いた通りに行ったことであるのに……それでも、いざ実行されるとどうしても気に入らないらしい。しかし、流石にパトネトもこれが『シナリオ』に沿ったものであるからには、それ以上の気難しさは表さない。
 ニトロは、そのまま段下でパトネトと別れた。
 今の辞儀は『臣下の礼』だった。
 周囲も、ここで一度二人の立場が明確に分かれたことをその儀式によって理解する。
 ニトロはパトネトがヴィタと少し距離を開けて扉の傍らに立つのを見――それから、衆目の中で小さく震えているパトネトがこちらを一瞥した時、微笑んでみせた。パトネトはきゅっと拳を握って胸を張った。
 それを見届けたニトロは踵を返し、その場を離れて壁際に向かった。ニトロがすれ違う客らは彼の……『恋人』の行動に不可解さを表していたが、何しろあのクレイジー・プリンセスのことである。これも何かの下準備かもしれないと、それ以上の詮索はしない。
 無事に壁際に戻ったニトロは、そこで静かに大きな息をついた。周りには誰もいない。今は給仕も全員いなくなっている。今は客がいなくて寂しそうなビュッフェ台の傍らで、一人きり。ニトロは安堵していた。
 と、そこに、どこからか現れた紳士が急にニトロへ近寄ってきた。
 ニトロは一瞬ぎょっとしたが、それが誰であるかを悟り、頬に大きな笑みを刻んだ。
 燕尾服、蝶ネクタイの上に飄々とした顔を乗せた少年――とは思えぬ風格。
 ハラキリ・ジジが、そこにいた。
 主役の登場まで五分あまり。
 声を潜めたざわめき満ちるホールの壁際に二人、ニトロは自然体で佇み、ハラキリは腕を組んで壁に寄りかかる。こちらをちらりと見た誰かがハラキリの態度に眉をひそめるが、ニトロのこれまでにない穏やかさに、ひそめた眉をそのまま訝しみの色に染めていく。
 突如としてホールの照明が一斉に消えた。
 闇が、皆を一気に高揚させた。
 するとすぐに客の一角から声が上がった。また別の一角からも声が上がった。何事かと声を聞きつけた者達がそれぞれの方向に目をやると、そこには羽を持ち光り輝く30cm程の小さな人――まさに妖精フェアリーが宙を飛んでいたのである。
 楽団が軽快な曲を弾き出した。
 メロディにあわせて妖精が空中に舞い踊る。初めは二人だった妖精も、いつの間に控えていたのか、ホールの天井から舞い降りてきた仲間達と合流して瞬く間に群れを成す。そうして何十人もの妖精達は、一見統率の取れた、されど一見皆々奔放なダンスを披露して観客の喝采を呼んだ。
 そのメロディも、妖精達のダンスも、ニトロも良く知る有名なものであった。彼は思わず感心してしまう。これは『薔薇姫の夢』と呼ばれる歌劇――“薔薇の国”に迷い込んだ小さな姫君が一番初めに目撃することになる、劇中でも指折りの見所として知られる妖精達のダンスだ。幻想的にアレンジされたそれが『薔薇の宮殿』で演じられているとなれば、その演出の効果は素晴らしい。
(これもサプライズか?)
 ホールは妖精達の輝きによりぼんやりと照らし上げられ、華麗に動き回る光源によってホールの至る所にある金や銀や螺鈿がキラキラと明滅して見える様は実に幻想的で、そう、ファンタジーを生んでいる。歓声や拍手が上がる中、思考の隅でそんなことを思いつつ、ニトロは親友に声をかけた。
「おそろしく似合うね」
 ハラキリは苦笑した。てっきり演出への感想が来ると思っていたら、よもやそういうセリフとは。彼は組んでいた腕を解き、蝶ネクタイを少し緩め、ニトロへ目を向ける。
「自分自身では似合わないと思っているんですがね」
「いやいや、貴族を騙る詐欺師って感じでしっくりきてるよ」
 ハラキリは、ニトロのその評価に眉を跳ね、さらに苦笑した。なるほど、その視点であれば実に――と、自身で納得してしまう。
 つまり、
「実に胡散臭いと?」
 ニトロはにやりと笑った。
「そういうこと」
 ニトロの演出された笑みにハラキリは肩を揺らす。そして一つ息をつき、妖精達が時に腕を伸ばし、時に腕を組み合い、複雑に“立ち位置”を変えながら輝くその体を用いて空中に次々と幾何学模様を描き出す様を眺めながら、言う。
「いつでも助けに入れるよう様子を伺っていたのですが……そんな必要はありませんでしたね。お見事でした」
 ハラキリの褒め言葉にニトロはくすぐったい思いをしながら、
「かなり一杯一杯だったよ。できればすぐに来て欲しかったくらいさ――てか、どこにいたんだよ」
「そこらにいましたよ。気づきませんで?」
「見つけたのはあの“拍手”をしてくれた時だけだよ」
 それはパトネトと共にニトロがロザ宮に入ってきた時、硬直した場をほぐした手の音のことであった。あれはハラキリによるものだったのだ。ニトロの眼差しにハラキリは肩をすくめる。ニトロは文句を言うように声音に非難の色を混ぜ、
「けど、その後はどこにも見当たらなかった。どうせ死角にでも紛れてたんだろう?」
「その通りですが、しかし、だからといって見つけられないというのであれば、まだまだ修行が足りないということですね」
「そりゃあ俺はまだまだ未熟だよ。芍薬がいなきゃ客のプロフィールを覚えられなかったし、ハラキリがいないんなら頼みの綱を無くしてあんなに堂々と虚勢は張れない」
「虚勢ねぇ。そうでもないと思いますが」
「いやいや、そうなのさ」
「それにしても堂に入っていましたよ? まるでパトネト王子の『お義兄様』でした」
「そりゃあパティに格好悪いところは見せられないからね」
 その物言いに、ハラキリはふむと鼻を鳴らした。てっきり否定が返ってくると思って、その先のからかいの言葉も考えていたのだが……
「まるでというより、まさに、と言う方が適切でしたか?」
「俺は義兄じゃないぞ?」
「何だか言動不一致ですねぇ」
「そうでもないさ」
「そうですよ。それに、妙な開き直りも感じる」
 その物言いに、ニトロは少し笑った。その笑いのどこか隅の方に、ハラキリは何か言いようのないものを感じた。ハラキリが凝視するように見つめていると、ニトロは吐息を一つ挟み、パトネトを見つめながら穏やかに言った。
「開き直りじゃあないさ。
 ただね、今の俺は、俺が何をしたところでどうやら『俺』を追い詰めるだけらしい……
 ただ、それだけだよ」
 ハラキリは、ふむと再び鼻を鳴らした。
「……」
 そして壇上を見れば、暗がりの中に二つの人影。女執事と、幼い王子。
 今は妖精が人目を引いているため、暗がりの中で王子はどこかのびのびとしているように伺える。
 ハラキリには、未だそこに『パトネト王子』がいることが信じられない思いがあった。彼がこの会に出ることは既知のことではあったが、それでも土壇場で足を竦ませ出てこない――そんな結果になる可能性が大と踏んでいた。しかし、王子はニトロと手を繋いで現れた。現れて、ずっと、ニトロの陰に半ば隠れながらもこの場にい続け……あまつさえ、ニトロから離れてなお扉の脇に『役目』のために佇んでいる。
 その姿を王子の成長の結果と見るのは当然のことではある。その姿を皆は目に焼き付けているだろう。だが、それ以上に、あの極度の人見知りで知られる『秘蔵っ子様』をここまで連れ出した存在――『ニトロ・ポルカト』の影響力は計り知れないものとしてこの場にいる全員の胸に刻まれただろう。
 それが本来ニトロにとって望ましからざることだとは、無論ハラキリも承知している。
 しかし、ハラキリは、ニトロがこの会に出るに至った経緯を知っていた。
 親友は、その経緯を語ってくれた時にもパトネトに対して似たようなことを言っていた。いずれ『外』に出て行かねばならないであろう王子への、兄貴分の思い遣り。その時、ハラキリは彼の“お人好し”ばかりに気を取られていたものだが――
「……『君』が、君を追い詰める、ですか」
 ぽつりと、ハラキリは言った。
 ニトロは、パトネトを――本当に兄のように――見つめていた。
「……」
 言動不一致、開き直り、親友から得た印象を整理し、彼の言葉を咀嚼し、ハラキリはため息をまじえて言う。
「随分とまた厳しい自覚ですね」
「間違ってる?」
「いいえ、実に正しい」
 ハラキリは正直に答えた。
 ニトロが、いつ、どのような経緯でそのように考えるようになったのか。もしかしたら『劣り姫の変』の最中だろうか、その後だろうか……ともかく、『次代の王』、『英雄』と様々に呼ばれている彼の言動が、あるいは彼の存在そのものが、彼自身から彼自身の望む未来を遠ざけているのは間違いがない。
 そこに存在する、痛烈な皮肉。
 例えに挙げるなら、パトネトに対する彼の態度がそうだ。今日、彼が示したような優しい誠実な対応を、つまり彼が己の心根に則した行動を幼い王子のために取ればそれはすなわち彼の徳を上げることになる。しかし、逆に保身のために、パトネトを憎からず思いながらもそっけない態度を取り、そうすることで自分は冷たい人間なのだ、王には相応しくない徳のない人間なのだとアピールしようとしても……きっと彼の目的は達成されない。おそらく大衆は彼の意図に反して『王子のためにあえて厳しくしている』と自動的に解釈する。そう、それは自動的である。あの王女が印象を操作するまでもない。何故なら、既に『ニトロ・ポルカト』は大衆にとって他人のためになるよう己を殺してでも行動することができる稀にも善良なる人間なのだから
 言動不一致? 開き直り?
 いいや、違う。
 もちろんいくらかの開き直りはあろうが、きっとそれだけではない。
 ハラキリは、そこに何らかの固い意志による裏打ち――そのようなものを感じた。
 だとしたら、
「それなら、何をしたところで結果は同じであるなら、自分の心に従った方が夢見も良い……ですかね。迷惑なお姫さんへの態度も可愛いパティへの態度も等しく君を追い詰めるのなら」
 ハラキリは、いくらなんでもニトロは王子に対して(自制の利く彼にしては)少々入れ込み過ぎだと――事情を知った上でも――不思議に感じていたが、それが『似た境遇にいる相手』への共感にも根ざしているとなれば無理もないかと思いを改める。また、それだけでなく、どうやら彼はまだ明らかにするつもりではないらしいが……何かを胸に秘しているらしい。それを話してくれないのは寂しい気もするが、まあ、そのような文句を自分が言えた義理ではない。それに話さないなら話さないだけの理由があるはずだ――と、訊きたいと思う心を静かに抑えた。
 一方、親友の嘆息じみたセリフに、ニトロは彼がこちらの心情を正確に把握してくれたことを知って喜びを示す微笑を浮かべていた。内心ではまだ『師匠』にも言っていない計画を思いながら、それについては内心のもっと奥底で一抹の不安と寂しさを予感しながら、彼は言う。ちょうどおどけたダンスを踊っている妖精に合わせて、少しおどけるように。
そういうわけで頼りにしてるよ。これからもっと助けてもらわなくちゃならないからさ」
 ハラキリは軽く肩をすくめる。
「それは面倒臭そうですねぇ」
「面倒臭がらないで、頼むよ師匠」
「助けてばかりでは君のためにもなりませんでしょうし」
「そう言わずに愛弟子を少しは甘やかしてはくれないか」
「拙者は自分に甘くて他人に厳しいんですよ。君とは逆にね」
「おっと、妙な言い回しのくせにそれはえらく痛いお言葉だ」
「駄目兄にならないようにお気をつけなさい」
「肝に銘じます、師匠」
「その点についても師匠になった覚えはありませんが?」
「ああ、それもそうか。これは殴る蹴るとは全く別路線だったね」
 そう言って、ニトロは小さく笑った。ハラキリも小さく笑った。
 妖精のダンスは終わりに差し掛かっていた。御伽噺のような庭園の中にあるロザ宮に、薔薇の国の妖精が優雅に魅せる舞。先ほどまで滑稽の調子であった曲は様相を変えていた。楽団は舞に合わせて優雅に甘く、ロマンチックな情景を思い起こさせるメロディを奏でている。ホールには、どこかうっとりとした空気が流れている。
 しばし二人は黙したまま、嘆声を上げる招待客と共に幻想的な世界を眺めた。
 ややあって、ハラキリはニトロを一瞥してつぶやくように言った。
「しかし、そのうち『頼りにしてる』なんてセリフは拙者が君に言うだけになるかもしれませんね」
 ニトロは、ハラキリのその言葉の意味するところは嬉しかったが、笑って言った。
「いやいや、友達なんだから頼り頼られやっていこうよ」
 その言葉にはハラキリがこのホールでずっと“傍耳”にしていたような計算高さはなく、ただ純粋な信頼だけが込められていた。ハラキリは、何だか思わず声を上げて笑ってしまいそうになるのを懸命に堪えた。
(本当に、いつかはこちらが頼るばかりになるかもしれませんねぇ)
 そんなことを胸に肩を揺らし、ハラキリは一言「ええ」と肯定を返した。
 ニトロは至極満足そうにうなずく。
 宙に舞う妖精達は、列を成して観客に向けて一礼していた。
 礼を終えた妖精達は勢いよくホールから飛び出て行く。
 これまで妖精達の輝きによってぼんやりと明るかったホールが再び暗くなり、すると今度はホールの一部がほの柔らかに照らし出された。
 光の集まるのは、あの壇上であった。
 壇の奥にある扉の周囲、このホールで最も豪奢な装飾はこの薄明の中でこそ最も美しく映えていた。柔らかなスポットライトの光を受けて金泥きんでいが玄妙に輝き、その一方で金や銀はまばゆく輝き、光と影でなく、光と光の明暗が装飾の姿をあらわとする。不思議な印象を与える美景だった。その扉が、まるで異界と――もっと言えば天界とこの世をつなぐ扉にも思えてくる。
 その扉に、こちら側からのノブはない。
 全てはあちら側から訪れる。
 あちら側が扉を開いた時のみ、こちら側はそこから現れる特別な人間を向かえることを許されるのだ。
 ホールは、静まり返っていた。
 歌劇では、妖精達が舞台から掃けた後、おそるおそるお姫様が岩場の陰から現れる。パーティーを抜け出した際に不思議な場所に迷い込んでしまったため、華やかな白いドレス姿の姫君が現れるのだ。
 誰もがそのイメージを共有し、今か今かと主役を待っていた。
 ――音もなく、かすかに扉が動いた。小さな声がそこかしこに上がった。数人が早くも熱狂的に歓迎の声を上げた。
 パトネトが片方の扉を受け、引き開いていく。
 もう片方をヴィタが受け、幼い王子の歩幅に合わせて引き開いていく。
 そして、中央を割って、バックからもライトを浴びた影がぬっと現れ――その瞬間、そこかしこに上がっていた声が、スキンヘッドの青年を中心にした数人がさらに張り上げようとしていた万歳の声が、突然不可視のハサミで声帯をぶつりと断ち切られたかのように止まった。
 皆、目を点にして息を飲んでいた。
 誰もが何も言えずに、それどころか飲み込んだ息を吐き出せもせずに呼吸を止めていた。
 あちら側とこちら側を繋ぐ扉は今や完全に開き切っている。
 その扉を、抜けてくる。
 ――白に身を包む姫君が。
 白い軍馬にまたがり、手に生首を携えて。
 白い軽鎧姿のお姫様が!
「な・ん・で・だ!」
 思わず、ニトロは叫んでいた。

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