1−c へ

 ティディアは、王城への帰途――空から眼下の王都の光を眺めながら、しみじみと幸せを噛み締めていた。
 ニトロ手作りのドレッシングで食べた鯛のカルパッチョ&サラダ、さっぱりとしながらも野菜に味のしっかり沁み込んだ――特に蕪が美味しかった!――ポトフ。金冠エビを用いたマカロニグラタンは素晴らしかった。過去、まだ漁の方法が確立していなかった時代には一尾が金貨百枚に及んだ記録もあり、そのためこの味の虜となったがために身を滅ぼした者までいるほどの美味なるエビ。歯を立てると焼きたてのウインナーのように弾けるそのエビの身は奥深い滋味と忘れられない旨みを兼ね備え、ぷりぷりとした食感は噛み締め飲み込むのをもったいないと思うのに噛まずにはいられず、とにかく後を引く。
 ところで私たる主観を除き王女として客観的に語るならば、ニトロの金冠エビの処理は少々甘かったと言わざるを得ない。もっと素材を活かす余地はあった。いくらか弾力を失い、香りも若干飛んでいた。他の具やソースとのバランスももっと良くできる。……しかし、プロではない彼にそこまで求めるのは酷ではあろう。むしろ、初めて扱った非常にデリケートな食材をよく調理し切ったと思う。
 その上で、私人と公人の価値観の両側で、ティディアは思う。
 高級なエビ。
 とてもデリケートな食材。
 プロとアマ、店と家庭の差――それが一体なんだと言うのだろう。
 嗚呼、思い返す度、いつにも増して美味しかったと彼女の胸は躍る。
 ティディアは思うのだ。
 ニトロの手料理は本当に口に合う。とにかく幸せを味わえる。もし彼が毎日料理を作って私を迎えてくれるなら、それはどんなに大きな力となることだろう!
 そして――
 今回に限って言えば、何よりも特筆すべきはやはりデザートである。
 パトネトが、あの弟が……初めて作った、ケーキ。
 弟は生来『作る』ことに並々ならぬ関心を寄せている。が、しかしその“世界”は常に閉じていた。基本的に弟にとって『作る』という行為はあくまで彼自身の興味と好奇心を埋めるためだけの自己満足の手段に過ぎず(それでも弟の自己満足はそれだけで他人に利益を生むのだが)、そのため、彼は何かを誰かのために『作る』としても全てを独りで計画・実行してきた。父に頼まれても、ティディアに頼まれても、誰のために何を作るにしても独り。それはあの『劣り姫の変』においても変わらなかった。姉ミリュウの最大の協力者として様々な物を用意したパトネトではあるが、最大の協力者という立場にあってもなお、彼はそのほとんどを部屋にこもって独りで作り上げていた。ミリュウの協力を得るのも『ミリュウというデータ』が必要な時だけ。仕様に組み込んだ姉の希望も、結局は『“こういうものを作って欲しい”というパーツ』に過ぎない。それ以外は、全ては、彼独りの中だけで完成するのである。
 それだけ弟の中には、『作る』という行為に対する聖域とでもいうべき感覚があった。そしてティディアは、弟の成長の過程において、それを攻略することにこそ苦労すると思っていた。何故なら、弟はまだ自我もおぼろげな頃から、積み木を積むことにさえ絶対に明確に自分が主導でなければ手伝いも決して許さなかったのだから。
 それなのに……そんなあの子が、初めて生身の人間を相手に『一緒に作った』のだ! それも、教わりながら! 自ら主導の座を降りて、素直に、楽しく! 何て素晴らしい!
 みんなで誕生日の歌を歌い――ホーリーパーティートゥーユー!――パトネトの、私も初めて見るような朗らかな笑顔と共に切り分けた、少し不恰好なあのケーキ。
 生クリームの甘さを引き立てるイチゴの酸味が絶妙のバランスを生んでいた。
 ケーキを作っている時の失敗談を語る弟の顔は、失敗談を語っているというのに輝いていた。そしてその輝きの理由も、その失敗を後に有益な経験にしたためであるのだからまた素晴らしい。
 そう、本当に素晴らしい。
「……」
 ……ティディアは……弟の『才能』が本物であるがために、これまでずっとある『不安』を抱き続けていた。
 それは弟の未来に関わる重大事であり――利己的に言えば、あの子を“活用”するにしろ“悪用”するにしろ――そろそろどうにかしないとならないと思っていた大問題。ティディアは、ミリュウに対してそうしてきたように、弟についてもその対策を色々と画策していた。しかし、今やそれらは全て無意味となった。彼女が考えていたことなど何の解決にもならぬことであったと、彼女は思い知らされもしていた。
 攻略するに苦労するはずだった聖域を開放し、閉じた“世界”から一歩踏み出して――“彼”に手を引かれて自ら一歩ずつ進み出した弟。もしかしたら、苦しんでいたミリュウを見て、何か思うところがあったのかもしれない。もはやあの子は足を止めようとはしないだろう。その姿を見ていると胸に居座り続けていた『不安』は目に見えて薄れていく。今も、それは加速度的に。
「パトネト様がニトロ様と出会えたことは、幸運ですね」
 王城から届けさせた王家専用飛行車を運転しながらヴィタが言う。二人の乗る車は親衛隊おうぐんが取り囲んでいる。今度こそパトネトもこの車に乗っていると皆には思われているだろう。
「そうねー」
 ため息混じりに、そしてどこか夢見心地に、ティディアは言った。
「しかし、何故に嘘をつかれたのです」
 だが、ティディアの夢見心地は、ヴィタのその問いによってすぐに崩された。
「何のこと?」
 少々機嫌を害して問い返すと、ヴィタは涼やかに言う。
「お召し物は全て、どの角度から誰に見せても恥ずかしくありません
 ――その通り、実は、ティディアは何も『正面から見たらもんのすっごいエッチな勝負パンツ』などは履いていなかった。履いているのはニトロが例に挙げた、ミッドサファーストリートで着ていた下着と同程度のもの。ヴィタは、ティディアがニトロに対して見せた“不可解な恥じらい”への疑念を示してきたのである。どうやらニトロと同様に、バカ姫の同好の士たる女執事もあの反応を不可解に感じていたらしい。
 それに対し、ティディアは、少しぼんやりと答えた。
「さあ、どうしてかしらね」
「――とは?」
「どの角度から誰に見せても恥ずかしくない、そのはずだったのに……急に恥ずかしくなった。他の誰より、ニトロに見られたくなかったのよ」
 言って、ティディアは笑った。
 少し前、ミリュウの成人を祝う会の日、一ヶ月振りにちゃんと彼と会った時には『裸オーバーオール』なんて姿をしていたのに……
「変ね」
 記憶を遡れば、その一ヶ月前には彼の目の前で片乳ぽろりを決めた。下着を見られるよりダイレクトにエッチだ。なのに、そうしたところでその時は顔を赤らめるだけであったし、その上、その時は裸を『ニトロ以外の男に見られたくない』と思っていたのに……これでは、まるきり逆ではないか。
 口の端を持ち上げたまま、ティディアは“不具合”への疑念に首を傾げる。
 その様子をバックミラーに映し見ながら、ヴィタは何も応えず、ただ微笑んでいた。彼女には答えが解ったのだ。……しかし、それを彼女は口にしないことにした。それは、愉快な我が主が自ら気づかれるべきことだ。
 ヴィタが微笑む一方、ティディアは気を取り直すために一つ息をつき、
「まあ、今回は……見られても構わない、って思ってなかったのもあるかもね。初めから折り込み済みならきっと大丈夫。次は攻めるわ」
「ええ。どうぞ、ティディア様の思いのままに」
 バックミラーには――早速様々な計画を脳裏に描き出したのだろう――希望と期待から頬に紅差す王女がいる。そのキラキラと無垢に輝く瞳の中には、それでもどこか拭い去れぬ疑念と、さらには頼りない不安気な影がある。
 それを見て取ったヴィタはさらに微笑み、
「……パトネト様もニトロ様と出会えたことは、幸運ですね」
 ティディアは、先と同じ事を言った執事に対し軽く怒るような表情を送った。
「そうね」
 そして肯定を返すティディアには、怒るような表情の中にも笑みがあった。
 パトネト様“も”。
「そうね……」
 ケーキは、初めから二人分とは言えない大きさで作られていた。どうやらニトロは、パトネトがケーキを作ることになった時点で作る分量を多目に設定してくれたらしい。その理由は聞かずとも分かるし、実際に行動で示してくれた。切り分けて残ったケーキは、今、隣に座らせている高機能な冷蔵箱クーラーボックスの中にある。彼は『末っ子が初めて作ったケーキを是非』と、家族の――両親と姉達のために用意しておいてくれたのだ。
 父と母には、まだ言わない。ミリュウとセイラにはこれから明日中に届くように送る。みんな、この上なく喜ぶに決まっている。
 ――ニトロ・ポルカト。
 私の愛する優しい人は――家族にとっても、本当に……本当に!……
「出会えて、良かったわ」
 ティディアは眼下に輝く王都の繁栄の光を眺めながら、しみじみとつぶやいた。

「パティ」
 パトネトの頭を洗いながら、ニトロは言った。
「人が嫌がることをするのはいけないな」
「ごめんね」
 ニトロに頭を洗われながら、パトネトは言った。
「約束を破るのもよくない」
 ニトロは、パトネトと『ティディアは仕事』だから『つれてこない』という約束をしていた。
「うん」
 パトネトは小さくうなずく。
「分かってるなら、どうして?」
 パトネトは、しばらく黙っていた。ニトロは彼の頭をしっかり洗い続ける。
「お姉ちゃん……僕にね、『楽しんでいらっしゃい』って言ったんだ」
 ようやくパトネトが応えた。
 ニトロはシャワーノズルを手にしたところで動きを止め、
「『楽しんでいらっしゃい』?」
「お姉ちゃん、自分からは連れて行ってって言わなかった」
「……」
「お姉ちゃんは、ニトロ君のこと、大好きだよ」
「……」
「僕も大好き」
「……ありがとう」
「僕はお姉ちゃんも大好き」
「うん」
「だから、僕が勝手に呼んだの。もしかしたら来なかったかもしれないけど」
「……うん」
「一緒にお祝いしてもらって、うれしかった」
「……そっか」
「……ごめんね」
 ニトロはパトネトの頭を洗うふりをして、撫でた。
「それじゃあ流すよ」
「うん」
 シャンプーを綺麗に洗い流すと、パトネトは勢い良く立ち上がり、
「じゃあ、今度は僕の番!」
 とニトロの背後に回る。
 手にシャンプーを取り、ニトロの髪を、ニトロの手からすればまだまだ小さな手で洗い出す。その運指は決して上手いわけではないが、ニトロにはとても心地よく感じられた。
「……ねえ、ニトロ君」
 ニトロがそうしたように――真似ているのだ――指の腹で頭をマッサージするようにしながら、パトネトが問いかける。
「ん?」
 ニトロが促すと、一度パトネトの手が止まった。背後の王子の顔を、ニトロは正面の鏡を通して見つめる。そこには躊躇いの表情があった。が、たっぷり三呼吸の後、それでもパトネトは躊躇いがちに、
「ニトロ君は、お姉ちゃんが『王女』じゃなかったらって……思う?」
 それはどこか逼迫ひっぱくした口振りだった。
 ニトロは、反面、さらりと応えた。
「コンチクショウ、王女のくせに……とはいつも思ってるよ」
「……」
 パトネトの手が再び、ゆっくりと動き出す。
 その手の動き方から、ニトロは彼が答えに満足していないことを察した。
(……なら、どういうつもりだったのかな)
『王女』の弟からの問い。
 ――『王女』じゃなかったら
 そのセリフから連想するのはティディアではなく、“王女であること”を苦しみの一つとしていたミリュウであるが……そういうつもりで弟君は問うたのではないだろう。
 しばし考え、ニトロは、思い至った。
「王女であってもなくても、あくまで、あいつが迷惑なんだよ」
 ニトロが改めて言うと、大好きな姉に対してきついことを言われたというのに、鏡を通して見える王子の顔が目に見えて明るさを増した。
 明らかに喜んでいるパトネトの様子に、ニトロは正解を踏めた、と安堵した。
 そう、先のパトネトの問いかけは、ひどく核心を遠巻きにした質問であったのだ。
 彼は、本質的にはこう言っていたのである――「ニトロ君は、お姉ちゃんが『王女』であるために生まれる諸問題にこそ嫌気をさしてはいないのか?」と。
 もしティディアが『王女』でなければ、なるほど確かに『ニトロ・ポルカト』を取り巻く『クレイジー・プリンセス・ホールダー』だの『次期王』だの至極面倒極まりない用件はいくつも消えるだろう。もちろん、それらにニトロは心の底からひどく迷惑している。他にも、例えば現在もマンションを取り巻く群衆など迷惑に感じないわけがない。
 が、そうは言っても、本質的な問題として――それら諸問題に対する嫌気や怒りを “ティディアが『王女』であるから”という『条件』に向けてはいないのだと、ニトロは確信をもって思うのである。
 道徳的に語れば『ティディア』が『王女』であることは彼女のせいではない、とも言えようか。しかし、自分からすればこれはただ道徳に拠っているのではない。たまたまだ。もっと単純な部分で「お前が王女だから!」と責めるのは理に適っているようで根本的には筋違いだと思うし、それにそう責めたところであいつは「じゃあ王女を辞めよっか?」と言うだろうっていうか実際『映画』の折にそう言ってのけやがったし……ッ。
 ――つまり、であるから、ニトロにとってはあくまでティディアが『王女』であることは二の次なのだ。何よりも、第一に! とにかく『ティディアが迷惑なのだ
 パトネトは、それを直接、明確に聞きたかったのである。
 ある意味において『姉自身』が迷惑がられているということは『姉が王女であるから』という外部要因を根拠に迷惑とされるよりひどいことにもなるのだが、しかし一方で、この件に関しては、それはあくまでニトロが『ティディアという個人』に向きあっているということでもある。生まれや生い立ちを理由にしない、ごく個人的な、ごく個人に対する感情の表明。翻って『姉自身を見てくれているという実感
 パトネトはそのために喜んだのだ。
 もちろん、そこには彼が“『王女』という外部要因”と“内心こじん”の軋轢のために苦しんでいた姉ミリュウを傍で見、同情を寄せてきていたからという理由もあるだろう。
 しかし、もう一つ穿てば――ニトロは思う――今の質問で、パトネトも『パトネト王子』としてではなく『パトネトという個人』として見られているという安心を同時に獲得し得たのではないのだろうか?
(……)
 そこでニトロは、一つ思うことがあった。
(ひょっとしたら――)
 パトネトが『人見知り』なのは『人の気持ちが解り過ぎる』からこそ、ではないのだろうか。一人黙って苦しんでいた姉の心を見つめ、その苦しみを理解し(ともすれば“自分の存在”も姉の苦しみの一つだとまで理解し)、そうして姉を助けようと懸命に努めていた彼だ。本当に賢く、色々と年齢相応以上にバランスが悪いところもあるが、その年齢で驚くほど他人の心を慮ることができるパティだ。
(……ひょっとしたら……)
 あるいは、この子は、希代の王女と称されるティディアと同程度の洞察力すら備えているのかもしれない。そして、ティディアはその力を自身の武器として軽やかに扱っているが、しかしパトネトは、だからこそ人を怖がっているのではないのだろうか。
「……」
 もし、そうだとしたら。
 その力を良い方向に持っていければ、パトネトは自身の力を扱いきれずに苦しむこともなく、能力の全てを人生の彩りのために活用することができるだろう。
 しかし、それが悪い方向へと動いてしまえば……この子は、きっと自分の世界を硬く堅く閉じてしまうだろう。
 それとも、最悪な方向で考えれば、『希代の王女』に並ぶ太陽と評される彼のことだ。一方で『覇王の再来』とも呼ばれる姉がその延長線で“暗黒の太陽”ともなりうることを考えれば、彼もまた暗黒の太陽となれる人物なのかもしれない。まだまだ未成熟な体に、ひどくアンバランスな頭脳と心を載せる、この子は。いいや、それだけならまだしも――
(……)
 ニトロはパトネトに丁寧に頭を洗われながら、
「パティ」
「何?」
「誕生日プレゼント、何が欲しい?」
 パトネトはきょとんとした。鏡を通してニトロを見つめ、
「もうたくさんもらったよ?」
「遠慮しなくていいよ。俺も、よくもらったんだ。美味しいごはんとケーキと、楽しい時間と、それからとても嬉しいプレゼントを」
 パトネトはニトロの額に近いところを洗いながら、
「……それじゃあね」
「うん」
「あのね……」
 そこでパトネトは躊躇い、ややあって、意を決したように言った。
「来月、お姉ちゃんのお誕生日会に……連れて行って?」

 お互いの昔話をしている内にうとうととし出したパトネトを抱きかかえ、一緒に行った遊園地で買ったパジャマに身を包む小さな王子をベッドへ寝かしつけたニトロは、二時間と少し前には賑やかな食事を囲んでいたテーブルにつき、照明を落とした中、一人静かに板晶画面ボードスクリーンに目を落としていた。
 自ら輝く画面は周囲の光が乏しくとも持ち主にデータを見せる。
 ニトロは昨日やった分のアデムメデス史をざっと軽く見直した後、銀河共通語の問題集を開いた。が、画面に表れたのは問題集ではなく、デフォルメされた芍薬だった。
 ニトロは目を丸くした。
 芍薬は、マスターの勉強を邪魔することに罪悪感を漂わせていたが、
<――ドウスルンダイ?>
 表示された問いかけに、ニトロは手にしていたタッチペンをテーブルの上に置いた。
 勉強を始める前に芍薬が淹れてくれたハーブティーを一口啜り、言う
「どのこと?」
 画面の中の芍薬は驚き、ポニーテールを揺らした。芍薬はパトネトを起こさないように――またパトネトに聞かれては具合が悪いかもしれないから、こうして筆談を試みていたのだ。
 しかし、ニトロは、例えその声が囁きであっても……そして当然芍薬の意図を理解しながらも、あえて会話を選んだ。
「色々サ」
 芍薬は抗議をせず、マスターに合わせた。ニトロにはニトロなりの考えがあるのだ。
「色々か。そうだね、色々ある」
「御意」
 ニトロはボードスクリーンをテーブルに置いた。
 すると、部屋の隅――充電器の前に正座しスリープモードに入っていたユカタ姿の芍薬アンドロイドが静かに立ち上がり、ニトロの対面にやってきた。驚くほどの最新技術の粋を集めた機体は衣擦れ以外には音もなく椅子に座り、暗がりの中、切れ長の双眸でマスターを見つめる。
「パティハ、姉ノ味方ダヨ」
「うん。でも、俺の敵じゃない」
 ニトロはミントもブレンドされているハーブティーで唇を濡らし、
俺とあいつの仲を取り持とうとしているとはいえね
 芍薬は背筋を伸ばして座ったまま身じろぎ一つしない。その肌の質感はとてもアンドロイドとは思えず、唇は柔らかく、瞳は潤っているようであり、まるで本物の勝気な女性に見つめられているような気分になる。
 ニトロは、口元に笑みを刻んだ。
「それは、ちゃんと解ってるよ」
「ナラ、何故ダイ。ハラキリ殿モ少シ疑問ヲ漏ラシテイタケレド……あたしハ、正直、関ワリスギダト思ウ」
 パトネトとの付き合い方に対する問い。続けて加えられた芍薬の意思表明に、
「だからって“それ”がパティを拒絶する理由にはならないよ」
 ニトロは目元も微笑ませ、言った。
「パティは強引じゃない。姉が『人事を尽くした上に天命を引きずってでも連れてくる』ってタイプなら、パティは『人事を尽くして天命が来ても様子見してから行動開始』ってタイプだ」
「主様ニハ、今ハ特ニ、ソッチノ方ガ脅威ダト思ウヨ」
それでも、パティは俺の敵じゃあない
「……御意」
「てことは、俺の味方に転ぶ可能性はあるよね。俺とあいつの仲を取り持たない、むしろ俺を擁護して姉を遠ざけてくれる、っていう方向に」
 芍薬がわずかに目を落とした。
 少しの沈黙を挟んでから、この問いへのマスターの答えを確信しながらも、あえて問う。
ダカラ、可愛ガッテイルノカイ?」
「まさか」
 ニトロは芍薬に笑みを返した。心外なことを問われても怒りはない。芍薬の杞憂を晴らすことが重要である。
「そうなったらいいなってこっそり期待はしているけどね、その程度だよ」
 芍薬は、ニトロの予想通りの答えに微笑を返した。実際そのような『計算』を抱いてもいいとは思うが、いや、これだからこそマスターは“強い”のだ。
「それに、もし“それ”を目的にしていたら俺はパティにとっくに嫌われていると思うし、大体、それくらいの可愛い目論見が許せなかったら俺はハラキリを親友となんか思えていないよ。ハラキリだけじゃない、ヴィタさんや、きっと友達全員とも仲違いだ」
 その言い分はもっともである。確かに『計算』を考慮しては打算満載のハラキリと親友なんてやっていられない。芍薬は声を出さずに笑った。
「それに――」
 と、ニトロが少し物憂げに宙を見つめながら、言う。
「『ティディアの弟だから』って拒んだら、それはパティにとって何より酷いんだと思う」
 芍薬は、風呂場での二人の会話を記憶メモリに呼び戻し、静かにうなずいた。
 ただ、ティディアの身内と仲良くなり、その付き合いを深めることは――ニトロが先に言った打算を考慮に入れても、それでもやはり脅威だ。
 されども、マスターはその脅威をちゃんと理解した上でこの付き合いを維持している。
 ――芍薬は、ニトロを見つめた。
 ニトロは芍薬の素振りに憂いの残るのを感じ取り、
「大丈夫。あの子への情にほだされてあいつとの関係を修正する、ってのはないよ。二人は確かに姉弟だけど、パティはパティティディアはティディアだ
 芍薬はそのセリフこそが聞きたかった。
 脅威を理解した上で、こちらの憂慮も理解してくれた上で、その上できちんと決断を下している。しかもそこには一貫した筋が通っている。となれば、
「御意」
 気持ちよくうなずいた芍薬は、しかし、もう一つ厳しい問いを突きつけた。
「ケド、ソレニシタッテ少シ入レ込ミスギダト思エルヨ? モシカシテ……コノ子ハ俺ガチャントサセナキャ――ナンテ“余計ナモノ”ヲ背負ショイ込モウトシテハイナイヨネ?」
「――」
 ニトロは軽く図星を指されて頬を固めた。
 芍薬がそれを見逃すはずがない。
 じっと見つめてくる芍薬に、ニトロは小さく肩をすくめ、
「でも、そう言われてみれば、ちょっとおこがましいことだね」
「主様ノ“スベキコト”ジャアナイ」
「うん……」
「何カ釈然トシナイ感ジダネ」
「……確かに俺の“すべきこと”じゃないと思う。けど……ただね、ちょっと格好つけたい、かな」
「格好ツケタイ?」
 ニトロの言葉をオウム返しにして、芍薬は少し身を乗り出した。
「主様ハ十分格好イイト思ウヨ?」
「ありがとう」
 苦笑と照れ笑いの混じった口調で言い、それからニトロは言葉を選ぶために口を閉じた後、
「何て言えばいいのかな……芍薬の言うのとはちょっと違って……でも、パティに対しては、こう、やっぱりちょっと無理をしてでも格好つけておきたいんだよ」
 ニトロはニュアンスをこねくり回すように、言う。
 芍薬は怪訝な顔をし、
「……解ラナイネ」
 マスターの言いたいことは解る気もするが、それならばまた解らなくなることがある。芍薬は、まずそれを問うことにした。
「本当ニ、ドウシテソコマデ気ニ入ッテルンダイ?」
 すると、ニトロはようやく話しやすい筋道に乗ったとばかりに言った。
「昔、親に弟が欲しいと言ったことがあるんだ」
「?」
 ニトロは腕を組み、唐突な展開に瞳に文字通り疑問符を表示する芍薬へ目を細め、
「そしたらメルトンがプレゼントされた」
 何だかぽかんとした感じでうなずく芍薬へ、彼は苦笑を噛み殺すようにして続ける。
「今思うんだよ。あんな生意気なやつじゃなくて、パティみたいに可愛い弟がやってきてたらどうだったのかなって」
「アア」
 と、ようやく我が意を得たりとばかりに相槌を打って……それから芍薬は吹き出すように笑い出した。
 確かに、生意気で、その上マスターを一度裏切り、その後で奇跡的に許されてもたいして心を入れ替えず、折に触れては何だかんだ言って『許してくれる兄』に甘えてすがりつく『駄目な弟』の典型みたいに自己主張を繰り返すオリジナルA.I.メルトン。
 マスターとあいつの関係性とパティとの関係性とを比較してみれば、これを笑わずにはいられるものか。芍薬は思わず大声を上げそうになって、慌ててアンドロイドの『感応システム』を切った。
 ニトロは、アンドロイドが急に無表情になったのを見て、芍薬が電脳世界あちらで笑い転げているのだろうと察した。それが嬉しくて頬に笑みを浮かべ、芍薬が復帰してくるまでハーブティーを飲みながら待った。
「――ナルホドネ。主様ニトッテハ、パティハモウ『弟』ナンダ」
 やがて、こちらに戻ってきた芍薬が、アンドロイドの音声機能を通じて笑いの残る震え声を届けてくる。もしアンドロイドが呼吸を出来て涙も流せたなら、きっと芍薬は息も絶え絶えにして目を拭っていただろう。
 ニトロは片方の口の端を引き上げて見せ、
「ま、『ごっこ遊び』なのかもしれないけどね。
 でも、だから、正直もうこの際ティディアがどうとか――『フォン・アデムメデス・ロディアーナ』だとかっていうのも関係ないんだよ」
パティハパティ
「うん。そして、『パティとニトロ』」
 芍薬はまた笑った、今度は笑いを噛み殺すようにして笑った。そして、
「ダカラ、メルトンミタイナ――」
 そこで芍薬は一度言葉を切り、付け加えた。
「“メルトン”ヤ“バカ”ミタイナ“駄目ナキョウダイ”ニハナリタクナインダネ」
 ニトロはうなずき、ウィンクをするように片目を細め、
「変にお兄ちゃんぶってるかな?」
「イイト思ウヨ。主様ハ『良イオ兄チャン』サ」
 双眸を細め、芍薬は満足に何度もうなずく。と、そこで悪戯心が芽生え、
「デモ、『ゴッコ遊ビ』ヲスルダケデ『義兄ノ座』ヲ世間ニ見セツケナキャイケナイッテノハ、辛イトコダネ」
「それは言わないでおいてくれるとありがたいなあ」
 悪戯心をあからさまにしている芍薬へ、ニトロは苦笑を返す。芍薬はマスターの苦笑いに微笑を返し、人間のように吐息そのものの音を挟み、
「――ソレニ、パティニハ良イ人生ヲ歩ンデ欲シイモノネ」
 と、そのセリフにまたニトロは図星を突かれた。かすかに丸くなったマスターの双眸を見て、芍薬がにこりと笑む。
「あたしモ、ソウ思ウヨ」
 ニトロは芍薬を見つめた。
「アンナ『無茶』ヲシテクレタケド、パティハ……良イ子ダ」
 それは、『劣り姫の変』の件を引き合いに出して、やはり“それでも警戒の相手”ということを改めて明確に示しながらも……その上で、芍薬もパトネトを憎からず思っているということを示す言葉だった。また、それは、一面的な切り取り方では説明の付かない複雑な感情――芍薬のココロそのものでもあった。
 そこから滲む温かさにニトロはうなずき、そして、
「で、あとはアレかな?」
「御意。アレダネ」
 ニトロは一つ、大きな息をついた。ハーブティーを一口飲み、もう一度、今度は思い切った決断を下す勢いを得るために息をつき、
「出るよ」
「イイノカイ?」
「この『一大決心』は相当な覚悟があってのものだと思うしね。
 ……それに、パティは、いずれどうしても『外』に出て行かなきゃならなくなる」
 ニトロは、自分のベッドに眠る小さな王子を一瞥し、どこか底光りのする意志を感じさせる口調で言った。
「きっと、パティの才能が、パティにそれを許さないから」
 沈黙があった。
 その沈黙は、重かった。
 ニトロは、将来パトネトの心身を拘束するものは、王子という立場よりも、その才能に拠るものが大きいと、そう言ったのである。
 そして、もし――と、ニトロは思う。
 パトネトがティディアのような人間であれば、そう、彼は苦しまないだろう。しかし『パティはパティ』だ。彼は当然ティディアのようではなく、また当然もう一人の身近な人間――ミリュウのようでもない。されど、どちらにも通じる性質を備えていて、どちらにでも転べる状態にあり、その上に現在は『極度の人見知り』という形で現れている彼自身のパーソナリティがある。
 思い返せば、ティディアが「人見知りをどうにかしたい」と言っていたのを聞いたことがあるが、その理由の本当の意味が分かった気がする。
 パトネトは、今、心の成長において重要な時期にあるのだ。
 彼の背中を押す才能の力は極めて大きい。反面、彼を押し留めようとする彼自身のパーソナリティの力も強い。どちらかの力が消えるか、妥協をしなければ……良く育つとか悪く進むとかそういう以前に、いつか、彼は?
 やがて沈黙の中、芍薬がうなずいた。
 ニトロの心中を推察し、同意を送ったのだ。
 ニトロはハーブティーを飲み、カップをソーサーに静かに置き、言った。
「だから、この機会に付き合っておきたいとも思うんだ」
「ツマリ、ソウヤッテ格好ツケテオキタインダネ?」
 と、どこか悪戯っぽい表情で芍薬が言い、そう言われてしまえばニトロは降参するしかない。
 ――パトネトとのこの関係もそう長く続くとは限らない
 そんなことも思いながら、軽く冗談めかしながら、改めて彼は言った。
「うん。だから俺は、パティに精一杯格好つけておきたいと思うんだ」

 パトネトは、夢を見ていた。
 ――いや、夢、だったのだろうか。
 まどろみの中で、パトネトはニトロと芍薬の声を聞いていた。それはとても厳しい内容を含むものではあったけど、同時にとても温かな思いに満ちていた。
 温かな思いは、パトネトの心を撫でてくれていた。優しく、力強く。それは二人の姉からもらう温かさ、力強さと似ていながら全く違うものであった。彼は姉達のくれるものに不満を感じたことはない。けれど、それでも新しい温かさと力強さは本当に嬉しくて、頼りがいがあって、極めて揺るぎない安心感があった。
 やがてパトネトはその温もりに包まれたまま、まどろみの底、意識の届かぬいずこかへと沈み込み、ふと気がつくと、彼は見慣れぬ天井を見上げていた。
「……」
 パトネトは、はっきりとしない意識の中、じっと見慣れぬ天井を見つめていた。
「――!」
 そして、『自分が見慣れぬ場所にいる』ということだけを理解した瞬間、彼の心身はひどい硬直に見舞われた。
「――ッ」
 フレア、と、あるいはお姉ちゃん、と――自分を守ってくれる存在を叫ぼうとするが、喉が引き攣れて声が出ない。
 寝汗一つなかった体に冷や汗が吹き出した。
 ここはどこ?
 寝ぼけた頭が、寝ぼけていたところに急襲してきた緊張のために凍結して動かない。どこの宮殿? どこの城? どこのホテル? 過去に過ごしたことのある天井がむやみやたらと脳裏に巡り、そのどれとも符合しない天井の下、パトネトはもはやパニックに陥りかけていた。
 だが、判然としない状況下でパニックになることは特別に良くない――と、姉に教えられたことが記憶の中からふとこぼれ落ち、
「――!」
 パトネトは懸命に飛び起きた。
 状況を把握しようと何とかベッドに体を起こし、その瞬間、彼の視界に人影が二つ飛び込んできた。
「!!」
 パトネトは驚愕に目を見開いた。
 目を見開いて――そして、そこにびっくり眼で立っている男性の姿を見て、つい一瞬前まで全身を支配していた恐慌がまるで嘘のように無くなっていくのを感じた。
「パティ?」
 エプロン姿のニトロが、パトネトに歩み寄ってくる。
 彼はこちらの額に浮かぶ汗を見て、
「怖い夢でも見た?」
 パトネトは首を振ろうとして、それを止め、小さくうなずいた。
「大丈夫?」
「……だいじょうぶ」
 すると、ニトロの温かな手が彼の頭に優しく触れた。
「そっか」
 パトネトの目を、優しくて頼れる強い『兄』の笑顔が埋める。その向こうに目を移せば、強くて頼れる優しい戦乙女の姿もある。
 すっかり安心を取り戻したパトネトはニトロに撫でられながら目を細め、しばらくそのままでいた。
 芍薬の持ってきたタオルを受け取ったニトロに汗を拭かれ、いつもと違う朝――これまで経験したことのない新しい朝の空気を吸う。爽やかな匂いがすることに気がついて、見れば窓が少し開けられていた。残暑の盛りの頃とはいえ朝には涼風が吹いている。窓の隙間から吹き込んでくるその風に乗って、ベランダのハーブが放つ鮮度抜群の芳香が漂ってきているのだった。
「……」
 パトネトはベッドに座ったまま、黙ってニトロを見上げた。
「……ん?」
 用の済んだタオルを芍薬に渡していたニトロがパトネトの視線に気づき、首を傾げる。
 パトネトは、微笑んだ。
「ホーリーパーティートゥーユー。ニトロ君」
 ニトロは驚いた。
 その言葉を掛けるのは、普通は自分の方である。
 それに、その言葉の意味するところは……
「――芍薬もっ」
 ふと、言い忘れていたことを思い出したようにパトネトが急いで付け加えた。
「……」
 ニトロは、微笑んだ。
 芍薬も微笑んでいた。
 パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 本日、8歳となった王子に、二人から祝福が振りかけられた。
「「ホーリーパーティートゥーユー、パティ」」

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