7−d へ

「  え?」
 ニトロの手からこぼれた剣が床と硬い音を立てる中、いの一番に疑問の声を上げたのは、敵が倒れたことで戒めから解かれたミリュウだった。緩慢に体を起こし、何が起こったのか全く解らない様子で石床に座り込み、傍らに横たわるニトロ・ポルカトを力なく見つめる。ふと見れば、アンドロイドの“ミリュウ”も動きを止めていた。
「……え?」
「主様!?」
 ほとんど吐息であるミリュウの疑問を掻き消し、霊廟に芍薬の悲鳴が轟いた。
 人には適わぬ速度で駆け寄ると、ミリュウのことなどは捨て置きマスターの様子を調べ始める。頭の傷は――浅い。浅すぎる。血は滲んでいるが、投薬用素子生命メディシン・クローラーの止血剤が機能してそれも既に固まっている。脳にダメージがいくようなものでは決してなく、間違っても人が昏倒するようなものではない。
 しかし、ニトロは完全に気を失っている。
 呼吸、脈拍は戦いの影響の範囲内。異常はない。……いや、脳波に異常がある!
「フレア!!」
 芍薬は激怒した。茫然としているミリュウ姫はこの件に関わっていまい。何しろアンドロイドが動きを止めているのだ。ならば、これは、
「答エロ!」
 事の次第を。
 芍薬はフレアの『起爆プログラム』に手をかけていた。
――「手伝エ」
 そこにフレアが通信を使い告げてきた。
 確かにこちらの方が速い。芍薬は怒りのあまり我を失いかけていたことに気づき、『起爆プログラム』に触れたまま、フレア達を泳がせていたのはどうしようもないミスであったかという慙愧と激しい自責に震えながら、相手への怒りと自分への怒りがない交ぜとなった憤激をぶつける。
――「ドウイウツモリダ!」
――「貴様ノ助ケガ要ル。命ニ別状ハナイ。ガ、マスターヲ助ケラレルノハ貴様ダケダ」
――「ダカラ――!!」
――「今ニ解ル」
 芍薬は、気づいた。
 階段を下りてくる無数の人影に。
「……」
 ミリュウが、冷たい石床にへたり込んだまま、芍薬の視線に気づいてそちらへ目をやる。
 全く事態についていけていない彼女は視線の先にいたパトネトの姿に、愕然とした。もはや全ての痛みも忘れ、こちらへ歩いてくる小さな弟を見つめ続ける。
 パトネトは背後に数十人のアンドロイドを引き連れていた。それは明らかに機械的であり、信徒のような精巧なものではない。
 やがてパトネトが姉の前に立つ。
「チョーカーが『故障』していることが分かったよ」
 その言葉に、ミリュウはぽかんと口を開けた。
 パトネトはそのことに、シェルリントンタワーの控え室でわたしが用意してきたチョーカーを見た瞬間に気づいていたはずだ。あの時はそれに言及しなかったのに、今になって、何故?
 ミリュウが再び茫然とする傍らで、姉弟のやり取りを見ていた芍薬はあることを確認していた。
 マスターがミリュウを捉える瞬間、怒りを覚えていたことは知っている。マスターはこう思っていた。ミリュウには敗北が決まったというのに“嫌な余裕”がある。ということは――
(ルッド・ヒューランノ読ミ通リ、ドウアッテモ死ヌツモリダッタカイ)
 芍薬は見つめあう姉弟を見守っていた。マスターの容態に変化はない。確かに命には別状はなさそうだ。ならば、もしあの女執事の証言がなければ、こちらが二人分の対策をしない限りはどうあってもマスターの敗北であった状況を変えた王子の思惑を知ろう。
「パティ?」
 やっと言えた――という様子で、ミリュウが弟へ呼びかけた。
「どういうこと?」
 パトネトは悲しげに眉を垂れていた。
「ごめんね、お姉ちゃん」
「え?」
 弟の意図が全く掴めず、ミリュウはただ混乱する。彼女は気づいていなかった。チョーカーを除き、その肌に刻まれた『聖痕』が輝きを増していることに。ニトロの『烙印』も輝きを増していることに。
「僕は、お姉ちゃんの敵かもしれない」
 と、パトネトが言った直後、ミリュウが気絶した。
 弟の言葉にショックを受けて?――そんなわけがあるはずもない。彼女の倒れ方はニトロのそれと全く同じであった。
「芍薬」
 パトネトがニトロを抱きかかえる芍薬へ顔を向ける。人見知りというわりに――芍薬がA.I.であるからだろうか――存外力強い口調だった。
「手伝って」
 フレアと同じことを言うフレアのマスターに、芍薬は敵意を向け、
「助力ヲ請ウナラ、マズハ誠実ニ語ルモンダヨ」
 言われたパトネトは、そうだった、とばかりに表情を変えた。
「大雑把に言って、今からニトロ君にお姉ちゃんの心に入ってもらうんだ」
「――ハ?」
 流石に芍薬は呆気に取られた。その『理論』は知っている。そしてそれが現在実証段階にあり、法や倫理にも課題を抱え、つまり、人と人の精神を“直接・安全に”繋げる技術と装置は未完成だということも知っている。現行の技術を応用して“間接的・曖昧に”繋げるだけなら可能ではあるが――
 パトネトは芍薬の戸惑いを察し、首を振った。
「違うよ。仮想空間も利用するけど、お互いの感じていることをお互いに、自分が感じているよう感じあえるように、本当に可能な限りお姉ちゃんの頭に“没入”してもらうんだ。烙印と聖痕が、もう二人をつなげてる」
 芍薬は理解した。理解して、叫んだ。
「馬鹿ナ!」
「ニトロ君は『ウシガエル』の夢を見たでしょ?」
「!」
ミリーの幻覚を見たこともお城でフィードバックして確認した。大丈夫、うまくいくと思う、ううん、絶対にうまくやる。だから助けて。ニトロ君がお姉ちゃんに『埋没』しないように、ちゃんと二人の心をつなげながら混同させないように、君がニトロ君を守って」
「……ソノタメノ『計算機』カイ」
 芍薬はパトネトの背後に並ぶアンドロイドを一瞥した。パトネトはうなずく。
「……前代未聞ダヨ」
「うん。でもフレアから聞いた。マスターのこと『人並み』に知ってるって。もし『完璧』に知ってるなんて言われたら中止するつもりだったけど……」
 そこで芍薬は気づいた。
 パトネトは、震えている。
 芍薬は言った。
「ヤロウトシテイルコトハ洗脳ナンテ生温イ、少シデモ間違エレバ取リ返シノツカナクナル『改造』ダヨ? 最悪、二人ノ人格ガ混同シテ『精神キメラ』ガ出来上ガル」
「そうならないように気をつける」
「ソシテ何十モノ法ニ触レタ人体実験ダ」
「ごめんね」
「……謝レバイイッテモンジャナイ。何ニシタッテ後デ主様ニ怒ラレルコトダネ」
「それは……やだ。怖いもん」
 言って、しかしパトネトは拳を握り、涙を浮かべる。
「でも、僕はお姉ちゃんが大好きなんだ。だから僕はお姉ちゃんを助けたいんだ」
 情を動かせば可憐な王子の頼みをそこで断れる者はないだろう。が、芍薬にとっては、王子の心より主の安全が優位だ。それに芍薬にはひどく気に食わないことがある。
「モシ、断ルト言ッタラ?」
 パトネトは唇を噛み、芍薬がそれに対して怒りを感じていることを解りながら、それでも言った。
「ニトロ君を人質に」
「コッチハフレアノ命ヲ握ッテルンダヨ? ソレトモ、あたしハ愚カニモ騙サレタカナ?」
 するとフレアが言う。
「私ノ“命”ナドミリュウ様ト比ベルベクモナイ。殺サバ殺セ」
 パトネトは唇を強く噛んで、じっと芍薬を見つめている。
 ……どうやら、全ての言葉に偽りはないらしい。
 芍薬はため息をついた。
 マスターならどう答えるか考え、そしてお人好しのマスターの答えを聞いたような気がして苦笑いを浮かべる。
 それから安らかな息をつくミリュウを見、
「何デコンナニ愛サレテイルノニ……」
「『愛されていれば人は生きていける――などとは幻想に過ぎない』」
 ふいにパトネトが仰々しいことを言った。
 芍薬は口元を――マスターのように引き上げ――応える。
「アデマ・リーケイン著『リオナ、それともパメラ・レオニラル』」
 パトネトはうなずく。
 芍薬はやはりマスターのようにため息をついた。
「フレア、気ヲツケナ。注意シテオカナイト、コノ子ハ『バカ姉』ソックリニナルヨ」
「実ニ素晴ラシイ」
 即答され、芍薬は言葉を失った。主様なら絶対に即行のツッコミで正している。しかし自分は唖然としてしまって何も言えない。主様がツッコンでくれないとこのバカ共は野放しに――
 芍薬は悟った。もはやあたしの取れる道は一つしかない。
「……承諾シタ。早ク主様ニ復帰シテモライタイシネ」
「良かった」
「ドコカラ初メルンダイ?」
「今、お姉ちゃんの中にお姉ちゃんの心から抽出した『世界』を構築する最終工程に入ってる。えっと、その世界はね」
「ソノ世界ガ二人ノ間ノ『安全装置クッション』――ダネ?」
「うん。これまでのデータがあるから、それはすぐにできる」
 これまでの――ということは、やはりマスターの直感通り、アンドロイドの思考ルーチンはミリュウ姫本人を基にしていたということか。おそらくそのプログラムを組むために姉を仮想世界に没入スライドさせて思考パターン等のデータを取り、並行してこの企みの準備もしてきたのだろう。
(ナラ、王子モ初メカラ色々分カッテイタンダネ)
 マスターも評価していたが、本当に賢い『秘蔵っ子様』だ。そしてこれだけのことをするからには年齢に不相応の覚悟も持っている。加えて、彼のプライドにも懸けてシステム面には手抜かりはないだろう。そう判断すれば、依頼を受け入れたとはいえ心に残っていた危惧――お子様の浅知恵――という一抹の不安が芍薬のメモリから消えていく。もし不安がわずかでも的中したら今ここでシステムを乗っ取り、王女を見殺しにしてマスターだけでも助ける決意もしていたが、これなら自分に振られた役目に集中できるだろう。
 芍薬はニトロの額を撫で、
「ソレジャア、ソコニ送リ込ム主様ノ『精神体』ノ構築ガあたしノ仕事カ。構築ニ使ウノハ一般的ナ意心没入式マインドスライドノ流用デイインダネ?」
「君が優秀で助かるよ」
「ソリャドウモ」
 パトネトは芍薬の無作法な礼に微笑みうなずき、
「実行に向けて最終チェックをするから、そこからは一緒に」
「承諾。タダ――間ニ合ウンダロウネ?」
 真夜中のタイムリミットまでに。
 パトネトは鑑みるように目を上向け、
「きっと。ううん、絶対に」
 芍薬はうなずき、即座に作業を開始した。



..▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 ミリュウは現を見る。
 瞼を閉じて実を見る。
 ――ニトロ・ポルカト。
 わたしは、お前のことが嫌いじゃなかった。
 親しみを感じていた。
 本当よ。お前に言ったことは、全て本当だった。
 ニトロ・ポルカト。お前は、わたしに似ている。
 普通の少年。
 容姿も頭脳も普通な少年。
 特筆すべき一芸は持っていても、王の器どころか、およそ王族としても相応しくない男。
 ――わたしと同じ
 お姉様に、お姉様の役に立つと認められて側に置かれる普通の人間どうぐ
 だから、初めは、お前とお姉様を祝福していたの。
 だって、お前がいたところで、お前がどんな寵愛を受けたところで、お前にはないお姉様と血のつながったこの肉体が、わたしをお前より姉の従者として一段と秀でたものにしてくれるから。だから、お姉様に最も近いのはわたしであることには変わりはないから。わたしは安心しきっていた。
 わたしはお姉様に嫌われたくなくて、頑張ってきた。
 わたしはお姉様を愛しているから、頑張ってこられた。
 わたしはお姉様の妹である――その誇りもあったから。愛して愛して愛して愛して愛していとしくてたまらないお姉様のお役に立てる喜びを胸に、生きがいに、いいえ命そのものにして生きてきた誇りがあったからこそ、わたしはこれまで生きてこられた。
 素晴らしい栄光の日々。
 わたしは安心しきっていたのに……
 だけど、ニトロ・ポルカト……何故なの?
 なぜ、お前はお姉様の心にそんなにも入り込めた?
 お前が頑張ってきたことは知っている。
 お姉様を嫌っていることも、もう知っている。
 けれど、それなのに何故お姉様はお前を? ご自分を嫌うお前を? 何故?
 ニトロ・ポルカト……
 お前は『わたし』だったはずなのに、わたしと一体何が違う?
 分かっている。わたしはお前に嫉妬している。お前が羨ましい。憧れてさえいるよ。判っているんだ。いつの間にか民の皆からも認められているお前が、わたしなどとうに飛び越えてしまっていることも解っている。わたしはお前が……妬ましい。わたしと同じで王家の一員には相応しくないくせに、とうとう王に相応しいと皆に認められるにまでなったお前が。
 お姉様に求められるというこの上ない栄誉を受けながら、それでも平然と嫌えるお前が。
 羨ましくて羨ましくて妬ましくてたまらなくて。
 わたしは、お前を、お前だけは消し去りたいんだ。
 わたしと同じはずだった、そのはずだった、ねえ、ニトロ・ポルカト、お前もきっとそう思うでしょう? でも、一体何が違ったの? どうして違ったの? 本当なら――できることなら――わたしがなりたかった『私』になりながら、お前は『私』を否定する。お前にその気はなくとも、お前が存在するだけで『私』は否定されてしまう。
 だから、わたしと違ってしまったお前をお姉様の傍から消し去らないとわたしはわたしを保てない。
 だから、わたしの居場所を奪い、無邪気にわたしを殺してしまうことを知らないでいるお前を許せなくて、許せないから、わたしは、わたしを保てない。
 分かっている、判っている、解っている、全て。
 わたしはお姉様に作られた王女、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 それくらいのことを判断する力はお与えいただいている。
 優等生なだけのつまらない劣り姫――兄弟の中で最も劣っていると言われても、それでも優等生だと認められているわたしが、それくらい自覚できないはずがない。
 ――わかっているんだ!
 全ては!
 逆恨みに過ぎない!!
 わたしの羨望は、妬みは、嫉妬は、とても醜い。浅ましく醜くてたまらない。
 お腹の底で気持ち悪い感情が育ち続けてきた。
 自己嫌悪だと言えるならどんなに清々しいだろう。わたしのお胎の中で、わたしを殺す赤子が泣き叫んでいる。
 分かっているの。
 解っているけど、判っているから、どうしようもないの。
 ニトロ・ポルカト。
 ごめんなさい……
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 でも!
 心の底からあなたを消し去りたい――そう思い、そう願わなければ、女神を殺され、お姉様を奪われ、存在理由を失ったわたしはすぐにでも壊れてしまう。そうなればわたしはお姉様の恥となる!
 天才、希代の王女と呼ばれながら妹一人も守れない姉。
 妹の異常にも気づけなかった女神?
 お姉様が偉大な方であればあるほど滑稽な話だろう?
 わたしは、『わたし』を保てなくなれば、お姉様にわたしが恥を与えてしまうんだ。それだけは――例えどんな苦痛を味わおうと、どんな屈辱にまみれようと、例え命を失おうとも――それだけは! 絶対に、絶対に嫌……
 だから、お願い。
 わたしだったはずの人。
 わたしのなりたかった『私』。
 ニトロ・ポルカト!
 お願いだから、『あなた』にわたしを……殺させて。


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..ニトロは、夢に見た。
 瞼を閉じ、瞳を明けて、夢に見た。
 ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 流れ込んできた彼女の記憶の断片。
 流れ込んできた彼女の感情。
 心の欠片。
 瞳を閉じ、次に瞼を開いた時、ニトロは見た。
 姉の影で微笑む少女の心を。
 姉の前で泣きじゃくる少女の心を。
 ニトロはマードールによって重大なことを自覚させられた時、思った。――『嘆きのあるがために嘆く必要なんか、決してない』――いつか嘆きと出会うのだとしても、嘆きと出会う前から嘆く必要なんか決してないと。
 しかし、ミリュウには常に嘆きが訪れ続けていたことをニトロは知った。
 そして彼は最後に見た。
 彼女は姉に何度も助けを求めていた。
 言葉にはせず、それでも妹の心を支配し、その心をいつでも見抜く姉に大声で助けを求めていた。何度も、何度も、何度も!
 彼女が最後に姉に助けを求めたのは、クロノウォレスにティディアが発つ前夜であった。
 姉に頼んで弾いてもらったピアノの調べを聴いた後、その時、彼女は最後の助けを求めて姉を見つめていた。
 姉は――ティディアは――ミリュウの女神様は彼女を見つめ返していた。その黒曜石の瞳には妹の恐怖に歪んだ顔が映っていて……知っていた、女神は、妹の苦しみを知っていた。……知りながら、知っていながら、それでも妹を助けることはなかった。
 神は信徒を助けない
 それを信徒も悟っていた
 悟って、理解していた
 失望と共に。
 ミリュウの胸は空っぽで。
 空っぽな胸のすぐ上の肩にはとてもとても大きな重りが乗っていて。
 それでも彼女は潰れなかった。
 ミリュウの腹の底で蠢く気持ちの悪さと彼女の心を埋める失意と絶望が、ようやく少女を支えていた。
 だが、と、ニトロは思う。
 もし、そこで自ら己を支えられず、いっそ膝を突くことができたのなら……
 もし、疲れて倒れることができたのなら。
 彼女はどんなに楽だったのだろう。自身の苦悩を表に出して、みっともなくても身近な人にそれを知ってもらって、そうやって立ち直るための手を差し伸べてもらえたら――彼女にはそれを望める人間が傍にいたのだ――もしそうできていたら、どんなに彼女は楽だっただろう。
 しかし、それは叶わない。
 それを彼女自身が許さない。
 それを許せない彼女を作った女神が許さない。
 それを女神が許さないことを知っているミリュウが絶対に許さない。
 そう、常に、女神のあざなえる縄のごとき『呪い』が彼女を魂の髄から縛り付けている。
 女神が『女』となり“神”が消えても、その『呪い』はいつまでも彼女を自己防衛の手段としての逃避という選択肢にすら向かうことを禁じ続けている。
 そうあらねば、理想である『私』に相応しくないと。
 彼女こそ常に脅迫されていたのだ。女神に、また自分自身にまでも。
 そうして、ついにミリュウは砕けてしまった。
 砕けながら、なんという執念なのだろう、それでもミリュウは『ミリュウ』であり続けた。
 だが、長くはもたない。
 逃げることを禁じられたミリュウの瞳が向かう先は、一つしかなかった。
 すなわち『悪魔』しか彼女が救いを求められるものはなかったのである。
 道化を演じ、姉の真似事をして、そうやって悪魔を頼ったから、ミリュウは一時、力を得ることができた。プカマペという虚構を讃える教団を設けながら、彼女は悪魔からこそ力を得ていたのだ。
 それが西大陸で見せた堂々とした王女の姿を作った。
 仮にとはいえ『悪魔』とその手先に殺されることで、彼女は一時の解放を得ることができていたのだ。
 だが、それも長くはもたなかった。
 仮はあくまで『仮』でしかないのだ。
 彼女は悪魔と対面した時、それを知った。それを知り、彼女は己に希望はやはりなかったと確信した。悪魔は確かに一時彼女を救ったのだろう。しかし悪魔は救いの後には決まって絶望を与えるものだ。姉の愛を受けながら、羨んでも羨み切れない愛情を注がれながら、それを簡単に愚弄する男は彼女の目にはまさに『悪魔』そのものにしか映らない。辛苦の末にようやく宝物を手に入れた者に、実はそれは馬の糞なのだと哂うような本物の悪魔!
 そして悪魔も去っていき、彼女に残ったのは、そう、悪魔が落としていった希望ぜつぼうが一つだけ。
 縋れるものは、唯それ一つ。
 ニトロは全てを知り――――
「そうか……」
 彼は笑うしかなかった。
 何故? 何故?――と、色々考えても掴み切れなった彼女の動機。本当の目的が解ってからも、自分は、自分達は彼女の本当の心を完全には理解してはいなかった。
 ああ、人一人の嘆きの知ることの、何と難しく、何と不可能に等しいことか。
 ようやく解った。
 道理で何を考えても間違っているようで、それなのに間違っていない気がしていたものだ。
 ニトロはうめいた。
全部か
 そう、自分達は誰一人としてハズレを引いてはいなかった。自分達がずっと考え続けてきた『ミリュウ』の姿は全て正しかった。ヴィタの、ハラキリの、マードールの、ルッド・ヒューランの、皆が口にしたことは全て正しかったのだ。そして正しかったのに、間違っていたのだ。
 理由は一つではない
 正しい答えを一つずつ求めた時点で正答から遠く離れていた。あるいは一つ本質的な正しい答えがあると考えた時点で正答から目をそむけていた。
 全てだ。
 全て……――全て?
 そんなぐちゃぐちゃな動機を抱えて、心がまともでいられるものか。
 複雑怪奇な彼女の心。
 メビウスの輪を呈する表裏の混在。
 失望、軽蔑、落胆、絶望、敵意、希望、諦観、熱意、期待、嘲弄、悲愴、恐怖、疲労、憤怒、焦燥、嫌悪、憎悪、殺意、愛、恐怖! 懇願!! 切望!!! そんなぐちゃぐちゃな心を一度に抱えて、腹の底では自己嫌悪の赤子に脅かされて、そんな自分を冷静に理解できてしまうから逆に辛くて、それでも休む間もなく愛する神聖を失った姉の下でずっと王女としての重責を受け続けて……それでどうして精神のバランスが取れるものか。
 ニトロの眼前には、姉の掌の上でうずくまる少女がいる。
 と、ふいに姉がその掌を引いた。
 姉の掌でのみうずくまれていた少女は地面を失くして落ちていく。どこかに掴まれるところはない。ただ上空に何かが見える。底の無いどこかに落ちていく少女は、うずくまったままこちらを見上げている。
 こちらを見上げる少女の瞳の中にはパズルがあった。
 パズルは少女と姉の絵柄で作られていて、彼女のパズルであるはずなのに比率もおかしく姉の絵柄のピースが圧倒的に多い。
 と、ふいに姉の絵柄が何処かに去っていった。
 取り残された少女の絵柄は繋がるべきピースを失い、瞬く間にばらばらになる。
 うずくまる少女の中で、ばらばらになったパズルがうずもれるように積まれている。
 奈落へ落ちながらこちらを見上げる少女が突然叫んだ。
嫌だ!

 ニトロは飛び起きた。
 彼は見も知らぬ場所にいた。
 霊廟の『石像柱の間』にいたはずなのに、今、目の前には退色した空間が広がっている。

「……」
 奇妙な空間だった。
 例えるなら海抜0mの平たい島に彼はいた。
 彼がいるのは波打ち際であるらしい。海と地面の高低差は無いのに海水は島を飲み込まない。波は押し寄せているようでもあり、引いているようでもある。沖の波は……いや、あれは波というよりも海水が上下に不規則に蠢いていると言った方が適切だろうか。蠢く海は水平線まで続いていて、水平線で海と分かたれる空は――空は、無い。空は大地でできていた。天にかかるのは雨の降らぬ荒野であるらしく、地面の所々にはヒビが入っている。今にも落ちてきそうな土の天井は、しかし静かにこの空間に蓋をしている。
 足元は土の感触のする砂であり、ぐるりと周囲を見回すと広いようで狭い島の中心にちんまりとした宮殿があった。
「……」
 ニトロの頭は違和感で溢れ、気持ち悪かった。
 ここには島と、不気味に蠢く海と、大地でできた空と、小さな宮殿以外には何もない。
 何より一番おかしいのは太陽がないことだ。
 太陽がないのに、それなのにこの空間は明るい。では照明がどこかに? いいや、照明もない。全体的に光っているというわけでもないのに、全体的にのっぺりと明るい。明るさは夏の明るさに思えるが、それなのにやけに寒気を感じる。
 そうして彼の目の前には、薄いセピア色のフィルターをかけたように色褪せた光景が広がっていた。

 周囲を見回していたニトロは最後に己の体に目をやり、ここにいるのは自分独りであることを知り、
「……芍薬?」
 彼はいつも傍にいる家族を呼んだ。
 が、返事はない。
 あるのは、強烈な寂寞だけ。
 ここにいるだけで心の中ががらんどうになり、静寂に侵され、精神の活動を止めたくなりそうになる。そんな寂寞だけ。
「…………芍薬?」
 もう一度呼びかける。
 が、やはり返事はない。
「………………もしかして、俺は、死んだのかな」
 ここが『かの世』というやつなのだろうか――そう思ってみるが、しかしどうもそういう風でもない。何故かは説明がつかないが、それだけは違うと、誰かが凄まじい勢いで保証してくれている気がする。
 ニトロは、ふと、この空間に常に一つの音があることに気がついた。
 重い、深い音。
 地鳴りのような音。
 海鳴りか? と海へ振り返るが……違う。
 ニトロは気がついた。音は空からしている。天の地の底から雷鳴が轟いているのだ。
「何だ? ここは」
 ニトロは立ち上がった。立ち上がった時、彼は強烈な『実体感』を味わった。
「?」
 感覚が、異様に研ぎ澄まされていた。
 手の指の重み、髪の一本一本の存在、動作の際の筋肉と関節がどう連動しているのかを実感することができる。
 体のあらゆる輪郭線が知覚できる。
 普段はあるのかないのかぼんやりしている足の薬指の形も明確に思い描くことができ、また、足の薬指の爪が脳天からどれくらい離れた場所にあるのかも感じ取ることができる。
 描こうと思えば、目を瞑ったまま自分の三次元モデルを完璧に描けるだろう。
「……」
 ニトロは全身を改めてみた。『実体感』とそれによる知覚の通りに手足はあるし、頭もある。体もあるし、体はやはり黒い長袖と戦闘服ズボンに包まれている。
 が、
「持ち物は、ないな」
 ニトロはつぶやいた。どこかに落としたのかと周囲を見ても、やはり剣はない。後ろ腰にあったはずのナイフもない。もしやと思って靴の機能を調べてみると、やはり仕込みナイフなど武器と呼べるものは存在していなかった。
「あ」
 と、そこでニトロは思わず声を上げた。
 靴の機能を調べるために伸ばした両手の――その片方の甲に重大な変化があった。
 あの青い『烙印』が、跡形もなく消えている。
「……やっぱり、死んだのかな……」
 不安に駆られてつぶやくと、それはない、と、異様な確信が胸に湧き上る。何となく師匠しんゆうに『死んだと思う暇があったら先に状況を整理する』と怒られた気もする。それから彼はアドバイスをくれるのだ。本当に、こんな時には彼はへらりと笑ってこう言うだろう――『まずはストレス発散でもしてみては?』
 ニトロは釈然としない気持ちを抱え、何がなんだかわからない状況に、
「あー! あーーー!!」
 思いっきり声を張り上げてみた。どうも大声を出した実感はない。が大声を出す際の体の動きは確かに感じられて、大声を出したことによる喉の痛みもある。鼓膜が震えたことまで感じられた。一方、音はスポンジに向けて発したようにすぐにどこかに吸い込まれた。
「……ふむ」
 それでも、ちょっと気は晴れた。
 気が晴れたところで、思い至る。
「そうだ。もし死んでいるんなら、芍薬がいないのは変だな」
 芍薬は約束を守る。例え『かの世』というものが存在せず、存在したとしても人間とA.I.の行く末が違うのだ――としても、芍薬は必ず来てくれるだろう。
(それに)
 何より、あの状況から自分が突然死ぬという前提がまずおかしい。
 いくら虚を突かれてもあの戦乙女が主をやすやすと殺させるわけがない。むしろ、身代わりになってくれた芍薬に自分が涙を流している――そういう状況の方が可能性が高く、そして自然だ。
 と、なれば。
『死んでいない』という理性的な確信がニトロの胸から『死んだのかも』という不安を消し去っていく。
「てことは……なんだろうな」
 ニトロは周囲を今一度見回し、今一度、脳裏で一つ一つ状況を整理し直した。
「……」
 ぽんぽんとジャンプしてみる。ジャンプしている――と脳も体も体中に走る神経の一本一本に至るまでも知覚している、と知覚する。自分の体重をどのようにして筋肉や軟骨が受け止めているのかをリアルタイムでCTスキャン画像を見ているかのように(明らかに異常なレベルで)知覚できるのに、知覚の強度に比べてジャンプしたという満足感は驚くほど希薄だ。
「……どうも」
 実体感だけがありすぎる。自分が存在している、また自分がどのように存在しているという感覚だけが異様なほどに鮮烈であった。
 ――と、その時、
「!?」
 ニトロは慌ててその場から飛びのいた。ふいに足を誰かに掴まれた気がしたのだ。
「……」
 しかし、直前まで自分がいた場所には土の感触のする黄土色の砂があるだけだ。なのに、足首には掴んできた手の指の形までがはっきりとした感触として残っている。
「そういえば、見た目は砂なのに」
 ニトロは地に触れてみた。黄土色の砂には水分と何やら粘り気があって砂の粒子同士は簡単にはばらけず、ということはほとんど土だ。それなのに息を吹きかけると砂らしく巻き上がる。と、
「うわ!」
 ニトロは触れていた地から手を離した。
 確かに掌に爪を立てられたような気がしたが……手をどけた後には何もない。
「……何だ?」
 つぶやきながら、ニトロには思うことがあった。
 さっきから、常に誰かに見られている気がする。
 そして何より、この世界は、やけに、喉が乾く。
「――…………ああ、そうか」
 やがてニトロは思い当たった。
 この強烈な実体感――この感覚は、けして彼の経験にないものではなかった。
 意心没入式マインドスライドシステム。
 そう、ちょうど仮想世界バーチャルトレーニングでの身体感覚がこれにそっくりだった。
 意心没入式マインドスライドシステムは、まず、肉体の世界から仮想の世界に赴く時、その異世界で自分の存在を実感するために、初めに己の実体を強調して知覚させる。それから次第に知覚のレベルを引き下げていき、異世界に慣らしていく。深度レベルが浅ければ浅いほど異世界にあって自分は異物だと認識できるが、逆に深度レベルが高ければ高いほど感覚は異世界に馴染み、現実こそが非現実であり、自分はこの異世界げんじつの住人なのだと確信できるまでになる。トレーニングは主に浅いレベルで行う。そうすると『こう体が動く時=どう体は動いている』ということが先ほどのような強烈な知覚を伴う実体験込みで理解できるのだ。この理解は『体の記憶』を補強もする。その上、毎動作ごとに常に正しい形で心身に叩き込めるのだから……つまり、過去の人間が何百回もの反復練習をすることで心身に沁み込ませたことを、現在は数回の練習で同様の効果を得ることができるのである――そう、この感覚に、自分は明らかに慣れ親しんでいる。
 そして彼はまた、自身の『実体感』が急速にどんどん薄れていることを悟っていた。もう足の薬指の正確な形を描き出せはしない。髪は一本一本ではなく全体的に頭皮にある。そのうち筋肉や関節の動作を意識せずとも全く普段通りに動かせるだろう。
 と、いうことは、
「もし意心没入式マインドスライドだとしたら相当な深度レベルだぞ……」
 例えばここで死んだなら、本当に実世界でも肉体が“死を認識”してしまうようなくらいに。下手をしたら、個を失い世界に埋没してしまうほどに。
「――それにしても」
 現状が本当にマインドスライドによるものだとして。
 ニトロはその前提で、改めて最初……いや、“最初の直前から”の状況の推移を把握しようと努めてみた。
 まず、自分はミリュウ姫を押さえ込んだ。関節も極まり、相手の重心をこちらの体重で制圧し、完全に動きを殺していた。それから自分はアンドロイドに剣を向け勝利を宣言した、と、そこで視界がブラックアウトし、その後、突然頭の中に夢を見るような形で大量の『情報』が流れ込んできた。その『情報』は、ミリュウ姫の記憶に基づいているようであった。いや、“であった”ではなく、おそらくそれそのものであるのだろう。しかし、あれほどの内心の吐露を記憶ごと他人に見せることをミリュウ本人が望むだろうか。……望むまい。正直、もしそれを望んでいたとしたら彼女を露出狂的精神性超絶ドMだと認定せざるを得ない。では? それらの要素から鑑みて導き出されるのは――これまでの要素からこのようなことを可能にし得る人間は――
「パトネト王子だな、間違いなく」 
 何らかの不意打ちを受けて自分は死んでしまった、と思うよりずっと建設的な結論に至り、ニトロはうなずいた。
 相変わらず喉はひどく渇いているが、渇いているのに水への欲求がないことも自分の仮説を証明しているような気がする。
「それなら――」
 ニトロは自分の考えを要所で口に出し続けていた。仮想世界において非現実を現実として認識しない手段の一つとして、普段と違う行動を取り続けるというものがあるのだ。黙考すべきところも口に出し続け、
あれが何のためにこんなことをしたのか、の理由かな」
 ニトロはこの世界の唯一の建造物を見定めた。
 と、
「うわあ!」
 ニトロはまた誰かに足を掴まれたような気がして飛び跳ねた。
 反射的に足元を見るが、やっぱり何もない。
 ふと誰かに呼ばれた気がして振り向くと、そちらには、青が色褪せ鉛色に見える海が不規則に蠢いているだけ。
「……嫌な感じだなぁ」
 つぶやき、そこでニトロは思った。
「――嫌な、感じか」
 直近で『嫌』という感覚から連想されるものは、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 先ほど強制的に知らしめられた記憶を考慮すれば……そうだ、パトネト王子は王城で会った時、何かを切実に真剣に訴えかけてくる目をしていた。あれは、きっとそうだ、あれも懇願の瞳であったのだ。
 思い出されるのはケルゲ公園駅前で“殺した”アンドロイドの複雑な感情の表れ。
 ――怒りに満ちているのに、ひどく哀れをもよおす声
 ――敵意に満ちているのに、救いを求めているかのようにも聞こえる声
「救いを求めている……か」
 まさか彼が姉を――殺して――楽にしてやってくれとは言うまい。間違いなく、救ってやってくれと、ルッド・ヒューランと同じ思いを抱えているのだろう。
 ならば、
「ひょっとして、ここはミリュウ姫の精神パターンを元に作った心象世界ってやつなのかな?」
 あるいは――と思って、ニトロは顔を歪める。
「……まさか、ミリュウ姫の心そのものの中、なんてとんでもないこと言い出さないよな……大バカの弟様は」
 突然首を撫でられた気がした。
 ニトロは声を上げて首を縮め、その首の内側で渇きのあまりに食道がくっついた気がして咳き込んだ。咳き込みすぎて吐き気までしてくる。ああ、本当に吐きそうだ
「……」
 ようやく落ち着いたところでニトロは息を大きく吸い、その拍子に見上げた空に――ヒビ割れた荒野の天井の、そのヒビの奥からこちらを覗き込んできている無数の瞳を見た。恐ろしい光景だった。
「…………それじゃあ、この雷みたいな音は、たくさんの人の声が合わさった音か」
 ニトロの脳裏に無数の目と大きな口を持った『巨人』が蘇る。ヴィタはあれを『悪夢を元に造型したかのような巨人』と評していたが、なるほど正解、実際にそうだったらしい。
「やっぱり、間違いなさそうだな」
 また足を誰かに掴まれた気がしたが、ニトロは今度は驚かず、むしろ鼻息を荒く吐いて足を動かした。無念そうな音がふいに吹いた風に乗って背後からやってくる。それも無視してニトロは歩を進めた。
「本当に嫌な世界だ」
 言いながら、歩き出した途端に湿地帯を歩いているかのような重みを足の裏に与え出した地の上を、それも努めて無視してどんどん宮殿に向けて歩いていく。
 宮殿に近づくにつれ、ニトロは身にかかる圧力が上がっていることに気がついた。体が上から押さえつけられている。気を抜けば組み伏せられそうな勢いだ。しかも厄介なことに、圧力は気まぐれに向きを変える。今は上から真っ直ぐ押し付けてきていたかと思うと、斜めに、横から、前から、縦横無尽に弄ぶように圧力の方向を変えてくる。油断すれば倒れ、転び、もみくちゃにされて血反吐を吐きかねない――そういった暴圧の嵐であった。
 が、一方で、ニトロはそれに反発する力が胸にあることに気づいていた。縦横無尽に向きを変える圧力に対し、的確に対応して体を支える力。これは、自分の体の中だけから生み出されているとはニトロにはどうしても思えなかった。そう、これは、まるで常に誰かに守られているような……
「芍薬?」
 ニトロは気づいた。守られているよう――ではない。守られているのだ。
 この世界がミリュウの世界で、ここに送り込んだのがマインドスライドシステムだとして、ならばそこにいる『ニトロ・ポルカト』のデータを安定させているオペレーターは何か。
「芍薬しかいないよね」
 ニトロは笑み、理解した。
 自分はミリュウ姫に勝っていた。あの状況になれば、例えミリュウ姫の首輪がどうあっても爆発するようになっていたのだとしても、ハラキリに手配してもらっておいた『爆弾処理の環境』に無理矢理放り込むことは叶っていただろう。
 しかしあの時、勝利すると同時に試練を課してくる相手が代わったのだ。
 パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 あの子はゲームが、特にアドベンチャーゲームが好きだと聞くから、ここも同じような発想だろう。クリア条件:お姉ちゃんの救出――と言ったところか?
「どう救出すればいいのかは解らないけど、まあ、そこから考えさせるゲームってことかな。どうせさっきの前情報がヒントってところだろう。って、難し過ぎるわ! こんなゲームが売り出されたらユーザーはメーカーに苦情を入れるよ、うん、このゲームに苦情入れられるんなら俺は迷惑極まるクレーマーになりたい」
 気を抜くと本当にここを現実だと思い込みそうになる『実感』の中、ひたすら渇く喉を動かし喋り続けながらニトロは歩く。
 宮殿へ。
 さながら今、自分の背後ではオープニングテーマでも流れているかもしれない。
 そして自分の周囲には、目には見えない『ガイドフェアリー』が飛んでいるのだ。ゲームならヘルプをかければ攻略のヒントくれる存在。が、このゲームは随分辛いから、妖精はこの身を守ることしかできない。
「いやいや、それで十分だよ」
 まるで芍薬に言うように言いながら――状況からして芍薬は自分マスターを人質に取られている。何にしても協力せざるを得なかったはずだ――ニトロは息を荒げて歩いていた。
 宮殿への道のりはそんなに長くないのに、異様に疲労する。圧力に翻弄されるだけならばまだいい。その上、時折誰かが足を掴んでくる。その手を振り払うのに無駄に力を使わされる。靴底に粘りつくような砂土のしつこさも増していき、そうして体力が削られるに比例して体も心も重くなる。ミリュウとの決闘でも息は乱れていなかったのに、百歩にも満たない内にこの有様だ。
 凶悪な試練。
「凶悪な試練、か」
 現在、自分は芍薬と共にそれに挑んでいる。
「……なんだ」
 そう考えると、なんだ、何も変わってはいないではないか
 ニトロは頬に空笑みを刻む。
 本当に何も変わっていない。
 状況は確かに変わった。が、結局は、ロディアーナ朝王家の一員に、姉・妹・弟と立て続けにえらい迷惑をかけられて、自分こと『ニトロ・ポルカト』はそれをいつものように芍薬の力を借りて撃退しようとしていることに変わりはない。
「ええい、くそ」
 思わずニトロは毒づく。
「次から次へとろくでもない。こんな王家、いっそ一度滅んでしまえ」
 毒づくと何だか体が軽くなった。つっかえ棒のようなものが体内にはまった気がする。
 足の裏に粘りつく沼が消える。足を掴んでこようという手は千切れる。体を押し込んでくる圧迫感も吹き飛んで、それらは全て路傍の石となる。
 そこで、ニトロは気づいた。
「ちょっと蝕まれかけてたか」
 この世界に。
 ミリュウの心象風景に。
 ひょっとしたら、ありえたかもしれない自分の未来に。
 凶悪な試練――思い直せば、その理解の裏には、周囲の環境と周囲の環境が生む苦しみを『自分の実体験として取り込んでいる感覚』も混じっていたように思う。
 ――違う。
 それらの苦しみはあくまでこの世界を生んだ者の心象に過ぎない。実際に今それを体験しているからといって、それはあくまで他人の体験の仮想的な追体験に過ぎない。自分にとっての『凶悪な試練』はこの仮想と追体験に彩られた世界に放り込まれた現状のみであり、ここで体験する苦しみはあくまで自分のものではないのだ。それを自分の物と勘違いすれば、自分の中にこの世界が侵食してしまう。
『共感はさせても同調はさせてはならない』――マインドスライドシステムの大原則。
 商用のものは心のどこかに常に違和感を抱かせるなど同調の排除が神経質なまでに徹底されているが、どうやらこの世界は違う。
「大丈夫か? ここを支えているソフトは」
 つぶやいたニトロは、つぶやいたことでその点に自分を気づかせたものが何か、また、同調しそうになっていた苦しみを傍らへ吹き飛ばしたものが何であったのかにも気づき、苦笑した。
「俺はやっぱり『ニトロ・ザ・ツッコミ』か」
 大迷惑の原因の、あのバカ姫の目を引いてしまった力が、結局自分をこれまで助けてきていたのだろう。そして、今も、これからも。
「習い性って言うか何て言うか、まあ、これが俺の性分なのかな」
 調子を取り戻したニトロは呼吸の乱れもなくなり、速度を上げて宮殿に向かった。
 小さな宮殿は近づくにつれ、やはり小さいと感じる。
 まるで――
「この島は、ティディアの掌か?」
 そう、宮殿は、この島にうずくまっているような風体をしている。
 そして――
「……されども、これはあくまで『ゲーム』にあらじ――か」
 宮殿に辿りついたニトロは、宮殿の門の横にだらしなく座る人形があるのを見た。
「やあやあ、これは珍しい」
 門柱に力なく背を預けて座る人形が……ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの姿をした糸操り人形が、やけに演劇がかった口調でニトロへ言う。
「こんなところにお客さま。はじめてのお客さま。いらっしゃい、お客さま」
 糸操り人形の、肝心の糸は切れていた。本来なら滑稽な動きとともに語りかけるのだろうがそれは叶わない。長い間外に放置されていたらしく、木目の浮いた肌も朽ちかけている。ミリュウの姿の人形は口だけ動かして、
「ところでお客さま、よろしければ回れ右しておかえりなさい。こんなところに面白いものはありません。一生懸命れんしゅうしました歌や踊りをお見せできればよいのですが、今となってはわたしはそれができそうにないのです。お客さま、よろしければ、おかえりになるまえにひとつお聞かせねがえませんか」
「何をだい?」
 ニトロが問うと、ミリュウ人形はぱくぱくと口を開閉させてから、
「わたしの糸はどうなっていますか? ある日、ぱたりと体がうごかなくなったのです。糸はどうなっていますか? わたしを動かしていた御方はどこにいかれたのでしょう」
「糸は……切れているよ。操っている人はいない」
 ミリュウ人形は驚いたようにぱくぱくと口を動かした。
「お客さま! それではわたしはやはりあなたに何もお見せできません。おかえりになるほうがくを指差すこともできません。お役にたてぬわたしはただの木偶。糸は切れていますか、糸は切れていますか、糸は切れていますか」
 ぱくぱくと口を動かし、ミリュウ人形はため息のような音を出した。
「わたしの、糸……」
 それきり人形は何も言わなくなった。
 ニトロは宮殿の門を押し開け、中へと入っていった。

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