6−e へ

 ケルゲ公園駅前ロータリー上空で飛行車スカイカーから飛び降りた二人はすぐに落下速度を緩めた。衆人の注目と共にマスメディアのカメラが一斉に向けられ、警察車両のライトが二人を照らし上げる。
 皆が見た。
 一人は紅を基調としたアデムメデスにはない情緒を匂わす艶やかな衣装を纏った女性であることを。そしてその女性に肩を組むように抱えられているのは、決意を顔に刻む黒衣の男であることを。
 落下速度が落ちたことで悲鳴は止み、代わって二人の正体を探る声が地上を埋め尽くしていたが、二人がライトアップされるやそれもすぐに静まっていた。
 その正体を誰もが察するのに、さほど時間は要らなかったのである。
 目にも鮮やかな見慣れぬ服は、噂に聞く遠い辺境の民族衣装であろう。
 そうであればその女性は――その女性型アンドロイドは、音に聞く『戦乙女』に違いない。
 そうだ。
 誰もが確信していた。
 まさに戦乙女を伴い、『ニトロ・ポルカト』が降りてくる!
 芍薬アンドロイドに内蔵されている超小型反重力飛行装置アンチグラヴ・フライヤーが二人を地上へ運ぶ速度は特に意図して設定されたものではなかったが、ここで思わぬ演出効果を生んでいた。
 これより以前には『女神』のために祈りが捧げられていた場所に、皮肉にも裏腹に、今、祈りを捧げる者らに『悪魔』と呼ばれる少年が降臨している。
 美しいまでに正反対の存在の出現――ゆっくりと厳かに
 突如として世界観の変容する瞬間を体感させられた群集にとって、その光景は神秘的ですらあった。
 さらには芍薬の美しい紅の衣が穏やかな上昇気流にはためき、その顔は人形にんぎょうであるが故に一種の神々しさを湛えている。
 一方で、華々しいそれに抱えられる人間に華はない。華はないが――その『映画』に使われ、また『赤と青の魔女』を討った者が着ていた物にもよく似ているその黒い戦闘服に身を包む彼には、何よりも華々しさに勝る存在感があった。
 無敵の『クレイジー・プリンセス』を抑止できる『恋人』。
 トレイ一つで狂乱する王女以下恍惚の暴徒を鎮圧した『狂戦士』。
 スライレンドにて民を『赤と青の魔女』の牙から逸らし、守りきった『救世主』。
 そして、突如として襲い掛かってきた『巨人』を見事返り討ちにした『ニトロ・ポルカトとその戦乙女』。
 彼が来たならば――!
 何が起こるとも何が始まるとも根拠はないが、それでも否が応にも引き起こされる猛烈な期待感。神秘性すら伴う新たな幕開けに興奮が巻き上げられる。
 そこかしこから歓声が轟いた。
 ロータリーにできた『舞台』の中、ローブを着る『プカマペ教徒』の多くも歓声を上げている。歓声に負けじと叫ばれる罵声とブーイングも、やはり『プカマペ教徒』の中から立ち昇っている。特に『悪魔』を殺すための生贄ひとがたを取り囲む集団からは、激しい威圧的な叫び声が。
 ニトロと芍薬は、その威圧的な叫び声の根元近く――黒と白線の作る境界へ向けて進んでいた。
 もっと近くで観たいという観客達が『舞台』の半径を狭めるが、半面『舞台』内の二人の予想着地点からは自然と人が避けていき、そこに見る間に小さな円形舞台が新しく作り上げられていく。望ましい展開だ。芍薬は円形舞台のど真ん中に降りるよう進行方向を微調整し――
 やがて芍薬が足を着き、次いでニトロ・ポルカトが再びケルゲ公園駅前に降り立った。
 その瞬間、二人を取り囲む人々が一番の声を上げた。
 歓声と罵声が爆発して入り混じり、分けのわからないわめき声となって大気を揺らす。
 その中心で、ニトロはしばし、周囲を自信に満ちた眼で見回していた。ティディアに付き合わされる内に見につけたショーマンシップ。そう、これは『ショー』だ。『ショー』でいい。だからそれに見合った態度を示そう。そうして敵に、敵を上回るパフォーマンスを見せつけてやろう。
 やおら、凄まじい喚声が弱まり出す。
 弱まり出し、声を上げる人々の集中が途切れ、声を与えていた立場から演目を与えられる立場へ人々の心が移ろう――まさにその瞬間、
「やあ、隊長」
 戦闘服の襟に仕込まれたマイクを通し、ニトロの声が警察車両のスピーカーを通じてケルゲ公園駅前に響き渡った。
 絶妙なタイミングであった。
 空腹を感じると同時に出された一皿。
 喚声が彼のセリフに応えてざわめきに落とし込まれ、劇を進行させるに相応しい空気を作り出す。
 そしてその空気を作り出すと同時に、彼の声は聴衆の興味を大いに刺激していた。
 ――『隊長』とは?
 そしてまた一方で、ニトロが聴衆を刺激して生み出した大きなその関心は、ロータリーの辺縁から後方にかけて起きかけていた“中心部に近づこうという暴走”の出鼻を挫いてもいた。
 既にショーは始まっているのだ。
 協力者である警察がいたる所に宙映画面エア・モニターを投射し、同時にビル群のスクリーンにも“中心部”のが映されている。
 どこででも観劇が可能になった以上、ショーの中心部にいなくてはならない――ということはない。中心部へ近づこうという意思はなくならないまでも、それでもそのために人が倒れてしまうような勢いはニトロの一言によってきっちりと殺がれていた。何よりショーが始まった以上、ここで下手に騒ぎ立てて演目を止める観客はいない。いたとしても、注視する選択をした大多数の観客の目に圧殺されて押し黙る。
 やがて衆人環視の真っ只中――ニトロの立つ半径3mほどの円い舞台の中に、白い戦列から押し出されるようにして一人の大男が現れた。彼を知る人々が息を漏らす。彼はドロシーズサークルにおける『ニトロ・ポルカトの冤罪騒動』で注目された異邦人、ネコ科の起源を持つ獣人ビースターであった。
「久しぶり。少し痩せたみたいだけど」
「は……お陰様をもちまして、あの、仕事が順調で……」
 突然の呼び出し、さらには親しげなニトロの態度にすっかり恐縮した様子で獣人ドーブが答える。その声は芍薬の指向性マイクが拾い、主役の声と同じく周囲のスピーカーから流されていた。
「評判良いみたいだね。また今度食べに行くよ」
 ドーブは嬉しそうにしながらも頭を掻き、大きな背を仔猫のように丸めて身を小さくする。堂々とした少年と敬意のために萎縮する大男の作るこの光景は、王子と民――皆にはそのようにも観えた。
「それにしても……そのシャツは……」
 ニトロが示すのは、ボケをドツくツッコミのシルエットがプリントされた純白のシャツだった。見るからに仕立てがよく、シルエットの下には『ティディア&ニトロ親衛隊』とロイヤルフォントで書かれ、しかもボケとツッコミはそれぞれ金色の冠を戴いている――それを見た時、ニトロの肩に、マードールによって自覚させられた重圧がじわりと浸透してきた。
「良い出来でしょう!」
 ふんと鼻息を鳴らし、萎縮から一転、誇らしくドーブは胸を張った。
(良い出来だけどもね!)
 相手に悪気がないからこそ余計に重圧が活き活きと圧しかかってくる。ニトロは苦く笑いたい気持ちを抑え、内心の声も全力で内心だけに抑え込み、目的遂行のための芝居を続けた。
「それじゃあ、それを着ているのは」
「は! 皆、貴方様の士であります!」
 気をつけをして力強く言うドーブに合わせ、彼の背後で勇ましい声が上がった。
 ニトロは微笑み、
「ここに来る途中、この場が“混乱”しないよう抑えてくれている姿を見たよ」
 周囲にも目を配り――ニトロは一瞬、吹き出しそうになった。白シャツを着た者の中にスライレンドで見た中年男性の顔があった。目が合い、男性が気恥ずかしそうにうつむく。その隣には妻であるらしい女性までいた。男性にはビルの上から飛び降りようとしていた時にはなかった健康で幸せそうな顔色があり、ニトロの胸に喜びがこみ上げる。彼は自然と微笑み、
「ありがとう」
 その言葉には、芝居の要素の一欠けらも存在しなかった。
 笑顔は元より言葉に込められているのもただ真心のみ。
 騒動のために無用な怪我人を出したくない。その想いから生まれた言葉は確かに人の心に届き、ドーブは恐縮のために今度は背を逸らし、辺りからは感激の声が漏れた。誰かが拍手をしたらしい。遠くで聞こえた手を打つ音が万雷の拍手と変わり『この場を“混乱”させなかった者達』へ祝福を与える。
 となれば、立つ瀬がないのはドーブらと競り合っていた者達である。あるいはドーブらの制止はくせんを突破して狂信的な『ティディア・マニア』と争おうとしていた『ティディア&ニトロ・マニア』の過激派である。
「でも、この後は、俺が全部引き継ぐよ
 一瞬のざわめきの後、大きなどよめきが空気を揺らした。
「まあ、世の中には喧嘩祭りなんてのもあるけどさ……それはそれ。舞台の外で怪我人が出ちゃあ“役者”は申し訳なくってしょうがないからね」
 ニトロは――そこに限りない感謝を込めながら――告げた。そして彼は、今一度己の中で覚悟を改める。これは『ショー』なのである。その役者となることで今後凄まじい不利が自分とティディアとの間に生まれてしまうことは判っているが、それは現在気にするべきことではない。ミリュウが捨て身であることを覗かせている以上、保身を考えては彼女に後れを取ろう。油断はしない。今はただ、敵意も殺意も不安も偽りも重圧も何もかもを呑み込み突き進む。そう腹を括った彼の言葉には強力な存在感があり、存在感はそのまま聴衆の心に深く浸透する。
 彼はさらに言った。
「実は、さっき、ミリュウ姫と会ってきたんだ」
 ケルゲ公園駅前が、再度激しいどよめきに揺れた。
「勝手な『企画』だし、こういう混乱が起こるのは分かりきってるし、それに、もしかしたら乱闘騒ぎなんかが起こるかもしれない。……こんな事に付き合う気もなかったから、やめるように言おうと思ったんだけど」
 ニトロの声には淡く怒りがある。彼が筋の通らぬことを嫌うことは知られている。もしや本当に『ショー』は当事者二人の密談で終わってしまったのか? いいや、彼の口振りはそれを否定する流れだ、それなら?――群集のざわめきは、その動揺を如実に現していた。
 ニトロはため息をつき、期待に応えた
「止められなかった」
 またも大気がどよめきに揺れた。期待通りの展開に
 続けてニトロは、結末後を含めて状況をコントロールしやすくなるよう相手に“逃げ道”を残すために――またそうすることで、逆に相手にこちらが選んだレールの上を進むよう強制するために言葉を選び、
「どうやら、ミリュウ姫に、俺は気にいられていないらしくてね」
 さらに空気が揺れた。ほとんどは「え?」などと疑問が弾けた音であったろうか。ニトロの前でドーブは目を丸くし、彼らを囲む最前線から最後尾まで驚き以外の顔はない。
 当然だろう。
 あの『姉と姉の恋人』を祝福していたミリュウ姫を、ニトロは今、否定したのだ。暗にこれは彼女が姉の不在の間に国民のために用意した単なる『ショー』ではないのだと暴露しながら。
 そうして彼は、彼にとって大きな覚悟を以て次の言葉を紡いだ。
「だから、どうやらこれはテストでもあるらしいんだ」
 ドーブに語りかけ、実際には観客全てに語りかけながら、ニトロは肩をすくめた。
「あのお姉様に、本当に相応しい男かどうか。自分の祝福する姉の未来が、本当にこのまま祝福できるのか、果たして祝福したままでいいのかどうか――姉を愛する妹として」
 軽く言いながらも、ニトロは心の締め付けられる思いだった。しかし、これ以上に力を持つ流れはない。
「『もちろん、わたしごときが『クレイジー・プリンセス』の代役を務められるとは思いません。精一杯で、あの程度のことです』」
 ニトロはミリュウが幕開けの口上に使ったセリフを一言一句違わず暗誦し、
「とはいえミリュウ姫は別に嘘をついていたわけじゃない。『お姉様が不在の間、ポルカト様とわたしとで、アデムメデスを驚かせましょう』『わたしは一所懸命、ポルカト様に挑みます。それでもなお敵うとは思えませんが、それでも懸命に』その通りだよ。何しろアデムメデス以前にまず俺が驚かされたもの。そして――希代の王女、愛する姉に本当に相応しいのか。自分の起こした事件程度も取り扱えねば話にならない。きっと、いざともなれば姉を守れる騎士たる証も見たいんだろう。だからこそミリュウ姫は本当に、一所懸命、本気で挑んできている。『伝説のティディア・マニア』からの挑戦状。花嫁を得るために乗り越えなくてはならない妹からの最終審査と言ったところかな。アデムメデス神話になぞらえるなら、花の女神を娶ろうという男に課されたのは命を懸けなければ越えられぬ試練
 その瞬間。
 一瞬たりとて沈黙を作らなかった群衆が、押し黙った。
 ニトロ・ポルカトはどこか気楽な様子で語っている。されどその口に偽りが作る陰は無く、むしろ堂々と気楽に語っているからこその真実味が溢れている。
「俺はティディアと付き合ってないって何度も言ってるのにねぇ」
 ため息混じりの『お約束』の言葉は……いつもは話の枕くらいには笑顔を取れる言葉は、この場では虚しく、空々しく響いた。
「まあ、そういうわけだから、この件は王族の私的な面も強いようでね」
 裏に公的な面も含めながら“私的”を強調し、続けて、
「だからこそ舞台の外で怪我人が出るってのは、申し訳なくってしょうがないんだよ」
 ニトロはそう繰り返した。
 理解と納得が定着するのを待つために一定の間を置き、それから
「けれど、舞台の内で怪我人が出るのは止められない
 そう力強く言い切られ、観衆は戸惑った。怪我人が出るのを嫌がりながら、今度は舞台内とはいえ怪我人が出ることを積極的に是認するようなニトロの物言いに、彼の先の言葉に理解と納得をしていたからこそ大きく戸惑わされてしまったのである。
 すると戸惑いは、当然の流れとしてこの戸惑いを消して欲しいとニトロに訴える。
 彼は尊大にも映るほど無闇に自信を込め、
「ミリュウ姫の、このくにに栄光を約束する女神のためを願う信徒の『闘争』に自ら参加しようって言う者がいるのなら、ミリュウ姫の言う通り、いくらでも飛び入り参加をどうぞ」
 ニトロは一度周囲を見回した。戸惑いの多くはまだそこにいる。
「ただしご注意を。今後、俺は全力で受けて立つことにしたから」
 少々生意気なニュアンスを滲ませてニトロは言った。周囲を見回す最中に特に敵意のある――殺意も感じる強烈な眼差しを確認した方向へ背を向け、演説を続ける。
「『教団』の攻撃、これから俺はそれと思しきものを全て潰す。相手もお姉様のために必死だからね。あの生真面目な優等生がこんな『ショー』を開けるだけの小さなクレイジー・プリンセスに化けるくらいには
 その言葉は、ニトロのセリフの中で最大の力を持っていた。そしてその力は、この頃には彼の意図を理解し始めていた少数の人間だけでなく、未だ戸惑いの中にあった多くの観客らにも彼の思惑を広く理解させていく。
 ドーブらの働きに感謝を示しつつ、しかし今後はその働きは不要だと彼が示唆した意味。
 さらにニトロは言う。
「だからついでに、どんな飛び入りもいくらでも相手にしてあげるよ。何だったら殺しにかかってきてもいい。でも俺は絶対に手加減しないから、その場合は参加者に怪我人が出るのを止められないし、当然、止めない。それでも良いならいくらでもかかってくるといい」
 逆に言えば、こちらは怪我しないし怪我をするのはそっちだけだけどね――という“上からの余裕”をこれでもかとばかりに彼は示す。
 その挑発は、彼の思惑通りにある対象を強く刺激した。もちろん、それはニトロ・ポルカトを快く思わぬ者であり、ティディアとの交際を否定しながらティディアとの婚姻への険しい道を進むという矛盾したことをのたまう『無作法者』への敵愾心である。
「あ」
 と、誰が叫んだのだろう。
 舞台の中心に立つニトロに向けて飛来するものがあった。
 彼の背後から――弧を描いて――ニトロは気づいていない。命中する! それに気づいたドーブも、いくら獣人の身体能力があっても不意打ちにあっては駆け出すために身を沈めることまでしかできない。
 が、
「おっと」
 他の誰でもない、ニトロが、瞬時に身を翻すや飛来してきた物を掌で柔らかく受けていた。受けるだけでなく、かつそのまま止めず、飛来物のベクトルに逆らわぬよう全身を使って腕を振り回して勢いを殺ぎ落とし……最後に軽く頭上に放り投げ、完全に無害化した上で改めて受け止めてみせる。
 それはまるで熟達した舞踏家の舞であるかのようだった。
 目撃者達は彼の反射と体捌きの見事さに息を飲み、ただただ歓声に勝る沈黙を彼に送った。
 そしてニトロ本人も、存外うまくいった自身の動きに内心驚いていた。
 何かが飛んでくること、誰かが何かを投げようとしていることは、それをセンサーで感知した芍薬から報告を受けていた。続けて飛来物が何であり、どちらからこちらに向かってくるか――その報告も芍薬から受け、だから突然の飛来物にも的確に対処できたのだが……しかし、これほどうまく受け取ることができるとは思っていなかった。駄目そうだったら即座に芍薬に体を操作してもらう手筈だったが、その必要もなかった。もちろんこの成功の裏には、投げつけてきた者が人込みの中にいるため全力投擲ができるわけもなく、命中精度を重視したためであろう速度が緩かった故もある。もしかしたら飛来物が食品であったことも心理的に良い結果をもたらしていたのかもしれない。それとも……そうだ、そう言えばこの手のものを投げられた時の対処法、などという格闘プログラムも仮想世界内トレーニング用にあった。それを知った時、こんなの無駄じゃないか? と師匠に訪ねたこともあった。するとハラキリは『いつトマトを投げつけられるか分からないでしょう? 華麗に投げ返しなさい』と悪戯っぽく言ったものだ。『それから手榴弾とか投げられた時にはダイレクトキャッチ&全力リリースを』――その時は『無茶言うな!』と彼に返したものだったが……どうやら無駄だと思っていた努力が、望外にも最高のタイミングで実ってくれたらしい。
 ニトロは笑った。
「これも定番かな」
 彼の美技に酔っていた観客の意識が取り戻され、彼の手にある白い楕円がいくつものエア・モニターに映る。
 その正体を皆が知った時、ドーブが牙をむいて一方を睨みつけた。獣人の本物の怒りを初めて身に浴びたのであろう、彼の視線の先でプカマペ教徒――『マニア』達がびくりと震える。飛来してきた方向は判っても、この獣人は誰が投げたのかは判っていまい。であれば、犯人が明らかとなるまでに誰もがその牙の餌食となるかもしれない。まさに本能的な恐怖が発生し、集団の中を伝播する。ドーブが一歩踏み出そうとし、恐慌が起こりかける。
 と、そこへ、ニトロが身を割り込ませた。
 怒りを露とした獣人より先に足を踏み出すことでその怒気をなだめ、それと共に進攻をも自然と止めさせたニトロは、そのまま卵を見つめながら歩を――ドーブが見つめていた方向へ進めた。
 親衛隊隊長の怒りの矛先はいずこかへ逸れたが、代わって向かってきたのは『敵』の大将その人である。『マニア』達の間に動揺が走った。
 ニトロは人の作る壁に真っ直ぐ向かう。止まる気配はない。彼の足の勢いは踏み出された時のまま鋭く――彼は行く先を一瞥した。彼の目には意思があり、すると、誰に命じられるわけでもなく、彼の前に道が出来ていった。
――<<ソノママ真ッ直グ……少シ右>>
 ニトロが外耳内に着けた超小型マイクを通して、彼にだけ芍薬の声が届く。彼は忠実に従い歩き、やがて首を吊られてぼろぼろの人形ひとがたを掲げる集団のほぼ中央、ローブのフードを目深に被った一人の教徒の前で止まった。男性であるらしい教徒は体を固め、フードの奥の奥に顔を隠そうとうつむいている。
 卵を差し出し、彼は言った。
「沸騰したお湯に冷蔵庫から出したばかりのものを入れて、七分」
 あまりに意表を突かれ、教徒が顔を上げる。薄影の中にニトロとそう歳の変わらない青年の顔があった。
「すぐにお湯から出して、余熱で大体三分間火を通す。黄身が半熟と固ゆでのちょうど中間になっていたら大成功。少々の塩とたっぷりの荒挽き黒胡椒をつけて……これが、あいつの好きなゆで卵のレシピ」
 ぽかんとして、青年はニトロから差し返された卵を受け取った。いや、不思議と受け取らされた。
 ニトロはにこりと笑い、
「腐ってないなら、お試しあれ」
 それからニトロは無残にも首を吊られた分身ひとがたに目をやった。周囲に幾ばくかの緊張が走る。それだけ人形は手酷い作りであり、侮辱であった。が、
「それにしても面白くもなんともないな。工夫もないし、品もない。効果と言えばあなた達の格を下げるだけだ。憚り無くもティディアのためと言うんなら、もっと粋にこなしてみせなよ」
 怒りもなく、呆れもなく、ただ純粋な酷評だけを述べ、それ以上は何も言わず、責めず、ニトロは踵を返した。足を踏み出す度に再び開いていく道を辿り、颯爽とドーブと芍薬の立つ場へ戻る。
「ちなみに俺はかりかりベーコンの粉末ふりかけをつけて食べるのが好きなんだけどね」
 悪戯っぽく笑って言うニトロに、ドーブのみならず、皆、気を呑まれていた。
「さて、それでどうかな?
 俺を信頼してくれる?」
 ニトロの真意――信頼して、守らないでいてくれるか――そう問いかける彼に、ドーブのみならず、皆、圧倒されていた。
 神技的な動きを見せられ、直後、誰の仕業と問うこともなく犯人(追求がなくとも誰もが真犯人と確信していた)と向き合い、その上で実に彼らしい度量も重ねて見せつけられては……どうにもこうにも……従わぬわけにはいくまい。
 ドーブは思わずくっと喉を鳴らし、満面の笑みを浮かべた。
「また逞しくおなりになられた」
「ありがとう」
 礼を受け、ドーブは光栄とばかりに頭を垂れる。同時にそれは恭順の意思表示でもあった。
 その光景に異論を挟む声はない。
 逆に賛意を示す歓声が上がった。
 先のニトロの美芸に遅れて賛辞を送ろうという意思も加わり、それは大きな喝采となる。ライトなノリでやってきた『プカマペ教徒』はもちろん手を打ち囃し立て、過激な『ティディア&ニトロ・マニア』は格の違いに出番の無さを思い知らされ、明確に敵方であるはずの狂信的な――ニトロへ殺意にも近い視線を送っていた『ティディア・マニア』らは、今や猛毒を抜かれて悔しさだけを顔に滲ませている。
 完全に、この場における人心はニトロの掌中にあった。
 彼はこの時――これは『ショー』なのである。だが、単なる『ショー』ではない。極めて重大な『ショー』だ――そして自分こそが、その重大性に見合うだけの主役足りえると、敵味方問わず皆に改めて完璧に認めさせたのである。
 ……ここまでは順調だった。
 万雷の拍手と歓声を浴びながら、ニトロは待っていた。
 あと一手……あと一手で、理想が完成する。
「ところで、一つお聞かせ願えますか?」
 ふいに喝采の中、ドーブが問うた。ニトロは随分真剣な彼の眼差しに小首を傾げ、
「何?」
「後学のために。ニトロ様とティディア様が現在最もお気に召しているお菓子は」
「ここで聞いたら商売に活かせないんじゃない?」
「商売ではありません。オフ会のためです」
 はっきりと言い切られ、ニトロは思わず笑った。深読みすれば、隊長はお菓子でも食べながら観劇に徹することを約束してもくれたのだろう。
「そうだね、最もって言われるとなかなか難しいけど……俺はウロット社の『もっちり蒸しケーキ』が最近のヘビーローテ。贅沢にいくならミ・レモンナのパルフェパフェかな。ティディアは――」
 と、言った時、
――<<2時、上10>>
 芍薬の鋭い声がニトロの目を“2時方向10度上向き”へ走らせる。
「ミ・レモンナのチョコレートケーキ」
 ニトロが待望のあと一手』 を視認するや否や、ロータリー中央にある街頭宙映画面パブリック・エア・モニターのものであろうスピーカーから女の声が流れた。
「クレ・ド・ランのアップドフィーネも供物に最適と、プカマペ様は仰っている」
 ニトロの視線を追って、皆が、あらゆる所へ中継するカメラ達が、ケルゲ公園駅舎の出入り口に張り出す庇の上、そこに佇む三人の『信徒』を見た。
「あとは……やっぱり元側仕えさんのパウンドケーキが外せないかな」
 言いながら、ニトロはドーブに目を送った。
 ドーブはうなずき、号令を発した。
「邪魔をせぬこと、お気を煩わせぬことこそが最大の忠義である! さあ、皆、舞台を整えよ!」

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