6−d へ

 城門の前で待ち合わせた芍薬と合流したニトロは、歩哨に立つ警備アンドロイドの横、リットルに頼んで門脇の隠し通路を開いてもらった。放蕩で知られる20代王が、帰城後即座に町に出られるよう作らせた地下通路。王城を紹介するパンフレットにも載るくらいに有名な史跡であり、公には出口は塞がれていることになっている路。
 ミリュウから仕掛けられる気配すら無いことにいくらか拍子抜けしながらニトロと芍薬は長い梯子を降りた。行き止まりである20代王が着替えに使った小部屋でlに隠し扉を開けてもらい、肌寒い地下通路を歩く。通路は王城を取り囲む公園の地下、城で働く人間のための駐車場に繋がっている。駐車場を守る警備兵の詰所の倉庫から抜け出てきたニトロと芍薬は、lが調整した通り(隠し通路を使用する時の約束事だ)巡回に出た人間の警備兵が詰所に戻ってくる前に手配しておいた飛行車スカイカーに乗り込み、王城近辺の駐車施設を監督するmlミリリットルの誘導を受けて地上に出た。
 そして、芍薬の操作で王都の空を目的地に向けて飛ぶ。
 一息ついたところでニトロは苦笑を浮かべた。
「俺は『悪魔』になり切れなかったよ」
 マスターと共に後部座席に座る芍薬は、彼の戦闘服の記録装置から『会談』の内容を得て――その中には極めて気にかかる大問題があったが、しかしそれは現時点では余計な事柄であり、そもそもニトロから持ちかけてこないならば話題にはしない――肩をすくめた。
「主様ハ『悪魔』ニ向イテナイカラネ」
 それは平静な返事でありながら、どこか嬉しそうな様子でもあった。
 ニトロは、芍薬がそう言ってくれるならそうなのだろうと、一度の対決で事を終わらせられなかった現実からどこか救われる気分だった。
「デモ、コレデ疑問ハイクツカ解決ダネ」
「うん。それに事件解決にも、もう少しの手応え」
「手応エ?」
 芍薬は意外そうに声を上げ、
「アッチハ折角ノ“目的達成”ノ手管ヲ自ラ放棄シテルヨ? 主様ニ協力スルノガ一番ノ近道ナノニ、コレジャア自分ノ意志マデマルデ反故ニシテイル。主様ガツッコンダ通リ『自己満足』以上ニ意味ノアル理由ハ作レナイ。ソレナノニ?」
 ニトロはうなずき、
「そうだけどね、でもミリュウ姫は『ティディアのため』を軸足にして『ティディアのため』に動いている。それが中心にあることも間違いない。本当に筋金入りの『ティディア・マニア』だよ。だから、自分で言っておきながら何だけどさ、本質的に自己満足ではあるんだろうけど、それでも自分のため――っていうのは実質的に二の次みたいだ。弱くなった姉の弱点を取り除くためにその原因を排除する・例えそれが姉の望まぬことであっても・それは姉のためになるのだから……姉に尽くす自分に陶酔する自己満足ナルシシズムって言ったらそれまでかもしれないけれど、だけど……『お姉様のため』って事に関してだけは、多分、彼女にはやっぱり自己満足を越えた純粋な自己犠牲精神があるんだと思う」
「ソレハ、直感カイ?」
「直感に理屈を少々」
 料理のレシピを読むようにニトロは言い、それから眉間を撫でながら顔を上向け、
「でも『姉のため』っていう理由が純粋じゃなくなってるのも事実だと思う。不純になってしまった原因がそこに“自己満足”が入り込んできたため――なのかどうかはともかく、なんて言うのかな、メビウスの輪みたいに、確かに一点では『純粋』なんだけど、辿っていった先では『不純』になってるって感じなのかな。しかも輪には色んなものがくっついていて、くっついているそれぞれが色彩乱雑に自分勝手に激しく自己主張している。喧々諤々、ニトロ・ポルカトを消せ、わたしは怖い、ニトロが許せない――でも彼女は“まとまって”いるんだ。彼女はまとまりのない感情を自律できてないようにも見えたよ。なのに彼女はまとまっている。何を本当の目的にしているのか判らない、そう思えるくらいには――目的を持っていると思えるくらいにはまとまっているんだ。多分『お姉様のために!』それが彼女をバラバラにしないでいる命綱なんだろうけど……そう思えば、ほら、『でもそれだけ?』と思えてならない」
 芍薬はうなずく。
「メビウスノ輪、ダネ。CPUガ煙ヲ吹キソウダヨ」
 ニトロは笑い、
「そして困った事に、『でもそれだけ』の先には、また裏返って『お姉様のために』が待っている」
「……複雑ダ……」
 芍薬は人間臭くため息をついた。
「文字通リ捩レテ、捻クレテ、ヒドク歪ンデル」
 ニトロもやれやれとため息をついた。
「複雑だよ。きっと俺が出会った人間の中で一番複雑怪奇だ」
「あたしニトッテモサ」
 そこでふと芍薬は小さく笑い、
撫子オカシラニ話シタラ、嬉々トシテ趣味ノ資料ニシソウダ」
 人間観察を趣味としている撫子の、平然を装いながら興味津々である姿を思い浮かべてニトロも笑った。『怪物』の理解し難い心理の渦に取り込まれそうだった思考がふっと浮かび上がる。彼は小休止に吐息も挟み、
「で。彼女は、俺に協力するのは嫌だけど、俺をティディアから離したい……そのための手段はいくつか考えられるけど、ここにきて直接ティディアに『ニトロ・ポルカトはお姉様を愛していない。だからお別れになって――』なんて説得をするはずはないし、できるはずもない。そもそもそんな説得に効果は期待できないし」
「バカガ帰ッテキタラ“事”モ仕舞イダカラ、ソンナコトヲスル時間モ機会モナイ」
「かと言って……」
 そこまで言って、ニトロは口に渋みを感じた。先ほどはあまりに浮かれて考えることもできなかったが、あのミリュウに“これ”を提案すれば、彼女が『敵』であるかどうかに関わらずそれだけで彼女の怒りを買うのは必然であった。
「これは失敗だったけどさ。『ニトロ・ポルカトはお姉様を愛していない。だから別れさせる――』なんてことを公の事実にすれば」
 芍薬はマスターの渋面に触れず流して、言葉だけを受け取った。
「姉ノ『恥』ニナル。姉ノ『嘘』モバレル。ソコニ主様ノ援護射撃ヲ受ケタラ、姉ヲ恋人ニフラレ続ケナガラ虚勢ヲ張リ続ケテイタ『痛イ女』トシテ強調シテシマイ『恥ノ上塗リ』マデサセテシマウ。ソノ選択肢ハ無イヨ」
 芍薬の徹底的な『当たり前っぷり』に、ニトロは感謝と不思議な清々しさを感じた。それを気持ちの良いため息として吐き出し、
「となれば」
「ヤッパリ主様ヲスノガ手ッ取リ早イ。ソレトモ、現時点デハ唯一カナ」
「殺意もしっかり感じたしねー。刺し違えてもって執念もあるみたいだ」
 ニトロは思い返した。
 ――『我らが女神、ティディア様を堕落せしめる悪魔よ』『我が女神を貶める悪魔』『女神を食い殺す』
 事件勃発当夜にハラキリがピックアップした、神官アリンの言葉。ニトロもその映像は見返したが、なるほど、あの神官の“説教”は、こちらへ「姉を弱した」と憤怒をぶつける妹の姿を思えばまるきり率直な主張であったのだろう。
「ただ……それで……」
 ニトロは大きな疑問を前にしてまごつくように口を動かし、
「『奪われた』神を取り戻せるのかは疑問だ」
 芍薬はうなずく。
「デモ、アッチハソレモ『解ッテ』イルンダロウネ」
 ニトロもうなずく。
 再びメビウスの輪が巡り、疑念と困惑の沼に二人の思口しこうが囚われそうになる。が、
「ソレニ――」
 一瞬の重苦しい沈黙も刹那に背後へ追いやり、芍薬は話を進めた。
「“取リ戻ス”ドコロカ結果的ニ姉ノ怒リヲ買イ『処刑』サレル可能性マデチャント解ッテイテ、覚悟モシテイルヨウニ思エル」
 処刑――それは決して第一の字義通りに死刑を指すのではない。しかし姉の怒りを受けた上で下された処分は、それがどのような罰であってもミリュウにとっては死刑に等しいであろう。ニトロは車の天井を見つめ、
「その場合、捉えようによっちゃ『殉教』になるのかな」
「御意。主様ヲ消シ、サラニ実妹ジブンヲ殺サセルコトデ“結果的ニ”女神ガ戻ッテクルナラ本望ダロウサ」
「結果的に、まあ、そうだね」
 人身御供という言葉がニトロの脳裏に浮かぶ。ひどく哀しい想いが胸の裏を引っ掻く。生贄には『烙印』が印されたという記録を思い出せば左手もちくりと痛む。
 彼は、しかしその感傷に囚われず話を進めた。
「だけど、ちょうど『ショー』の最中だ。それを狙うにしても表向きは事故死でくると思ってる」
 芍薬はうなずき、
「ソレナラ世間向ケノ言イ訳モ立ツシネ」
「王家の歴史にも汚点じゃなく『悲劇』として記載できる
「ソシテ、アノバカニトッテモ突然降リカカッタ『悲劇』トナレバ世間ノ同情モ引ケル。ツイデニ姉ノ経歴ガヨリ『ドラマチック』ニ、カイ?」
「筋は綺麗だ。悲劇の王女ともなれば人気もさらに突き抜けるだろうさ。おお、なんと哀れなティディア姫、悲しみに堪え民を導く貴女様の何と美しく何と神々しいことか」
 芍薬はマスターの投げやり感漂う演劇口調に苦笑した。ニトロは芍薬の苦笑が愉快気な苦笑いであることに満足しつつ、
「とりあえず、つまり、こっちの敗北条件は死亡“だけ”ってことらしい。引き分け、時間切れ、その他全部はこっちの勝ちだ。差し当たって気になるのはこの『烙印』とあっちの切り札だろう『破滅神徒』」
「ソレカラ、パトネト王子」
 ニトロは芍薬を見つめた。
「主様モ気ニナッタ?」
「確信はないけど……何か考えているだろうってことはね」
「コッチモ確信ハナイケド、警戒ハ必要ダト思ウ」
「うん」
『烙印』に関しては既に考えられるだけの対策をしてある。一方『破滅神徒』――それにパトネト王子、この二点への対処は現状同じものしかない。ニトロはさばさばと言った。
「警戒しておいて、あとは出たとこ勝負だ」
「御意。ソレナラ今後ハ約束通リ、主様ハ無理ハ禁物、あたしノ命令コマンドガ最優先」
「了解。でも、俺もちゃんと活躍させてくれるかな」
見セツケル?」
「そう、徹底的に、俺が上
「……チョット訂正。主様、小悪魔クライノ素養ハアルヨ」
「小悪魔?」
「不服カイ?」
「いや、なんか小悪魔って言うとさ。こう恋愛で異性を手玉に取るって感じがしない?」
「恋愛トモカク異性ハ手玉ニ取ロウトシテルヨ?」
「……おお」
 ニトロはぽんと手を打ち、そして二人は思わず笑った。
 王都の摩天楼を縫って飛ぶ飛行車スカイカーは、もう目的地に近づいている。
 芍薬はオートドライブに設定し、目的地についた後の操作もプログラムした後、マスターの戦闘服の各種機能が正常であるかを改めてチェックし始めた。
 手持ち無沙汰になったニトロは腕のストレッチをしながら窓の下を覗き込んで、
「うわ」
 目的地が近いとはいえ、想像以上の人出にニトロは思わず目を丸くした。
「何これ」
「主様ガ盛リ上ゲタカラ『オ祈リノ会』モ大繁盛サ」
「……そりゃまた嫌な影響力も持っちゃったもんだなぁ」
 ニトロがうめく中、飛行車がスピードを落とし始めた。フロントガラスの先ではビル群が途切れ、すぐ目の前には『空の渋滞』がある。周囲には警察車両が空にも地にもあり、空も地も揃って交通規制がされていた。
 直下にあるのはかなり大きな通りだが、その渋滞は空に比べて悲惨そのものだった。もはや交通機能が完全に死んでいる。空のスカイカーには警察の誘導に従い車列から離脱するものも見えるが、接地面しか行けぬ走行車ランナーにはそのような芸当はできない。前進も後進も全くできず、車が動けぬのであれば危険はないと車道には人が溢れ返り、いや、むしろ溢れ出ねば歩道では人の多さの余りに惨事が起こるかもしれない。それが判っているのであろう警察も無闇に人を押し戻すことができず、元より車道に人が出てはならないという法律がない以上強制もできず、効果がなくとも注意喚起と強い指導を繰り返しているばかりだ。
「いっそ『歩行者天国』にしておいた方が良かったんじゃないかな……」
「モウ一方ハソウシテルヨ」
「そりゃ英断。ていうより、あっちはそれを定期的にやってた場所か。比べちゃこっちの担当がかわいそうか」
「御意」
 ニトロ達がやってきた地は――『劣り姫の変』――その始まりの片翼。
 ケルゲ公園駅前。
 今やここは、ミッドサファー・ストリートと並んで言葉通りに『聖地』とされている。本当に多くの“急造教徒”が集まっていた。日没の『祈り』の際には凄まじい音量で詠唱が流れていたことだろう。もちろん、この中には単なる物見に来た者も輪をかけて多くいるだろうが。さらには――
「警察には?」
「連絡、了承、連携ノ約束モ獲得済ミ」
 ニトロはここに来るにあたって、現場の混乱を――既に混乱しているが、また別の混乱を治めるために警察の、正確には公権力の『力』と『人員』の支援が不可欠だと考えていた。そのため、ミリュウへこちらの行動が筒抜けにならないようティディアから預かっている警察のシステムの利用権限(どんなこともできるわけではないが、例えば警察用アンドロイド等を芍薬が操作できる権限)を頼ろうとしていたのだが、それに対しては芍薬が反対した。
 既にあの権限の存在は敵に知られている。あたしなら、即座に権限を封鎖して、使おうとしたその瞬間にあたしを反社会的A.I.として合法的に拘束する――指摘されてみれば、そのリスクはこちらの行動を知られることよりもずっと高い。
 そのため、芍薬は王城を出た段階でこの区域の所轄と連絡を取り合い、各種の手続きを速やかに済ませていたのだ。
「火薬庫の様子は見られる?」
「御意」
 芍薬が飛行車のシステムを操作し、ニトロの前に小さな宙映画面エア・モニターを表す。そこにはケルゲ公園駅前ロータリーを上空から映した――警察車両からの中継画像があった。
 映像を一瞥するなり、ニトロは言った。
「一触即発か」
「御意」
 面白いことに、騒ぎの心臓部は周辺域に比べて人口密度が低い。何故なら車が排除されたロータリーはもはや完全に『舞台』となっていたからだ。舞台には一種独特の排他性がある。演者か演者になろうという者しか寄せつけない結界がある。『舞台』にはミリュウの姿をした信徒の姿は見つからないが、そこにはローブを纏う教徒と並び、ローブを纏わぬ集団があった。それらをさらに大きな集団――ローブを纏っていたりいなかったりはするものの、完全に傍観者という点では共通する『観客』が大きく間を開けて取り囲んでいて、そうしてその『舞台』は成立していた。
 舞台上にいる人間は、黒いローブを纏う者らが圧倒的に多い。それらはまとまりなく蠢き、しかし一部では“急造教徒”と呼ぶには差支えがあるような熱狂振りを見せている。一方ローブを纏わぬ集団は、数で負けても団結力では負けぬとばかりに力強い群を作り上げて『プカマペ教徒』らに対抗している。中でも目立つのは両集団の境界に固まる白いシャツを着た者達だ。上空から見た黒とそれ以外の比率はおおよそ四対一といったところだろう。四と一を分かつ白シャツの並びが描く線の前には人一人分くらいの溝がある。それでも時折波打つように両集団が接した箇所では鍔迫り合いをするような動きが生まれ――激しい言い争いをしているようだ――するとすぐに白線が太さを増して諍いをなだめて溝を保とうとし続ける。
 見れば、どうやら争いの焦点であるらしいのは……
「まあ、定番っちゃ定番かな」
「マア、ソウダネ」
 同意する芍薬は不機嫌であった。
 それもそうだろう。ニトロが目にしたのは『括り首にされた人形にんぎょう』だった。固めた何かに布を被せて成形しただけという粗末な代物であるが、顔の部分には『ニトロ・ポルカト』の顔が嫌味なほど高画質でプリントされている。胴体には刺し傷や下手糞な『烙印』が書かれ、燃やそうとしたのか焦げつきも見られ、また何かと汚されている。その人形は、間違いなく呪術的な意味合いを持つ人形ひとがただった。よくよく見れば人形ひとがたを掲げる“教徒達”は同じ『教徒達』の中で浮いた存在感を示している。熱狂を見せる一部……間違いなく狂信的な『ティディア・マニア』だろう。同じ舞台に立つ一般参加者プカマペ教徒からすれば彼らは異端であり、その行為は顰蹙を買っているらしい。
 しかし実際にその呪いの儀式の対象であるニトロからすれば彼らの行為は“顰蹙”では済まない。そこまでする『マニア』達の悪意と敵意は正直体の芯を凍えさせる。――が、もちろん、今やいくら冷気を吹き込まれようともニトロの芯が凍え切ることはなかった。そんな悪意と敵意よりも、自分のために怒ってくれている芍薬の心が暖かい。彼は嘆息をつき、それだけで底冷えのする怖気をやり過ごし、
「下手糞な爆弾だ。安全装置も何もない」
「御意。ケド『隊長』ガ筆頭ニナッテ何トカ爆発ヲ止メテイル」
「隊長が?」
 と、映像が変化する。芍薬の誘導だ。カメラがある一点を注目し、拡大し、するとそこに見覚えのある大男が現れた。白いシャツを着た彼はプカマペ教徒を眼前に、最前線で仁王立ちしている。時折口を大きく開けているのは、揃いのシャツを着る仲間と作る境界線を保持するため号令を発しているからだろう。
 ニトロは片頬を引き上げて、つぶやいた。
「でも……キレると色んな意味で爆弾より危ないよね……」
「御意」
 芍薬も即答する。
 過去には二度の襲撃をかけてきたほど熱狂的な『ティディア・マニア』。そこから転向して、今は有名な『ティディア&ニトロ親衛隊』の長――獣人ビースターのドーブ。
 いつかこのくにに帰化したいと言っていた彼が公的に事件を起こせば、間違いなくその夢は潰えてしまう。味の面からも段々口コミに乗り出した彼の事業も終わる。いや、彼だけではない。彼の事業が終われば雇用された者らが職を失うし、この場においても傷害等いらない前科を持ってしまう者も出るかもしれない。こんな馬鹿げたことで! それは絶対に避けねばならない。
 ミリュウの姿を借りた『敵』はやはりどこにも見当たらないが……万全のシチュエーションを待つほど計算高くはなれない。
 ニトロの思いに気づいた芍薬が、懐から鞘に入った大振りのナイフを取り出した。毀刃きじんのナイフ。彼は微笑み芍薬に背中を向けた。後ろ腰の留め具に素早く鞘が取り付けられる。
「よし」
 鞘の座り具合を確かめ、ニトロは言った。
「行こう。さっさと騒ぎに『首輪』をつけないと」
「承諾」
 芍薬の瞳の奥が明滅し、直後、二人を乗せるスカイカーが列を離れた。進入禁止区域に指定されたみちを猛然と走り抜けていく。この場にあって明らかに異常な行動を取るスカイカーに様々な目が集まる。エア・モニターに映る人々の中にも警察の優遇を受けて走るこちらに気づいた者があり、その気づきがケルゲ公園駅前ロータリー内の全てに伝播していく。
 ロータリーの上空に差し掛かるや、停車も待たずニトロはドアを開けた。
 20mほど空にあってもざわめきが車内に滑り込んでくる。
 ニトロは芍薬と共に、一息に飛び降りた。
 悲鳴混じりの喚声が轟いた。
 夏の熱気に、人が煽り上げる熱風が混じっていた。

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