6−c へ

 ミリュウの――ティディアの部屋から退出し、ドアを閉めたニトロは音も無く大きく息を吐いた。
「……」
 ニトロは、今、吹き戻しの風のごとく再び襲い掛かってきた衝撃に心をひどくたれていた。
 微かに手が震える。
 ミリュウの声が彼の内耳に反響していた。何度も、何度も。
 彼は撲たれるがままの自心が、半ば混乱をきたしかけていることに気づいていた。
「――」
 だが、これはミリュウという怪物の毒気にてられたためではない。
 彼は自覚していた。
 ミリュウという怪物と直接対決した直後でありながら、それなのに自己が何よりも『ミリュウの保証した事実』に激しく撲たれ続けていることを。
(――――ティディアが?)
 俺を、愛している?
 道具ではなく。
 一人の男性ひととしての『俺』を?
「……」
 そんなはずがない! と、ニトロの内でニトロが叫ぶ。
 それは俺の最も信じ難く、信じられず、また信じたくもないことだ!
 されど、『伝説のティディア・マニア』であり、誰よりも近くでティディアのことを見つめてきた実妹の言葉は重過ぎる。しばし置かれた時の重さも加えて戻り来て、足を折らんばかりに圧し掛かってくる。
 心が騒ぐ。
 ティディアの眼差しが蘇る。
 ティディアの言葉が――そう、あいつの言った通り『呪い』のように心裡を縛る。
 ――『私はね、きっとあなたが思っている以上にあなたのことを好きなのよ』
 シゼモで聞いたそのセリフ。
 その声。
 ティディア。
 嬉しそうにまとわりついてくるバカ姫。その感触が『呪い』のように肌を撫でる。
 その体。
 ティディア!
 クロノウォレスに発つ朝、ミリュウの攻撃が始まる日の朝に見せた様子、“事故”に際し見せた真剣で真摯な表情、コーヒーを飲みながら交わした会話、その時の笑顔が――
「――ッ」
 ニトロは頭を強く振った。
 脳裡に蘇っていた『ティディア』の全てを振り払う。
 今は『あいつ』に侵されている場合ではない。実妹の言葉の真偽を鑑定する場面でもない。今、取り組むべきは、眼前にいる、そして明確な敵たるミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナへの対処だ。ティディアに対してはこの問題を丸投げしてきた怒りもある。それはミリュウへの怒りよりも強い。それもひっくるめてこの“新たな問題”に面と向かうのは――本当に愛されている?――その戸惑いがどれだけ強かろうとも! 全てが終わった後でいい。
「……」
 ニトロはティディアの部屋のドアを見つめたまま、美しい木目の向こうにいるであろうミリュウを透かして見つめるように、しばし、じっと佇んだ。
 しかし透かして思い浮かべられるのは、この部屋の本当の主。
 ニトロは苦笑せざるを得なかった。
(確かに、お前は俺の中で特別大きな存在らしい)
 短い時間とはいえ、ミリュウという怪物を相手にし、それとの謁見を済ませた直後でありながらも我が心はティディアの存在感に圧倒されている。その事実と直面し、その事実を直視し、ニトロはそれだけは認めた。それだけを認めて、そうすることで心の整理をつけた。
 頭を掻き、気を取り直す。
 最後にようやくミリュウの記憶が脳裡の一番上に現れ、木目の向こうに赤い目で不気味に笑う少女の姿が浮かんだ。ニトロは、つま先を芍薬の待つ門へ向けた。
(それにしても……俺はまだまだだ)
 足を踏み出し、嘆息する。
 ミリュウとの直接の会話において得るものは多かったが、決着はつけられなかった。その糸口までには辿り着けた気がするが、糸そのものを掴んだわけでもない。
(ハラキリなら)
『呪い』が顔を出す。ティディアなら?
(ここで終わらせてるよなぁ。少なくとも獲物を『磔』にして生殺与奪権は握ってる)
 そうして後はいいようにやってしまうだろう。
 反面自分は、パズルの全体像を描くためのもう数ピース――そこまで接近することの対価に今後の主導権をどっちつかずのものとしてしまった。
(『悪魔』と呼ばれた割に、どうにもなり切れちゃいないしな……)
 身近にいる、目標となる親友兼師匠と、打倒すべき宿敵。比べて自分は――
(反省、反省)
 腕を組み、唸りながらニトロは王城の廊下を歩き、
「リっちゃん」
 ふと思い出し、セキュリティを統括するオリジナルA.I.リットルに声をかけた。
ピコに権限の全部を返すよ。他の皆のも、俺が担当範囲を出たら順次に」
「了解」
 耳元で囁かれたような音がニトロの鼓膜を揺らす。指向性スピーカーから届けられる男とも女ともつかない声は、さらに続けた。
「差シ出ガマシクモ申シ上ゲル」
 ニトロは眉根を寄せた。セキュリティの管理という大役を担うA.I.が、私語を?
「何?」
「ミリュウ様ノコト、我々一同ヨリ、強ク、ヨロシクオ願イ申シ奉ル」
 ニトロは――我々一同ということは一部始終を見つめていたpからもか――その嘆願に驚き、それからふっと笑んだ。
「慕われてるんだね、彼女は」
「善キ方デス」
 即答に、彼女が王家のA.I.達に本当に愛されていることを知る。しかし、
「その善き方は、どうしてあんなになってるんだろう」
「解リマセン。解ッタトシテモ、申セマセン」
「……ま、そりゃそうか」
 人のプライベートをおいそれと明かすのは、本来A.I.達のタブーだ。セキュリティを司るA.I.ならばなおさらである。
「タダ――」
 と、どこか苦しそうに、lは言った。
「アノ方ハ、ニトロ様ト同イ年デ、姉君様ガ大好キナダケノ、普通ノ女ノ子デス」
 それはギリギリの――いや、それは規則を破っての発言だった。背信、あるいは発狂クレイズの兆しと取られて消去されても文句の言えない行為。lはもちろん承知しているだろう。それでもニトロに情報を与えたのはlが『我々一同』を背にしているためだ。
 そして、ニトロは、lの証言にはたと目を覚まされた気がしていた。
 このタイミングでそれを指摘されたことは幸運であった。
 パズルの重要なピースが一つ、嵌った。
 ニトロの瞼の裏で、ティディアの掌でうずくまる王女がこちらを見上げている。
 うずくまる王女は、解ってはいたが、改めて思えば確かに同い年の少女だ。
 友人クレイグに想いを寄せながら失恋した彼を励ますだけで満足することにしてしまった女友達クラスメイトと同じ――王女ミリュウは、およそ一月後には成人年齢に達するとはいえ、まだ青臭さの残る少女なのだ。場が違ったならばファミリーレストランでフライドポテトでも齧りながら、政治も経済も関係なしにくだらない話で一緒に笑っていられるような。
 姉君様が大好きなだけ、というのも、思い返せばミリュウが『この期に及んで大好きな姉への思い遣り』を涙として表し、何よりそれが先の会話中で最も大きな彼女の情動であったことをニトロに再確認させる。やはり、彼女にとっては、どこまでもどうなってもどう足掻いても『お姉様』が中心であり続けている。その存在が欠かせないのだ。ニトロの脳裡に広げられたパズルが変化していく。ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの人物像――というパズル。そこに点在していた“ティディア”という構成要素が、点在などとは生温い、その画面全域、ありとあらゆる場所に現れる。一方ではニトロがこれまで考えていた比率を軽々と破棄して“ミリュウ”という構成要素が数を減らしていく。終には中心部を完全に“ティディア”が占領し、中心部のみならずそこから辺縁部にかけても侵食し、そして『ミリュウ』は彼女自身の世界の中であっても“ティディア”の中にしか存在できない絶滅危惧種かのように、ぽつんぽつんとバラけ、所々に島を作り、やがて寂しい景色を作り上げる。それは同時に“ティディア”に頼らねば成り立たない風景でもあった。
 ニトロは、描き出した情景に思いを馳せ、ここでまた新たな疑問を得た。
 あのティディアが“自分”のことをそれだけ重く扱うことを好まないことは知っている。それなのに……“自分”に頼らねばならない妹? 妹へ薫陶を授けてきたあの姉が、それをそのままにしておくことを好しとするはずもない。何しろ妹がこの状態に陥ることを許してきたことさえ疑問に思うくらいなのだ。
 であれば、ハラキリは言っていた――姉離れを望む姉と、姉離れを拒む妹。それが一気に現実味を帯びてくる。
 契機となるのは『ニトロ・ポルカト』の出現に違いあるまい。あの姉妹の年月に、ついこの間までは無かった存在。女神の心を盗み、女神自身をも奪った『悪魔』の登場により、意識的ではなくとも結果的に妹は事実上の姉離れの一歩を踏み出した? それをティディアが歓迎して、利用し、事態をこちらに丸投げしてきた――となれば、いよいよ随分歪な姉妹喧嘩という説にも説得力が増してくる。
「……参考になったよ」
 廊下を行くニトロの前に警備アンドロイドが現れる。アンドロイドは立ち止まり、踵を合わせて最敬礼をした。
「でも、あまり期待しないでくれると嬉しいかな」
 lは答えない。
 が、ニトロの面前、鉄面皮であるはずの警備アンドロイドの口元に微かな笑みが浮かんだ。巡回のアンドロイドを担うのはdlデシリットルだったか。lに代わって送られたその微笑は『我々一同』からのものであろう。
 ニトロは小さく苦笑し、軽く手を振り、『我々一同』の送り出しを背に受けながら歩を進めていった。

 脅威の去った部屋で、独り。
 ミリュウは、怨敵の去った瞬間に膝を折り、床に座して打ちひしがれていた。
 ――何故?
 ミリュウの全てを、その言葉が支配していた。
 何故?
「お姉様」
 もう何度目か解らぬ呼びかけに応える人は、無論、いない。
 何故?
「お姉様」
 貴女様は何故、あのような男を愛されているのですか。
 何故?
 そもそもあのお姉様から愛を受けて、それに応えぬ人間がいるなどとは。ミリュウには信じられなかった。今まで想像すらしなかった、いや、想像すらできないことだった。もしそれができる人間が――男がいるとするならば、きっとそれは人ではない。都市伝説に出てくる怪人、御伽噺に語られる妖魔、神話に語られるまさに悪魔だ。
 ああ、お姉様は何故? あの女神様が、何故! 悪魔などに魅入ってしまったのだ!?
 聡明で人知を超えた才覚、神聖にして神性の体現者であられるティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが、何故あのような一介の男に、ツッコミという妙な特技しか持たぬ平凡な男に、何故……何故?
 解らない。
 ミリュウには解らない。
「お姉様」
 答えを下賜する女神は現れない。
 何故?
 ミリュウは茫漠と繰り返し、考え続けていた。
 あの男は、平凡で普通の――という形容から今は逃れていよう。だが、それでもあのティディアお姉様に釣り合うかと問われれば、答えは『否』だ。
 相応しくない。
 相応しくないどころか、そもそもお姉様に釣り合う人間などどこにも存在しない。例えどんなに恵まれた男が“恋人”となったとしても、それはお姉様のお情けを以て合格こいびとに達したにすぎない。しかしニトロ・ポルカトは情けを受けてもそこに達するはずもない!
 なのに……それなのに、何故?
 判らない。
 何故、お姉様は、ご自身を愛していない下衆などを愛してしまったのだ。
 理解できない。
 何故、ニトロ・ポルカトは……あのお姉様の愛を一身に受けながら、あれほど気楽にしていられて、あれほど軽々と愛を否定できて、何故、あれほど軽々しく『嫌い』などと言い放てる。
「お姉様……」
 つぶやくミリュウは、自身の体をとても軽く感じていた。
 つぶやく度に肉体が1gずつ消滅していっているような気さえする。
 そして、
「……お姉様」
 つぶやき、それに対する応えがないことを知る度に、心が重くなっていくことを知る。
「お姉様、お姉様、お姉様――」
 心は重くなり、体は軽くなる。
 軽くなっていく体は、重くなっていく心に煽られるように逸り出す。
 思えば。
 本当に、『希望』は、あの男に攻撃するにあたってわたしが辛うじて掴めていた希望は、一つ一つ、あの男と顔を合わせてからあっという間にこぼれ落ちていった。希望が失われていく度に、希望の失われた隙間には絶望が入り込んできた。絶望は隙間に入り込む時、風穴の開いた心に鉛のような風を引き連れてくる。その風は、重く、強い。この身を舞い上がらせるほどに強い。今ならわたしは空も飛べるだろう。そうして、わたしの体は希望という重りを抱えていた体では叶わないほど速やかに空を舞う。そして絶望という重りを新たに得た体は、一度動き出した重い物体が簡単には止まらないようにとどまることなく勢いを増していくのだ。今――たった一つ残っている希望に向けて。
 ……たった一つ残っている希望に向けて?
「……」
 いいや、違う。
 ミリュウは哂った。力なく、その頬に微笑みが刻まれた。
 たった一つ残っている……のではない。
 思えば、わたしには元々そのたった一つの希望しかなかったのではないか?
 わたしが抱いていたつもりの『希望』……例えば――もしニトロ・ポルカトが『ショー』の相手をしようとしないのなら“あの程度”にも臆病風を吹かす男と喧伝してやろう……という希望。あるいは――もしニトロ・ポルカトがわたしに遅れをとるようなら“この程度”のわたしにも敵わぬ資質を皆に疑うよう勧められるという希望。――ニトロ・ポルカトと直接顔を合わせたならば誘惑してみようか。もしそれに乗るのなら、それをお姉様に訴えよう。“わたし程度”の女に篭絡されるケダモノであり、あなたを裏切るような陋劣ろうれつなのだと。そうやって状況と展開に合わせて――もし――もし――もし…………だが、今にして思えば胸に抱いていたどれもが希望ではない。希望なんかではない。甘っちょろくて、悪あがきにもならない。必死に胸に抱いていた何もかもは、ただ、ただ、恥ずかしくも愚かしい妄想に過ぎない。――それをわたしは初めから知っていたのだ
 わたしに残されていたのは、たった一つの希望だけ。
 そうだ、わたしは知っていた。
 わたしが胸にとどめられたたった一つの希望は、『絶望』という名を持っている。絶望は、望みが絶たれた結果なのではない。絶望は、絶望こそは人が最後に手にし得る最大の希望なのだとわたしはとっくの昔に知っていた!
「お姉様」
 ミリュウはつぶやいた。
 その声には、力が戻っていた。
 彼女はここで初めて知った。希望が人の行動を妨げ、逆に、絶望が希望にも増して人を動かすこともあると。
「わたしの女神様」
 重い心がごろりと動いていく。
 質量は、それだけで力だ。力はわたしの心と体をどんどん押し進めていく。わたしは、目的地に、まだ向かえる。他の希望もうそうが消えたからには道を迷うこともない。気楽でいい。余分な荷が降ろされ、力を分派する必要もなくなった分、ここからは一点に集中していける。
ピコ……」
 と、そこでミリュウは戯れを思いついた。
「『侵入者』を捕らえなさい。抵抗するようなら、警告無く殺しなさい」
「『侵入者』ハ存在シマセン」
 姉の部屋付きのオリジナルA.I.は平静に応えた。
 ミリュウは小さく息をついた。そう返されることも解っていた。
「マタ、殺セマセン。殺セタトシテモ、殺シマセン」
「?」
 ミリュウは声の主の姿を見るように宙に目をやった。
 pは、淡白な性格をしている。弟のフレア以上に無口であり、命令に際しても淡々と必要最小限の受け答えをするだけで、余計な言葉を付け加えた場面はミリュウの記憶にはない。今のような蛇足は……少なくとも、ミリュウにとっては初めての経験だった。
 何のために、そんなことをpは言ったのだろう。
「……そうよね。いけないことだもの」
 ミリュウはpが王家のA.I.として自分を諌めようとしているのだろうと見当をつけた。
 が、pは応えない。ただ、奇妙にもノイズに似た音が耳を掠める。
 しかしミリュウにはもうpの反応はどうでもよく、また、分を越えて諫言を呈してきたA.I.への憤懣もなかった。
 これはただ、戯れが終わっただけのことだ。
 ミリュウは言った。
「パティに繋いで」
 ミリュウの前に宙映画面エア・モニターが表示される。椅子に座り直す彼女に合わせて位置を変更し、数秒の後、
「っお姉ちゃん?」
 連絡を受けて通話先に現れたパトネトは、カメラが繋がるなり姉の顔を見て、ぎょっとしたような様子を見せた。
 しかし、ミリュウがそれに気づくことはなかった。つい数十分前の彼女ならば気づいていたであろうことにも、彼女が気を遣うことはなくなっていた。
「パティ、ごめんね」
 ミリュウは眉を垂れ、見た目だけは謝意を表す愛想笑いを浮かべているつもりなのだろう。しかし、彼女のそれは笑顔ではない。パトネトの後ろにある人影は震えているようだった。
「夕食を食べている暇がなくなっちゃった」
 パトネトは、うなずく。その背後の人影がどうしてか慌てたように姿を消す。
「お姉ちゃん、負けちゃった」
 ミリュウはやけにあっけらかんと言った。初対面、初対決。ニトロ・ポルカトが持ちかけてきた『会談』は形式的には決着せずの物別れで終わったが、真実は、ミリュウにとって、その結果は惨敗以外の何でもなかった。
「なかなか予定通りにはいかないね」
 ミリュウの笑みに、パトネトが首を振る。
「大丈夫」
 パトネトは、言う。
「お姉ちゃんはまだ負けてないよ。僕が、きっと負けさせないから」
 ミリュウはその優しい弟の言葉に――
(変ね)
 涙が出るくらい嬉しいと思える言葉なのに、ミリュウには、それをただ嬉しいと認識する以外に何も感じられなかった。
「僕がお姉ちゃんを助ける。だから、ニトロ・ポルカトが勝つことは、ないよ」
 パトネトの力強い――本当に力強い。もう、彼は、わたしの保護なんていらない――励ましに、ミリュウは小さく首を振り、
「パティ」
 かすれた声だった。
 パトネトは口をつぐみ、画面越しの姉をじっと見つめた。
 ミリュウは微笑み、言った。
「メインイベントを前倒しにする。『破滅神徒』降臨の舞台を整えてくれる?」

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