4−b へ

 ニトロが案内されたのは超VIPルームの一室――先の部屋から幾つもの部屋を跨いだ、察するに主に使用される区画から最も離れた部屋だった。
 とはいえ、さすがは大きなホテルの階一つを占有する超VIPルーム。たかが分室の一つでありながら、その広さも内装も、一般的なトップクラスに足るものだ。
 部屋に入ったニトロは、疲労のたまる足を高級絨毯に取られそうになりながら真っ直ぐソファに向かった。腰を下ろすと、座った瞬間に『最高級』を実感させられる。
 油断すれば、このまま眠りに落ちてしまいそうだ。
 そう思った彼は一度目を強く閉じて気を入れ直し、ここまで案内してくれた親友に……少し目を離した間に部屋の片隅に移動し、どうやら冷蔵庫の前に屈み込んでいるハラキリに言った。
「『守秘義務』の理由がよく分かったよ。まさかマードール殿下が相手だとはね」
「正式訪問は来週ですからね。驚かれたでしょう?」
「驚いたさ。予想もしてなかった。何の用でいらっしゃってるんだ?」
「一応は視察を兼ねてますが、実体は観光と遊興です。もちろん非公式おしのびでね」
「セスカニアンの王女が?」
 セスカニアンの王室は秘密主義で知られている。王はもとより王の子息ですら滅多に民の前には現れず、現れたとしても厚いヴェールで顔を隠す。だから他国民はおろかセスカニアン国民ですら王族の顔を肖像画の他に知ることはない。では肖像画を描く画家は? と問えば、王族自らが描く――という徹底振りだ。
 が、その中で唯一例外的に、かの王室には姿を人目に晒し、王の代弁をする外交官や広報官といった役目を担う者がある。その役には一族の中で最も位の低い者があてがわれることが慣例であり、当代では、それがマードールだ。彼女は、例え兄姉の皆が没しようとも(その時は彼女に子を産むことが命ぜられ、それが『王の子』として迎えられる)絶対に王位を継ぐことのない王女である。
 とはいえ――聞くところによれば、本来、そのような役割にある者であっても、言動は実に控えめで目立たぬように慎むそうだ。
 しかしマードールは、その特殊な立場のためだけでなく、その特異な美貌のためだけでもなく、歴代でも最も言動が派手なセスカニアンの王族として知られていた。おそらく国際舞台に登場した回数は桁違いに多いだろう。国内にはそれに対して批判的な向きもあるが、社交的な姫君がセスカニアンの名を世に広めることを歓迎する声は多いとも聞く。
 だが、それでも……『お忍び』までするとは。
「意外だ」
「そういう意味では、こちらのおひいさんと通じるところがあるのかもしれませんね。なっちゃう、のではなく、既に」
「そう言っちゃ禄でもなくなる、殿下に失礼だよ」
 ニトロの物言いにハラキリは笑った。
「で? お忍びはいいけど、それで何でハラキリが案内人に選ばれたんだ? 挙げ句に『お兄ちゃん』とかまたえらい親しげだし」
「その話はねぇ、色々事情があることでして。拙者が選ばれた理由は、まあ、殿下と初対面ではないというのもあるのですが……」
「勝手には話せない?」
「ご明察」
「そっか。それじゃあ、後で直接詳しく聞くことにするよ。特に『お兄ちゃん』の件は」
「いや、特にそれをこそ詳しく聞かれたくないんですけどね。本気で」
 立ち上がったハラキリは眉を垂れて言ってくる。
 ニトロは意地悪な笑みを親友に送り、手を伸ばして携帯電話……通話機能がないからには単純に携帯モバイルコンピューターか、それをソファ前の小卓に置いた。と、すぐに立体映像ホログラム機能を用い芍薬が肖像シェイプを表す。
「まあ、何はともあれ」
 ソファに歩み寄ってきていたハラキリは、ニトロの隣にどっかりと腰を下ろした。そしてニトロへミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。
「お疲れ様です。それともご愁傷様、と言った方がいいでしょうか」
 ペットボトルを受け取りながら、ニトロはハラキリらしい物言いに苦笑し、
「楽しんでもらえたようで何よりだよ、我が預言者様。見事に俺は神敵となった」
 苦笑ついでに皮肉を返す。しかしハラキリは皮肉をものともせずに笑うだけだ。
「いやいや、確かに楽しませていただきました。良い見世物でしたよ。殿下は興奮しきりでしてね、客人を楽しませていただき感謝します」
「興奮しきり? そんなに長い時間、中継されていたのか?」
 気づいた限りでは、テレビ局のカメラは自分がロータリーに出た後に到着していた。それを思えば『しきり』などと言えるほどの時間はなかったはずだ。となると、
「ああ、野次馬のネット中継?」
 ハラキリは胸ポケットから携帯電話を取り出し、それをニトロの携帯端末――芍薬の横に置きながら言った。
「いえ、例のサイトからの配信です。ミラーサイトもたっぷり用意されていたお陰で快適に眺められましたよ」
「ああ……なるほどね」
 うなずき、ニトロはボトルの栓をねじり開けた。
「監視カメラとアンドロイドを経由していたようでカメラワークは多少地味でしたが、しかしそこはさすがの真剣勝負、その欠点を補って余りある迫力でした。君の動きも実にリアルで素晴らしかった」
 師匠のそのひねくれた褒め言葉に、ニトロは思わず口元を緩めた。
「俺は、ハラキリの教え通りに動いただけだよ」
「いやいや、拙者の教えたことなど微々たるものですから。君の成長力には本当に驚いています。そろそろ教える――などとおこがましいことはできなくなるかもしれませんねぇ」
「何言ってるんだ。教わり始めてからまだ一年程度だろ? そんなんで習いきれるもんか。まだまだ俺はハラキリに教わるつもりだし、そして、助けてもらうんだ
「おや、それはまたなかなか面白い救援要請で」
 ハラキリは笑って。
 笑って……それだけだった。
 ニトロは眉をひそめた。
「助けてくれないのか?」
 ふと湧き上がってきた不安を親友にぶつける。
 状況を認識している彼が、助けを求められても動かない――というのは考えられないことであり、考えたくないことである。
「正直に申し上げれば、今回は助けたくありません」
 ニトロはいよいよ眉を険しくひそめた。芍薬も表情を硬くしている。
「何故?」
「拙者は現在、形式的とはいえマードール殿下に雇われています。しかし実質は、お忍びでやってきたゲストをもてなすホストです。そのため拙者が勝手な行動を取るということは、殿下に泥を浴びせ、また、お姫さんの顔を潰すことにもなってしまいます。もし拙者が拙者の意思で君を助けようとするならば、殿下の許可が必要となるでしょう」
「……うん、道理としてはそうだろうな。でも今だって助けてくれてるのに、それが問題になるのか?」
 その素直な問いかけに、ハラキリは複雑な表情を見せた。それはニトロが不安を覚えるほどに『複雑』だった。
「つまり」
 ハラキリは言い難そうに、しかし続ける。
「これ以降、拙者が君を助けるためには、形式的とはいえ彼女に君を『助けさせる必要』が出てくるというわけです」
「……で?」
 ニトロはハラキリの言うことが良く判らなかった。そのため彼が思わず繰り返した疑問符は、ある種の無邪気な問いの繰り返しでしかなかったのだが、
「主様」
 窘めるように、それを制止する声が意外なところから上がった。
「ソレ以上ハ聞カナイ方ガイイヨ」
 何事か悟ったらしく芍薬が言う。ニトロはますます一体どういうことなのかが判らなくなり、芍薬とハラキリを交互に見るしかできずにいた。
 ハラキリは嘆息をつき、
「先ほどの殿下の誘い、今からでも断る気はありませんか?」
 その質問にニトロは驚いた。今そのようなことを聞いてくるということは、そこに何か彼の思う焦点があるのだろう。
 それを察しながらも、それでも、ニトロはきっぱりと言った。
「ないよ。もう約束したし、それに助けられたんだ。お礼も兼ねてるつもりだから」
 真面目な親友らしい答えに、ハラキリは苦笑をふっとほどいた。
「では、おそらく後で解るでしょう。解らなかったら、今の言葉は忘れてください」
「それもまた妙な言い方だなぁ」
「まあ、色々打算的なことですからねぇ。結局、拙者も今、君に会っておく方が色々都合が良いのでここに連れてくることを承知せざるを得なかったわけで」
 もごもごと歯切れ悪く言うハラキリの姿は珍しい。
 ニトロは芍薬に目をやった。芍薬は大きなうなずきを打ってくる。
「――分かった。
 それじゃあそうするよ」
 ハラキリがこうも言いよどみ、信頼する芍薬が進言するなら、それを受け入れる。そして受け入れたからには、ニトロはひとまずさっぱりと思考をリセットすることにした。
 栓を開けたままだったペットボトルに口をつけ、清廉な水を空いた腹に流し込む。渇いた喉が潤っていくことを実感し、はあと一つ息を吐き、
「あの教団。プカマペ様の愛波動を受けて揮発した脳味噌の化身としてはどう思う?」
 後腐れなく話題を変えたニトロの問いかけに、ハラキリはふむと鼻を鳴らした。
「見事なまでに紛い物ですよ。神官の口上を聞く限り、一応『プカマペ教』と名乗れるだけの意味付けはしているようですがね、しかしあれの実質的な信仰対象は『女神ティディア』ですから。まあ、そこらへんは実にミリュウ姫らしい発想だとは思いますけどねえ」
「ん?」
 ふいに核心に触れられ、ニトロは思わずハラキリを凝視した。
「そんな吃驚びっくりしなくてもいいでしょうに。ニトロ君だって、もう解っているんでしょう? 撫子から聞いています。芍薬を襲ったA.I.のことだけで考えても、そうでなければ説明がつかないのですから」
「いや、そういうこってビックリしてたんじゃないんだけど……けどまあ、そう言われたら、うんとしか言えないんだけども……」
 あっさりと大問題点を口にしたハラキリは、ニトロの反応に片眉を跳ね上げてみせた。相変わらずの人を煙に巻く調子だ。いつも通りに
 やおらニトロはまた一つ息を吐き、口元に幽かな微笑を刻んで肩から余計な力を落とした。ミネラルウォーターを飲み、二度目の潤いに美味しい水だと思いながら……問う。
「それで?
 ハラキリは、ミリュウ姫の目的は何だと思う?」
「その言い方だと、ニトロ君には多少思い当たるところがあるようですね」
「まあ、一応ね」
「どのような?」
 ニトロは、あのドロシーズサークルの件の折、芍薬と共に考えた可能性を再び脳裡に蘇らせた。
『仮説C』――ミリュウ姫がパトネト王子を伴って仕掛けてきた“何事か”。あの時も、もしミリュウ姫が主犯ならば何のために何を目的に? と可能性を色々と考えたものだ。
 そしてあの時は……推測される可能性に対して『もしミリュウ姫の仕業だとしたら、こんなことを仕掛けてくる“目的”に見当が付かない。また、ミリュウ姫には“ティディア姫の恋人”に仕掛けてくる度胸はない』故に“それらはないだろう”――と、否定の判を押して考慮すべき対象から外していた。
 ニトロは、
「俺がティディアを『奪った』ことに対する逆恨み。そこからティディアの俺への関心を落とすか、そのためのネガティブキャンペーンか、それだけじゃ足りずに一気に『恋人』の座から引き落としたいための行動。もちろん、ただ単純に姉の自分への関心を取り戻したいのかもしれないし、そういうのもひっくるめて『小姑の婿いびり』なのかもしれない」
 と、自分なりに要点を抜粋してまとめたものを言った後、
「けれど、だからって……今でも
 彼は『今でも』に重いアクセントと強い困惑を与え、セリフにも一区切りを置き、ハラキリの反応を窺うようにして続けた。
「それであのミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナがこういう行動に出てくるとは信じられない思いは残ってる。それも弟君を共犯にしてまで?――って」
「ふむ。それでは『黒幕』の存在を疑いですか」
「疑いがなかったとは言わないし、そもそも疑わないなんて言えるものか?」
「合理的に考えて、言えませんね。しかしなるほど、その疑いは既に過去形ですか」
「合理的に考えて……つっても、非常識なバカ姫の、非常識なりに合理的なって意味での合理的に考えて」
 ハラキリは、ニトロの回りくどいその言い方に小さく笑った。そして先を促す。
この今現在、ティディアが俺に仕掛けてくるとはとても思えない。ミリュウ姫がご乱心する可能性と比べれば、鼻先一つ出ている程度には」
「別にもうちょっと素直に言ってもいいと思いますけどねえ」
 どうしても余計な言を加えてくるニトロの心情を理解しながらも、ハラキリは笑いを禁じえなかった。肩を揺らしながら芍薬を一瞥すると、親友のA.I.はマスターの言葉に異論は皆無とうなずいている。
「それで? ハラキリはどう思うんだ?」
 改めて問われたハラキリは少しの間を置き、意見を求める視線にきっぱりと応えた。
「判りません」
 さらりとした、かつ余りにも端的過ぎる意見だった。しかしニトロは自分でも不思議に思うほど失望は見せず、代わりにとにかく不可思議そうに眉をひそめた。
「判らない?」
 お前が?――と、小首を傾げるニトロに軽く肩をすくめて見せ、ハラキリは言った。
「無論、推測ならばできますよ。そちらの意見に付け加えれば、ミリュウ姫は君をどうこうしようというつもりはなく、お姉様大好きなお人ですから、単純にお姉さまを喜ばせようと立案した――その場合は映画第二弾でしょうか、そういうことも考えられる。あるいは彼女はニトロ君を姉の恋人として無条件に祝福していましたが、ここにきて気が変わったのかもしれない、やっぱり条件がある!――と。その場合は姉に相応しい男性か査定しようという線も採れます。もちろん逆に姉に相応しいとは思えないからそれを証明しようとしている可能性もあり得ますが、まあこの場合は、ニトロ君の言うネガティブキャンペーンに入りましょう。それとも、もしかしたら姉を神聖視するあまりに本当にカルト教団作っちゃったとか……最悪、王女の重圧に耐え切れなくなりとうとうご乱心お召しあそばされたパターンも、あるにはありますかね」
 一気に言ってのけたハラキリを、ニトロはぽかんと口を開けて眺めていた。唇を結び、結んだ唇の端を半笑いの形に持ち上げた『師匠』に、彼はぽかんとしたまま言う。
「判らないと言っておきながら……随分、すらすら色々出してくれるじゃないか」
「それだけすらすら出せるほど推測可能範囲が広いってことです。ニトロ君達だって拙者が今言ったことくらいは考慮の隅にでも入れていたでしょうし、他にも可能性は考えられるでしょう? しかし推測ばかり出せてもある程度にすら絞れないのであれば、それは結局判らないのと同義です。ヤマ張っていくならそれはそれでアリだとは思いますが」
 反論のしようがない。ニトロは空笑いを返すしかなかった。
「つっても、こっちとしてはそこが分からないと適切な対応ができないんだ。それどころか気持ちの置き所も見つかりやしない。せめてそれくらいはさ」
「対応、気持ちの置き所ですか。ならばいっそドツキに行けばよろしいのでは? ツッコミ役は君にとって最も適切な置き所じゃないですか」
「それはとっても魅力的な提案だが出来るかンなこと」
「何故です。これまで大体それでトラブルを解決してきたでしょうに」
「そう言われると何だかこっちは立つ瀬がない気がするなあ」
 ニトロは苦笑し、言った。
「けど、それはこれまではぶん殴って解決できることだったからだろ?」
「おや、それでは今回の件は?」
「何の根拠もないけれど、少なくとも、あくまで感覚論だけど……ドツいて終われるような気がしない」
 と、そう言った時、ふいにニトロは心の陰に恐ろしい不安を感じた。思わず口を結び、果たしてすぐ陰の底に隠れてしまった不安が何だったのか探ろうとするが――判らない。とにかく、嫌な気配だけが残る。
「……もしそれをしようもんなら、ただの喧嘩の意味での“殴り合いドツキあい”にしかならないと思う」
 ニトロは潜む不安の影を追うように、言った。
「そして、そのドツキ合いも、泥沼にしかならない気がする。だから、解決の手段にはならないだろうって予感がするんだよ」
 ハラキリと芍薬は、ニトロの顔に何らかの緊張が走るのを認めていた。しかし、その緊張の正体を彼自身が掴めていないようだということも。泥沼・解決の手段にならない・予感――という繋がりからすると、単に見えぬ未来への大きな不安を感じただけなのかもしれない。それはそれで理解のできることではある。
「でも、気がするってことばかりで何も判らないからさ。結局最後には『本当にあのミリュウ様が?』って戸惑いに堂々巡って、そこから先に進まないんだ」
 ニトロの声音は明らかに気落ちしていた。彼の言う戸惑いは、今もより一層大きくなっているようだった。
 と、そこで、ハラキリが小さく手を打った。
「では、ここらでご本人の意見を参考にしてみましょうか」
 その唐突な提案にニトロは一瞬呆気に取られたが、
「そろそろ報道に乗っかってくる頃だと思うんですが……芍薬?」
 続けて言われ、すぐに合点した。
 話を振られた芍薬はうつむき黙して――
「チョウド流ストコロガアル」
「この部屋の権限はフリーにされています」
「アリガタイ」
 うなずいた芍薬の背後、ニトロ達からして小卓の向こうに宙映画面エア・モニターが表示される。
 映し出されたのは、ジスカルラ放送局JBCSのニュース番組だった。
 平然としているのか深刻そうにしているのか判りにくいニュースキャスターの顔が目に飛び込んでくる。セリフからすると次の素材のための前振りをしているらしい。彼が口を真一文字に結ぶと、すぐに映像が切り替わった。
 ニトロは、画面に意識を集中した。
 映し出されたそのパーティーは、ティディアが運営する文化振興に関する慈善事業――例えば新たな才能を発掘・支援したり、家庭の事情などで活動を続けられない優秀な学生への援助を行ったりするなど、有体に言えばパトロンとなる活動を行っている団体の懇談会であり……つまり、今夜ニトロが巨人に襲われている間に王城で開かれていたパーティーだった
 ティディアはゆくゆく、この団体をミリュウ姫に担当させるという。
 そのためもあって開かれたこのパーティーは、ミリュウ姫を中心に囲んで、実に和やかに進められていた。
 画面中央で、団体の支援を受ける若い女性がヴァイオリンを弾いている。彼女は将来を嘱望される演奏家であり、現在、事業の広告塔ともなっている。
 ヴァイオリンの演奏に合わせて初老の男――元ホームレスだ――がパントマイムを始め、二人の芸術家が即興で生み出す滑稽劇に笑いが起きていた。無言劇の内容を鑑みると、どうやらパーティーの締めとしてこの演目は披露されているらしい。
 会場にはこの画を撮影する者の他にも、多数の報道関係者がいた。
 変化は、まずそれら報道関係の顔に起きた。
 カメラに映りこむ何人かが各々の端末に連絡を受け、そして目を丸くしている。そうする内に馴染みであるらしい老婦人と歓談するミリュウに女執事が駆け寄り、耳打ちし、急ぎ去る。次第にヴァイオリンの音が小さくなり、パントマイムの表現が『?』を表したところで止まった。
 異変に気づいた皆がざわめき始めていた。
 報道関係者の一人が、モバイルを操作して宙映画面エア・モニターを起動させた。
 限界目一杯に拡大された画像を見た全ての者が、息を飲んだ。
 そこに映し出されたのは、異形の巨人と『ニトロ・ポルカト』。
 駅構内にいる少年は周囲に避難を叫び、襲い来る巨人へ立ち向かう。
 ついさっきまで和やかな笑いに包まれていたパーティー会場に、絹を裂く短い悲鳴が響き渡った。
「……」
 ニトロは、ミリュウ姫を注視し続けていた。
 同い年のその王女は――
(演技だとしたら……凄いな)
 ケルゲ公園駅からの中継を観る会場の皆と同様に息を飲み、言葉を失う姫君の様子は実に自然極まりない。ティディアの薫陶を受けてきた彼女からすればそれは容易いことなのかもしれないが……それにしても今朝に見た、疲れを隠せぬ少女と同一人物とは思えないほどだ。
 と、そこに番組のキャスターの声が入り込んできた。
 今までノーカットで流れていた映像が乱暴にぶつりと切れ、そこからは結末までのハイライトが組まれ、やがて、ミッドサファー・ストリートで演説する神官の姿を見る会場が現れる。
 神官がローブのフードを下ろした時、最大のどよめきが会場を揺らした。
 全ての視線がミリュウ姫へと集まる。
 ミッドサファー・ストリートにいるのは、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 だが、確かに、会場にはミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナその人がいる。
 そうだ。ニトロも、だから惑い驚いた。あの時、彼女が何故ミッドサファー・ストリートにいるのかと、いられるのかと
 プカマペ教団の全てがミリュウの姿をしていることが明かされた時にも会場は揺れた。皆、直接目にする姫君と中継画面とを食い入るように見比べている。
 その時だった。
 大人しい姫君を見る会場の目が見開かれた。ニトロも同様に目を瞠った。
 突然、ミリュウが満面の笑みを浮かべ、大きな拍手を打ち鳴らしたのだ。
 静まり返ったパーティー会場に、ミリュウの手を打つ音が異様に激しく残響する。
<さすがはニトロ・ポルカト! 語り継がれるであろう『狂戦士』にして『救世主』!>
 姫君の声はよく通った。今までにないほど高らかに、ミリュウ姫の演説を一度でも聞いたことがある者ならば驚かずにはいられないほど力強く。
<紳士淑女の皆々様、お楽しみいただけたでしょうか。わたしからの心ばかりのサプライズを>
 まるで興行師の口振りでミリュウは言う。そのセリフに皆々が、彼女の言葉通りにサプライズ極まる反応を見せた。ある者は目をさらに見開き、ある者は我が耳を疑うように眉をひそめて。
 ニトロは平静にそれらを素早く観察した。
 カメラに収まる範囲では、皆々本当に驚いている。
 ……ここに、共犯者足り得そうな者はない。
<そして『我らが子ら』――国民の皆々様も、お楽しみいただけたでしょうか>
 ミリュウはカメラ目線でそう言った。たまたま彼女の目についただけであろうが、JBCSのスタッフは狂喜しただろう。その視線はちょうどこのレンズに向けられている。
<お姉様が留守にされる間、この星から、この星を照らす大きな光が消えることは解っていました>
 カメラ目線の中、微かに肩を落としてミリュウは言う。小さく頭を振る姿は嘆きを示し、緩慢に周囲を見る瞳には客の反応を見る道化師の趣がある。
<……退屈でしょう?
 ため息混じりのその一言には、異常な引力があった。
<次に何を言うか分からないお姉様がいない。
 次に何をするか分からないお姉様がいない。
 次にどんなことを言ってどんなツッコミをニトロ・ポルカトから受けるか分からないお姉様が、いてくれない>
 ミリュウは一度そこで言葉を区切り、聴衆の反応を見た。
 誰もが黙して彼女の次の言葉を待っていた。
 誰もが、彼女の指摘が正しいと、彼女に図星を突かれたと――そう眼差しで語っていた。
 ニトロは、その光景に、これまでのミリュウにはなかった『支配力』を見た。
<しかし今一時>
 ミリュウの言葉を、誰もが聞き逃すまいと耳を立てている。
<皆々様は我を忘れて興奮されたはず>
 その言葉には、笑顔があった。そこにはミリュウ姫の満面の笑みがあった。
 それは誰を責めるものでもなく、しかし彼女の満足を示すものでもない。ただその笑みは、彼女の言葉を肯定することに罪は皆無と誰もが和まされる笑みだ。言葉を作れば、許しを与える慈笑とでも言えるのかもしれない。
<もしそうであれば、わたしはこの上なく嬉しく思います>
 人を赦す笑顔のままに、そう王女が示した喜びが、会場の空気を緊張から緩和に、そしてニトロ・ポルカトの受難をエンターテインメントとして享受することを『善し』とするものに変じていく。
 ニトロは薄ら寒さを感じ、つばを飲み込み喉を鳴らした。
<もちろん、わたしごときが『クレイジー・プリンセス』の代役を務められるとは思いません>
「おや」
 と、そこで、思わずというようにハラキリがつぶやいた。
 薄ら寒さの中、ニトロもハラキリと同じ気持ちを感じていた。
 ――あのミリュウ姫が、このような文脈でその異名を口にするのは奇妙なことだ。
 確かに、アデムメデスには『クレイジー・プリンセス』という傍若無人な王女がここに闊歩することを許す『感覚』がある。それはもはや常識の域にまで達した社会規則であり、クレイジー・プリンセスが生む害は第一王位継承者ティディアの創る糧を現在から未来に渡って享受するための税金とばかりに扱う奇妙な認識。
 ――ニトロは約一年半の間、それを嫌というほど再確認してきた。
 その『感覚』の強烈な存在感を。
 その強固な支配力を。
 あるいはソレがこそ『呪い』のように、社会を構成する人間間の集合意識や皮膚感覚にまで太く鋭い根を深々と食い込ませていることを!――彼は何度も何度もその身、その心に味わわされてきた。
 今日において、それは『もう一つのティディアの権力』だ。大なり小なり第一王位継承者の威光を貸し与えられた者が、例えば政治の駆け引きで、あろうことか王権や王威を差し置いて切り札的に用いることまである――しかし乱用すれば己も斬られる――抜き身の快刀。
 しかしミリュウ姫は、これまでその剣を振るったことが一度たりとてない。
 それどころか、最もそれを扱えるであろうし、それを許される立場にある彼女には、その剣を利己のために用いる気配すら一切なかったのだ。
 まるで彼女自身がそれだけは絶対に避けていたかのように
<しかし、幸いにもこの星にはニトロ・ポルカトがいらっしゃいます>
 それなのに、今、ミリュウは活き活きとしてかの切れ味凶悪な剣を振るっている
<ここでポルカト様のご名誉のために申し上げておくことがありますが、先の一件は、全て! ポルカト様は存じぬことです>
 会場の多くがクエスチョンマークを眉間に刻む。中にはいくらか慧眼の者があり、明かされた事実に大いなる驚きと感嘆をその目に浮かべている。
<そう。この件は、不意打ちです。わたしが独断で、お姉様にもお話しせず、全て、ニトロ・ポルカト様に無断で仕掛けたものです。一切、ポルカト様の言葉、行動、何一つとして一切、あの場における振る舞いの全ては! 窮地にあるポルカト様自らのご意思で取られたものであったのです。――ああ! さすがはお姉様が見初められた方! 巻き添えを生まぬよう人を遠ざける態度の何と立派だったことでしょう! 異形の巨人と堂々と渡り合う、あのお姿の何と勇ましいことでしょう!>
 己の言葉に感じ入ったかのように宙を見つめる王女の声に、感じ入ったかのように聴衆が気色ばむ。
 微かに『ニトロ・ポルカト』を讃える囁きをマイクが拾っていた。
 ミリュウは口を休める。
 その余韻を、聴衆に存分に堪能させるかのように。
「……ニトロ君を持ち上げて、結婚を早めさせようって魂胆かもしれませんね」
「やめてくれ」
 ハラキリが思いついた可能性にニトロは苦笑を返す。
 スピーカーは、次第に音量を増していく会場のざわめきに震えている。
<もちろん、わたしごときが『クレイジー・プリンセス』の代役を務められるとは思いません。精一杯で、あの程度のことです>
 ややあって口を開いたミリュウは、一言を付け加えてそう繰り返した。
 ニトロは付け加えられた『あの程度』という言葉に妙に関心を引かれた。それは謙遜だろうか、それとも、それくらいは弾き返してみせろという挑発だろうか。
<しかし、ポルカト様はそれでも、あんなにもわたし達を驚かせてくれる。お姉様がいなくとも、お姉様の足下にも及ばぬわたしごときの仕掛けをも、あんなにも素晴らしいショーに高めてくださる。
 そして、あの颯爽と現れたアンドロイド。
 あれは警察のA.I.ではありません。わたしは、そう、かのオリジナルA.I.がポルカト様を助けにこられぬよう妨害させていました。しかし! かの名高き『ニトロ・ポルカトの戦乙女』は忠義の心を燃やし、我が身を顧みずに妨害を突破するや間、一髪、見事にマスターを助けてみせたのです!>
 どこからか感嘆の吐息が聞こえる。カメラのマイクの近くで、遠くで? そのどちらかもしれない。次々と明かされる事実に興奮が増しているようだった。
<本日を入れてこれからの一週間……皆様、皆々様、『我らが子ら』よ。心していてください。わたしは、まだ手札を残しています。しかしポルカト様はそれの何一つもご承知ありません。どのようなことかも、どのような種類のものかも、全くご存知ありません。例えば通り魔にあったなら、交通事故にあったなら、必死に対応なさるでしょう。そうしなければ、誰の仕業かも知れないのです! 本当に通り魔にあったとしたら? 交通事故だとしたら!?――大変なことになりますもの、必死に、全力で対処なさります。そう、恐ろしきクレイジー・プリンセスを止める時のように>
 嫌な台詞回しだとニトロは思った。誰の仕業かも知れないのに。まるで、どさくさまぎれの模倣犯を期待しているかのようだ。
 と、その時、ミリュウの言葉に対するものではない声が上がった。
 カメラが左方に振られ、ある貴婦人を映す。
 彼女の、また連れて他の者も上げた驚きの声は、ケルゲ公園駅前から無人タクシーに乗って飛び去ろうとしたニトロ・ポルカトを追うATVの生中継を因に発したものだった。
 カメラがミリュウへ振り戻された時、彼女も映像を観て<あ>と目を瞠っていた。
 そこには文字通り無人のタクシーが映っている。
 リポーターかディレクターか、誰かの指示でカメラの撮影モードが切り替えられた。通常からサーモグラフィへ。そして車内に一人として人のないことが、証明される。
 皆が戸惑いの視線を『主犯』に戻す。
 ティディアの実妹は、やおら目を細め、微笑んだ。
 微かに……しかし明らかに、そこにはクレイジー・プリンセスの面影があった。
<ニトロ・ポルカト様は、本当に素晴らしい>
 会場の誰も、彼女の言葉に逆らえない。
 異形の巨人をその戦乙女と共に撃退し、なおかつどうやって無人タクシーから忽然と姿を消したのか。
 ニトロ・ポルカトの出した結果が、皮肉にも彼女の言葉を大々的に支持している。
 ――ニトロは、ミリュウを見つめ続けた。
 時に会場に、時にJBCSのみならずいくつものカメラに目を配る王女の顔は桃色に染まっている。どこかしら、色気さえも漂っている。
<お姉様が不在の間、ポルカト様とわたしとで、アデムメデスを驚かせましょう>
 高揚する心を隠さぬ彼女は、やがて高らかに宣言した。
<わたしは一所懸命、ポルカト様に挑みます。それでもなお敵うとは思えませんが、それでも懸命に。きっと、ポルカト様は皆々様をご満足させてくださるでしょう。
 いかがでしたでしょうか、わたしからのサプライズ!
 次はいつか? それは言えません。しかし皆様、皆々様、『我らが子ら』よ! その時をどうぞ心待ちに!>
 そうして、ミリュウはふっと体から力を抜いた。
 いつの間にか握り込んでいた拳を緩め、せり上がっていた肩を落とす。
<真に心苦しくはありますが、ひとまず今夜はこれにて一時閉幕>
 わざとらしく洒落めかせて彼女は言う。
<それでは紳士淑女の皆々様方――ごきげんよう。次の幕が上がるまで、しばしのお別れでございます>
 ドレスのスカートを摘み上げ、さすがは王女と言ったところか、実に優雅に貴族流の辞儀をする。
 その全身を、ちょうどJBCSのカメラは真正面から捉えていた。
 美しい――本当に、彼女の所作は美しい。その美しさは、彼女を興行師から主役に押し上げる力がある。
 やがて、一つ、拍手が鳴った。
 引きつられ、もう一つ、もう一つ、もう三つ、もう八つ。拍手が人々の間を伝播していき、いつしか会場は轟音と歓声に包まれていた。
 万雷の拍手の中、王女は未だ頭を垂れている。
「モウイイネ」
 芍薬がため息を吐くようにして言った。
 ほぼ同時に、ニュースキャスターの声が映像に重なる。これまで主役であったパーティー会場の映像が小窓ワイプに収められ、キャスターの姿が現れるのにあわせて画面の右上隅に移った。
 ニトロは最後に顔を上げて笑みを振りまく王女を見つめた後、うなずいた。
「うん、十分だ」
 即座に宙映画面エア・モニターが消える。
 そして訪れた一瞬の沈黙は、ニトロ達に永遠にも思える重みを与えた。
 万雷の拍手が耳に残っている。
 それはまるで、この部屋のどこかで拍手が鳴り続けているようでもあった。

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