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 アデムメデス国際空港へ向かう第一王位継承者専用の飛行車スカイカーの中、第一王位継承者のみが着用を許される正装ドレスに身を包んだティディアは、唇を固く閉じ、じっと地平線を見つめていた。
 地表には、数え切れない人間の活動の証が刻まれている。
 国民――王族の威を示して言わば――『我らが子ら』の息吹が足下に満ちている。
(……芍薬ちゃんには、悪いことをしちゃうわね)
 これから、この星には『大事件』が起こる。ニトロと芍薬が旅行に行く暇など間違いなくなくなるだろう。それを思うと、芍薬の心底嬉しそうな様子が思い出されて胸が痛む。
 しかし一方で、ティディアの胸は大きな期待に高鳴ってもいた。
(さあ、ミリュウ。あなたは一体どうするつもり?)
 ティディアは、今回、ミリュウの動きを誰にも探らせていない。妹の周囲に異常・異変がある場合は即座に伝えるよう命じてある“妹の部下”にも、ここ最近は彼女のどんな行動も報告しないよう――そして“主人”の命に尽力するよう命じてある。
 ……正直、楽しみでならない。
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナに誰よりも近く、誰よりも希代の王女に心酔し、『女神』を誰よりも神聖視する『伝説のティディア・マニア』。
 愛する大事な妹が、絶対なる庇護者に反してまでどのような行動を見せるのか――震えが来るほど待ち遠しくてならない。
 それを実際にこの目で、この星で、リアルタイムに追いかけられないのは残念極まりないが……まあ、それは我慢すべきことだろう。
 私の意に反する行為への覚悟を決めても、それでもあの子が『わたし』がいる時には実行できないのであれば。
(――そこがあの子の限界、って見切ってしまうのは……可哀想かしらね)
 とはいえ本音を言えば面と向かって抗って欲しかったから、そうも思う。
 しかし、ミリュウに対する自分の存在感を誰よりも理解しているからこそ、酌量の余地の存在を私は理解している。
 そして、その酌量の余地を生む『鎖』を少しでも緩められるのはこの機会をおいて他にはないとも、理解している。
 だから――
(ジレンマねー)
 もどかしさに微苦笑し、ティディアは、愛する男性の顔を思い浮かべた。
 今日、ホテル・ベラドンナの超VIPルームを再現した部屋に入ってきた時の彼の顔。
 昔、ホテル・ベラドンナの超VIPルームに前執事に連れられやってきた時の彼の顔。
 同じ少年が見せた二つの顔を重ねると、そこには天と地よりも大きな差が現れる。
 ティディアは思わず笑みを浮かべた。
 ――あの時は、まさかこんなにも彼に頼ることになろうとは思いもしなかった。
 ニトロにはあの部屋について色々言ったが、本当のところはもちろん違う。
 ただ、懐かしく感じたのだ。
 あの瞬間を。
 あの時間を。
 だからもう一度『再現』してみたかったのだ。
 ――その時は、ニトロ・ポルカトはただの『“夢”を叶えるための道具』だった。
 その時は、彼をこんなにも愛しく思い、そして信頼することになるとも思いもしなかった。
 ふと、思う。
 もし、『映画』など用意せず、ニトロ・ポルカトを私の『敵』としていなかったら?
 ふと考える。
 もし、『映画』の後には私が彼にとっての『敵』とならぬよう言動を慎み淑やかに接していたら。
 もし……そうしていたならば、今、私の隣にはきっと『ニトロ・ポルカト公』がいたことだろう。
 だが、その場合、私は決して彼を人として愛してはいなかっただろう。
 夫として相方として隣にいる男を、間違いなく、夢を実現し保持するための道具としてのみ愛し続けていたことだろう。
 ――皮肉なものだ。
 あの『映画』以降の愉快で幸せな日々がなければ、きっとニトロを手に入れられていた。
 しかし、それがなければ、ニトロを本当の意味で手に入れる可能性を……きっと、得られはしなかった。
 滑稽なものだ。
 結果的に見れば、現状ニトロを手に入れられていない根本的な原因は初手にある。しかし初手に講じた最悪手こそが、私にとって奇跡の最善手ともなっている。
 ジレンマ。
 そう、ひどく甘くて、素晴らしく苦い……ジレンマ。
(本当に滑稽で、皮肉)
 暴君道化のクレイジー・プリンセスに、なんと相応しいことだろう。
 そしてその上で彼に嫌われ続けている現状の痛みは、多分、私の負った罰だ。
(…………嫌ね)
 思いもよらず、何とも耽溺な自嘲思考を繰り広げてしまっていた。
 これはもしや恋煩いの諸症状? と思い至り、ティディアは口元に浮かんでいた笑みを苦く歪めた。
 すると、視野に映るものが変わった。
 いつの間にか視界を覆っていたニトロの存在が消え、再び目にアデムメデスの地表が飛び込んでくる。全星系連星ユニオリスタの中で年々存在感を増していく中興の国は、今年また確実に存在感を増し、かつ、まだまだ発展していく。
「すっかり可愛らしくなられましたね」
 ふいにそう声をかけられ、ティディアははっとして目を車内に移した。
 向かい合う形に配置された後部座席のシート。その運転席側――ティディアの対面に座り、先ほどまで板晶画面ボードスクリーンに目を落とし仕事をしていた執事が、主を見つめて品の良い唇をほころばせている。
「可愛い? 私はどっちかっていうと美しいって言われる方だけど?」
 ティディアの――妙な照れ隠しを忍ばせるセリフにヴィタはさらに目を細めた。
「お気づきでないのでしょうが、そのお美しいお顔が、先からころころと変わっていました」
「ぅん?」
 ティディアは小さく唸った。思わず頬を触ってしまい、そして『しまった』と顔に出す。
 ヴィタは、やはり、今にも吹き出しそうな顔をしていた。
「ティディア様、ニトロ様のことを想うのはよろしいのですが、どうか想い過ぎて不治の病をお召しあそばされませんように」
 優秀な女執事のからかい言葉に、ティディアは言い返すことができずに押し黙った。
 その様子を見たヴィタは顔の裏に留めていた笑いを消すように小さな息をつき、奇妙にも言いにくそうにしながら、
「それにしても、まさか退くとは思いもよりませんでした」
 それが、ニトロを引き止める際のことを言っているのだと、ティディアはすぐに悟った。
「あの時点では、あれが最善手でしょう?」
「そう思います。ですが、それでも最善手を取らないのが、これまででしたから」
 ヴィタの言い分は……確かに、ティディアも認めるところだ。
 ティディアはヴィタの顔に思案の――それもあまり良くない色を見て、問うた。
「面白くなかったかしら?」
「いいえ、あれはあれで楽しませていただきました。あの時もティディア様はとても可愛らしくて、初めてティディア様が年下の女の子なのだと思えました」
 そう言って、ヴィタは微笑む。
 しかし、目だけは微笑ませず、続ける。
「まるで、今のティディア様は、ニトロ様がいなければ死んでしまいそうです
 ティディアは――ヴィタの判断力には信頼を置いている。その上で彼女の言葉を、会話の流れにおいて少しの違和感を意図的に滲ませる意思表示を真剣に受け止めた。
 自然と、苦笑いが浮かんでしまう。
 それでもティディアは、ヴィタにそう言われるのを不思議と快く感じていた。
「そうね」
 己の心の動きをどこか他人事のように楽しみながら、ティディアは言った。
「ニトロがいなければ、今の私は死んでしまうかもね」
 ティディアの冗談めかした真面目な言葉を受け、ヴィタはしばらくじっと主人を見つめた。太陽が雲に隠れ、光明が落ちた中でマリンブルーの瞳が底光りしている。
「……本当に、よろしいのですね?」
 ヴィタは、言った。
 彼女の目には、まるで挑みかかるかのように力が込められている。姿勢良く座すその姿には、主人に相応の覚悟を求める覚悟がある。
 ティディアは、彼女が何を意図し、そこまでの意思を見せて問うているのか――それを、全て理解していた
「よろしいのですね? 今ならまだ、止められます」
 念を入れて繰り返された確認に、ティディアは答える。
「ええ。いいわ」
 迷いのない答えを受けた忠実な執事はしばし主人を見つめた後、小さな笑みを浮かべて頭を垂れた。
「かしこまりました」
 そう言って、やおら顔を上げたヴィタは、その時、己の胸が高鳴る音を聞いた。
 ずっとそうしていたのだろう、こちらを見つめるティディアは……本当に美しかった。雲が流れ再び射し込んできた太陽の光を受けて王女は輝いている。傍に付き従い見慣れた女のはずなのに、同性ながら心が痺れる。
「……ティディア様は」
「何?」
 ヴィタは、小首を傾げるティディア――主人であり同志である女性を愛しげに見つめ、
「ハラキリ様の言った通りに弱くなられたのでしょうが、同時によりお強く、そしてお美しくなられました」
 その賛辞にティディアは微笑み……
「そうだ、お弁当を食べておかないと」
 はたと思い出し、彼女はニトロの弁当袋を手に取った。
 宇宙船内では随行の皆と食事をする。クロノウォレス星についてからは休む間もないし、晩餐後は会談が連続している。本日分をゆっくり食べられる機会は、今この時をおいて他にない。このために朝食も抜いておいたのだ。
「ヴィタはどうする?」
 早速、白い――前腕部に蔓薔薇つるばらの刺繍の入った長手袋を外してシートに放り置き、しゅるしゅると弁当袋の紐を解きながらティディアは執事に問うた。
 ヴィタは自分とは違い時間に融通が利き、さらに予定にある食事を済ませても食べ物を美味しく腹に放り込める。
 が、執事は迷うことなく答えた。
「私も食べます」
 ティディアは袋の中から弁当箱を取り出すと、ヴィタ用の少し大振りな箱を二つ、手を伸ばして執事に渡した。
 それから自分用の――ニトロの字で『ティディア』と書かれた蓋を開け、中身を見て笑みを満面に浮かべる。小振りなサンドイッチが四つ。おかずは餡に絡められたミートボールとベーコン巻きアスパラに、ポテトサラダ。ポテトサラダはレタスの器に盛られていて、そのままレタスで巻いて食べられるようにもしてある。デザートには、甘み豊かなハニーチェリーが二つ入っていた。
 ――美味しそう。
 ティディアが目を上げると、ヴィタも目を上げて、二人ふと視線がぶつかりあって互いに笑った。
「いただきます」
 そして、図らずも二人声を合わせて感謝を口にし、ヴィタはミートボールを楊枝ピックで刺し、ティディアはパストラミのサンドイッチを手に取った。
 ミートボールを口に入れたヴィタの頬が、甘味と酸味に包まれた肉の味わいにほんわりと緩む。
 サンドイッチを齧ったティディアの頬が、柔らかくほのかに甘いパン、香辛料の効いたパストラミとチーズのハーモニー……そして――
「 」
 ティディアの双眸が、突然、皿のように丸くなった。
 頬が強張り唇がすぼみ鼻の穴がぷっっくりと膨らむ。
「?」
 思わぬティディアの反応にヴィタは一瞬何が起こったのか分からなかったが、
「ほぉぉぉぉぉ」
 口の中の物を吐き出さないよう唇に隙間を空け、おかしな呼吸法を始めたティディアを見て、彼女はハッと思い当たった。
(ああ……! 熱い愛!)
 ニトロが文句を言っていた『インタビュー』。その時の、主の言葉。
 ヴィタは理解した。間違いない。主の顔は紅くなり、見開かれた目には涙が浮かび、額には大粒の汗が光る。
(辛いのですね!)
 おそらくはコルサリラペッパーだろう。
 ティディアは嗚咽を漏らし、それでも、ニトロの手作りを意地でも吐き出さないというように――
「あ」
 ヴィタが止める間もなく、ティディアは手にある残りのサンドイッチを頬張った。
 決死の表情で噛み締め、
「ふぉっ!」
 一度変なひきつけを起こしたが、反射的に異物を吐き出そうとする生理現象も押さえ込み、噛み締め、もう一つあったパストラミのサンドイッチをも口一杯に頬張り、噛み締め、
「うぬっ!」
 再び変なひきつけを起こした王女のまん丸お目々から涙がぽろぽろとこぼれる。次第に体が震えはじめる。白目は赤く、充血していく。
 それでも彼女は噛み締める!
「―っ―ッ!!」
 ティディアは頬袋を膨らませたリスのようになりながら、何度も何度もひきつけをおこしながら、パストラミサンドイッチを見事に味わい尽くして飲み込んだ。
 ヴィタは――ようやく自由を取り戻した口を丸く大きく開けてしゃにむに目を泳がせる主を、うっとりと見つめていた。
「ほっ?」
 ティディアが壊れたトーンの声を上げる。
 ヴィタの眼がじんわり潤む。
「ほぅ!……ほッ? ほ、ほっほヒ?ホっん!」
 とても辛いのだろう、とんでもなく辛いのですね。それはそうでしょう、『コルッペ』はだからこそ罰ゲームにも使われる。過去には拷問にも使われた記録があるのですから。
「ほー、ほーう、ひ、ひーッ」
 もはや蠱惑の美貌は見る影も無く情熱的に大崩壊。
 汗まみれの紅顔を左右に振り、膝の上に乗せた弁当箱を落とさないよう器用に上半身を震わせ、どこかに飛んで行きたいのか羽が短すぎて飛べない鳥のごとく両手をパタパタと。よだれはこぼさないように頑張っているが、残念、鼻水はいくら啜っても啜り切れていない。
「ほーっ はっー! ほーっ!!」
 第一王位継承者のみが着用を許される正装ドレスに身を包んだクレイジー・プリンセスが、奇跡的なまでに目を見開いて叫んでいる。
 熱い愛を受け切って、汗と涙と鼻水をたらして絶叫している。
 嗚呼……嗚呼っ!
 なんて素敵な絶景かな!
「ほわーッ!! ヴィタヴィタ! 何でもいッから助け ヴぁーーーーーーーーーぉ!!!」

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