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――ミリュウは、夢を見る。
――瞼を閉じずに夢を見る。
物心がつく前から。
記憶にない間も。
いつも姉の姿を探していた。
いつでも姉のことを想っていた。
乳飲み子の頃、ティディアお姉様といる時にだけわたしは笑っていたと、父と母は思い出を語る。
やがて物心がつき、物事への理解と分別が備わり出し、わたしは王女というものが何かを知った。
わたしは、嬉しくないと思ったことを、よく覚えている。
けれど、ティディアお姉様と同じ王女様だから、とても嬉しかったのも――よく覚えている。
◇
公式の記録として、ミリュウの乳母として、また教師として名が記されているのは常識では考えられない人物だった。
ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
記録を字面通りに受け取れば、たった三つ上の姉が中心となって三つ下の妹の世話をし、いずれは王女として修めるべき学を授けるというのだ。長い王家の歴史の中でもこのような事例は初めてで、当時の王家家政室室長は『あまりに例外的かつ想定外の提案に会議は混乱を極めた』とコメントを残している。
だが、やむにやまれぬ事情もあった。
ミリュウ姫が、ティディア姫が傍にいないとひどく落ち着かないのだ。
例えば夜泣きがどうという問題ではない。一日中泣きやまない。父か母がいればまだ“落ち着きがない”程度におさまるが、父も母さえもいなければそれこそ朝も昼も夜も泣き続ける。哺乳瓶を口にしている時もぐずり続け、短い食事を自ら終えてはゲップをするより先に泣き出し、泣き疲れると短い眠りにつき、すぐに起きたかと思うと周囲を見渡し“誰も”いないことを確認しては大きな声を張り上げる。
一時は精密な脳の検査も行われたほど、それは異常なことだった。
三ヶ月も過ぎた頃には何人もの乳母が早々にノイローゼになり、入れ替り立ち代り交代していった。
今となっては最硬度の筋金が入った『ティディア・マニア』の逸話の一つにすぎないが、現実には非常に重大な問題として周囲を苦しめた。
なにしろ、乳母はまだ代わりが効く。数人で当番制を組めば精神的な負担を軽減して成り立たせることも可能ではある。しかし、ミリュウ姫に代わりはいない。本人は当番制で交代することなど決してできはしない。王にも王妃にも務めを果たすべき事柄が数多く存在し、数週に渡って外遊に出る予定もあった。それに、その頃には父と母がいても、ミリュウの癇癪はおさまりがきかなくなってきていた。嘘みたいな話ではあるが、両親が娘をあやすために使った道具はティディアの写真であったほどだ。
明らかな睡眠不足に加え、食事の量も足りていない。栄養面は方法次第で何とかなるにしても、精神にかかる多大なストレスはどうしようもない。
このままでは、姫君が『もたない』ことは明白だった。
そこで名乗りを上げたのが、ティディア自身である。ミリュウ姫の今後について苦慮し滞る会議に突然姿を現すと、彼女はとても簡単なことだと切り出し言った。
「わたしが育てます」
誰もが思った。
確かにそれが最良の案だろう。ティディア姫がいればミリュウ姫は健康な乳児そのものである。適度に泣き、大いに食べ大いに眠る。大人しく手もかからない。ティディア自身王女としての勉学に勤しむ必要があるものの、とはいえ公務で忙しい王父母よりは時間の融通が利く。
しかし、通例では王家の子女は各位王位継承権に見合った環境と教育を用意されるために『家族』と住まいを共にしない。両親と過ごすのも三歳時までだ。その他にも様々な慣例やしきたりがあり、翌年には第四位王位継承者の居住であるグレイフィード宮殿に移ることが決まっているティディアの提案を、おいそれと簡単に承認するわけにもいかなかった。
さらにティディアは言った。
「宮殿が王女を育てるのではありません」
たった三つの歳を数えただけの王女の態度は毅然として、その発言に会議に参加していた者の全てが言葉を失った。たった三歳の王女が、つまり、慣例やしきたりの存在を飲み込んだ上で、それにこだわるなと言ってのけたのだ。
「妹とともに暮らすことで、わたしが第四位王位継承権者として立派に育つことはできないと、いったい誰がおっしゃいます」
妹を育てながら自身の勉学にも励むことも宣言してみせた小さな王女に、議場は完全に掌握されていた。
ティディアが口を閉ざし反応を待つ間、皆はやがて冷静さを取り戻し、そしてざわめきだした。彼女の言い分は筋の通るものではある。しかし、いかに早熟極まる知性を見せる王女とはいえ、実情はまだ三歳の子どもに過ぎない。子育てなどは、無論、無理だ。
周囲の者は口々に反対を表明した。
父も母も娘を諭した。
その反応を見越していたかのように、幼い王女は言った。
「ご心配なく。育てるといっても、わたしはお手伝いをするだけです」
その言葉に、今度こそ会議に参加していた誰もが己の意見を失った。
言われてみれば、そうだ。あまりにティディアの言葉が『強かった』ために、姫君一人で妹を育てるのかと思い込んでいた。鑑みれば判然とするその条件を、幼い王女に指摘されてはぐうの音も出ない。
静まり返った会議室を見回して、ティディアはにこりと微笑んだ。
「わたしの意見は以上です。決定に関しては、みな様のご意見にしたがいます」
仕舞いには、ティディアは相手を立てるフォローまで入れてみせた。
大人びた、ませた、こまっしゃくれた――等々子どもに対し与えられる形容は色々あれど、その時会議室にいた大人が一様に脳裡に浮かべた言葉は『神童』であった。
かくして、歴史的な決断が『王権』を
それからミリュウ姫に物心がつくまでの間――特に三年の間は公の場に姿を表す王女ティディアの傍らには、常にミリュウ姫がいた。始めは
記録にある通り、ミリュウの乳母兼教師の任にはティディアがついた。もちろんそれは名目上のことであり、実際の乳母と教師らは補助として名を記されている者達だった。
しかし、実際には、乳母として教師としての役目を全うしたのはティディアだったという。そもそも姉が傍にいればミリュウは全く手のかからない子であったが、それにしても幼い姉姫の働きは見事だったと語られる。乳母や教師らの指導を素早く飲み込み、また彼女らの指導を受けるよりも先に学習し、そして彼女らをよく助け、最後にはよく助けさせた。
そうした事実が広く知られるに従って、小さな妹を優しく世話する賢くも美しいティディア姫は国民のアイドルとして、育ての姉と手をつないで笑うミリュウ姫はマスコットとして人気を博した。
その絶大なる人気は凄まじく、それにつられて元より人徳者で知られる王への支持はより強まり、当時の第一王位継承者――長兄のロイスも多少の素行の悪さが露呈したとて『良い兄』の振る舞いをするだけですぐに善き王子のイメージを得られるほどだった。
時が経ち、王女としての勉強を開始したミリュウに先輩たるティディアが教師と共に立ち姿の手本を見せている写真は特に有名であり、毎年ベストフォトを提供してきた姉妹の写真の中でも最高の画像としてアデムメデスの記憶に残っている。
二千年の時を超えてなお愛される大クラシックの秀作、ブッドミストの『ピアノのための練習曲第8番「春草」』を弾いてみせる
..▽ ▽
ミリュウは涙を浮かべていた。
姉の象牙のように美しい指が、鍵盤の上を柔らかく跳ね回る。柔らかな陽光に輝く、新緑が、春風にそよいでいる光景を写し取ったかのような旋律が空間を満たしている。
ロディアーナ宮殿の『談唱の間』。
物心がつき、ある程度の知恵がついて自分が姉の貴重な時間を拘束していることに気づいてからは“姉が傍にいなくてはならない”ということもなくなり――すると当然の帰結として、ミリュウの世話係と教育係のリストから姉姫の名は消えた。
しかしそれでも、それからもティディアは多忙の合間を縫っては妹のことを気にかけ、自ら教鞭をとり続けた。それがミリュウには何より嬉しく、辛い勉強の時間もそのお陰で乗り越えることができたものだ。
ミリュウが特に楽しみにしていたのは音楽の時間だった。何でも一通り弾きこなせる姉はいつも耳から心を慰めてくれて、そうしながらも自分に王女として必要な知識と素養を身に付けさせていった。課題をこなせない時は叱られもしたが、成果を見せた時はとても褒めてもらえた。ご褒美はいつも、妹のリクエストに応えてブッドミストの『春草』だった。
けして容易ではない名曲を、姉は久々に弾きながらも一音のミスもなく流麗に奏でている。
ミリュウの心は感動に溢れていた。
曲も終盤に差し掛かり、とうとうと涙が頬を伝い落ちていく。
彼女は、心の底から、姉の旋律を噛み締めていた。
「泣くほどのものかしら」
最後までミスすることなく独自の解釈を以て『春草』を弾き終えた奏者が、感極まっている観客に微笑を見せた。
可愛らしい拍手の音が鳴っている。
そこで我に返ったミリュウは、涙を拭かぬままにソファから立ち上がると大きな拍手を姉に送った。
「素晴らしいです! 素敵でした! ブラボー!!」
熱のこもった拍手と歓声に、奏者の微笑に苦笑が混じる。
「やー、そんなに感激されちゃうと、お姉ちゃん照れちゃうわー」
そう言われてまた我に返ったミリュウはティディアのからかうような眼差しに射抜かれ、顔を上気させるとストンとソファに腰を落とした。
「でも、本当にこんなもので良かったの?」
現存数の少ないクラシカルなピアノの蓋を閉め、妹弟が座る観客席に歩み寄りながらティディアは言った。
「もっといいご褒美だって上げられたのに」
ミリュウが中心となって立ち上げた新ファッションブランド『ラクティフローラ』の成功を祝して、ティディアの“欲しい物はある?”という問いにミリュウが返したものは、昔ながらに“『春草』をお聴かせ下さい”だった。
「いいえ、これ以上ない贈り物でした」
ミリュウは胸に手を当て、未だ感涙滲む瞳をティディアに向けた。
「わたしは幸せです」
「そう?」
大袈裟ねぇ――と言いたげに笑って、ティディアはミリュウに寄り添って座るパトネトの頭を一撫でし、それから妹の隣に腰を下ろした。
「私としては、ちょっと残念なんだけどな」
これまでは家族にすら見せたことのない穏やかな顔で、その表情とは裏腹にティディアはため息をついた。
ミリュウはどきりと胸を高鳴らせた。何か粗相をしたのだろうか、何か……『春草』を要望することが大きな失敗だったのだろうか。
その動揺がありありと浮かぶ妹の顔を見たティディアは小さく笑い、
「ダメよぅ、そんなに感情を顔に出しちゃ。ポーカーフェイスの練習はまだまだね」
「……すみません」
「あら、謝ることはないのに」
「すみません」
ティディアは、今度は苦笑をありありと刻んだ。本人としては色々とツッコミ待ちだったのだが、さすがにそれは酷だったかと思い直す。
ティディアがミリュウの頭にそっと手を乗せると、ミリュウはびくりと肩を揺らした。
「こら、ご褒美を上げたはずなのに、これじゃあ叱っているみたいじゃない」
「すみま――」
と、三度ミリュウが謝りの言葉を口にしようとした時、そこに彼女の頭を撫でていた手がすっと下りてきた。唇に温かな指を当てられ、ミリュウは目を丸くして息を飲む。
「やわらかい」
ぷにぷにとミリュウの唇を触って、ティディアは悪戯っぽく目を細めた。
「ミリュウが望むのなら、すっごいキスだってしてあげたのに……本当に残念」
敬愛する姉の唇から漏れた言葉に、ミリュウは心臓が破裂するかのような衝撃を与えられた。一気に耳まで赤くなるのが判る。彼女は荒れだしそうな呼吸を努めて正常なままに押さえ込み、唇を塞ぐ姉の指を両手でそっとどかした。
「何ということを仰るのですか……」
ほとんど息しか出せそうにない中で辛うじて言葉を紡ぎ、ミリュウは懸命に姉を睨んだ。
「お戯れが過ぎます」
「怒られちゃった」
と、ティディアはミリュウにではなく、パトネトに言った。ずっと黙ってじっと姉二人のやり取りを見つめていたパトネトは、ティディアの楽しそうな笑顔に可愛らしい笑顔を返した。
その人形のように愛らしい弟の笑顔を見たミリュウは、そこではたと気がついた。
ティディアは本当に『戯れ』ていたのだ。
そうとなれば顔を赤くしてまで動揺していた自分が恥ずかしくなり、しかし、姉の手の上で転がされていたことが妙に嬉しくもなってどうしていいのか解らなくなる。
「お戯れが……過ぎます」
判然としない感情の捌け口を結局見つけられず、ミリュウはとにかく姉にそう言った。
唇を尖らせる妹の複雑な笑顔にティディアは笑むと、再びミリュウの頭を撫でた。
「ごめんね」
無闇に謝っていた妹に謝りを返す。ティディアのその言葉を受けて、ミリュウは話が丸く収まったことを悟った。いつの間にか『落とし所』に誘導されていたことに、思わず感嘆にも似た笑みがこぼれてしまう。
このまま姉の掌の上で転がされる心地良さにくるまれていたいとミリュウは思った。
しかしそう思えば思うほど、ミリュウは心が冷えていくのを感じていた。腹の底に折り重なる気持ち悪さがざわめく。やはり『春草』が最愛の姉との最後の思い出になるかもしれないという予感がよぎり、心臓が硬く引き締まる。
「……」
ふいに沈黙したミリュウを、ティディアは撫で続けていた。腰まで流れる妹の黒紫の髪は、以前に比べて艶が落ちている。
「……」
ティディアは、掌に収まりの良い、この十七年――そろそろ十八年に渡って触れてきた可愛い妹の頭を優しく撫で、優しく撫で――
「……」
ティディアは
「あの」
ついに耐え切れなくなったらしい、ミリュウは落としていた視線をティディアに戻した。いつまで経っても頭を撫で続ける姉を見つめ、
「そろそろ……」
「あら、嫌?」
「嫌ではありません!」
ティディアに撫でられながら、ミリュウは
「お姉様に頭を撫でていただくと……安心します、嬉しいです、お姉様がお望みになるのでしたら、わたしの頭と言わず身も心も何もかもをご自由になさってください」
「大袈裟ねぇ」
先ほどは表情で示した言葉を、ティディアは今度は声に出して言った。
「何だか、どんどん私に対して畏まっていっていない?」
「そんなことはありません。わたしは、以前からお姉様を心から敬愛しています。いつまでもわたしは変わりません」
(いつまでもわたしは、か)
ティディアは真っ直ぐこちらを見つめ、力強い瞳で力強く言う妹を見つめ返した。
妹は気づいているのだろうか。その言葉、言外には――
(まるで、私が変わったって言っているようね)
それはただの言葉のアヤであるのかもしれない。だが、ティディアはミリュウの意識の底にその思いがあることを知っていた。気づいていた。力強く訴えてくる最愛の妹の瞳に映る己の顔を見て、ティディアは、思わず微笑んだ。
「ありがとう」
言うや、ティディアは腰をずらして半身をミリュウに向けた。そして、ミリュウを両腕で抱え込む。
「きゃ」
姉に体ごと引き込まれ、その柔らかな胸の中に顔を埋めさせられたミリュウの口から小さな声が弾み出る。
ティディアは突然の出来事に硬直しているミリュウの体をほぐすように、頭を抱きとめている手とは逆の手で妹の背を撫でた。小動物の警戒が解けたかのように、ふっと少女の体が柔らかさを取り戻す。
「あなたは良い子ね」
ミリュウは姉の胸に抱かれ、姉の声を聞いた。体が火照る。
「お姉ちゃん、ミリュウを妹に持てて嬉しい」
いつになく優しい声だった。良い匂いがする。呼吸に合わせて上下する胸のリズムが安堵を誘い、直接伝わってくる心音に魂が溶かされそうだ。
「あ、パティも。あなたが弟でお姉ちゃんは嬉しいわ」
うん――と、嬉しそうな弟の声が背後から聞こえる。声変わりはまだまだ先の、女の子のようなパティの声と姉の心の音に挟まれて、ミリュウの体をこの上ない幸福感が満たしていく。腹の底の気持ち悪さも今は消え、全てが穏やかで……自然と目を閉じる。とくんとくんと刻まれる姉の鼓動に、自分の鼓動を併せてみたいと――そんなことを思う。
「明日から、留守をよろしく頼むわね」
少しだけ『王女』の威厳が含まれた声に、ミリュウは薄く目を開いた。瞼の裏にこの幸福感に浸る心を置き、姉の部屋着の細やかな紋様を映す視界に現実に向かう心を置き、
「はい」
と、ミリュウは『王女』の威厳を込めて応えた。
明日から七日の間、アデムメデスには王も王妃も、国民の代表たる首相も、さらには実質的に最高権力を握る第一王位継承者までもが不在となる。
王・王妃は現在、リクラマ星で開かれている
七日後のティディア帰星までの間、アデムメデスを任される者は、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――『王権』を担う姉姫から代行を任ぜられた彼女だ。
――とはいえ、
「全て、お姉様のご指示を元に滞りなく進めます」
目下、この
だが、だからといって責任が軽いわけではない。ミリュウにとって国民の未来を示す案件に認可を下すのは、いくら代行とはいえサインをする指が震えるものだ。
「何か『事』があった時は、まずは落ち着くこと」
子どもをあやすような調子で、しかし声は厳しく、ティディアが言う。
「冷静に状況と情勢を見定め、物事の要所を押さえるよう努めること。皆に助けてもらいなさい、そして助けなさい」
「適材を適所に配置し、皆が最良の力を発揮できる環境を整えます」
「優先順位は常に確認すること」
「可と不可、必要と不必要それぞれのバランスも常に確認し、部分と全体に目を配ります」
「……余裕を失わないように。あなたは『王女』なのだから」
「はい」
簡単な心構えの応酬を経て返された、ミリュウの力強い応答――そこに、ティディアは小さな強張りを感じていた。妹の背中を撫でながら、こつんと顎を頭に当てる。
「本当に、良い子」
声になるかならぬかの小さな吐息がティディアの胸元をくすぐる。辛うじて「はい」と形を持った言葉が面映そうに姉の耳に届く。
「マードール殿下については……」
夢と現の境界、まどろみの中にいるような口調でミリュウが問いかける。ティディアはミリュウの髪を指の腹でなぞりながら、
「何も気にかけなくていいわ。ハラキリ君がうまくやってくれるから」
「では、そのようにいたします」
ミリュウは了承を返し、少し間を置いてから、言った。
「ポルカト様に関しては」
姉の心臓が――トクン――と、音色を変えた。ミリュウは耳ではなく直接心で聴いたその音に目を
「何か、問題がある?」
ティディアの問いに、ミリュウは平静に答えた。
「お姉様がいらっしゃらないことをいいことに、メディアや『マニア』がうるさく騒ぎ立てるかもしれません」
その言葉、その声、その口調は普段のミリュウと何ら変わりのないものだった。姉を慕う妹の、心からの親しみに満ちた抑揚。
「んー、そうねぇ……」
ティディアは楽しそうにつぶやいた。
それはミリュウには、ニトロ・ポルカトを思う姉の心の昂ぶりと感じられた。トクントクンと、伝わってくる心音は熱を帯びて微かにテンポを上げている。
「こっちも気にかけなくていいわ。ありがとう、心配してくれて」
――恋人を――心配してくれて。
ティディアはさらに言う。
「ニトロなら大丈夫、それくらいのことは自分で解決できるもの。例え問題があったとしても放っておいて構わない」
「本当に、それでよろしいのですか?」
「ええ。芍薬ちゃんもいるし、わりと味方も多いしね。――それに」
どくん、と、ティディアの胸が高鳴る。
「彼は、強い人だから」
ドクン、と、ミリュウの心が音を立てる。
ミリュウは、例えようのない寒気を感じていた。体は姉に包まれ温かい。それなのに身を丸めたくなるほどの寒さを感じていた。
「では、そのようにいたします」
だからこそミリュウは、ハラキリ・ジジの件と同様の応えを姉に返せた。
その言葉、その声、その口調も、普段の彼女と何ら変わりはない。姉を慕う妹の、心からの親しみに満ちた抑揚。
「お姉ちゃんっ」
――と、突然、今までずっとにこにこと二人の姉のやり取りを見守っていた弟が、どこか焦燥を含む声を張り上げた。
「どうしたの?」
滅多に大声を上げないパトネトが、それも突然口を開くや発した声に目を丸くして、ティディアが問う。ミリュウも姉の胸から離れ、姉と全く同じ表情で末の弟に振り返った。
「……おトイレいきたい」
気まずそうに、気恥ずかしそうに眉をひそめる弟のぴったりと合わせられた脚は『もじもじ』と震えている。
その様子が――切羽詰った本人には悪いが――とても可愛らしく、ティディアとミリュウは思わず破顔した。
パトネトは、およそ二ヵ月後にはもう八歳になるのに、未だにトイレまでの道のりを一人では行けない。一人で用を足すことはできる。トイレの前にいてもらう必要もない。ただ、他人とすれ違う可能性のある場所を一人では行こうとしないのだ。己の住まいであるヅィフィン城でですら、気に入りのA.I.フレアが操るアンドロイドを常に傍に置いている。
「わたしが連れていきます」
ミリュウが立ち上がって言った。ティディアはうなずいた。
「私は先に寝室に行っているわ」
「では、帰りはそちらへ」
今夜は姉弟三人で寝ようと言ってある。ティディアはミリュウの微笑に笑みを返し、手をつないで部屋を出て行く妹弟を見送った。
――そして、嬉しくつぶやく。
「綺麗なポーカーフェイス、ちゃんとできるようになっているじゃない」
先の『ご褒美』でからかわれた時は動揺しきりだったのに、ニトロに関しては見事に感情を殺していた。顔だけではない。声も、雰囲気にも、体の端々への気配りも足りていた。惜しむらくは、それがそれまでのやり取りの中で異彩異質であったために、逆にポーカーフェイス足りえるためにポーカーフェイスになっていなかったことだ。もう少し自然な揺らぎが出せれば完璧だったが、合格点には十二分に届いている。
「……」
ティディアはしばらくソファに座ったまま、ミリュウがパトネトを連れて出て行った扉を見つめていた。
胸にはまだ、妹の温もりが残っている。
ふと、初めて妹を抱いた時のことを思い出す。
あの時の泣き声は、今もよく覚えている。
(……ニトロなら、大丈夫)
ミリュウに言った言葉を、ティディアは胸に繰り返した。
ニトロは強い。強くて、優しい。ミリュウがどこまで彼を攻撃しようというのか、どのように攻撃しようというのか、その程度には量りかねるところがある。……だが、確信している。例えどうなったところで、ニトロなら、大丈夫。
「それにしても」
と、ティディアは笑った。
「パティも、逞しくなってきたわねえ」
わざとらしい演技をしてまでミリュウには辛い話を切ってくるとは……これまでの弟からは思いもよらなかった。
そういえばパトネトは、ドロシーズサークルではニトロの下に一人で現れてもいた。見知らぬ場所で慣れぬ相手に一人で会うなど、彼としては無類・破格の勇気を振り絞っていたことだろう。
それとも――もしかしたら、それだけ自分も必死になる意味があると、あの子は決断しているのかもしれない。
「……本当の驚異は、パティかもしれないわね」
つぶやき、そうつぶやいたティディアは、ふいに別種の不安を覚えた。
だが、その不安も――ニトロなら大丈夫――その信頼感にすぐに吹き消される。
ティディアは伸びをした。
何をどうしたところで既に
今、ここで止めるわけにはいかない……いや、違う。無論止めることはできるが、しかし、止めることはできないのだ。
少なくとも――私では。
(……)
ティディアはそれができる相手を想いながら、淡く、そして微かに硬く、息をついた。
王家の所有する宮殿の中でも最古に近いロディアーナ宮殿には、戦乱の世に作られた名残で廊下がない。『談唱の間』から『僥倖の間』、僥倖の間から『金紫柱の間』へ。宮殿内八箇所にある『休息の間』を目指し次々と扉を開けながら、ミリュウは、ずっと沈黙したままパトネトの手を引いていた。
金紫柱の間から『鏡壁の間』に入る。
すると、ミリュウの視界に人影が飛び込んできた。立ち止まり振り返ると、そこには20mに渡って巨大な一枚鏡が嵌めこまれた壁があり、鏡の中からミリュウの見た人影が彼女を見返していた。
(……酷い顔)
ミリュウは己を見る女の顔を嘲った。嘲って、不安に駆られる。
「パティ」
「なあに?」
「わたし、お姉様の前でもこんな顔をしていた?」
「ん〜ん」
ミリュウを見る女の隣にあどけない顔の小さな少年が現れる。彼は言った。
「ずっときれいだったよ」
「……」
ミリュウは右手に伝わる温もりに、目頭が熱くなるのを感じた。
だが、泣かない。涙は流さぬと、決めた。
「ありがとう」
ミリュウは再び歩き出した。パトネトも歩を合わせるようについてくる。
再び、沈黙。
鏡壁の間を抜け『美画の間』に至り、百年ごとに代表の一枚、計二十一枚の名画を一瞥もせず『正本の間』に入り……もうすぐ休息の間というところで、
「ねえ、おねえちゃん」
パトネトの呼びかけに、ミリュウはどこにも向けていなかった視線を弟へ移した。
美少女よりも美少女らしい顔を曇らせて、パトネトはミリュウを見つめていた。
「どうしたの?」
戸惑いをそのまま声に出すと、パトネトは一度口ごもり、それから顔の曇りを晴らした。
「へいき?」
弟の雲の陰から現れたのは、純粋な気遣い……それだった。
ミリュウは今度こそ泣きそうになった。視界が滲む。彼女は唇を噛み、パトネトを――先ほど姉がそうしてくれたように抱き締めた。胸に弟の温もりを浴びながら、うなずく。
「うん」
涙は流さない。滲んだ視界もすぐに澄み渡る。
「うん」
ミリュウはうなずき言った。
「平気よ。わたしは、大丈夫」