セイラ・ルッド・ヒューランは悔やんでいた。
 元々自身が優れた人間ではないことは自覚していた。国王様より第三王女の執事として任命されるような人物ではないことも、重々承知していた。
 今でも、この現実は何かの間違いではないかと疑う時がある。そう、国王様に妹姫の執事として私を推薦された方――ティディア様の『悪戯』ではないかと。着任から十年を数えてもなお、そう思ってしまう。
 東大陸の屋根と呼ばれるクレプス-ゼルロン山脈の一画を占めるルッドラン地方。観光と牧畜が主産業であり、しかしそれらの規模は小さく、はっきり貧しいと言える地方。そこで、家族総出で畜産に努めてようやく家計の成り立たせていた田舎貴族の一娘が、どうして王女の執事に選ばれるのだろうか。学問に秀でているわけでもない、格別な才能があるわけでもない。見た目に優れているわけでもなく、自慢できるのは山育ちの体力だけだ。有力な貴族の子女には私よりもずっと王女の執事としても世話係としても相応しい人がいるというのに、なぜ私であったのだろう。
 一度、ティディア様に訊ねたことがある。お美しい姫様は仰った。「ミリュウには、貴女くらいの人間が良いのよ」
 そのことを聞いた主であるミリュウ様には少し怒られた。愛らしい姫様は仰ってくれた。「わたしはあなたが傍にいてくれるだけで嬉しいのに。そんなこと言われたら悲しいじゃない」
 過分にして恐れ多いお言葉だった。
 今になって深く思う。
 本当に、何と過分にして恐れ多いお言葉だったことか。
 このような私に。
 主であるミリュウ様が苦しんでいらっしゃるのに、できることといえば主の命に従うだけしかない私に。
 主が深く傷つき、また傷つこうとしているのに、止めることも救うこともできずにいる愚かな執事に。
 そのようなお言葉は……あまりに勿体無い。
「……」
 セイラは、手元の小鍋をじっと見つめていた。
 栄養に富み美味で知られるカロルヤギの乳が深麦色に色付きながら、鍋肌に細かな泡を立てている。
 セイラはもう七時間も部屋に閉じこもりっぱなしのミリュウのために、故郷のルッドラン地方伝統のお茶を作っていた。
 祖母から伝えられた配合でブレンドした紅茶と緑茶を新鮮なヤギの乳で煮出し、多めに砂糖を入れ、そこにトルカモンというハーブを加える。濃厚な飲み口のわりに後口は爽やかにほの甘く、疲労回復効果のあるトルカモンの香りが癖になる飲み物。時々ミリュウから飲みたいと催促される自慢のお茶。
「あつッ」
 トルカモンの茎を鍋に落とす際、鍋の縁に触れてしまってセイラは反射的に手を引いた。その拍子に脇に置いていたティーポットを弾いて床に落としてしまう。陶器が砕けるけたたましい音に肩をすくめ、砕け散ったポットの残骸を見て、ああとため息をつく。
 もう、ドジなんだから……と、主の声が聞こえた気がする。
「面目ありません」
 思わずつぶやいて、セイラは虚しい独り言に苦く笑った。
 ひとまず床の破片は傍に控えていたアンドロイドに片付けさせ、自分はお茶を仕上げる。頃合を見て電気コンロのスイッチを切り、出来上がったお茶を漉しながら新しく出したティーポットに移し、揃いのティーカップと共にトレイに載せて給湯室を後にする。背後に、簡素な折りたたみ式のテーブルを持ってアンドロイドがついてくる。
 セイラはロディアーナ宮殿従者居住棟の地下に向かった。エレベーターに乗り込み、システムを制御するA.I.に地下三階を指示する。声紋認証と網膜認証を経て、エレベーターは動き出した。
 およそ一ヶ月前のことだ。ミリュウ様が居住棟の地下室の改造を命じたのは。そして、弟君と共に、次々と極秘裏に様々な命令を下し始めたのは。今までに見たこともない表情で、鬼気迫る勢いで、寝食も忘れて、外部へ見せる通常の公務と日常の顔は完璧に保ちながら……そう、まるであのクレイジー・プリンセスのように。
「……」
 セイラは、ドロシーズサークルでの失敗が何か重大な決意を主にもたらしたことは知っていた。
 ニトロ・ポルカトをティディア様から引き離す。そもそもあのお姉様には決して相応しくない男だ。であればいずれ希代の王女――将来は奇跡の女王となる姫君にとって重大な足枷、あるいは悲劇的な瑕疵となってしまうだろう。だから、だからこそ、今ここで絶対に引き離さねばならない――と。
 セイラはミリュウがそう考え、ドロシーズサークルの件を経てその決意を強めたことは知っていた。
 だが、その決意を支える想いが、執念が、何を理由にして生まれたのであり、そして何のためにミリュウをあそこまで駆り立てているのかがセイラには解らなかった。
 ティディア様は……ミリュウ様にとって、言葉通り神に等しい。
 だから本来であれば、ミリュウがティディアの恋人を受け入れるのが当然だった。なにしろ、神の意向に背くことは、ミリュウにとっても本意ではないのだから。事実、以前のミリュウはニトロ・ポルカトに対して特別な敵意を一欠片すらも持ってはいなかったし、初めて彼が公に知られた際には、マスメディアの取材に対して満面の笑みで心から祝福を述べていたほどだ。
 それが、今は違う。
 いつの頃だったろうか。
 いつを境にしたのだろうか。
 それとも、いつともなく、次第に変わってきたのだろうか。
 いつともなく、いつ頃から、ミリュウ様のニトロ・ポルカトを見る目つきは、次第に恐ろしくなっていったのだろうか。
 セイラがはっきりと自覚したのはドロシーズサークルの件の時点だった。
 しかし記憶を探れば、スライレンドの事件後――いや、疑うならティディア様が初めてお風邪をお召しになられた時から徐々に変わってきていたのかもしれない。
 ――せめてその頃に話を持ちかけていれば……と、セイラは悔やむ。
 そうだ、薄々気づいてはいたのだ、主の変化に。
 ただ、それを単なる姉を慕う妹の嫉妬心だとばかりに思い込み、無礼ながら可愛らしいことだと、軽々しくも微笑ましく受け止めていた。
「……」
 違ったのだ、間違っていたのだ。
 もちろん嫉妬は含まれているだろう。だが、もはやミリュウ様から感じる切迫と焦燥は、決して大好きな姉を見知らぬ男に奪われる妹の嫉妬心だけではすまない。
 もっと早く。せめてドロシーズサークルの件の前であれば、ミリュウ様も御心の内をお話しになってくれたろうに。そう思えば悔やんでも悔やみきれない。
 今となっては本心を探ろうとしても『お姉様のため』としかお応えしてくれず、どうやっても私にはその煩悶の奥にある真実を掴むことはできない。『お姉様のために、ニトロ・ポルカトを排除する』と、ろくに休まず体を壊しそうな主を心配することしかできず、その御身御心を蝕むものを取り除こうとすることすらもできない。
 ティディア様のため。――そうでしょう、ミリュウ様。しかし、それだけなのでしょうか。本当に、それだけのためなのでしょうか。
 そう問えればと思い、そう問おうと何度したことか。
 だが、そう問えば主を苦しめるのでは……あるいは、もしかしたら、ひどく追い詰めてしまうのでは? という予感が胸をよぎり、結局口にすることができないままにいる。
「面目ありません」
 我知らず、セイラはつぶやいていた。
 エレベーターを降りた先、電灯が薄明るく照らす地下の廊下。元は倉庫であった部屋の厚い防音扉を前にして、セイラはミリュウに謝っていた。
 愚かで力のない部下を持たせることになってしまい、申し訳ありません。
 内心で頭を何度も垂れながら、入室許可を求めるボタンを押す。
 それなのにミリュウ様は、またも身に余るお言葉をかけて下さった。『あなたはわたしの傍にいて。それが、あなたへのお願い。傍にいて、わたしを支えて』と。
 ならば、せめて、そのお望みは叶えて差し上げよう。
 ミリュウ様を支え、微力ながら全力でお手伝いをしよう。
 そして、ミリュウ様の計画が滞りなく進められ、その願いが叶うよう祈り続けよう。

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